「 地名 」一覧

第1918話 2019/06/10

対馬の「上県郡」「下県郡」逆転の謎(2)

 対馬の上県郡・下県郡とが『和名抄』では上下逆転しており、この逆転した姿が本来の地名ではないかと考えています。10世紀に成立した『和名抄』は9世紀段階の古い記録に基づいて編纂されていると考えられていますが、九州地方の地名表記が他地域とは異なっており、律令制下の大宰府の存在がそうした相違を発生させたとされ、次のように説明されています。

 「『和名抄』の記す田積は町の単位にとどまらず、段・歩に及ぶ詳細なものであり、この詳細なことは以上の七種の史料のうちでも独特のものと言うことができる。この数はおそらく架空のものではなく、しかるべき資料により記録したものと思われる。そしてこの点、九州の諸国にはまったく段・歩の記載がなく、町までで終わっているが、これは大宰府の存在を考えると、律令体制下九州だけが本州・四国の記載と相違していることは意味のあることと思われる。」『古代の日本 9 研究資料』(角川書店、昭和46年。332頁)

 こうした史料事実から、対馬の上下逆転現象は九州王朝にその淵源があるのではないでしょうか。そのため、『和名抄』の九州地方の地名表記が他地域と異なっているのではないでしょうか。
 それでは次に問題となるのが、この逆転現象がいつ頃発生したのかという点です。九世紀に編纂された『延喜式』では既に上島を上県郡、下島を下県郡と記録されており、従って上下逆転現象の発生は九世紀よりも前のこととなります。(つづく)


第1916話 2019/06/08

天道法師の従者、「主藤」「本石」姓の分布

 中川延良著『楽郊紀聞』に、天道法師が都から帰るときに同行した従者として主藤氏と本石氏のことが記されていました。そこで、両家が現在でも当地(対馬市豆酘)に残っているのかをインターネットで調査してみました。その分布状況は次の通りでした。

「本石」姓の分布
1 長崎県 対馬市 豆酘(約110人)
2 福岡県 朝倉市 堤(約30人)
2 鹿児島県 伊佐市 宮人(約30人)
4 宮崎県 えびの市 末永(約20人)
5 長崎県 東彼杵郡波佐見町 皿山郷(約20人)
5 山形県 長井市 九野本(約20人)
7 佐賀県 武雄市 志久(約10人)
8 広島県 神石郡神石高原町 時安(約10人)
8 福岡県 福岡市博多区 吉塚(約10人)
8 神奈川県 横須賀市 森崎(約10人)

「主藤」姓の分布
1 長崎県 対馬市 豆酘(約200人)
2 宮城県 登米市 桜岡鈴根(約30人)
3 宮城県 登米市 桜岡大又(約30人)
4 長崎県 対馬市 厳原東里(約20人)
5 宮城県 登米市 錦織石倉(約10人)
6 千葉県 松戸市 上本郷(約10人)
6 宮城県 仙台市宮城野区 鶴ケ谷(約10人)
6 北海道 函館市 港町(約10人)
6 千葉県 白井市 大山口(約10人)
6 宮城県 登米市 鰐丸(約10人)
 ※対馬市の主藤さんは「すとう」、その他は「しゅとう」と訓むようです。

 このデータから、本石さんも主藤さんも圧倒的に対馬の豆酘に濃密分布していることがわかります。この現代までも続く両家が天道法師との関係を伝承していることは、天道法師の実在とその伝承を史実の反映とするわたしの理解を支持するものではないでしょうか。
 さらにわたしが注目したのが、福岡県朝倉市が本石姓の二番目の濃密分布を示していることです。朝倉市といえば太宰府市の南方にあり、九州王朝の中枢領域の地です。『楽郊紀聞』には「本石氏は、二度目の上京の時に、一軒従ひ来る。夫より段々分家したると也。」とあるように、対馬と太宰府を行き来していることです。その太宰府の近傍にある朝倉市に本石姓の濃密分布があるという事実も、天道法師が行った都が奈良の藤原宮ではなく、九州王朝の都である太宰府とするわたしの理解を支持しているのです。


