第3437話 2025/02/25

『三国志』短里説の衝撃 (8)

 ―一元史観が生んだ虚構「畿内説」―

 「邪馬台国」畿内説は、長里説(435m)では説明できない倭人伝の行程・里程記事を合理的に説明できる短里説(76~77m)の存在には触れず、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない〟と、手を変え品を変えて言い続け、しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とします。この畿内説は、客観的で合理的な証明を経ていない近畿天皇家一元史観という「史観」が生んだ虚構です。そのことが仁藤敦史さんの論稿中(注①)にも現れています。たとえば次の記事です。

〝さらに、『三国志』以降の中国正史も、卑弥呼王権と「倭の五王」以降のヤマト王権を基本的に連続するものとして記述している点も傍証となる。すなわち、『梁書』倭伝は、「復た卑弥呼の宗女台与を立てて王と為す。其の後復た男王を立て、並びに中国の爵命を受く。晋安帝の時、倭王賛有り」と記して、台与と倭の五王を連続的に記す。また『隋書』倭国伝には「邪馬堆に都す。則ち魏志の所謂邪馬台なる者なり」として邪馬台国はヤマト王権がある大和に所在したとする。このように中国史書は邪馬台国が大和に所在したと解している。〟『卑弥呼と台与』19頁

 この文章から、仁藤さんは何の疑いも持たず、確たる証明もなく、古代中国史書(『三国志』『梁書』『隋書』など)に記された「倭」「倭国」をヤマト王権(後の大和朝廷)のこととし、それを「邪馬台国」畿内説の傍証とされていることがわかります。

 しかも仁藤さんにとって好都合なことに、この「史観」が日本古代史学界の〝不動の通念(岩盤規制)〟であるため、自説が一元史観(注②)という「史観」を前提としていることや、「史観」成立のための客観的で合理的・論理的な説明なしで著述・発言できるという、圧倒的有利な立ち位置にあることに支えられています。この学界の状況を中小路俊逸氏(1932-2006。追手門大学文学部教授)は次のように厳しく指弾してきました。

〝肝心カナメのカンどころ、「一元通念」を「論証を経ざるもの」とした古田氏の指摘、日本古代史の研究史のなかで古田氏の学の位置を決定した理論上の「定礎」を「是」なりと明言するかしないかという、大事の一点が棚上げされ、覆われ、隠され、忘れられてしまい、結果は「学理上無効な一元通念が無期限に安泰」となること、明白だからである。「一元通念」を「非」とするか。この件を伏せて言わないか。この規準が明晰かつ有効であることを私は確信していた。〟(注③)

〝古田武彦の名前を伏せて古田説とそっくりで、それでいてどこか違う説を言い出す学者が出てきた。目的はただ一つ、大和朝廷よりも格が上だった九州王朝の存在という肝要の一点を伏せること。そして有史以来初めてその事を指摘した古田武彦の名前を研究史から抹殺することです。この動きがいよいよ始まりました。この策動を許してはなりません。〟(注④)

 「邪馬台国」畿内説は、畿内説論者自身も認めているように、『三国志』倭人伝という唯一の同時代エビデンスからは全く導き出すことができません。そのため、近畿天皇家一元史観という古代史学界の〝宿痾〟ともいうべき「史観」から生み出された虚構であることは学理上明らかなのです。
彼らが頼りとする考古学も、出土遺構や遺物からは、そこが倭人伝に記された倭国の都(邪馬壹国)であることを証明できませんし、畿内(奈良県)に至っては弥生時代を代表するような王権の痕跡(弥生王墓、大都市遺構など)や、中国との交流を示す金属器(銅鏡、鉄製品など)の出土もほとんどありません。ですから、畿内説は文献史学からも考古学からも成立する余地のない仮説なのです。唯一の〝根拠〟らしきものは、論証を経ていない近畿天皇家一元史観(戦後型皇国史観。注⑤)という未証明の「史観」であり、それは日本の古代史学界内でしか通用しない虚構と言わざるを得ません。

 ですから、自説に不都合な古田先生の多元史観・九州王朝説、そして短里説を排斥(無いことにする。注⑥)しなければならないという宿命を、「邪馬台国」畿内説は学問的〝宿痾〟として持っているわけです。このような排斥は、理系の学界ではおよそ認められるものではありません。(おわり)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②大和朝廷こそが神代の昔から列島の唯一の卓越した王権と主張する『日本書紀』の歴史観を基本的に是とし、それを根拠として中国史書の「倭国」は大和朝廷のこととする歴史認識。古田武彦氏はこれを一元史観と名付けた。中小路俊逸氏はこれを一元通念とよび、「根本の部分で論証を経ていない」と批判した。
③中小路峻逸「第一回総会にむけて 古田史学の会のために」『古田史学会報』8号、1995年。
④中小路峻逸「事務局だより」『古田史学会報』11号、1995年。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」1314話(2016/12/30)〝「戦後型皇国史観」に抗する学問〟
「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」『季報 唯物論研究』138号、2017年。
⑥古田武彦著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年)はマスコミからも注目をあび、朝日新聞社主催の「邪馬台国シンポジウム」のパネラーとして古田氏に参加要請がなされたが、「古田が参加するなら自分たちは参加しない」という他の一元史観のパネラーから圧力がかかり、二度にわたり古田氏抜きでシンポジウムが開催されたこともあった。

