第868話 2015/02/11

九州王朝の「建国記念日」

 今日は建国記念日で祝日ですが、わたしは出社して仕事をしています。社外からの電話やメールがほとんど来ませんので、集中できて仕事がはかどり、たまっていた雑用を片づけ、デスクに積み上げられていた書類に目を通しています。明日からまた出張が続きますので、デスクワークを今日中に終えなければなりません。
 わが国の建国記念日が『古事記』『日本書紀』の神武即位記事に基づくことは著名ですが、九州王朝説の立場から考えると、近畿天皇家にとっての「建国記念日」は文武天皇の時代の701年頃だと思われます。それでは九州王朝にとっての「建国記念日」はいつ頃と考えられるでしょうか。神武が大和盆地の一角に侵入し、橿原で「即位」した日を「建国記念日」の根拠にしている現行例にならうのであれば、ニニギが糸島半島の一角に侵入(天孫降臨)した頃が「建国記念日」に相当しそうです。しかし、この程度のことを「建国」とするのは、ちょっと大げさで不当です。それでは九州王朝にとっての「建国」はどんな時期がふさわしいでしょうか。
 東アジアの大国の中国から「国際認定」された頃、たとえば「志賀島の金印」をもらった時などが「建国」の有力候補かもしれません。あるいは国内事情を重視するなら、「まえつ君」らが九州島を平定(景行紀等の盗用記事)した頃かもしれません。それとも大国主(出雲王朝)から「国譲り」された時でしょうか。
 こんなことを考えながら、建国記念日の一日を過ごしました。みなさん、九州王朝の「建国」をいつ頃とするのか、何をもって「建国」とするのか、よいアイデアはありませんか。


第867話 2015/02/10

尼崎市武庫之荘の

 大井戸古墳散策

 今日は仕事で尼崎市武庫之荘に来ています。当地は初めての訪問です。約束よりもちょっと早く着いたので、好天にも恵まれたこともあり、阪急武庫之荘駅の近くにある大井戸古墳を散策しました。大井戸公園内にある径13mほどの円墳で、あまり目立たないこともあり、公園内を探し回りました。
 案内版によると、1400年前の古墳時代後期の古墳で、群集墳が主流だった当時としては珍しく平地にある横穴式石室を持つ古墳とのこと。南側に入り口があり、花崗岩の天井石や須恵器が出土しています。
 この古墳以上にわたしが興味をひかれたのが「武庫之荘(むこのそう)」という地名です。「武庫」という地名から、古代律令制による武器庫があったのではないでしょうか。ところが有力説としては難波から見て「むこう」側にある地域なので「むこう」と言われ、「武庫」の字が当てられたとされています。しかし難波からは遠すぎるように思われますし、これほど離れた地域が難波から見て「むこう」と呼ばれたのであれば、大阪湾岸のあちらこちらに「むこう」という地名があってもよさそうですので、この難波の「むこう」という説にはあまり納得できません。もう少し考えてみたいと思います。


第866話 2015/02/08

『古代に真実を求めて』

  18集の掲載稿

  第865話に続いて、『古代に真実を求めて』18集の掲載稿の全てをご紹介します。編集責任者の服部静尚さんから同目次を送っていただきました。下記の通りです。掲載稿の題名を見ただけでも、「古田史学の会」の総力をあげての多元的「聖徳太子」研究の最先端であることを想像していただけるのではないかと思います。わたしも発行が待ち遠しく思います。
 18集の発行が終わったら、別冊の『三国志』倭人伝研究をテーマとした『古代に真実を求めて』の企画編集に入ります。こちらも乞うご期待です。

