史料批判一覧

第450話 2012/08/04

大谷大学博物館「日本古代の金石文」展

 今朝は大谷大学博物館(京都市北区)で開催されている「日本古代の金石文」展を見てきました。入場無料の展示会ですが、 国宝の「小野毛人墓誌」をはじめ、古代金石文の拓本が多数展示され、圧巻でした。古田先生も大下さん(古田史学の会・総務)と共に先日見学されたそうで す。

 今回、多くの古代金石文の拓本を見て、同時代文字史料としての木簡との対応や、『日本書紀』との関係について、改めて調査研究の必要性を感じました。

 例えば、太宰府出土「戸籍」木簡に記されていた位階「進大弐」や、那須国造碑に記された「追大壱」(永昌元年己丑、689年)、釆女氏榮域碑の「直大 弐」(己丑年、689年)などは『日本書紀』天武14年条(685年)に制定記事がある位階です。

 それよりも前の位階で『日本書紀』によれば649~685年まで存在したとされる「大乙下」「小乙下」などが「飛鳥京跡外郭域」から出土した木簡に記さ れています。今回見た小野毛人墓誌にも『日本書紀』によれば、664~685年の期間の位階「大錦上」が記されていました。同墓誌に記された紀年「丁丑 年」(677年)と位階時期が一致しており、『日本書紀』に記された位階の変遷と金石文や木簡の内容とが一致していることがわかります。

 『日本書紀』の記事がどの程度信用できるかを、こうした同時代金石文や木簡により検証できる場合がありますので、これからも丁寧に比較検討していきたいと思います。


第445話 2012/07/21

太宰府「戸籍」木簡の「政丁」

 太宰府市出土「戸籍」木簡の文字で、ずっと気にかかっていたものがありました。「政丁」という記載です。通常、木簡や大 宝二年西海道戸籍などでは、「正丁」という表記なのですが、大宰府出土の「戸籍」木簡には「政丁」とあり、意味は共に徴税の対象となる成人男子 (20~60歳)のことと思われるのですが、なぜ表記面積が紙よりも狭い木簡に、より画数の多い「政丁」が使用されるのかがわかりませんでした。

 ところが木簡の勉強を進めているうちに、同じ福岡県の福岡市西区元岡遺跡から出土していた木簡にも、「政丁」と記載されているものがあることを知ったの です。同遺跡からは、「壬辰年韓鉄」と書かれた木簡も出土しており、この「壬辰年」は692年のこととされていますので、これら元岡遺跡出土の木簡は7世紀末頃のもののようです。

 この元岡遺跡出土の木簡によれば、7世紀末の筑紫では「政丁」という文字使いがなされていたと考えられ、大宰府「戸籍」木簡の「政丁」と一致しますから、九州王朝では「政丁」という表記が正字として採用されていたと考えていいようです。

 ONライン(701年)を越えた8世紀以降は、大宝二年西海道戸籍にある「正丁」に変更されていますから、ここでも九州王朝から近畿天皇家への王朝交代の影響が見られるのです。

 なお、大宝二年御野国戸籍(美濃国。岐阜県)では、徴税対象となる「戸」を「政戸」と表記していますから、太宰府市や元岡遺跡から出土した木簡の「政丁」という表記との関係がうかがえます。通説では、大宝二年の御野国戸籍の様式は古い浄御原令によっており、西海道戸籍は新しい大宝律令によっていると見 られていますので、「政丁」「政戸」という表記は701年以前の古い様式であったとしてよいようです。

 このように木簡研究により、7世紀末の九州王朝や近畿天皇家の様子がリアルに復元できそうで、木簡研究の重要性を再認識しています。


第444話 2012/07/20

飛鳥の「天皇」「皇子」木簡

 昨日は関東から多元的古代研究会の皆さんが来阪され、難波宮跡などの見学をされ、夕方は「古田史学の会」のメンバーと研修会・懇親会が行われました。わたしも研修会で前期難波宮九州王朝副都説について説明させていただきました。これを機に、関東と関西の古田学派の交流が更に深まるものと期待しています。

 古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。もちろん、倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。

 もちろん、金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(7世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました。

 近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「定説」となっているようです。この点、市大樹著『飛鳥の木簡 — 古代史の新たな解明』(146頁)では、この「天皇」木簡に対して、「現在、『天皇』と書かれた日本最古の木簡である。この『天皇』 が君主号のそれなのか、道教的な文言にすぎないのか、何とも判断がつかない。もし君主号であれば、木簡の年代からみて、天武天皇を指す可能性が高い。」と されています。専門家らしく慎重な解説がなされており、ひとつの見識ではあると思いました。

