第2921話 2023/01/19

『東日流外三郡誌』

    研究の推奨テキスト (2)

北方新社版『東日流外三郡誌』(注①)には欠字が多いことに気づき、わたしは欠字部分の調査を行いました。八幡書店版(注②)と比較すると、虫食いや破損による欠字ではなく、埋蔵金や財宝に関する記事が伏せ字になっていることがわかりました。そこで北方新社版を編集された藤本光幸さん(故人、藤崎町)にそのことを問い合わせると、〝埋蔵金の記事や地図をそのまま掲載すると、埋蔵金探しの発生が懸念されたので、意図的に欠字にした〟とのことでした。実際に、それまでもそうした動きがあり、たとえば和田さん親子(元市さん、喜八郎さん)が炭焼きのために山に入ると、多くの人がぞろぞろと後をつけてきたこともあったとのことでした。「東日流外三郡誌」に記された遺跡の荒廃を防ぐため、藤本さんの配慮により北方新社版には欠字が多かったのです。
更に精査すると興味深い内容が八幡書店版にもありました。同社版『東日流外三郡誌 第六巻〔諸項篇〕』の末尾に掲載されている「底本編成」によれば、「東日流外三郡誌」の第六十三巻・第六十八巻・第七十七巻(ロ本)・第七十八巻・第二百巻付の五冊のみが底本を〔市浦本〕としています。すなわち、八幡書店版編集時にはこの五冊が紛失していたため、先に出版された市浦村史版(注③)を底本に採用したのです。五冊の中身を見ると、埋蔵金や財宝の隠し場所や遺跡を記した地図が収録されていました(注④)。これは偶然による散逸ではなく、埋蔵金の地図が記されていたことが紛失の理由ではないでしょうか。すなわち、その五冊を〝持ち去った〟人物は、「東日流外三郡誌」を偽書とは考えていなかったと思われます。
そこで、わたしは紛失した五冊の所在を調査しました。その結果、「東日流外三郡誌」明治写本を持っている人がいて、財宝探しをしているという情報がNさんから寄せられました。Nさんは津軽調査でお世話になった方で、当地の地理にも詳しい方です。しかし、それ以上の具体的なことは、事情があるようで、教えてはいただけませんでした。
こうした『東日流外三郡誌』刊行時の事情が徐々に分かってきたのです。当時、現地の関係者は「東日流外三郡誌」を偽書とは捉えておらず、むしろ、書かれていることは事実に基づいており、貴重な文書と受け取られてきたようなのです。偽作キャンペーンへの反証として、このことを論文発表しようと古田先生に調査概要を報告しました。ところが、先生からは論文発表を止められました。(つづく)

(注)
①『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(1983~1985)。後に「補巻」昭和六一年(1986)が追加発行された。
②『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(1989~1990)。
③『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(1975~1977)。
④次の「地図」が収録されている。
「宇蘇利国図」「東日流中山図」(第六十三巻)、「安倍蒼海陣記及蒼海諸城図」「蒼海城図追而」(第六十八巻)、「安倍一族秘宝之謎」(第七十七巻ロ本)、「桧山勝山城図」「松前大館之図」(第七十八巻)、「東日流六郡之秘跡」(第二百巻付)。


第2920話 2023/01/18

『東日流外三郡誌』研究

     の推奨テキスト (1)

先週の和田家文書研究会(東京古田会主催)にて、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」をリモート発表させていただいたのですが、早速、お電話やメールで質問や感想が寄せられ、関心の高さを感じました。青森県弘前市からリモート参加された「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)のTさんからは、『東日流外三郡誌』研究の推奨テキストに関連したご質問をいただきました。
研究会では、『東日流外三郡誌』には次の三つの活字テキストがあり(注①)、(c)八幡書店版が最も優れていると推奨しました。

(a)『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(1975~1977)。
(b)『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(1983~1985)。後に「補巻」昭和六一年(1986)が追加発行された(注②)。
(c)『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(1989~1990)。

(a)市浦村史版は『東日流外三郡誌』約350冊の三分の一程度の収録ですから、研究のテキストとするには不十分です。(b)北方新社版と(c)八幡書店版を比較すると、なぜか欠字が多い(b)北方新社版よりも(c)八幡書店版が優れていると、わたしは判断したのですが、古田先生も早くから同様の見解を示されていました。

