史料批判一覧

第498話 2012/12/02

「古和同」の銅原産地

 斎藤努著『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012年11月刊)を読んで、最も興味深く思ったデータが二つありまし
た。一つは、これまで紹介してきましたように、アンチモンが冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれるということです。もう一つは、古和同銅銭に使用された銅の
原産地に関するデータでした。
 同書によれば和同開珎などの古代貨幣に用いられている銅の産地について、その多くが山口県の長登銅山・於福銅山・蔵目喜銅山産であることが、含有されている鉛同位体比により判明しています。
 ちなみに、「和銅」改元のきっかけとなった武蔵国秩父郡からの「和銅」献上記事(『続日本紀』和銅元年正月条)を根拠に、和同開珎の銅原料は秩父産とする説もありましたが、これも鉛同位体比の分析から否定されています(同書69頁)。
 他方、古和同銅銭については、「古和同のデータの一部は図12の香春岳鉱石の分布範囲と重なっている。」(同書68頁)とあり、古和同銅銭に用いられた
銅材料の原産地の一つが福岡県香春岳であることが示唆されています。すなわち、九州王朝には地元に銅鉱山を有し、伊予国・越智国からは貨幣鋳造に必要なア
ンチモンが入手できたと考えられます。あとは国家として貨幣経済制度を導入する意志を持つか否かの判断です。
 以上、九州王朝貨幣についての考察を綴ってきましたが、九州王朝貨幣鋳造説にとって避けて通れない課題があります。それは貨幣鋳造遺跡と貨幣出土分布濃
密地が北部九州に無いという問題です。このことを説明できなければこの仮説は学問的に成立しません。引き続き、検討をすすめたいと思います。


第497話 2012/11/28

大宰府とアンチモン

 冨本銅銭や古和同銅銭に多く含まれているアンチモンが、越智国や伊予国から献上されていたと見られる記事が『続日本紀』文武二年七月条(698)と『日本書紀』持統五年(691)七月条にあります。

 「伊予国が白(金へん+葛)を献ず。」(『続日本紀』文武二年七月条)

 「伊予国司の田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀三斤八両・あかがね一籠献る。」(『日本書紀』持統五年七月条)

 『続日本紀』には霊亀二年(716)五月条にも「白(金へん+葛)」が見えます。大宰府の百姓が白(金へん+葛)を私蔵しており、それが私鋳銭に使用されているので、官司に納めよという詔勅記事です。

 「勅したまはく、『大宰府の佰姓が家に白(金へん+葛)を蔵(おさ)むること有るは、先に禁断を加へたり。然れども
遒奉(しゅんぶ)せずして、隠蔵し売買す。是を以て鋳銭の悪党、多く奸詐をほしいままにし、連及の徒、罪に陥ること少なからず。厳しく禁制を加へ、更に然
(しか)らしむること無かるべし。もし白(金へん+葛)有らば、捜(さぐ)り求めて官司に納めよ』とのたまふ。」

 このように霊亀二年(716)の詔勅によれば、大宰府の人々が所蔵している白(金へん+葛)が和同開珎の私鋳に使用
されていることがうかがえます。おそらくこの時期の和同開珎であれば古和同銅銭と考えられますから、この記事の「白(金へん+葛)」もアンチモンのことと
見てよいと思われます。すなわち、越智国や伊予国産のアンチモンが九州王朝中枢の人々により収蔵されていたと考えられるのです。
 こうした理解が正しければ、銅とアンチモン合金により貨幣を鋳造する技術が九州王朝に存在したことになります。ちなみに『続日本紀』によれば、近畿天皇による和同銀銭や銅銭の発行は和銅元年(708)のことです。

 「始めて銀銭を行う。」(『続日本紀』和銅元年五月条)
 「始めて銅銭を行う」(『続日本紀』和銅元年八月条)

 そして、その二年後の和銅三年(710)には早くも大宰府から銅銭が献上されています。

 「大宰府、銅銭を献ず。」(『続日本紀』和銅三年正月条)

 この銅銭は和同開珎(おそらくは「古和同」銅銭)のことと思われますが、この素早い銅銭献上記事こそは九州王朝に貨幣発行の伝統があったことの傍証といえるのではないでしょうか。(つづく)


