第2644話 2021/12/23

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (3)

 『旧唐書』倭国伝には「去京師一萬四千里」とあり、起点が楽浪郡や帯方郡ではなく京師(長安)となり、里数も二千里増えています。そこで、『旧唐書』では『三国志』の短里(1里約77m)表記「萬二千余里」に唐代の長里(1里約560m)による二千里が単純に加えられているのではないかと、わたしは考えました。このことが本テーマの主論点ですが、起点「京師」についてのわたしの見解をまず説明しておきます。というのも、野田説や野田さんが紹介された清水庵さんの説(注①)では、「京師」は長安でなくてもよいとして、新たな読解が提案されたからです。
 わたしが支持する文献史学の基本的な考え方に〝同一史料中に記された同一単語は、特に説明がない限り、同一の意味を有す〟というものがあります。このことに説明は要らないと思います。そうでなければ、筆者が自らの意見を読者に正確に伝えることができないからです。もちろん、読者をだますことが目的(詐欺)であればこの限りではありませんが、中国の史書は、編纂時の王朝の最高権力者(天子)に提出するという史料性格(編纂目的)を持ちますから、その夷蛮伝の記述に詐術的な用語使用をする必要もありませんし、もし嘘と知りつつ天子を欺くために虚偽を書いたのであれば、それこそ史官の首が飛ぶことでしょう。特に今回のケースは天子の都城を意味する用語「京師」ですから、書いた編纂者とそれを読む天子の認識が一致していることを疑えません。それでは『旧唐書』では「京師」という言葉がどのように定義され、使用されているでしょうか。
 『旧唐書』二百巻は巻一の高祖本紀から始まり、その文中に「京師」は頻出します。いずれも天子の居城「長安」を指しています。ちなみに唐は二京制を採用しており、京師(長安)の他にも「東都」(洛陽)も頻出します。更に巻三十八~四十一に地理志が収録されています。その初めの方に「京師」という項目があり、「秦の咸陽、漢の長安なり」で始まり、「隋の開皇二年、漢の長安故城より東南へ二十里移して新都を置く。今の京師は是れなり。」(注②)とあり、位置の移動も詳細に記しています。読者はこの記事を読んでから、巻百九十九上の倭国伝を読むことになり、そこに「去京師一萬四千里」とあれば、〝唐の首都長安を去ること一萬四千里〟と理解するほかなく、編纂者もそのように読者が理解することを当然としているはずです。
 更に、倭国伝が収録されている巻百九十九上「東夷」の高麗伝にも高句麗の都、平壌の位置情報として「京師を去ること東へ五千一百里」とあり、「京師」を起点としています。その高麗伝中に、「(総章元年・668年)十二月、京師に至り、含元宮にて俘を献ず。」(注③)とあり、これは京師の含元宮(大極殿に相当)で捕虜を献上した記事ですから、この京師は長安と解するほかありません。この史料事実から高麗伝中の「京師を去る」と「京師に至る」は同じ京師(長安)のこととしか理解のしようがありません。従って、倭国伝の「京師を去る」も同様に長安のこととなります。(つづく)

(注)
①清水庵(しみず・ひさし)「隋書、新・旧唐書の東夷伝も短里」『なかった 真実の歴史学』六号、ミネルヴァ書房、2009年。
②『旧唐書』五「志三」中華書局、1987年版。
③『旧唐書』十六「伝十」中華書局、1987年版。


2643話 2021/12/22

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (2)

 中国歴代王朝の歴史を記した史書の夷蛮伝を概観すると、夷蛮諸国の歴史や地理などについて、先行する史書を参照引用し、編纂当時の認識や新たな情報により修正・追記するという方法がとられていることがわかります。たとえば倭国への里程記事については、『三国志』倭人伝の里程記事が引用されていることはよく知られています。里程記事の概略は次の通りです(注①)。成立年代順に並べました。

○「(帯方)郡より女王国に至る萬二千余里」『三国志』倭人伝(三世紀成立)
○「楽浪郡の境はその国を去ること萬二千里」」『後漢書』倭伝(五世紀成立)
○「帯方を去ること萬二千余里」『梁書』倭伝(七世紀成立)
○「古に云う、楽浪郡の境および帯方郡を去ること一萬二千里」『隋書』俀国伝(七世紀成立)
○「京師を去ること一萬四千里」『旧唐書』倭国伝(十世紀成立)

