第849話 2015/01/04

古代と幕末の「禁書」

 今日からスタートした大河ドラマ「花燃ゆ」は、なかなか面白い滑り出しで次も見てみようという気にさせる内容でした。今回のキーアイテムは徳川幕府が所持を禁止した「禁書」(『海防憶測』)で、その「禁書」を通じて少女時代の杉文が兄の吉田松陰(寅次郎)と小田村伊之助を引き合わせるという展開です。松陰や文が『孟子』の言葉をたびたび口にする場面があったのが印象的でした(例: 至誠にして動かざるものは未だこれあらざるなり)。
 「禁書」といえば、古田ファンや古田学派の研究者にはよくご存じのことと思いますが、『続日本紀』に記された次の記事が有名です。

 「山沢に亡命し、禁書を挟蔵して、百日首(もう)さぬは、また罪(つみな)ふこと初の如くせよ。」『続日本紀』元明天皇和銅元年(708)正月条

 政権を奪取したばかりの大和朝廷にとっての「禁書」ですから、自らの正統性を脅かす文書であることに間違いはないでしょ う。おそらくは「九州王朝史」や「九州王朝律令」などではないかと推定しています。自らが制定したばかりの「大宝律令」にとって、「九州王朝律令」など統治の邪魔になったでしょうし、おそらくは編纂作業中の『古事記』『日本書紀』の大義名分(神代の昔から近畿天皇家が日本列島の代表者であり、九州王朝など 存在しなかったことにする)に抵触する「九州王朝史」などもってのほかです。
 この「九州王朝史」「九州王朝律令」の類は各地の国司や国造、有力豪族には九州王朝から公布(周知徹底)され、国内のいたるところに存在していたはずで す。もちろん、近畿天皇家も持っていたことでしょう(西村秀己説)。それらを回収隠滅することは新たな権力者にとって不可欠の仕事です。だから「禁書」を提出せず、山沢(神籠石山城か)に亡命した者に百日以内に自首せよと命令したのが、先の『続日本紀』の記事だったのです。こうした命令を出さなければならない状況は、九州王朝説(701年の王朝交代)がもっともうまく説明できるのです。
 なお、九州王朝関連行政文書のうち、「庚午年籍」(670年に造籍された初めての全国的戸籍と考えられています)は、統治行政にとって必要ですから、これだけは没収隠滅されることなく、大和朝廷は書写・保管を全国の国司に命令しています。
 わたしはこの「禁書」についての論文(「『禁書』考 -禁じられた南朝系史書-」『古田史学会報』67号2005年4月)を書いたことがあります。その末尾の一文をここに紹介します。

 「『禁書』は、古代も現代も真実の歴史に対する権力者の怯えの産物なのである。」

 古田先生の著作や論説が日本古代史学界にあって、現代の「禁書」扱いとなっていることこそ、歴史の真実を国民に知られたくない権力者や御用学者の怯えの産物なのです。そうしたなか、陸続と古田先生の著作を復刊されているミネルヴァ書房の至誠に敬意を表したいと思います。

(雑話)わたしが二十代の頃、勤務先の労組書記長をしていたときの思い出ですが、会社主催の社員旅行で山口県萩市に行くことになりました。ところがなんと、毛利氏の菩提寺は見学したのですが、見学コースに松下村塾が入らなかったのです。
 「萩まで行って、松下村塾を見学しないとは何事か」と、親子ほど歳の離れた労務課長のKさんにどなりこんだところ、Kさんも「わたしも同感だ。会社はけしからん」と一緒になって怒り、その夜、二人で祇園に繰り出し気炎を上げました。懐かしい青春の思い出です。


第848話 2015/01/03

金光元年(570)の「天下熱病」

 「洛中洛外日記」843話と844話で紹介した『王代記』の金光元年(570年、九州年号)に記された次の記事について、正木裕さんとメールで意見交換を続けています。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」