「今年(平成元年)は、和田家古文書の全貌が白日のもとにさらされるべき、研究史上、記念すべき年となるであろう。豊島勝蔵・小舘衷三、そして藤本光幸さんや妹、竹田侑子さんたち、研究上の礎石を築かれた諸先輩の驥尾に付し、今年から、新たな研究開始の扉を開かせていただくこと、わたしは今、心を躍らせているのである。
今回、最も本格的にして厳密な校本として、この八幡書店版の刊行の開始されたこと、わたしはこれを無上の幸いとし、全巻の完結を鶴首待望している。(八幡書店版は東日流中山史跡保存会編、一九八九年一月、第一巻刊行。)
(一九八九年二月二八日稿)」(注③)

それではなぜ北方新社版には欠字が多いのか。わたしはこの史料情況に着目し、欠字部分の調査を行いました。その結果、昭和22年に和田家天井裏から落下した和田家文書と、和田家に降りかかった運命の一端を垣間見ることができたのです。(つづく)

(注)
①この他、『車力村史』(1973年)に『東日流外三郡誌』の一部が収録されている。
②同書「補巻」の小舘衷三氏による解題に次の説明がある。
「六巻を刊行した後に、和田家に外三郡志の一部とされる文書類が若干残っていることがわかり、追而編、日下領国風(景)画全八十八景、天真名井家文書の三つを合せて、補巻として刊行することにした。」
③古田武彦「秋田孝季の人間学 ―和田家文書の〝発見〟―」『東日流外三郡誌 第二巻 別報』八幡書店、1989年。


第2919話 2023/01/17

『九州倭国通信』No.209の紹介

 友好団体「九州古代史の会」の会報『九州倭国通信』No.209が届きました。同号には拙稿「『ヒトの寿命』は38歳、DNA研究で判明」を掲載していただきました(注①)。拙稿は、二倍年暦の傍証になりそうな理系研究の紹介を主内容としているため、当初から横書き掲載を想定して執筆したものです。というのも、わたしの英文論文“A study on the long lives described in the classics”(注②)を紹介するので、横書きにせざるを得ませんでした。

 今回の209号は、横書きの論稿が拙稿や表紙を含め7.5頁を占め、全14頁の過半数を超えています。『九州倭国通信』は横書き主流の新時代に入ってきたようです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2839話(2022/09/18)〝「ヒトの寿命」は38歳、DNA研究で判明〟
②http://www.furutasigaku.jp/epdf/phoenix1.pdf


第2918話 2023/01/16

多元史観から見た古代貨幣「無文銀銭」

七世紀以前の九州王朝(倭国)時代の貨幣として、最も古いものが無文銀銭です。重量が約10gに調整されていることから、銀地金としての価値に基づく、秤量貨幣として使用されたものと思われます。
出土分布の中心は難波であり、次いで崇福寺遺跡から12枚出土(注①)した滋賀県や奈良県です。残念ながら、無文銀銭も九州からの出土は確認できていません。九州王朝(倭国)の時代、七世紀以前の貨幣であるにもかかわらず、近畿地方からの出土が中心であり、九州王朝説の立場からは説明困難な事実です。この点、前期難波宮を九州王朝の複都の一つとする説(注②)や、九州王朝近江遷都説(注③)、九州王朝系近江朝説(注④)であれば、こうした出土事実をうまく説明できます。
他方、『日本書紀』顕宗紀には不思議な銀銭記事があります(注⑤)。

○「冬十月戊午朔癸亥(6日)に、群臣に宴(とよのあかり)したまふ。是の時に、天下、安く平かにして、民、徭役(さしつか)はるること無し。歳比(しきり)に登稔(としえ)て、百姓殷(さかり)に富めり。稲斛(ひとさか)に銀銭一文をかふ。馬、野に被(ほどこ)れり。」『日本書紀』顕宗二年(486年)十月条。

通説では、この銀銭記事は『日本書紀』編者による脚色であり、『後漢書』明帝紀からの転用とされています。しかし、当該部分を比較すると、『日本書紀』編者は理由があって「銀銭一文」記事を採用したと考えざるを得ません。

○「是歳、天下安平、人無徭役、歳比登稔、百姓殷富、粟斛三十、牛羊被野」『後漢書』明帝紀
○「是時、天下安平、民無徭役、歳比登稔、百姓殷富、稲斛銀銭一文、馬被野」『日本書紀』顕宗紀