 また、滋賀大学で開催された古代の武器に関する学会に古田氏と共に参加したことがあったが、会場からの質問を受け付けるとき、何度も挙手を続ける古田氏を司会者は無視し続けた。他の質問者もなく古田氏のみが「お願いします」と挙手を続けるのだが、司会者の無視の態度を不審に思った会場の参加者からどよめきが起こり、とうとう司会者は古田氏を指名するに至った。古田氏の質問を認めたときの司会者のこわばった表情が忘れ難い。同学会の重鎮たちの顔色を気にしながらのことだったようである。


第3436話 2025/02/24

『古代に真実を求めて』28集の目次

 ―列島の古代と風土記―

 「列島の古代と風土記」をタイトルとする『古代に真実を求めて』28集の編集作業も大詰めを迎えています。発刊に先立って、同集の目次をお知らせします。どのような一冊となるのか、掲載論文名からその雰囲気を感じていただけることと思います。

列島の古代と風土記(『古代に真実を求めて』二十八集) 目次

〔巻頭言〕多元史観・九州王朝説は美しい 古賀達也

〔特集〕列島の古代と風土記
「多元史観」からみた『風土記』論 ―その論点の概要― 谷本 茂
『風土記』に記された倭国(九州王朝)の事績 正木 裕
筑前地誌で探る卑弥呼の墓 ―須玖岡本山に眠る女王― 古賀達也
【コラム】卑弥呼とは言い切れない風土記逸文にみられる甕依姫に関して 大原重雄
筑紫の神と「高良玉垂命=武内宿禰」説 別役政光
新羅国王・脱解の故郷は北九州の田河にあった 野田利朗
新羅来襲伝承の真実 ―『峯相記』と『高良記』の史料批判― 日野智貴
播磨国風土記の地名再考・序説 谷本 茂
『風土記』の「羽衣伝承」と倭国(九州王朝)の東方経営 正木 裕
『常陸国風土記』に見る「評制・道制と国宰」 正木 裕
【コラム】九州地方の地誌紹介 古賀達也
【コラム】高知県内地誌と多元的古代史との接点 別役政光

〔一般論文〕
「志賀島・金印」を解明する 野田利朗
「松野連倭王系図」の史料批判 古賀達也
喜田貞吉と古田武彦の批判精神 ―三大論争における論証と実証― 古賀達也

〔付録〕
古田史学の会 会則
古田史学の会 全国世話人名簿
友好団体
編集後記 古賀達也
第二十九集投稿募集要項 古田史学の会 会員募集


第3435話 2025/02/23

藤田隆一さんの『先代旧事本紀』講義

―天理図書館本と飯田季治校本の比較―

 昨日開催された東京古田会月例会にリモート参加しました。そこで藤田隆一さんの『先代旧事本紀』講義を拝聴させていただきました。いつもながらの見事な講義で、とても勉強になりました。藤田さんは古文や漢文にめっぽう強く、わたしが毛筆文書(富岡鉄斎の佐佐木信綱宛書簡。注①)の解読に困っていたときにも教えを請いました。

 今回のテーマとなった『先代旧事本紀』は九世紀頃に成立したとする説が有力視されていますが、序文などは偽作とされており、古代史研究の史料としてはあまり論文などに採用されていません。しかし、その中の「国造本紀」には他に見えない情報が採録されており、注目されてきました。

 今回の講義で藤田さんは、鎌倉時代に成立したとされる天理図書館本がテキストとして優れているとされ、「国造本紀」の中の「伊吉島造」(壱岐島)の写本(版本)間の異同を指摘されました。以前、わたしが『先代旧事本紀』の研究(注②)に用いた飯田季治『標註 先代旧事紀校本』(注③)の「伊吉島造」には次のようにありました。

「磐余玉穂朝(継体)。伐石井從者新羅海邊人。天津水凝 後 上毛布直造。」

 ところが、天理図書館本では「伐」が「代」となっていたり、「從者」が「者從」とあり、そのため飯田季治『標註 先代旧事紀校本』とは意味が異なってくるのです。

 同校本は『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』を底本としており、その解題には、「本書は從來最も善本として世に流布する所の『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』を底本となし、更に之に標注を增訂し、且つ亦た上記の諸本を始め飯田武郷校本、栗田寛校本等を參照し、全巻を審かに校定せるものである。」とあります。

 また、国史大系本の底本は「神宮文庫本」(延宝六年写本、1678年)で、『渡會延佳校本の鼇頭舊事紀』などで校合したとあります。両本を比較して『標註 先代旧事紀校本』が優れているように思いましたので、テキストとして採用したのですが、藤田さんの説明によると天理図書館本の成立がはるかに古く、鎌倉時代とのことでしたので、使用テキストの再検討が必要となりました。

 他方、天理図書館本や国史大系本には、「大隅国造」「薩摩国造」の記事中に「仁徳朝」「仁徳帝」とあり、他の国造記事には見えない漢風諡号「仁徳」が使用されています。『標註 先代旧事紀校本』には「難波高津朝」とあり、他の国造記事と同様に宮号表記となっています。こうした表記の異同があることから、どちらが原本の姿をより残しているのか思案しています。

