「 飛鳥宮 」一覧

第1908話 2019/05/26

「釆女氏塋域碑」の碑文「四千代」について

 今月の「古田史学の会」関西例会で、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より「釆女氏塋域碑」(己丑年、689年)も九州王朝系のものであり、そこに記された「飛鳥浄原大朝庭」を太宰府飛鳥とする見解が発表されました。
 河内国春日村(現・南河内郡太子町)から出土したとされる「釆女氏塋域碑」は行方不明となり、次のような江戸時代の碑文拓本が残されています。

《釆女氏塋域碑》
飛鳥浄原大朝庭大弁
官直大貳采女竹良卿所
請造墓所形浦山地四千
代他人莫上毀木犯穢
傍地也
 己丑年十二月廿五日

〈訳文〉
飛鳥浄原大朝廷の大弁官、直大弐采女竹良卿が請ひて造る所の墓所、形浦山の地の四千代なり。他の人が上りて木をこぼち、傍の地を犯し穢すことなかれ。
己丑年十二月二十五日。

※現存唯一の真拓(小杉文庫蔵拓本。現在は静岡県立美術館蔵)による。

碑文中の采女竹良の墓所「四千代」という面積は当地に隣接する用明陵、推古陵、聖徳太子陵よりも広いことから、近畿天皇家の官僚のものではないとして、采女竹良を九州王朝(飛鳥浄原大朝廷)が大弁官に任命したものであり、その「飛鳥浄原大朝廷」も太宰府のこととされました。
 「四千代」という面積は「八町」(一町は106m四方)に相当し、「四千代」という広大な墓所は従来の研究でも問題視されてきました。そのため、「四千代」とする論者は采女竹良の一族の墓所と理解してきました(注①)。
 他方、「千」の字は本来は「十」であり、墓碑表面のひびなどにより拓本では「千」に見えているとする見解も有力視されてきました。その上で、「四十代」であれば采女竹良個人の墓所として妥当な面積であるとされました(注②)。
 関西例会で服部さんにこの拓本の文字について確認したところ、「四千代」であったとのことでした。ただし、現存する真拓は小杉文庫蔵拓本だけであり、その他のものは印刷用に作成された「摺本」「版本」ですから、服部さんがどの「拓本」で確認されたのかも重要です。この点、真拓で確認された三谷芳幸さんの論文(注②)によれば、真拓には碑文表面の傷の跡が多く、問題の「千」とされた字も碑文の他の字との比較により「十」と判断されています。
 わたしも、「千」の字は「4」の字に近い字形であり、碑文にある「穢」の字の「禾」の第一画や、「代」「他」の第一画と比べて明らかに異なっていますので、表面の傷により「十」が「4」のような字になって拓出されたとする三谷さんの見解に賛成です。
 なお一言すれば、確かに「四千代」という墓所の面積は「直大弐」の官位の官僚にしては広すぎます。しかし、それは大和(近畿天皇家)であれ筑紫(九州王朝)でれ同じことですから、「四千代」という墓所の面積は九州王朝の官僚と断定する根拠にはなりません。また、同墓碑は河内国春日村の妙見寺に伝わってきたものですから、やはり近畿天皇家の官僚とする通説の方が穏当と思われます。その上で、なぜ持統天皇の時代(己丑年、689年)において、近畿天皇家が官僚任命権を持つことができたのかという視点での研究が必要なのではないでしょうか。
 本稿の是非にかかわらず、服部さんが提起された問題点や仮説は重要なテーマであり、引き続き論議検証されるべきものであることは言うまでもありません。このことを最後に強調しておきたいと思います。

(注)
①近江昌司「釆女氏塋域碑について」『日本歴史』431号 1984年4月。
 近江昌司「妙見寺と釆女氏塋域碑」『古代文化』49(9) 1997年。
②三谷芳幸「釆女氏塋域碑考」『東京大学日本史学研究室紀要』創刊号 1997年。