両者を比較して注目されるのが、「粟斛三十」→「稲斛銀銭一文」と、「牛羊被野」→「馬被野」です。当時の日本列島に牛や羊が野に放たれるほどいたとは思えませんから、「馬」に書き変えたものと思われます。あるいは馬が活躍する時代であったため、「馬」にしたのではないでしょうか。すなわち、日本列島の実情に沿った表現に〝正しく〟修正されていると言えます。そうであれば、「粟斛三十」から「稲斛銀銭一文」への修正も歴史事実、あるいは史料事実に基づいたものではないでしょうか。「粟」から「稲」への変更は、水田稲作が盛んな日本列島にふさわしい修正ですから、「稲斛」が「銀銭一文」に相当するという修正記事も、歴史事実を反映したものと考えるのが史料批判の結果、穏当な解釈と思われます。
この理解が正しければ、「馬」や「銀銭」記事が顕宗二年(486年)という時代に入れられた理由もあったはずです。この五世紀末頃という時代は〝倭の五王〟(『宋書』)の一人、倭王武の治世です。軍事力とそれを支える経済力を背景に、倭王武は日本列島各地や朝鮮半島へ侵攻しており、その象徴的表現が「馬」(騎馬軍団)であり、「銀銭」と考えることができます。そうであれば、「稲斛」と交換した「銀銭一文」こそ、九州王朝(倭国)の無文銀銭だったのではないでしょうか。無文銀銭は銀地金として、銀象嵌(注⑥)や銀細工の原材料にもなり、各地の豪族に喜ばれたはずです。倭国の「銀本位制」(古田先生談)は、この時代まで遡ることが可能かもしれません。(つづく)

(注)
①出土時は12枚と報告されているが、現存するのは11枚とのことである。
②古賀達也「洛中洛外日記」2596話(2021/10/17)〝両京制と複都制の再考 ―栄原永遠男さんの「複都制」再考―〟
③古賀達也「九州王朝の近江遷都」『古田史学会報』61号、2004年4月。『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年に収録。
同「洛中洛外日記」580話(2013/08/15)〝近江遷都と王朝交代〟
④正木裕「『近江朝年号』の実在について」『古田史学会報』133号、2016年4月。
古賀達也「九州王朝を継承した近江朝庭 — 正木新説の展開と考察」『古田史学会報』134号、2016年6月。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』二十集。明石書店、2017年)に転載。
正木裕「『近江朝年号』の研究」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』二十集。明石書店、2017年)に転載。
⑤日本古典文学大系『日本書紀 上』岩波書店、1986年版。
⑥江田船山古墳(熊本県和水町)、稲荷台1号墳(千葉県市原市)、岡田山1号墳(島根県松江市)出土の銀象嵌鉄剣(太刀)などが著名である。


第2917話 2023/01/15

「和田家文書調査の思い出」を発表

昨日の和田家文書研究会(東京古田会主催)にて、「和田家文書調査の思い出 ―古田先生との津軽行脚―」をリモート発表させていただきました。当テーマは、和田家文書偽作キャンペーンが激しくなった、今から三十年程前に実施した、古田先生との津軽行脚の報告と和田家文書の史料情況について解説したものです。当発表は注目されていたようで、青森県弘前市からも「秋田孝季集史研究会」(竹田侑子会長)の皆さん約20名がリモート参加されていました。
今回の報告の主目的は、『東日流外三郡誌』をはじめとする和田家文書が昭和四十年代に和田喜八郎氏により偽作されたとする偽作説への反証として、津軽行脚での調査成果の紹介でした。当時の関係者のほとんどが物故されており、わたしの記憶が鮮明なうちに和田家文書研究者に伝え、偽作説が誤りであることを明確にすることでした。
当時(1996年8月)の聞き取り調査のうちで最も有力な証言は、北海道松前町阿吽寺で偶然にお会いした永田富智さん(当時、松前町史編纂委員。故人)によるものでした。その要旨は次の通りです。

(1) 津軽で貴重な文書が出たことを知り、当時、関わっていた北海道史の編纂に役立つかもしれないと思い、昭和46年に市浦村を訪問した。
(2) そのとき、同村役場で『東日流外三郡誌』約二百~三百冊を見た。
(3) 文書に使用されている紙は、明治の末頃に流行した機械梳きの和紙であった。
(4) 文字や墨の色も古く、戦後のものではありえず、明治の末頃のものと思われた。

この証言は決定的です。永田さんは中近世史研究の専門家で、数多くの古文書を見てきたプロフェッショナルです。その専門家が『東日流外三郡誌』約二百~三百冊を昭和46年に実見し、それらが明治の末頃のもので、決して戦後に作られたものではないと証言されのです。このときの証言はビデオ録画されており、証拠能力も申し分ありません。
このような報告をしたのですが、質疑も活発で時間不足のまま終わりました。主催された安彦克己さん(東京古田会・副会長)から、三月と五月の研究会での継続発表をご要請いただきました。ありがたいことですので、当時の調査資料の整理を兼ねて、準備したいと思います。