 いずれにしましても、藤田さんの講義のおかげで、『先代旧事本紀』研究における各テキスト表記の異同が持つ重要な問題に気づくことができました。古田学派の中に、藤田さんのような書誌学に精通した研究者がいることはとても心強いことです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3041話(2023/06/14)〝「富岡鉄斎文書」三編の調査(4) ―藤田隆一さん、佐佐木信綱宛書簡を解読―〟
②同「洛中洛外日記」2866~2872話(2022/10/30~11/05)〝 『先代旧事本紀』研究の予察 (1)~(6)〟
同「『先代旧事本紀』研究の予察 ―筑紫と大和の物部氏―」『多元』174号、2023年。
③飯田季治編『標註 先代旧事紀校本』明文社、昭和22年(1947)の再版本(昭和42年)による。


第3434話 2025/02/22

「列島の古代と風土記」の再校正終了

『古代に真実を求めて』28集(明石書店)

 「列島の古代と風土記」(『古代に真実を求めて』28集)の再校正作業を昨日終えて、明石書店にゲラを返送しました。今回からはゲラ校正担当として、茂山憲史さんに代わって谷本茂さんにも担当していただいています。『古代に真実を求めて』編集部では、著者校正の他に全原稿のゲラ校正(計三回)を西村秀己さん(高松市)・谷本茂さん(神戸市)・古賀(京都市)の三名で行っています。元朝日新聞記者だった茂山さんのプロフェッショナルな校正も素晴らしかったのですが、谷本さんも古田学派トップクラスの中国史書・風土記研究者らしく、著者も気づけなかったほどの細かく重要なミスまで指摘していただき、とても助かっています。「古田史学の会」は優れた校正担当者に恵まれました。ありがたいことです。

 編集作業がこのまま順調に進めば、四月上旬頃には発行できます。2024年度賛助会員(年会費5000円)には、その後、順次発送作業に入りますのでお待ち下さい。一般会員(年会費3000円)の皆様には、本会在庫の特価販売を予定しています。現在、定価や特価販売価格について検討を続けており、詳細は「洛中洛外日記」や『古田史学会報』などでお知らせします。

 同集のタイトル「列島の古代と風土記」が示すように、古田先生以後の多元史観による風土記・地誌の最先端論文を収録しました。従来の大和朝廷一元史観では見えてこなかった列島の古代の姿が、多元史観による風土記・地誌研究で蘇っています。収録した諸論文の仮説と一元史観に基づく旧来仮説との優劣を、学界の権威におもねらない読者の皆さんで確かめてください。もちろん、学問的批判は著者たちも編集部も大歓迎です。〝学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる〟と、わたしは確信しています。

【写真】「列島の古代と風土記」表紙カバーデザインの検討案

(編集部と明石書店で検討中です)


第3433話 2025/02/21

『三国志』短里説の衝撃 (7)

 ―畿内説と考古学の不一致―

 「邪馬台国」畿内説は短里(76~77m)でも長里(435m)でも成立しません。ですから、畿内説論者は短里説の存在には触れずに、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない。信用しなくてもよい。〟と言い続けるしかないようです。しかし結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とします。その理由として、仁藤敦史さんは次の根拠をあげています(注①)。

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、(中略)考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ) 略

(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)

 この中で具体的なエビデンスとして示されたのは次の事柄です。

❶纏向遺跡・箸墓古墳
❷前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)
❸三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)
❹有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)

 これらをわかりやすく解説します。❶の纏向遺跡・箸墓古墳は国立歴史民俗博物館(歴博と略す)研究グループ(注②)の発表によれば三世紀前半に編年されており、卑弥呼の時代に近い。❷の箸墓古墳をはじめとする初期前方後円墳の成立も三世紀に遡るとした歴博の見解に基づき、箸墓古墳を卑弥呼の墓とできる。同時に畿内の古墳から多数出土する三角縁神獣鏡も卑弥呼が魏からもらった鏡と見なしてよい。集落遺跡も纏向遺跡は卑弥呼の時代とできるが、北部九州には卑弥呼の時代の有力な集落はない。吉野ヶ里遺跡は卑弥呼よりも古い時代であり、対象とならない。ということを自説の根拠としています。

 このような考古学的知見を根拠として、畿内説が有力とするのですが、この考古学編年そのものが誤っていたことが、現在では明らかとなっています。すなわち、歴博の見解は炭素同位体C14年代測定値を根拠としますが、最新の国際修正値(較正曲線)intCAL20(イントカル20)により、弥生時代の編年が歴博の発表よりも約百年新しくなることが明らかとなりました。従って、箸墓古墳は歴博発表以前の考古学編年通り四世紀前半頃となり、卑弥呼の時代よりも百年新しくなります。同様に初期前方後円墳も百年新しく編年されたので、❶と❷の根拠が既に崩れているのです。

 仁藤さんの著書や論文の発行年は2009年と2013年ですから、おそらく古い補正値(intCAL09)を採用した時期のものであり、そのため不正確なエビデンスに基づいており、現在の倭人伝研究のレベルからすれば、問題が多すぎると言わざるを得ません。従って、仁藤さんの解釈や仮説を否定するところからしか、教科書を書き変えるような新たな研究は生まれないと思われます。

 更に❸の三角縁神獣鏡は中国からは出土していないことや、弥生時代ではなく古墳時代になって出土することも早くから知られており、これを弥生時代の卑弥呼が魏からもらった鏡とする考古学者は、現在ではほとんどいないのではないでしょうか。