第1915話 2019/06/07

天道法師の従者の子孫

 天道法師伝承の文献調査を進めています。江戸時代末期(安政六年・1859年)に成立した聞書集、対馬の人、中川延良著の『楽郊紀聞』(らくこうきぶん)を久しぶりに精読したところ、天道法師が都から帰るときに同行した従者の家系についての次の記述がありました。

 「同村(豆酘郷)、観音住持が家は、主藤氏也。外の供僧の内に、本石氏あり。此両氏は、天童法師京より帰る時随ひ来りし家なりと云。年代詳(つまびらか)ならずといへ共、天智天皇といへば、先(まづ)格別の違ひなし、と住持申せしと也。此住持が家は、佐護村の観音住持が家と、両家は寺社奉行支配の由也。」(東洋文庫『楽郊紀聞』2、平凡社。110頁)

 天道法師出身地の豆酘で「観音住持」する主藤家と本石家が、天道法師帰郷時に都(太宰府)から随った従者(僧か)の末裔とされています。幕末頃の記録『楽郊紀聞』に記されているのですから、現在も両家の御子孫が当地におられるのではないでしょうか。
 なお、「年代詳(つまびらか)ならずといへ共、天智天皇といへば、先(まづ)格別の違ひなし」とあることから、天智天皇の頃というだけで、詳細な帰郷年次などは既に両家にも伝わっていないようです。
 更に次の記事が続きます。

 「同じ住持は、天童最初上京の時に従ひ来る。本石氏は、二度目の上京の時に、一軒従ひ来る。夫より段々分家したると也。」(同、110頁)

 天道法師伝承では上京は一回だけですが、ここでは「二度」と記されています。やはり現地調査が必要なようです。


第1914話 2019/06/04

天道法師、天皇病気平癒祈祷の年次

 天道法師伝承を記した「天道法師縁起」と『対州神社誌』ですが、そのハイライトシーンともいうべき天皇の病気平癒祈祷の年次について、異なった所伝を記しています。対馬藩の命により編纂された「天道法師縁起」では「大宝三年癸卯」(703年)、『対州神社誌』では元正天皇の「霊亀二丙辰年」(716年)としています。いずれも大和朝廷の年号表記ですから、先に行った「白鳳」「朱鳥」のように九州年号の本来型と後代改変型との比較による史料批判という方法がとれません。そのため、どちらがより妥当かという相対評価しかできません。そのことを前提に考察を加えてみます。
 結論から言いますと、「大宝三年」(703年)説がより妥当とわたしは考えていますが、その理由は次の通りです。

①「大宝三年」(703年)であれば、九州王朝の都、太宰府に筑紫君薩野馬がいたとする研究(正木裕説)があり、その病気平癒祈祷が可能な時代である。
②「霊亀二年」(716年)では九州王朝は滅びており(最後の九州年号「大長」の終わりが同九年で西暦712年)、太宰府に九州王朝の天子はいない。
③「霊亀二年」(716年)であれば元正天皇は大和の藤原宮におり、対馬の天道法師が招聘されたということは考えにくい。この時代、大和には高名な僧侶は多数いるので。

 以上のような理由により、天道法師の平癒祈祷は大宝三年とするのが穏当です。そうすると、『対州神社誌』に記された朱鳥六年の天道童子上洛記事と大宝三年の対馬帰郷記事はどのように考えるべきでしょうか。
 わたしは「天道法師縁起」と『対州神社誌』に記された天道法師伝承を次のように復元してみました。

○白鳳十三年(673年) 天道法師誕生
○朱鳥六年(691年) 天道法師19歳のとき、宝満山で仏道修行のため九州王朝の都、太宰府へ行く。
○大宝三年(703年、九州年号の大化九年) 天道法師31歳のとき、九州王朝の天子・薩野馬の病気平癒祈祷を行う。この年、対馬に帰郷。

 おおよそ以上のような生涯ではないでしょうか。ただ、没年伝承が遺されていない点が不思議です。古代対馬を代表するような僧侶、天道法師であれば、その没年伝承は残りそうなものです。子孫や弟子がいなかったためかもしれません。
 これまで天道法師伝承は、たとえば対馬研究の第一人者である永留久恵氏の名著『海神と天神 対馬の風土と神々』(白水社、1988年)には次のように説明されています。

