第3043話 2023/06/16

『全国アホ・バカ分布考』の多元史観

 ―「タワケ」「ツボケ」の分布考―

 上岡龍太郎さんが司会をしていた人気番組「探偵!ナイトスクープ」で調査した「アホ・バカ分布図」(注①)に基づき、番組プロデューサーの松本修さんが『全国アホ・バカ分布考』(注②)を上梓しました。同書の結論として、「アホ」と「バカ」の分布は柳田国男の方言周圏論で説明できるとされました。

 最初に都(京都)で成立した罵倒語の「バカ」が全国に広がり、その後、同じく京都で発生した「アホ」が周囲に広がるのですが、先に進出した「バカ」により、西は岡山県くらいで止まります。東は関ヶ原まで進むと、なぜか中部地方の「タワケ」圏に阻まれます。この「タワケ」も静岡県で止まり、それ以東の「バカ」圏に阻まれます。更に東北地方には「ツボケ」圏があり、「バカ」と混在します。しかし、この「ツボケ」は北海道には渡らないという不思議な分布を示します。このことを上岡さんは古田先生との対談で、次のように語られています。

〝これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。〟(注③)

 このように、「アホ」と「バカ」は方言周圏論で説明できそうですが、「タワケ」が「バカ」発生後「アホ」発生以前に、なぜ都ではない中部地方で発生したのかの説明は困難です。東北地方の「ツボケ」に至っては全く説明不可能です。「ツボケ」の分布も同書の調査結果によれば、岩手県は県下に広く分布しますが、青森県と秋田県は県内の一部地域の分布とされており、「ツボケ」圏の中心地は岩手県となりそうです。ですから、「タワケ」「ツボケ」は方言周圏論では説明できず、異なる歴史経緯があったと考えざるを得ません。この点、上岡さんは次のするどい見方をしています。

〝その中の地図を見てみますとですね、古代王朝があったとされるところはやっぱり特色があるんですよ。北九州、出雲、吉備、それからもちろん近畿、そいから越、これらだけは際だって言葉が違うんですよ。で、その中に東北で人をののしる時に「ツボケ」。〟(注同上)

 すなわち、この視点は「古代日本の多元的王朝論」に他なりません。罵倒語の成立や分布の研究にも、古田先生が提唱された多元史観が必要です。(つづく)

(注)
①「全国アホ・バカ分布図の完成」編(平成3年、1991年)で放送。
②松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
③「上岡龍太郎が見た古代史」『新・古代学』第1集、新泉社、1995年。


第3042話 2023/06/15

上岡龍太郎が見た古代史

 ―「アホ・バカ」「ツボケ」の分布考―

上岡龍太郎さんが亡くなられて、テレビ各局で追悼番組が放送されています。その中で必ず取り上げられるのが、上岡さんが司会をされていた名番組「探偵!ナイトスクープ」です。関西ローカルで始まった番組ですが、驚異的な視聴率を誇っていました。この番組で特集された「全国アホ・バカ分布図の完成」編(平成3年、1991年)は日本民間放送連盟賞テレビ娯楽部門最優秀賞などに輝いた日本テレビ史に残る名作でした。同番組で調査された「アホ・バカ分布図」に基づき、番組プロデューサーの松本修さんにより『全国アホ・バカ分布考』が上梓されています(注①)。
この「全国アホ・バカ分布」について、古田先生との対談で上岡さんが紹介されています。『新・古代学』第1集(注②)に掲載された「上岡龍太郎が見た古代史」です。関係部分を要約して転載します。

【以下、転載】

父祖の地足摺は侏儒国やないか

上岡 朝日新聞社から『「邪馬台国」はなかった』が出たんが昭和四六年ですか。人間て、何か変な……。勝手にファンとか、好きな人に事よせて、何か自分と似たところがあるかを見つけたいもんでね。ボクの親父も四国高知県で、土佐清水です。(中略)
ええ、で、先生の論証によると、わが父祖の地は侏儒国やないかと思いましてね。(中略)
古田 あそこは唐人岩とか唐人駄馬とかあるでしょう。あの辺の人たちは日常生活で「この唐人!」といって、罵り言葉ですね、「このバカ」ということをいうんですよ。