 このように倭人伝の里程記事「萬二千余里」が七世紀に編纂された『隋書』まで引用されています。この場合、『三国志』が短里(1里約77m)で記されているにもかかわらず、『後漢書』以降の編纂において長里に換算されることなく採用されていることがわかります。すなわち、五世紀になると短里の存在が認識されていないと考えざるを得ません(注②)。
 その上で注目すべきは、『旧唐書』倭国伝では「去京師一萬四千里」とされ、起点が楽浪郡や帯方郡ではなく京師(長安)となり、里数も二千里増えていることです。従って、『旧唐書』では『三国志』の短里表記「萬二千余里」に唐代の長里による二千里が単純に加えられているのではないかと、わたしは考えました。なぜなら、この「一萬四千里」が全て長里では距離が遠大過ぎて実態と合いませんし、そのような非現実的な〝新たな誤情報〟が『旧唐書』編纂当時(十世紀)や唐代にもたらされた痕跡がありません。そこで、新たに加えられた二千里はどのようにして発生したのかを調べました。(つづく)

(注)
①いき一郎編訳『中国正史の古代日本記録』(葦書房、1984年)他を参照した。
②古賀達也「『三国志』のフィロロギー」『邪馬壹国の歴史学』古田史学の会編、ミネルヴァ書房、2016年。


第2642話 2021/12/21

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (1)

 12月18日の「古田史学の会」関西例会で、野田利郎さんが『旧唐書』倭国伝の「去京師一萬四千里」という記事の里程についての新解釈を発表されました。唐の都(長安・洛陽)から倭国の都(福岡、大阪)までの実距離が短里(1里約77m)でも唐代の長里(1里約560m)でも、あるいはその「混合」でも一致しないため、起点の「京師」を山東半島の東莱として、「一萬四千里」を短里とする新説です。学問研究は仮説の発表と真摯な検証や論争により深化しますので、こうした新説が出されることは良いことです。
 実は同テーマについてはかなり以前にわたしも友人と検討したことがあり、懐かしく思いました。良い機会ですので、そのときの検討結果とそこに至る学問の方法について紹介することにします。もちろん、どの仮説が最も説得力を有するのかは、仮説の発表者ではなく、それを聞いた人々の判断に委ねられます。
 本テーマのような中国史書の内容についての読解を論じる場合には次のような基本的視点が必要と考えています。

(1) 史料性格を把握し、史料がどの程度真実を伝えているのかを確認する。〔史料批判〕
(2) 現在の常識や知識ではなく、当時の史料編者や読者の認識で理解する。〔フィロロギー〕
(3) 必要にして十分な根拠もなく、原文改訂してはならない。
(4) 写本間に異同がある場合は、史料批判の結果、最も信頼できる写本に依拠する。
(5) 史料批判を経た上で、同時代史料を優先する。

 以上のような視点が重要ですが、いずれも古田先生から学んだことです。(つづく)


第2641話 2021/12/20

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(4)

 大宰府政庁Ⅲ期と同位置と見られるⅡ期の造営尺に、南朝尺(24.5㎝)の1.2倍に相当する南朝大尺(29.4㎝)と太宰府条坊造営尺(30㎝)の二種類が併用された次の痕跡があります。

○正殿身舎(もや)部分の桁行(5間)・梁行(2間)の全長・柱間距離が南朝大尺。
○後殿の桁行(7間)各柱間距離は南朝大尺、梁行(3間)は条坊尺。基壇南北幅は条坊尺。

 今回、門(北門・中門・南門)と脇殿について調査報告書『大宰府政庁跡』を精査したところ、南門には南朝大尺と条坊尺の併用が見られ、他は条坊尺のみで造営されていました。Ⅲ期南門SB001Aは桁行(5間)・梁行(2間)で、東西棟の礎石造りです。礎石は12個残存し、そのうち7個が原位置を保っており、Ⅱ期も同位置と見られています。柱間は桁行両端各2間が3.825mの等間で、中央間のみ5.70mです。この柱間3.825mは南朝大尺の13尺、中央間5.70mが条坊尺の19尺に相当します。梁行柱間は4.05mの等間で、条坊尺の13.5尺です。
 以上のように、大宰府政庁の中心建物である正殿は桁行・梁行ともに南朝大尺で造営され、その真後ろに並列して位置する後殿は正殿に桁行のみ全長と柱間距離を対応させた南朝大尺です。そして、正殿から南へ心々距離で151mの位置にある南門では、桁行の両端各2間に南朝大尺、中央間に条坊尺が採用されています。異なる二種類の尺を使い分けて造営された大宰府政庁の設計思想解明とその時代背景についての研究を九州王朝説に基づいて進めたいと考えています。