 当初、この記事の意味がよくわからなかったのですが、『善光寺縁起』に同様の記事があり、その大幅な「要約」であることに気づいたのです。
 概要は、天下に熱病が流行ったのは百済から送られてきた仏像(如来像)が原因とする、仏教反対派の物部遠許志(もののべのおこし)が鋳物師に命じてその仏像を七日七晩にわたり鋳潰そうとしたのですが、全く損なわれることはなかった、というものです。その後、仏像は難波の堀江に捨てられるという話しが、『善光寺縁起』では続きます。
 金光元年(570)に相当する『日本書紀』欽明紀には見えないこの事件や、発端となった「天下熱病」が歴史事実かどうか、正木さんとのメールのやりとりの中で気になり、考えてみました。
 正木説によれば福岡市元岡遺跡から出土した「大歳庚寅」銘鉄剣は国家的危機に際して作られた「四寅剣」とされ、この「庚寅」の年こそ金光元年(570)に相当するとされました。詳しくは正木裕「福岡市元岡古墳出土太刀の銘文について」、古賀達也「『大歳庚寅』象嵌鉄刀の考察」(『古田史学会報』107号、2011年12月)をご参照下さい。
 他方、近畿天皇家では「天下熱病」に対して、百済からの如来像がもたらした災いとして鋳潰そうとしました。ともに金光元年の出来事ですから、この二つの事件を偶然の一致とするよりは、「天下熱病」という国家的災難の発生という共通の背景がもたらしたものとする理解、すなわち「天下熱病」を史実とするのが穏当と思われるのです。
 さらにここからは論証抜きの思いつき(作業仮説)ですが、百済からの如来像はたまたま金光元年に近畿にもたらされたのではなく、「天下熱病」の平癒祈願のため九州王朝から送られたものではないでしょうか。にもかかわらず、それを鋳潰そうとしたり、難波の堀江に捨てたものですから、こうした事件が一因となって九州王朝と河内の物部は対立し、後に「蘇我・物部戦争」等により、物部は九州王朝に攻め滅ぼされたのではないでしょうか。
 以上の考察からも九州王朝と善光寺、そして難波・河内が「九州年号」や「聖徳太子」伝承とも関わり合いながら、密接な繋がりのあることがうかがえるのです。


第847話 2015/01/02

吉田松陰書簡の思い出

 今年のNHK大河ドラマは吉田松陰の妹、杉文(すぎ・ふみ)を主人公とした「花燃ゆ」で、女優の井上真央さんが演じられます。大河ドラマも幕末や戦国時代ばかりではなく、いつの日かは古代や近代も取り上げてもらいたいものです。
 吉田松陰は歴史上の偉人として尊敬する人物の一人ですが、20年ほど前に、わたしは吉田松陰書簡など江戸時代の史料を集中して読んだことがありました。 それは和田家文書偽作キャンペーンに対抗するのに、江戸時代研究の必要があったためで、具体的には江戸時代の「藩」表記についての調査が目的でした。
 当時、和田家文書偽作論者から、和田家文書には「藩」という表記があるが、江戸時代に「藩」という行政単位名は無く、従って和田家文書は現代人が書いた偽作であるという批判がなされました。松田弘洲氏の『歴史読本別冊 古史古伝論争』所収「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」(1993年12月)や『季刊邪馬台国』55号誌に掲載された「やはり『古田史学』は崩壊する」という論文です。
 松田氏は「『東日流外三郡誌』にはネタ本がある」において、「江戸時代に津軽藩とか、三春藩などと称することはなかった。読者は手元の辞典を引いて、大名領をいつから“藩”と表記したか確認したらよろしい。」として、和田家文書を偽作とされたのですが、わたしはこの「批判」に接したとき、「はあ?」というのが第一印象でした。というのも、わたしの乏しい江戸期史料の知識でも、「藩」表記は頻繁に目にしていたからです。そこで、持っていた『吉田松陰書簡』 などにある「藩」表記を再確認し、「藩」表記は江戸時代成立の文書にいくらでもあると反論したのです。本ホームページ掲載の下記の拙稿をご参照ください。

「偽書説と真実 真偽論争以前の基礎的研究のために」『古田史学会報』創刊号(1994年6月)
「知的犯罪の構造 『偽作』論者の手口をめぐって」『新・古代学』2集(新泉社、1996年)

 こうした論争を経験していましたので、今年の大河が吉田松陰の妹を主人公にしたことを知って、わたしは20年前に読み返 した『吉田松陰書簡』のことを思い出したのです。ちなみに、わたしからの史料根拠を提示しての具体的な反論に対して、松田氏も『季刊邪馬台国』編集部(安本美典責任編集)も「だんまり」を決め込み、某新聞社のように、論文(誤論・誤解)の撤回も訂正も謝罪も行わないまま、その後も延々と偽作キャンペーン (個人攻撃・人格攻撃)を続けました。それは、およそ学問的態度とは言い難いものでした。
なお、ご参考までに江戸期史料に見える「藩」表記の例をご紹介します。

