第218話 2009/08/02

太宰府条坊の中心領域

 7月の関西例会で伊東さんが紹介された、太宰府条坊と政庁の中心軸はずれているという井上信正氏(太宰府市教育委員会)の調査研究は衝撃的でした。そのずれの事実から、政庁(2期)や観世音寺よりも条坊の方が先に完成していたという指摘も重要でした。すなわち、現都府楼跡の政庁は条坊が完成したとき(七世紀初頭、九州年号の「倭京」年間と思われる。)にはまだ無く、条坊都市に当然存在したはずの中心領域、すなわち九州王朝の王宮は別にあったことになるからです。
 この点に関しても、井上氏は重要な指摘をされています。それは条坊右郭中央にある通古賀地区に注目され、同地域の小字扇屋敷(王城神社がある)付近からは比較的古い遺物が集中して出土しており、この地区が条坊創建時の中心領域と推定されています。
 しかも、この扇屋敷を中心とする領域は、小規模ながら藤原宮を中心とする大和三山・飛鳥川の配置とよく似ており、同じ風水思想による都市設計ではないかとされています。すなわち、扇屋敷の北には小丘陵(小字東蓮寺)があり、東には古代寺院般若寺から伸びる丘陵地が、南には南東から北西に流れる鷺田川があるのです。
 これを九州王朝説から考察すれば、七世紀初頭の条坊都市の中心領域は通古賀地区であり、ここに九州王朝の宮殿が造られたと考えることが可能です。しかも、「王城神社」という名称も注目されます。更には、井上氏も指摘されていますが、この扇屋敷の中心軸の丁度南のライン上に基山山頂があることも、この地域が重要地点であったことを感じさせるのです。
 まだ研究途中ですが、七世初頭の九州王朝は太宰府に条坊都市を造り、その中心として通古賀地区扇屋敷に宮殿を造ったという仮説は有力のように思われます。そして、もしこの仮説が正しければ、太宰府を先行例として藤原宮・藤原京は太宰府条坊都市と同じ設計思想で造られたことになり、この視点から新たな問題が惹起されてくるのです。(つづく)


第217話 2009/08/01

『古田史学会報』93号の紹介

 『古田史学会報』93号の編集が終わりました。本号は古田先生の論文「仏像論」が掲載されています。古田先生ならではの斬新な切り口で、仏像への思想史的考察が深められた珠玉の一編です。
 今回、初めての試みとして、大下さんと正木さんとの「白雉二年」奉納面をテーマとしたインターネットメールの交信記録を掲載しました。研究者同士の素早い情報交換とアイデアのやりとりが魅力です。ネットによる「共同研究」ともいうべきもので、新しい研究スタイルの可能性さえ感じさせます。

『古田史学会報』93号の内容
○仏像論  古田武彦
○新刊の紹介『なかった 真実の歴史学』第六号
○壬申の乱の謎  千歳市 今井俊圀
○伊倉 10 ─天子宮は誰を祀るか─  武雄市 古川清久
○連載小説「彩神」第十四話 梔子(1) 深津栄美
○古田史学の会 第十五回定期会員総会の報告
○「白雉二年」奉納面メール談論  豊中市 大下隆司/川西市 正木 裕
○古田史学の会 関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○〈DVD〉「東京古田会News」のご紹介
○『古田史学会報』原稿募集