第2640話 2021/12/19

「しな」の言素論的考察

 テレビ番組でベートーベン第九演奏会「サントリー1万人の第九」の放送があり、芸人の粗品さん(霜降り明星)が司会をしておられました。珍しいお名前ですので、以前から気になっていました。言素論により考察すると、粗品という漢字は当て字ですから、「そしな」という音の意味が重要です。
 恐らく「しな」は地名接尾語、たとえば山科・宇品・阿品・温品・蓼科などの「しな」です。ですから「そしな」の語幹は「そ」です。今のところ、「そ」や「しな」の原義は確定できていませんが(諸説あります)、「そ」は古層の神名(注①)の一つ「そ」(神の意)かもしれません。更に言素論を徹底すれば、「しな」は「し」「な」に分割でき、「な」も接尾語と思われます。地名では榛名・志那・桑名・海老名・伊那・更科・更級・伊奈・朝比奈・安比奈・恵那・久那・楠那・多那・矢那・山那・帯那・丹那・知名・伊是名・阿須那・与那・漢那・高那・高奈など、普通名詞としては翁・女の「な」などです。その場合、残念ながら「し」と「な」の原義も確定できていません。
 なお、「しな」を語幹に持つ地名があります。品川・信濃などです。この場合、地名接尾語としての「しな」と同義か別義なのかはよくわかりませんが、信濃は「しな」と「の」に分割できますから、当地に蓼科・明科・倉科・仁科・埴科・更科・など「科(しな)」地名が多数あることを考えれば、「○○しな」が分布する領域が「しな」「の」と呼ばれるようになり、後に科野や信濃の字が当てられたと考えることができそうです。
 最後に「しな」の意味について推察します。そのヒントになるのが、地名に当てられる漢字「科」の字義です。古代に於いて「しな」の意味がわかっているときに漢字を当てるわけですから、一字一音の万葉仮名か、意味が対応する漢字を当てたと思われます。そうすると「科」は音を当てたのではなく、字義の対応があって採用したと考えざるを得ません。webの漢和辞典(注②)によれば、「科」には「あな。まるいくぼみ」という意味があり、地形と関係しそうです。この他にも諸説ありますので、引き続き研究したいと思います。
 ここまで書いて粗品さんのことを調べたら、粗品は芸名で、本名は佐々木さんとのこと。従って、本稿は粗品さんの名前(芸名)ではなく、「しな」という倭語の素論的考察ということでご容赦下さい。お後がよろしいようで。

(注)
①「洛中洛外日記」40~45話(2005/10/29~11/09)〝古層の神名〟。『古田史学会報』71号(2005/12)に編集して転載。
②学研漢和大字典 https://sakura-paris.org/dict/%E5%AD%A6%E7%A0%94%E6%BC%A2%E5%92%8C%E5%A4%A7%E5%AD%97%E5%85%B8/prefix/%E7%A7%91
{名詞}あな。まるいくぼみ。《類義語》⇒窩(カ)(あな)。「盈科而後進=科を盈たして後に進む」〔孟子・離下〕


第2639話 2021/12/18

瓦と須恵器編年の「新ものさし」

 本日はi-siteなんばで「古田史学の会」関西例会が開催されました。新年1月15日(土)もi-siteなんばで開催します(参加費1,000円、午後は新春古代史講演会)。
 今回の発表で圧巻だったのが服部さんによる軒丸瓦と須恵器杯の編年研究でした。『日本書紀』の記事に基づいた飛鳥編年に代表される従来の編年に替えて、考古学的出土事実とその理化学的年代測定に準拠した須恵器杯の新編年「新しいものさし」を発表されました。今後も出土資料による修正がなされていくこととは思いますが、七世紀の遺構編年の基礎となる画期的な新編年案と思われました。
 この須恵器杯の〝服部編年〟は、わたしが進めている大宰府政庁の造営尺や古代山城の築城年代研究にも役立つものと注目しています。なお、同研究は12月10日に開催された大阪歴史学会考古学部会にて発表され、そこでも専門の考古学者から評価する意見が出されたとのことです。

