太宰府一覧

第2692話 2022/03/02

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (2)

 太宰府関連遺構の全体的な編年を論じた山村信榮さんの「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注①)にセリエーションという考古学の専門用語が用いられており、とても興味深い内容でした。出土土器のセリエーションという現象の比較による詳細な太宰府遺構の相対編年がなされており、その説得力を高める工夫がなされています。この山村論文では従来の編年について次のように指摘しています。

 「大宰府の成立を概観する際に重要な時間軸についても解決すべき課題がある。九州における大宰府成立期に係わる考古学的な時間軸は、遺跡から出土する頻度の高い須恵器が用いられてきた。(中略)しかし、型式と期の設定を同一化し、設定した土器型式を、重箱を重ねる方式で時間軸をたてる方式には問題点があり、研究史や新たな編年案についてかつて考察したことがある。また、実年代に関わる諸問題についても指摘した。」199頁

 こうした従来の相対編年方法に替えて、次のようなセリエーションの概念を導入した編年方法を明示しています。

 「本稿においては九州編年における『期』として括られた遺物の一群から一つの典型的な型式を抽出し、型式間には時間の流れに従った量的増減がありながらの共伴を認め、新しい型式の出現をもって期を区切る考え方で時間軸を立てる。」200頁

 そして、六~七世紀の須恵器杯H・G・Bのセリエーション(共伴状況)とその時間帯(フェイズ)を具体的に説明され、各遺構の編年を設定しています。同時にこの編年作業の難しさや限定条件についても触れています。

 「(前略)一つの遺構が存在した厳密な時期を知るためには埋没した環境が知られることや、一定量の同器種複数系統の土器が出土する必要がある。現実的には本論で取り扱う官衙や古代山城の特定の一つの遺構や層から多量の土器が出土するのは稀で、少量の土器が示す時期には不確実性がある。しかし、同じ遺跡が継続して使用され、土壌の堆積や遺構の切りあいが繰り返される場合、少量の土器の出土であっても一定の時間的変遷の傾向は遺物群の前後関係から見て取れる場合が少なくない。遺構が巨大である場合は各地点で出土した少量の遺物が同一性を示すのであれば、一定の幅で遺構の存在した時期を知ることはできる。」200頁

 山村さんはこのように土器のセリエーションによる遺構・層位の存在時期の幅(フェイズ)の判断の可能性について述べられており、いずれも重要な視点が含まれています。具体的には次の視点です。

(1) 少量の土器が示す時期には不確実性がある(注②)。
(2) 同じ遺跡が継続して使用され、土壌の堆積や遺構の切りあいが繰り返される場合、少量の土器の出土でも一定の時間的変遷の傾向は見て取れる場合が少なくない。
(3) 遺構が巨大である場合は各地点で出土した少量の遺物が同一性を示すのであれば、一定の幅で遺構の時期を知ることはできる。

 (2)(3)の視点は、巨大遺構である大野城や水城の編年に活かされており、山村さんは出土須恵器セリエーションに基づいて、両遺構の造営時期などについて、「現状では大野城の築造開始期は『日本書紀』の記述に沿う形で理解しておく。ともあれ、出土した須恵器の土器相が水城と整合的であることを指摘しておきたい。」(203頁)としています。すなわち、両遺構の須恵器セリエーションによる相対編年と暦年とのリンクに『日本書紀』の記事(注③)が採用されていることから、大野城と水城の築造開始時期を七世紀第3四半期と〝現状では理解〟されているようです。
 ちなみに、わたしは水城の完成時期を考古学エビデンスによれば七世紀中葉頃(『日本書紀』天智三年(664)水城築造記事の年代を含む。注④)、大野城はその規模の巨大さから完成は七世紀中葉(注⑤)で、築造開始は七世紀前半まで遡ると考えた方がよいと思っています。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②服部静尚「孝徳・斉明・天智期の飛鳥における考古学的空白」、古田史学の会・関西例会、2022年2月。同発表の質疑応答で、セリエーションによる相対編年を行う際の、母集団として必要な出土土器サンプル数についての筆者からの質問に対して、25点との返答がなされた。同研究は古田学派による初めての本格的な須恵器セリエーションの採用であり、注目される。
③『日本書紀』によれば水城の築造記事が天智三年(664)条、大野城の築城記事が天智四年(665)八月条見える。
④古賀達也『洛中洛外日記』2620話(2021/11/24)〝水城築造年代の考古学エビデンス(3)〟において、次のように述べた。同要旨を転載する。
〝水城築造年代のエビデンスとできるのは、堤体内から出土した土器です。堤体内からの出土土器は少数ですが、水城の基底部に埋設した木樋の抜き取り跡から須恵器杯Gが出土しています。他方、水城の上や周囲から出土した主流須恵器が杯Bであることを併せ考えると、水城の築造年代は杯Gが発生した7世紀中葉以降かつ杯B発生よりも前ということができます。具体的年代を推定すれば640~660年頃となり、「7世紀中葉頃」という表現が良い。〟
⑤大野城大宰府口城門から出土したコウヤマキ柱根最外層の年輪年代測定が648年とされており、大野城築造が650年頃まで遡る可能性がある。

 

【写真】大宰府政庁出土土器編年図(参考図です)


第2691話 2022/03/01

古田先生の土器編年試案(セリエーション) (1)