 他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。

 さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。


第432話 2012/06/30

 太宰府「戸籍」木簡の「進大弐」

 今回太宰府市から出土した「戸籍」木簡は、九州王朝末期中枢領域の実体研究において第一級史料なのですが、そこに記された「進大弐」という位階は重要な問題を提起しています。

 この「進大弐」という位階は『日本書紀』天武14年正月条(685年)に制定記事があることから、この「戸籍」木簡の成立時期は685年~700年(あるいは701年)と考えられています。わたしも「進大弐」について二つの問題を検討しました。一つは、この位階制定が九州王朝によるものか、近畿天皇家によるものかという問題です。二つ目は、この位階制定を『日本書紀』の記述通り685年と考えてよいかという問題でした。

 結論から言うと、一つ目は「不明・要検討」。二つ目は、とりあえず685年として問題ない。このように今のところ考えています。『日本書紀』は九州王朝の事績を盗用している可能性があるので、天武14年の位階制定記事が九州王朝のものである可能性を否定できないのですが、今のところ不明とせざるを得ません。時期については、天武14年(685年)とする『日本書紀』の記事を否定できるほどの根拠がありませんので、とりあえず信用してよいという結論になりました。

 この点、もう少し学問的に史料根拠に基づいて説明しますと、九州王朝の位階制度がうかがえる史料として『隋書』国伝があります。それによると九州王朝の官位として、「大徳」「小徳」「大仁」「小仁」「大義」「小義」「大礼」「小礼」「大智」「小智」「大信」「小信」の十二等があると記されています。『隋書』の次代に当たる『旧唐書』倭国伝にも同様に「官を設くること十二等あり」と記されていますから、7世紀前半頃の九州王朝ではこのような位階制度であったことがわかります。

 これに対して、「戸籍」木簡の「進大弐」を含む天武14年条の位階は全く異なっており、両者は別の位階制度と考えざるを得ません。したがって、「進大弐」の位階制度は『日本書紀』天武紀にあるとおり、7世紀後半の制度と考えて問題ないと理解されるのです。文献史学ですから、史料根拠を重視することは当然でしょう。

 この結果、「戸籍」木簡に記された「進大弐」に残された問題、すなわちこの位階制度が九州王朝のものなのか、近畿天皇家のものなのかというテーマについて、わたしは毎日考え続けています。(つづく)


第429話 2012/06/23

太宰府「戸籍」木簡の「竺志」

太宰府市で出土した最古の「戸籍」木簡について少しずつ検討結果や「発見」について報告したいと思います。その最初として、「戸籍」木簡と一緒に出土した「竺志前國嶋評」と記された木簡について述べることにします。
この木簡には「竺志前國嶋評」の下半分に2行で次のような文字が記されています。
「私祀板十枚目録板三枚父母」
「方板五枚并廿四枚」
この文から別の24枚の木簡の「タグ」の役割をしていたようです。また、「板」という表現から、古代において木簡のことを「板」と呼んでいたたことも判 明しました。しかし、わたしが最も注目したのは「竺志前國」の部分でした。すなわち、7世紀後半あるいは7世紀末の九州王朝において、「ちくし」の漢字表 記として「竺志」が正字として使用されていたことが明らかとなったのです。
通常、「筑紫」という漢字使いが現在でも一般的ですが、古代の九州王朝では「行政文書」としての木簡に「竺志」が採用されていたことは重要です。『日本 書紀』などでは「筑紫君薩野馬」のように、九州王朝の天子と考えられている人物の名称に「筑紫」の字を使っています。他方、『続日本紀』の文武四年六月条 (700年)には「竺志惣領」という文字表記がありますが、この文字表記が7世紀末の正当なものであったことが、この木簡により証明されたわけです。
なお、同じく『続日本紀』の文武四年十月条には「筑紫総領」という表記もあり、どちらが本来の文字使いなのかが釈然としなかったのですが、今回の木簡出 土により判明したのです。ちなみに六月条の「竺志惣領」は人名が不明ですが、十月条の「筑紫総領」は「石上朝臣麻呂」という人名が記されていることから、 前者は九州王朝の人物(だから名前がカットされた)、後者は近畿天皇家が任命した人物と考えてよいと思います。まさに、王朝交代時期の「ちくし」の代表者 交代を示した記事の文字使いの変化だったのです。
さらに「竺志前國」とありますから、この時期には既に「筑前」と「筑後」に分国されていたことも明確になりました。わたしは九州島を9国に分国したのは 九州王朝の天子・多利思北弧であり、その時期を7世紀初頭とする論文を発表しています。『九州王朝の論理』(明石書店)に採録された「九州を論ず」「続・ 九州を論ず」です。お持ちの方は是非御再読ください。(つづく)