第1906話 2019/05/24

『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2)
 〝七世紀後半の難波と飛鳥〟

 2017年3月、大阪歴博から驚愕すべき論文が発表されました。「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)「前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致」で紹介した佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(大阪歴博『研究紀要』15号)です。
 従来、ほとんどの考古学出土報告書は『日本書紀』の記述に基づいた解釈(一元史観)を採用し、出土遺構・遺物の編年やその性格を解説するのが常でした。ところが、この佐藤論文では出土事実に基づいた解釈を優先し、それが『日本書紀』とは異なることを明示する、という考古学者としては画期的な報告を行っているのです。たとえば次のような指摘です。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
 しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされているのです。
 この考古学的事実は、前期難波宮九州王朝複都説に見事に対応しています。孝徳の宮殿は前期難波宮ではなく、恐らく北区長柄豊崎にあった「長柄豊碕宮」であり、その没後も九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王「常色の君」)が居していた前期難波宮と難波京は発展し続けたと考えられるからです。そしてその発展は、佐藤さんによれば「白村江戦(663年)」のころまで続いたとのことですから、九州王朝の白村江戦での敗北により難波複都は停滞を始めたと思われます。
 佐藤さんは論文のまとめとして次のように記されています。

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 ついに日本の考古学界に〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟と公言する考古学者が現れたのです。文献史学においては古田先生が『日本書紀』の記事を絶対視しせず、中国史書(『旧唐書』「倭国伝」「日本国伝」、他)などの史料事実に基づいて多元史観・九州王朝説を提起されたように、考古学の分野にもこうした潮流が地下水脈のように流れ始めたのではないでしょうか。そしてその地下水脈が地表にあふれ出すとき、日本古代史学は大和朝廷一元史観から多元史観・九州王朝説へのパラダイムシフトを起こすのです。その日まで、わたしたち古田学派は迫害や中傷に怯まず、弛むことなく前進しようではありませんか。(つづく)


第1775話 2018/10/22

太宰府条坊七世紀後半造営説

 一昨日、「古田史学の会」関西例会が「大阪府社会福祉会館」で開催されました。なお11月は「福島区民センター」、12月は「i-siteなんば」に会場が戻ります。ご注意ください。
 「洛中洛外日記」1748話1749話「飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)(2)」で紹介した服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の飛鳥浄御原宮=太宰府説とする新説が発表されました。その概要は次のような論理展開でした。

①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 質疑応答でわたしから、「飛鳥浄御原宮」が太宰府(政庁Ⅱ期、670年頃の造営か)とするなら条坊都市の造営も七世紀後半と理解されているのかと質したところ、七世紀後半と考えているとの返答がありました。この太宰府条坊七世紀後半造営説には問題点と強みの双方があり、当否は別として重要な見解と思われました。
 その問題点とは、政庁Ⅱ期よりも条坊の方が先に成立しているという井上信正説と一致しないことです。そして強みとは、条坊から七世紀前半の土器が出土していないという考古学的知見と対応することです。今のところ、この服部新説は示唆に富んだ興味深い仮説とは思いますが、まだ納得できないというのがわたしの評価です。しかし、学問研究ではこうした異なる新見解が出されることが重要ですから、これからも注目したいと思います。
 わたしからは過日の福岡市・糸島市の調査旅行で得た「亀井南冥の『金印』借用書」というテーマを報告しました。それは西区姪浜の川岡保さんから教えていただいたもので、志賀島から出土したとされている国宝の「金印」は福岡市西区今宿青木の八雲神社の御神宝(御神体)であり、亀井南冥が持ち主から借りたとする「借用書」が存在していたという新情報です。詳細は「洛中洛外日記」で報告予定です。
 今回の発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①飛鳥考(八尾市・服部静尚)
②倭人伝の戸と家(姫路市・野田利郎)
③吉野ヶ里遺跡の物見櫓の復元について(大山崎町・大原重雄)
④亀井南冥の「金印」借用書(京都市・古賀達也)
⑤藤原不比等の擡頭(京都市・岡下英男)
⑥発令後四ヶ月の早すぎる撰上と元明天皇について(東大阪市・萩野秀公)
⑦俾弥呼と「倭国大乱」の真相(川西市・正木裕)