 太宰府関連遺構の造営年代の研究のため、七世紀の須恵器編年の報告書や論文を読んできました。その中で全体的な編年を論じた山村信榮さんの「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」(注①)に興味深い言葉が用いられていました。それはセリエーションとという考古学の専門用語です。web上の論稿(注②)では次のように説明されています。

 「セリエーションとは、何だろうか?代表的には、以下のような説明がなされている。
 身辺の流行現象を見ればわかるように、モノは突如出現するわけでもないし、それ以前からあった同種のモノに直ちに置き代わるわけでもない。新しいモノは次第にあるいは急速に台頭し、それに合わせて、古いモノは次第に姿を消す。こうしたモノの変遷を視覚的・数量的に示す手法がセリエーションである。アメリカ考古学で開発されたこの方法(後略)」(上原真人 2009 「セリエーションとは何か」『考古学 -その方法と現状-』放送大学教材:129.)

 従来の考古学の土器編年では、ある遺構や層位から出土した主要土器、あるいは最も新しい土器の編年をその遺構・層位の年代とすることが通例でした。しかし、実際は複数の年代の土器が混在しているので、その混在率を数値化して相対編年するという考え方は実に合理的な方法です。
 こうしたセリエーションという考え方や編年方法を、表現は違いますが古田先生は30年ほど前から主張されていました(注③)。そのことを古田先生からお聞きしたのは、わたしの記憶では佐賀県吉野ヶ里から弥生時代の環濠集落が発見されて話題になっていた頃だったと思います。このセリエーションという概念はとても重要ですから、わたしも前期難波宮に関する論稿(注④)で触れたことがあります。(つづく)

(注)
①山村信榮「大宰府成立再論 ―政庁Ⅰ期における大宰府の成立―」『大宰府の研究』高志書院、2018年。
②「第2考古学」セリエーション[総論] https://2nd-archaeology.blog.ss-blog.jp/
③古賀達也「洛中洛外日記【号外】」(2017/04/08)〝古田先生の土器編年の方法〟
【以下、転載】
 近年、わたしは考古学土器編年について勉強を進めてきました。その結果、土器の相対編年は研究者によってずれが見られるものの、比較的信頼できるのではないかと考えるようになりました。従来、古田学派の研究者は土器の相対編年は近畿を古く見て、筑紫は新しくする傾向にあり、信頼できないとする見解が多数だったのです。時には100年以上のずれが発生しているとする見解さえありました。わたし自身も永くそのように捉えてきました。
 しかし、考古学者も一元史観に基づいているとはいえ、それなりの出土事実に基づいて編年されているのですから、彼らがどのような論理性により土器の相対編年や暦年とのリンクを組み立てているのだろうかと、先入観を排して発掘調査報告書を見てきたのですが、特に大阪歴博の考古学者による難波編年がかなり正確で、文献史学との整合性もかなりとれていることがわかったのです。
 そして近年は筑紫の土器編年について考古学者の論稿を精査してきたのですが、これもまたそれほど不自然ではないことがわかりました。現時点でのわたしの理解では、北部九州では20~30年ほどのずれをがあるのではないかと考えていますが、土器の1様式の流行期間が従来の25年ほどとする理解よりも長いとする見解が出されていることもあって、編年観そのものは比較的正確ではないかと感じています。
 わたしは土器の相対編年の方法について、20年以上前に古田先生から次のようなお話をうかがったことがあります。それは、遺構から複数の様式の土器が出土したとき、その中の最も新しい土器の年代をその遺構の年代としてきた当時の編年方法に対して、複数の様式の土器が出土した場合は各様式の土器の割合で遺構ごとの相対編年を比較すべきという考え方でした。自然科学の「正規分布」の考え方を土器の相対編年においても援用する考え方で、現在の考古学ではこの考えが受け入れられています。古田先生の先見性を示す事例といえます。
 わたしはこうした古田先生の先進的な土器相対編年の考え方を知っていましたので、ある遺構から新しい様式の土器が少数出現したからといって、その新しい様式が流行した年代をその遺構の年代とするのは学問的には誤りと考えていました。ですから、前期難波宮九州王朝副都説への批判として、その整地層から極めて少数の須恵器坏Bが出土することを理由に、前期難波宮造営年代を須恵器坏Bが流行した天武期とする論者があったのですが、その学問の方法は誤りであると反論してきました。
 考えてもみてください。ある土器様式が発生したとたん、それまでの土器様式が無くなって新様式の土器だけが出土することなど絶対にありえません。土器様式の変遷というものは、発生段階は少数でそれ以前の土器に混ざって出土し、流行に伴って多数を占め、その後は新たに発生した新新様式の土器と共存しながら、やがては出土しなくなるという変遷をたどるものです。これは自然科学では極めて常識的な考え方(正規分布)です。近年ではこの考え方をとる考古学者が増えているようで、ようやく古田先生の見解が考古学界でも常識となったようです。
【転載おわり】
 ここでは、前期難波宮の整地層から極めて少数の須恵器坏Bが出土したと書いたが、後にそれは不正確な情報に基づいていたことに気づいた。現在では前期難波宮整地層からは須恵器杯Bは出土していないと理解している。次の拙論を参照されたい。
 古賀達也「前期難波宮『天武朝造営』説の虚構」―整地層出土「坏B」の真相―」『古田史学会報』151号、2019年4月。
「続・前期難波宮の学習」『古田史学会報』114号、2013年2月。


