第3006話 2023/05/05

九州年号「大化」「大長」の原型論 (1)

五十年にも及ぶ九州年号研究において、いくつかの画期を為す進展がありました。私見では次のエポックです。

(1) 九州王朝(倭国)により公布された九州年号(倭国年号)実在説の提起(注①)。
(2) 『二中歴』「年代歴」の九州年号が最も原型に近いとする(注②)。
(3) 大和朝廷への王朝交代後(701年)も九州年号は、「大化」(695~703年)を経て「大長」(704~712年)まで続く(注③)。
(4) 九州年号「白雉元年」(652年)を示す、「元壬子年」木簡の発見(注④)。

(1)は古田先生による九州王朝説の花形分野ともいえる先駆的研究です。わたしが古田門下となって最初に挑戦したテーマがこの九州年号でした。
(2)は、その中心的課題としての九州年号の原型論(年号立て、用字)研究の成果として、『二中歴』に採録された「年代歴」冒頭部分の継体元年(517)に始まり大化六年(700)で終わる九州年号群が本来の九州年号の姿をより遺しているとする古田先生の見解です。
(3)は、九州年号の「大化」「大長」が701年を越えて続いたとする、わたしの研究です。
(4)は、芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「三壬子年」と当初発表された木簡(『日本書紀』の「白雉三年壬子」のこととする。注⑤)の文字が実は「元壬子年」であり、九州年号の白雉元年壬子を意味する〝九州年号木簡〟であるという発見です。わたしがそのことに気づき、古田先生らと共に同木簡を実見して、「三」ではなく「元」であることを確認しました。(つづく)

(注)
①古田武彦『失われた九州王朝』朝日新聞社、昭和四八年(一九七三)。ミネルヴァ書房より復刻。
②古田武彦「補章 九州王朝の検証」『失われた九州王朝 天皇家以前の古代史』ミネルヴァ書房、2010年。
古賀達也「九州年号の史料批判 『二中歴』九州年号原型論と学問の方法」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)明石書店、2017年。
③古賀達也「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2006年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』所収。古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
同「九州年号『大長』の考察」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集)、2017年。
同「洛中洛外日記」1516~1518話(2017/10/13~16)〝九州年号「大化」の原型論(1)~(3)〟
④古賀達也「木簡に九州年号の痕跡 「三壬子年」木簡の史料批判」『古田史学会報』74号、2006年。『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
古田武彦「三つの学界批判 九州年号の木簡(芦屋市)」『なかった 真実の歴史学』第二号、ミネルヴァ書房、2006年
古賀達也「『元壬子年』木簡の論理」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
⑤『木簡研究』第十九号(1997)には次のように報告されている。
「子卯丑□伺(以下欠)」
「 三壬子年□(以下欠)」
「年号で三のつく壬子年は候補として白雉三年(六五二)と宝亀三年(七七二)がある。出土した土器と年号表現の方法から勘案して前者の時期が妥当であろう。」


第3005話 2023/05/04

新庄宗昭著『実在した倭京』を読む

本年11月に開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2023、注①)で、わたしも「七世紀の律令制都城論 ―中央官僚群の発生と移動―」を発表させていただきます(注②)。わたしの発表は二日目(11月12日)の【セッションⅡ】理系から見た「倭国から日本国へ」で行いますが、同セッションでは新庄宗昭さんも〝藤原京の先行条坊〟について発表されるようです。倭国(九州王朝)から日本国(大和朝廷)への王朝交代の舞台が藤原宮ですから、テーマに適った研究です。新庄さんは建築家ですので、ケミストのわたしと共に〝理系から見た〟王朝交代研究の発表を期待されているのだと思います。
発表後にはパネルディスカッションが予定されているため、新庄さんの主張についても事前に勉強しておく必要があり、同氏から贈呈していただいた著書『実在した倭京』(注③)を繰り返し読んでいます。建築家らしい主張や視点が明快で、共感できました。なかでも、井上和人さんの次の記述を《井上命題》と呼び、同書に通底する主題として繰り返し紹介される筆致に、古田先生の学問精神と相通じるものを感じました。