第216話 2009/07/19

太宰府条坊の再考

 昨日の関西例会には遠く中国は曲阜の大学に留学されている青木さんが参加されました。中国での古代日本に関する研究動向などもうかがうことができ、貴重な一日となりました。
 研究発表でも正木さんから、新聞でも報道された韓国の扶余出土「那尓波(なにわ)連公」木簡の表記時期が『日本書紀』天武10年の「難波連」賜姓記事よりも早い可能性が高いことを指摘され、この史料事実は九州王朝説に有利であるとの注目すべき見解が発表されました。詳細は会報で発表予定です。
 伊東さんからも、太宰府条坊研究の最新状況が報告されました。その中でも特に興味をひかれたのが、大宰府政庁遺構や観世音寺遺構の中心軸が条坊とずれているという報告でした。すなわち、大宰府政庁や観世音寺よりも条坊の方が先に作られたという、井上信正氏の研究が紹介されたのですが、この考古学的事実は九州王朝の太宰府建都に関する私の説(「よみがえる倭京(大宰府)」『古田史学会報』No.50、2002年6月)の修正を迫るもののようでした。
 その後、伊東さんの資料をコピーさせていただき、井上論文などを読みましたが、大変重要な問題を発見しました。今後、研究を深めて発表したいと思います。
 なお例会での発表は次の通りです。

〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕
○研究発表
1).「自悪其名不雅」考 再び(向日市・西村秀己)
2).月は女神、月読尊は男・他(豊中市・木村賢司)
3).韓国・扶余出土木簡の衝撃─やはり『書紀』は三四年遡上していた─(川西市・正木裕)
4).「年輪年代法」と法隆寺西院伽藍2(たつの市・永井正範)
5).淡路島考その2─国生み神話の「淡路洲」は九州にあった─(姫路市・野田利郎)
6).太宰府の条坊(生駒市・伊東義彰)
7).天武十年十月二五日、天皇は何を諸臣に聞いたか(川西市・正木裕)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・『二中歴』年代歴の「年始」について・他(奈良市・水野孝夫)


第215話 2009/07/12

白雉二年銘奉納面の「吉日」表記

 6月28日には名古屋で古田史学の会・東海主催の講演を行い、その後、仕事で中国上海に出張し、帰国後すぐの7月4日は古田史学の会・四国主催の講演を行うという、ハードスケジュールが続きました。やっと、一段落ついてきましたので、ちょっと気にかかっていた問題に取り組みました。
 このコラムでも紹介しました愛媛県西条市の福岡八幡神社にある白雉二年銘奉納面についてです。松山市での講演会でも質問されたのですが、奉納面に記されている「奉納 白雉二年 九月吉日」という文章の「吉日」という表記様式が、古代にまで遡れるものかどうかという問題でした。
 しかし、その心配は杞憂のようでした。例えば『日本書紀』でも「吉日を選びて齊宮に入り」「吉日をうらなへて」(神功紀)とか、「吉日を告げしめたまふ」(履中紀)などのように神事に関する記事で使用されていますし、奈良文化財研究所の木簡データベースにも、前後の文字が不明のためどのような文脈かはわかりませんが、「吉日」(平城宮出土)と記された木簡が見られます。
 このように、8世紀の文献や木簡に「吉日」という表記が使用されていることから、白雉二年(653)に「吉日」という表記様式があっても全く問題とするにあたらないでしょう。従って、同奉納面が九州年号史料としての貴重なものである可能性は十分と思われるのです。


第214話 2009/07/11

古田史学の会運営体制の変更

 6月21日に開催された古田史学の会定期会員総会にて、役員人事と運営体制の変更が会則変更と共に承認されました。従来の事務局体制を任務分割し、中心的事務を取り扱う総務に大下さんが就任されました。そして、横田さんはインターネット担当、わたしが『古田史学会報』編集担当となりました。従って、これまでの「事務局長」「事務局」といった名称・組織は無くなりました。
 役員人事では、亡くなられた飯田さんに替わって小林嘉朗さんが太田さんと共に副代表に新たに就任されました。これらの体制変更により、本会の運営体制が強化され、一層会員の皆さんの要望に応えられ、力強い活動が可能となりました。
 そのため、当コラムも「古賀事務局長の洛中洛外日記」改め「古賀達也の洛中洛外日記」とさせていただきました。これからも頑張って続けて行きますのでよろしくお願い申し上げます。なお、総会当日の午前中に行われた関西例会の発表は次の通りでした。