第2680話 2022/02/09

難波宮の複都制と副都(9)

 習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)の出身地を筑後地方(うきは市)とする作業仮説を提起した「洛中洛外日記」2679話(2022/02/08)〝難波宮の複都制と副都(8)〟をFaceBookに掲載したところ、日野智貴さん(古田史学の会・会員、たつの市)から次のご意見が寄せられました。

 「物部と杉の共通の密集地が出身地と言うのは、確かに興味深い説ですね。彼の史料に残る最初の官職が豊前介で他の官歴も九州ですから有り得そうです。この問題は物部氏や弓削氏との関係も絡んできそうですね。」

 わたしは次のように返信しました。

 「ご指摘の通りで、岡山県でも杉さんと物部さんの地域が隣接していますし、その付近には物部神社(石上布都魂神社)もあります。杉さんと物部さんが無関係とは思えませんね。」

 杉さんと物部さんの分布が重なる地域がうきは市だけではなく、岡山県でも同様の傾向にあることは、これを偶然の一致とするよりも両者に何かしらの深い繋がりがあることを示唆しており、当仮説への実証力を強めるものです。苗字の分布データ(注①)の関連部分を再掲します。

【杉(すぎ)さんの分布】
〔都道府県別〕
1 福岡県(約1,600人)
2 岡山県(約600人)

〔市町村別〕
1 福岡県 うきは市(約300人)
3 岡山県 真庭市(約140人)
6 岡山県 新見市(約130人)
7 岡山県 岡山市(約110人)
8 福岡県 久留米市(約90人)
10 福岡県 三潴郡大木町(約80人)

【物部さんの分布】
〔都道府県別〕
1 岡山県(約400人)
2 京都府(約300人)
3 福岡県(約200人)

〔市町村別〕
1 岡山県 高梁市(約200人)
2 岡山県 岡山市(約120人)
3 福岡県 うきは市(約100人)
8 岡山県 倉敷市(約40人)

 日野さんに次いで、西野慶龍さんからも次の情報が寄せられました。

 「高梁市に住んでいますが、近所には杉さんが住んでいたり、子供の頃のバスの運転手さんが物部さんでした。」

 こうした高梁市の西野さんからの〝現地報告〟にも接し、わたしは自説に確信を持つことができました。そして、もしやと思い、岡山県内の「杉神社」を検索したところ、やはりありました。下記の通りです(注②)。

○杉神社(スギジンジャ) 勝田郡勝央町小矢田295 御祭神:無記載
○杉神社(スギジンジャ) 勝田郡奈義町広岡647・豊沢787 御祭神:無記載
○杉神社(スギジンジャ) 勝田郡奈義町西原1164 御祭神:無記載
○杉神社(スギジンジャ) 美作市安蘇686 御祭神:大己貴命,天鈿女命,少彦名命

 この最後の美作市の杉神社鎮座地名が「安蘇」であることも、習宜阿曾麻呂の名前に関係するのか気になるところです。また、勝田郡の三つの杉神社の御祭神の名前が記されていないという不思議な状況も、何か理由がありそうです(習宜阿曾麻呂との関係を憚ったためか)。なお、備前国一宮が物部氏と関係が深い石上布都魂神社(イソノカミフツミタマジンジャ。赤磐市石上1448)であることも注目されます。

 日野さんのご指摘も重要な視点と論点が含まれています。なかでも、「彼(習宜阿曾麻呂)の史料に残る最初の官職が豊前介で他の官歴も九州」という視点は、大宰府主神と九州王朝との歴史的関係をうかがわせるものであり注目されます。『続日本紀』には次の記事が見えます(注③)。

 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麿を豊前介と為す。」神護景雲元年(767年)九月条
 「(前略)初め大宰主神習宜阿曾麻呂、旨を希(ねが)ひて道鏡に媚び事(つか)ふ。(後略)」神護景雲三年(769年)九月条
 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂を多褹嶋守と為す。」神護景雲四年(770年)八月条
 「従五位下中臣習宜朝臣阿曾麻呂を大隅守と為す。」宝亀三年(772年)六月条

 日野さんのご指摘の通り、習宜阿曾麻呂の左遷や転任は九州内であることから、その出自も九州内とする方がより妥当と思われます。以上のことから習宜阿曾麻呂の出自を筑後地方(うきは市)とする仮説は最有力ではないでしょうか。更に、習宜の訓みは「すげ」ではなく、「すぎ」とした方がよいことも明らかになったと思われます。(つづく)

(注)
①「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
②岡山県神社庁のホームページによる。
③『続日本紀』新日本古典文学大系、岩波書店。


第2679話 2022/02/08

難波宮の複都制と副都(8)

 習宜阿曾麻呂(すげのあそまろ)の習宜の本籍地を調査していて気づいたことがありました。そもそも、習宜を「すげ」と訓むのは正しいのだろうか、「すげ」と訓むことは学問的検証を経たものだろうか。このような疑問を抱いたのです。
 普通に訓めば、習宜は「しゅうぎ」「しゅぎ」か「すぎ」です(注①)。「宜」の字に「げ」の音は無いように思われるからです。従って、現代の苗字であれば、「すぎ」に「杉」の字を当てるのが一般的でしょう。そこで、「杉」姓の分布をweb(注②)で調べると次のようでした。

