第334話 2011/08/21

『古田史学会報』105号の紹介

 8月8日発行の『古田史学会報』105号を御紹介します。今号でも上城稿や水野稿など紙上論争が掲載されており、中でも上城稿は会内での活発な論争を提唱されています。読者にとっても興味深い論争が展開されると思いますし、最新の研究の問題点や争点が明確になることも学問的に有益なことです。
 大下さんからは久留米大学公開講座での古田先生の講演要旨が報告されました。古田先生の最新の研究動向や問題意識に触れることができるので、ありがたい報告です。来春発刊予定の『古代に真実を求めて』15集には、詳細な講演録を掲載することを検討していますので、お楽しみに。なお、『古代に真実を求め て』15集の原稿受付締め切りも間近です。こちらにもふるってご投稿下さい(水野孝夫まで)。

『古田史学会報』105号の内容
○論争のすすめ 福岡市 上城誠
○古歌謡に現れた「九州王朝」の史実  世田谷区 西脇幸雄
○斎藤里喜代さんへの反論  奈良市 水野孝夫
○「橿(モチのキ)はアワギ」の発見  大阪市 西井健一郎
○古田武彦講演「九州王朝新発見の現在」要約  文責 大下隆司
○『古田史学会報』原稿募集
○古田史学の会会員総会の報告
○「星の子」(3)  深津栄美
○クマソタケルは女だった  西村秀己
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内


第333話 2011/08/14

靖国神社参詣

 先週の8月9日、仕事で市ヶ谷に行った折、少し時間ができましたので猛暑の中、靖国神社を初めて訪れ参詣しました。歴史の研究調査で 日本各地の神社や仏閣を訪問参詣する機会が多いのですが、靖国神社だけは今まで行ったこともなかったのです。古代史とはあまり関係がなさそうということが、その理由でしたが、 日本思想史学や近代史の問題として、あるいは明日の終戦記念日に象徴される現代の問題と最も深く関わっている神社なのですから、どうしても一度は行かなければならないとも感じていたのでした。
 わたしが二十代の頃は、ご他聞にもれず「戦後民主教育」の影響により、靖国神社といえば「右翼」「軍国主義」の象徴という感覚と、他方、御国のために若くして戦没された特攻隊員のことを思うと粗末には扱えないなといった複雑な、あるいは宙ぶらりんの認識に留まっていました。
 その後、古田先生に歴史学や思想史学を学び、少しずつ認識を深め、かつ改めたのですが、決定的認識の変化をうながされたのが、古田先生の論文「靖国参拝の本質ーー「結恨横死」論」(『古田史学会報』46号、2001年10月)でした。
 同論文中の「A級戦犯。わたしは『この人々の霊を、断乎、靖国神社に祀るべし。』そう考える。なぜなら、右にあげたように『結恨横死の霊』こそ祀らるべきなのである。幸福な人生を遂げ、衆人の賛美の中にその十全の人生を過ごした人々より、この『結恨横死』の人々こそ祀らるべきだ。それが真実の宗教である。」や「天皇の任務。近年、『靖国参拝』問題が首相に関して語られること、不審だ。なぜなら、誰人よりも、この参拝をなすべきは、天皇その人である。靖国に祀られている人々は『天皇の名によって』戦い、死んだ人々だからである。外国の批議や非難を恐れ、参拝したり、中止したりする、いわゆる『A級戦犯の合祀』で、また態度を変える。醜い。」とする古田先生の指摘は衝撃的でした。
 あるいは、「『A級戦犯』というのは、政治だ。これに対し、『祭祀』は宗教である。政治を宗教に優先させる。これは天下の邪道だ。近代国家の傲慢である。 宗教は、政治の外、政治の上に立つ。これが人類史の到達してきた道標である。」という思想史学的考察には、さすがは古田先生だと思いました。
 これらの問題は人それぞれ意見が異なると思いますが、人類の歴史的普遍性を持った考察と思想性の観点が必要と思われ、古田先生の論文はとても示唆的です。