〝都城の条坊道路のような体系的な施設を設定するには、周到な計画が前提とされていたという当たり前の事実であり、また、そうでなければ斎宮方格地割をはじめとする広大な領域に及ぶ都市的地割は実現し得なかったであろう。それとともに、整然とした状況を復元し難い場合には、そこには変則的な状況を生じさせざるを得なかった理由が介在していると判断する必要があるのであり、いたずらに往事の技術水準の低さに原因を帰したり、分析の不十分さあるいは分析者自身(つまり私)の不明さを等閑視して、往事の人々の作業の粗略さに理由を求めて、そこで判断を停止してはならないということも学んだ。〟(注④)

この文を氏は《井上命題》と呼び、「古代だから技術が低かっただろう、古代だから中途半端であったろう、などという研究者の判断は眉に唾をつけて読んだ方がよい。古代の技術者を蔑視すべきではない。」とされました。この意見には大賛成です。わたしも、化学者の末席を汚すものとして、理系的発想によるアプローチを試みる予定です。新庄さんとのディスカッションが楽しみです。

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」で公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)も参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」2980話(2023/04/06)〝八王子セミナー2023の演題と要旨(案)〟
③新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
④井上和人「斎宮方格地割研究への提言」『古代都城制条里制の実証的研究』学生社、2004年、377頁。


第3004話 2023/05/03

「東日流外三郡誌」、新野直吉氏の証言

 今月六日から青森県弘前市を訪れ、三十年ぶりに和田家文書調査を実施します。その事前準備のため、『東日流外三郡誌』をはじめ、関連資料の整理と精査を進めていますが、「東日流外三郡誌」に触れた、秋田大学名誉教授の新野直吉さん(注①)の発言記録を見つけました。それは『安倍・安東氏シンポジウム(記録)』という冊子で、平成元年八月八日に市浦村(青森あすなろホール)で開催されたシンポジウムの記録です(注②)。
そこで、昭和五七年(1982)の山王日吉神社発掘調査の経緯について、新野さんが次のように紹介されています。

〝それでは山王坊をどうして掘ろうとしたかという事でありますが、山王坊の事について『東日流外三郡誌』という、この村の村史の中に活字化された資料がありまして、その中に山王坊の事が出ております。それから山王坊という地名が先ずあるわけですから、山王坊というからには山王さんである事は明らかであり、しかもあそこに山王鳥居がちゃんとあって現実に山王さん―日吉神社―が祀られているわけで、あの地域に昔の山王さんの何らかの遺跡があるのではないか、という事は誰でも考える事ができるわけであります。
最初にあそこを発掘する事を、昭和五十七年に決める前には、実は檜山のある遺跡を発掘しようかという事も考えたのでありますが、そちらの方はある意味でここが○○のお寺の跡であるという事が史跡的に明確になっていました。いつでも掘れば明らかになるというか、どういった寺院の跡であるかは、ほぼ推察がつきました。ところが、山王坊の方は今言ったように神社はある。地名もある。それから市浦の村史の資料の中にも関係した記述がある、という事はあるけれども本当は学問的にはその事を誰も立証した事がないわけであります。そしてまた、わからないわけであります。
現実には豊島先生(注③)はじめ土地の方々はご承知のように、上の方の階段―要するに階(きざはし)―から上の方の部分には、当時既に石組等が露出していましたので、この土地ではここに何らかの遺跡があるんだという事は伝承されていたと考えられます。私はその年初めて現地に入ったわけでありまして、それ以前の状況は全く知りませんでした。唯、豊島先生という強い味方がおられていろいろ教えてもらえたわけです。〟52~53頁

 このように、昭和五七年の発掘調査までは山王坊遺跡の存在を「学問的にはその事を誰も立証した事がない」という、新野さんの証言は貴重です。すなわち、当時としては東日流外三郡誌の記述(絵図)が唯一の詳細な史料であったということなのです。そして、発掘調査の成果を次のように語られています。

〝現在の状況ではですね、展示されている坂田さん(注④)の描いた絵でもお分かりのように二列に並んだ日吉神社の社殿跡と考えられるものが検出されています。そして別に言えば、あのスペースには外三郡誌という資料の中に出ていたような十三宗寺というようなお寺の伽藍が稠密に並んでいた可能性はあれだけではありません。もしそういうものがどうしても存在するとするならば、それはあの山王坊の林の前面に連なっている田圃の中にあるかも知れませんが、その可能性は中世的建物の礎石ですから今までの耕作でいっぺんも当たっていないとするならば、無いんだと思います。思いますと言うので、断定しているわけではありません。従って私はまた今度、じゃ一体あの東日流外三郡誌に書いてある十三宗寺というようなもの―十三千坊というようなものになるんですね―そのようなものが本当にあったのかどうか。どうも、もしああいうものが近世以前からああいう絵のようなものの原図になるものが伝わっていたとするならば、「単なる宗教的な曼荼羅」だと、(後略)〟54頁