 発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。発表希望者は西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔12月度関西例会の内容〕
①盗まれた代表王朝の坐 (東大阪市・萩野秀公)
②斉明天皇の「狂心」 (茨木市・満田正賢)
③天孫降臨と天児屋命と伽耶 (大山崎町・大原重雄)
④瓦と須恵器、3つの提起 (八尾市・服部静尚)
⑤『隋書』に採録されている遣隋使の記事(京都市・岡下英男)
⑥「京師を去る万四千里」とは (姫路市・野田利郎)
⑦六世紀末の九州王朝の東国への進出と支配 (川西市・正木 裕)

◎「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円(三密回避に大部屋使用の場合は1,000円)
 01/15(土) 10:00~12:00 会場:i-siteなんば
      ※午後は恒例の新春古代史講演会。

◎新春古代史講演会 参加費1,000円 共催:古田史学の会、他
◇日時 1月15日(土) 13時30分から17時まで
◇会場 i-site なんば(大阪府立大学難波サテライト)
◇演題と講師
 「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」 講師 佐藤隆さん(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)
 「文献学から見た前期難波宮と藤原宮」 講師 正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)
◇参加費 1,000円
 ※午前中は古田史学の会・関西例会。


第2638話 2021/12/16

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(3)

 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺が、南朝尺(24.5㎝)の1.2倍に相当する「南朝大尺(仮称)」(29.4㎝)とする仮説の根拠として、正殿身舎(もや)部分の全長や柱間距離を挙げました。次に南朝大尺を採用した痕跡が後殿にもあることを紹介します。
 後殿とは正殿の背後(北側)に並列する東西方向(桁行7間×梁行3間)の礎石造りの建物跡SB1370です。礎石は遺っておらず、礎石の据え付け穴とそこに置かれた根石が五ヶ所で確認されています。同じ位置にあったⅡ期後殿も同規模と見られています(注①)。
 後殿は正殿の真後ろに並行してあり、正殿と後殿の梁行柱列は南北一列に並んでいます。その為、後殿桁行(東西方向7間)の柱間距離は各4.4m強であり、正殿とほぼ同じです。従って、この柱間4.4m強も正殿と同様に「南朝大尺」(29.4㎝)の15尺で造営されていることがわかります。ところが後殿梁行(南北方向3間)の柱間距離は、両脇の1間目と3間目が2.7m、中央の二間目が3.9mです。更に後殿基壇の南北幅は12,9mであり、これらは「南朝大尺」(29.4㎝)で割っても整数が得られません。南朝尺(24.5㎝)でも基壇南北幅では整数が得られません。ところが太宰府条坊造営尺(30㎝、注②)では整数が得られます。次の通りです。

      南朝尺  南朝大尺 条坊尺
      (24.5㎝) (29.4㎝) (30㎝)
桁行柱間  17.96  14.97  14.67
梁行柱間脇 11.02   9.18   9.00
梁行柱間中 15.92  13.27  13.00
基壇南北幅 52.65  43.88  43.00

 このように正殿と同距離の桁行柱間は南朝大尺で15尺、南北方向の梁行柱間二種と基壇南北幅は条坊尺で9尺・13尺・43尺と全てに端数がありません。

      南朝尺  南朝大尺 条坊尺
      (24.5㎝) (29.4㎝) (30㎝)
桁行柱間  18尺   15尺   14.7尺
梁行柱間脇 11尺 9.2尺 9尺
梁行柱間中  16尺 13.3尺 13尺
基壇南北幅  52.7尺 43.9尺 43尺

 このことは大宰府政庁Ⅱ期の後殿が南朝大尺(29.4㎝)と条坊尺(30㎝)を併用して造営されたことを示しています。不思議な現象ではありますが、前期難波宮においても同様に宮殿・西北地区条坊が29.2㎝尺、主要条坊が29.49㎝尺で造営されており、大宰府政庁Ⅱ期でも異なる尺が併用されていたと考えざるを得ません。特に太宰府においては、政庁よりも先に条坊が造営されていますから、後で造営された政庁に条坊尺が併用されたことになります。九州王朝(倭国)では南朝尺から南朝大尺という尺の変遷とは別に条坊尺が成立していたわけですが、こうした現象の発生理由を今のところうまく説明することができません。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②実測値により、太宰府条坊(一辺90m)の造営尺は29.9~30.0㎝であることが報告されている。井上信正「大宰府条坊論」(『大