 ❹の弥生時代の集落についても、現在の考古学では福岡市博多区の比恵・那珂遺跡群が「最古の都市」とされ、「弥生時代中期~古墳時代前期にかけて都市的な様相を示していた」(注③)とされていることに触れてもいません。そして、都市の条件である「街区」の形成は、「確かに比恵・那珂遺跡群をおいて他にはなく、「初期ヤマト政権の宮都」とされる纏向遺跡においては、そのような状況はほとんど不明である。」と報告されているのです(注④)。

 こうした現在の考古学水準からすれば、❹の見解も失当と言わざるを得ません。こうのように、仁藤論稿には数々の誤りがあることは明白であるにもかかわらず、なぜ古代史学界ではこのような解釈が通説的権威を持つのでしょうか。理系分野ではちょっとありえない〝奇妙な学界〟と言わてもしかたがないように思います。

 更に、(ⅴ)の「文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく」とするに至っては、理解困難な言い分です。そもそも、〝(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。〟〝(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。〟としたのは、仁藤さんご自身だからです。著書(2009年)と論文(2013年)とでは、基本的な見解が変わったようには見えませんが。(つづく)

(注)
①仁藤敦史 「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
同『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②国立歴史民俗博物館の春成秀爾氏を中心とする研究グループがマスコミに発表した後、2009年5月に早稲田大学(日本考古学協会)で「箸墓古墳は卑弥呼の墓である」と発表した。
③菅波正人「那津宮家から筑紫館 ―都市化の第二波―」『古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―』資料集、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年。
④久住猛雄「最古の「都市」 ~比恵・那珂遺跡群~」同③。


第3432話 2025/02/17

『三国志』短里説の衝撃 (6)

―短里でも長里でも成立しない畿内説―

 三国時代の魏とその後継王朝の西晋で公認使用された里単位(一里76~77m)で『三国志』が書かれたとする古田先生と谷本茂さんの研究(注①)を紹介しました。この検証は、『三国志』の里程記事と現在の実測値による簡単な計算(割り算)で実証的に確認できます。この短里説によれば、帯方郡(ソウル付近)から邪馬壹国までの総里程「一万二千余里」は900㎞強となり、博多湾岸付近までの距離とピッタリであることがわかります。

 他方、短里では奈良県には全く届きませんし、かといって長里(435m)では奈良県を飛び越えて太平洋のはるかかなたに行ってしまいますので、「邪馬台国」畿内説は短里でも長里でも成立しません。ですから、そのことを知っている畿内説論者は短里説の存在には触れずに、〝倭人伝の行程や長里による里程記事は信用できない。信用しなくてもよい。〟と言い続けるしかないのでしょう。仁藤敦史さんの次の主張がその一例です(注②)。

(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。(「倭国の成立と東アジア」142頁)

(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく……。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値……。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)

 短里説を無視、乃至検討せず、倭人伝の行程(南、邪馬壹国に至る)や里程(長里で一万二千余里)は信頼できないとしながらも、仁藤さんの結論は畿内説が妥当とします。〝倭人伝の記事は信頼できないから、「邪馬台国」の位置は不明〟とするのであれば、その主張にはまだ一貫性があるのですが、結論だけは〝「邪馬台国」は畿内で決まり〟とするのです。次回はその理由の是非について検討することにします。(つづく)

(注)
①古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。
②仁藤敦史「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。


第3431話 2025/02/16

萩野さん、阿蘇ピンク石の謎に迫る

 昨日、 「古田史学の会」関西例会が豊中自治会館で開催されました。3月例会の会場も豊中自治会館です。

 今回の報告で興味を引かれたのが、萩野秀公さんの「熊本宇土への調査旅行報告Ⅱ」でした。先月に続いての発表です。海を渡って関西にもたらされた熊本県宇土半島の馬門(まかど)から産出する赤い石材「馬門石」(阿蘇溶結凝灰岩)についての現地調査報告です。それは「阿蘇ピンク石」とも呼ばれ、古墳の石棺に使用されています。たしかに赤い石材が当時は好まれたのでしょうが、そうであれば、産地の肥後地方や九州でも古墳の石棺に使用されていても良いはずですが、何故か当地では使用されていないようなのです。石室の壁石としては使用した例はあるとのことですが、石棺に使用した古墳はないとされています。

 わたしは、生産地や九州ではピンク石石棺が使用されていないという現象を不思議に思ってきました。たとえば、大和朝廷が九州での使用を禁止したとする説もあるそうですが、これが九州王朝による禁止命令であったとしても納得できませんでした。それほど貴重な石材であり、王家以外の豪族らに使用を禁止したのであれば、王家自らの〝独占使用〟の痕跡がなければなりません。しかし、八女古墳群にある九州王朝王家の古墳と思われる石人山古墳(五世紀前半~中頃)の石棺もピンク石ではなかったと記憶しています。

 このような疑問を抱いていたわたしは、例会後の懇親会で萩野さんに、本当に肥後や九州の古墳からピンク石石棺は発見されていないのですかと質問しました。萩野さんの返答は、石室の一部に使用されている例はあるが、石棺には使用されていないとのことでした。しかし、話を進めていると、地元の某博物館ではピンク石石棺が、とある古墳から出土しているとする掲示があることを教えていただきました。