「アホ・バカ」と「ツボケ」

上岡 その話でね、ボクは「探偵ナイトスクープ」という朝日放送の番組をやっているんですよ。これはテレビ見ている人からハガキが寄せられまして、その依頼にもとづいて、ボクが探偵局長で自分とこのタレントの探偵を派遣して、その真理について探るという番組です。
たまたま兵庫県の人からのハガキで「私は関東で主人は関西です。ケンカすると私はバカといい主人はアホといいます。アホとバカの境界線はどこにあるんでしょうか」というのがきたんで、「探しに行け!」と。東京ならみんな「バカバカ」というわけですよね。そしてずーっと来だしたら名古屋で「タワケ」ゾーンに突入してしもうたんです。名古屋では「タワケ」というんです。そして名古屋から滋賀県あたりまで来ると「アホ」になるんですね。北野誠というタレントがやっているんですが、「わかりました『タワケ』と『アホ』のゾーンは関ヶ原なんです」と、道を挟んで向こうは「タワケ」でこっちが「アホ」でした。
古田 アハハ、なるほど。
上岡 で、「わかりました」っていうから、「お前な、だれが『タワケ』と『アホ』を調べえというたんじゃ。『バカ』の分布図を調べよ」。これはもう手に負えんということで、朝日放送が日本中の各教育委員会、小学校にアンケートで配布しまして、そして「アホ・バカ」分布図というのを作り上げたんです。(中略)
全国各地から「あなたのところでは人を罵る時にどういうてますか」というふうに……。そしたら柳田国男の方言周圏論、「カタツムリの検証」という、都を中心にしてどんどん広がって外へ行くほど古い言葉が残っている、というのが実証されてたんです。この『全国アホ・バカ分布考』というのはテレビでしか調べようがないんだというんで、かなりすばらしい本なんですよ。
その中の地図を見てみますとですね、古代王朝があったとされるところはやっぱり特色があるんですよ。北九州、出雲、吉備、それからもちろん近畿、そいから越、これらだけは際だって言葉が違うんですよ。で、その中に東北で人をののしる時に「ツボケ」。
古田 そうそう。
上岡 これボクは松本修に聞いたんです。「『ツボケ』というのがあるそうやけど、どうなっている」というたら、「すいません、ボケの系譜に関しては非常に複雑なんで、この際ははずしました」と。「『アホ』と『バカ』に関しては全部分布できたんですけど、ボケは分布がおかしいんです」と。だから、東北では「ツボケ」なんですが、これがものすごう「アホ・バカ」の分布と違う分布をしているのです。で、「ツボケ」というのが北海道へ渡らないんですって、かたくなに本州で止まるんです。
古田 そうなんですよ。
上岡 他のは、離れ小島まで、南西諸島やろが八丈島やろがいくのに、「ボケ」だけはかたくなに止まるんですわ。ずっと分析した人が「これは何かある」っていうんですよ。これをやりたいんですけど、「アホ・バカ」に一生懸命でちょっと「ボケ」はやめてるんですけど、「頼むからいっぺんこれをやってくれ、何かそれから出るかもわからん」といってるんですが。
古田 いや、面白いですね。イギリスのほうで「このドルイド!」というそうですよ。つまり「ドルイド」というのが先住民で、これが罵り言葉で「ドルイド」というそうです。
上岡 ほう、やっぱり先住民。
古田 ええ「唐人」とか「ツボケ」とかあるんですねえ。「ドルイド」の話みたいに、世界的にそのノウハウが。人間がいるところ、日本だけじゃないんですね。
【転載、おわり】

(注)
①松本修『全国アホ・バカ分布考 ―はるかなる言葉の旅路』太田出版、平成五年(1993)。平成八年(1996)に新潮文庫から発刊。
②『新・古代学』第1集、新泉社、1995年。古田史学の会も協賛団体として同書編集委員会に参加した。


第3041話 2023/06/14

「富岡鉄斎文書」三編の調査(4)

藤田隆一さん、佐佐木信綱宛書簡を解読

出町柳の骨董店〝京や〟のご主人から調査依頼された富岡鉄斎文書の内、最も判読が困難な(史料B)「佐佐木信綱宛書簡」の解読を続けましたが、わたしの力量の及ぶところではなく、全体の一割ほどしか文字が読めず、難儀していました。古田先生の恩師、村岡典嗣先生が幼少期に佐佐木信綱邸に寄宿していたという御縁もあり、何とか解読して、しかるべき場で発表したいと願っていました。そこで、古典古文に造詣が深い藤田隆一さん(多元的古代研究会・会員)に協力要請したところ、1週間ほどで見事な解読をなされ、同書簡は大正八年三月三十日に書かれた可能性が高く、鉄斎の孫娘の富岡冬野に関するものであることを突き止められました。ちなみに、冬野の父は鉄斎の長男、富岡謙藏とのこと。この書簡は富岡謙藏が亡くなった翌年に出されたもののようです。委しくは下記に転載した藤田さんの所見をご参照下さい。藤田さんに感謝いたします。(つづく)