第2637話 2021/12/15

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(2)

 大宰府政庁遺構の調査報告書『大宰府政庁跡』(注①)には「大宰府政庁正殿跡の礎石間距離についての実測調査」(注②)という項目があり、その「調査目的」で次のように説明しています。

 「現在は正殿の建物はない。柱が乗っていたと考えられる礎石があるのみである。
 これらの礎石の位置も最初の礎石の時期から次の立て替え時期における位置を保っているものが多いらしいことが、これまでの発掘調査で判明した。
 立て替え時期においては、動いていないだろうと推測されていた北側の廂(ひさし)部分の側柱礎石も江戸時代において動かされていることが、発掘調査で判明した。
 そうした発掘調査の結果から、立て替え時期において据えられたままと考えられる礎石群は正殿中央部の身舎(もや)部分だろう、ということになる。すなわち、軒行5間梁行2間部分の合計14個の礎石群である。
 そこで、これらの柱間距離を測ることになった。」126頁

 このような判断に基づいて測定されたⅢ期正殿身舎部分の実測値が次のように示されています。

桁行全長 21.999m 梁行全長 6.485m
桁行柱間の平均距離 4.398m  梁行柱間の平均距離 3.241m

 これらの距離を南朝尺(24.5㎝)、前期難波宮造営尺(29.2㎝)、太宰府条坊造営尺(30㎝)などで割ったところ、南朝尺の1.2倍(29.4㎝)が最も整数を得ることがわかりました。当初は前期難波宮造営尺(29.2㎝)での造営ではないかと推測していたのですが、計算すると整数に最も近い値となるのが29.4㎝尺であり、これが偶然にも南朝尺の1.2倍だったのです。次の通りです。

     24.5㎝ 29.2㎝ 29.4㎝ 30㎝
桁行全長 89.79 75.34 74.83 73.33
梁行全長 26.47 22.21 22.06 21.62
桁行柱間 17.95 15.06 14.96 14.66
梁行柱間 13.23 11.10 11.02 10.80

 これらの数値はⅢ期正殿の実測値に基づいていますから、ほぼ同位置だったとされるⅡ期正殿の実態とは若干の誤差があることは避けられません。しかしながら「最初の礎石の時期から次の立て替え時期における位置を保っている」との判断を信頼すれば、南朝尺と同1.2倍尺による各距離は次のようになります。

     南朝尺(24.5㎝) 1.2倍尺(29.4㎝)
桁行全長   90尺     75尺
梁行全長   26.5尺    22尺
桁行柱間   18尺     15尺
梁行柱間   13.25尺    11尺

 両者を比べると、0.5や0.25という端数がでる南朝尺よりも、端数がでない1.2倍尺の方が、設計・造営に採用する尺としては穏当なものと思います。
 この〝1.2倍〟という数値は、いわゆる各時代の小尺と大尺の比率であることから、九州王朝(倭国)は南朝尺(24.5㎝)を採用していた時代と七世紀中頃からの同1.2倍尺(29.4㎝)を採用した時代があったのではないでしょうか。あるいは、南朝尺から同1.1倍尺(法隆寺造営尺)、そして1.2倍尺(大宰府政庁Ⅱ期造営尺)へと変遷したのかもしれません。この変遷は、時代と共に長くなるという尺単位の傾向とも整合しています。この点でも、大宰府政庁における南朝尺採用とした川端説よりも有力な仮説と考える理由です。わたしはこの1.2倍尺を「南朝大尺」あるいは「倭国大尺」と仮称したいと思いますが、いかがでしょうか。より適切な名称があればご提案下さい。
 なお、当仮説でも大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺に先行して造営された太宰府条坊の造営尺(29.9~30.0㎝)の尺単位変遷史における適切な位置づけができません。この点も重要な研究課題です。なお、倭国尺についての山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)による研究(注③)があります。特に次の見解はとても参考になりました。

(ⅰ)南朝尺は晋後尺(24.50㎝)以外にも魏尺・正始弩尺(24.30㎝)がある。
(ⅱ)魏尺・正始弩尺(24.30㎝)の1.2倍は29.16㎝であり、前期難波宮造営尺の29.2㎝に近い。このことから前期難波宮造営尺は魏尺・正始弩尺の1.2倍尺「倭大尺」だったのではないか。