 萩野さんのご意見ではその掲示は誤りとのことでしたが、博物館で掲示されているのであれば、それは現地の考古学の専門家の意見ですから、当該石棺の実物を見ないで否定するのはいかがなものかと思い、萩野さんに再度の調査を要請しました。来月の例会でも阿蘇ピンク石について発表されるとのことですので、改めてこの点をお聞きしたいと思っています。もし、九州の古墳にもピンク石石棺があったのであれば、従来の見解を覆す発見となるのではないでしょうか。とても楽しみなテーマです。

 2月例会では下記の発表がありました。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。

〔2月度関西例会の内容〕
①「四人の倭建」の概略 (大阪市・西井健一郎)
②倭王武の上表文の東西海北216国は制覇は史実なのか? (大山崎町・大原重雄)
③『古代日本の渡来勢力』批判 (茨木市・満田正賢)
④熊本宇土への調査旅行報告Ⅱ (東大阪市・萩野秀公)
⑤「呉」と銅鐸圏と画文帯神獣鏡・拘奴国 (川西市・正木 裕)

◎八王子セミナー実行委員会の報告・他 (代表 古賀達也)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
03/15(土) 10:00~17:00 会場 豊中自治会館


第3430話 2025/02/14

『三国志』短里説の衝撃 (5)

 ―『漢書』の中の短里―

 古田先生の短里説は「魏西晋朝短里」説と呼ばれ、三国時代の魏とその後継王朝の西晋で使用された里単位(一里76~77m。周代に使用された里単位に淵源する)で、西晋時代に陳寿が書いた『三国志』はこの公認里単位「短里」で書かれたことが古田先生により発表されています。その先駆的研究を古田先生とともになされたのが谷本茂さん(古田史学の会・編集部、注①)でした。古田先生亡き今、短里研究の第一人者です。

 谷本さんの短里研究は『三国志』以外の漢籍にも及んでいます。たとえば『漢書』は長里の時代(後漢代)に成立しており、里程は長里で書かれています。しかし、現存する『漢書』版本には後代の識者による「注」が挿入されており、その「注」の作者が短里を使用していた魏西晋代の人物の場合、そこに記された里程は短里で書かれるケースがあります。そのことに谷本さんが論究したのが次の諸例です。『古代史の「ゆがみ」を正す』(注②)の「『漢書』は短里なくして解読できない」より転載します。

 〝最近は、『漢書』は「短里」仮説なくしては解読できない、というテーマを強く感じているんです。
それは『漢書』自体というよりも、『漢書』にはいろいろな人の注が付いていますね。その人たちは、だいたい三国の魏の官僚なわけです。如淳にしろ孟康にしろ文穎にしろ。そうしますと、かれらが書いた「里数値」というのは、『漢書』の本文のなかの長里なのかという問題があるわけです。
そのなかでひじょうにおもしろい例がいくつか出てきたわけです。
たとえば、劉邦と項羽が会う「鴻門の会」という有名な故事がありますが、その場所がもちろん『漢書』の本文にも出てきまして、そのところの孟康の注に、新豊の東十七里のところに地名があると出ているんですね。ところが、後魏の酈(れき)道元が書いた『水経注』にも同じところが出てきまして、新豊の故城の東三里だと書いてあります。そして、『漢書』の孟康注では東十七里のところに鴻門というのがあると書いているけれども、いまわたしが実際に調べたらない、と書いてあるんですね(本書第Ⅲ章参照)。

 長里で三里と言いますと一二〇〇から一三〇〇メートルです。それぐらい短い距離で確定できるように、城壁と鴻門はだれが見ても明晰な指定ができたわけですね。そこが、孟康の注では十七里と書いてあるんですね。
もしかりに同じ場所だとすれば里単位がちがうわけで、十七対三になっているわけです。それで十七対三の比というのは五・七ですね。するともう短里と長里の比にぴったり合うわけです。あまりにも偶然すぎるので不思議な感じがするのですが。

 つまり、ひとつには「短里」と「長里」の比が五・七ぐらいであることと、もうひとつは孟康が魏の官僚であることが重要ですね。たしか中書省の長官だったと思いますが、そうした部署の長官が言っている。(中略)
そうした例が『漢書』注にはいくつかでてきます。

 古田さんも以前指摘しておられました、「山」の高さの問題でも、『三国志』のなかで天柱山の高峻二十余里がありましたが、『漢書』の武帝紀の注で文穎が、介山という山を周七十里、高三十里と書いています。これも短里なわけです。文穎も魏の官僚です。

 有名な『漢書』地理志の倭人の「歳事を以って来たり献見すという」のところで、如淳の注では帯方東南萬里にありと書いてあり、これも短里ですね。
このように魏の官僚たちがみんな「短里」らしいことをしゃべっているわけですね。これは単純に「短里」はなかったんじゃないかという話にはならない。恣意的に見つけてくるというのにはできすぎています。そうした里単位があったとしなければ説明がつかない。〟51~53頁

 以上の「短里」の痕跡の指摘は谷本さんの研究のごく一部です。倭人伝をはじめ中国史料中の里程記事や里単位研究に当たっては、谷本さんの先行研究を咀嚼した上で進めていただきたいと 後継者には願っています。(つづく)