〔古田史学の会・6月度関西例会の内容〕
○研究発表
1).歯が立たなかった「中国史書」(豊中市・木村賢司)
2).「仮名日本紀」の「粛慎・蝦夷」(木津川市・竹村順弘)
3).広瀬・竜田を疑う─「祭広瀬・竜田神」は九州王朝の祭礼─(川西市・正木裕)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・『聖徳太子伝私記』の「西国四天王寺」・他(奈良市・水野孝夫)


第213話 2009/06/07

『古田史学会報』92号の紹介

 『古田史学会報』92号を印刷中、近日発行予定です。6月21日は大阪市で会員総会を開催します。総会に先だって、古田先生から御挨拶と近況報告があります。わたしも「白雉二年」銘奉納面調査報告と『無量寺由来』(今治市)の史料批判を発表します。

 『無量寺由来』は松山市の合田さん(古田史学の会・全国世話人)から写真撮影したものを送ってもらったのですが、分析の結果、驚くべき展開となりまし た。九州王朝と越智の国、そして難波宮の予想外の関連が浮かび上がってきたのです。発表をお楽しみに。なお、掲載論稿は次の通りです。

『古田史学会報』92号の内容
○「大長」末の騒乱と九州王朝の消滅
—「官軍雷撃、凶賊霧消」記事の真相— 川西市 正木 裕
○熟田津村の石湯の実態とその真実(其の一) 西条市 今井  久
○『続日本紀』「始めて藤原宮の地を定む」の意味 川西市 正木 裕
○淡路島考(その一)
—国生み神話の「淡路洲」は瀬戸内海の淡路島ではない— 姫路市 野田利郎

○孔子の二倍年暦についての小異見 福岡市 棟上寅七
○「梁書」における倭王武の進号問題について/
 臣下から「日出処天子」への変貌をもたらしたものは何か
 〜古田説の検討を中心として(後編) 柏原市 菅野 拓
○法隆寺移築考 京都市 古賀達也
○古田史学の会 二〇〇九年度報告会・総会のお知らせ
   古田武彦氏 御挨拶と「飛鳥」調査のお礼
     古賀達也氏 「白雉二年」銘奉納面調査報告
○古田史学の会 二〇〇九年度会費お支払いのお願い
○古田史学の会 関西例会のご案内


第212話 2009/05/23

法隆寺と若草伽藍跡の中心軸

 5月16日の関西例会では、偶然にも法隆寺に関わる研究がいくつか発表されました。その中でも、わたしが改めて注目したのが竹村さんのレジュメにあった法隆寺と若草伽藍跡の地図でした。

 7世紀に焼失した旧法隆寺である若草伽藍跡の中心軸が南北軸から20度ほど傾いており、これは恐らく当時の条里制に沿ったものと思われますが、8世紀初頭に移築された現法隆寺は中心軸がほぼ南北となっており、この差異は単に再建(実は九州王朝寺院の移築)と称すべきではなく、寺院建築思想に大きな変化が生じたものと解すべきと思われました。
 九州王朝説では、法隆寺の釈迦三尊像は九州王朝の天子、多利思北孤がモデルであると考えられ、「天子は南面する」という思想に基づいて南北に中心軸をも つ伽藍配置だったと推定されます。ですから、移築の際にも焼失した若草伽藍の配置とは位置も中心軸もずらされたのです。
  今後の法隆寺研究にはこうした視点が必要だと、竹村さんのレジュメを見て感慨を深めました。例会の発表内容は次の通りです。

 〔古田史学の会・5月度関西例会の内容〕
○研究発表
1).大湖望「桜庵」と大湖望「紅葉庵」・他(豊中市・木村賢司)
2).『謡曲の中の九州王朝』の検討(大阪市・中山省吾)
3).淡路島考(その一)(姫路市・野田利郎)
4).ロドリゲスの九州年号・他(木津川市・竹村順弘)
5).観世音寺出土の川原寺式軒丸瓦(生駒市・伊東義彰)
6).「公地公民」と「昔在天皇」(川西市・正木裕)
7).「年輪年代測定」と法隆寺西院伽藍(たつの市・永井正範)
8).倭建と応神帝(大阪市・西井健一郎)
 ○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・飯田氏の法隆寺研究追跡・他(奈良市・水野孝夫)