○「吉田松陰書簡」嘉永四・五年、兄の杉梅太郎宛書簡
「肥後藩」「御藩之人」「本藩」
○根岸鎮衛(1737-1815)『耳嚢』
「会津の藩中」「尾州藩中」「佐竹の藩中」
○新井白石『折たく芝の記』(1716年成立、自筆原本現存)
「藩邸」
○「新井白石書簡」(『新井白石全集』より)
「賢藩」「加藩」※いずれも加賀藩のこと。
○杉田玄白『蘭東事始』(1815年成立)
「藩邸」「我藩」「藩士」「藩医」


第846話 2015/01/01

京都御所の三種宝物

 元日朝のテレビ番組で京都御所が特集されていました。紫宸殿内にある三種神器 (『日本書紀』では「三種宝物」)の内の剣と勾玉を保管していた部屋が紹介されていました。これは初めてのテレビ放映とのことでした。鏡だけは伊勢神宮にあり、その「分身」(レプリカか)が京都御所にあったそうで、その「分身」を保管する建物もありました。現在では剣・勾玉とともに鏡の「分身」も東京の皇居にあるとのことでした。
 歴代の天皇の皇位継承の正統性の証明のため、この三種神器は歴史上に度々登場しますが、多元史観・九州王朝説からみたとき、この三種神器はどのように位置づけられるのかという問題があります。それは九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への権力交代が放伐だったのか、禅譲だったのかというテーマに密接に関わる問題です。
 中国の例を調べなければわかりませんが、王朝が禅譲さたれ場合、その「天子」としての権威だけではなく、その王朝の文物や権威を象徴する重宝も引き継ぐのではないでしようか。もしそうであれば、近畿天皇家は九州王朝の三種神器を引き継いでいてもよさそうですが、九州王朝の存在そのものを隠していることもあり、『日本書紀』などにはそうした気配はありません。たとえば事実として、王朝の権威の証明でもある重宝の類は引き継いでいません。具体的には「漢委奴 国王」の金印(いわゆる「志賀島の金印」)、卑弥呼がもらった「親魏倭王」の金印(未出土)は引き継いでいませんし、七支刀も石上神社が引き継いでおり、持ち主は近畿天皇家ではありません。
 こうした視点から見れば、近畿天皇家は九州王朝からの禅譲王朝ではないということになりそうです。『古事記』や『日本書紀』の記述から見れば、近畿天皇家は弥生時代のアマテラスやニニギにまで遡って、その権威を引き継いでいると主張していますから、いわゆる前王朝(九州王朝)からの禅譲を大和朝廷の正統性の根拠とはしていません。もっとも、史書に書かれた「史料事実」と実際に起こった「歴史事実」とが同じであるかどうかは学問的論証の対象ですから、多元 史観・九州王朝説の立場からの研究が不可欠です。「三種宝物」(三種神器)の多元史観による研究の深化が期待されます。


第845話 2015/01/01

百済武寧王陵墓碑が出展

 みなさま、あけましておめでとうございます。
 実家の久留米に帰省し、毎日のんびりとテレビを見ています。さすがに地元だけあって、HKT48が頻繁にテレビ出演しています。更に元日から開催される九州国立博物館の「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の告知コマーシャルもよく目にします。特別展示として七支刀(期間限定 1/15~2/15)や百済武寧王陵墓碑が出展されるとのこと。3月まで開催されるようですので、是非、拝見したいものです。
 特に武寧王陵墓碑は見てみたいと願っています。というのも、墓碑に記された武寧王の没年干支を確認したいのです。通常、同碑文の没年干支は「癸卯」 (523年)と紹介されることが多いのですが、実は古田先生等が1998年に同碑文を実見されたところ、干支部分は改刻されて「癸卯」とされていますが、 本来の原刻は「甲辰」であることを発見されたのです。すなわち、干支が一年ずれているのです。このことについて、わたしは『古田史学会報』31号 (1999年4月)において、「一年ずれ問題の史料批判 百済武寧王陵碑『改刻説』補論」として報告しました。本ホームページに掲載していますので、ご覧ください。
 韓国国宝の同墓碑が国内で見られるとは思ってもいませんでしたので、何とか展示期間中に九州国立博物館を訪れ、この目で見てみたいものです。