第332話 2011/08/13

「海行かば」の王朝

 第331話で、さだまさしさんの名曲「防人の詩」に触れましたが、わたしはさださんのような作詩の才能や歌心はありませんから、『万葉 集』は専ら古代史研究の史料として読んでしまいます。そんな『万葉集』研究において、初めての古田先生との共著『「君が代」うずまく源流』(新泉社、 1991年)に収録していただいた論文が『「君が代」「海行かば」、そして九州王朝』で、初期(35歳の時)の論文でもあり、とても想い出深い一冊です。
 大伴家持の歌として有名な「海行かば水浸く屍 山行かば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ 顧みはせじ」は『万葉集』巻十八(4094)の長歌の一節ですが、『続日本紀』天平21年四月条の聖武天皇の宣命中にも同じ様な歌が見えます。
 わたしは先の論文で、この歌は水軍を持たない大和朝廷の歌ではなく、大君と共に、海に山に最前線で戦い続けた大伴一族が歴代の倭王に捧げた歌であり、すなわち九州王朝に捧げられた歌であると結論づけました。稚拙な論証を積み重ねた若い頃の論文ですが、その論証自体は成立していると、今でも自信をもっています。
 共著者の内、古田先生を除く灰塚照明さんと藤田友治さんは既に他界されています。ちょっぴり淋しい想い出も持った一冊なのです。


第331話 2011/08/13

防人の詩

 EXILE魂というテレビ番組に、さだまさしさんがゲストで出ていました。同じ九州出身ということもあって、私はさださんの歌を学生時代から よく聞いたり歌ったりしていました。番組ではさださんの名曲「防人の詩」をエグザイルのメンバーが歌っていましたが、久しぶりに聞いて、いい曲だなあと改めて感動しました。
 この曲の詩は『万葉集』の歌に触発されて作られたと聞いていますが、恐らくそれは『万葉集』巻一六の3852番歌「鯨魚(いさな)とり 海や死にする山や 死にする死ぬれこそ 海は潮干(しほひ)で山は枯れすれ」の歌だったと思います。岩波古典文学大系『万葉集』の頭注には次のように大意が記されています。

「(問)海は死ぬだろうか。山は死ぬだろうか。
(答)死ぬからこそ、海は潮が干るし、山は草木が枯れるのに。」

 古代日本列島の人々の死生観の一つが歌いこまれたものと思いますが、さださんの「防人の詩」の最後のフレーズを今聴くと、震災と津波、そして原発事故で苦しんでいる東北の大地や海の姿とオーバーラップして、涙が出てきます。それは、次のフレーズです。

「海は死にますか 山は死にますか 
春は死にますか 秋は死にますか 
愛は死にますか 心は死にますか 
私の大切な故郷もみんな逝ってしまいますか」

 一日も早く東北の大地が徐染されることを願わずにはいられません。
 一日も早く東北の大地が徐染されることを願わずにはいられません。


第330話 2011/08/07

「ウィキペディア」の史料批判(3)

 第328話で、ウィキペディアの「九州王朝説」の解説に見える「いかがわしい表現」として「九州王朝の歴史を記した一次史料が存在しない。」を指摘しましたが、もう少し具体的に批判したいと思います。
 ここでいわれている「一次史料」の定義が問題なのですが、その後の文章に「記紀や支那や韓国の歴史書等に散見される間接的な記事」などに九州王朝説の論拠が止まっているとしたり、「この直接的記録が無いことが、九州王朝否定論の論拠の一つ」という記述が見られることから、彼らのいう「一次史料」とは九州王朝自身による自らの歴史書の類であるようです。
 この主張は一見もっともらしく見えますが、学問的にはまったくダメです。およそ理系や世界の歴史学の分野では通用しない主張で、いわば「死人に口無し」 論法ともいうべき詭弁なのです。たとえば世界の古代史では自らが編纂した歴史書や文字史料がない文明や王朝の遺跡や痕跡はいくらでもあり、それらは学問的にきちんと「文明」「王朝」の実在を認められています。世界の歴史学はそのレベルに達しているのです。
 大和朝廷に滅ぼされた九州王朝の歴史書が残っていないから九州王朝は存在しなかったというのは、まさに「死人に口無し」を利用した非学問的な暴論に過ぎません。しかし、こうした彼ら(大和朝廷一元史観に立つ「日本古代史」村)の主張も実は虚偽情報(ウソ)なのです。というのも、九州王朝の歴史や実在を記録した一次史料として、隣国の中国正史に「倭人伝」「倭国伝」として九州王朝のことを延々と記録してくれているからです。その中には大和朝廷の記紀よりも成立が古く、同時代史書もあるのです。
 例えば『後漢書』倭伝には倭奴国に金印を授与したと記していますが、その金印は大和ではなく北部九州の志賀島から出土しています。『宋書』倭国伝には宋と交流した歴代倭王の名前を記しており、いずれも大和朝廷には存在しない名称です。『隋書』イ妥国伝には同国が『後漢書』にある倭国から連綿と続いた王朝であり、その王の名前はタリシホコであり、その地には阿蘇山があると記しています。これらは全て記紀よりも成立が古く、こと日本列島に関する記録としては 客観的で、信頼性が高いのです。
 更に『旧唐書』では倭国伝と日本国伝を併記しており、倭国は古の倭奴国であり、他方、日本国は倭国の別種でもと小国だったが倭国の地を併せたと、日本列島内での王朝の交代までも記録しているのです。これらの記録こそ九州王朝の歴史を記した一次史料なのです。これらを「間接的な記事」と称して無視したり、「この直接的記録が無いことが、九州王朝否定論の論拠の一つ」と言うに及んでは、開いた口が塞がりません。
 これらを犯罪捜査の例でいうならば、殺された九州さん自身の直接証拠はないから、容疑者の大和さんの証言(『古事記』『日本書紀』)のみを採用し、事件はなかったことにするというものです。しかも隣人の目撃証言(歴代中国史書)や隣家の防犯カメラの画像記録(同時代一次史料)をすべて無視ないし軽視するという、とんでもない捜査方法なのです。
 福島原発事故以来、わが国では「原子力村」による「安全神話」がウソであったことが白日の下にさらけ出され批判されていますが、「日本古代史」村の「大和朝廷一元神話」も、いつの日かその虚構が国民周知のものとなり、批判を浴びる日が来ることでしょう。