【以下転載】
富岡鉄斎の書簡について、閲覧報告
藤田隆一
■所見
富岡鉄斎(1836~1924年)が佐々木信綱(1872~1963年)へ送った書簡。文面に登場する孫娘は富岡冬野(1904~1940年)のことで、その学校休暇の話題があることから、冬野が十歳代のころと考えられる。故に、この書簡が作成されたのは大正五年~十年のころと推測されます。
佐々木信綱とは、冬野の和歌の師匠にあたる人物。ちなみに、「古鏡の研究」で有名な学者・富岡謙藏は、富岡鉄齋の長男であり、富岡冬野の父親である。大正七年十二月二十三日に病死(四十六歳)。
富岡鉄斎の自筆書簡は、頗るの「くせ字」のため判読が難しく、鉄斎の字を見馴れた人でないと正確には読めないでしょう。今回、一通り釈文、読み下しをしてみましたが、細かい部分の判読には自信がありません。
特に、最初の二行は、大胆な推測を以て判読しました。もし、これが正しいとすれば、この書簡が作成されたのは大正八年の三月、という可能性が高くなります。しかし、あまり信用を置かないようにご注意下さい。

【語釈】
喪心物祭=正しい判読かは不明だが、今は亡き長男を悼み、その霊を祀る気持ちを表したものか。
渡世の寒候不順=一家の大黒柱を亡くした長男一家の前途を慮かる気持ちを表したものか。
博士大人=相手への尊称
戯謔の=たわむれの
幀匣=表装
陋=せまい、へり下った表現
東游=東京方面への旅行
頓首=手紙の文面の最後に添える言葉
御侍史=相手に用いる敬称。御机下と同類。

【釈文部分】
拝啓、喪心物祭
之際、渡世之寒
候不順也。猶可喜点
博士大人益々御壮健
老而不倦著書咸
精勵為斯学、洵可
欽羨也。先般拙画
奉呈之處、御丁寧
御謝書拝受、愉悦之
至也。拙筆戯謔之
小品、却而誉之幀
匣可驚也。任
髙命、惡書一拝
可仕候。只今孫女俄に
陋学校休暇之間、東
游之旨申述候。俄之事に付
為一遍僅に呈一書、餘は
他日之機會に御窺而述候。
畧支斗、御用捨願上候。
頓首
三月三十日夕
富鉄齋
佐々木信綱様
御侍史

【読み下し部分】
拝啓、喪心物祭りの際、
渡世の寒候不順なり。
猶喜ぶべき点は、
博士大人は益々御壮健、
老ひても倦かず。著書は咸
精勵にして斯学を為せり。
洵に欽ぶべく、羨しき也。
先般、拙画を奉呈の處、御丁寧なる御謝書を拝受す。愉悦の至りなり。
拙筆は戯謔の小品なるに、却って誉れの幀匣は驚くべき也。
髙命の任に、惡書一拝仕つる可く候。
只今、孫女は俄に陋学校を休暇するの間、東游の旨申し述べ候。
俄の事に付き、一遍為て僅に一書を呈し、餘は他日の機會に御窺ひて述べ候。
畧支斗、御用捨願ひ上げ候。
頓首
三月三十日の夕
富鉄齋
佐々木信綱様
御侍史


第3040話 2023/06/13

『古田史学会報』176号の紹介

 『古田史学会報』176号が発行されました。拙稿「九州王朝戒壇寺院の予察」を掲載して頂きました。「戒壇」とは国家による仏教統制の仕組みの一つであり、僧侶になるためには国家が認証した戒壇寺院で受戒することが必要でした。大和朝廷の場合は東大寺と太宰府の観世音寺、下野国の薬師寺が戒壇寺院と定められ、古代日本の「天下の三戒壇」とも称されています。

 拙稿では、大和朝廷に先立つ九州王朝(倭国)にも国家認証の戒壇寺院があったのではないかとする視点により、共に670年(白鳳十年)の創建伝承を持つ観世音寺と下野薬師寺は九州王朝による戒壇寺院ではないかとしました。更に、高良山(久留米市)にも「戒壇堂」という地名があり、ここにも九州王朝の戒壇があったとする仮説を発表しました(注①)。なお、多元史観による戒壇・受戒などについては日野智貴さん(古田史学の会・会員)の研究、好論があります(注②)。
会報一面に掲載された正木稿は、701年の王朝交代後の九州王朝が大和朝廷により駆逐される様子が〝隼人討伐〟として『続日本紀』に遺されていることを明らかにしようとするもので、その目論見はかなり成功しているように思えました。同テーマは『九州王朝の興亡』出版記念講演会でも発表される予定で、楽しみです。