 このように、山田さんの見解は基本的視点が拙稿と共通します。貴重な先行説として紹介させていただきます。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②山本輝雄「大宰府政庁正殿跡の礎石間距離についての実測調査」『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。

Fig.108 正殿跡の実測基準線と身舎柱間寸法の実測値(1/200)

Fig.108 正殿跡の実測基準線と身舎柱間寸法の実測値(1/200)

③山田春廣氏のブログ「sanmaoの暦歴徒然草」〝度量衡〟https://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/cat24082218/index.html


第2636話 2021/12/14

大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)

 川端俊一郎さんは著書『法隆寺のものさし』(注①)で、法隆寺以外に大宰府政庁や観世音寺の造営でも南朝尺(1尺=24.5㎝)が採用されているとされました。そこで、大宰府政庁Ⅱ期について報告書(注②)を精査したところ、南朝尺の1.2倍に相当する「南朝大尺」(仮称)とでも称すべき1尺=29.4㎝の尺が採用されている可能性に気づきました。
 大宰府政庁はⅡ期とⅢ期が礎石を持つ朝堂院様式ですが、Ⅱ期が焼失した跡の上層を整地し、Ⅱ期の礎石を上層に再利用しています。そのため、Ⅱ期遺構の規模(柱間距離など)を復原することが困難な状況です。そこで比較的礎石が遺っており、後世での移動がなされていないⅢ期正殿遺構の中心部分(桁行五間と梁行二間の身舎部分)の現存礎石14個を元に柱間距離の測定がなされています。そのⅢ期の礎石はⅡ期礎石の位置を保っていると判断されています。従って、政庁Ⅱ期の造営尺を確かめるためにはⅢ期正殿の中心部分礎石の計測値に依るほかありません。
 川端さんもⅢ期正殿の実測値を政庁Ⅱ期の造営尺推定の根拠に使用されています。この判断は妥当なものですが、採用された実測値が「昭和四三年(一九六八)から行われた大宰府政庁跡の発掘調査」(前掲書50頁)のものとあり、最新の実測値ではありません。川端さんが採用した正殿身舎の桁行全長は、「鏡山の実測値によれば母屋正面五間は二二〇二㎝である。」(同50頁、注③)とあり、最新(2002年の報告書)の実測値では2,199.9㎝であって、極めてわずかですが異なります。そして川端さんは桁行の1間を「十八材」(18南朝尺)とされました。また、奥行き4間の全長を1,299㎝とされ、1間を「十三材と四分の一」(13.25南朝尺)とされました。これを以て南朝尺により整数が得られたとされるのですが、奥行き(梁行)の1間が13.25尺というのでは、整数とするには細かすぎるように思われるのです。(つづく)

(注)
①川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、2004年。
②『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。
③鏡山猛『大宰府都城の研究』風間書房、1968年。


第2635話 2021/12/13

『古田史学会報』167号の紹介

 『古田史学会報』167号が発行されましたので紹介します。一面には拙稿〝「あま」姓の分布と論理 ―宮崎県の「阿万」「阿萬」姓と異形前方後円墳―〟を掲載していただきました。宮崎県西都原古墳群の周辺に「あま」姓の濃密分布があることと九州王朝との関係についての推論です。

 このわたしの説の問題点を指摘し、他の可能性について論じたのが日野稿です。わたしは、「学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させる」「学問とは自説が時代遅れになることを望む領域」との信念を持っていますので、拙稿と日野稿を併載することを西村さんに要請したものです。日野さんの指摘をよく勉強した上で、返答できればと考えています。いずれにしても、鋭く優れた指摘や批判はありがたいことです。

 平田稿は久しぶりの掲載となりました。この他にも掲載待ちになっている採用稿があります。順次掲載していきます。
167号に掲載された論稿は次の通りです。投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚程度)に配慮され、テーマを絞り込んだ簡潔な原稿とされるようお願いします。