第329話 2011/07/31

小松左京さんと古田先生

SF文学の巨匠、小松左京さんが亡くなられました。『日本沈没』を初め数々の名作を遺されま したが、オールド古田ファンなら、小松さんが古田先生の支持者であったことをご存じのことと思います。文学界にも古田ファンは少なくありませんが、司馬遼 太郎さんのエッセイにも古田先生は登場しますし、特に小松さんは古生と懇意にしておられたようです。
天才的な作家と歴史家とは相通ずるものをお互いに感じておられたのでしょう。その小松左京さんと古田先生との対談が『邪馬一国への道標』(講談社、 1978年刊)に収録されています。同書は今では古書店でも入手困難ですから、新しい古田ファンはご存じの方が少ないかもしれません。
1977年10月6日に行われたこの対談は、予定されていた2時間の倍近くの時間が過ぎたとのことで、「夢は地球をかけめぐる−小松左京さんと語る−」 というテーマで収録されています。内容は、古代における地球規模の人類の移動と交流についてで、次のような内容で対談が始まります。

小松「今度の本は、ほんとに東アジア古代史の謎の一番チャーミングなところを全部、古田さんにさらわれちゃった、という感じですね」
古田「いや、いや。わたしこそ、小松さんの小説『東海の島』(『最後の隠密』立風書房所収)というのを見せていただいて、びっくりしました。殷末の中国 人が山東半島から倭人たちの島に向う、という発想で、あんなに早く書いておられたとは、全く知りませんでした。」

同書にはお二人の若い頃の写真も掲載されており、感慨深いものがあります。心より、小松左京さんのご冥福をお祈り申し上げます。


第328話 2011/07/30

「ウィキペディア」の史料批判(2)

 第326話では犯罪捜査を例にして「史料批判」について説明しましたが、ウィキペディアの「九州王朝説」の説明には次のようなことが記されています。

「古田武彦やその支持者が史料批判など歴史学の基礎手続きを尊重していない。日本古代史学界の研究成果に合わない。」

 わたしはこの一文を読んで思わず吹き出してしまいました。既に説明しましたように、古田史学・多元史観は、大和朝廷が自らの為に自らが造った『古事記』 『日本書紀』を史料批判抜きで採用して造られた大和朝廷一元史観に対して、史料批判ができていないと批判しているのであり、従ってそれら日本古代史学界の 結論(研究成果)とと合わないのは当たり前のことなのです。
 ウィキペディアの解説は巧みに「中立」を装いながら、「自分達の説と異なるから間違っている」と言っているのと同じで、こうした反論や批判は非学問的で す。もし古田説が通説の研究成果と異なるというのであれば、どちらが正しい史料批判を行っているのかを解説するべきでしょう。あるいは史料批判の方法論に ついて両論併記するべきです。
 恐らく、ウィキペディアの「九州王朝説」の編集者達には学問の方法や史料批判という言葉の意味が理解できていないようです。ウィキペディア編集の匿名 性・密室性・多数決性(賛成者と反対者の編集合戦)がこのような無責任編集を結果として許しているのですが、これは利用する側の「見る目」の問題でもある と思います。学問は多数決ではないのですから。
 たとえば、コペルニクスやガリレオの時代にウィキペディアのような「事典」があったとしたら、次のような表現になるのではないでしょうか。