第2916話 2023/01/14

多元史観から見た古代貨幣「富夲銭」

七世紀以前の九州王朝(倭国)時代の貨幣として、出土が知られているのが無文銀銭と富夲銅銭(注①)です。いずれも出土分布の中心は近畿地方であり、残念ながら九州からの出土は確認できていません。
「洛中洛外日記」2915話(2023/01/13)〝多元史観から見た古代貨幣「和同開珎」〟で紹介したように、『続日本紀』には和同開珎が大和朝廷最初の貨幣としていますから、七世紀後半の遺構から出土(注②)している富夲銭は九州王朝の貨幣と考えざるを得ません。この考古学的出土事実と対応する記事が『日本書紀』天武紀に見えます(注③)。

○「夏四月の戊午の朔壬申(15日)に、詔して曰く、「今より以後、必ず銅銭を用ゐよ。銀銭を用ゐること莫(なか)れ」とのたまふ。乙亥に、詔して曰く、『銀用ゐること止むること莫れ』とのたまふ。」天武十二年(683年)四月条。

この「銀銭・銅銭」記事が時期的に富夲銭に相当しますが、そうであれば出土した富夲「銅銭」の他に富夲「銀銭」もあったことになります。なお、富夲銭出土以前は同記事の「銀銭・銅銭」の鋳造年代は未詳とされていました(注④)。また、この記事は造幣開始記事ではありませんから、九州王朝(倭国)により既に銀銭・銅銭が発行されていたことを示唆しています。しかし、天武十二年(683年)の十八年後には九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)へ王朝交代しますから、富夲銭は広く大量に流通したわけではないようです。(つづく)

(注)
①「富本銭(ふほんせん)」と表記されることが多いが、銭文の字体は「富夲」「冨夲」である。七世紀当時の「夲」は、「本」の異体字として通用している。
②飛鳥池遺跡や上町台地の細工谷遺跡、藤原宮跡などから富夲銭が出土している。
③日本古典文学大系『日本書紀 下』岩波書店、1985年版。
④日本古典文学大系『日本書紀 下』(457頁)頭注には「これらの銀銭・銅銭の鋳造年代は未詳。」とある。


第2915話 2023/01/13

多元史観から見た古代貨幣「和同開珎」

本日の「多元の会」主催のリモート研究会では、清水淹(しみず ひさし、横浜市)さんにより、無文銀銭の研究「謎の銀銭」が発表されました。35年前、わたしが古田史学に入門し、最初に研究したテーマが「九州年号」と「古代貨幣」だったこともあり(注①)、興味深く拝聴しました。
七世紀以前の九州王朝(倭国)時代の貨幣として、出土が知られているのが無文銀銭と富本銅銭です。王朝交代後の大和朝廷の最初の貨幣は和同開珎(銀銭・銅銭)であり、そのことが『続日本紀』(注②)に次のように記されています。

○「五月壬寅、始めて銀銭を行ふ。」元明天皇和銅元年条(708年)。
○「(七月)丙辰、近江国をして銅銭を鋳(い)しむ。」同上。
○「八月己巳、始めて銅銭を行ふ。」同上。

これらは和同開珎(銀銭・銅銭)の発行記事ですが、いずれも「始めて」とあり、この銀銭と銅銭が大和朝廷にとって最初の貨幣発行であると主張しています。なお、この銅銭・銀銭の銭文が「和同開珎」であることを『続日本紀』には記されておらず、その理由は未詳です。(つづく)

(注)
①古賀達也「続日本紀と和同開珎の謎」『市民の古代研究』22号、1987年。
同「古代貨幣『無文銀銭』の謎」『市民の古代研究』24号、1987年。
同「古代貨幣『賈行銀銭片』の謎」『市民の古代ニュース』65号付録、1988年。
これら三編は、『古代に真実を求めて』第3集(明石書店、2000年)に再録した。
②新日本古典文学大系『続日本紀 一』岩波書店、1989年。


第2914話 2023/01/12

「司馬史観」批判の論文を紹介

 「洛中洛外日記」2912話(2023/01/10)〝司馬遼太郎さんと古田先生の思い出〟で紹介した、古田先生の「司馬史観」批判ですが、先生から聞いたのは20年以上も昔のことです。記憶は鮮明に残っているのですが、このことを活字化した論稿を探しました。というのも、先生は真剣な表情で語っておられましたので、これは重要テーマであり、文章として遺されているのではないかと考えたからです。ちなみに、わたしの記憶では次のような内容(大意)でした。