○事務局長報告(川西市・正木裕)
 新入会員の報告・『発見された倭京 太宰府都城と官道』出版記念講演会(10/14久留米大学)の報告・11/06「古代大和史研究会(原幸子代表)」講演会(講師:正木裕さん)・10/31「水曜研究会」の案内(第四水曜日に開催、豊中倶楽部自治会館。連絡先:服部静尚さん)・11/10-11「古田武彦記念新八王子セミナー」・10/26「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の案内・「古田史学の会」関西例会会場、11月は福島区民センター・西井健さんの著書『記紀の真実 イザナギ神は下関の小戸で禊をされた』紹介・10/28森茂夫さんが京都地名研究会(京丹後市)で講演「浦島伝説の地名〜水ノ江、墨(澄)、薗を巡って」・合田洋一さんの著書『葬られた驚愕の古代史』の村木哲氏による書評「『近畿中心、天皇家一元』史観を解体する」(図書新聞3369号)・新年講演会の案内・その他


第1772話 2018/10/12

土器と瓦による遺構編年の難しさ(8)

 寺院のように存続期間が長く、異なる年代の瓦が同じ場所から出土する場合、その中で最も様式が古い瓦が創建瓦と認定され、その瓦の編年により創建時期が推定されます。また、「○○廃寺」などと称される遺構は瓦や礎石が出土したことにより「廃寺」と推定されるのが一般的です。古代(六世紀〜七世紀)において礎石造りと瓦葺きであれば寺院と考えるのが通例だからです。
 『日本書紀』などに地名や寺院名が対応する地域から出土した場合は、『日本書紀』に記された寺院名が付けられ、『日本書紀』の記事によって年代が判断されます。記録にない場合は出土地の地名「○○」を付して「○○廃寺」と命名され、出土した最も古い様式の瓦により創建年が推定されるわけです。ところがこのような創建瓦のセオリーが通用しない不思議な出土事例があり、研究者を悩ますことがあります。たとえば、わたしが比較的安定した編年ができたとした観世音寺もその一例でした。
 観世音寺の創建瓦は老司Ⅰ式と呼ばれるもので、七世紀後半頃と編年されてきました。これは文献に見える「白鳳10(670)年創建」という記事と整合しており、考古学と文献史学による編年の一致というクロスチェックが成立しています。ところがそれとは別に飛鳥の川原寺と近江の崇福寺遺跡から出土したものと同笵の瓦が一枚だけ観世音寺から出土しており、この瓦の学問的位置づけが困難で事実上「無視」されてきているのです。それは古田学派内でも同様です。そうした中で、森郁夫著『一瓦一説』では飛鳥の川原寺の瓦と太宰府観世音寺の創建瓦について次のように解説されています。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかるのである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという事実を九州王朝説ではどのように説明するのかが問われています。もしかすると、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が提起された「天智と倭姫による九州王朝系近江朝」説であれば説明できるかも知れません。(つづく)


第1766話 2018/10/05

土器と瓦による遺構編年の難しさ(3)

