九州年号一覧

第2796話 2022/07/24

慈眼院「定居二年」棟札の紹介

 「洛中洛外日記」2791話(2022/07/19)〝慈眼寺「定居七年」棟札の紹介論文〟で紹介した慈眼院棟札(定居七年・617年)ですが、泉佐野市日根野慈眼院(注①)のご住職から教えていただいた資料(注②)などにより、同棟札の全文を確認することができました。その冒頭部分を転記します。

「泉州日根郡日根野大井関大明神
 御造営記録并御縁起由来㕝
抑當社大明神者古三韓新羅国
修明正覚王一天四海之御太子ニ 而
御座然者依不思儀御縁力定居
二年壬申卯月二日ニ 日域ニ 渡セ 玉ヒ
當国主大井関正一位大明神ニ 備リ
玉フ 爰ニ 天下乱入ニ 付而天正四年
丙子二月十八日ニ 焔上也其後
(中略)
       吉田半左衛門尉
 慶長七年壬寅十二月吉日一正」

先の「洛中洛外日記」で紹介した「定居七年」ではなく、「定居二年」(612年)に新羅国の太子「修明正覚王」が当地に来て、「當国主大井関正一位大明神」になったという「日根野大井関大明神」の由来が冒頭に記されています。その後、天下が乱れ、同社は天正四年(1576年)のおそらくは兵火で消失し、慶長七年(1602年)に豊臣秀頼により再興されたことが後段に詳述されています。
 従って、この棟札銘文に見える「定居二年」は同時代九州年号史料ではありませんが、当時の古代史認識が示された史料として貴重です。次にその古代史認識とは、どのようなものであったのかについて迫ってみます。(つづく)

(注)
①大阪府泉佐野市日根野にある真言宗の寺院。近世末までは隣接する日根神社の神宮寺であった。(ウィキペディアによる)
②『泉佐野市内の社寺に残る棟札資料』泉佐野市史編纂委員会、1998年


第2795話 2022/07/23

羽黒山開山伝承、「勝照四年」棟札の証言

 羽黒三山神社の公式ホームページの解説(注①)により、羽黒山開山伝承が後世(江戸時代初期)において改変を受けていたことがわかりました。当時、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥が、羽黒山を開山したとされる能除を天皇家の血筋と関連付けるために、崇峻天皇の太子である蜂子皇子のこととしたようです。そうせざるを得なかった理由の一つに、「勝照四年戊申」(588年)という開山年次を記した伝承の存在があったと思われます。慶長十一年(1606年)の修造時に作られた棟札(注②)に「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」とあったことがそのことを指し示しています。
 開山の時代(六世紀末頃)にあって、行方が不確かな〝皇族〟を探し求めた結果、崇峻天皇の子供の蜂子皇子が能除の候補者に最も相応しいと、宥俊や天宥は考えたのでしょう。なお、能除を崇峻天皇の第三皇子とする、十六世紀成立の史料「出羽国羽黒山建立之次第」(注③)もあるようですが、わたしは未見のため、調査したうえで別述したいと思います。
 このような後世(江戸時代初頭)の開山伝承の改変を、おそらくは現在の羽黒三山神社のホームページ編集者は感じ取っているものと思われます。それは諸説を併記した次の用心深い記述姿勢からもうかがわれます。

「開祖・能除仙(のうじょせん)
 出羽三山を開き、羽黒派古修験道の開祖である能除仙は深いベールに包まれた人である。社殿に伝わる古記録では、能除は『般若心経』の「能除一切苦」の文を誦えて衆生の病や苦悩を能く除かれたことから能除仙と呼ばれ、大師・太子とも称された。またそれとは別に参仏理大臣(みふりのおとど)と記されたものもあり、意味は不明であるがその読み方から神霊に奉仕する巫とする見方もあった。」

 以上の史料状況からすると、最も信頼性が高い史料は棟札の「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」という記事であり、能除は参仏理大臣(みふりのおとど)とも呼ばれたという『記紀』には見えない伝承ではないでしょうか。これらを九州王朝説の視点で考察すれば、九州年号「勝照四年」(588年)で記録された原伝承があり、その人物は能除あるいは参仏理大臣と呼ばれていたとできそうです。しかも、六世紀末頃の出羽地方が舞台であることを考慮すれば、倭国(九州王朝)から蝦夷国領域への仏教東流伝承の一つではないかと思われます。
 エビデンスが少なく、わたしの勉強不足もあり、まだ断定できる状況ではありませんが、蝦夷国研究のための一つの作業仮説として提示します。

