第399話 2012/04/01

本居宣長の門人たち

わたしが本居宣長に興味を抱いた理由は、その学問的業績だけではなく、江戸時代には在野の研究者であった宣長やその学説 が、明治維新後には新政府の学問の主流となったという歴史事実にありました。わたしたち古田学派が将来の日本において歴史学の主流となるために、何をしな ければならないのか、何が必要なのかを考えるための参考として、本居宣長に興味を抱いたのです。
今回、本居宣長記念館を訪問し、同記念館編集の『本居宣長の不思議』という本を購入しました。本居宣長の人生や学問がわかりやすくまとめられており、初 心者にも読みやすい良本です。この本の最後の方に宣長の門人一覧と現在の県別の門人数が記されています。三重県の220人を筆頭に北は北海道から南は宮崎 県までのべ513人の分布図と氏名が記されており、宣長の名声が全国に広がっていたことがわかります。
「古田史学の会」の会員数も約500名ですから、偶然とは言え不思議な縁を感じます。もちろん、江戸時代と現代では交通手段も情報量や伝達速度も比較になりませんが、在野にある古田学派にとって励まされるものではないでしょうか。
この国で古田史学・多元史観がどのように認められ受け入れられるのかは、今のわたしにはわかりませんが、体制や世俗に迎合するのではなく、真実と学問が 持つ力を信じて、研究活動と宣伝顕彰を進めていきます。そして、百年後には「古田武彦記念館」が作られるよう頑張っていきたいと思っています。


398話 2012/03/31

本居宣長記念館・鈴屋を訪問

先週の土曜日、妻と松阪市までドライブしました。妻には松阪牛を食べにいこうと誘い、実は以前から行きたかった本居宣長記念館を訪問し、宣長の書斎「鈴屋」(すずのや)を見てきました。
古田先生がフィロロギーを学ばれた東北大学の村岡典嗣先生は本居宣長研究でも著名です。わたしも古田先生から村岡典嗣先生のことをいろいろとうかがう機会がありましたので、村岡先生が研究された本居宣長にも興味を持っていました。そうしたことから、松阪市の本居宣長の旧宅鈴屋を訪れたいと思っていたので す。
本居宣長の旧宅は当初あった魚町から松阪城跡に移築されており、記念館に隣接しています。わたしは旧宅全体が鈴屋(すずのや)と呼ばれているものと思っていたのですが、案内していただいた城山さんの説明では二階の書斎部分が鈴屋とよばれているとのこと。その書斎の中には入れないのですが、窓が開けられていたため、外から内部を見ることができました。
旧宅の土蔵には宣長の書籍や手紙などが大量に保存されていたとのことで、現在も版木が保存されているそうです。城山さんからは本居宣長のことや松阪城を 築城した蒲生氏郷のことなど多くのことを教えていただきました。記念館に展示されていた宣長の著作や手紙を拝見して、宣長の業績の一端に触れることがで き、感銘を受けました。
地元の松阪には宣長の偉業を知らない人が多いと嘆かれていた城山さんに、また訪問することをお約束し、松阪を後にしました。帰りに、樹敬寺にある宣長一族のお墓に参りました。もちろん、松阪牛もしっかりと食べてきました。


第397話 2012/03/30

『古事記』千三百年の孤独(4)

『古事記』が大和朝廷にとって不都合だったのは、序文の「壬申の乱」の記述だけではありませんでした。八世紀初頭の大和朝廷にとって、自らの権力の正統性を確立する上で、避けて通れない問題がありました。それは、継体天皇の皇位継承の正統性についてでした。
このことは古田先生が度々指摘されてきたところですが、「日本書紀」では継体の前の武烈天皇の悪口や非道ぶりをこれでもかこれでもかと書き連ねられてい ます。だから有徳な継体が武烈なきあと皇位についたと主張しているのですが、これほど武烈の悪口を言わなければならないのは、逆にそれだけ継体が皇位継承 (略奪)の正統性に欠ける悪逆な人物だった証拠なのです。
ところが、そうであるにもかかわらず、「古事記」では継体の皇位継承の正統性が強調されておらず、継体の子孫である八世紀初頭の天皇家の人々にとって、 「古事記」は不十分極まりない「欠陥史書」だったのです。すなわち、継体が行った皇位略奪の後ろめたさと武烈に対する「悪口」不足こそ、「古事記」が正史 とされず、新たに武烈の悪口を書き連ねた「日本書紀」を編纂せざるを得なかった理由の一つなのです。(つづく)