第496話 2012/11/23

越智国のアンチモン鉱山

 冨本銅銭や古和同銅銭に多く含有されているアンチモンですが、その産地はどこてしょうか。国内の鉱山では愛媛県西条市の
市之川鉱山が世界的に有名なアンチモン鉱山でした。現在は閉山されていますが、古代の越智国(合田洋一説)にあたる西条市に最大級のアンチモン鉱山があっ
たことは注目されます。
 文献的にも『続日本紀』文武2年条(698)に次の記事が見え、この「白(金へん+葛)」は従来はスズのことと見られていましたが、愛媛県にはスズ鉱山
がないことから、アンチモンのこととする研究が発表されています(成瀬正和「正倉院銅・青銅製品の科学的調査と青銅器研究の課題」『考古学ジャーナル』
470、2001年)。

 「伊予国が白(金へん+葛)を献ず。」(『続日本紀』文武二年七月条)

 合田洋一さん(古田史学の会・四国、全国世話人)から教えていただいたことなのですが、『日本書紀』持統5年(691)7月条にも次の記事があり、やはり愛媛県から「白銀」が献上されています。

 「伊予国司の田中朝臣法麻呂等、宇和郡の御馬山の白銀三斤八両・あかがね一籠献る。」

 「宇和郡の御馬山」とは宇和島市三間町とみられ、当地にもアンチモン鉱山跡があるそうですから、この「白銀」もまたアン
チモンのこと推察されます。これらの記事により、古代の伊予国・越智国から冨本銅銭や古和同銅銭の原料となったアンチモンが供給された可能性が大きいので
す。また、正倉院にアンチモンのインゴットがあることも知られています。
 ちなみに、愛媛県には「中央構造線」にそっていくつかのアンチモン鉱山の存在が知られており、その中でも西条市のアンチモン鉱山は世界的に見ても大規模
なものだったことが知られています。古代の越智国はアンチモンなどの金属がその繁栄の主要因だったのかもしれません。(つづく)


第495話 2012/11/22

古代貨幣とアンチモン

 昨日は経産省に行った後、横浜に立ち寄りました。仕事を終えて帰る前に横浜市在住の安藤哲朗さん(多元的古代研究会・会長)に久しぶりにお会いし、最近の研究状況について語り合いました。その後、名古屋まで戻り、今朝は一宮市にいます。関西例会のときの風邪もようやく治りました。

 古田先生らと取り組んだプロジェクト「貨幣研究」において、古田先生やわたしは冨本銭や和同開珎を九州王朝の貨幣とする 見解を報告しました。そのときの主たる根拠は文献史学から提起したもので、たとえば冨本銭と和同開珎はその他の近畿天皇家発行の古代貨幣とは異なり、『日本書紀』や『続日本紀』にその銭文が記録されていないという点や、その他の貨幣の銭文にある最後の一字の「寶」という字が使用されていないという差異を根拠に、本来は別王朝により発行されたものではないかと考えました。
 他方、九州王朝貨幣とする仮説には弱点もありました。それは考古学的出土分布の中心が近畿であり、九州ではないということでした。これは学問的には無視できない弱点でしたので、わたしは和同開珎をもともとは九州王朝が発行したものとする仮説に充分な確信を持てずにいたのでした。
 そのようなときに読んだのが斎藤努著『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012年11月刊)でした。同書には科学的分析手法(電子線スキャニング・バルク組成分析法)に基づいた貨幣の組成分析値が示されており、その中に「古和同」と「冨本銭」はアンチモンの含有率が非常に高いという指摘がありました。 わたしはこのアンチモンに興味を抱きました。仕事で各種金属について勉強する機会があるのですが、通常、銅銭には銅の他にスズや鉛が混ぜられていることが多く、スズや鉛よりも珍しい金属のアンチモンが古代日本で最古の貨幣に属する「古和同」と「冨本銭」に多く含まれているとは意外でした。
 なお、「古和同」とは銭貨研究家がその銭文などの差異から、和同開珎を古いタイプと新しいタイプの二種類に分類したもので、古いとされたものを「古和同」、新しいとされたものを「新和同」と呼ばれています。その「古和同」銅銭の方にアンチモンが多く含まれており、和同開珎よりも古い貨幣である「冨本」銅銭にも同様にアンチモンが多く含まれていることは、両者が共通の原料と技術で鋳造されたことがうかがわれます。
 こうした自然科学的組成分析により、冨本銭と和同開珎が九州王朝の貨幣とする仮説が補強されるように思われるのです。(つづく)