(注)
①「出羽三山神社」ホームページ>御由緒>羽黒派古修験道>開祖・能除仙(のうじょせん)。
 http://www.dewasanzan.jp/publics/index/75/
②『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。
③大友義助「出羽三山・鳥海山の山岳伝承」(五来重編『修験道の伝承文化』名著出版、1981年)に「出羽国羽黒山建立之次第」が紹介され、その奥書には「永禄三年庚申霜月上旬」(1560年)の年次があるとのこと。

 


第2794話 2022/07/22

羽黒山開山伝承と「勝照四年」棟札との齟齬

 「洛中洛外日記」2792話(2022/07/20)〝失われた棟札、「勝照四年戊申」銘羽黒山本社〟で紹介した「勝照四年戊申」棟札は慶長十一年(1606年)の修造時に作られたもので、同時代「九州年号棟札」ではありません。しかしながら、羽黒山開山伝承が後世の改変を受けていたことを証言する貴重な史料のようです。このことについて説明します。
 羽黒山神社は崇峻天皇の皇子(蜂子皇子=能除大師)が開基したと伝わっています。羽黒三山神社のホームページ(注①)では次のように説明されています。

〝開祖・能除仙(のうじょせん)
 出羽三山を開き、羽黒派古修験道の開祖である能除仙は深いベールに包まれた人である。社殿に伝わる古記録では、能除は『般若心経』の「能除一切苦」の文を誦えて衆生の病や苦悩を能く除かれたことから能除仙と呼ばれ、大師・太子とも称された。またそれとは別に参仏理大臣(みふりのおとど)と記されたものもあり、意味は不明であるがその読み方から神霊に奉仕する巫とする見方もあった。
 江戸初期、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥は、能除が第32代崇峻天皇(~592)の太子であると考え、つてを求め朝廷の文書や記録の中にその証拠となる資料を求めたところ、崇峻天皇には蜂子皇子と錦代皇女がおられたことが判明し、能除仙は蜂子皇子に相違ないと考えるようになる。その頃から開祖について次のように語られるようになる。父の崇峻天皇が蘇我馬子(~626)に暗殺され、皇子の身も危うくなり、従兄弟の聖徳太子(574~622)の勧めに従い出家し斗擻の身となって禁中を脱出し、丹後の由良の浜より船出して日本海を北上し鶴岡市由良の浜にたどり着く。そこで八人の乙女の招きに誘われ上陸し、観音の霊場羽黒山を目指す。途中道に迷った皇子を三本足の八咫烏が現れ、羽黒山の阿古屋へと導く。そこで修行された後羽黒山を開き、続いて月山を開き、最後に湯殿山を開かれた。この日が丑年丑日であったことから、丑年を三山の縁年とするというものである。さらに、文政六年(1823)覚諄別当は開祖蜂子皇子に菩薩号を宣下されたいと願い出て、「照見大菩薩」という諡号を賜った。それ以後羽黒山では開祖を蜂子皇子と称し、明治政府は開祖を蜂子皇子と認め、その墓所を羽黒山頂に定めた。〟

 この解説によれば、「開祖・能除仙」が羽黒山に到着したのは崇峻天皇(~592)暗殺後となりますが、棟札(注②)に記された「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」(588年)では暗殺の四年前となり、年次が矛盾します。そこで注目されるのが、「江戸初期、羽黒山の別当であった宥俊や弟子の天宥は、能除が第32代崇峻天皇(~592)の太子であると考え、つてを求め朝廷の文書や記録の中にその証拠となる資料を求めたところ、崇峻天皇には蜂子皇子と錦代皇女がおられたことが判明し、能除仙は蜂子皇子に相違ないと考えるようになる。その頃から開祖について次のように語られるようになる。」という記事です。
 この説明通りであれば、能除を崇峻天皇の太子としたのは江戸初期からとなり、それ以前は別の〝本来の伝承〟があったのではないでしょうか。棟札の成立が慶長十一年(1606年)の修造時ですから、本来の伝承の一端が「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」として記録されたと思われるのです。この二つの開山伝承の齟齬は重要です。(つづく)

(注)
①「出羽三山神社」ホームページ>御由緒>羽黒派古修験道>開祖・能除仙(のうじょせん)。
 http://www.dewasanzan.jp/publics/index/75/
②『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。