『古代に真実を求めて』18集 目次

◎巻頭言
 真実の「聖徳太子」研究のすすめ 古賀達也

◎初めて「古田史学」或いは「九州王朝説」に触れられる皆さんへ  西村秀己

◎特別掲載 古田武彦講演録
 深志から始まった九州王朝 真実の誕生

◎特集 盗まれた『聖徳太子』伝承
≪古田武彦氏インタビュー≫
 家永三郎先生との聖徳太子論争から四半世紀を経て
○聖徳太子架空説の系譜 水野孝夫
○「聖徳太子」による九州の分国 古賀達也
○盗まれた分国と能楽の祖 正木裕
○盗まれた遷都詔 正木裕
○盗まれた南方諸島の朝貢 正木裕
○九州王朝が勅撰した「三経義疏」 古賀達也
○虚構・聖徳太子道後来湯説 合田洋一
○九州王朝の難波天王寺建立 古賀達也
○盗まれた「聖徳」 正木裕
○「君が代」の「君」は誰か 古賀達也
○法隆寺の中の九州年号 古賀達也
○「消息往来」の伝承 岡下英男
○河内戦争 冨川ケイ子

◎研究論文
○もう一つの海彦・山彦 西村秀己
○「伊予」と「愛媛」の語源 合田洋一
○「景初」鏡と「正始」鏡はいつ、何のために作られたか 岡下英男
○関から見た九州王朝 服部静尚
○畿内を定めたのは九州王朝か 服部静尚

◎資料・他
○『隋書』イ妥国伝 同訳文(古田武彦)
○古田史学の会・規約
○古田史学の会・全国世話人名簿
○古田史学の会・地域の会連絡先
○19集の原稿募集要項
○編集後記 服部静尚


第865話 2015/02/07

『古代に真実を求めて』

  18集を校正中

 昨日、明石書店から『古代に真実を求めて』18集の第二校が届きました。各執 筆者による最後の校正となります。「盗まれた『聖徳太子』伝承」を特集しており、多元史観・九州王朝説に基づく「聖徳太子」研究の最先端論文集になると自 負しています。巻末には『隋書』イ妥国伝の影印本と古田先生による訳を資料として収録しており、これからの研究にも役立つような内容となっています。
 わたしからは次の6本を出稿しました。

○巻頭言 真実の「聖徳太子」研究のすすめ
○「聖徳太子」による九州の分国
○九州王朝が勅撰した「三経義疏」
○九州王朝の難波天王寺建立
○「君が代」の「君」は誰か -倭国王子「利歌彌多弗利」考-
○法隆寺の中の九州年号 -聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎-

 他の執筆者の論稿も佳作・力作ぞろいです。ご期待ください。今春には発行の予定です。2014年度賛助会員には1冊送付いたします。
 18集とは別に、『三国志』倭人伝をテーマに別冊『古代に真実を求めて』の企画編集も服部静尚さんを責任者に進められています。こちらもおもしろそうな一冊となりそうです。


第864話 2015/02/06

中華書局本『旧唐書』の原文改訂

 正月明けから、年始の御挨拶周りと三月決算期に向けての予算達成のための新製品投入による採用交渉や開発・マーケティング等連日の出張で神経を使っているせいか、帰宅しても仕事から古代史への頭の切り替えに苦しんでいます。

 「洛中洛外日記」857話で『三国志』中華書局本の原文改訂(三百里→三十里)を紹介しましたが、実は他にも中華書局本にはこのような不注意・誤解に基づく誤りがありました。
 それは中華書局本『旧唐書』貞元二十一年(805)条に見える、「日本国王ならびに妻蕃に還る」という記事です。日本国王夫妻(天皇・皇后か)が805年に唐から帰国したという不思議な記事で、従来から注目していました。
 あるとき、この記事のことを古田先生に相談したのですが、805年ですので九州王朝の国王夫妻のこととも思えず、まして近畿天皇家の天皇夫妻が訪中したなどという痕跡は国内史料にはありませんので、どのように理解したらよいのかずっと考えあぐねていました。
 ところが古田先生はこの難問を見事に解決されたのです。すなわち、これは中華書局本の誤読、句読点のミス(文章の区切り方の誤り)であり、正しくは「方(まさ)に釋(ゆる)すの日、本国王(吐蕃国王)ならびに妻(め)とり蕃(吐蕃)に還る。」と読解するべきであるとされたのでした。古田先生はこのことを「歴史ビッグバン」という小論にされ、『学士会会報』(第816号、1997年所収)で発表されました。
 このときも本当に古田先生はすごいなあと感心し、同時に中華書局本を歴史研究テキストとして用いることの危険性を痛感しました。以来、わたしは史料の選択や史料批判に一層慎重となりました。これは、わたしが古田先生から学んだ「学問の方法」の一つです。