 山王坊を発掘したら二列に並んだ日吉神社の社殿跡が検出されたのですが、その反面、東日流外三郡誌に描かれたような「十三宗寺」のような伽藍は無いのではと語っていることから、新野さんはこのシンポジウムの時点(1982年)では懐疑的であったことがうかがえます。しかし、その後の発掘調査(2006~2009年)で、「山王坊の林の前面に連なっている田圃の中」から大型の伽藍跡が複数出土したのです。すなわち、新野さんの推定よりも東日流外三郡誌の絵図の方が当たっていたわけです。当時、懐疑的だった新野さんのこの証言「山王坊の林の前面に連なっている田圃の中にあるかも知れませんが」は、東日流外三郡誌の真作性を結果として指し示していたのです。

(注)
①新野直吉氏(1925年~)。日本古代史および東北地方史の専門家。秋田大学名誉教授、秋田県立博物館名誉館長。
②『安倍・安東氏シンポジウム(記録)』市浦村歴史民俗資料館編、平成五年(1993)。
③豊島勝蔵氏(1913~2001年)。当時、市浦村史編纂委員長。
④坂田泉氏。当時、東北大学工学部、建築史の専門家。

参考 2023年5月20日 古田史学会 関西例会

東日流外三郡誌の考古学
— 「和田家文書」令和の再調査 古賀達也


第3003話 2023/05/02

多元的「天皇」併存の新試案 (4)

 九州王朝下の多元的「天皇」の存在(併存)という新試案により、「袁智天皇」「仲天皇」(注①)、「中宮天皇」(注②)、そして西条市の字地名「紫宸殿」「天皇」など(注③)の説明が可能になると考えたのですが、念のため、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)に意見を求めました。日野さんは、九州王朝下の役職としての「天皇」がいたのではないかとする構想を持たれていたこともあり、わたしの試案について批評を要請したものです。日野さんの批評は概ね次のようなものでした。

(a) 倭国(九州王朝)の天子は「法皇」であり、その下の役職として「天皇」がいた、というのが私(日野)の仮説なので、その点では古賀説と大きな違いはない。

(b) 「中宮天皇」の用例からも判るように「天皇」は「中宮」クラス、つまり「皇后レベル」の地位であると考えられ、そのような地位の役職に同時に何人もいたとは考えにくい。

(c) 「越智天皇」は越智氏であると思うが、越智氏が世襲していたという根拠は乏しいのではないか。『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』を見ると「難波宮」時代の大和政権の大王(例:孝徳)が「天皇」とは呼ばれておらず、純粋に「難波宮時代は(大和大王家ではなく)越智氏が天皇であった」という解釈も可能である。

 以上の指摘がありました。七世紀の「天皇」銘金石文(船王後墓誌)の三名の天皇に対する捉え方などにも差があり(注④)、(b)(c)については見解がわかれました。まだ、思いついたばかりの新試案ですので、引き続き慎重に検討します。(おわり)

(注)
①『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』天平十九年(747)作成。
②野中寺彌勒菩薩像台座銘。
③合田洋一『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」がある。また、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、当地の須賀神社祭神は「中河天皇」とのこと。
④日野智貴「九州王朝の『法皇』と『天皇』」『古田史学会報』163号、2021年。


第3002話 2023/05/01

多元的「天皇」併存の新試案 (3)

七世紀(九州王朝時代)において、九州王朝の天子の配下としての「天皇」号は、近畿天皇家(後の大和朝廷)にのみ許されていたとする従来の理解では説明しにくい史料情況があります。その最たるものが、愛媛県東部の今治市・西条市に遺存する「天皇」「○○天皇」地名でした。
合田洋一さんの著書『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」があり、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、須賀神社祭神は「中河天皇」とのことです。言わば「天皇」だらけなのです。なぜこのような現象が当地域にのみ遺存しているのか、ずっと不思議に思ってきました。〝後代造作〟にしても、度が過ぎていると思ったのです。大和朝廷の時代になってから、そのような地名を造作することが許され、後の世まで伝わるということが果たしてあり得るのでしょうか。
こうした問題意識を持っていたのですが、『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)に見える「袁智天皇」に解決の糸口を見いだしました。この「袁智天皇」を文字通り袁智(越智)氏が天皇号を称したものではないかと考えたのです。