 〝明治の新政府を作り、日清・日露の両戦争を戦ったのは江戸時代に教育を受けた人々で、昭和の戦争を指揮した政治家・軍人達は明治時代に生まれ、その教育を受けた人々である。従って、「江戸時代(の文化・教育)は良かったが、明治時代(の文化・教育)はダメ」と言うべきである。
たとえば、明治政府は幕末を戦い抜いた貧しい下級藩士らが中心となったが、昭和の政府は明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達による政府であり、この差が明治と昭和の為政者の質の差となった。〟

 20年以上も昔の会誌や講演録から探しだすのは大変な作業で、通常ですと数日かかるのですが、幸いにも今回はすぐに見つけることができました。『現代を読み解く歴史観』に収録された「教育立国論 ――全ての政治家に告ぐ」という論文中にあったのです(注①)。関係個所を転載します。

 〝ここで、一言すべきテーマがある。「昭和の戦争」を「無謀の戦争」として非難し、逆に、明治を理想の時代のようにたたえる。司馬遼太郎などの強調する立場だ。後述するように、それも「一面の真理」だ。だが、反面、いわゆる「昭和の愚戦」否、「昭和の暴戦」をリードしていたのは、まぎれもなく、「明治生れの、愚かしきリーダー」だったのである。この点もふくめて、後に明らかにしてゆく。〟『現代を読み解く歴史観』98頁

 〝では、わたしたちが今なすべきところ、それは何か。「教育立国」この四文字、以外にないのである。
明治に存在した、負(マイナス)の面、それは「足軽たちのおぼっちゃん」が、諸大名の「江戸屋敷」を“相続”し、数多くの「下男・下女」に囲まれて育った。当然、「見識」も「我慢」も知らぬ“おぼっちゃん”たちが、「昭和の愚劣にして悪逆」な戦争をリードした。少なくとも、「命を張って」食いとめる勇気をもたなかった。「昭和の愚劣と悪逆」は、「明治生まれの世代」の責任だ。この一点を、司馬遼太郎は「見なかった」あるいは「軽視」したのである。〟同上、101頁

 ほぼ、わたしの記憶と同趣旨です。また、〝「江戸屋敷」を“相続”し、数多くの「下男・下女」に囲まれて育った〟という表現(語り口)も、はっきりと記憶しています。これをわたしは〝明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達〟という表現に代えて記しました。

 これからも、古田先生から聞いた貴重な話題については、わたしの記憶が鮮明なうちに書きとどめ、先生の思想や業績を後世に伝えたいと願っています(注②)。幸い、「市民の古代研究会」時代からの同志がご健在で、その方々への確認もできますので、この作業を急ぎたいと思います。最後に、古田先生の「司馬史観」批判を『現代を読み解く歴史観』に収録し刊行された、東京古田会と平松健さん(同書編集担当)に感謝いたします。

(注)
①古田武彦『現代を読み解く歴史観』ミネルヴァ書房、2013年。
②なかでも30年前に行った和田家文書調査(津軽行脚)は、古田先生をはじめ当地の関係者がほとんど物故されており、当時の情況の記録化が急がれる。


第2913話 2023/01/11

観世音寺の和風寺号と漢風寺号

先週の多元的古代研究会主催のリモート研究会で、藤田さんによる『元興寺伽藍縁起』の講読がありました。活字本だけではなく写本(写真版)に基づく解説で、活字本には文字の改変がなされた部分があることを教えていただき、とても勉強になりました。
飛鳥に創建された元興寺の元々の名称は法興寺とも飛鳥寺ともされており、寺名の変遷については諸説があります。そのときの質疑応答では、飛鳥池遺跡(天武期の層位)から出土した木簡に「飛鳥寺」と記されたものがあることを参加者(岩田さん)から紹介されました。わたしからも紹介しましたが(注①)、「飛鳥寺」の銘文を持つ七世紀末頃(694年)の金石文もあります。「法隆寺観音像造像記銅板(奈良県斑鳩町)」に次の銘文があり、「飛鳥寺」が見えます。

「法隆寺観音像造像記銅板」(奈良県斑鳩町)
(表) 甲午年三月十八日 鵤大寺德聡法師 片罡王寺令弁法師
飛鳥寺弁聡法師 三僧所生父母報恩 敬奉觀世音菩薩
像依此小善根 令得无生法忍 乃至六道四生衆生 倶成正覺
(裏) 族大原博士百済在王此土王姓