第396話 2012/03/18

史料批判の基本「大局観」

 昨日の関西例会でも活発な質疑応答がなされました。わたしもなるべく発言するよう心がけているのですが、岡下さんの発表「隅田八幡神社人物画像鏡の銘文」に関しては難しくて黙り込んでしまいました。
 隅田八幡神社人物画像鏡が国産で、「日本書紀」神功紀四六年条に見える「斯摩宿禰」が大王年に贈ったとする説を岡下さんは発表されたのですが、神功紀や鏡の編年、銘文解釈について活発な質疑が行われました。しかし、わたしにはどうしても腑に落ちない課題があり、最後まで発言できませんでした。
 それは、この鏡の大局的な位置づけがわからなかったからです。歴史学において、取り扱う史料の性格や大局的な位置づけを明らかにするという、史料批判に おける最初に取り組むべき課題・作業があります。たとえば、古事記や日本書紀は近畿天皇家が近畿天皇家のために作成した「勝者自らの史書」という史料性格 と大局的位置づけが明確なため、歴史研究に使用する場合も、天皇家にとって都合よく編纂されていという視点で読むことになります。
 これと同様に隅田八幡神社人物画像鏡でも大局的位置づけが必要なのですが、百済王から倭王(日十大王年)に贈られたとする説に対して、岡下さんが指摘されたように、国家間の贈答品にしては鏡の出来が悪いという「史料事実」から、見直しが迫られているのです。このため、岡下さんは国産説を採られ、臣下から倭王への献上品とされたのですが、この鏡の出来の悪さが、国内献上説をも否定してしまうのです。国産の献上品であれば粗悪な鏡でもかまわないとはならないからです。
 こうしたことから、わたしにはこの鏡の大局的位置づけ、すなわち「出来の悪さ」と銘文解釈の双方をうまく説明できる仮説を提起できなかったのです。たとえば、百済王から倭国王への贈答品の質の良い鏡が別に存在していて、そのレプリカがこの人物画像鏡だったのではないかなどの作業仮説も浮かびましたが、確信を持てるまでには至りませんでした。
 これからも考え続けたいと思います。なお、関西例会の発表は次の通りでした。

〔3月度関西例会の内容〕
(1) 「古田史学キーワード辞典」の作成協力者を求む(豊中市・木村賢司)
(2) 学校の先生の教育をする自由(豊中市・木村賢司)
(3) 「古代史・道楽三昧」第五号の発行(豊中市・木村賢司)
(4) 主格助詞「イ」(明石市・不二井伸平)
(5) 円仁と張保皋(木津川市・竹村順弘)
(6) 石棺と装飾古墳(木津川市・竹村順弘)
(7) 隅田八幡神社人物画像鏡の銘文(その4)(京都市・岡下英男)
(8) 「継体」年号前後(相模原市・冨川ケイ子)
(9) 守君大石の正体と小郡なる飛鳥の宮(川西市・正木裕)
(10)卑しめられた蘇我馬子(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
会員寄贈著書紹介(寺本躬久著「いのちの風景」)・古田先生近況・会誌「古代に真実を求めて」15集編集状況・会務報告・関西例会担当者交代(新担当:竹村順弘)・東野治之「百済人祢軍墓誌の『日本』」はおかしい・その他


第395話 2012/03/10

『古事記』千三百年の孤独(3)

『日本書紀』と『古事記』の差異の中でも特筆されることがいくつかありますが、その第一は「壬申の乱」の取り扱いです。
『日本書紀』の第二八巻すべてが「壬申の乱」の記述に当てられていることは著名です。他方、『古事記』は推古天皇までで終わっており(説話が記されてい るのは継体天皇まで)、「天武記」はありません。しかし、『古事記』序文の15%近くを「壬申の乱」の記述が占め、共に「壬申の乱」をいかに重視していた かが読みとれます。ところが、両書の「壬申の乱」の内容(大義名分)が異なるのです。
拙稿「『古事記』序文の壬申大乱」(『古 代に真実を求めて』第九集所収。明石書店、2006)で詳論しましたが、簡単にいうと『日本書紀』では、吉野に入った天武を大友皇子側が攻めたので、天武 はやむなく東国へ脱出挙兵し大友皇子を殺し、皇位についたとされています。すなわち、天武は仕方なく戦い、皇位についたとされているのです。ところが『古 事記』序文では、皇位につくことを目的にして吉野に入り、その後挙兵したとされているのです。
どちらが真実に近いでしょうか。当然、『古事記』序文の方です。最初から皇位纂奪を目指すという「非道」な『古事記』序文の方が「正直」と思われるから です。だからこそ『古事記』は正史とされず、しかたなく防衛のため戦ったとする『日本書紀』が採用されたのです。天武の子孫である『日本書紀』成立時の天 皇たちにとって、自らの皇位継承の正当性と大義名分のために『古事記』を「隠蔽」し、『日本書紀』を国内に後世に流布したのです。
それでは序文のみを削除して『古事記』を正史とする手段もあったかもしれませんが、実際は「隠蔽」されていることから、当時の天皇家にとって不都合だっ たのは、序文の「壬申の乱」の記述だけではなかったことがわかります。それ以外の不都合な記述とは何だったのでしょうか。これも『古事記』と『日本書紀』 を比較することにより判明します。(つづく)