第863話 2015/01/31

『三国志』のフィロロギー

    「質直の人、陳寿」

 『三国志』のフィロロギーと題して、短里説とその学問の方法についての連載も今回が最終回となります。文献史学の学問の基本的方法として史料批判の大切さ、すなわち『三国志』が誰により誰のために何の目的で編纂されたのかという史料性格の検証の重要性を繰り返し説明してきました。さらに著者である陳寿の認識や編纂方針について、フィロロギーの方法論に基づいて分析してきました。そこで今回は陳寿その人について解説したいと思います。
 『晋書』陳寿伝には陳寿の人となりを次のように高く評価した上表文が記されています。

 「もとの侍御史であった陳寿は、三国志を著作しました。その言葉(辞)には、後代へのいましめになるものが多く、わたしたちが何によって得、何によって失うか、それを明らかにしています。人々に有益な感化を与える史書です。
 文章の持つ、つややかさでは司馬相如には劣りますが、『質直』つまり、その文書がズバリ、誰にも気がねせず真実をあらわす、その一点においては、あの司馬相如以上です。
 そこで漢の武帝の先例にならい、彼の家に埋もれている三国志を天子の認定による『正史』に加えられますように。」(古田武彦『邪馬一国への道標』128頁、講談社、1978年)
 この上表文を天子が受け入れ、既に没していた陳寿の遺書ともいえる『三国志』が正史として世に出たのです。
 この上表文で陳寿のことを「質直」と評していますが、「質直」とは、飾り気なく、ストレートに事実をのべて他にはばかることがない、という意味で、出典は『論語』です。

 「達とは質直にして義を好み、言を察し、色を観(み)、慮(おもんばか)りて以て人に下るなり。」『論語』願淵篇

 古田先生はこの文を次のように訳されています。
 「あくまで真実をストレートにのべて虚飾を排し、正義を好む。そして人々の表面の『言葉』や表面の『現象』(色)の中から、深い内面の真実をくみとる。そして深い思慮をもち、高位を求めず、他に対してへりくだっている。」
 わたしたち古田学派の研究者は、陳寿がそうであったように「質直」であらねばなりません。このことを最後に述べて、本シリーズの結びとします。


第862話 2015/01/30

縄文遺跡出土の青銅刀と

      刻文石斧

 インターネット検索をしていましたら、不思議な出土品が目にとまりました。縄文遺跡から青銅刀や刻文石斧が出土していたとのことなのです。多分、わたしが知らなかっただけで、縄文研究では著名な出土品なのだと思いますが、それにしても驚きました。
 青銅刀は山形県庄内地方の鳥海山西麓から縄文後期の土器と共に出土したとのこと。刻文石斧は「刻文付有孔石斧」と紹介された磨製石斧で、これも山形県羽黒町中川代遺跡から縄文中期の土器と共に出土しています。いずれも中国大陸から渡来したと紹介されています。
 特にわたしが驚いたのが、石斧の「刻文」の文様が和田家文書に記されている古代文字とよく似ていることでした。「止」という字を上方向にくねらしたような「刻文」で、『東日流外三郡誌』のものよりもやや複雑な「刻文」です。『東日流外三郡誌』によれば、この古代文字は「木」を意味するとされています。
 また、『東日流外三郡誌』には石斧や青銅刀(石刀、鉄刀、銅剣)も記されており、出土物と『東日流外三郡誌』との関係に興味がわきます。なお、『東日流外三郡誌』に描かれた石斧には「孔」や「刻文」はありません。わたしは古代東北の考古学には全く疎いのですが、是非、当地の会員のみなさんに研究していただければ幸いです。
 なお、古代文字や石斧・青銅刀と思われるものが描かれているのは八幡書店版『東日流外三郡誌』第1巻古代篇(172、173、616、662、696、702、728ページ)です。是非ご参照ください。また、両出土物は浅川利一・我孫子昭二編『縄文時代の渡来文化 刻文付有孔石斧とその周辺』(雄山閣、2002年)に紹介されているとのことです。是非、拝読したいと思います。