【杉(すぎ)さんの分布】
〔都道府県別〕
1 福岡県(約1,600人)
2 岡山県(約600人)
3 東京都(約500人)
3 大阪府(約500人)
5 愛知県(約400人)
6 兵庫県(約400人)
7 山口県(約400人)
8 神奈川県(約400人)
8 埼玉県(約400人)
10 福島県(約300人)

〔市町村別〕
1 福岡県 うきは市(約300人)
2 福島県 南相馬市(約200人)
3 岡山県 真庭市(約140人)
4 山口県 山口市(約130人)
4 愛媛県 西条市(約130人)
6 岡山県 新見市(約130人)
7 岡山県 岡山市(約110人)
8 福岡県 久留米市(約90人)
8 愛知県 稲沢市(約90人)
10 福岡県 三潴郡大木町(約80人)

 この分布データによれば、福岡県の筑後地方(うきは市、久留米市、三潴郡)が最濃密地域であることがわかります。筑後地方であれば太宰府に近く、大宰府主神の出身地としても違和感はありませんし、阿曾麻呂という名前の「阿曾」も阿蘇山を連想させます。そして、阿蘇神社は筑後地方にも散見します(注③)。
 また、『新撰姓氏録』(右京神別上)によれば「中臣習宜朝臣」の祖先を「味瓊杵田命」(うましにぎたのみこと)としており、これは『先代旧事本紀』によれば饒速日命(にぎはやひのみこと)の孫に当たる物部系の神様です。あるいは『新撰姓氏録』(右京神別上)の「采女朝臣」に「神饒速日命六世孫大水口宿禰之後也」とあり、それに続く「中臣習宜朝臣」に「同神孫味瓊杵田命之後也」とあることからも、物部系の氏族であることがわかります。そして、うきは市(旧浮羽郡)には物部郷があったことが知られており(注④)、今でも物部さんが多数分布しています。次の通りです(注②)。

【物部さんの分布】
1 岡山県 高梁市(約200人)
2 岡山県 岡山市(約120人)
3 福岡県 うきは市(約100人)
4 京都府 京都市左京区(約80人)
5 京都府 京都市北区(約50人)
6 京都府 京都市西京区(約50人)
7 島根県 松江市(約40人)
8 岡山県 倉敷市(約40人)
9 兵庫県 洲本市(約30人)
10 静岡県 浜松市(約30人)

 以上のように、いずれも傍証の域を出ませんが、習宜阿曾麻呂の出身地を現うきは市付近とすることは、「大和国添下郡」説よりも有力ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①わたしが子供の頃、「せ」を「しぇ」と発音する地域(主に佐賀県)があった。古くは、「す」も「しゅ」と訛ることがあったのではあるまいか。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。
③管見では次の阿蘇神社がある。
 阿蘇神社 久留米市田主丸町(旧浮羽郡田主丸町)
 阿蘇神社 八女市立花町
 干潟阿蘇神社 小郡市干潟(旧三井郡立石村)
 筑後乃国阿蘇神社 みやま市高田町
④『和名抄』「筑後国生葉郡」に「物部郷」が見える。


第2678話 2022/02/07

難波宮の複都制と副都(7)

 大宰府主神、中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)の習宜について、「大和国添下郡の地名」とする解説が岩波書店『続日本紀』の補注で紹介されています(注①)。この解説によれば習宜氏は大和国出身のように思われますが、webで「習宜」姓の分布を調査したところ、現在は存在していないようで検索できません。そこで、「すげ」の訓みも持つ「菅」「管」を検索したところ、次のようになりました(注②)。

【菅(すが/かん/すげ)さんの分布】
〔市町村別〕
1 愛媛県 今治市(約3,300人)
2 愛媛県 松山市(約1,900人)
3 秋田県 湯沢市(約1,700人)
4 山形県 最上郡最上町(約1,000人)
5 愛媛県 西条市(約1,000人)
6 大分県 佐伯市(約600人)
7 愛媛県 上浮穴郡久万高原町(約600人)
8 大分県 大分市(約500人)
9 愛媛県 新居浜市(約400人)
10 長崎県 島原市(約400人)

【管(すが/かん/すげ)さんの分布】
〔市町村別〕
1 大分県 佐伯市(約200人)
2 福島県 会津若松市(約110人)
2 大分県 大分市(約110人)
4 山形県 西村山郡河北町(約90人)
5 熊本県 菊池市(約70人)
6 熊本県 熊本市(約60人)
7 愛媛県 松山市(約50人)
8 長崎県 長崎市(約30人)
9 山形県 山形市(約30人)
9 宮崎県 延岡市(約30人)

 「菅」「管」姓は豊予海峡を挟んで愛媛県と大分県、特に愛媛県に最濃密分布があります。しかし、その訓みの大半は「かん」であり、「すげ」は極めて少数と説明されていることから、「すげ」姓分布のエビデンスに採用するのには不適切なデータのようです。他方、「大和国添下郡」の出身と推定し得る分布も示していませんので、習宜阿曾麻呂の本籍地について、「菅」「管」姓の分布データからは推定できそうにありません。(つづく)