第394話 2012/03/08

『古事記』千三百年の孤独(2)

『古事記』の史料性格を考える際、その大前提ともいうべきテーマがあります。それは皆さんもご存じの通り、『古事記』は 大和朝廷の正史として採用されることなく「隠蔽」され、『日本書紀』が正史として後世に伝えられたという歴史的事実です。この事実は次のことを指し示しま す。すなわち、『古事記』は編纂当時の大和朝廷の天皇にとって、不都合かつ不必要な史書であり、『日本書紀』は逆に都合がよく、必要であったということで す。
もし『古事記』が不都合でなければ、『日本書紀』とともに併用して普及あるいは後世に公的に伝えられたはずですが、実際は中世に真福寺から「発見」され るまで、書名こそ伝わっていたものの存在が不明な史書だったのです。ですから、『古事記』が大和朝廷にとって不都合で後世に伝えたくなかった史書であるこ とは明らかです。
それでは『古事記』の何が不都合だったのでしょうか。そのことを調べる方法が残されています。それは正史『日本書紀』と比較することによって、判明する はずです。『日本書紀』は天皇家にとって都合が良かったから正史として採用されたのですから、両書を引き算すればよいのです。『日本書紀』マイナス『古事 記』イコール「都合の良い部分(日本書紀の中の)」と「都合の悪い部分(古事記の中の)」と見なす。この方法です。これは古田先生が『盗まれた神話』で提 起された学問の方法で、わたしたち古田学派にとってお馴染みの方法です。(つづく)


第393話 2012/03/07

『古事記』千三百年の孤独(1)

今年は『古事記』編纂1300年に当たることから、様々な『古事記』関連書籍が出版されています。書店でそれらをパラパラパラと立ち読みしているのですが、いずれも期待はずれで、購入する気になれません。皆さんはいかがでしょうか。
わたしの見るところ、古田先生以外の学者や作家のほとんどは『古事記』を正しく理解していないようです。その意味では1300年たっても理解者が極めて 少ないこの状況は、「『古事記』千三百年の孤独」と表現できそうです。もちろんこれは、わたしが好きな南米チリのノーベル賞作家ガルシア・マルケスの名著 『百年の孤独』の模倣です。
『古事記』編纂1300年という良い機会ですので、九州王朝説・多元史観から見た『古事記』の史料性格について考えてみることにします。
大局的には、大和朝廷による『古事記』編纂の目的として、二つの動機が推定されます。一つは、先住した九州王朝を否定し、大和朝廷こそ神代の時代から日 本列島の代表者であったと主張(偽装)すること。もう一つは、『古事記』編纂時の天皇が大和朝廷の正当な後継者であることを主張(いいわけ)することで す。
こうした視点から分析考察する上で、わたしたちは格好の比較史料『日本書紀』を有しています。というのも、『古事記』と『日本書紀』を比較することによ り、『古事記』の史料性格が鮮明に浮かび上がってくるからです。以下、具体的に述べていきます。(つづく)