第494話 2012/11/20

斎藤努著『金属が語る日本史』を読む

 今朝は東京に向かう新幹線の車中で書いています。明朝、霞ヶ関の経済産業省に用事があるため、今日から東京に入ります。

 最近読み始めたのが斎藤努著『金属が語る日本史』(吉川弘文館、2012年11月刊)という本ですが、古代貨幣や日本刀・鉄砲の歴史を自然科学的分析から考察されており、論理的で読みやすい本です。もちろん、その自然科学的分析結果の評価は近畿天皇家一元史観に基づいていますから、多元史観・九州王朝説の視点から見ると、不十分であることは避けられません。しかしそれでも参考になる一冊でした。
 25年ほど昔、わたしが古田先生の著作に感銘を受けて、稚拙ながらも古代史研究を開始したとき、その主たるテーマは「九州年号」と「古代貨幣」でした。 その内、九州年号については昨年末に『「九州年号」の研究』をミネルヴァ書房より上梓でき、一区切りついたのですが、「古代貨幣」研究については、まだまだ研究成果をまとめられる域に達していません。
 1999年に古田先生らと「貨幣研究」プロジェクトチームを立ち上げ、飛鳥池遺跡から出土して話題となっていた冨本銭や和同開珎などを取り上げました。 その参加者各人の報告が『古代に真実を求めて』第3集に収録されていますのでご参照ください。プロジェクトでは主に文献史学の立場からの報告が多く、いわゆる「合意形成」や「結論」が出されたわけではありませんが、多元史観によって古代貨幣を含む貨幣史に迫ろうとする野心的な取り組みでした。
 メンバーは古田先生・木村由紀雄さん・浅野雄二さん・山崎仁礼男さんと古賀の五名で、各人の報告は「古田史学会報」や友好団体の会紙に掲載されました。 さらに古田先生からは報告以外にも膨大な先行論文のコピーが提供され、いまでも貴重な資料として大切に保管・利用しています。
 プロジェクト終了後もわたしは古代貨幣に強い関心を持ち続けていましたが、古代貨幣研究は文献史学にとどまらず、考古学・自然科学(材質分析・金属工学)・貨幣経済史などを網羅したテーマですので、浅学なわたしには骨の折れる課題でした。そんなときに斎藤努著『金属が語る日本史』が書店で目に留まり読み始めたのですが、おかげで古代貨幣に関する新知見を得ることができ、わたしの研究心が再び沸き起こったのです。
 著者の斎藤さんは東京大学大学院で化学を専攻され、現在は国立歴史民俗博物館研究部教授と紹介されています。わたしも化学を専攻しましたが、有機合成化学だったので無機化学や金属についてはあまり詳しくありませんから、同書の解説は大変勉強になりました。現在、同書で紹介された古代貨幣の材質分析結果を、九州王朝説の視点から読み説こうとしています。洛中洛外日記で少しずつ紹介していきたいと思います。

 今、新幹線は駿河湾付近を走行中ですが、座席がA席(海側)なので、富士山は見ることができません。せっかくの晴天なのに残念です。(つづく)