 176号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』176号の内容】
○消された和銅五年(七一二)の「九州王朝討伐戦」 川西市 正木 裕
○会員総会(6月17日)のお知らせ 会誌26号『九州王朝の興亡』出版記念講演の案内
○『播磨国風土記』宍禾郡・比治里の「奪谷」の場所 神戸市 谷本 茂
○『日本書紀』の対呉関係記事 たつの市 日野智貴
○土佐国香長条里七世紀成立の可能性 高知市 別役政光
○九州王朝戒壇寺院の予察 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学・四十二
多利思北孤と「鞠智城」の盛衰 古田史学の会・事務局長 正木 裕
○書評 待望の復刊、『関東に大王あり』 京都市 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古代に真実を求めて』27集 原稿募集
○『古田史学会報』投稿募集・規定

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2706話(2022/03/24)〝下野薬師寺と観世音寺の創建年〟
同「洛中洛外日記」2723話(2022/04/19)〝高良山中にもあった九州王朝の戒壇〟
②日野智貴「九州王朝の戒壇と僧伽(サンガ)」古田史学の会・関西例会(2021年1月)で発表。
古賀達也「洛中洛外日記」2351話(2021/01/16)〝仏法僧の受戒・得度制度の多元史観〟
日野智貴「菩薩天子と言うイデオロギー」『古田史学会報』174号、2023年


第3039話 2023/06/11

律令制都城論と藤原京の成立(4)

 ―「倭京」の成立と論理―

 新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』(注①)には、藤原宮(大宮土壇)に先行して造営された条坊は「倭京条坊」であり、〝藤原京以前に「倭京」と呼ばれた条坊都市が当地にあった〟とする仮説が示されています(注②)。そして、「倭京」創建を孝徳期~斉明期とします。その根拠として、『日本書紀』孝徳紀や天武紀などに見える「倭京」記事を挙げています。ですから、この仮説は文献史学の分野である『日本書紀』の新解釈に依っており、考古学的エビデンスを根拠としたわけではありません。
古田学派では倭京を九州王朝の王都、太宰府条坊都市のこととする理解が主流です(注③)。その根拠は九州年号の「倭京(618~622年)」です。また、「倭京」の直前の年号「定居(611~617年)」も、倭京造営にあたり、多利思北孤がその地を王都建設予定地に定めたことによると理解されています(注④)。従って、倭京とは7世紀前半に造営された倭国の新都(太宰府条坊都市)の名称であり、それに伴う九州年号と考えられています。
他方、『日本書紀』には孝徳白雉四年(653)~天武元年(672)の期間にのみ「倭京」記事が散見します。これらの倭京記事を根拠に「倭京条坊」の造営時期を孝徳期~斉明期とされたようですが、「孝徳白雉四年(653)」の頃は太宰府条坊都市「倭京」が九州王朝(倭国)の王都として機能していたと考えられますから、『日本書紀』に見える「倭京」を「藤原宮先行条坊にあった京」のことと理解するのは困難ですし、論証も成立していません。これは『日本書紀』の記事を史実として、そのまま信用してもよいのかという、文献史学における論証の問題であり、新庄説は論証不十分と云わざるを得ないのです。
もちろん、『日本書紀』編者は九州年号の「倭京」を知っているはずですし、九州王朝の国名が「倭」であったことも知っています。そして王朝交代直前の7世紀末頃には、自らの中枢領域である大和を「倭国」と称したことが藤原宮出土「倭国所布評」木簡により判明しています(注⑤)。『日本書紀』の史料批判や論証はこうしたことを前提に行わなければなりません。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②湊哲夫『飛鳥の古代史』(星雲社、2015年)94~111頁に類似の諸仮説が紹介されている。
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に再録。
『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。
④同「太宰府建都年代に関する考察 九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判」『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房。2012年)所収。
正木 裕「盗まれた遷都詔 聖徳太子の『遷都予言』と多利思北孤」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古田史学の会編・明石書店。2015年)所収。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟
同「洛中洛外日記」464話(2012/09/06)〝「倭国所布評」木簡の冨川試案〟
同「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」『東京古田会ニュース』168号、2016年。


第3038話 2023/06/10

『九州王朝の興亡』いよいよ発刊!

   特価販売も実施!