(注)
①谷本茂氏は京都大学時代からの古田説支持者で、現在は古田史学の会『古代に真実を求めて』編集部。古田武彦氏との共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(1994年)の著者紹介欄には次のように記されている。〝谷本 茂(たにもと しげる)
1953年 生まれ。
1976年 京都大学工学部電気工学科卒業。現在、横河・ヒューレット・パッカッード株式会社電子部品計測事業部勤務。
主な論文 「『周髀算経』之事」(『数理科学』№177)、「古代年号の一使用例について」(『神武歌謡は生きかえった』新泉社)、「中国古代文献と『短里』」(『古代史徹底論争』駸々堂)ほか。〟
②古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。


第3429話 2025/02/13

『三国志』短里説の衝撃 (4)

    ―『三国志』の中の短里―

 仁藤敦史氏は〝「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない〟(注①)とするのですが、その大前提となるのが『三国志』が漢代の里単位「長里」(一里約400m強)により里程記事が書かれているとする解釈です。これで倭人伝などの里程記事が問題なく読めるのであればまだしも、実際の距離とは5~6倍近く異なるため、諸説が出されてきたのですから、研究者として魏代の里単位が何メートルなのかを確認する作業が不可欠なはずです。しかし、仁藤氏の論文や著書にはその作業がなされた形跡が見えません。

 他方、古田武彦氏は〝単位問題では、いつでも、「その時代の単位の実体をまず確認する。この手続きが不可欠なのです。」〟(注②)として、『三国志』に書かれている里程記事を調査して、実際の距離との比較により、一里を「七五~九〇メートルで七五メートルに近い値」とする短里説を提唱しました。なお、谷本茂さんによる『周髀算経』の研究(注③)により、短里は一里76~77mであることが有力となりました。長里は一里435mとされています。具体的には次のような史料根拠と計算に基づいています。古田先生があげた多数の例から一部を紹介します。

○(一大国)方三百里なる可し。〔魏志倭人伝〕
壱岐島は約20kmの正方形内に収まり、短里では概略妥当であり、長里ではまったく妥当しない。ちなみに、魏の張政が軍事司令官(塞曹掾史)として二十年間倭国に滞在していたことが知られている。その軍事報告に基づいて倭人伝は記されていると考えられ、小島の壱岐島を五~六倍(面積比で二五~三六倍)の大きな島と張政が見間違うはずがない。
○(韓)方四千里。〔魏志韓伝〕
韓半島の南辺約300km÷4000里=約75m。東夷伝中の韓伝で短里が使用されている例。
○天柱山高峻二十余里。〔魏志張遼伝〕
天柱山の高さ1860m÷21~24里=89m~78m(余を1~4とする)。中国本土で短里が使用されている明確な例。周辺の平野との標高差であれば、さらに76mに近づく。これが長里(435m)であれば天柱山はエベレストを凌ぐ9000m級の超高山となり、実測値と全くあわない。『三国志』編集時代の魏・西晋の公認里単位が長里では有り得ないことを示す。
○北軍を去ること二里余、同時発火す。〔呉志周瑜伝〕
周瑜伝裴注に江表伝が引文されている。その赤壁の戦の描写中にこの記事がある。呉の軍船が揚子江の中江に至って「降服」を叫んだのち、「二里余」に至って発火した。この赤壁の川幅は約400~500mであり、短里なら適切だが、長里ではとうてい妥当しない。公表伝は西晋の虞薄の著作であるから、『三国志』と同じく、短里で書かれていたことが判明する。

 以上のように『三国志』は魏・西晋朝の公認里単位「短里」で書かれており、当然のこととして倭人伝の里程記事も短里で読むべきです(注④)。したがって、郡(帯方郡)から倭国の都までの総里程「万二千余里」も短里であり、その到着点は博多湾岸(筑前中域)となります。他方、当地は「弥生銀座」と称されているように、弥生時代の鉄器、漢式鏡の列島内最多出土地で、最大の都市遺跡比恵那珂遺跡群(福岡市博多区・他)もあります。短里による行程理解と考古学出土物の双方が、倭国の都として同じ地点を指し示しているのです。(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
②古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。
③谷本茂「中国最古の天文算術書『周髀算経』之事」『数理科学』177号、1978年。
④「古田史学の会」研究者により、『三国志』内に長里が使用されている例が発見されている。『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年)を参照されたい。


第3428話 2025/02/12

『三国志』短里説の衝撃 (3)

     ―「短里説」無視の構造―

 「邪馬台国」畿内説の仁藤敦史氏の著書・論文(注①)には、短里説は全く触れられていません。その理由は、仁藤氏が採用した次のような論理構造の(ⅰ)と(ⅱ)にあります。

(ⅰ)「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない。この点は衆目の一致するところである。(「倭国の成立と東アジア」142頁)

(ⅱ)邪馬台国に至る方位・道程や、その風俗は、当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低いと考えられる。(「倭国の成立と東アジア」145頁)

(ⅲ)現在における倭人伝の研究視角としては、単純な位置・方位論に拘泥することなく、厳密な史料批判、東アジア的分析視角、考古学成果との対比(纏向遺跡・箸墓古墳)、などが求められていると思われる。(「倭国の成立と東アジア」143頁)

(ⅳ)一万二千里は、実際の距離ではなく、途中に「水行」「陸行」の表現を加えることで、四海のはずれを示す記号的数値となっており、魏王朝の間接的な支配が及ぶ、限界の地という意味を持たされていたことになる。(「倭国の成立と東アジア」164~165頁)