(後記)JR久留米駅で入手した観光案内パンフレット「太宰府天満宮&九州国立博物館」に「古代日本と百済の交流 大宰府・飛鳥そして公州・扶餘」の紹介があり、そこに「武寧王墓誌」の写真が掲載されていました。その写真をよく見ると、「癸卯」の二字部分が少し 削られて、へこんでいることがわかります。もちろん、このことを知らなければ気づかない程度ですが、写真でもわかるのですから、実物を直接見れば、削られ た原刻の「甲辰」という字の痕跡を確認できると思います。


第844話 2014/12/29

『王代記』の善光寺関連記事

 「洛中洛外日記」843話で紹介した『王代記』の「年代記」部分の金光元年(570)に記された次の記事ですが、「物部遠許志」は『日本書紀』には「物部尾輿」とあり、その違いが気になっていました。

 「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」

 調べてみると、この「物部遠許志」とするのは『善光寺縁起』などの善光寺関連史料に見える用字でした。そこで『王代記』にある善光寺関連記事を調べてみると、次のようなものがありました。

○善記四年(525)善光寺建立
 「帝王廿七代継躰天王之御代廿五年。善記四年ニ改易ス。元年ハ壬寅也。斯年号ノ始成。此時善光寺ハ建立ス」

○貴楽元年(552)善光寺如来が百済より渡来
 「貴楽二年、元年壬申年、善光寺如来始来リ。自百済国二人使内裏進上攬居」(『王代記』部分)
 「壬申釼金 貴楽 善光寺如来始テ百済ヨリ来玉フ。十月十三日辛酉日也。内裏ハ大和国山部郡。」(「年代記」部分)

 この貴楽元年の記事は『日本書紀』欽明紀に依ったものと思われますが、善記四年記事は当の『善光寺縁起』にも見えない記事です。おそらくこれも「天下熱病」記事と同様に九州王朝系史料に基づいたものではないでしょうか。これからの『王代記』研究が楽しみです。

 本稿が2014年最後の「洛中洛外日記」となります。一年間のご愛読、ありがとうございました。それではみなさま良いお年をお迎えください。

(追記)先ほど、明石書店から『古代に真実を求めて』18集の初校用ゲラが送られてきました。特集企画「盗まれた『聖徳太子』伝承」用の拙稿の校正を正月休みに行います。来春の出版が楽しみです。


第843話 2014/12/28

もう一つの納音(なっちん)付き九州年号史料

熊本県和水町の石原家文書から発見された納音(なっちん)付き九州年号史料のことを「洛中洛外日記」で何回か紹介してきましたが、納音(なっちん)付九州年号史料をもう一つ「発見」しましたので、ご紹介します。
この年末の休みを利用して、机の上や下に山積みになっている各地から送られてきた書籍や郵便物を整理していましたら、山梨県の井上肇さんからの『王代記』のコピーが出てきました。日付を見ると昨年の10月19日となっていますから、一年以上放置していたことになります。一度は目を通した記憶はあるのですが、他の郵便物と一緒にそのままにしておいたようです。
井上さんからは以前にも『勝山記』コピーをご送付いただき、その中にあった「白鳳十年(670)に鎮西観音寺をつくる」という記事により、太宰府の観世音寺創建年が白鳳10年であったことが明確になったということがありました。本日、改めて『王代記』を読み直したところ、九州年号による「年代記」に部分的ですが納音が記されていることに気づきました。
解題によればこの『王代記』は山梨市の窪八幡神社の別当上之坊普賢寺に伝わったもので、書写年代は「大永四年甲申(1524)」とされています。今回送っていただいたものは「甲斐戦国史料叢書 第二冊」(文林堂書店)に収録されている影印本のコピーです。
前半は天神七代から始まる歴代天皇の事績が『王代記』として九州年号とともに記されています。後半は「年代記」と称された「表」で、九州年号の善記元年(522)から始まり、最上段には干支と五行説の「木・火・土・金・水」の組み合わせと、一部に納音が付記されています。所々に天皇の事績やその他の事件が書き込まれており、この点、石原家文書の納音史料とは異なり、年代記の形式をとっています。しかし、ともに九州年号の善記から始まっていることは注目されます。すなわち、納音と九州年号に何らかの関連性をうかがわせるのです。
個別の記事で注目されるのが、「年代記」部分の金光元年(570)に記された次の記事です。