第491話 2012/11/12

ドラッカー著『非営利組織の経営』を読む

 思うところがあり、ドラッカー著『非営利組織の経営』を毎日のように読んでいます。NPOなど非営利組織に関するドラッ カーの論文は『ハーバード・ビジネス・レビュー』等で読んだことはあったのですが、著作としてまとめられたものは初めてでした。「古田史学の会」も非営利組織ですから、そのあり方や運営について、基礎から考えるうえで同書は最適の一冊でした。
 「古田史学の会」は古田先生の研究活動のサポートを始め、会報・会誌の発行、例会の運営、遺跡巡りハイキングの主催、ホームページの管理、書籍の刊行、 講演会の開催など、ミッション(使命)にもとづいて多くの活動を行っています。この他にも、地域の会との連絡や支援、友好団体とのおつきあいなども重要な 仕事です。
 これらの活動領域において、無報酬のボランティアスタッフが強い信念と責任感に基づいて会を支えています。さらに全国の会員からの会費により財政的に支 えられています。従って、「古田史学の会」はボランティアスタッフや会員に対して「成果」をあげ続けることが求められており、その「成果」が明日の「古田史学の会」の存続を可能にしてくれる、わたしはそのように考えています。
 本会のような非営利組織において最も大切なこと、それはミッション(使命)であるとドラッカーは次のように指摘します。

 「最近、リーダーシップがよく問題にされる。遅すぎたくらいである。しかし、最初に考えるべきものはリーダーシップではない。ミッションである。非営利組織はミッションのために存在する。それは社会を変え人を変えるために存在する。」

 「古田史学の会」のミッションは「古田史学を継承(学び)・発展(研究を深化)させ、世に広める(定説とする)」ことで す。このミッション(歴史的使命)のために、会員は会費を支払い、ボランティアスタッフは献身的に会に貢献してくれるのです。わたし自身もその一人です。
 今から20年ほど前のことですが、古田説支持者や古田ファンにより結成された「市民の古代研究会」が、そのミッションを見失ったため分裂・消滅しまし た。当時、わたしは「市民の古代研究会」の事務局長としてその分裂騒動の渦中にいました。そして、ミッションを見失った組織の末路をこの目で見てきまし た。このときの苦い経験が、「古田史学の会」の規約・名称・会報名・会誌名に、これでもかこれでもかと「古田史学」の四文字を入れる動機となったのです。 「そこまでしなくても」というご意見もありましたが、ミッションを疑いようのないほど明確にするため、あえてこのようにしました。(つづく)


第488話 2012/10/28

多元的木簡研究のすすめ

 第485話で紹介しました原幸子さん(古田史学の会々員)からの質問、「大化改新の宮はどこか」という問題について、昨日、正木裕さんとディスカッションしました。

 『日本書紀』大化二年条(646)に記された改新詔は九州年号の大化二年(696)に藤原宮で出されたとする説をわたしは発表していたのですが、藤原宮朝堂東側回廊の完成が大宝三年(703)以降であることが出土木簡から判明したため、696年に大極殿など主要宮殿が完成していたことが疑問視されているのです。さらに突き詰めれば、天武期(680年代)には造営が開始されていた藤原宮ですが、その回廊が703年に至っても完成していなかったということに、わたしは深い疑問を抱いたのです。

 こうした疑問もあり、正木さんと意見交換を行いました。まだ結論は出ていませんが、何か重要な視点(仮説)が抜け落ちているような気がしています。たとえば『日本書紀』で持統が694年に遷都したとされる「藤原宮」は発掘された藤原宮(鴨公村大宮土壇)と同じなのか、697年に文武が即位した宮殿はどこなのか、大宝元年(701)に文武が朝賀の儀式を行った宮はどこかといった問題を通説にとらわれず丁寧に再調査する必要を感じています。

 ちなみに、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)は文武が即位したのは(飛鳥)清原大宮とする説を発表されていますが、古田先生も同様の見解を京都で発表されました(10月21日、「森嶋学と日本古代史」京都市下京区旧・成徳中学校舎にて)。

 7~8世紀における九州王朝から近畿天皇家への権力交代を研究するうえで、同時代史料である木簡の多元史観による研究は不可欠です。このことを正木さんに提案し、「多元的木簡研究会」を立ち上げることで合意しました。具体的なことはこれから検討していきますが、将来的には研究成果を書籍として出版したいと考えています。