(ⅴ)文献解釈からは方位・距離いずれにおいても邪馬台国を畿内と解しても大きな矛盾はなく、前方後円墳の成立時期と分布(畿内中心に三世紀中葉から)、三角縁神獣鏡の分布(畿内中心)、有力な集落遺跡の有無(有名な九州の吉野ヶ里遺跡は卑弥呼の時代には盛期をすぎるのに対して、畿内(大和)説では纏向遺跡などが候補とされる)など考古学的見解も考慮するならば、より有利であることは明らかであろう。(『卑弥呼と台与』18~19頁)

 仁藤氏は(ⅰ)を大前提に論を進めるのですが、実はその大前提が間違っています。前半の〝「魏志倭人伝」の記載について、そのまま信用すれば日本列島内に位置づけることができない〟というのは仁藤氏の意見であり、それが正しいかどうかは検証の対象です。学問では当たり前のことですが、自らの意見を自説成立の前提とはできません。そのようなことは学者である仁藤氏には分かりきったことのはずです。ですから、後半の〝この点は衆目の一致するところである〟という一文が続いているわけですが、これもまた仁藤氏の意見です。すなわち、それも検証の対象であり、自説成立の前提にはなりません。しかも、「衆目の一致」という意見は二重の意味で誤りです。まず、学問の当否は多数決では決まらないという点で誤っています。更に、古田先生をはじめ(注②)、倭人伝の里程記事は短里によれば比較的正確な行程であり、日本列島内に位置づける説が複数の研究者(注③)から発表されています。したがって、衆目は決して一致しているわけではありません。

 (ⅱ)に至っては、長里説(一里約400メートル強)を論証抜きの大前提として初めて言えることであって、短里であればその大前提が崩れ、〝当時の中国王朝の偏見や「常識」に制約され、正確さは低い〟とする仁藤氏の解釈そのものが成立しません。こうした論理構造からもうかがえるように、畿内説は〝倭人伝の里程記事を信用しない理由〟を、それぞれの論者が〝手を変え品を変え〟て、今日まで発表し続けているといっても過言ではありません。この状況こそ、古田先生が

 「倭人伝中の里数値を漢代の里単位と同じ「単位」に解して、〝とんでもない錯覚〟の中に躍らされてきた、研究史上の苦い経験があります。たとえば、
○(韓)方四千里。 (魏志韓伝)
○郡(帯方郡治。ソウル付近)より女王国に至る、万二千余里 (魏志倭人伝)
を、〝大風呂敷だ〟と信じて疑わない「邪馬台国」論者がいまだに跡を絶たないのには、驚かされます。」

 と、50年前から言われてきたことなのです(注④)。近年の畿内説論者が、短里説の存在そのものに触れようともしない真の理由がここにあると、わたしは睨んでいます(ⅰとⅱの大前提が崩れるため)。ちなみに、古田先生の学問の方法は彼らとは真逆です。その精神が、名著『「邪馬台国」はなかった』の序文に次のように記されています。

 「わたしが、すなおに理性的に原文を理解しようとつとめたとき、いつも原文の明晰さがわたしを導きとおしてくれたのである。
はじめから終わりまで陳寿を信じ切ったら、どうなるか。
その明白な回答を、読者はこの本によって、わたしからうけとるであろう。」(つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③安本美典氏や荊木美行氏(皇學館大学教授)は短里説を採用し、「邪馬台国」の位置を筑前朝倉や筑後山門とする。小澤毅(三重大学教授)も北部九州説である。
小澤毅「『魏志倭人伝』が語る邪馬台国の位置」『古代宮都と関連遺跡の研究』吉川弘文館、2018年。
④古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。


第3427話 2025/02/11

『三国志』短里説の衝撃 (2)

 ―「短里・里程」論争の研究史―

 「邪馬台国」畿内説の仁藤敦史氏の著書・論文(注①)には、短里説は全く触れられていません。谷本さんが指摘された「里数値はまったく信頼できないものとして無視し、里数値以外の情報にもとづいて女王国の位置を求めようとする立場」に立っています。もちろん、自説成立のために短里説を否定するのはかまいませんが、それならば短里説を紹介し、根拠をあげて学問的に批判するのが学者や研究者のあるべき姿だとわたしは思います。

 短里説が取るに足らない仮説であるのならば、古田先生が『三国志』短里説を1971年に発表した後(注②)、あれほど長期にわたる論争が続くはずもありません。良い機会ですので、当時の短里・里程論争の関連著書を紹介します。
古田先生と谷本茂さんの共著『古代史の「ゆがみ」を正す』(注③)で、谷本さんが次の書籍・論文を紹介しています。

【「魏・西晋朝短里説」への反論】
○山尾幸久『魏志倭人伝』講談社、1972年
○白崎昭一郎『東アジアの中の邪馬臺国』芙蓉書房、1978年。
○佐藤鉄章『隠された邪馬台国』サンケイ出版、1979年。
○安本美典『「邪馬壹国」はなかった』新人物往来社、1980年。
○『季刊邪馬台国』12号、梓書院、1982年。13号、1982年。35号、1988年。などに里程の特集。
○原島令二『邪馬台国から古墳の発生へ』六興出版、1987年。
○石田健彦「『三国志』の里単位について ―「赤壁の戦」を疑う―」『市民の古代』14集、新泉社、1992年。