 土器の相対編年はその様式(スタイル)や大きさの変化に基づいて行われており、先後関係は出土層位の差を利用したり、遺構の成立年を文献(主に『日本書紀』)の記述にリンクすることにより定められています。その結果、『日本書紀』に記述されている畿内(飛鳥地方)の遺構の暦年とのリンクで成立した「飛鳥編年」を基本にして、全国の遺跡から出土した土器や遺構を編年するという手法が一般的にとられています。近年ではそれを基本にしながらも地域差に配慮した補正も行われるようになりましたが、根本は近畿天皇家一元史観に基づく『日本書紀』リンク編年(飛鳥編年)が一元的に採用されているのが実態のようです。
 「飛鳥編年」はその基礎データの数値や認識が間違っており、信頼性に疑問があることを服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が既に発表されています。更に10年単位で7世紀の土器編年が可能とする「飛鳥編年」に対して、そこまで厳密に断定することはできず、逆に編年を間違ってしまう可能性があるという意見をある考古学者からお聞きしたことがあります。わたしもこの意見に賛成です。
 そもそも土器に製造年が書いてあるわけでもありませんし、土器そのものも破損するまで長期間使用されるのが普通と思われますから、ある様式の土器が出土したからといって、その出土層位や遺構の編年を土器の「飛鳥編年」にリンクするというのは危険です。更には土器様式そのものにも発生期から流行期・衰退期・生産中止期という恐らく数十年という変遷(ライフサイクル)をたどりますから、「飛鳥編年」により10年単位で遺構を編年できると考える方がおかしいと思います。
 その具体的事例を紹介しましょう。前期難波宮整地層から極少数出土した「須恵器坏Bと思われる土器」を根拠に、それが「飛鳥編年」では660年頃と編年されていることから、前期難波宮造営は660年を遡らないとする批判が少数の考古学者から出されたことがありました。そこで難波宮発掘に関わってこられた複数の考古学者の見解を聞いてみたところ、大阪府文化財センターの考古学者は「その土器はやや大きな須恵器であり、いわゆる須恵器坏Bの範疇には入らない」とのご意見でした。また大阪歴博の考古学者の見解は「須恵器坏B発生の初期段階のものであり、7世紀中頃と見なせる」というものでした。その上で、前期難波宮整地層や前期難波宮の水利施設から大量に出土した土器が7世紀前半から中頃とされる須恵器坏Gであることが決定的証拠となり、前期難波宮を孝徳期の造営とする説がほとんどの考古学者に支持されるに至ったと説明されました。(つづく)


第1749話 2018/09/11

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(2)

 飛鳥浄御原宮を太宰府とする服部新説ですが、もしこの仮説が正しければどのような論理展開が可能となるかについて考察してみました。もちろん、わたしは服部新説を是としているわけではありませんが、有力説となる可能性を秘めていますので、より深く考察を進めることは有益です。
 『日本書紀』では飛鳥浄御原宮を天武と持統の宮殿としていますが、その現れ方は奇妙です。天武二年(672)二月条では、「飛鳥浄御原宮に即帝位す」とあるのですが、朱鳥元年(686)七月条には次のような記事があります。

 「戊午(20日)に、改元し朱鳥元年と曰う。朱鳥、此を阿訶美苔利という。仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮と曰う。」

 飛鳥浄御原宮で即位したと記しながら、その宮殿名が付けられたのは14年後というのです。それまでは名無しの宮殿だったのでしょうか。また、朱鳥(阿訶美苔利)の改元により飛鳥浄御原宮と名づけたとありますが、「苔利」と「鳥」の訓読みが同じというだけで、両者の因果関係も説得力がありません。年号に阿訶美苔利という訓があるというのも変な話です。このように不審だらけの記事なのです。
 他方、「飛鳥浄御原令」という名称は『日本書紀』には見えません。天武紀や持統紀には単に「令」と記すだけです。例えば次の通りです。

「詔して曰く、『朕、今より更(また)律令を定め、法式を改めむと欲(おも)う。故、倶(とも)に是の事を修めよ。然も頓(にわか)に是のみを就(な)さば、公事闕くこと有らむ。人を分けて行うべし』とのたまう。」天武十年(682)二月条
 「庚戌(29日)に、諸司に令一部二十二巻班(わか)ち賜う。」持統三年(689)六月条
 「四等より以上は、考仕令の依(まま)に、善最・功能、氏姓の大小を以て、量りて冠位授けむ。」持統四年(690)四月条
「諸国司等に詔して曰わく、『凡(おおよ)そ戸籍を造ることは、戸令に依れ』とのたまう。」持統四年(690)九月条

 これらの「令」が飛鳥浄御原令と呼ばれている根拠の一つが『続日本紀』の『大宝律令』制定に関する次の記事です。

 「癸卯、三品刑部親王、正三位藤原朝臣不比等、従四位下下毛野朝臣古麻呂、従五位下伊吉連博徳、伊余部連馬養等をして律令を選びしむること、是を以て始めて成る。大略、浄御原朝庭を以て准正となす。」『続日本紀』大宝元年(701)八月条