第211話 2009/04/26

「古田史学の会・関西」

史跡めぐり100回の偉業

 古田史学の会・関西の史跡めぐりは、4月で第100回を迎えました。それを記念して、4月18日の関西例会では木村賢司さん手作りの「史跡めぐり写真集」が回覧されました。みんな若かった頃の写真もあり、大変懐かしく拝見しました。大下事務局次長からも、訪れた史跡の一覧と地図が発表され、本当に関西 各地をめぐられたのだなあと驚愕しました。
 何より、史跡めぐりを企画担当された小林さんの博学な史跡の知識と綿密周到な企画力、そして情熱と行動力の賜と言わねばなりません。こうした偉業を達成されたことを祝賀し、これからも無事故で継続されることを願っています。
 4月例会での発表は次の通りで、正木さんの快調な発表ペースには驚かされました。         

〔古田史学の会・4月度関西例会の内容〕
 ○研究発表
1) 蛇足の小屋(生涯最後の小屋)(豊中市・木村賢司)
2) 「史跡めぐり写真集」と「古田先生の写真集」のコメント(豊中市・木村賢司)
3) 続日本紀のヤマトタケルとタケノウチ(向日市・西村秀己)
4) 大宮姫伝説と九州王朝の最後(木津川市・竹村順弘)
5) 白雉二年奉納面の報告(京都市・古賀達也)
6) 「大長」末の争乱と九州王朝の消滅(川西市・正木裕)
7) 大化改新異論(川西市・正木裕)
 ○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・東大寺ビンズル尊者像は何を示すか・他
 (奈良市・水野孝夫)
 ○大下事務局次長報告
関西例会2008年度決算・活動報告、史跡巡り100回のまとめ
 (豊中市・大下隆司)


第210話 2009/04/11

『古田史学会報』91号の紹介

 『古田史学会報』91号の編集が終わり、近日発行予定です。会報90号で正木さんが紹介された愛媛県丹原町福岡八幡神社蔵の「白雉二年」銘奉納面を4月 4日の古田史学の会・四国主催調査旅行で拝観することができました。肉眼では見えにくかった文字がデジカメのディスプレイ画像ではハッキリと観察すること ができました。本ホームページに掲載できればと思っています。その調査報告を今号で行いました。掲載論稿は次の通りです。

『古田史学会報』91号の内容
○拝観、「白雉二年」銘奉納面─愛媛県丹原町福岡八幡神社蔵─ 京都市 古賀達也
○盗まれた「国宰」 川西市 正木裕
○「長柄」地名考  生駒市 伊東義彰
○伊倉9─天子宮は誰を祀るか─  武雄市 古川清久
○無礼講***古田武彦『古代は輝いていた』より***  深津栄美
○「梁書」における倭王武の進号問題について/臣下から「日出処天子」への変貌をもたらしたものは何か〜古田説の検討を中心として(前編)  柏原市 菅野 拓
○倭王の「系図」と都域  京都市 古賀達也
○『古代に真実を求めて』十二集(明石書店)発行
○古田史学の会・書籍部 書籍特価販売のお知らせ
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内


第209話 2009/04/07

『古代に真実を求めて』12集発行
 古田史学の会編『古代に真実を求めて』12集が明石書店より刊行されました。古田史学の会2008年度賛助会員には1冊進呈します。近日中にもお手元に届きます。

 今号も古田先生の講演録・論文を初め、会員による研究論文が満載です。ご期待下さい。
 
◎講演録
 九州王朝論の独創と孤立について/古田武彦
◎研究論文
 生涯最後の実験/古田武彦
 真実の「アイヌ人・アイヌ語」/佐々木広堂
 よみがえる倭京/古賀達也
 前期難波宮は九州王朝の副都/古賀達也
 「白村江」後の倭の防衛戦略/田中敬一
 不破道を塞げ 二/秀島哲雄
 太宰府政庁跡遺構の概略/伊東義彰
 「持統紀」はなかった/飯田満麿
 藤原宮と「大化の改新」/正木裕
 「奴」をどう読むか/棟上寅七
 「越智系図」における越智益躬の信憑性/八束武夫
 沖ノ島/伊東義彰