 「対馬神道の強烈な個性を示した天道信仰は、中世の神仏習合によって形成されたものであって、その内容にはいろいろの要素が混交している。」(104頁)
 「これらは本来神話として祭祀の起源を説いたものと思われるが、仏教との習合によって変化し、人間臭い縁起物になったのである。天道法師縁起が作られたのはおそらく中世のことと思われるが、その根底には古い神話があったはずである。」(367頁)

 このように天道法師伝承は神話を淵源として中世に成立したものとされ、史実の反映とはとらえられていません。しかし、今回の史料批判により、九州王朝末期の対馬出身で宝満山で修行した僧侶「天道」の伝承と見ることができるのです。現地調査や史料探索により、更に詳しい天道法師伝承を復元することもできるのではないでしょうか。


第1913話 2019/06/03

『対州神社誌』の後代改変型「朱鳥」年号

 『対州神社誌』「天道菩薩の由緒」には「天道法師縁起」に見えないもう一つの後代改変型の九州年号「朱鳥六壬辰年十一月十五」が記されています。この時に天道童子九歳にて上洛し、文武天皇御宇大宝三癸卯年、対馬州に帰り来ると記されています。この後代改変型「朱鳥六壬辰年」についても解説します。
 本来の九州年号「朱鳥六年」(691年)の干支は「辛卯」です。この時代の「壬辰」は692年で「持統天皇六年」に当たります。従って、先の「白鳳」と同様の後代改変の痕跡を示しています。その改変過程は次のように推定できます。

①天道法師の上洛年次として「朱鳥六年辛卯」(691年)という伝承があった。
②当時(江戸時代)の対馬藩では九州王朝や九州年号という概念は失われており、「朱鳥」は近畿天皇家の持統天皇の年号とする考えが流布していた。
③そこで、「朱鳥六年」を持統天皇の六年と考えた。
④『日本書紀』などによれば「持統天皇六年」の干支は「壬辰」なので、「朱鳥六壬辰年」(692年)という改変が成立した。

 この後代改変型「朱鳥六壬辰年」の史料批判により、天道法師の上洛年次は「朱鳥六年辛卯」(691年)となり、白鳳十三年(673年)に生まれた天道法師は十九歳のとき九州王朝の都、太宰府に行ったこととなります。なお、この事績については「天道法師縁起」にはなぜか記されていません。(つづく)


第1912話 2019/06/02

「天道法師縁起」の後代改変型「白鳳」年号

 「天道法師縁起」には後代改変型の九州年号(白鳳二年癸酉・673年)が記されており、わたしは史料としての信頼性に疑問を抱いていました。天道法師の生まれた年次として「天武天皇白鳳二年癸酉」(673年)とあるのですが、本来の九州年号「白鳳二年」は662年の「壬戌」の年であり、他方、この付近の「癸酉」は「白鳳十三年」(673年)です。縁起に記された「天武天皇白鳳二年癸酉」は天武天皇元年壬申(672年)の年を白鳳元年としたもので、近畿天皇家の天皇即位年に九州年号改元年をあわせた後代改変型の「白鳳」です。
 そこで、改変前の天道法師誕生年の記述はどのようなものだったのかが問題となります。このことを推測できる史料がありました。それは『対州神社誌』という1686年(貞享三年)に成立した史料です。ちなみに、「天道法師縁起」は対馬藩の命により1690年(元禄三年)に成立しており、ほぼ同時期に両書は作成されています。しかし、両書に記された九州年号に違いがあり、その差異の分析により、天道法師伝承の本来の姿に近づくことができました。
 『対州神社誌』「天道菩薩の由緒」には天道法師の生誕年次を「天智天皇之御宇白鳳十三甲申歳二月十七日」としています。もちろんこの白鳳年号も後代改変型ですが、その改変方法がやや込み入っています。まず、本来の九州年号「白鳳十三年」の干支は「癸酉」(673年)で、「甲申」ではありません。次に、この時期の「甲申」は684年で、九州年号では「朱雀元年」、『日本書紀』紀年では「天武天皇十三年」に相当します。こうしたことから、次のような認識による後代改変がなされたものと推定できます。