第427話 2012/06/16

「戸籍」木簡の史料性格

 太宰府市から出土した最古の「戸籍」木簡について、毎日考えています。中でもその史料性格についてと、その内容が指し示す歴史事実について集中し て調査検討を続けています。そこで、内容の史料批判は後日のこととして、出土木簡の基礎的な史料性格について整理確認しておきたいと思います。
まずその内容が「戸籍」関連史料であることは間違いないと思われます。今後、専門家による研究がなされることでしょう。

 次に、地域的には太宰府市での学術発掘による出土ですから由来は確かなものですし、「嶋評」という地名が記載され、一緒に出土した別の木簡にも「竺志前國嶋評」とありますから、糸島半島の旧志摩町に関わる木簡であることが明らかです。

 次に時代ですが、「嶋評」とありますから、評制が施行された650年前後から、郡制に移行する701年よりも前の時期となります。さらには「進大弐」と いう『日本書紀』天武14年に制定された冠位が記載されていることから、685~700年の時間帯まで絞り込めそうです。内容を精査検討すれば、さらに絞 り込めるかもしれません。

 このように地域と時代か特定、あるいは絞り込める文字史料ですから、研究史料としては大変有り難い貴重なものです。とりわけ、九州王朝研究にとっては王朝末期の、太宰府近傍という中枢領域での同時代史料として第一級史料です。この木簡を精査研究することにより、七世紀末の九州王朝の実体に迫ることができるのです。(つづく)


第422話 2012/06/10

「十五社神社」と「十六天神社」

 先日訪れた天草で見た「十五社神社」が気になり、ネットで調べたのですが、阿蘇十二神などを含む十五柱の祭神が祭られて いるため「十五社神社」と称されたとする説明や、「龍王」が訛って「じゅうご」と呼ばれたことにより「十五社」と当て字されたとする説などがあるようで す。
 わたしは「十五柱の祭神が祭られているため」とする説には賛成できません。なぜなら、祭神の数で命名されたのであれば、十五社だけでなく、「十一社」や 「十二社」、「十三社」、「十四社」という名前の神社も多数あってしかるべきですが、そのような神社名はあまり聞いたことがありません。やはり、本来の語 源の音(おん)に対して、後世「十五社」という字が当てられたとするべきでしょう。もちろん先に紹介した「龍王」がその語源かどうかは、わたしにはまだわ かりません。
 わたしがこのように判断したのには、ある一つの研究経験があったからです。それは筑前に多数分布する「十六天神社」についての研究と考察の経験です。通 常、この「十六天神社」についても、天神・地神が十六柱祭られているからと説明されることが多いのですが、「十五社神社」と同じ理由から、わたしはこの説 明に納得できなかったのです。それならなぜ「十七天神社」「十八天神社」「十九天神社」が無いのかという理由からです。
 ところが筑前の地誌などを調べてみると、この「十六天神社」の祭神を埴安彦・埴安姫とするものがあることに気づいたのです。というのも、同じく筑前に数 多く分布する神社に地禄神社があり、その祭神が埴安彦・埴安姫なのです。そこでわたしは、「ぢろく」あるいは「じろく」と呼ばれていた神社の当て字に「地 禄」と「十六」が用いられ、それぞれ「地禄天神社」「十六天神社」となり、後世にいたって「十六天神社」の方は十六柱の天神・地神を祭神とする付会がなさ れたのではないかと考えるに至ったのです。
 このように考えれば、筑前に濃密に分布する「十六天神社」と「地禄天神社」が共に祭神を埴安彦・埴安姫とする状況をうまく説明できるのです。しかし、問 題はこの次です。なぜ埴安彦・埴安姫が「ぢろく天神社」に祭られたのかという問題です。日本書紀神話では埴安神はイザナミがカグツチ神を生んだときにその 糞から生成した神とされ、「土の神」とされています。その「土の神」がなぜ「天神」とされ、「ぢろく」と呼ばれているのかが研究課題として残っているので す。
 おそらく、埴安彦・埴安姫は天孫降臨以前の北部九州の土着の神々ではなかったかと想像していますが(「地禄田神」という表記もあり、興味深いと思います)、天草の「十五社神社」の縁源とともに、これからも検討していきたいと考えています。