「一帳像具脇侍菩薩八部等卅六像
右袁智 天皇坐難波宮而、庚戌年冬十月始、辛亥年春三月造畢、即請者」『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』

袁智天皇が難波宮に坐していた、庚戌年(650年)冬十月から始め、辛亥年(651年)春三月に造り畢わったという仏像の説明に登場する「袁智天皇」こそ、四国の大豪族で白村江戦にも参戦した越智氏(注①)が天皇号を許されたのではないでしょうか。その理由は次のようです。

(1) 「袁智天皇」の袁智を越智氏のこととする理解は自然で無理がない。
(2) 越智氏は天孫降臨以来の天孫族であることが系図などに記されており(注②)、近畿天皇家と同様に、九州王朝(倭国)配下の有力豪族であり、その臣下としての「天皇」号を許されていたとしても不自然ではない。
(3) 「袁智天皇」が難波宮にいたとする庚戌年(650年)や辛亥年(651年)は前期難波宮の建設時期(創建は652年)であり、「袁智天皇」は前期難波宮建設に関わっていた人物ではあるまいか。この点、『日本書紀』に見える孝徳の「難波長柄豊碕宮」ではなく、「難波宮」とされていることにも説明がつく(注③)。
(4) そうであれば越智氏の勢力下にある伊予大三島の大山祇神社の『伊予三島縁起』に見える「番匠の初め」「常色二年(648)」の記事と対応する。この記事は「袁智天皇」が前期難波宮造営の番匠を送ったことを伝えたものと解することができる。
(5) 九州王朝から許された「袁智天皇」の称号が由来となって、当地(越智国)に「紫宸殿」や「天皇」地名が遺存したのではないか。もしかすると、701年以後、「天皇」号を大和朝廷から剥奪された越智氏はそれを地名や伝承として遺したのではあるまいか。

以上のような理解により、『大安寺伽藍縁起』の「袁智天皇」を伊予の越智氏のことと考えました。すなわち、九州王朝下の多元的「天皇」の存在(併存)という新試案です。(つづく)

(注)
①伊豫国越智郡大領の先祖である越智直(おちのあたい)が白村江戦で捕虜になったが、観音菩薩の霊験により無事帰還することができ、寺を建立したという説話が『日本霊異記』上巻「兵災に遭ひて、観音菩薩の像を信敬し、現報を得る緣 第十七」に見える。
②越智氏一族河野氏の来歴を記す『予章記』には、始祖を孝霊天皇の第三皇子、伊予皇子とする。越智氏・河野氏について、九州王朝説に基づく次の論稿がある。
古賀達也「『豫章記』の史料批判」『古田史学会報』32号、1999年。
八束武夫「『越智系図』における越智の信憑性 ―『二中歴』との関連から―」『古田史学会報』87号、2008年。
「大山祇神社の由緒・神格の始源について ―九州年号を糸口にして―」『古田史学会報』88号、2008年。
③前期難波宮の真上に造営された聖武天皇の後期難波宮は、『続日本紀』には「難波宮」とされている。前期・後期難波宮は大阪市中央区法円坂、長柄豊碕は北区豊崎にあり、両者は位置が異なる。


第3001話 2023/04/29

多元的「天皇」併存の新試案 (2)

七世紀(九州王朝時代)での「天皇」号研究を始めてから、いくつもの難題に突き当たっています。その一つが『大安寺伽藍縁起并流記資財帳』(天平十九年・747年作成)に見える「仲天皇」と「越智天皇」でした。「洛中洛外日記」でも考察の一端を発表しましたが(注①)、未だ自信が持てる仮説提起には至っていません。とは言え、「天皇」史料を概観して、ある試案を思いつきました。七世紀、九州王朝の時代には近畿天皇家に限らず、多元的に「天皇」号を称することを九州王朝(倭国)は制度として採用していたのではないかとする作業仮説(多元的「天皇」併存試案)です。

この試案に至った背景には、次の史料事実を多元史観・九州王朝説の立場からは、どのような説明が可能だろうかという問題意識がありました。

(a) 野中寺彌勒菩薩像台座銘(注②)にある「中宮天皇」は近畿天皇家の天皇とは考えにくく、九州王朝系の女性天皇ではないか(注③)。

(b) 筑紫大宰府の他に「吉備大宰石川王」が『日本書紀』天武紀に見えるが、吉備にも「大宰」を名のることを九州王朝から許された「有力者(石川王)」がいた。そうであれば筑紫大宰と吉備大宰が併存していたことになり、「大宰」という役職が九州王朝下に多元的に併存していたことになる。