「コペルニクスやガリレオの地動説は、天体観測という基礎手続きを尊重していない。ローマ法王庁公認の天文学界の研究成果である天動説と合わない。」

 これと同じくらい、ウィキペディアの「九州王朝説」の解説はいかがわしいものなのです。
他にもいかがわしい表現があります。「九州王朝の歴史を記した一次史料が存在しない。」「この直接的記録がないことが、九州王朝否定論の根拠の一つ」と う部分です。これを読むと、いかにも九州王朝の存在を示す証拠は無いかのように受け取られるのですが、これも事実無根の虚偽情報です。
 わたしはこれまでに九州年号の存在を示す金石文や木簡を提示し続けてきました。芦屋市三条九ノ坪遺跡出土の「元壬子年」木簡もその一つです。『日本書紀』孝徳紀の白雉三年壬子ではなく、『二中歴』などの多くの九州年号史料に記された白雉元年壬子の方が真実であったことを、この「元壬子年」木簡は示しており、いわば九州年号木簡そのものなのです。しかし、九州王朝説否定派はこの木簡について一切口を閉ざしたままで、ダンマリを決め込んでいます。もちろん、ウィキペデイアの「九州王朝説」の解説でも取り上げられていません。たいへん卑怯な編集・情報操作の一例と言えるでしょう。
 もっとも、ウィキペディアの史料性格上、将来的には違った表記・評価に変化するかもしれませんが、恐らくそれは古田史学が世に受け入れられた時のことと 思います。その日が訪れるまで、わたしたち古田学派は一切ぶれることなく、「日本古代史」村の一元史観と戦い続けなければなりません。こうした名誉ある運命と歴史的使命を持っているのです。(つづく)


第327話 2011/07/23

野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇

 7月16日の関西例会で、わたしは野中寺の弥勒菩薩銘にある「中宮天皇」を九州王朝の天子 (薩夜麻)の奥さんのこととする、仮説以前のアイデア(思いつき)を発表しました。中宮天皇の病気平癒を祈るために造られた弥勒菩薩像のようですが、銘文中の中宮天皇について、一元史観の通説では説明困難なため、偽作説や後代造作説なども出ている謎の仏像です。
 造られた年代は、その年干支(丙寅)・日付干支から666年と見なさざるを得ないのですが、この年は天智5年にあたり、天智はまだ称制の時期で、天皇にはなっていません。斉明は既に亡くなっていますから、この中宮天皇が誰なのか一元史観では説明困難なのです。
 従って、大和朝廷の天皇でなければ九州王朝の天皇と考えたのですが、この時、九州王朝の天子薩夜麻は白村江戦の敗北より、唐に囚われており不在です。 そこで、「中宮」が後に大和朝廷では皇后職を指すことから、その先例として九州王朝の皇后である薩夜麻の后が中宮天皇と呼ばれ、薩夜麻不在の九州王朝内で代理的な役割をしていたのではないかと考えたのです。(不改常典については別に紹介したいと思います)
まだまだアイデアレベルの作業仮説ですので、間違っているかもしれませんが、皆さんのご意見を聞くために発表しました。
7月例会の発表は下記の通りですが、西村さんの隼人研究のための現地調査報告は歴史研究の王道とも言うべき取り組みで、「歴史は脚にて知るべきものなり」(秋田孝季)を実践されたものです。また、岡下さんの作成された資料は、鏡の銘文の裏文字・左文字を抜粋されたもので、なかなかの労作です。今後の銘文研究に役立つことが期待されます。
〔古田史学の会・7月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). 竹村順弘氏作成資料の解説(向日市・西村秀己)
2). 鹿児島旅行の報告(隼人調査)(向日市・西村秀己)
3). 女多男少(京都市・岡下英男)
4). 『古鏡銘文集成』の裏文字銘文(京都市・岡下英男)
5). 古代大阪湾の新しい地図 難波(津)は上町台地になかった(豊中市・大下隆司)
6). 古田史学の会総会出席雑感メモ(豊中市・木村賢司)
7). 伊勢王と明日香皇子の歌(川西市・正木裕)
8). 百済大寺・高市大寺・大官大寺について(川西市・正木裕)
9). 中宮天皇と不改常典(京都市・古賀達也)
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田氏近況・会務報告・役行者伝説の山々は大隅半島か・他(奈良市・水野孝夫)