第208話 2009/03/22

快調、正木さんの研究発表

 昨日の関西例会では正木さんが4件のレジュメを用意され、時間の都合でその内の3テーマを発表されました。驚異的な研究速度ですが、内容も鋭い視点から『日本書紀』や『続日本紀』の謎とされてきた部分を多元史観で読み直すというものでした。論文での発表が期待されます。

 竹村さんも物部の問題を『先代旧事本紀』などから考察するというもので、わたしも同様の研究を進めていただけに、興味深く拝聴しました。これから二人で『先代旧事本紀』の研究をしませんかと提案しました。
 永井さんは前回に引き続き、短里問題を扱われ、始めて地球の大きさを計算した人物(エラトステネス)や日本人で始めて計算した伊能忠敬の業績や測定方法の紹介など、勉強になる発表でした。
 関西例会は知的好奇心を刺激されるテーマと研究が満載です。まだの方も是非参加されませんか。恒例の二次会もまた楽しいものです。
 
〔古田史学の会・3月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 余録か、蛇足か、(豊中市・木村賢司)
2). 「地球の大きさ」と「測定単位」(たつの市・永井正範)
3). 九州王朝と物部守屋(木津川市・竹村順弘)
4). 交野山・このざん・このさん(交野市・不二井伸平)
5). 愛知県刈谷市の天子神社と海士族の伝播(岐阜市・竹内強)
6). 新・「冨士」山名考(京都市・古賀達也)
7). 天武九年に「病したまふ天皇」─善光寺文書の「命長の君」の正体─(川西市・正木裕)
8). 壬申乱以後の権力の中心はどこか(川西市・正木裕)
9).『続日本紀』「始めて藤原宮の地を定む」の意味(川西市・正木裕)
○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・鹿児島県の諏訪神社・他(奈良市・水野孝夫)


第207話 2009/02/28

九州王朝の物部

 2月21日の関西例会で、わたしは九州王朝の一時期の王が物部であったとする仮説を発表しました。根拠の一つは、記紀に特筆されている「磐井の乱」を物部アラカイが平定したとする記事の目的は、701年以前に九州を統治していた物部は、継体天皇の時に近畿から派遣した物部の末裔とすることにあった、と考えざるを得ないという点です。
 まだ論証不十分な仮説ですが、発表の翌日に古田先生の御意見をうかがったところ、ほぼ同見解であるとのことで、意を強くしました(もちろん異なっている点もありました)。とは言っても、まだ検証しなければいけない問題もあり、慎重に扱うべきテーマでもあります。
 2月例会の発表は次の通りでした。木村さんの「共存共枯(衰)」という発表は現在の派遣切りなどに対する厳しい批判で、まったくその通りと思いました。関西ハイキングが4月で100回を迎えることになり、小林さんからはその計画発表があり、感慨を深くしました。古田史学の会と関西例会の益々の発展を願って止みません。

〔古田史学の会・2月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 共存共枯(衰)(豊中市・木村賢司)
2). お伽話と歴史─一寸法師と近畿王朝─(向日市・西村秀己)
3). 四人の倭建(大阪市・西井健一郎)
4). 九州王朝と和名抄(木津川市・竹村順弘)
5). 関西ハイキング100回記念「吉備遺跡めぐり」の案内(神戸市・小林嘉朗)
6). 『海島算経』の短里(たつの市・永井正範)
7). 「磐井の乱」はなかったか─『古事記』継体記の史料批判─(京都市・古賀達也)
8). 常色五年(651・書紀白雉二年)の九州王朝の歴史について(川西市・正木裕)

○水野代表報告
 古田氏近況・会務報告・明日香発掘現地説明会・他(奈良市・水野孝夫)