(c) 愛媛県東部の今治市・西条市に、「天皇」「○○天皇」地名や史料が遺っている(注④)。管見では、このような情況は他地域には見られず、この地域に「天皇」地名などが遺存していることには、何らかの歴史的背景があったと考えざるを得ないのではないか。

このような疑問に突き当たっていたとき、『大安寺伽藍縁起』の「仲天皇」と「袁智天皇」を考察する機会を得て、多元的「天皇」併存試案であれば説明できるのではないかと気付いたのです。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2969~2973話(2023/03/19~25)〝『大安寺伽藍縁起』の仲天皇と袁智天皇 (1)~(4)〟
②同銘文は次の通り(異説あり)。
「丙寅年四月大朔八日癸卯開記 栢寺智識之等 詣中宮天皇大御身労坐之時 誓願之奉弥勒御像也 友等人数一百十八 是依六道四生人等 此教可相之也」
③古賀達也「洛中洛外日記」327話(2011/07/23)〝野中寺弥勒菩薩銘の中宮天皇〟
同「洛中洛外日記」2332話(2020/12/24)〝「中宮天皇」は倭姫王か〟
④合田洋一『葬られた驚愕の古代史』(創風社出版、2018年)によれば、西条市明里川には字地名「紫宸殿」「天皇」がある。また、当地の文書『両足山安養院無量寺由来』には「長沢天皇」「長坂天皇」「朝倉天皇」が見え、当地の須賀神社祭神は「中河天皇」とのことである。


第3000話 2023/04/28

九州年号「大化」年間に

   編纂された「大宝律令」 (2)

 井上光貞説では、「大宝律令」の編纂開始は文武四年(697)、九州年号の大化三年からとされています。すなわち、「大宝律令」は九州王朝の時代、大化年間に編纂された言わば〝大化律令〟とでも称すべきものなのです。この理解(史実)は様々な問題を惹起します。その一例を紹介します。
『令集解』戸令には下記のように「古記同之」とあることから、古記とされた「大宝戸令」には、行政単位「郡」を採用したことがわかります。

〝凡郡以廿里以下。十六里以上。爲大郡。(中略)〔古記同之。〕〟『令集解』巻第九 戸令一(注①)。〔〕内は細注。

 これは戸令の一部ですが、「大宝戸令」編纂時の七世紀末は九州王朝が制定した行政単位「評」の時代です。ところが、ここでは既に「郡」としていますから、大化三年(697)頃、近畿天皇家は王朝交代後に「評」から「郡」に変更する意志を固めていたことがうかがえます。従って、荷札木簡などが701年以降は全国一斉に「郡」表記に変更されているという出土事実もあり、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代がほぼ平和裏に、周到な準備のもとに行われたと理解せざるを得ません。
こうした王朝交代直前の権力移行準備が九州年号「大化」年間に行われていることを考えると、この「大化」という年号の字義「大きく化す」にも注目せざるを得ません。これは王朝交代を前提にした年号かもしれません。そうであれば、「大化」への改元を実質的に決めたのは持統ら近畿天皇家だったのかもしれません。九州年号で見ると、持統の藤原宮遷都が朱鳥九年(694)十二月になされており、その翌年には「大化」へ改元しています。すなわち、大化年間の藤原宮では〝大いなる変化〟=王朝交代へとまっしぐらに突き進んでいたのではないでしょうか。
こうした推定が正しければ、大化九年の翌年(704)に九州年号は「大長」に改元されていますが、この「大長」の字義にも何かいわくがありそうです。もしかすると「大長」は、王朝交代を快く思わない九州王朝の残存勢力により、〝大いに長ず〟という希望を込めた年号だったのでしょうか。しかし、大長九年(712)で九州年号は終わりを告げています。その年に九州地方で反乱があり、大和朝廷により鎮圧された痕跡が『続日本紀』に見えます(注②)。その後も九州王朝の残影が『万葉集』などに遺されているようです(注③)。稿を改めて紹介したいと思います。(おわり)

(注)
①『国史大系 令集解 第二』吉川弘文館、昭和四九年(1974)。
②古賀達也「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
③赤尾恭司氏(多元的古代研究会・会員、佐倉市)が「古田史学リモート勉強会(2023年4月8日)」他で、「天平時代の「筑紫」の様相…西海道節度使に関する万葉歌を手掛かりとして」を発表している。