第326話 2011/07/17

「ウィキペディア」の史料批判(1)

 7月2日、松山で講演してきました(古田史学の会・四国主催)。その冒頭で「ウィキペディア」の史料批判というテーマを少しお話ししたのです が、そこでの眼目は歴史研究における「史料批判」とは何かという問題でした。古田先生も『東京古田会NEWS』No.138(2011年5月)掲載の「学問論 第26回」で『「史料批判」の史料批判』というテーマで、ウィキペディアの「九州王朝説」について取り上げられていますが、そもそも史料批判とは何かということについて、古田史学以外の古代史ファンには意外と理解されていないようです。
 松山の講演会では、犯罪捜査を例にして史料批判の説明をしたのですが、歴史研究も犯罪捜査も過去に起きた事件について、証拠や証言に基づいて真実を明らかにするという点に於いて共通する性格を持った仕事(学問研究)だからです。
 たとえば、ある家(日本列島)に大和さん(大和朝廷)が住んでいますが、九州さん(九州王朝)がその家の主は元々は私で、大和さんに家を乗っ取られたと 警察に訴えたとしましょう。当然、警察は大和さんに事情聴取するでしょう。当然のことです。そこで大和さんは大昔からこの家の主人はわたしで、九州さんなんて見たことも聞いたこともないと証言(『古事記』『日本書紀』)します。
 次に警察はご近所に聞いて廻るでしょう。これも当然の捜査手法です。隣に住んでいる隋さんや唐さんに聞いたところ、この家のもともとの主人は九州さん で、大和さんは小部屋を間借りしていたが、いつのまにか九州さんを追い出していたと唐さんは証言(『旧唐書』倭国伝・日本国伝)し、隋さんはここに住んでいた人の名前はタリシホコさんで、お互い手紙のやりとりもしていたと証言(『隋書』イ妥国伝)しました。大和さんの証言では、大和家にはタリシホコなどという名前の人物はいません。
 さて、皆さんならこの事件について誰の証言を重視しますか。信用しますか。当然、利害関係の無い第三者である隣人の目撃証言や手紙を重要証拠として採用するでしょう。まかり間違っても、訴えられている被疑者の大和さんの証言(『古事記』『日本書紀』)を無批判に信用されることはなく、まずは正しいかどうか疑ってかかられると思います。この「誰の証言・証拠が信用できるのか、より真実を証言しているのか」を判断することが、歴史研究における史料批判なのです。ここを間違えると、犯人を取り逃がしたり冤罪事件が発生しますから、警察や裁判所は慎重に科学的学問的に捜査・審議するのです。
 この事件で言えば、大和朝廷一元史観の日本古代史学界は、大和さんの証言のみを無批判に採用し、隣家の目撃証言や証拠を不採用にしているわけですが、より客観的で利害関係のない隣国史料を重視するという古田先生の史料批判の方が優れており、学問的であることは決定的なのです。


第325話 2011/07/09

青田勝彦さん、来阪

6月19日に開催された古田史学の会定期会員総会に、福島県南相馬市の青田勝彦さん(古田史学の会・全国世話人)が見えられました。 青田さんは古田史学の会設立時からの草創の会員です。「市民の古代研究会」理事会が古田支持派と反古田派に分裂したときの会員総会に福島から出席され、帰 り間際に「古賀さん頑 張って下さい」と少数派になり関西で孤立していたわたしを激励していただいたのが、青田さんとの出会いでした。そして、古田史学の会創立から今日まで、共 に古田史学のためにご尽力いただいた魂の同志のお一人なのです。
その青田さんとは3月11日の大地震と大津波以後、一時期連絡がとれなかったのですが、青田さんのお話によると、地震と津波には何とか耐えたけれども、 その後の原発事故の発生で「もうだめだ」と思い、ご家族5人で宮城県へ車で逃げたとのこと。福島原発の爆発音が南相馬市まで聞こえたとのことですから、そ のときの驚きは想像を絶するものと思います。
今はご友人のすすめもあり、滋賀県大津市に避難されています。落ち着かれたら関西例会にも参加していただけるとのことで、草創の同志と会えた喜びと、災 害の甚大さやご苦労を思うと、複雑な気持ちです。ちなみに、青田さんは宮城県へ避難するとき、限られた持ち出し荷物の中に、古田先生の著書40冊を入れら れたそうです。さすがは筋金入りの古田ファンです。
会員総会の午前中に行われました関西例会の内容は次の通りです。太田副代表は久々のご出席で、お元気そうで何よりでした。
〔古田史学の会・6月度関西例会の内容〕
○研究発表
1) 『東日流外三郡誌』の津波記事(奈良市・太田斉二郎)
2) 百済寺・大官大寺移築説(川西市・正木裕)
3) 板付水田遺跡は弥生か縄文か(知多郡阿久比町・竹内強)
○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
    古田氏近況・会務報告・「出雲国」は島根県か?・他(奈良市・水野孝夫)