第861話 2015/01/28

『三国志』のフィロロギー

「『後漢書』倭伝の短里」

 『後漢書』はその複雑な史料性格から、長里で編纂されているにもかかわらず、『後漢書』成立時期よりも早い魏・西晋朝で成立した短里史料、たとえば『三国志』の短里記事が混在する可能性について説明してきました。今回はその具体例について紹介します。
 『後漢書』倭伝に「楽浪郡はその国を去る万二千里、その西北界拘邪韓国を去ること七千余里」と「邪馬台国」への距離が記されています。これは『三国志』倭人伝の次の記事の改訂引用となっています。

「その北岸狗邪韓国に到る七千余里」
「郡より女王国に至る万二千余里」

 このように『三国志』倭人伝の短里記事の里程「七千余里」「万二千里」を転載採用していることがわかります。従って、范曄は『三国志』倭人伝の里程情報(短里による距離)を採用しているのですが、その理由としては倭人伝よりも信頼のおける倭国への里程情報を范曄は有していなかったことが推定されます。すなわち、後漢代における長里による倭国への里程情報が『後漢書』編纂時代(南朝宋)には無かったと考えざるを得ません。もしあったのなら范曄はそちらを採用したはずですから。
 さらに言えば、范曄は『三国志』倭人伝の里単位(短里)を認識したうえで使用したのか、短里の認識がないまま使用したのかという興味深い問題がありますが、今のところわたしには判断がつきません。おそらく、短里の認識がないまま使用したと推測していますが、今後の課題です。
 このように『後漢書』倭伝に短里が混在しているのですが、『後漢書』全体では他にも短里が混在している可能性がありますが、これも今後の研究課題であり、その場合も『三国志』のときと同様に、個別にその検証を行い、混在した事情(范曄の認識、編纂方針)についても判断するべきであることは当然です。(つづく)


第860話 2015/01/26

『三国志』のフィロロギー

「『後漢書』の短里混在」

 漢代では長里が採用されており、魏・西晋朝になって周代の短里(注)が復活採用されたという里単位の歴史的変遷があったため、『三国志』は短里で編纂されたにもかかわらず、前代の長里が混在しうる可能性について考察を続けてきましたが、同様の方法で『後漢書』の里単位についても「思考実験」として考えてみたいと思います。
 『後漢書』はその時代を生きた人間が編纂した『三国志』のような同時代史料ではありません。中国では、ある王朝の歴史(正史)を編纂するのは、その後の別の王朝です。その点、近畿天皇家が自らの大義名分(自己利益)に基づいて編纂した『日本書紀』などとはその史料性格が大きく異なります。このように誰が何の目的で編纂した史料なのかという視点は、文献史学における史料批判という基礎的で重要な作業です。
 この史料批判の観点からすると、『後漢書』は複雑な史料性格を有しています。それは編纂時期の問題です。後漢(25〜220)の歴史を記録した『後漢書』は南朝宋(420〜479)の范曄(はんよう、398〜445)により編纂されていますから、『三国志』(魏、220〜265)よりも前の王朝の正史でありながら、その成立は西晋(265〜316)で編纂された『三国志』(著者:陳寿、233〜297)よりも遅れるのです。このような歴史的変遷を経て、『後漢書』は成立していますから、今回のように里単位を問題とするとき、次のような論理的可能性を考えなければなりません。