①天道法師の生誕年次として「白鳳十三年癸酉」(673年)という伝承が対馬にはあった。
②当時(江戸時代)の対馬藩では九州王朝や九州年号という概念は失われており、「白鳳」は近畿天皇家の天智天皇から天武天皇頃の年号とする考えが流布していた。
③そこで、「白鳳十三年」を天武天皇の十三年と考えた(天智天皇の即位期間は十年までなので、天武天皇の年号と捉えたため)。
④『日本書紀』などによれば天武天皇十三年の干支は「甲申」なので、「白鳳十三年甲申」(684年)という改変が成立した。
⑤他方、白鳳年号の前半は天智の時代でもあり、「天智天皇之御宇白鳳十三甲申歳」と書き換えられた(「天武」→「天智」という、写本による誤写発生の可能性もあります)。

 以上の改変過程が推定されることから、天道法師の生誕年次は「白鳳十三年癸酉」(673年)と考えることが最も穏当な理解と思われます。この伝承が「天道法師縁起」では「天武天皇白鳳二年癸酉」(673年)、『対州神社誌』では「天智天皇之御宇白鳳十三甲申歳」(684年)に改変されたのです。今回のケースでは同時期に成立した「天道法師縁起」と『対州神社誌』という二つの史料が存在していたため、こうした史料批判が可能となりました。(つづく)


第1911話 2019/06/01

対馬の天道法師伝承は史実か

 7月14日(日)に行う久留米大学での公開講座の準備のため、九州地方の寺社縁起調査として『修験道史料集Ⅱ』(五来重編)に収録されている対馬の「天道法師縁起」を三十年ぶりに読みました。当時はその荒唐無稽な事績や後代改変型の九州年号(白鳳二年癸酉・673年)などが記されていることから史実と見なせず、深く研究することはありませんでした。ところが、今回読み直してみると「天道法師縁起」は歴史事実を反映していることに気づきました。
 「天道法師縁起」に見える天道法師の生涯で特筆された記事は、「天武天皇白鳳二年癸酉」(673年)に「対馬豆酘郡内院村」(長崎県対馬市厳原町豆酘)で生まれ、「大宝三年癸卯」(703年)に天皇の病気平癒祈祷のため都に上り、その成功により褒美(対馬島民の貢献免除など)をもらったという事などです。この中でわたしが注目したのが、天道法師の都へ向う道程でした。
 「天皇不予(病気)」により朝廷から要請されて、天道法師は対馬から都に上るのですが、その行程は対馬「内院浮津浦之坂上」から壱岐「壹州小城山」へ、そして筑前「筑州寳満嶽」、「帝都金門(禁門)」へと記されています。わたしはこの「筑州寳満嶽」からいきなり「帝都金門(禁門)」、すなわち大和の藤原宮まで途中経過無しで向かう行程記事に疑問を感じ、この「帝都金門(禁門)」とは九州王朝の帝都「太宰府」のことではないかと気づいたのです。そうであれば、対馬→壱岐→宝満山→太宰府となり、行程に無理はありません。
 更に近年の正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の研究により、九州王朝最後の天子・筑紫君薩野馬は大宝三年(703年、九州年号の大化九年)頃には太宰府にいたとされています。従って、大宝三年の「天皇不予」とは大和朝廷の文武天皇のことではなく、九州王朝の天子・薩野馬のこととなるのです。ちなみに、『続日本紀』大宝三年条には文武天皇が病気になったという記事はありません。
 このように、対馬の「天道法師」伝承は史実の反映である可能性が高いことにわたしは気づいたのです。(つづく)


第1899話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(8)

 わたしからの5回の返答を終えて、その後の問答です。もちろん、この問答で決着がついたわけでも両者が十分に納得したわけでもありません。しかし、互いの意見交換により双方の認識が深まり、新たな課題や問題意識の発展へと繋がりました。
 学問論争とは互いに高め合うことが重要です。わたしも若い日野さんからの鋭い質問と指摘を得て、「大和朝廷」前史の研究という新たなテーマへと進むきっかけを得ました。また、日野さんも「河内政権」論に関する論文を書かれるとのことなので、『古田史学会報』への投稿を要請しました。日野さんに感謝します。