第392話 2012/03/05

秋田土崎の橘氏

この数年、いろいろと忙しくて和田家文書の研究は全く手つかずの状態が続いています。これからもしばらくは取り組めそうにないのですが、佐々木広堂さんからのファックスがきっかけで、昔書いた論文「知的犯罪の構造 –「偽作」論者の手口をめぐって」(『新・古代学』第2集、1996)を読みなおしました。おかげで当時の記憶が次から次へとよみがえってきたのですが、それらを忘れないうちに書きとどめておくのもいいかもしれないと思い、これから時折「洛中洛外日記」に記していくことにします。
その最初として、和田家文書『東日流外三郡誌』の著者、秋田孝季(あきたたかすえ)のことを少しご紹介します。『東日流外三郡誌』などの末尾には「秋田 土崎住 秋田孝季」と記されている例が多いのですが、これらの記述から、孝季が秋田土崎(今の秋田市土崎)で『東日流外三郡誌』などを著述したとがわかる のですが、なぜ津軽ではなく秋田土崎なのかが不明でした。
ところが、秋田県ご出身の太田斉二郎さん(古田史学の会・副代表)が現地調査などで秋田市土崎に橘姓が多いことを発見されたのです。というのも、和田家 文書によれば秋田孝季のもともとの名前は橘次郎孝季だったからです。孝季の母親が秋田家三春藩主に「後妻」として入ったことにより、橘次郎孝季から秋田孝 季と名乗るようになったのです。ですから、秋田土崎は秋田孝季の「実家」の橘家があった可能性が高いのです。だから、秋田土崎の地で『東日流外三郡誌』を 初めとした膨大な和田家文書の執筆に孝季は専念できたのです。
秋田県や秋田市には全国的に見れば、橘姓はそれほど多く分布していません。むしろ少ないと言った方がよいかもしれません。ところが、秋田市内の橘姓の七割が土崎に集中していることを太田さんが発見されたのです(太田斉二郎「孝季眩映〈古代橘姓の巻〉」、『古田史学会報』24号、1998)。この発見により秋田孝季がなぜ秋田土崎で執筆したのかがわかったのです。
こうした事実は偽作説では説明しにくいでしょう。現地調査により、秋田孝季の実在を証明する事実が明らかになるのではないかと期待しています。いつかわたしも現地調査を行いたいと思っており、現地に協力者が現れることを願っています。


第391話 2012/03/03

和田家文書の「稲作伝播」伝承

第370話「東北水田稲作の北方ルート伝播」で佐々木広堂さんらの論文をご紹介しました。東北地方への稲作は沿海州から伝播したという説ですが、その佐々木さんから一枚のファックスが届きました。その 中で、東北への稲作が九州からではなく、中国から伝わったとする伝承が和田文書に記されていることが指摘されていました。
このことを既に佐々木さんは『古代に真実を求めて』第9集(明石書店、2006年)に掲載された「東北(青森県を中心とした)弥生稲作は朝鮮半島東北 部・ロシア沿海州から伝わったーー封印された早生品種と和田家文書の真実」で発表されています。わたしはその論文の内容の詳細を忘れていたのですが、 佐々木さんからのファックスで紹介していただき、再読しました。
同論文によれば、和田家文書の『東日流六郡誌大要』(八幡書店、554頁)に次のような記事があります。
「耶馬台族が東日流に落着せしは、支那君公子一族より三年後の年にて、いまより二千四百年前のことなり。~彼等また稲作を覚りし民なれど持来る稲種稔らず。支那民より得て稔らしむ。」
津軽に耶馬台族の持ってきた稲は実らず、支那の民より得た稲は実った、という記事ですが、おそらく日本列島の西南部(近畿か九州)から伝来した稲は寒さ で実らず、支那(大陸)の稲は早生種であったため、寒い津軽でも実ったという伝承が記されているのです。弥生時代の青森へ、大陸の早生種が伝来したという 佐々木さんの説と同じことが和田家文書に記されていたのです。
もちろん、和田家文書にはこの他にも津軽への稲作伝来に関する様々な異説が記されていますが、それらの中に佐々木さんの研究結果と同じ伝承が残っていた ことは驚きです。稲作の伝来一つをとっても、和田家文書の伝承力・記録量は素晴らしいものがあります。偽作論などに惑わされることなく、学問的な和田家文 書の史料批判と研究が期待されます。


第390話 2012/03/01

好評!「古田武彦コレクション

 ミネルヴァ書房より、同社の「新刊案内」3月号が送られてきました。そこに「ミネルヴァ書房の売れ行き良好書」というランキングコーナーがあり、人文科学のベストファイブが紹介されているのですが、なんと古田先生の『古代は沈黙せず』が4位、福與篤著・古田武彦解説『漫画「邪馬台国」はなかった』が5位と、古田先生関係書籍が二つもランキング入りしていました。古田先生の根強い人気と、ミネルヴァ書房の「古田武彦コレクション」シリーズが好評であることがうかがえます。
 この「新刊案内」によると、「古田武彦・古代史コレクション10」として『真実の東北王朝』が刊行されるとのこと。この本はわたしにとって、いろんな意 味で思い出深い一冊です。学問的には多賀城碑の史料批判や、東北王朝の提起など、古田史学・多元史観にとって重要な本なのですが、古田先生が初めて著書で 和田家文書『東日流外三群誌』を紹介された本でもあります。
 和田家文書偽作キャンペーンが勃発したとき、この『真実の東北王朝』と古田先生はマスコミも含めた偽作論者からの猛烈なバッシングを受けました。邪馬壱 国説・九州王朝説に対して、学問的に有効な反論ができなかった一元史観の学者たちが、ここぞとばかりに古田叩きを始めたのです。今から思い出しても、それ はひどいものでした。
 そのとき、古田先生の支持者や、支持団体の中からも古田叩きに同調する人物が何人も現れました。あるいは、中立を装いながら、実は古田先生から距離をお きはじめた自己保身の輩(やから)もいました。このとき、わたしはまだ三十代でしたが、「兄弟子」と思っていた多くの人々が古田先生から離れていくのを眼 前にして、「何という人たちだ。恩知らずにもほどがある。」と怒りに身を震わせたものでした。
 こうしたことが一因となって、わたしは水野さんらと共に「古田史学の会」を立ち上げ、古田先生と一緒に偽作キャンペーンや大和朝廷一元史観と戦うことを 決意し、自分の半生を古田史学に捧げる道を選びました。そして、今はその時の決断が正しかったと実感しています。運命(使命)と行動を共にする
 多くの同志と出会えたからです。これも「偽作キャンペーン」「古田バッシング」のおかげと、皮肉ではなく本気で思っています。あの試練を経て、「古田史学の会」が誕生し、古田学派は力強く発展したからです。