第2999話 2023/04/28

九州年号「大化」年間に

   編纂された「大宝律令」 (1)

九州王朝律令の研究をしていて、改めて気付いたことがありました。それは、大和朝廷の最初の律令、「大宝律令」は九州王朝の時代、七世紀末に編纂されたという事実です。具体的には九州年号の大化年間(695~703年。注①)、おそらくは文武天皇即位前後の697~700年頃に撰定作業が行われたと考えられています。なお、「大宝律令」が大和朝廷にとって初めての律令であることについて、『古代は輝いていたⅢ』(注②)に古田先生による次の指摘があります。

〝その一つは、大宝元年(七〇一)に「律令を撰定す。是に於て始めて成る」(『続日本紀』文武天皇)の記事であり、その二は、「大宝元年を以て律令初めて定まる」(威奈大村骨蔵器、慶雲四年=七〇七)の金石文だ。両者そろって“七世紀以前に、近畿天皇家制定の律令なし”の事実を、率直に告白していたのである。〟(ミネルヴァ書房版、316頁)

この「大宝律令」の撰定時期について、岩波の新日本古典文学大系『続日本紀 一』(注③)では次のように説明されています。

〝井上光貞は撰定の過程を以下のように整理している(「日本律令の成立とその注釈書」『著作集』一)。大宝令の撰定事業は、文武の即位直後もしくはその少し前の立太子直後に開始され、文武四年三月以前にその編纂は終わっており、文武四年三月の(1)においてそれを朝廷官人に披露するとともに、大宝律の撰成に入り、同年六月の(2)において大宝令の編纂終了にともなう編纂者への賜禄の儀が行われた。〟(『続日本紀 一』287頁)

ここでの(1)(2)とは次の『続日本紀』の記事です。

(1)文武四年(700)三月甲子、詔諸王臣読習令文。又撰成律条。
(2)文武四年(700)六月甲午、勅浄大参刑部親王、…等、撰定律令。賜禄各有差。

「大宝令の撰定事業は、文武の即位直後もしくはその少し前の立太子直後に開始され、文武四年三月以前にその編纂は終わっており」とする井上光貞説によれば、文武立太子の持統十一年(697)二月か、即位した文武元年(697)八月の直後に大宝令の編纂が開始されており、その年は九州年号の大化三年に当たります。そして大宝律令編纂を完了したのが文武四年(700)で、これは大化六年に当たります。(つづく)

(注)
①701年の王朝交代後も九州年号「大化七年~九年(701~703年)」「大長元年~九年(704~712年)」が続いたとする次の拙稿がある。
「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』、古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2012年。初出は『古田史学会報』77号、2007年。
「続・最後の九州年号 ―消された隼人征討記事」同上。初出は『古田史学会報』78号、2007年。
「九州年号の史料批判 ―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』『古代に真実を求めて』20集、明石書店、2017年。
「九州年号『大長』の考察」同上。初出は『古田史学会報』120号、2014年。
②古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(一九八五)。ミネルヴァ書房より復刻。
③新日本古典文学大系『続日本紀 一』岩波書店、1989年。


第2998話 2023/04/27

「九州王朝律令」復元研究の予察 (6)

古田先生は七世紀の九州王朝律令について、次のように考察しています(注)。本テーマの締めくくりとして紹介します。

〝その半世紀余りあとの多利思北孤の時代、中国の天子のみならず、新羅王も律令制のもとにあった。そのような東アジアの世界の中で、「天子」を自称した多利思北孤が、律令をもたぬはずはない。「天子―年号」と同じく、「天子―律令」もまた、いわば必然のセットだったのである。(中略)
『隋書』俀国伝によると、次のようにのべられている。
其の俗、人を殺し、強盗及び姦するは皆死し、盗む者は贓(ぞう)を計りて物を酬(むく)いしめ、財無き者は、身を没して奴と為す。自余は軽重もて或は流し或は杖す。……争訴罕(まれ)に、盗賊少なし。
(中略)
また右の文中には「死」「贓」「没」「流」「杖」といった用語が点綴されている。これらはいずれも律令用語だ。すなわち俀国の律令なのである。〟(ミネルヴァ書房版 153~154頁)