 「浄御原朝庭」が制定した律令を「准正」して『大宝律令』を作成したとする記事ですが、この「准正」という言葉を巡って、古代史学界では論争が続いてきました。この問題についてはここでは深入りせず、別の機会に触れることにします。
 服部さんの新説「飛鳥浄御原宮=太宰府」によるならば、飛鳥浄御原令が制定された飛鳥浄御原宮は天武の末年から持統天皇の時代の宮殿となりますから、それに時期的に対応するのは大宰府政庁Ⅱ期の宮殿となります。大宰府政庁Ⅱ期の造営と機能した時期は観世音寺が創建された白鳳10年(670)頃以降と考えられますから、ちょうど天武期から持統期に相当します。
 久冨直子さんが指摘されたように、観世音寺の山号「清水山」の語源が「きよみ」という地名に関係していたとすれば、大宰府政庁Ⅱ期の宮殿も「きよみはら宮」と呼ばれても不思議ではありません。しかし、この地域が「きよみ」「きよみはら」と呼ばれていた痕跡がありませんので、この点こそ服部新説にとって最大の難関ではないかと、わたしは思っています。(つづく)


第1748話 2018/09/09

飛鳥浄御原宮=太宰府説の登場(1)

 本日、i-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)で『発見された倭京』出版記念大阪講演会を開催しました。今回は福島区歴史研究会様(末廣訂会長)と和泉史談会様(矢野太一会長)の後援をいただき、両会の会長様よりご挨拶も賜りました。改めて御礼申し上げます。わたしは「九州王朝の新証言」、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は「大宰府に来たペルシャの姫・薩摩に帰ったチクシ(九州王朝)の姫」というテーマで講演しました。おかげさまて好評のようでした。
 講演会終了後、近くのお店で小林副代表・正木事務局長・竹村事務局次長ら「古田史学の会・役員」7名により二次会を行いました。そこでは「古田史学の会」の運営や飛鳥浄御原についての学問的意見交換などが行われたのですが、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から、飛鳥浄御原宮=太宰府説ともいうべき見解が示されました。服部さんによれば次のような理由から、飛鳥浄御原宮を太宰府と考えざるを得ないとされました。

①「浄御原令」のような法令を公布するということは、飛鳥浄御原宮にはその法令を運用(全国支配)するために必要な数千人規模の官僚群が政務に就いていなければならない。
②当時、そうした規模の官僚群を収容できる規模の宮殿・官衙・都市は太宰府である。奈良の飛鳥は宮殿の規模が小さく、条坊都市でもない。
③そうすると「飛鳥浄御原宮」と呼ばれた宮殿は太宰府のことと考えざるを得ない。

 概ねこのような論理により、飛鳥浄御原宮=太宰府説を主張されました。正木さんの説も「広域飛鳥」説であり、太宰府の「阿志岐」や筑後の「阿志岐」地名の存在などを根拠に「アシキ」は本来は「アスカ」ではなかったかとされています。今回の服部新説はこの正木説とも対応しています。
 この対話を聞いておられた久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、太宰府の観世音寺の山号は「清水山」であり、これも「浄御原」と関係してるのではないかという意見が出されました。
 こうした見解に対して、わたしは「なるほど」と思う反面、それなら当地にずばり「アスカ」という地名が遺存していてもよいと思うが、そうした地名はないことから、ただちに服部新説や正木説に賛成できないと述べました。なお、古田先生が紹介された小郡市の小字「飛鳥(ヒチョウ)」は規模が小さすぎて、『日本書紀』などに記された広域地名の「飛鳥」とは違いすぎるという理由から、「飛鳥浄御原宮」がそこにあったとする根拠にはできないということで意見が一致しました。
 わたしの見解とは異なりますが、この服部新説は論理に無理や矛盾がなく論証が成立していますから、これからは注目したいと考えています。やはり、学問研究には異なる意見が出され、真摯な批判・検証・論争が大切だと改めて思いました。(つづく)


第1746話 2018/09/05

「船王後墓誌」の宮殿名(6)