【『古田史学会報』167号の内容】
○新春古代史講演会のお知らせ
◇日時 1月15日(土) 13時30分から17時まで
◇会場 i-site なんば(大阪府立大学難波サテライト)
◇演題と講師
「発掘調査成果からみた前期難波宮の歴史的位置づけ」 講師 佐藤隆さん(大阪市教育委員会文化財保護課副主幹)
「文献学から見た前期難波宮と藤原宮」 講師 正木裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)
◇参加費 1,000円
○「あま」姓の分布と論理 ―宮崎県の「阿万」「阿萬」姓と異形前方後円墳― 京都市 古賀達也
○九州王朝と「アマの長者」と現代の〝阿万〟氏 たつの市 日野智貴
○服部静尚氏の「倭国による初めての遣唐使」説への疑問 神戸市 谷本 茂
○「壬申の大乱」に秘められた謎を解く一作業仮説 大津市 平田文男
○「壹」から始める古田史学・三十三
多利思北孤の時代Ⅹ ―多利思北孤と九州年号と「法興」年号― 古田史学の会・事務局長 正木 裕
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第2634話 2021/12/12

大宰府政庁Ⅰ期の土器と造営尺(2)

 三期に大別される大宰府政庁遺構のうち最も早く成立した掘立柱建物のⅠ期の造営尺について報告書(注①)を調べました。結論から言えば南朝尺(1尺=24.5㎝)の痕跡は見つけることはできませんでした。というよりも、柱間距離に統一性が無い遺構が多く、造営尺を判断できるケースは少数でした。しかし、柱間距離が一定のケースの造営尺はほぼ1尺=30㎝であり、太宰府条坊の造営尺29.9~30.0㎝と一致しているようでした(注②)。その具体例を紹介します。

〔SB043〕中門調査区の西南部から検出した政庁Ⅰ期の掘立柱遺構SB043(3間×3間、西側へもう1間分伸びる可能性もある)の東西総長は約6.20mで、柱間は2.10mで等間。南北総長は約6.50mで、柱間は中央間は2.40m、両脇間が2.10m。各柱間を1尺30㎝で割ると整数を得られます。
〔SB120〕同じく正殿SB010の基壇下から検出した掘立柱遺構SB120の桁行の柱間は2.70mで等間、梁行3間が約2.40mで等間です。これも1尺30㎝で割ると整数を得られます。
〔SB360〕同じく北面回廊SC340基壇下層から検出した掘立柱遺構SB360(7間×3間)の桁行総長16.80mで、柱間は2.40m等間。梁行総長は6.50mで、柱間は東から2間は2.40m、西側1間の柱間は1.70mとやや変則的です。西側1間以外はいずれも1尺30㎝で割ると整数を得られます。

 以上の柱間距離が等間の三例では1尺=30㎝の基本単位が採用されていると見られます。従って、最も古い政庁Ⅰ期の掘立柱遺構の造営尺に30㎝尺が採用されていると考えることができ、南朝尺の痕跡を発見できませんでした。こうした遺構の出土状況と土器編年に基づいて、井上信正さんは大宰府政庁Ⅰ期や条坊の造営尺を29.9~30.0㎝とされ、政庁Ⅰ期新段階の年代を七世紀末とされています(注③)。政庁Ⅰ期の造営年代はそれよりも四半世紀ほど遡るとわたしは考えていますが、いずれにしても、それよりも新しい政庁Ⅱ期が南朝尺という古い尺で造営されたとは考えにくいのではないでしょうか。

(注)
①『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。

Fig.40 掘立柱建物SB360実測図

Fig.40 掘立柱建物SB360実測図
『大宰府政庁』九州歴史資料館、2002年。64頁

②井上信正「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会編、2018年。
③同②。


第2633話 2021/12/11

失われた九州王朝の横笛か「清水の笛」

 美濃晋平さん(古田史学の会・会員、練馬区)からいただいた著書『笛の文化史』(注①)に九州王朝に関係すると思われる、大隅国の台明寺の「青葉の笛」伝承が詳述されていることを「洛中洛外日記」(注②)で紹介しましたが、同書を読んでいて、この他にも九州王朝と関係しそうな笛が出土していることを知りました。
 同書によれば、宮城県名取市高田字清水の清水遺跡井戸跡から九世紀前半のものとされる横笛が出土しており、その地名から「清水の笛」と名付けられました。六指孔の笛としては現存するものでは日本最古とのこと。ちなみに日本最古とされる正倉院の横笛は七指孔とのこと。そして「清水の笛」を復原調査したところ、次のことが判明したそうです。