(注)
①『続日本紀 二』岩波書店、新日本古典文学大系、465頁。
②「日本姓氏語源辞典」(https://name-power.net/)による。


第2677話 2022/02/06

難波宮の複都制と副都(6)

 九州王朝(倭国)における権威の都「倭京(太宰府)」の象徴的官職「主神」の具体的な職掌を示す事件があります。管見では大宰府主神として名前が知られている人物に、宇佐八幡宮神託事件で著名な中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)がいます。史料(『続日本紀』)に遺されたその経歴をウィキペディアでは次のように紹介しています。

 「中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)は、奈良時代の貴族。氏は単に習宜とも記される。姓は朝臣。官位は従五位下・大隅守。
【経歴】
 天平神護二年(766年)従五位下に叙爵し、翌神護景雲元年(767年)に、宇佐神宮の神職団の紛争調停のために豊前介に任ぜられた。神護景雲三年(769年)9月大宰主神を務めていた際、宇佐八幡宮の神託であるとして、道鏡を皇位に就かせれば天下太平になると称徳天皇に上奏するが、和気清麻呂によって道鏡の皇嗣擁立を阻止される(宇佐八幡宮神託事件)。神護景雲四年(770年)に称徳天皇の崩御を通じて道鏡が失脚すると、阿曾麻呂は多褹嶋守に左遷された。宝亀三年(772年)4月に道鏡が没すると、6月に阿曾麻呂はかつて和気清麻呂が神託事件により流された大隅国の国司に任ぜられた。」

 宇佐八幡大神の神託により道鏡を天皇にすることを習宜阿曾麻呂が上奏するという、大和朝廷にとって前代未聞の大事件です。大宰府主神の習宜阿曾麻呂が、神託という形式とはいえ、皇族でもない道鏡を皇位に就けるよう上奏することができたのですから、その背景に大宰府が持っていた国家的権威を象徴しています。王朝交替後でもこれほどの権威が大宰府にあったわけですから、九州王朝時代の太宰府を複都制における「権威の都」とすることは穏当な理解と思われます。(つづく)


第2676話 2022/02/05

難波宮の複都制と副都(5)

 村元健一さんの次の指摘は、前期難波宮複都説にとって貴重なものでした。

 「隋から唐初期にかけて『複都制』を採ったのは、隋煬帝と唐高宗だけである。隋煬帝期では大興城ではなく、実質的に東都洛陽を主とするが、宗廟や郊壇は大興に置かれたままであり、権威の都である大興と権力の都である東都の分立と見なすことができる。」(注①)

 この視点を太宰府(倭京)と前期難波宮(難波京)に当てはめれば、権威の都「倭京(太宰府)」と権力の都「難波京(前期難波宮)」となります。その痕跡が『養老律令』職員令に残っています。職員令に規定された大宰府職員冒頭は「主神」であり、他には見えません。

 「主神一人。掌らむこと、諸の祭祀の事。」『養老律令』職員令

 主神は大宰府職員の筆頭に記されてはいるものの、官位令によれば正七位下であり、高官とは言い難いものです。このやや不可解な史料事実について「洛中洛外日記」(注②)で次のように論じました。

〝おそらく、九州王朝大宰府の権威が「主神」が祭る神々(天神か)に基づいていたことによるのではないでしょうか。大和朝廷も九州島9国を大宰府による間接統治をする上で、「主神」の職掌が必要だったと考えられます。第二次世界大戦後の日本に、マッカーサーが天皇制を残したことと似ているかもしれません。
 同様に、大和朝廷も自らが祭祀する神々により、その権威が保証されていたのでしょう。こうした王朝の権威の淵源をそれぞれの「祖神」とするのは、古代世界ではある意味において当然のことと思われます。したがって、『養老律令』の大宰府に「主神」があることは、九州大宰府が別の権威に基づいた別王朝の痕跡ともいうべき史料事実なのです。〟

 ここで述べていたように、大宰府に主神があることは、大宰府が別の権威に基づいた別王朝の痕跡であり、九州王朝(倭国)の複都制(両京制)時代において、太宰府「倭京」が〝権威の都〟であったことの史料根拠ではないでしょうか。(つづく)

(注)
①村元健一「隋唐初の複都制 ―七世紀複都制解明の手掛かりとして―」『大阪歴史博物館 研究紀要』15号、2017年。
②古賀達也「洛中洛外日記」521話(2013/02/03)〝大宰府の「主神」〟


第2669話 2022/01/27

政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡(2)

 通古賀(とおのこが)地区以外に政庁地区にもⅠ期の掘立柱建物がありますが、正殿後方の東北側にある後殿地区建物(SB500a、SB500b)の下層から政庁Ⅰ期当時の木簡が出土しています。調査報告書『大宰府政庁跡』(注①)には次のように紹介されています。

〝本調査で出土した木簡は、大宰府政庁の建物の変遷を考える上でも重要な材料を提示してくれた。これらの木簡の発見まで、政庁が礎石建物になったのは天武から文武朝の間とされてきたが、8世紀初頭前後のものと推定される木簡2の出土地点が、北面築地のSA505の基壇下であったことは、第Ⅱ期の後面築地が8世紀初頭以降に建造されたことを示している。この発見は大宰府政庁の研究史の上でも大きな転換点となった。そして、現在、政庁第Ⅱ期の造営時期を8世紀前半とする大宰府論が展開されている。〟『大宰府政庁跡』422頁