第487話 2012/10/25

月山の初冠雪

 昨日は月山が初冠雪するなど、山形市も肌寒くなりました。今朝はこれから山形新幹線と東海道新幹線を乗り継いで名古屋に向かいます。午後は名古屋で代理店との交渉です。

 山形に来るといつも違和感を覚えることの一つに、テレビや新聞の天気予報があります。山形では庄内・最上・村山・置賜(おきたま)の4地域にわけ
て天気予報がなされるのですが、まず自分がいる山形市がどの地域に属するのかが京都人のわたしにはわかりませんでした。そして、一つの県をなぜ4地域にも
分けて天気予報を報じなければならない理由もわかりません。京都府なんかは北部と南部の2地域なのに、なんとも不思議でした。
 そこでアテンドしていただいた山形市の代理店のKさんにその理由を聞いてみました。Kさんの説明では、日本海側の庄内地方は平野で、その他はそれぞれ盆
地になっており、微妙に天気が異なるとのこと。さらに、戦国時代や江戸時代はそれぞれ別の大名が支配していた歴史があり、今でもあまり「仲が良くない」と
冗談めかして話されていました。もちろん現在はそのようなことはないでしょううが。
 たとえば米沢市がある置賜地方は上杉家が、山形市がある村山地方は最上家が殿様で両者は戦国時代には敵対していた間柄とのこと。ちなみに上杉家はNHK大河ドラマ「天地人」で有名ですし、江戸時代には屈指の名君・上杉鷹山を出しています。
 最上家は戦国武将の最上義光(もがみよしあき)を出しています。最上義光と仙台の伊達正宗とは親戚関係だそうです。
 庄内藩は酒井家が藩主で、大地主の本間家も有名です。そういえば庄内地方の酒田市長選がテレビで報道されていましたが、候補者の一人が本間正巳さん(前副市長)でした。本間家の御子孫でしょうか。有名な「ゴルフのホンマ」もこの本間家出身とのこと。
 このような歴史的背景のうえに、現在の山形県の風土が形作られているようです。まさに「多元的山形県」ですね。青森県でも津軽と南部とでは似たような関
係があるそうですし、津軽内部でも津軽家と津軽為信に滅ぼされた側の勢力があり、現在も両者は「仲が良くない」という話しを聞いたことがあります。
 このような歴史的背景や歴史的力関係は古代も現代も日本列島に存在しています。こうした歴史理解に基づいた学問が多元史観であり、九州王朝説でもあるのです。現代日本も多元的に分析すると、新たな切り口や真の勢力関係が見えてきそうです。


第484話 2012/10/17

「十五社神社」の分布

 名古屋のホテルのパソコンで「十五社神社」を検索したところ、天草の85社が最濃密分布で、次いで長野県岡谷市の4社のようです。いずれもネット検索の数値ですから実数値というよりも「参考値」に過ぎませんが、天草の最濃密分布は揺るがないと思います。
 ネット検索によれば、次の地域に「十五社神社」がヒットしました。ちなみに御祭神は地域により異なり、天草と岡谷市以外は各1社です。

 茨城県かすみがうら市
 長野県茅野市
 長野県松本市
 長野県岡谷市(4社)
 静岡県袋井市
 岐阜県山県市
 和歌山県和歌山市
 兵庫県加古川市
 福岡県北九州市
 熊本県天草(85社)
 熊本県宇城市
 鹿児島県鹿屋市 
 鹿児島県出水郡長島町

 これらの分布状況が指し示すことは、「十五社神社」の分布の中心は圧倒的に天草であり、次いで長野県岡谷市ということができます。従って「十五社 神社」の移動(広がり)の方向は、「天草→その他。どういうわけか信州岡谷市にやや多い」ということができそうです。この展開の方向について、その時期と理由はまだ不明ですが、歴史の秘密が隠されていそうです。わたしの直感ですが、ここにも九州王朝説による説明が必要のように思われます。