九州王朝の興亡

古代に真実を求めて 古田史学論集第二十六集
九州王朝の興亡 2023年 明石書店

『九州王朝の興亡』(『古代に真実を求めて』26集、明石書店)が今月15日付けで発刊されます。「古田史学の会」賛助会員(2022年度、年会費5,000円)には順次送付しますので、もうしばらくお待ちください。経費削減のため、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、会計担当、高松市)がお一人で発送作業を行っていますので。
同書は古田先生の第二著『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973年)の出版50周年を記念して、「九州王朝の興亡」を特集テーマとした一冊です。表紙のデザインには大宰府政庁の鬼瓦を採用しました。迫力があり、美しいデザインで、わたしはとても気に入っています。古田学派の最新の九州王朝研究を収録しており、とりわけ巻頭論文二編は優れたものです。

【巻頭論文】
◎正木裕さん「倭国(九州王朝)略史」
◎谷本茂さん「古代日中交流史研究と『多元史観』」

なお、「古田史学の会」では本書の特価販売を実施します。下記の郵便口座に特価代金(2,200円/1冊)を振り込んでいただきますと、入金を確認次第、発送します。定価は2,200円+税ですが、消費税と送料を割り引かせていただきます。なお、当会の在庫(約40冊)がなくなり次第、あるいは年内で特価販売は打ち切りますので、その後は書店などでお買い求めください。在庫状況については、古田史学の会ホームページ「新古代学の扉」でお確かめ下さい。
郵便口座番号は次の通りです。「『九州王朝の興亡』○冊希望」と記入し、お名前・郵便番号・ご住所・電話番号を明記し、代金を振り込んで下さい。特別価格は1冊 2,200円です。

口座記号:01010-6
口座番号:30873
加入者名:古田史学の会

※お振り込み後、2週間以上経過しても本が届かない場合は、下記までお問い合わせ下さい。
古賀達也 ℡ 075-251-1571 E-mail: kogatty@kyoto.zaq.jp

今回からわたしが書籍担当をさせていただくことになりました。近々、『九州王朝の興亡』以外の在庫特価販売もスタートします。対象書籍・特価など、ホームページでお知らせします。お買い上げいただければ幸いです。


第3037話 2023/06/09

律令制都城論と藤原京の成立(3)

 新庄宗昭さんが『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』(注①)で発表された諸仮説の大半については、わたしも同意見です。他方、新庄説のなかでも最も賛成できないテーマが、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期(新庄説)とするのか、天武期(通説)とするのかです。最大で約30年もの差異がありますので、考古学的出土物(エビデンス)により、どちらが妥当かは明らかになると思います。

 藤原宮と藤原京の造営経緯を簡単に言えば、藤原京条坊造営開始が先行し、一旦造った条坊道路や側溝などを埋め立てて、その上に藤原宮(大宮土壇)が造営されています。通説ではその年代を、天武期に条坊の造営が開始され、持統期に藤原宮が創建されたとします。

この年代観の根拠となったのが、藤原宮下層から出土した干支木簡です。「壬午年」「癸未年」「甲申年」と干支で年紀を記した木簡が三点あり、天武十一年(682)、天武十二(683)、天武十三年(684)に相当します。これらの木簡は藤原宮下層の大溝底部堆積層から出土しており、この大溝は藤原宮下層条坊道路を掘削して造られたことが判明しています。従って、下層条坊の造営開始は天武十三年以前と考えることができ、更に下層遺構出土土器が藤原宮時代(694~710年頃)の土器よりも古い様相を示していることも、干支木簡の年次と整合しています。

 更に下層条坊遺構(西方官衙南区画外)の井戸に使用されたヒノキ板が出土しており、年輪年代測定により682年に伐採されたことがわかっています。また、下層条坊の側溝出土土器(須恵器坏B)の年代観からも、「七世紀第三・四半期より早くはならない。」(注②)と見られています。考古学エビデンスである干支木簡(683~684年)や年輪年代(682年伐採)、出土土器(須恵器坏B)編年に基づけば、下層条坊の造営は天武期頃とするのが適切であり、孝徳期・斉明期とするのはさすがに無理とわたしは考えています(注③)。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②木下正史『藤原京』中公新書、2003年。
③古賀達也「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3036話 2023/06/09

実在した「東日流外三郡誌」編者

―和田家墓石と長円寺過去帳の証言―

 6月17日(土)の午前中に開催される「古田史学の会」関西例会で(午後は『九州王朝の興亡』出版記念講演会)、わたしは「和田家文書の明治写本と大正写本」というテーマを発表します。内容は、昭和61年頃にテレビ東京で放送された、文書所蔵者の和田喜八郎氏が登場する番組「みちのく黄金伝説の謎を求めて」(注①)の紹介がメインです。同番組中に五所川原市飯詰の長円寺(注②)にある和田家の墓石が映っており、同墓石や長円寺の過去帳を古田先生と調査したときのことを思い出しました。