 ここで示された木簡が出土した層位は「大宰府史跡第二六次調査 B地点(第Ⅲ腐植土層)」とされるもので、政庁の築地下の北側まで続く腐植土層です。そこから、政庁Ⅱ期の造営時期を八世紀前半とする根拠とされた次の木簡が出土しました。

(表) 十月廿日竺志前贄驛□(寸)□(分)留 多比二生鮑六十具\鯖四列都備五十具
(裏) 須志毛 十古 割郡布 一古

 ここに見える「竺志前」が「筑前」の古い表記であり、筑紫が筑前と筑後に分国された八世紀初頭前後の木簡と推定されたわけです。しかし、九州の分国が六世紀末から七世紀初頭にかけて九州王朝により行われたことが、わたしたちの研究(注②)で判明しています。ですから「竺志前」表記は八世紀初頭前後の木簡と推定する根拠にはならず、むしろ七世紀第3四半期以前まで遡るとしても問題ありません。
この政庁東北部地区からは八世紀初頭頃に至る多くの木簡やその削り屑が出土しており、当地に木簡を取り扱う役所があったのではないかと考えられています。しかし、政庁Ⅰ期時代の中心地と思われる通古賀地区(字扇屋敷)からは離れていますので、どのような役所があったのか未詳です。(つづく)

(注)
①『大宰府政庁跡』九州歴史資料館、2002年。
②古賀達也「九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の変遷」『九州王朝の論理 「日出ずる処の天子」の地』明石書店、2000年。
 同「続・九州を論ず ―国内史料に見える『九州』の分国」同前。
 正木裕「九州年号「端政」と多利思北孤の事績」『古田史学会報』97号2010年。
 同「盗まれた分国と能楽の祖 ―聖徳太子の『六十六ヶ国分国・六十六番のものまね』と多利思北孤―」『盗まれた「聖徳太子」伝承』古田史学の会編、明石書店、2015年。


第2668話 2022/01/25

政庁Ⅰ期時代の太宰府の痕跡 (1)

 太宰府の高級官僚、筑紫史益(つくしのふひと まさる)について紹介しましたが(注①)、『日本書紀』持統天皇五年正月条(注②)によれば、その29年前の662年(白鳳二年)に筑紫大宰府典を拝命したとありますから、大宰府政庁Ⅰ期からⅡ期にかけての時代の官僚であることがわかります。
 大宰府政庁遺構は三期に大別され、掘立柱建物のⅠ期、その上層にある朝堂院様式の礎石建物のⅡ期、Ⅱ期が焼失した後にその上に建造された同規模の朝堂院様式礎石建物のⅢ期です。現在、地表にある礎石はⅢ期のものです。通説ではⅠ期の造営年代は七世紀末頃、Ⅱ期は八世紀初頭とされています。しかし、わたしの研究では大宰府政庁Ⅰ期の時代は七世紀中葉頃で、Ⅱ期の造営は観世音寺の創建(白鳳十年、670年)と同時期と思われます(注③)。そこで、政庁Ⅰ期の太宰府の考古学的痕跡について調査し、その実態について考察してみます。
 井上信正さん(太宰府市教育委員会)の研究(注④)によれば、太宰府条坊と政庁Ⅰ期の造営は同時期とされており、その時代の中心地は右郭12条4坊付近に位置する王城神社(小字「扇屋敷」)がある通古賀(とおのこが)地区とされています。同地区からは七世紀の土器の出土があり、条坊内では比較的古い土器とのことです。従って、朝堂院様式の政庁Ⅱ期の宮殿ができる前は通古賀に王宮があった可能性が大です。この他に政庁Ⅰ期当時の木簡が多数出土する場所があります。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2667話(2022/01/23)〝太宰府(倭京)の高級官僚、筑紫史益〟
②「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・絁十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」『日本書紀』持統天皇五年(691年)正月条
③古賀達也「洛中洛外日記」2632話(2021/12/10)〝大宰府政庁Ⅰ期の土器と造営尺(1)〟
④井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究十七号』二〇〇一年。
 同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』五八八、二〇〇九年。
 同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 四四』太宰府市教育委員会、二〇一四年。
 同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会、高志書院、二〇一八年。


第2667話 2022/01/23

太宰府(倭京)の高級官僚、筑紫史益

 九州王朝(倭国)による律令官制の成立は、筑後(久留米市)から筑前太宰府(倭京)に遷都した倭京元年(618年)から始まり、順次拡張された条坊都市とともに官僚機構も拡充され、前期難波宮(難波京)や大和朝廷の藤原京へと受け継がれたとする仮説を「洛中洛外日記」(注①)で提起しました。すなわち、太宰府(倭京)こそが「官人登用の真の母体」だったのです。その太宰府高級官僚の一人、筑紫史益(つくしのふひと まさる)について紹介します。
 『日本書紀』の持統天皇五年正月条に持統天皇による次の詔が見えます。

 「詔して曰わく、直広肆筑紫史益、筑紫大宰府典に拝されしより以来、今に二十九年。清白き忠誠を以て、あえて怠惰まず。是の故に、食封五十戸・ふとぎぬ十五匹・綿二十五屯・布五十端・稲五千束を賜う」『日本書紀』持統天皇五年(691年)正月条