このように、寺号には和風寺号として「鵤(いかるが)大寺」「片罡王寺」「飛鳥寺」があり、たとえば「鵤大寺」には漢風寺号「法隆寺」が『日本書紀』に見え、複数の名前を持つことが知られています。後代になると「山号」も称されるようになりますが、法隆寺のように山号を持たない寺院もあります。この和風と漢風の寺号に注目しているのですが、一般的には和風寺号は地名に関係しているものがあり、鵤寺や飛鳥寺は所在地名に関係するものです。
古代(七世紀頃)において、寺名に和風と漢風の双方を持つのが一般的であれば、九州王朝の代表的寺院にも和風と漢風の両寺号を持っていたと考えることができます。そこで、まず検討の対象となるのが太宰府の観世音寺(白鳳十年[670年]創建。注②)と難波の天王寺(現・四天王寺、倭京二年[619年]創建。注③)です。現在の観世音寺の名称は「清水山(せいすいざん)観世音寺」とされており、和風寺号は見えません。天王寺は現在では「荒陵山(あらはかさん)四天王寺」で、ここにも和風寺号は見えません。
そこで、古典を根拠に類推すれば、次の和風寺号候補があげられます。

○観世音寺 「清水(しみず・きよみず)寺」 典拠『源氏物語』玉蔓の巻「大弐の御館の上の、清水の御寺の、観世音寺に詣で給ひしいきほひは、みかどの行幸にやはおとれる。」
○天王寺 「難波(なにわ)寺」 典拠『二中歴』年代歴「倭京 二年難波天王寺聖徳造」

「難波」は上町台地の地名として伝わっていますが、「清水」という地名としては観世音寺域には伝わっていないようです。ただ『源氏物語』に基づいて、江戸時代の黒田藩士・加藤一純により、観世音寺五重塔心礎の傍らに「清水記碑」が建てられており、当地に清水が湧き出していたことを伝えています。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2418話(2021/03/22)〝七世紀「天皇」「飛鳥」金石文の紹介〟
同「七世紀の「天皇」号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』155号、2020年。
②同上「観世音寺の史料批判 ―創建年を示す諸史料―」『東京古田会ニュース』192号、2020年。
③『二中歴』年代歴に「倭京 二年難波天王寺聖徳造」とある。「倭京」は九州年号で、元年は618年。『日本書紀』には「四天王寺」の創建を推古元年(593年)とする。次の拙稿を参照されたい。
同上「九州王朝の難波天王寺建立」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(『古代に真実を求めて』18集)明石書店、2015年。


第2912話 2023/01/10

司馬遼太郎さんと古田先生の思い出

今年は司馬遼太郎さん(注①)の生誕百年とのこと。恐らく様々な記念番組が企画されるのではないでしょうか。古田先生は生前に司馬さんとお付き合いがあり、何度か司馬さんのことについて話されたことがありました。司馬さんも『週間朝日』に連載された「司馬遼太郎からの手紙・四七回」で古田先生との出会いの様子を記しており、そのことを『古田史学会報』で紹介したことがあります(注②)。
先生が文京区本郷にお住まいのとき(注③)、何度か訪問したことがあり、そのおりに司馬さんのことを聞いた記憶があります。司馬さんのご自宅の本棚には古田先生の著書が並んでいることや、「司馬史観」に対する見解などをお聞きしました。
「司馬史観」を単純化して言えば〝明治の政治家は良かったが、昭和の政治家はダメ〟というものですが、古田先生の視点は少々異なっていました。日本の近現代史について、先生とお話ししたことはあまり多くないのですが、「司馬史観」を批判して、次のように語られました。

〝明治の新政府を作り、日清・日露の両戦争を戦ったのは江戸時代に教育を受けた人々で、昭和の戦争を指揮した政治家・軍人達は明治時代に生まれ、その教育を受けた人々である。従って、「江戸時代(の文化・教育)は良かったが、明治時代(の文化・教育)はダメ」と言うべきである。
たとえば、明治政府は幕末を戦い抜いた貧しい下級藩士らが中心となったが、昭和の政府は明治維新で権力を握り、裕福になった人々の家庭で育った子供達による政府であり、この差が明治と昭和の為政者の質の差となった。〟(大意。古賀の記憶による)