「天下熱病起ル間、物部遠許志大臣如来召鋳師七日七夜吹奉トモ不損云々」

なお、この記事は『王代記』本文には見えませんから、別の史料、おそらくは九州王朝系史料からの転載と思われます。ちなみに、「天下熱病」により、九州年号が金光に改元されたのではないかと正木裕さんは指摘されており、そのことを「洛中洛外日記」340話でも紹介してきたところです。
引き続き、『王代記』の研究を進めたいと思います。ご提供いただいた井上肇さんに御礼申し上げます。


第842話 2014/12/27

日本思想史学会の使命

 日本思想史学会の「News Letter No.21(冬季号)」(2014.12.22)が届きました。わたしは古田先生のお勧めで同学会に加入していますが、年次総会で2度ほど研究発表をしたことがあります。筑波大学(2003年)で「二倍年暦」、京都大学(2004年)で「九州年号」について報告しました。
 日本思想史学会は古田先生の恩師、村岡典嗣(むらおか・つねつぐ)先生が東北大学で始められた日本思想史研究を淵源として創立された伝統ある学会で、人文系の様々な分野の研究者約700名が加入しています。しかしながら近年これほど日本の倫理や思想が大きな問題となっているにもかかわらず、現在を生きている人間やその未来に貢献できるような研究や発表が見られないことを不満に思い、同学会へ積極的には関わらず、一会員として外から眺めていました。
 そうしたとき、今回送られてきた「News Letter No.21(冬季号)」に掲載されていた東北大学の佐藤弘夫さんの「会長退任にあたってのご挨拶」に次の一文に目がとまり、わたしと同様の思いを抱いておられていることを知り、ちょっと嬉しくなりましたので紹介します。

 「日本社会ではいま、地球温暖化や原発問題に加え、ヘイトスピーチやネットでの誹謗中傷など、心の劣化ともいうべき現象が深く静かに進行しています。これらの問題の深刻さは、これが近代化と文明化の深化に伴って浮上したものだということです。いまそこにある危機が近代化の深まりのなかで顕在化したものであれば、人間中心主義としての近代ヒューマニズムを相対化できる長いスパンのなかで、文化や文明のあり方を再考していくことが必要でしょう。
 人類が直面している課題と危機を直視しつつ、人類が千年単位で蓄積してきた知恵を、近代化によって失われたものを含めて発掘していくこと、それこそがいま日本思想史を含めた人文科学に求められている任務であると私は考えています。今後、人類の課題と将来を見据えたこうした議論もぜひ深めていきたいものです。」

 冒頭の「地球温暖化」を除けば(この17年間、地球は温暖化していない)、佐藤さんのご意見は大変もっともなものです。佐藤さんとは古田先生のご紹介で日本思想史学会でお会いしたことがあるのですが、実はそれよりもかなり前から佐藤さんのことをわたしは知っていました。日蓮遺文に関する佐藤さんの論文を京都府立総合資料館で読んだことがあり、その論証の方法が古田先生に似ているので、興味を引かれ、お名前が記憶に残っていました。古田先生にそのことをお話ししたところ、佐藤さんは東北大学の後輩にあたり、日本思想史学会で活躍されていることを教えていただきました。
 その後も佐藤さんは活躍され、わたしも佐藤さんの著書『アマテラスの変貌』(法蔵館、2000年)と共著『日蓮大聖人の思想と生涯』(第三文明社、1997年)を読ませていただきました。いずれも好著でした。その佐藤さんは日本思想史学会の会長を歴任され、今年、退任されました。村岡典嗣先生が切り開かれた日本思想史学という学問が、東北大学で今も受け継がれていること、そして佐藤さんのような優れた研究者が支えておられることに、学問の持つ真実の力を見たような気がしました。「古田史学の会」からも日本思想史を研究される方が出られることを願っています。