 この記事によれば、持統五年(691年)の29年前に筑紫史益が筑紫大宰府典に拝命されていたのですから、662年(白鳳二年)には筑紫に大宰府があり、律令制官職(注②)と思われる大宰府の「典」があったことを示しています。これは大宰府政庁Ⅰ期と条坊都市造営の時代に相当し、当時の九州王朝(倭国)に律令と律令官僚が存在していたことの史料根拠の一つになります。
 この筑紫史益についての九州王朝説の視点から論じた論文があります。下関市の前田博司さん(故人)の「九州王朝の落日」という論文(注③)が1984年に発表されています。一部引用します。

【以下、引用】
 筑紫史益に与えられていた位階は直広肆でありこれは後の従五位下にあたる。当時筑紫大宰であった河内王は西暦六八六年には浄広肆の位にありこれは後の従五位下にあたる。西暦六九四年に筑紫大宰率に任じられた三野王も同じく浄広肆であり、『日本書紀』天武天皇十四年正月の条に「浄」は諸王以上に与えられる位であり、「直」は諸臣に与えられる位であるとされていることから、王族と諸臣の違いこそあれ筑紫大宰府の長官にも比すべき位階を筑紫史益が有して居ることは注目すべきことと考えられる。筑紫の大宰は次々に替っても、その下にあって、しかも位階では長官と対等のランクにあり、大宰府典として事実上九州の行政の実務に永年携わっている在地の有力な人物の像を思い浮かべていただきたい。(中略)
 典の職はのちの養老職員令によれぱ、大宰府には大典二人、少典二人を置く事になっていて、その相当の官位は大典が正七位上、少典が正八位上であり、三十年程へだたった後代に比して、大宰府典の職位がかなり高いのは何故だろうか。
【引用おわり】

 前田さんは「古田史学の会」創設時に全国世話人としてご協力いただいた恩人のお一人で、30年ほど前に古田先生と二人で長門国鋳銭司跡を訪問した時、お世話いただいたことがあります。前田さんが1984年の段階で筑紫史益に注目されていたことは驚きです。
 わたしは筑紫史益の位階「直広肆」や姓(かばね)「史」の他に「筑紫」という名前にも注目しています。九州王朝の天子が筑紫君磐井や筑紫君薩野馬のように「筑紫」を名のっていることを考えれば、同じく「筑紫」の名を持つ筑紫史益も九州王朝王族の一人ではないでしょうか。そのため、前期難波宮創建の後も高級官僚として太宰府に残ったのではないかと推定しています。なお、701年の王朝交替後も「筑紫公(ちくしのきみ)」を名のる官人の存在を紹介した論文(注④)をわたしは発表しました。引き続き、九州王朝官僚の研究を続けます。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2666話(2022/01/21)〝太宰府(倭京)「官人登用の母体」説〟
②『養老律令』職員令に「大宰府典」が見える。
③前田博司「九州王朝の落日」『市民の古代』6集、市民の古代研究会編、1984年。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/simin06/maeda01.html
④古賀達也「九州王朝の末裔たち 『続日本後紀』にいた筑紫の君」『市民の古代』12集、市民の古代研究会編、1990年。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/simin12/matuei.html


第2666話 2022/01/21

太宰府(倭京)「官人登用の母体」説

 新春古代史講演会で佐藤隆さんが触れられた〝前期難波宮「官人登用の母体」説〟ですが、専門的な律令統治実務能力を持つ数千人の官僚群が前期難波宮に突然のように出現することは有り得ないと考えています。
 九州王朝説の視点からは、七世紀中頃(652年、白雉元年)に創建された前期難波宮(難波京)よりも古い太宰府(倭京)の存在を考えると、九州王朝(倭国)による律令官制の成立は、筑後(久留米市)から筑前太宰府に遷都した倭京元年(618年)から始まり、順次拡張された条坊都市とともに官僚機構も整備拡大されたと考えています。そして、前期難波宮完成と共に複都制(両京制)を採用した九州王朝は評制による全国統治を進めるために、倭国の中央に位置し、交通の要衝である前期難波宮(難波京)へ事実上の〝遷都〟を実施し、太宰府で整備拡充した中央官僚群の大半を難波京に移動させたと思われます。この推定には考古学的痕跡があります。それは太宰府条坊都市に土器を供給した牛頸窯跡群の発生と衰退の歴史です。
 牛頸窯跡群は太宰府の西側に位置し、太宰府に土器を供給した九州王朝屈指の土器生産センターです。そして時代によって土器生産が活発になったり、低迷したことを「洛中洛外日記」で紹介しました(注①)。
 牛頸窯跡群の操業は六世紀中ごろに始まります。当初は2~3基程度の小規模な生産でしたが、六世紀末から七世紀初めの時期に窯の数は一気に急増し、七世紀前半にかけて継続します(注②)。わたしが太宰府条坊都市造営の開始時期と考える七世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府建都を示す考古学的痕跡と考えられます。七世紀中頃になると牛頸での土器生産は減少するのですが、前期難波宮の造営に伴う工人(陶工)らの移動(番匠の発生)の結果と理解することができます。そして、消費財である土器の生産・供給が減少していることは、太宰府条坊都市の人口減少を意味しますが、これこそ太宰府の官僚群が前期難波宮(難波京)へ移動したことの痕跡ではないでしょうか。
 このように太宰府への土器供給体制の増減と前期難波宮造営時期とが見事に対応しており、七世紀前半に太宰府(倭京)で整備拡充された律令制中央官僚群が、七世紀中頃の前期難波宮創建に伴って難波京へ移動し、そして九州王朝から大和朝廷への王朝交替直前の七世紀末には藤原京へ官僚群は移動したとわたしは考えています。すなわち、太宰府(倭京)こそが「官人登用の真の母体」だったのです。なお、律令制統治の開始による官僚群の誕生と須恵器杯Bの発生が深く関連しているとする論稿(注③)をわたしは発表しました。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1363話(2017/04/05)〝牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市〟
②石木秀哲「西海道北部の土器生産 ~牛頸窯跡群を中心として~」『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 ―発表資料集―』2017年、「九州国立博物館『大宰府学研究』事業、熊本県『古代山城に関する研究会』事業、合同シンポジウム」資料集。
③古賀達也「太宰府出土須恵器杯Bと律令官制 ―九州王朝史と須恵器の進化―」『多元』167号、2021年。
古賀達也「洛中洛外日記」2536~2547話(2021/08/13~22)〝太宰府出土、須恵器と土師器の話(1)~(7)〟