第482話 2012/10/14

中国にあった「始興」年号

 第480話で、「始興」という年号は中国にも日本にも無いと書いたのですが、出張時に持っていた「東方年表」に基づいた判断でしたのでちょっと気にかかり、帰宅後にネットで調べてみました。そうしたらなんと7世紀初頭に「始興」という年号があったのです。
 たとえばウィキペディアによると、隋末唐初に「燕」という短命の政権が高開道により樹立され、「始興」(618~624)という年号が建元されています。同じく隋末に操師乞(元興王)により樹立された地方政権が「始興」(616)が一年間だけ建元されています。
 ウィキペディアではこの二つの「始興」年号を「私年号」と説明していますが、短命ではありますが、樹立された地方政権が建元しているのですから、「公的」なものであり「私年号」とするのは学問的な定義としては問題があります。九州年号を「私年号」とする日本古代史学会も同様の誤りを犯しているのです。 年号が「私」か「公」かをわける基準を政権の「勝ち」「負け」で決めるのは不当です。より厳密にいえば、「年号」とはどれほど狭い地域や短い期間に使用されていても、それが「支配者」により公布され使用されていれば「私」ではなく、「公」的なものであることから、そもそも「私年号」という名称が概念として矛盾した名称と言わざるを得ないのです。
 そういうことで、「始興」年号の出典を確認しました。『隋書』巻四の「煬帝下」に次の記事があり、操師乞による「始興」建元は確認できました。

 (大業12年12月、616年)「賊操天成挙兵反、自号元興王、建元始興。」

 『隋書』によれば、この頃各地で地方政権が樹立され年号が建元されています。たとえば、「白烏」「昌達」「太平」「丁丑」「秦興」などが見えます。

 次に高開道による「始興」建元ですが、『旧唐書』によれば「列伝第五」にある高開道伝には、「(武徳三年・620年)復称燕王、建元」とあり、年号名は記されていません。「建元」とありますから620年が元年のはずですが、ウィキペディアに記された期間(618~624)とは異なります。
 以上のことから、高開道の「始興」は確認できませんでしたが、操師乞による「始興」建元は信用してもよいようです。しかし、『維摩詰経』巻下残巻末尾に見える「始興」は定居元年(611)よりも前のこととなりますから、操師乞の「始興(616)」年号では年代があいません。また、百済僧の来倭記事に隋末 の短命地方政権の年号を使用するというのも不自然です。従って、「始興」は「始哭」の誤写・誤伝ではないかとするわたしの作業仮説は有効と思います。
 最後に、歴史研究において簡単な「辞典」や「年表」に頼りきるのは危険であることを再認識させられました。ましてやウィキペディアの記載をそのまま信用するのは更に危険です。素早く調べるための「道具」として利用するのには便利ですが、その上で原典にしっかりとあたる、というのが大切です。その意味でも良い勉強となりました。(つづく)


第480話 2012/10/09

「始興」は「始哭」の誤写か

 今、湖西線を走る特急サンダーバードに乗っています。今朝は天気も良く、車窓から見える琵琶湖がとてもきれいです。湖面に浮かぶ船や竹生島もくっきりと見えます。

 韓昇さんの中国語論文「聖徳太子写経真偽考」(『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』所収)に紹介された、九州年号「定居元年」が末尾に記されている『維摩詰経』巻下残巻ですが、韓昇さんが説明できていない問題があります。