 和田家文書偽作論者は「和田家は明治22年以前は飯詰村には住んでいなかった」と主張していましたが、現地調査により和田家が江戸時代から飯詰にあったことを確認できました(注③)。和田氏宅の近くにある長円寺に和田家墓地があり、文政十二年(1829年)に建てられた墓石が存在します。その表には四名の戒名と内三名の没年が彫られています。次のように読めました。
()内は古賀注。

慈清妙雲信女 安永五申年十月(以下不明)
智昌良恵信士 文化十酉年(以下不明)
安昌妙穏信女 文化十四丑年(以下不明)
壽山清量居士 (没年記載なし)

裏面は次のようです。

文政丑五月建(一字不明、「之」か)和田氏

壽山清量居士(和田吉次と思われる)が存命の文政十二年(1829)に建立した墓碑でしょう。

 他方、長円寺の過去帳(原本は火災で焼失したとのこと。五所川原市教育委員会によるコピー版によった。)には「智昌良恵信士 文化十年十一月 下派 長三郎」「安昌妙穏信女 同年(文化十四年)十月下派 長三郎」との記載があり、墓石の戒名・没年と一致しています。長円寺御住職の説明では、「下派」とは「下派立(しもはだち)」の略であり、「長三郎」は喪主とのこと。ちなみに、和田家当主は「長三郎」を襲名しており、この長三郎は「和田氏」墓石との関連から、和田長三郎のことであり、時代からして和田吉次のこととなります。下派立とは長円寺や和田家がある旧地域名のことです。こうして飯詰村下派立に和田家が江戸時代から住んでいたことを金石文(和田家墓石)と長円寺過去帳の一致から証明できたのです。

 この他、同過去帳には「和田権七」や明治の「和田長三郎(末吉か)」の名前も見え、和田家歴代当主の名前が、和田家文書の記事と一致していることも確認できました(注④)。

 この調査は和田家が江戸時代から当地にあったことを証明するために行ったのですが、このことは、東日流外三郡誌の編者の一人、和田長三郎吉次の実在を意味しており、当調査の重要性に改めて気付くことができました。もう一人の編者、秋田孝季についても調査を続けています。

(注)
①「土曜スペシャル ミステリアス・ジャパン みちのく黄金伝説の謎を求めて」、テレビ東京・キネマ東京作成。MCは中尾彬氏。
②長円寺は曹洞宗の寺院で、和田家宅の近傍にある。
③古賀達也「和田家文書現地調査報告 和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年。
④長三郎吉次→長三郎権七→長三郎末吉→長作→元市→喜八郎。


第3035話 2023/06/08

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (2)

 ―蓋裏面に刻まれた「×」印―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓に関するニュースが連日のように報道されています。その中で注目したのが、石棺の蓋には線刻が認められ、裏面にも「×」印が刻まれていたことです。外からは見えない蓋の裏側に刻まれていた「×」印について、よく似た事例が弥生時代の出土品にあることを思い出しました。それは、島根県の荒神谷遺跡出土銅剣と加茂岩倉遺跡出土銅鐸に記された「×」印です(注①)。
銅剣は柄に埋め込む部分(茎)に、銅鐸はひもで吊す鈕の部分に「×」印があり、いずれも使用時には見えなくなる、あるいは見えにくくなる部分です。これらの「×」印は、石棺の蓋の内側という、目に触れなくなる部分に刻まれた「×」印と同類の何らかの思想に基づいたものと思うのです。古田先生は銅剣と銅鐸の「×」印には発見当初から関心を示されており、次のように述懐されています。

〝(一九九六年)十二月十六日、念願の出雲へ向った。松江市・斐川町と、なつかしい旅だった。(中略)加茂町の教育委員会社会教育主事の吾郷和宏さんが現場へ案内して下さった。そこには銅鐸が横むき、「ひれ」が上、の形で土中に露出している。二個だ。その手前に削ぎ取られて銅鐸の形にくぼみ、青ずんだ土があった。なまなましい。

降りてくると、意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた。感想を聞かれた。わたしは答えた。

「この前の荒神谷と今回の加茂岩倉とは、埋納の時期がちがうと思います。

第一、埋納の場所が、荒神谷の方は数メートル上の途中の土にあったのに対し、今回の方は十五~六メートルも上の頂上ですね。場所の状況が全くちがっています。

第二、荒神谷は『剣』、わたしはこれは「矛」だと思っていますが、ともあれ『武器型祭祀物』が三五八本もあって、中心になっています。筑紫矛もありました。ところが、今回は、ほぼ近い時期の『中広形』や『広形』の矛(九州)、また『平剣』(瀬戸内海領域)が全く出土していません。銅鐸だけです。この点、対照的です。