 古田先生が晩年において、近畿から出土した金石文に見える「天皇」や「朝廷」を九州王朝の天皇(天子)のこととする仮説を発表された前提として、近畿天皇家は7世紀中頃において「天皇」を名乗っていないとされていたことを説明しましたが、わたしは飛鳥池遺跡出土木簡を根拠に、天武の時代には近畿天皇家は「天皇」を名乗るだけではなく、自称ナンバーワンとしての「天皇」らしく振る舞っていたと考えていました。そのことを2012年の「洛中洛外日記」444話に記していますので、抜粋転載します。

【以下、転載】
第444話 2012/07/20
飛鳥の「天皇」「皇子」木簡

 (前略)古田史学では、九州王朝の「天子」と近畿天皇家の「天皇」の呼称について、その位置づけや時期について検討が進められてきました。もちろん、倭国のトップとしての「天子」と、ナンバー2としての「天皇」という位置づけが基本ですが、それでは近畿天皇家が「天皇」を称したのはいつからかという問題も論じられてきました。
 もちろん、金石文や木簡から判断するのが基本で、『日本書紀』の記述をそのまま信用するのは学問的ではありません。古田先生が注目されたのが、法隆寺の薬師仏光背銘にある「大王天皇」という表記で、これを根拠に近畿天皇家は推古天皇の時代(7世紀初頭)には「天皇」を称していたとされました。
 近年では飛鳥池から出土した「天皇」木簡により、天武の時代に「天皇」を称したとする見解が「定説」となっているようです。(中略)
 他方、飛鳥池遺跡からは天武天皇の子供の名前の「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」などが書かれた木簡も出土しています。こうした史料事実から、近畿天皇家では推古から天武の時代において、「天皇」や「皇子」を称していたことがうかがえます。
 さらに飛鳥池遺跡からは、天皇の命令を意味する「詔」という字が書かれた木簡も出土しており、当時の近畿天皇家の実勢や「意識」がうかがえ、興味深い史料です。九州王朝末期にあたる時代ですので、列島内の力関係を考えるうえでも、飛鳥の木簡は貴重な史料群です。
【転載終わり】

 7世紀中頃の前期難波宮の巨大宮殿・官衙遺跡と並んで、7世紀後半の飛鳥池遺跡出土木簡(考古学的事実)は『日本書紀』の記事(史料事実)に対応(実証)しているとして、近畿天皇家一元史観(戦後実証史学に基づく戦後型皇国史観)にとっての強固な根拠の一つになっています。
 古田史学を支持する古田学派の研究者にとって、飛鳥池木簡は避けて通れない重要史料群ですが、これらの木簡を直視した研究や論文が少ないことは残念です。「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡典嗣先生の言葉を繰り返しわたしたち(「弟子」)に語られてきた古田先生の御遺志を胸に、わたしはこの「戦後実証史学」の「岩盤規制」にこれからも挑戦します。

〈注〉「学問は実証よりも論証を重んずる」という村岡先生や古田先生の遺訓を他者に強要するものではありません。「論証よりも実証を重んじる」という研究方法に立つのも「学問の自由」ですから。また、「学問は実証よりも論証を重んずる」とは、実証を軽視してもよいという意味では全くありません。念のため繰り返し付記します。


第1736話 2018/08/30

那須国造碑「永昌元年」の論理(7)

 那須国造碑や釆女氏塋域碑に記された「飛鳥浄原大朝庭」「飛鳥浄御原大宮」について、ここで少し考察してみます。
 「洛中洛外日記」902話(2015/03/19)でわたしは〝「浄御原」「清原」「浄原」〟について次のように論じました。以下、要約して転載します。

【要約転載】
 『日本書紀』(720年成立)天武紀には「飛鳥浄御原宮」と表記され、『古事記』(712年成立)序文には「飛鳥清原大宮」とあります。
 同時代金石文や同逸文に「きよみはら」が記されています。

(1)天武5年(677)小野毛人墓誌(京都市出土)「飛鳥浄御原宮治天下天皇」
(2)天武即位8年(680)薬師寺東塔檫銘(奈良県)「清原馭宇天皇」
(3)持統3年(689)采女氏榮域碑(大阪府出土、今なし)「飛鳥浄原大朝廷」
(4)文武4年(700)那須国造碑(栃木県)「飛鳥浄御原大宮」
(5)景雲4年(707)威奈大村骨蔵器墓誌銘(奈良県出土)「清原聖朝」
(6)和銅8年(715)粟原寺鑪盤銘(奈良県)「大倭国浄美原宮治天下天皇」
(7)天平2年(730)美努岡万墓誌(奈良県出土)「飛鳥浄原天皇」