第408話 2012/04/29

『人麿の運命』復刻

古田先生の初期三部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)は古田ファン必読の三冊ですが、今回は古田先生の万葉集論三部作をご紹介します。
それは『人麿の運命』『古代史の十字路-万葉批判』『壬申大乱』の三冊ですが、このたびミネルヴァ書房より『人麿の運命』が「古田武彦古代史コレクション」として復刻されました。
古田先生の万葉論は文献史学の方法論として、「歌」を歴史史料として取り扱う上で貴重な提言が含まれています。ともすれば、様々な「解釈」が可能な万葉集の歌に基づいて、恣意的な研究が見られる分野ですが、歴史学としての古田先生の万葉論のエッセンスを学ぶことができる重要な一冊が『人麿の運命』です。
その方法論上のキーポイントをちょっと説明します。まず第一は、一次史料としての「歌」そのものと、編纂時に付け加えられた「題」や「左注」を切り離し、一次史料の「歌」そのものを史料批判するという点です。この方法論は歴史学としての万葉集研究を確立した素晴らしいものてす。
第二は、古田学派であれば当然のこととしてご理解いただけると思いますが、万葉集の原文により近い写本を基礎史料として使用するという点です。具体的には「元暦稿本」(有栖川王府本)と呼ばれる万葉集写本を重視されたことです。
第三は、多元史観・九州王朝説の視点から史料批判するという点です。
これらの方法論は古田史学の基本的なことですから、こうしたことを学ぶためにも『人麿の運命』の復刻は喜ばしいことです。青山富士夫さん撮影によるカラー写真もふんだんに掲載されており、古田万葉論の理解を助け、真実の万葉の世界を深くイメージすることができます。
巻末にある書き下ろしの「君が代」論、「男系天皇」論、「万世一系」論などもタイムリーなテーマで、おすすめの一冊です。


第407話 2012/04/22

鹿島神は地震の神様

最近、地震研究者の都司嘉宣さん(つじよしのぶ・元東京大学地震研究所)の研究を知る機会がありました。都司さんは高名な地震学者ですが、地震の歴史を調査研究するという、歴史地震学という分野でも活躍されています。
中でもわたしが感心したのは、フィールドワークを大切にされているという研究姿勢です。「歴史は脚にて知るべきものなり。」(秋田孝季)に通じるもので す。具体的な研究テーマとしては、地震の神様の研究に注目しました。鹿島神社が地震の神様として信仰されているという指摘と、その神様の全国分布調査に は、古田史学と相通じるものを感じたのです。
その都司さんの論文『歴史地震』第八号掲載の「地震神としての鹿島信仰」(1992年)を是非読みたいと願っています。どこの図書館にあるか調査中です。
広瀬・竜田の神が風や水の神様であり、日本書紀の天武紀などによく現れるのは有名ですが、地震の神様の存在など、祭神研究以外にその神様の効能研究という分野も面白いものだと思いました。どなたか、研究されてみてはいかがでしょうか。
なお、都司さんは古田先生が立ち上げた「国際人間観察学会」に もご協力いただいており、同会会報「Phonix」No.1(2007)にも寄稿されています(Similarity of the distributions of strong seismic intensity zones of the 1854 Ansei Nankai and the 1707 Hoei Earthquakes on the Osaka plain and the ancient Kawachi Lagoon)。本会ホームページからも閲覧できますので、英語に堪能な方は是非ご覧ください。


第404話 2012/04/11

『古事記』千三百年の孤独(5)

 大和朝廷にとって『古事記』編纂の最大の目的は先住した九州王朝をなかったこ とにして、神代の時代から天皇家が日本列島の中心権力者であったとすることです。しかし、『古事記』編纂時の712年といえば九州王朝に替わって最高権力 者となってから、まだ十数年しかたっていません。ですから、列島内の多くの人々には大和朝廷が新参の権力者であることは自明のことだったのです。そのた め、自らの権力基盤を安定化するための「大義名分」(アリバイ)作りが史書編纂という形で進められました。『古事記』にはその痕跡が残されています。
 『古事記』には推古天皇まで記されていますが、各天皇の事績・伝承記事があるのは顕宗天皇までで、その後は推古まで系譜や姻戚記録等だけとなります(これにも理由があるのですが、今回はふれません)。ところが、例外のように継体記の末尾にちょっとだけ伝承記事が掲載されているのです。いわゆる「磐井の 乱」の記事です。