第三、もし両者が同時期の埋納なら、荒神谷の『小型銅鐸』も、今回の大・中銅鐸と“重ね入れ”になっててもいいのに、そうなっていない。(今回は、大・中“重ね入れ”です。)

第四、昨日報道された「×」印も、その“状態”が全くちがいます。
1. 荒神谷では、九十パーセント以上、「×」がつけられていたのに、今回は、今のところ一つだけ。「右、代表」の形です。
2. 荒神谷では、六個の銅鐸には全く「×」がないのに、今回は銅鐸につけられています。
3. 一番肝心のことがあります。荒神谷の場合、下の端の「柄」のところに「×」がつけられています。ここには「木の柄」がかぶせて使われるわけですから、儀式の場などで使うときにはこの『×』は『見えない』わけです。製造者だけに“判る”という仕組みです。
ところが今回のは、銅鐸の表面でデザインを“汚(けが)している”わけですから、儀式の場などでは、使いにくい状態です。
ですから、埋納直前にこの『×』が入れられ、“外部からの侵入、取り出し者”のないように、マジカルに『祈念』したもののように見えます。(中略)
要するに、荒神谷と加茂岩倉とは別集団です。もし『同一集団』という言葉を使うなら『歴史的同一集団』です。加茂岩倉の集団の人々は、荒神谷の『×』印入りを、『伝承』として知っていたわけです。ですから『荒神谷の後継者』と考えていいでしょう。」

以上であった。右のポイントを言葉にすれば、荒神谷の方は製造工房をしめし、「使われるための×印」、加茂岩倉の方は「使われないための×印」と言えるのではないか。マジカルな意志は両者ともあるだろうが、見た目には同じ「×」印でも、その目的がおのずから別だ。〟(注②)

このときの出雲紀行(加茂岩倉遺跡訪問)は、当地の関係者からの「出土により現地は大騒ぎになっているので、マスコミに知られないように来てほしい」との要請により、先生一人〝お忍び〟で行かれました。「意外にも、ジャーナリズムの人々に取り巻かれた」とあるのは、そうした背景があったことによるものです。著名な歴史学者の古田先生の訪問をマスコミはキャッチしていたようです。
そしてその調査報告を『古田史学会報』で発表したいと、事前に先生から要請されていたので、会報編集・発行を担当していたわたしは、発行日を年末(12月28日)ぎりぎりまで遅らせ、紙面1頁をあけて先生の原稿を待っていたことを思い出しました。先生も1頁分の字数内で原稿を書かれました。
ちなみに古田先生は、荒神谷遺跡での埋納を〝天孫降臨ショック〟、加茂岩倉遺跡での埋納を〝神武ショック〟(神武~崇神の大和占拠、銅鐸圏侵攻)と呼ばれ、それぞれ天孫族・倭国からの侵入を受けて、神聖な銅鐸や銅剣・銅矛を地中に隠したのではないかと考えておられました(注③)。
吉野ヶ里の石棺蓋の「×」印と銅鐸圏(出雲)での「×」印にどのような関係があるのか、古代日本思想史上の課題でもあり、石棺内の調査を興味深く見守っています。吉野ヶ里の有力者に相応しい金属器の出土が期待されます。(つづく)

(注)
①荒神谷遺跡出土銅剣358本中344本に、加茂岩倉遺跡出土銅鐸39個中13個に「×」印が刻まれていた。(雲南市ホームページの解説による)
②古田武彦「出雲紀行 ―使うための「×」と、使わないための「×」。―」『古田史学会報』17号、1996年。
③古田武彦「出雲銅鐸に関するデスクリサーチ 神武ショックと銅鐸埋納」『多元』16号、1997年。『古田史学会報』17号に転載。


第3034話 2023/06/07

吉野ヶ里出土石棺墓が示唆すること (1)

―吉野ヶ里の日吉神社と須玖岡本の熊野神社―

吉野ヶ里遺跡の〝謎のエリア〟から出土した石棺墓が注目されています。〝謎のエリア〟とは同遺跡北地区にあった日吉神社のエリアで、今回初めて発掘調査されました。甕棺墓が多数出土した吉野ヶ里から石棺墓が出土したことにより、当地域の有力者の墓と見られています。
三十年ほど前、わたしは古田先生と吉野ヶ里遺跡を訪れたことがあります。その当時から古田先生は同遺跡地域に鎮座する日吉神社に注目されていました。それは次のような理由からでした(注①)。