 1.長里を使用していた後漢の史料をそのまま引用・使用した場合は長里となる。
 2.編纂時期の南朝宋も長里を採用していたから、漢代史料の長里記録に対して、「矛盾」や「問題」は発生しない。ただし、漢代の長里(約435m)と南朝宋の長里が全く同じ距離かどうかは別途検討が必要。
 3.従って、『後漢書』は後漢と南朝宋の公認里単位の長里により編纂されたと考えるのが基本である。
 4.ところが、後漢と南朝宋の間に存在した魏・西晋朝では短里が復活採用されており、その短里に基づいた『三国志』が既に成立している。
 5.その結果、『三国志』や魏・西晋朝で成立した記録を『後漢書』に引用・使用した場合、短里が混在する可能性が発生する。
 6.そこで問題となるのが、『後漢書』の編纂時代の南朝宋において、「魏・西晋朝の短里」という認識が残っていのたか、忘れ去られていたのかである。
 7.著者范曄の短里認識の有無を『後漢書』などから明らかにできるかどうかが、史料批判上のキーポイントとなる。
 8.もし范曄が魏・西晋朝の短里を知っていたとすれば、その短里記事をそのまま採用したのか、長里に換算したのかが問題となり、知らなければ「無意識の混在」あるいは「おかしいなと思いながらも、他に有力な情報がないため短里記事をそのまま転用(せざるを得ない)」という史料状況を示すことが推定できる。

 以上のような論理的視点を踏まえて『後漢書』の里単位を論じるのが学問的・論理的な姿勢ですが、『三国志』長里論者の諸論に、このような厳密な学問的方法に基づいて論じられたものをわたしは知りません。「洛中洛外日記」本シリーズ冒頭の851話で、「その内容が20年前当時から本質的に進展していないものも見受けられました」と述べたのは、このような実態があったからなのです。(つづく)

(注)本シリーズ執筆を契機に、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)と短里の淵源などについて、メールで意見交換を続けています。その中で、短里の淵源は殷代に遡るのではないかとの仮説が浮上しました。論証が成立したら『古田史学会報』に発表されるよう御願いしています。


第859話 2015/01/25

『三国志』のフィロロギー

  「短里混在の無理」

 『三国志』の倭人伝や韓伝のみを、あるいは東夷伝のみを「短里」とする論者がいます。いわば「短里混在」説ともいうべき立場です。『三国志』は長里で編纂されており、どういうわけか「短里」が混在するという立場ですが、これは学問的論理的に突き詰めると成立困難であることを説明します。
 『三国志』に直前の漢代に採用されていた長里が混在する論理的可能性については説明してきたところですが、これとは逆のケース、すなわち長里で編纂された『三国志』に短里が混在するとしたい場合は、直前の漢代で短里が採用されており、魏・西晋朝になって長里が採用されたとしなければなりません。そうでなければ長里の史書に短里が混在することの説明ができないからです(「千里の馬」などの永く使われてきた成語は別です)。しかし、どの立場に立つ論者も漢代は長里であるとしており、そうであれば『三国志』において「短里混在」は論理上の問題として成立できないのです。
 このように『三国志』「短里混在」説に立つ論者には肝心要の「短里が混在」した理由が学問的論理的に説明できないのです。したがって、『三国志』はオール長里とする立場(短里を認めない)に固執せざるを得ません。あるいは、倭人伝や韓伝のみ短里とか、6倍に誇張されているとする「古代中国人はいいかげんで信用できない」説という非学問的な立場におちいってしまうのです。
 自説に不都合なことや自説では説明つかないことを「どこかの誰かが間違ったのだろう。だから無視する。好きなように原文改訂する。」という姿勢は非学問的であり、古田史学・フィロロギーとは正反対の立場なのです。(つづく)