史料に見える九州王朝律令の断片を紹介されたものですが、もっとも重要な指摘は、中国南朝律令の影響下に九州王朝律令が成立したとする次の指摘です。

〝以上と対照すれば、中国側の法概念と同類の法概念が倭国側にもまた存在したこと、それを疑うことはできにくい。(俀国側は、磐井系列であるから、南朝系の法概念であろう)。
すなわち北朝系の「日没する処の律令」と同じく、南朝系の「日出づる処の律令」もまた、筑紫の地に存在していたのである。〟(ミネルヴァ書房版 154~155頁)

〝このような新視点に立つとき、唐制に依拠したはずの「大宝律令」に南朝系の条句が見られるという、法制史上著名の難問も、何の苦もなく解決しうるであろう。なぜなら、九州王朝系の律令は、当然ながら南朝系の律令を核心としていたからである。先にあげたように、「浄御原朝廷」(持統朝)は、九州王朝系の「令」に依存しており、大宝律令も、これを准正とした旨、『続日本紀』大宝元年項に明記されているからである。〟(ミネルヴァ書房版 317頁)

以上の古田先生の指摘によれば、九州王朝律令復元研究には中国南朝律令の研究も重要であることがわかります。(おわり)

(注)古田武彦『古代は輝いていたⅢ』朝日新聞社、昭和六十年(一九八五)。ミネルヴァ書房より復刻。


第2997話 2023/04/26

多元的「祝詞」研究の画期、正木説

 昨日、奈良市で開催された正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の講演(注①)を拝聴しました。テーマは〝倭国から日本国へ ⑤盗まれた「広瀬神・竜田神」の祭礼、他〟で幅広いテーマを扱った講演でした。わたしが最も刮目したのが、「広瀬神・竜田神」祭礼の淵源を九州王朝(筑後・肥後)とする仮説でした。それは、「龍田風神祭」祝詞の内容「悪しき風」が、肥後地方の地名(立野)や風害(まつぼり風。穀物を枯らせ、甚大な被害を与える肥後地域〈立野火口瀬周辺〉特有の強風)に見事に対応していることなどを明らかにするものでした。

〝五穀物を始めて、天下の公民の作る物を、草の片葉に至るまで成さず、一年二年に在らず、歳眞尼(まね)く傷(そこ)なふ〈略〉悪しき風・荒き水に相(あ)はせつつ、〈略〉吾が宮は朝日の日向ふ處、夕日の日隠る處の龍田の立野(たちの)の小野に、吾が宮は定め奉り〟「龍田風神祭」祝詞『延喜式』

 この正木さんの新説を知るまで、わたしは同祝詞を奈良県の龍田神社近辺で成立したものとばかり思い込んでいました。それが本来は『隋書』俀国伝に記された阿蘇山の周辺で成立したものということに驚きました。
古田史学では、古田先生による「大祓の祝詞」研究(注②)が著名です。「六月(みなづき)の晦(つごもり)の大祓(おほはらへ)〈十二月(しはす)はこれに准(なら)へ〉」の祝詞が、弥生時代の前半期、「天孫降臨」当時、降臨地たる筑紫(筑前中域。糸島と博多湾岸の間の高祖山連峰近辺)において作られたとする研究です。今回の正木説は、古田先生以来の祝詞研究で、画期をなすものと思いました。正木説に刺激されて、多元的祝詞研究が更に進むことと期待されます。

(注)
①古代大和史研究会(原幸子代表)主催、奈良県立図書情報館。毎月一回の開催で、今回で50回を迎えたとのこと。
②古田武彦『まぼろしの祝詞誕生』古田武彦と古代史を研究する会編、新泉社、一九八八年。


第2996話 2023/04/25

多元的「天皇」併存の新試案 (1)

 古田説では「天皇」号について、(A)九州王朝(倭国)の天子をナンバーワンとして、九州王朝が任命したナンバーツーとしての「天皇」(701年の王朝交代前の近畿天皇家)という概念と(注①)、(B)九州王朝の天子が別称として「天皇」を称するケースを晩年に提起(注②)されました。すなわち、九州王朝時代における天子(上位者)と天皇(下位者)という位づけ「天子≠天皇」(A)と、[天子=天皇(別称)」とする(B)の概念です。わたしは(A)の概念(旧古田説)を支持していますが(注③)、古田学派内では(B)を支持する見解(注④)もあり、まだ論議検討中のテーマです(注⑤)。
他方、古田武彦著『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』(注⑥)には、古代史料に見える「天皇」号について次のように述べています。