古田先生らしい骨太の歴史観であり、「司馬史観」を超えるものではないでしょうか。司馬さんの生誕百年にあたり、この話を先生からお聞きしたことを思い出しました。

(注)
①司馬遼太郎(しば りょうたろう、大正12年(1923年)8月7日~平成8年(1996年)2月12日は、日本の小説家、フィクション作家、評論家。位階は従三位。本名は福田定一(ふくだ ていいち)。筆名の由来は「司馬遷に遼(はるか)に及ばざる日本の者(故に太郎)」から来ている。
司馬の作り上げた歴史観は、「司馬史観」と評される。その特徴としては日清・日露戦争期の日本を理想視し、(自身が参戦した)太平洋戦争期の日本を暗黒視する点である。人物においては、高評価が「庶民的合理主義」者の織田信長、西郷隆盛、坂本龍馬、大久保利通であり、低評価が徳川家康、山県有朋、伊藤博文、乃木希典、三島由紀夫である。この史観は、高度経済成長期にかけて広く支持を集めた。(ウィキペディアより抜粋)
②古賀達也「事務局だより」『古田史学会報』37号(2000年4月4日)。
③昭和薬科大学(東京都町田市)の教授に就任した時代。学問研究のため、東京大学図書館・史料室などに近い本郷に居したと聞いている。


第2911話 2023/01/08

九州王朝の末裔、「筑紫氏」「武藤氏」説

九州王朝研究のテーマの一つとして、その末裔の探索を続けてきました。その成果として高良玉垂命・大善寺玉垂命が筑後遷宮時の九州王朝(倭国)の王とする研究(注①)を発表し、その末裔として稲員家・松延家・鏡山氏・隈氏など現代にまで続く御子孫と遭遇することができました。他方、七世紀になって筑後から太宰府に遷都した倭王家(多利思北孤ら)の末裔については調査が進んでいませんでした。
古田説によれば、筑紫君薩野馬などの「筑紫君」が倭王とされていますので、古今の「筑紫」姓について調査してきました。調査途中のテーマですが、筑紫君の末裔について記した江戸期(幕末頃)の史料『楽郊紀聞』を紹介します。同書は対馬藩士、中川延良(1795~1862年)により著されたもので、対馬に留まらず各地の伝聞をその情報提供者名と共に記しており、史料価値が高いものです。そこに、「梶田土佐」(未詳)からの伝聞情報として、筑紫君の後裔について次の記事が見えます。

「筑紫上野介の家は、往古筑紫ノ君の末と聞こえたり。豊臣太閤薩摩征伐の比は、広門の妻、子共をつれて黒田長政殿にも嫁ぎし由にて、右征伐の時には、其子は黒田家に幼少にて居られ、後は筑前様に二百石ばかりにて御家中になられし由。外にも其兄弟の人歟、御旗本に召出されて、只今二軒ある由也。同上(梶田土佐話)。」『楽郊紀聞 2』巻十一、229頁。(注②)

ここに紹介された筑紫上野介は戦国武将として著名な筑紫広門のことです。この筑紫氏が「往古筑紫ノ君の末」であり、その子孫が筑前黒田藩に仕え、「只今二軒ある」としています。この記事に続いて、校注者鈴木棠三氏による次の解説があります。

「*筑紫広門。椎門の子。同家は肥前・筑前・筑後で九郡を領したが、天正十五年秀吉の九州征伐のとき降伏、筑後上妻郡一万八千石を与えられ、山下城に居た。両度の朝鮮役に出陣。関ヶ原役には西軍に属したため失領、剃髪して加藤清正に身を寄せ、元和九年没、六十八。その女は黒田長政の室。長徳院という。筑紫君の名は『釈日本紀』に見える。筑紫氏はその末裔と伝えるが、また足利直冬の後裔ともいう。中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した。徳川幕府の旗本には一家あり、茂門の時から三千石を領した。」『楽郊紀聞 2』巻十一、229頁

この解説によれば、「中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した」とあることから、現在、九州地方での「武藤」さんの分布が佐賀市や柳川市にあり(注③)、この人達も九州王朝王族の末裔の可能性があるのではないかと推定しています。これまで九州王朝の末裔調査として「筑紫」さんを探してきましたが、これからは「武藤」さんの家系についても調査したいと思います。

(注)
①古賀達也「九州王朝の筑後遷宮 ―高良玉垂命考―」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。
②『楽郊紀聞』中川延良(1795~1862年)、鈴木棠三校注、平凡社、1977年。
③「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
〔武藤〕姓 人口 約86,800人 順位 245位
【都道府県順位】
1 東京都 (約8,800人)
2 岐阜県 (約6,900人)
3 埼玉県 (約6,500人)
4 神奈川県 (約6,400人)
5 愛知県 (約6,200人)
6 福島県 (約6,000人)
7 茨城県 (約4,700人)
8 千葉県 (約4,700人)
9 北海道 (約3,700人)
10 秋田県 (約3,600人)