第858話 2015/01/25

『三国志』のフィロロギー「短里説無視の理由」

 本テーマから少し外れますが、なぜ古代史学界は『三国志』短里説を認めようとしないのかという質問が、1月の関西例会で姫路市から熱心に参加されている野田利郎さん(古田史学の会・会員)から出されました。学問の本質にもかかわる鋭く基本的な質問と思い、わたしは次のように説明しました。
 短里説を認めると「邪馬台国」畿内説が全く成立しないから、「古代中国人の里数や記録などいいかげんであり信用しなくてもよい。だから倭人伝の原文を好きなように改訂してよい」という非学問的な立場に立たざるを得ないのです、と。
 「洛中洛外日記」の「『邪馬台国』畿内説は学説に非ず」で説明しましたように、『三国志』倭人伝には帯方郡(今のソウル付近)から邪馬壹国までの距離を一万二千餘里と記されており、長里(約435m)では太平洋の彼方までいってしまうので、畿内説論者は倭人伝の里数は6倍ほど誇張されていると解して、里数に意味はないと無視してきたのです。このように長里では一万二千餘里は非常識な距離となり、無視するしかないのですが、短里(約78m)だと博多湾岸付近となり、邪馬壹国の位置が明確となるのです。ですから、畿内説論者は絶対に短里説(の存在)を認めるわけにはいかないのです。
 他方、北部九州説の論者の場合、短里を認めることに問題はないのですが、古田先生のように『三国志』短里説に立つ論者とは別に、倭人伝や韓伝のみを、あるいは東夷伝のみを「短里」とする論者がいます。後者は『三国志』は長里で編纂されており、どういうわけか「短里」が混在するという立場ですが、これは学問的論理的に突き詰めると成立困難な立場なのです。(つづく)


第857話 2015/01/24

『三国志』のフィロロギー

 「長里への原文改訂」

 『三国志』に長里が混在する論理性とその理由についてフィロロギーの視点や学問の方法について縷々説明してきましたが、今回はちょっと息抜きに現代中国における『三国志』の「長里への原文改訂」についてご紹介します。
 『三国志』が短里で編纂されていることは動かないものの、長里が混在する可能性やその論理性について、15年ほど前から古田先生と検討を進めていまし た。そのときのエピソードですが、『三国志』の次の記事は長里ではないかと古田先生に報告しました。
 『三国志』ほう統伝(注)中の裴松之注に「駑牛一日行三十里」とあり、短里では1日に約2.4kmとなり、牛が荷を引く距離としても短すぎるので、これ は長里の例(約13km)ではないかと考えました。このことを古田先生に報告したところ、先生は怪訝な顔をされ、その記事は「三十里」ではなく、「三百里」ではないかと言われたのです。再度わたしが持っている『三国志』(中華書局本。1982年第2版・2001年10月北京第15次印刷)を確認したのですが、やはり「三十里」とありました。ところが古田先生の所有する同書局本1959年第1版では「駑牛一日行三百里」とあるのです。最も優れた『三国志』 版本である南宋紹煕本(百衲本二四史所収)でも「三百里」でした。なんと、中華書局本は何の説明もなく「三十里」へと第2版で原文改訂していたのでした。
 この現象は、現代中国には「短里」の認識が無いこと、そして長里の「三百里」では約130kmとなり、牛の1日の走行距離として不可能と判断したことが うかがえます。その結果、何の説明もなく「三百里」を「三十里」に原文改訂したのです。こうした編集方針の中華書局本を学問研究のテキストとして使用することが危険であることを痛感したものです。同時に、「駑牛一日行三百里」が『三国志』が短里で編纂されている一例であることも判明したのでした。
 この例を含めて『三国志』等に混在した「長里」「短里」について考察した次の拙稿が本ホームページに収録されていますので、ご参照下さい。(つづく)
 古賀達也「短里と長里の史料批判 —  『三国志』中華書局本の原文改定」(『古田史学会報』No.47、2001年12月)
 ※(注)ほう統伝のホウは、广編に龍。