第841話 2014/12/21

2014年の回顧

   「関西例会」

 2014年における「古田史学の会」での優れた研究は『古田史学会報』に掲載されたもの以外にも、「関西例会」で発表された研究にも少なくありません。わたしの記憶に残っている特に優れた例会発表についても解説したいと思います。
 まず発表件数ですが、毎回、古田先生近況や会務報告とご自身の研究を報告されている水野代表は別格としても、服部静尚さん(八尾市)の22件が際だっています。次いで正木裕さん(川西市)の14件で、両者の発表件数が群を抜いていますし、研究水準も高いものでした。以下、岡下英男さん(京都市)の7件、萩野秀公さん(東大阪市)・西村秀己さん(高松市)・出野正さん(奈良市)・古賀(京都市)の6件と続いています。最も遠方からの発表者は中国曲阜市の青木英利さんでした。
 皆さん研究熱心で、「古田史学の会」や古田学派の研究活動を牽引されています。いずれも甲乙つけ難い研究内容ですが、最も印象強く残っているのが安随俊昌さん(芦屋市)が7月に発表された「『唐軍進駐』への素朴な疑問」でした。「洛中洛外日記」748話で紹介しましたが、『日本書紀』天智10年条(671)に見える唐軍2000人による倭国進駐記事について、安随さんによれば、この2000人のうち1400人は倭国と同盟関係にあった百済人であり、600人の唐使「本体」を倭国に送るための「送使」だったとされたのです。すなわち、百済人1400人は戦闘部隊(倭国破壊部隊)ではないとされたのです。
 この安随説は論証が成立しており、もし正しければ白村江敗戦以降の倭国(九州王朝)と唐との関係の見直しが迫られます。すなわち、数次にわたり筑紫に進駐した数千人規模の唐軍が倭国を「軍事制圧」していたという認識に基づいた諸仮説が成立困難となるかもしれないからです。
 このように、従来の研究の見直しをも迫る安随説は、2014年の関西例会で最も気になる研究発表だったのです。『古田史学会報』での発表が待たれる所以です。
 最後に、例会後の懇親会の幹事を担当していただいている西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)のご尽力にも触れなければなりません。どんなに激しい論争があっても、懇親会で酌み交わすお酒のおかげで関西例会は長く続けられています。こうしたことも「古田史学の会」の大切な目的です。


第840話 2014/12/20

新羅の法興王・真興王と「法興」「聖徳」

 昨日は大阪で代理店との商談、ランチをとりながらの新規開発品の価格交渉、午後は繊維応用技術研究会(事務局:大阪府産業技術総合研究所)にて「機能性色素の概要と展開」というテーマで講演しました。その講演を聞かれた出版社の社長さんから原稿執筆依頼を受けたのですが、会社の許可が必要と即答を避けました。このへんが学術研究と企業研究との違いで、学術研究では発見・発明を無償で公知にするのですが、企業研究の場合は企業戦略に沿ったプレスリリースや公開(特許出願など)が原則です。この点、歴史研究は無償で公知にする学会発表・論文発表が基本で、やはりこちらの方が楽しいものです。
 さて、本日の関西例会では、西村さんから『先代旧事本紀』の編纂者について、その記述内容が四国の四カ国の位置が90度ずれていることや熊襲(熊曽)国の場所を知らないことなどから、四国や九州の土地勘が全くない人物であるとされました。
 服部さんからは、「四天王寺」は外敵から国を守る護国の寺で、「天王寺」は天子の万寿を祈る寺であり両者の意味は異なるとされ、摂津四天王寺の当初の名称は天王寺であるとされました。また、先月に報告された「竜田山・大坂山の関」「畿内」を九州王朝が創設したとする自説の検証を深められました。大化二年改新詔の「関」「畿内」については、646年なのか九州年号の大化二年(696)なのかについては意見が分かれ、検討継続となりました。
 出野さんからは「文」という字の字源についての研究が報告されました。通説では文身(いれずみ)を字源とされているが貫頭衣でもあるとされました。古くは「文」の中に「×」が入っており、文身であることを示しているが、出野さんはこの「×」と神庭荒神谷遺跡から出土した銅剣の取っ手部分に刻まれていた「×」印と関連したものではないかとする説を紹介され、「×」を持つ他の字「凶」「兇」「胸」などについても論じられました。なおこの説を奥様の張莉さんが11月に韓国で開催された国際文字学会で発表されたところ、高い評価を得られたとのことでした。
 岡下さんは最近熱心に研究されている銅鏡について報告されました。古代の鏡の分類(国産か中国製か)の研究史をまとめ、やはり文字の有無(文字があれば中国製、あるいは渡来工人製とする)が決め手になるとの見解を、中村潤子氏(同志社大学)の説に依拠して発表されました。「倭鏡」と「中国鏡」の定義を含めて批判が出されましたが、研究途上のテーマとのことでした。
 正木さんからは先月に報告された推古紀などに見える朝鮮半島・任那関連記事は九州王朝史料から60年遅らせて盗用されたとする仮説を補強すべく、写本間(岩崎本、天理本等)の異同に着目され実証的に検証されました。
 次に『二中歴』には見えない九州年号「聖徳」を利歌彌多弗利の法号(仏門に帰依した名称)とする説の史料根拠発見について報告されました。『三国史記』によれば、新羅の法興王(514〜540)は仏教を公認振興し、その次代の真興王は「徳を継ぎ聖を重ね(真興乃継「徳」重「聖」)」諸寺を建立、仏像を鋳造、多数の仏典を受容しており、まさに「聖徳」と称されるにふさわしいとされました。すなわち、父が「法興」で息子が「聖徳」となり、九州王朝の天子・多利思北孤の法号が「法興」、次代の利歌彌多弗利の法号が「聖徳」と、見事に対応していることを明らかにされました。大変説得力のある説明でした。
 最後に萩野さんからは『日本書紀』に見えるホホデミとホアカリについて論じられ、各「一書」の比較分析により、それぞれ二名が系図的には「存在」するとされました。
 遠く埼玉県や神奈川県からも参加いただき、本年最後の関西例会も盛況でした。発表テーマは次の通りで、ハイレベルの研究発表が続き、とても濃密な一日でした。終了後の忘年会も夜遅くまで続きました。