第2793話 2022/07/21

国内史料に遺る「百済年号」

 作成中の「九州年号金石文」の紹介資料の末尾に「百済年号」史料を添付することにしました。倭国(九州王朝)の同盟国であり、共に七世紀後半に滅んだ王朝(注①)であり、その年号が後世にどのように伝わったのかを考察する上で参考になるのではないでしょうか。
 宮崎県には、百済滅亡後に倭国(九州王朝)に亡命した百済王族のものと思われる年号史料が散見されます。宮崎県南郷村の神門(みかど)神社から発見された綾布墨書に見える「明雲廿六年」「白雲元年」という年号です。福宿孝夫氏による読み取り文を紹介します。

 記国號
白西王城百北三千国守
帝泉帝皇明雲廿六年(為)
福智帝皇白雲元年
上 六国守阿香  大将(霊)官
  四国守(居)戸 少淨(託)官
  二国守我久  勝官将一
大白部守秀(隅)  尸官将九
中 二国守白(亦)大名 尸官二
  六国月(尸)淨山  守官六
  二国部卜尸 川正尸官大
  三国天官宝王   守護
下 三部大国皇城吉巡月尸尸一
  五国少元皇外(霊)守 下官
  三国今帝王内比丘尸一
  匹部守守来結体作人見

※()内は福宿氏による推定。

 「帝泉帝皇」の「明雲廿六年」と「福智帝皇」の「白雲元年」です。この綾布墨書については拙稿「百済年号の発見」(注②)で既に紹介したところです。
 この他にも、南郷村に隣接する木城町にある比木神社の史料『比木大明神系図』に「正光元年辛巳」という百済年号が記されています。次のようです。

 「百済国王神門帝家二御王子福智王奉申、百済国正光元年辛巳福智王吾朝渡給(後略)」

 これら国内史料に遺る百済年号についての研究はまだ進んでいません。多元史観・九州王朝説による研究が待たれます。

(注)
①百済は唐との戦争に敗れ、660年に滅亡した。その後、倭国(九州王朝)の支援により再興が試みられたが、白村江戦(663年)の敗北などにより、成功しなかった。その後、倭国も国力が減衰し、701年に大和朝廷(文武天皇)と王朝交代した。ただし、九州年号は大長九年(712年)まで続いたとする研究をわたしは発表している。「最後の九州年号 ―『大長』年号の史料批判」『「九州年号」の研究』(ミネルヴァ書房、2012年)。
②古賀達也「百済年号の発見 宮崎県南郷村神門神社の綾布墨書」『古田史学会報』20号、1997年。


第2792話 2022/07/20

失われた棟札、「勝照四年戊申」銘羽黒山本社

 「洛中洛外日記」2790話(2022/07/18)〝「九州年号棟札」記事の紹介〟で紹介した「九州年号棟札」で、現存すると推定した(3)「勝照四年」(588年)の銘文を持つ羽黒山棟札について調査を行いました。残念ながら、既に失われているようでした。過去の九州年号史料のファイルを整理したところ、「古田史学の会・仙台」の佐々木広堂さん(注①)からのお手紙(2000年10月26日付)と調査資料が見つかり、資料には同棟札を「亡失」とされていました。恥ずかしながら、わたしはこの調査結果を失念していました。
 その資料とは『棟札銘文集成 ―東北編―』(注②)で、国立歴史民俗博物館から出されています。その「羽黒三山神社 (東田川郡羽黒町大字手向)」の項に三点の棟札が紹介されており、その内の「本社慶長十一年修造棟札写 出典または調査主体『出羽三山史』」との表題を持つ棟札銘文中に「勝照四年戊申」がありました。棟札の表裏に記されていた次の文が掲載されています。

(表)
     出羽大泉荘羽黒寂光寺
    聖主天中天 大行事帝釈天王 時之執行寶前院宥源
    迦陵頻伽聲 碑文珠師利菩薩 時之夏一寶星院尊量
(梵) 奉泰物戒師聖觀自在尊御堂修造大檀那出羽守源義光 敬白
    表愍衆生者 惣行事普賢菩薩    五郎兵衛光祐
                  大工
                     羽藤次郎家久
    我等今敬禮 證誠我承仕大梵天王
     羽黒開山能除大師勝照四年戊申
     慶長十一稔丙午迄千十九年
(裏)
   頭領 八郎左衛門實重 小屋之大工 與右衛門/彌左衛門
   并  次郎左衛門   日帳筆取  助五郎
 惣番匠衆 最上荘内油利郡合百五十餘人而貳秊之成就也
  時奉行          肝煎 甚平/七郎左衛門
氏家雅楽尉恭満
    大河原十郎兵衛重安 手膓 眞田式部小輔/眞田七郎左衛門
    小出三彌(出)政
〔備考〕棟札亡失。