(1) 雅楽の笛は神楽笛、龍笛、高麗笛の三種類が知られており、「清水の笛」は高麗笛に最も近いが、それとは異なる笛である。
(2) 音程の比較からは、「清水の笛」は雅楽の笛の祖型、あるいは雅楽の笛につながる、雅楽の笛の仲間であることを強く示唆している。
(3) 音階などを規定する歌口から各指孔(中心点)までに焦点を当てた場合、「清水の笛」は高麗笛と龍笛の間に位置する。
(4) 現在、雅楽に使用されている笛の中で「清水の笛」に該当する笛はない。
(5) 江戸時代の雅楽書『樂家録』によれば、高麗笛と龍笛の間にある笛として東遊びに用いられる笛(哥笛ともいう)が昔使われていたが、使われなくなったとある。

 同書に掲載されている『樂家録』「巻之十二」に見える「東遊笛之説」によれば、「體源鈔曰く」として、次の記事があります。要旨を引用します。

 「昔、東遊びに用いられていた中管、またの名を哥笛という笛があった。指孔は六孔で、長管(龍笛)と短管(高麗笛)の間にあり、高麗笛より少し大きい笛であったが、現在は使われなくなった。」427頁

 わたしはこの説明にある『體源鈔』という書名と「東遊」という言葉を見て驚きました。本居宣長の『玉勝間』に九州年号の「教到六年」と共に「東遊」のことが記されていることを「洛中洛外日記」(注③)で紹介し、『古田史学会報』にも論稿(注④)を発表していたからです。その要旨部分を転載します。

【以下、「本居宣長『玉勝間』の九州年号」から転載】
東遊の起り
 同書(『體源抄』豊原統秋:古賀注)に丙辰記ニ云ク、人王廿八代安閑天皇ノ御宇、教到六年(丙辰歳)駿河ノ國宇戸ノ濱に、天人あまくだりて、哥舞し給ひければ、周瑜が腰たをやかにして、海岸の青柳に同じく、廻雪のたもとかろくあがりて、江浦の夕ヘの風にひるがへりけるを、或ル翁いさごをほりて、中にかくれゐて、見傳へたりと申せり、今の東遊(アズマアソビ)とて、公家にも諸社の行幸には、かならずこれを用ひらる、神明ことに御納受ある故也、其翁は、すなわち道守氏とて、今の世までも侍るとやいへり、
(岩波文庫『玉勝間』下、十一の巻。村岡典嗣校訂)

 東遊の起源として『體源抄』の記事を引用したものだが、この中に教到六年(丙辰、五三六)という九州年号が見える。通常、九州年号史料に現れる教到は五年までで、翌年(丙辰)は改元され、僧聴元年となる。従って、『體源抄』が引用した源史料は改元直前の正に教到六年に記された同時代九州王朝系史料の可能性が高い。
 (中略)
 このように、九州年号の「教到六年」における東遊起源説話とも言える九州王朝系史料の存在が明かとなったが、ここで注目されるのが『二中歴』年代歴に記された教到年号細注の「舞遊始」との関連である。これを九州王朝内での一般的な「舞遊」の始まりと理解するのでは、あまりにも遅すぎるため、意味不明の一文であった。ところが、『體源抄』の記事では「東遊」の起源説話として記されており、「舞遊始」を九州王朝に「東遊」がもたらされたとする理解が可能となったのである。【転載おわり】

 更に正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は『體源鈔』の同記事が九州王朝の事績とする論稿(注⑤)を発表されました。こうした先行研究があったので、美濃さんの著書にある『體源鈔』や「東遊」を見て、「清水の笛」こそ〝失われた九州王朝の笛〟ではないかと思ったのです。わたしはこの作業仮説(思いつき)を美濃さんにメールで伝えました。横笛の奏者であり研究者でもある美濃さんからの返信を楽しみに待っているところです。

(注)
①美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』勝美印刷、2021年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2597(2021/10/18)〝美濃晋平『笛の文化史(古代・中世) エッセイ・論考集』を読む〟
 同「洛中洛外日記」2604話(2021/10/27)〝大隅国、台明寺「青葉の笛」伝承〟
③古賀達也「洛中洛外日記」938話(2015/04/29)〝教到六年丙辰(536年)の「東遊」記事〟
④古賀達也「本居宣長『玉勝間』の九州年号 「年代歴」細注の比較史料」『古田史学会報』64号、2004年。
⑤正木裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号2010年。
 同「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の「六十六ヶ国分国・六十六番のものまね」と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。