〔12月度関西例会の内容〕
1). 先代旧事本紀の編纂者(高松市・西村秀己)
2). 四天王寺と天王寺(八尾市・服部静尚)
3).「関から見た九州王朝」の検証(八尾市・服部静尚)
4).「畿内を定めたのは九州王朝か」の検証(八尾市・服部静尚)
5).「文」字の民俗学的考察(奈良市・出野正)
6).倭鏡と文字(京都市・岡下英男)
7).『書紀』推古三十年記事の「一運(六十年)」ズレについて(川西市・正木裕)
8).利歌彌多弗利の法号「聖徳」の意味と由来(川西市・正木裕)
9).『日本書紀』に登場する二人のホホデミと二人のホアカリ(東大阪市・萩野秀公)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(千葉県我孫子市の病院に検査入院・12/18退院される、坂本太郎氏との思い出、『古代に真実を求めて』18集「家永氏との聖徳太子論争をふりかえる」古田先生インタビュー12/19、神功皇后生誕地・米原市、宮崎県串間市出土の玉璧、新年賀詞交換会 2015/1/10、ギリシア旅行 2015/4/1〜4/8)・古田先生依頼図書(角川地名大辞典「青森県」)購入・奈良県立美術館「大古事記展」見学・その他


第839話 2014/12/17

平成27年、賀詞交換会のご案内済み

 来る平成27年も古田先生をお迎えして、新年賀詞交換会を開催します。4月に はギリシア旅行を古田先生は予定されていますので、その抱負などもお聞かせいただけることと思います。皆様のご参加をお待ちしております。会員以外の方も参加可能です。終了後は希望者による懇親会も行いますので、当日、会場にてお申し込みください。

古田史学の会・新年賀詞交換会(古田先生を囲んで)
○日時 平成27年1月10日(土)午後1時30分
○会場 大阪府立大学 i-siteなんば 2階
    地下鉄御堂筋線・大国町駅下車7分
    (ZEPPナンバ大阪の東隣)
○参加費 1000円  終了後懇親会(有料)

大阪府立大学I-siteなんばまちライブラリーの交通アクセスはここから。

 