 慶長十一年(1606年)の修造時に作られた棟札であり、九州年号「勝照四年」(588年)の同時代史料ではありませんが、「羽黒開山能除大師勝照四年戊申」とあることから、能除という人物により照勝四年戊申に羽黒山が開山されたことを伝えています。しかも「慶長十一稔丙午迄千十九年」とあるように、勝照四年戊申が慶長十一年の千十九年前であるとしています。数え方によるのかもしれませんが、厳密には1018年前で、ほぼ九州年号の年次に一致しています。
 寺社修造に関わる〝寺社建築物に付設し、後世に遺すべき公的な記録〟という棟札の史料性格を考えると、この棟札の作者は能除大師の開山伝承(注③)や九州年号「勝照四年」の実在を疑っていません。羽黒山修験道研究や、近世思想史の視点からも注目すべき「九州年号棟札」ではないでしょうか。亡失が惜しまれます。

(注)
①「古田史学の会」草創時からの会員で、全国世話人や「古田史学の会・仙台」会長を歴任された。
②『社寺の国宝・重文建造物等 棟札銘文集成 ―東北編―』国立歴史民俗博物館、平成九年(1997)。
③古賀達也「洛中洛外日記」266話(2010/06/06)〝東北の九州年号〟、「東北地方の九州年号(倭国年号)」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集、明石書店、2017年)で次のように紹介した。
〝羽黒山神社は崇峻天皇の皇子(蜂子皇子=能除大師)が開基したと伝わっていますが、同じく福島県信夫山の羽黒神社は「崇峻天皇三年端政」と九州年号の端政が縁起に記されていることが報告されています(「九州年号目録」『市民の古代』十一集所収、新泉社刊)。このように羽黒修験道と九州年号・九州王朝の関係がうかがわれるのですが、これら東北地方の九州年号史料は東北と九州王朝の関係という視点からの検討が必要と思われます。〟


第2791話 2022/07/19

慈眼寺「定居七年」棟札の紹介論文

 「洛中洛外日記」2790話(2022/07/18)〝「九州年号棟札」記事の紹介〟で紹介した「九州年号棟札」の同時代性や信憑性は個別の史料批判や検証が必要です。その中の、(4)慈眼寺無量光院棟札(定居七年・617年)については平野雅曠さん(故人、注①)による研究があり、『古田史学会報』25号(1998年)で「渡来氏族と九州年号」を発表されていますので、紹介します。

【以下、関係部分を転載】
渡来氏族と九州年号
    熊本市 平野雅曠

 『新撰姓氏録』の和泉国諸蕃の部に、「新羅国人億斯富使主より出づる也」と記される日根造が出ている。
 この人の氏神とされる日根神社について、「大阪における朝鮮文化」の題で、段熙麟という方が書いている。(「大阪文庫」4)
 ◎日根神社と慈眼寺(注②)
 本社の創建は、天武天皇の白鳳二年(六七三)と伝えられ、和泉国五大社の一つにかぞえられる名神大社である。中世、織田信長が根来寺を鎮圧した折に巻き添えとなって全焼したのであるが、慶長七年(一六〇二)に豊臣秀頼によって再興され、日根野荘の総社として栄え今日に至っている。
*************
 日根神社の左手に慈眼寺(別称、無量光院)がある。いわゆる日根神社の神宮寺で、日根神社と同様に天武天皇白鳳の創建とされ、その後奈良時代の天平年間(七二九~七四八)に勅願寺となった。寺号は(略)金堂、多宝塔をはじめ、奥之坊(現在の本坊)、稲之坊、上之坊、下之坊など多くの堂宇をもった名刹であったが、日根神社と同様に盛衰をくりかえした。
 多宝塔と金堂は、平安時代の弘仁八年(八一七)に、本寺に暫住した僧空海によって造営されたもので、幸に兵火をまぬがれ千余年の法灯を伝えている。
 近年、多宝塔を解体修理した折、「古三韓新羅国 修明正覚王 定居七年」と銘記された棟札銘が発見されたが、これによっても本寺が新羅系渡来人の祖神をまつった日根神社の神宮寺として建立されたことが傍証されるわけで、日根氏の氏寺として建立されたかも知れない。
 しかし、「修明正覚王」とか「定居七年」とかの王名や年号は、日韓の文献には見られないもので奇異に思われる。しかし「定居」という年号は、大寺院や大豪族が使用した私年号であって、定居七年は推古天皇二十五年(六一七)に該当するから、本寺の創建は飛鳥時代にまでさかのぼるかも知れないのである。
【転載おわり】