 大別すると、「浄御原」「浄美原」のように、「きよみはら」と読めるもの(1、4、6)と、「清原」「浄原」のように「み」に対応する「御」「美」がないもの(2、3、5、7)の二種類があります。
 近畿天皇家の正史『日本書紀』には「飛鳥浄御原宮」とありますから、少なくとも『日本書紀』成立以降はこちらを正当としたかったと思われますが、『日本書紀』成立以後の(7)美努岡万墓誌は「飛鳥浄原天皇」とあり、「み」に相当する字がありません。
 701年以前の近畿天皇家中枢領域の金石文の薬師寺東塔檫銘は「清原馭宇天皇」とあり、「み」が無いタイプです。天武の命により作成した金石文ですから、当時としては「清原」が用いられていた「直接証拠」とも言えるので、貴重です。『古事記』序文もこの「清原」を使用していますから、『日本書紀』成立以前の近畿天皇家では「清原」を正当な表記としていたと考えざるを得ません。
 古田先生はこの「浄御原」を「じょう・みばる」と訓み、福岡県小郡市付近にあった九州王朝の宮殿所在地名とされています。
【転載終わり】

 ここで考えなければならないことに、古田説のように「み」がつくケースは九州王朝の「じょう・みばる」宮のことであり、「み」がない場合は奈良の「きよはら」宮のことなのかという問題があります。また、同時代金石文の表記と『古事記』や『日本書紀』の表記との差異が何に基づくのかという点についても検討が必要です。(つづく)


第1465話 2017/07/27

倭国王宮の屋根の変遷

 「古田史学の会」会員の山田春廣さんのプログ「sanmaoの暦歴徒然草」に学問的刺激を受けています。最近も九州王朝倭国の王宮に関する作業仮説(「瓦葺宮殿」考)を提起され、読者からコメントも寄せられています。当該仮説の是非はこれから論議検討が進められることと思いますが、コメントを寄せられた服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から重要な疑問が提示されました。それは、倭国の王宮の屋根の変遷において、寺院などは瓦葺き建設なのになぜ前期難波宮など王宮は板葺きなのかという疑問です。
 たしかに考えてみますと、寺院建築では法隆寺や四天王寺(難波天王寺)のように7世紀初頭には礎石造りの瓦葺きです。比べて、近畿天皇家の飛鳥宮(板葺宮、清御原宮)や、わたしが九州王朝副都と考える前期難波宮、そして大津宮は堀立柱造りの板葺きとされています。そして7世紀後半頃になってようやく大宰府政庁Ⅱ期の宮殿が礎石造りの瓦葺きです。7世紀末の藤原宮も近畿天皇家の宮殿として初めて礎石造りの瓦葺きとなります。
 中国風の「近代建築」である瓦葺宮殿を建築できる技術力を持ちながら、自らの王宮は九州王朝も近畿天皇家も7世紀後半から末にならなければ採用しなかった理由は何なのでしょうか。わたしは次のように今のところ推定しています。それは日本古来の宗教思想に基づき、「天神の末裔」である倭国天子には、「神殿造り」の堀立柱と板葺きの宮殿こそが権威継承者としてふさわしいと考えられていたのではないでしょうか。現在でも伊勢神宮を瓦葺きにしないのと同様の理由です。
 仏教が伝来し、寺院建築には舶来宗教として中国風の礎石造りの瓦葺きがふさわしいと考えられたため、早くから瓦葺きが採用されたものと思われます。そして、7世紀後半頃になると中国風の宮殿が倭国天子にもふさわしいとされ、礎石造りの瓦葺きが採用されるに至ったものと考えています。
 既にこうした仮説は発表されているかもしれませんが、とりあえず作業仮説として提起します。皆さんからのご意見ご批判をお待ちしています。