第2658話 2022/01/10

大宰府政庁造営尺と唐開元大尺

 大宰府政庁正殿などの造営基準尺は29.4cmであり、晋後尺(24.50㎝)の1.2倍であることから、「南朝大尺」と仮称したのですが(注①)、この29.4cmと同じ長さの「唐玄宗開元大尺」があることを山田春廣氏がブログ(注②)で紹介されていました。そこで、先日のリモートでの勉強会のおり、山田さんにその詳細を教えていただきました。
 「唐玄宗開元大尺」とは唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めた尺とされており、鉄製のモノサシが現存しているとのことでした。鉄製ですから木製や骨製よりも経年劣化や乾燥などによる収縮もはるかに少ないはずですから、1尺29.4cmという数値は信頼性が高いと思われます。また、開元年間(713年~741年)になって初めて作られた尺ではなく、隋・唐代において複数あった尺の中から、より広く採用されていたものを基準尺として公認したのではないかとのことでした。
 そうであれば、大宰府政庁造営基準尺として九州王朝(倭国)で採用されていた「南朝大尺」と同じものが中国でも使用されていたことになります。太宰府政庁Ⅱ期の造営年代を七世紀の第Ⅲ四半期頃とわたしは考えていますので、時代的にも対応しているようです。これは偶然の一致とするよりも、七世紀における両国の交流が度量衡にも及んでいたためと考えるべきではないでしょうか。もしそうであれば、短里(1里約77m)を採用していたと思われる九州王朝の公認里単位への影響も考える必要があるかもしれません。山田さんのご教示に感謝いたします。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2636~2641話(2021/12/14~20)〝大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(1)~(4)〟
②山田春廣「sanmaoの暦歴徒然草」(2021年12月22日)〝実在した「南朝大尺」 ―唐「開元大尺」は何cmか― 〟に次の記事が収録されている。以下、転載する。
【転載】
 先の記事「1.2倍尺」の出現する理由―十二進法の影響か―2021年12月20日(月)で藤田元春「尺度の研究」(PDF)に載っていた「1.2倍尺」が出現するのは「十二進法」が影響したとする説を紹介しました。そこに挙げられていた「開元尺」は、唐の玄宗皇帝が開元年間(713年~741年)に『開元令』で定めたとされているものです。
 文化遺産オンラインを調べていたら、面白いモノサシを見つけました(リンクを貼ってあります)。単位はセンチメートルです。

唐小尺 金工 長さ24.3 幅1.5 厚さ0.25 1本
唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5 幅1.9 厚さ0.5 1本
唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4 幅1.9 厚さ0.5 1本

 何が「面白い」のかといえば、文化遺産オンラインに載っている「唐小尺 金工 長さ24.3(cm)」というのは、魏の「正始弩尺(24.30㎝)」であり、同じく「唐玄宗開元小尺 金工 長さ24.5(cm)」というのは、「晋後尺(24.50㎝)」であり、「唐玄宗開元大尺 金工 長さ29.4(cm)」というのは、古賀達也の洛中洛外日記 第2638話 2021/12/16 大宰府政庁Ⅱ期の造営尺(3)で古賀さんが指摘している大宰府政庁Ⅱ期の「正殿」「後殿」で用いられている「南朝大尺(29.4㎝)」と完全に一致しているのです。
 唐の李淵が隋を滅ぼして支那大陸を統一(618年)してから開元元年(713年)まで凡そ百年経過しているにも関わらず、江南を中心に「魏・正始弩尺(24.30㎝)」「晋後尺(24.50㎝)」さらに「南朝大尺(29.4㎝)」=「晋後尺(24.50㎝)の1.2倍尺)」が用い続けられていたため、玄宗皇帝は「唐小尺(24.3㎝)」「開元小尺(24.5㎝)」「開元大尺(29.4㎝)」を定めて度量衡の統一を図ったのではないかと思われます。