〝(前略)日出処天子というのは筑紫の天子です。
それに対して近畿天皇家のほうは大王です。その点については七世紀前半の史料と思われる法隆寺の「薬師仏造像記」をみると、はっきりわかります。ここでは用明天皇のことを「天皇」、推古天皇を二回にわたって「大王天皇」といっています。中国の『資治通鑑』という史料をみると唐代のところで第三代の天子の高宗は「高宗天皇」と表現されています。天皇というのは「殿下」などのような敬称なのです。その上にくるものが問題なので、高宗天皇といえば天子に対する敬称であり、大王天皇といえば大王に対する敬称となるのです。つまり「大王は天子ではない」のです。しかし七世紀前半に多利思北孤は天子を称していました。〟ミネルヴァ書房版、143頁。

 この古田先生の解説は難解です。前半では、用明や推古の「天皇」「大王天皇」号を多利思北孤(天子)の下位・ナンバーツー「天皇」表記で、古田説(A)に対応しています。ところが後半では、「天皇」は「殿下」などのような敬称とされ、天子(高宗)でも大王(用明、推古)でも使用できるとするものです。この理解ですと、位付けとは直接関係のない、「殿下」のような一般的な敬称として「天皇」号が使用できることとなり、その場合は(A)の「天皇」号とは異なる概念になるのではないでしょうか。したがって、「天子の別称」とする(B)に近いのかもしれません。いずれにしても難解な解説ですので勉強を続けます。(つづく)

(注)
①古田武彦『古代は輝いていたⅢ』「第二章 薬師仏之光背銘」朝日新聞社刊、1985年。
②古田武彦「金石文の九州王朝 歴史学の転換」『なかった 真実の歴史学』第六号、ミネルヴァ書房、2009年。
同『古田武彦が語る多元史観』「第六章 2飛鳥について」ミネルヴァ書房、2014年。
③古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 -大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か-」『古田史学会報』152号、2019年6月。
同「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2020年。
同「大和『飛鳥』と筑紫『飛鳥』」『東京古田会ニュース』203号、2022年。
④西村秀己「『天皇』『皇子』称号について」『古田史学会報』162号、2021年。
服部静尚「野中寺彌勒菩薩像銘と女帝」『古田史学会報』163号、2021年。
同「九州王朝の天皇はどう呼ばれたか」『東京古田会ニュース』208号、2023年。
⑤九州王朝のナンバーワン称号を「法皇」とする次の論稿がある。
日野智貴「九州王朝の『法皇』と『天皇』」『古田史学会報』163号、2021年。
⑥古田武彦『古代史をゆるがす 真実への7つの鍵』原書房、1993年。ミネルヴァ書房より復刊。


第2995話 2023/04/24

待望の復刊、

 『関東に大王あり』(ミネルヴァ書房)

 三月の「古田史学の会」関西例会に、古田先生のご子息の古田光河(こうが)さんが参加され、例会終了後の懇親会にもお付き合いいただきました。亡き先生の思い出話に花が咲きました。ご家族でなければ知らないような先生の一面をお聞きでき、とても楽しい一夕でした。
そのとき、ミネルヴァ書房から復刊される先生の著書のことを聞くことができました。出版不況の最中、古田武彦の本でも復刊が難しく、光河さんのご尽力により、ようやく復刊に至ったとのことでした。それが、この度、ミネルヴァ書房より刊行された『関東に大王あり 稲荷山鉄剣の密室』(注)です。同書は1979年に㈱創世記から出版され、2003年には新泉社から「新版」として復刊された好著です。今回は新泉社版を底本に復刊したことが、光河さん(復刊編集責任)の解説にあります。
本書の中心は、埼玉県行田市の稲荷山古墳出土鉄剣銘の多元史観による読解です。その結果、関東にあった古代王権の実在を論証され、論は、熊本県江田船山古墳出土の鉄剣名、関東の金石文明、『宋書』倭国伝へと及びます。
古田学派の研究者に、是非、読んで頂きたいのが巻末の「学問の方法」です。わたしは古田先生から〝学問は方法が大切です。学問の方法を間違えば、結論も間違うからです〟と厳しく言われ続けました。古代史ファン、古田ファンの皆さんに、この一冊を推奨します。

(注)古田武彦『関東に大王あり 稲荷山鉄剣の密室〈古田武彦古代史コレクション28〉』ミネルヴァ書房、2023年。