第324話 2011/07/2

『古田史学会報』104号の紹介

 少し遅くなりましたが、6月5日発行の『古田史学会報』104号を御紹介します。今号の冒頭論文は正木さんの別系統九州年号「法興・聖徳・始哭」についての考察です。法興と聖徳は多利思北孤と利歌弥多弗利の法号とし、始哭は玉垂命の葬儀に関する記事の一部であり、九州年号ではないとするものです。一つの有力な理解と思われました。  
 西村稿と古賀稿は紙上論争です。こうした論争により、古田学派内の研究活動や会員の学問的興味が刺激されることが期待されます。  
 古谷稿は古谷さんの博学な知識に基づくもので、三角縁神獣鏡銘文の研究に寄与することが期待されます。
 野田稿は関西例会でも発表されたもので、活発な質疑応答が展開されたテーマです。古田説とやや異なる内容でもあり、今後の展開が注目されます。

『古田史学会報』104号の内容
○九州年号の別系列(法興・聖徳・始哭)について  川西市 正木 裕
○乙巳の変は動かせる — 斎藤里喜代さんにお応えする  向日市 西村秀己
○三角縁神獣鏡銘文における「母人」「位至三公」について  枚方市 古谷弘美
○銀装方頭太刀について(小松町南川大日裏山古墳出土)  西条市 今井久
○再び内倉氏の誤論誤断を質す — 中国古代音韻の理解について  京都市 古賀達也
○「帯方郡」の所在地 −倭人伝の記述する「帯方」の探究−  姫路市 野田利郎
○卑弥呼の時代と税について  中国山東省曲阜市 青木英利
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会  関西例会のご案内
○古田史学の会会員総会・記念講演会のお知らせ
○『古代に真実を求めて』第14集・正誤表


第323話 2011/06/11

空海の遺言状

 第321話「九州の語源」において、九州王朝滅亡後の天平3年(731)時点でも、九州王朝の故地である九州島は、近畿天皇家にとって 「直轄支配領域」ではなく、大宰府による「間接統治」であったと述べましたが、実はこうした認識をわたしが持ったのは今から20年も前のことでした。
 1991年、わたしは「空海は九州王朝を知っていた–多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ」(『市民の古代』第13集所収、新泉社刊)という論文を発表しました。35歳の時でした。『御遺告』とよばれる空海の遺言状には、空海の唐からの帰国年について、「大同二年、我が本国に帰る」と記されており、大同二年(807)のことと空海自らが述べているのですが、空海がその前年の大同元年(806)に九州 大宰府へ帰ってきたことは、これも空海自身の別の文書(『新請来経目録』、最澄による同時代写本が東寺に現存)から判明しています。従って、この帰国年に ついての一年の差が平安時代から問題視されてきました。
 たとえば、「大同二年」は「大同元年」の「元」の下の二点が脱落したのだろうとか、筑紫に帰ったのが「大同元年」で、京都に戻ったのが「大同二年」のことだろうとか、さまざまな解釈がなされてきました。しかし、これらに対しても、『御遺告』の全写本が「大同二年」と記されていることや、京都のことを「我が本国」とは言わないとの反論も出されてきました。
 結局この一年の差の問題は未解決のままで、挙げ句は『御遺告』偽作説が横行したほどです。
 そこで、わたしは九州王朝説の立場から、空海にとって九州は 「我が本国」とは認識されていなかった。すなわち九州島が九州王朝の故地であることを空海は知っており、空海の時代でも九州島は「本国」扱いされていなかったとの認識に達したのです。
 今回、20年前の論文を読み返してみて、若い頃の稚拙な論文ではあるものの、その論証の根幹は今でも正しいと、感慨に耽りながら確認しました。そして、 空海の超難解な漢文に苦しみながら、京都府立総合資料館で空海全集を読破したことを思い出しました。残念ながら、今ではとても体力的に困難な、若き日の研究体験の想い出です。