第838話 2014/12/14

2014年の回顧

 『古田史学会報』

 「古田史学の会」では2014年も優れた研究が数多く報告されました。その回顧として『古田史学会報』(120〜125号)に掲載された論文を改めて解説したいと思います。
 まず印象的なこととして、6回の会報中、122〜125号で1面冒頭を飾ったのが正木裕さんの次の論文でした。いずれも1面掲載にふさわしい内容の好論です。
○亡国の天子薩夜麻 (122号)
○海幸・山幸と「吠ゆる狗・俳優の伎」(123号)
○前期難波宮の築造準備について (124号)
○盗用された任那救援の戦い
 -敏達・崇峻・推古紀の真実-(上)(125号)
 この他にも次の論文を正木さんは発表されました。
○「末廬国・奴国・邪馬壹国」と「倭奴国」
 -何故『倭人伝』に末廬国の官名が無いのか- (120号)
○万葉歌「水鳥のすだく水沼」の真相 (120号)
○『倭人伝』の里程記事は正しかった
 -「水行一日五百里・陸行一刻百里、一日三百里」と換算- (121号)

 これほどのハイペースで論文を発表すると、普通はレベルが落ちるのですが、正木さんは高い研究水準を維持されており、素晴らしいことと思います。
 古田先生の講演録(要旨)も次のものを収録できました。いずれもわたしがモバイルワープロにより、講演同時入力したものです。講演を聞きながらのワープロ同時入力はかなり疲れるのですが、タイムリーな会報掲載のためにはこの方法が最も合理的です。
○「古田史学の会」新年賀詞交換会
 古田武彦講演会・要旨 (120号)
○筑紫舞再興30周年記念「宮地嶽 黄金伝説」のご報告
 古田武彦講演要旨・他 (121号)
○八王子セミナー報告(実況同時記録)(125号)
 今年、めきめきと頭角を現されたのが服部静尚さんでした。次の論文を発表されました。内容も様々で興味深く、かつ論証も成立しており、特に「鉄の歴史と九州王朝」は考古学的資料としても貴重で秀逸でした。これからの活躍が期待されます。
○日本書紀の中の遣隋使と遣唐使 (123号)
○鉄の歴史と九州王朝 (124号)
○石原家文書の納音は古い形か (125号)

 わたしからは次の論文を発表しました。いずれも「洛中洛外日記」に掲載したものを編集転載したものです。自ら云うことでもありませんが、忙しい仕事の合間をぬって、よく書けたと自分では納得しています。
○九州年号「大長」の考察 (120号)
○「ウィキペディア」の史料批判 (120号)
○一元史観からの太宰府「王都」説
 -井上信正説と赤司善彦説の運命- (121号)
○納音(なっちん)付き九州年号史料の出現
 -熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介-(121号)
○前期難波宮の論理(122号)
○条坊都市「難波京」の論理(123号)
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(124号)
○九州王朝説と瓦の考古学 -森郁夫著『一瓦一説』を読む-(125号)
○「五十戸」から「里」へ(125号)

 以上の他、常連組からは次の論文が発表されました。札幌市の阿部さんも健闘されました。
○「天朝」と「本朝」
 「大伴部博麻」を顕彰する「持統天皇」の「詔」からの解析 下  札幌市 阿部周一(120号)
○神代と人代の相似形Ⅱ
 もうひとつの海幸・山幸  高松市 西村秀己(121号)
○『三国志』の「尺」 姫路市 野田利郎(121号)
○「高御産巣日神」対馬漂着伝承の一考察  松山市 合田洋一(123号)
○「魏年号銘」鏡はいつ、何のために作られたか
  -薮田嘉一郎氏の考えに従う解釈-  京都市 岡下英男(124号)
○「春耕秋収」と「貸食」
 -「一年」の期間の意味について- 札幌市 阿部周一(125号)

 論文ではありませんが、旅行や遺跡見学報告も掲載され、会報に華を添えました。このような投稿を期待しています。
○筑紫舞見学ツアーの報告
 -筑紫舞三〇周年記念講演と大神社展= 今治市 白石恭子(122号)
○トラベルレポート出雲への史跡チョイ巡り行  東大阪市 萩野秀公(124号)

 最後に他の研究誌から次の転載を行いました。これからも優れた論文の転載を行いたいと思います。
○【転載】「九州年号」を記す一覧表を発見
 -和水町前原の石原家文書-
 熊本県玉名郡和水町 前垣芳郎(122号)

 以上、2014年の『古田史学会報』も、古田学派らしい論文を多数掲載することができました。投稿者や会員の皆様に感謝いたします。来年もふるってご投稿ください。