2019.05.12【日野さんからの最後のコメント】

 「河内の巨大古墳の造営者」が「近畿天皇家と対等な地方豪族」であったと仮定すると、関西八国の支配者だという文献の解釈結果と矛盾します。
 近畿天皇家は八か国にも及ぶ支配領域を持っていなかったであろうことは、古賀さんも論証されているところですから。「対等」であれば、同じぐらいの力を持っていないと可笑しいわけです。
 河内の政権についての仮説は、確かに今の古田学派の中では主流派になりつつありますが、現段階では確実性が低すぎます。存続期間と勢力範囲が明確ではない政権、ということです。

2019.05.12【古賀の最後の返答】

 「対等」と述べたのは、共に九州王朝の配下の地方豪族という意味でのことです。実勢力としては河内の勢力の方が大きいと思います。ただ、「関西八カ国」の領域がまだ特定できていません。そのため、その勢力範囲については引き続き検討が必要です。その点、日野さんの危惧には同意します。


第1898話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(7)

 日野さんへの返答の5回目を転載します。

2019.05.11【日野さんへの返答⑤】

 日野さんからのご質問がきっかけとなって、701年の王朝交替により成立した「大和朝廷」の前史について考察を続けています。近年の研究では古墳時代以前の大和には、たとえば筑前の那珂遺跡や難波の上町台地のような都市的景観を持つ大規模な集落遺跡がないとされています。「古田史学の会」関西例会でも原幸子さん(古代大和史研究会・代表)からも何度か同様の指摘が発表されてきました。
 そうしたこともあり、飛鳥時代には飛鳥の地を中心に宮殿遺構や寺院跡の出土が知られているのですが、それよりも前の時代には王権の存在を示唆するような大型集落(都市)遺構は大和にはないように思われるのです。そのような時期に近畿天皇家が山城国まで支配していたとは考えられないとわたしは思うのです。
 6世紀末頃から7世紀初頭になってようやく奈良盆地の南隅に割拠するようになった近畿天皇家が山城国までも支配したのはやはり壬申の乱以降ではないでしょうか。この点、天智の「近江朝廷」については特別のなものとして、引き続き検討が必要です。いずれにしても、この「大和朝廷」前史について、『日本書紀』のイデオロギーや既存学説による先入観を排して、改めて多元史観・九州王朝説により研究する必要を日野さんへの返答を書いていて感じました。
 わたしからの返答は以上で一旦終わらせていただきますので、日野さんからの反論や再質問をお願いします。


第1897話 2019/05/12

日野智貴さんとの「河内戦争」問答(6)

 日野さんへの返答の4回目を転載します。

2019.05.11【日野さんへの返答④】

 続いて、日野さんからのご質問に対してお答えしながら、近畿天皇家の実勢についての考察などを説明します。

 まず(1)の「河内戦争」の実年代についてですが、わたしは『日本書紀』に記された崇峻即位前紀(用明天皇二年、587年)の頃として問題ないと考えています。記事に記された地名などから、少なくとも前期難波宮や難波京成立後の7世紀後半とは考えられません。

 (2)についても、冨川説のように九州王朝による6世紀末頃の律令支配の痕跡とする説は有力と思います。通説のように、『日本書紀』編纂時の脚色により律令用語が使用されたとする可能性も否定できませんが、今のところわたしは冨川説がよいと考えています。

 (3)のご質問が、今回の問答での最重要テーマです。大変良いご質問をいただいたと思いました。捕鳥部萬が支配した八カ国の範囲ですが、河内を中心として難波を含むことはその記事から推測できますが、大和や山城なども含むのかどうかは今のところ不明です。
 河内の巨大古墳は近畿天皇家のものではなく、捕鳥部萬らの先祖の墳墓とする服部静尚さんの研究によるのであれば、あの巨大古墳群を造営できるほどの勢力となりますから、それなりの支配範囲を有していたと考えなければなりませんが、今後の研究課題です。
 大和(飛鳥地方)に割拠していた近畿天皇家との関係ですが、今のところ九州王朝(倭国)下における対等な地方豪族であったと考えています。すなわち大和の代表権力者の近畿天皇家、河内を中心とする地域の代表権力者の捕鳥部萬といった関係を想定しています。(つづく)