【里程論争について】
○三品彰英『邪馬台国研究総覧』創元社、1970年。
○篠原俊次「魏志倭人伝の里程単位」『季刊邪馬台国』35号、1988年
○古田武彦『古代は沈黙せず』駸々堂出版、1988年。
○古田武彦編『古代史討論シンポジウム 「邪馬台国」徹底論争』第一巻 言語、行路・里程編、新泉社、1992年。
○秦政明「『三国志』における短里・長里混在の論理性」『市民の古代』15集、新泉社、1993年。
○帯刀永一「短里説・長里説の再検討」『市民の古代』15集、新泉社、1993年。

【『周髀算経』に基づく短里説批判とそれへの反論】
○篠原俊次「一寸千(短)里説批判」『五条古代文化』30号、五条古代文化研究会、1985年。
○篠原俊次「魏志倭人伝の里程単位 ―その4―」『計量史研究』8号、日本計量史学会、1985年。
○谷本茂「『周髀算経』の里単位について」『季刊邪馬台国』35号、梓書院、1988年。

 このように50年以上前から、20年間にわたって続けられた「短里・里程」論争に一切触れない仁藤氏の論文・著書を、「時代を50年逆行している」と谷本さんが批評したのはもっともなことです。最後に、倭人伝中の里単位について言及した古田先生の著書『邪馬一国への道標』(注④)の次の一文を紹介します。

 「倭人伝中の里数値を漢代の里単位と同じ「単位」に解して、〝とんでもない錯覚〟の中に躍らされてきた、研究史上の苦い経験があります。たとえば、
○(韓)方四千里。 (魏志韓伝)
○郡(帯方郡治。ソウル付近)より女王国に至る、万二千余里 (魏志倭人伝)
を、〝大風呂敷だ〟と信じて疑わない「邪馬台国」論者がいまだに跡を絶たないのには、驚かされます。つまり、単位問題では、いつでも、〝その時代の単位の実体をまず確認する。この手続きが不可欠なのです。〟」同書一〇七頁 (つづく)

(注)
①仁藤敦史『卑弥呼と台与』山川出版社、2009年。
同「倭国の成立と東アジア」『岩波講座 日本歴史』第一巻、岩波書店、2013年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦・谷本茂『古代史の「ゆがみ」を正す 「短里」でよみがえる古典』新泉社、1994年。
④古田武彦『邪馬一国への道標』講談社、1978年。

【写真】『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』出版30周年記念講演会での谷本さんと古賀の祝賀講演。東京朝日新聞社ホールにて、2001年10月8日。


第3426話 2025/02/10

『古田史学会報』186号の紹介

『古田史学会報』186号を紹介します。同号には拙稿〝「九州王朝律令」復元研究の予察〟と〝安藤哲朗氏のご逝去を悼む〟〝〔新年のご挨拶〕超満員御礼!新春古代史講演会〟の三編を掲載して頂きました。

〝安藤哲朗氏のご逝去を悼む〟で紹介した、生前、安藤さんよりいただいた未発表稿「真福寺本古事記の文字について」は、遺稿として多元的古代研究会へお譲りしました。同会の会報『多元』か記念刊行物に収録していただけるとのことですので、故人のご遺志にもかない、同会々員のみなさんにも喜んでいただけることと思います。

〝「九州王朝律令」復元研究の予察〟は、現存しない九州王朝律令の復元のために、木簡・金石文・『日本書紀』などに遺っている断片史料を紹介したものです。言わば基礎研究ですので、今後の九州王朝研究に裨益できれば幸いです。
一面に掲載された正木稿「「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承(上)」は前号掲載の「『筑後国風土記』の「磐井の乱」とその矛盾」に続く、筑紫君磐井に関する本格的な論文です。この分野の有力説になるのではないでしょうか。注目したいと思います。

古谷さんの論稿〝「牛利」という姓名〟は倭人伝に見える「都市牛利」について、「都市」を官職名とした『古田史学会報』147号(2018年)の論稿「長沙走馬楼呉簡の研究」の続編でもあり、「牛利」の「牛」を姓、「利」を名とするものです。史料根拠も示されており、有力説ではないでしょうか。これもなかなか面白い仮説と思いました。
186号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』186号の内容】
○「磐井の崩御」と「磐井王朝(九州王朝)」の継承(上) 川西市 正木 裕
○不改常典仮託説批判 古田武彦説と中野渡俊治説の対比 たつの市 日野智貴
○國枝氏の「唐書類の読み方」への返答 神戸市 谷本 茂
○なぜ、『隋書』は「裴清」と書いたのか ―推古紀の遣唐使の解明― 姫路市 野田利郎
○「九州王朝律令」復元研究の予察 京都市 古賀達也
○「牛利」という姓名 枚方市 古谷弘美
○安藤哲朗氏のご逝去を悼む 古田史学の会・代表 古賀達也
○〔新年のご挨拶〕超満員御礼!新春古代史講演会 古田史学の会・代表 古賀達也
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○「会員募集」ご協力のお願い
○編集後記 高松市 西村秀己

『古田史学会報』への投稿は、
❶字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮し、
❷テーマを絞り込み簡潔に。
❸論文冒頭に何を論じるのかを記し、
❹史料根拠の明示、
❺古田説や有力先行説と自説との比較、
❻論証においては論理に飛躍がないようご留意下さい。
❼歴史情報紹介や話題提供、書評なども歓迎します。
読んで面白く勉強になる紙面作りにご協力下さい。