第389話 2012/02/26

パソコンがクラッシュ

永年愛用してきたデスクトップパソコンが、昨日とうとうクラッシュしてしまいました。バックアップしていないデータが大 量に失われれてしまい、どのような問題が発生するか調査しています。当面はインターネット用に使っているノートパソコンとテキスト入力専用機のポメラで対応していきます。
ミネルヴァ書房より発刊予定の二倍年暦に関する既報論文のデータも失われましたが、こちらは「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」に掲載してい ましたので、そこからデジタルデータを取り出せます。思わぬところでホームページが役立ちました。
発行予定の二倍年暦の本ですが、古田先生と相談の結果、私の論文と大越邦生さんが現在書かれている論文とで構成することになっています。まだ具体的な書名や発刊時期は決まっていませんが、古典に記された古代人の長寿の謎に、二倍年暦という視点で解明したものとなるでしょう。こちらも『「九州年号」の研究』同様に後世に残る一冊になればと願っています。


第388話 2012/02/24

鈴鹿峠と「壬申の乱」

 先日、仕事で伊賀上野までドライブしました。京都南インターから新名神の信楽インターで降りるルートを採るつもりでしたが、カーナビの推奨ルートが京都南インターから新名神で亀山まで行き、そこから東名阪国道で伊賀上野まで戻るという、何とも遠回りを指示したものですから、そちらの方が早いのだろうと思い、結局、一日で鈴鹿山脈を2往復計4回越えることとなりました。
 これはこれで良い経験となりましたが、その時、脳裏をよぎったのが「壬申の乱」の天武の吉野からの脱出ルートでした。ご存じのように、『日本書紀』は天武紀前半の第二八巻まるまる一巻を「壬申の乱」の記述にあてています。日時や場所など他の巻とは比較にならないほどの詳細な記述がなされていることから、『日本書紀』に基づいて多くの歴史家や小説家が壬申の乱をテーマに論文や小説を書いています。
 他方、古田先生は壬申の乱については永く本に書いたり、講演で触れたりはされませんでした。ある時、古田先生にその理由をおたずねしたところ、「『日本書紀』の壬申の乱の記述は詳しすぎます。これは逆に怪しく信用できません。このような記述に基づいて論文を書いたり話したりすることは、学問的に危険です。」と答えられました。このときの先生の慎重な態度を見て、「さすがは古田先生だ。歴史研究者、とりわけ古田学派はかくあらねばならない」と、深く感銘 を受けたものでした。
 こうした古田先生の歴史家としての直感がやはり正しかったことが明らかになりました。それは、馬の研究家である三森堯司さんの論文「馬から見た壬申の乱 -騎兵の体験から『壬申紀』への疑問-」(『東アジアの古代文化』18号、1979年)によってでした。
 三森さんは『日本書紀』壬申の乱での天武らによる乗馬による踏破行程が、古代馬のみならず品種改良された強靱な現代馬でも不可能であることを、馬の専門家の視点から明らかにされたのです。すなわち、『日本書紀』に記された壬申の乱は虚構だったのです。この三森論文により、それまでのすべての壬申の乱の研究や小説は吹き飛んでしまったのでした。もちろん、大和朝廷一元史観の学者のほとんどは、この三森論文のインパクト(学問的提起)に未だ気づいていないか のようです。
 その後、古田先生が九州王朝説・多元史観に基づいて、名著『壬申大乱』(東洋書林、2001年刊)を著されたのはご存じの通りです。舗装された道路を自動車での鈴鹿越えを繰り返しながら、『日本書紀』の「壬申の乱」が虚構であることを改めて実感した一日でした。