「この御代に、竺紫君石井、天皇の命に従わずして、多く礼無かりき。故、物部荒甲の大連、大伴の金村の連二人を遣わして、石井を殺したまひき。」

 この短い記事を挿入しているのですが、この「例外」のような短文記事挿入こそ、『古事記』編纂の眼目の一つなのです。すなわち、九州王朝の王であった石井(日本書紀では磐井)より近畿の継体天皇が格上であり、この「磐井の乱」鎮圧の結果、名実ともに九州は大和朝廷の支配下にはいったという、「大義名分」 (アリバイ)作りの文章だったのです。
 これが、継体記に例外とも言える「伝承記事」を挿入した動機で、『古事記』編纂者の苦辛の跡なのです。しかし、その苦辛は報われませんでした。
 「天皇の命に従わずして、多く礼無かりき」程度の理由や記事では、九州王朝の王・石井を殺して倭国のトップになったのは「歴史事実」だと、列島内の人々に信じさせることはできないと継体の子孫たち、8世紀初頭の大和朝廷には見えたのです。その結果、『古事記』は「ボツ」にされ、「継体の乱」を事細かに記した『日本書紀』が正史として新たに編纂されたのです。
 このように、『古事記』には隠された編纂意図があちこちに残されてるのですが、それらを説明するには「洛中洛外日記」では荷が重すぎます。また別の機会に紹介したいと思います。


第399話 2012/04/01

本居宣長の門人たち

わたしが本居宣長に興味を抱いた理由は、その学問的業績だけではなく、江戸時代には在野の研究者であった宣長やその学説 が、明治維新後には新政府の学問の主流となったという歴史事実にありました。わたしたち古田学派が将来の日本において歴史学の主流となるために、何をしな ければならないのか、何が必要なのかを考えるための参考として、本居宣長に興味を抱いたのです。
今回、本居宣長記念館を訪問し、同記念館編集の『本居宣長の不思議』という本を購入しました。本居宣長の人生や学問がわかりやすくまとめられており、初 心者にも読みやすい良本です。この本の最後の方に宣長の門人一覧と現在の県別の門人数が記されています。三重県の220人を筆頭に北は北海道から南は宮崎 県までのべ513人の分布図と氏名が記されており、宣長の名声が全国に広がっていたことがわかります。
「古田史学の会」の会員数も約500名ですから、偶然とは言え不思議な縁を感じます。もちろん、江戸時代と現代では交通手段も情報量や伝達速度も比較になりませんが、在野にある古田学派にとって励まされるものではないでしょうか。
この国で古田史学・多元史観がどのように認められ受け入れられるのかは、今のわたしにはわかりませんが、体制や世俗に迎合するのではなく、真実と学問が 持つ力を信じて、研究活動と宣伝顕彰を進めていきます。そして、百年後には「古田武彦記念館」が作られるよう頑張っていきたいと思っています。


398話 2012/03/31

本居宣長記念館・鈴屋を訪問

先週の土曜日、妻と松阪市までドライブしました。妻には松阪牛を食べにいこうと誘い、実は以前から行きたかった本居宣長記念館を訪問し、宣長の書斎「鈴屋」(すずのや)を見てきました。
古田先生がフィロロギーを学ばれた東北大学の村岡典嗣先生は本居宣長研究でも著名です。わたしも古田先生から村岡典嗣先生のことをいろいろとうかがう機会がありましたので、村岡先生が研究された本居宣長にも興味を持っていました。そうしたことから、松阪市の本居宣長の旧宅鈴屋を訪れたいと思っていたので す。
本居宣長の旧宅は当初あった魚町から松阪城跡に移築されており、記念館に隣接しています。わたしは旧宅全体が鈴屋(すずのや)と呼ばれているものと思っていたのですが、案内していただいた城山さんの説明では二階の書斎部分が鈴屋とよばれているとのこと。その書斎の中には入れないのですが、窓が開けられていたため、外から内部を見ることができました。
旧宅の土蔵には宣長の書籍や手紙などが大量に保存されていたとのことで、現在も版木が保存されているそうです。城山さんからは本居宣長のことや松阪城を 築城した蒲生氏郷のことなど多くのことを教えていただきました。記念館に展示されていた宣長の著作や手紙を拝見して、宣長の業績の一端に触れることがで き、感銘を受けました。
地元の松阪には宣長の偉業を知らない人が多いと嘆かれていた城山さんに、また訪問することをお約束し、松阪を後にしました。帰りに、樹敬寺にある宣長一族のお墓に参りました。もちろん、松阪牛もしっかりと食べてきました。