「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸写」

 この末尾2行部分の「定居」については、「日本の私年号」と説明されているのですが、「始興」については、「定居」とともに「始興」も年号とする他者の論稿の引用のみで、韓昇さん自身の説明はありません。それも仕方がないことで、「始興」という年号は中国にも近畿天皇家にもなく、九州年号にもないからです。そのため、韓昇さんは「始興」の説明ができなかったものと思われます。
 わたしも「始興中」とはある期間を特定した記事であることから、「始興」は年号のように思うのですが、確かに未見の「年号」です。そこでひらめいたのですが、「始興」ではなく、「法興」か「始哭」の誤写・誤伝ではないかと考えたのです。字形からすると「始哭」の方が近そうです。他方、「法興」とすると、「定居元年」(611)が法興年間(591~622)に含まれてしまいますので、二つ並んだ年号表記記事としては不自然です。
 そこで、「始興」を「始哭」の誤写・誤伝とすればどうなるでしょうか。正木裕さん(古田史学の会々員・川西市)の研究(洛中洛外日記311話「正木さんからのメール『始哭』仮説」・他、参照)によれば、「始哭」は589年か590年頃とされており、定居元年(611)よりも少し前の時期に相当しますの で、記事内容に矛盾が生じません。すなわち、「始哭」(589~590)中に慧師聰がもたらした震旦(中国の異称)の善本を、定居元年(611)に上宮厩戸が書写し、法興寺に蔵されている、という理解が可能となるのです。
 しかしそれでも解決できない問題が残っています。年号としての「始哭」の誤写・誤伝であれば、「定居元年」と同様に「始哭元年」とか「始哭二年」とあってほしいところです。この疑問を解決できるのが、やはり正木さんの「始哭は年号ではなく、葬送儀礼の『哭礼』の始まりを意味する」という仮説です。
 正木説によれば、端政元年(589)に玉垂命が没したとき、後を継いだ多利思北弧が葬儀を執り行い、その儀礼として「哭礼」を開始したという記事に、「始哭」という表記があり、それを後に九州年号と勘違いされ伝わったということです。「哭礼」は通常は一年程度続き、長くても三年程度というのが正木さんの見解ですので、もし正木説が正しければ、玉垂命の葬儀に慧師聰が参列し、そのおりもたらされた震旦の善本『維摩詰経』を定居元年に上宮厩戸が書写したということになります。
 ちなみに慧師聰は『日本書紀』推古三年条(595)に百済より来訪した「慧聰」として見え、翌年、高麗僧「慧慈」と共に法興寺に住まわされています。この『日本書紀』の記事が正しければ、慧聰は「始哭中」に相当する端政元年(589)に九州王朝に来倭し、玉垂命の葬儀に参列した後、推古三年(595、九州年号の告貴二年・法興五年)に近畿へ来たことになります。
 このように、「始興」を「始哭」の誤写・誤伝と見た場合、九州王朝説の立場から『維摩詰経』末尾2行の文意がうまく説明できるのです。そしてこのアイデアが当たっていれば、この末尾2行を書いた人は「始哭」などが記された九州王朝系史料を見ていたこととなります。中国にある『維摩詰経』残巻を実見しないことには結論は出せませんが、現時点での「作業仮説」として検証・研究をすすめたいと考えています。
 なお、念のため付け加えれば、「始興」のままでよりうまく説明できる仮説があれば、わたしの提案した「始哭」説よりも有力な仮説となることは当然です。 「原文を尊重する」「必要にして十分な論証を経ずに安易な原文改訂をしてはならない」というのは、古田史学にとって重要な「学問の方法」なのですから。 (つづく)


第471話 2012/09/23

韓昇「聖徳太子写経真偽考」を拝読

 昨日は久しぶりに岡崎公園にある京都府立図書館に行ってきました。平安神宮前の大通りでは龍谷大学ブラスバンドの演奏などいろんなイベントが行われており、大勢の見物客や観光客でごったがえす中、図書館に着くまで大変でした。
 図書館に行った目的は『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』に収録されている韓昇さんの中国語 論文「聖徳太子写経真偽考」の閲覧とコピーです。同論文によれば、『維摩詰経』巻下残巻末尾の2行を次のように紹介されています。

「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
   「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸写」

 同論文は簡体字による現代中国文で書かれていますので、文字や文意が不正確かもしれませんが紹介します。論文では最末尾 の1行が「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」となっており、石井公成さんのホームページ「聖徳太子研究の最前線」には無かった「在」の字があります。また、 「経蔵法興寺」と「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」が同一行とされています。
 韓昇さんによれば、この2行は本文とは筆跡が異なっており、「経蔵法興寺」は拙劣な字体で、「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」と「定居元年 歳在辛未上宮厩戸写」は本文と字体は似せているが異なる筆跡とされています。これらの当否は実物を見ないことには判断できませんが、もし正しいとすれば、 「経蔵法興寺」は所蔵寺院による署名とも考えられることから、筆跡が異なることはあり得ます。
 やはり問題は、「始興中慧師聰信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」「定居元年歳在辛未上宮厩戸写」をどのように考えるのかという史料性格の分析です。この部 分の前半は『維摩経疏』選述の経緯を記したものと思われ、後半はこの『維摩経疏』を上宮厩戸が定居元年(611)に書写したということが記されています。 従って厳密には、この2行部分を上宮厩戸自身が記したものか、他者が上宮厩戸による書写であることを主張するために記したものかは今のところ不明です。や はり『維摩経疏』が掲載されている『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊を実見したいものです。(つづく)