(1)『三国志』倭人伝に見える倭国の中心国「邪馬壹国」の本来の国名部分は「邪馬」である(注②)。
(2) この「邪馬」国名の淵源について古田先生は、弥生時代の須玖岡本遺跡で有名な春日市の須玖岡本(すぐおかもと)にある小字地名「山(やま)」ではないかとされた。
(3) 須玖岡本遺跡からはキホウ鏡など多数の弥生時代の銅製品が出土しており、当地が邪馬壹国の中枢領域と思われ、「須玖岡本山」はその丘陵の頂上付近に位置する。
(4) そこには熊野神社が鎮座しており、卑弥呼の墓があったのではないか。日本では代表的寺院を「本山(ほんざん)」「お山(やま)」と呼ぶ慣習があり、この小字地名「山」も宗教的権威を背景とした地名ではないか。そしてその権威としての「山」地名が「邪馬国」という広域国名となり、倭人伝に邪馬壹国と表記されるに至ったのではないか。
(5) 神社は神聖な地に造営されるのが通常であることから、吉野ヶ里遺跡の日吉神社にも重要な遺構があると推定できる。

この度の石棺墓出土の報道に触れ、30年前にうかがった古田先生のご意見、眼力(論理力)が正しかった事が明白となりました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1805話(2018/12/19)〝「邪馬国」の淵源は「須玖岡本山」〟
②この古田説を次の「洛中洛外日記」で紹介した。
同「洛中洛外日記」1803~1804話(2018/12/18~19)〝不彌国の所在地(1)~(2)〟


第3033話 2023/06/06

律令制都城論と藤原京の成立(2)

新庄宗昭さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注①)。新庄説と通説との最大の違いは、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期とすることです。通説では天武期とします。最大で約30年もの差異がありますが、わたしは通説を支持しています。この問題については後述することにして、新庄説とわたしの説の一致点に興味を覚えました。両者には次のような一致点があります。

【新庄説と古賀説の一致点】
(1) 前期難波宮(難波京)を九州王朝(新庄さんは「上位権力X」「鼠」「倭」と表現)による652年創建の王宮・王都とする。(注②)
(2) 藤原京条坊(新庄さんは「先行条坊」「倭京条坊」と表現)創設当初の中枢遺構が長谷田土壇にあった可能性(喜田貞吉説)を指摘。(注③)
(3) 持統紀に見える「新益京」を、藤原宮(大宮土壇)創建により、同宮を周礼型の中心地となるように京域を拡大したことによる名称とする。(注④)
(4) 難波(難波津)には前期難波宮創建以前に既に九州王朝が進出していた。(注⑤)

以上の一致点は九州王朝説にとっていずれも重要なテーマであり、新庄説の登場はとても心強く思いました。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
④同「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟
⑤同「洛中洛外日記」1268話(2016/09/07)〝九州王朝の難波進出と狭山池築造〟
「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。


第3032話 2023/06/05

「富岡鉄斎文書」三編の調査(3)

 ―長楽寺の石盤銘を拝観―

今朝は円山公園の南西にある長楽寺(注①)を妻と二人で訪問し、富岡鉄斎の文が彫られている石盤銘を拝観しました。石製の水盥側面に彫られた銘文を一字ずつ視認し、北山愚公さんのブログ「長楽寺の手洗い石盤について」(注②)で紹介された下記の銘文に誤りがないことを確認しました。なお、「楽」は旧字体の「樂」と確認できたので修正しました。

長樂 寺後 山上 有賴 氏及 名家 墳塋 行人 欲拜 之者 毎憂 無水 可以 盥漱 乃與 寺僧 相謀 敬造 石盤 幷設 竹筧 導引 菊溪 清水 常盈 盤中 以備 其用 大正 八年 四月 長樂 寺壽 山代 圓山 左阿 彌辻 道仙 妻壽 美(敬) 造 鐡(齋) 百(錬) 記

()で囲んだ末尾下段の3字(敬、齋、錬)は摩滅により判読しにくかったのですが、同寺ご住職にご協力いただき、文字の痕跡を確認できました。
久しぶりに訪れた祇園花見小路界隈は外国人観光客が目立ち、艶やかな振り袖姿のお嬢さんたちのほとんどは外国語を話していました。(つづく)

(注)
①長楽寺は最澄が延暦二四年(805年)に開基したと伝えられ、室町時代以降は時宗(遊行派)の寺院。山号は黄台山。円山公園の東南方に位置する。
「北山愚公のブログ」
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