【市区町村順位】
1 岐阜県 岐阜市 (約2,100人)
2 福島県 二本松市 (約1,200人)
3 岐阜県 関市 (約800人)
3 秋田県 秋田市 (約800人)
5 岐阜県 郡上市 (約800人)
5 山梨県 富士吉田市 (約800人)
5 茨城県 常陸太田市 (約800人)
8 秋田県 大仙市 (約800人)
9 群馬県 高崎市 (約800人)
10 佐賀県 佐賀市 (約700人)

【小地域順位】
1 山梨県 富士吉田市 小明見 (約300人)
2 群馬県 太田市 龍舞町 (約300人)
3 山梨県 富士吉田市 下吉田 (約300人)
4 茨城県 常陸太田市 春友町 (約300人)
5 福岡県 柳川市 明野 (約200人)
6 千葉県 印西市 和泉 (約200人)
7 群馬県 北群馬郡吉岡町 下野田 (約200人)
8 神奈川県 逗子市 桜山 (約200人)
8 岐阜県 郡上市 相生 (約200人)
8 茨城県 那珂市 本米崎 (約200人)


第2910話 2023/01/07

「井真成」の村、熊本県産山村

2005年から始めた「洛中洛外日記」第1回のテーマは「井真成(いのまなり)異見」でした。当時、中国で発見された「井真成墓誌」が注目され、井真成の出身地について諸説が出ました。古田先生は、「井(wi)」は上古音の「倭(wi)」に由来するのではないかとされました。すなわち、倭国(九州王朝)の王族か関係者の末裔の可能性を示唆され、その傍証として、現代の苗字の「井」さんの分布が熊本県阿蘇郡の産山村・南小国村・一ノ宮町に濃密であることに着目されました。
同研究は大きな進展を見せることもなく今日に至っていますが、昨年末に物理学者の上村正康先生から次のメールが届きました。要約して紹介します。

古賀達也様
本日(12/26)の朝日新聞夕刊(福岡地区)社会面の大きな記事(「全国の井さん集まれ 産山村村おこし」)を見て、古賀さんにお知らせ致したくメールいたしました。この記事は、九州地区だけではないでしょうか。
記事を見てすぐ思い出したのは、2004年に中国で発見された在唐の日本留学生「井真成」墓誌の発見報道です。この墓誌の重要性から、大きな話題になりました。古賀さんも「洛中洛外日記」の第1話(2005/06/11)で「井真成(いのまなり)異見」を発表されています。
というわけで、古賀さんからこの産山村の「全国いーさん祭り準備委員会」実行委員長(村商工会 会長)井博明さんに連絡を取られて解説・宣伝されたら如何でしょうか。
厳寒に向かいます。ご自愛ください。良い年をお迎えください。来年もよろしくお願いいたします。
12月26日 上村正康

上村先生は九州大学教授時代の頃から古田先生の支持者です。1991年に福岡市で開催された物理学の国際学会のバンケットスピーチでは、邪馬壹国説・九州王朝説を紹介され(注①)、参加各国の物理学者の関心を集めました。上村先生とは「市民の古代研究会」時代からのお付き合いで、近年では2019年7月に博多駅でお会いし、旧交を温めました(注②)。
このメールをいただいたことがきっかけとなり、「井(いい)(い)」姓について改めて考えてみました。以前から気になっていたのですが、江戸幕府大老の井伊直弼で有名な彦根藩の井伊家も本来は「井(いい)」だったのではないでしょうか。同家系図(注③)によれば始祖を「大織冠鎌足」としており、そこからは九州王朝との関係はうかがえません。しかし、鎌足を始祖とする北部九州の氏族(注④)が散見されますので、系図の信頼性も含めて検討が必要と思われます。なお、「井伊」さんの最濃密分布地は愛媛県であり、その由来も知りたいところです。
もう一つ気になっていることがあります。現代の「井」さんの最濃密分布地は阿蘇郡産山村とその近隣ですが、小分布が長崎県対馬市にあります。壱岐・対馬は天孫族の故地ですから、この分布にも歴史的背景があるように思います。こうしたことも九州王朝説に基づく研究と解明が必要です。

(注)
①1991年11月に福岡市で開催された物理学国際学会の晩餐会で、古田説を英語で紹介(GOLD SEAL AND KYUSHU DYNASTY:金印と九州王朝)した。
②古賀達也「洛中洛外日記」第1938話(2019/07/13)〝物理学者との邂逅、博多駅にて〟
③「井伊系図」『群書類従系図部集 第五』1985年。
④菊池氏、星野氏、他。