 平野さんが転載された段熙麟氏の「大阪における朝鮮文化」によれば、銘文に「古三韓新羅国」(古の三韓の新羅国)とあることから、棟札作成時に「定居七年」(617年)の伝承が記された後代史料のようです。全文を見ないとどのような史料性格の棟札かはわかりませんが、『二中歴』「年代歴」によれば、定居七年の二年後の倭京二年(619年)に「難波天王寺」が創建されていますから、摂津や河内への九州王朝の進出(寺院創建・狭山池築造)時期とも重なり、新羅国の「修明正覚王」は九州王朝と関係がある人物かもしれません。また、難波(上町台地)から朝鮮半島(新羅・百済)の土器が出土することはよく知られており、定居七年に新羅の「修明正覚王」が当地に来ていても不思議ではありません(注③)。是非とも拝見したい棟札です。

(注)
①平野雅曠氏は熊本市の研究者。古くからの古田史学の支持者であり、「古田史学の会」草創時からの会員。次の著書がある。『熊本エスペラント運動史』『田迎小学校百周年史』『肥後随記』『九州王朝の周辺』『九州年号の証言』『倭国王のふるさと 火ノ国山門』『倭国史談』。
②大阪府泉佐野市日根野にある真言宗の寺院。近世末までは隣接する日根神社の神宮寺であった。(ウィキペディアによる)
③寺井誠「難波における百済・新羅土器の搬入とその史的背景」『共同研究報告書7』(大阪歴史博物館、2013年)に次の指摘がある。
 「以上、難波およびその周辺における6世紀後半から7世紀にかけての時期に搬入された百済土器、新羅土器について整理した。出土数については、他地域を圧倒していて、特に日本列島において搬入数がきわめて少ない百済土器が難波に集中しているのは目を引く。これらは大体7世紀第1~2四半期に搬入されたものであり、新羅土器の多くもこの時期幅で収まると考える。」


第2790話 2022/07/18

「九州年号棟札」記事の紹介

 来月発表する「九州年号金石文」の資料作成を進めていますが、金石文以外に「九州年号棟札」も同資料に収録することにしました。寺社仏閣創建時や再建寺に付される棟札に九州年号が記されているという記録や報告が散見され、その同時代性や信憑性についての研究のためにも、それらの収集整理を今のうちに済ませておくのがよいと思い、この作業に取り組むことにしました。古田学派の研究者や未来の九州年号研究者に役立つ重要な仕事と考えています。
 現時点では次の「九州年号棟札」記事の存在がわかっています(注①)。いずれも未確認ですが、現存するのは(3)(4)(5)ではないかと推定しています。そのうち同時代史料の可能性があるものは(5)だけですが、棟札の起源が古代まで遡れるのかも含めて、これからの研究課題です(注②)。

(1) 賢称(576~580年) 「賢称」『偽年号考』 神明社棟札 愛知県渥美郡大津村神明社

(2) 鏡當(581~584年) 「鏡常」 蓮城寺棟札 大分県大野郡三重町蓮城寺

(3) 勝照四年(588年) 「勝照四年戊申」『山形県金石文』羽黒山棟札 山形県東田川郡羽黒町羽黒山本社

(4) 定居七年(617年) 「古三韓新羅国修明正覚王定居七年」 段熙麟『大阪における朝鮮文化』 慈眼寺無量光院棟札

(5) 白雉二年(653年) 「此社白雉二年創造の由、棟札に明らかなり。又白雉の舊材、今も尚残れり」「又其初の社を解く時、臍の合口に白雉二年に造営する由、書付けてありしと云」『太宰管内志』豊後之四・直入郡「建男霜凝日子神社」

(注)
①(1)~(4)は『市民の古代』11集(新泉社、1989年)によった。(5)は古賀の調査による。
②ウィキペディアによれば、現存最古の棟札は岩手県中尊寺の保安三年(1122年)銘を持つものとする。

 


第2787話 2022/07/14

新井白石と

   佐久間洞巌(『奥羽観蹟聞老志』の編者)

 佐久間洞巌は『奥羽観蹟聞老志』で、栗原郡の八所權現に「善喜二年三月日」の銘文を持つ古い鰐口があると記していますが、その「善喜」については「按ニ善喜ノ年號不見」と説明し、従来の史書などに見えない年号としています。そして、年号の二文字目に「喜」の字があるのは「七十代後冷泉帝天喜」しかないと解説しています。
 他方、佐藤信要は『封内名蹟志』において、「喜」の字を持つ年号として「延喜」と「寛喜」を加え、『奥羽観蹟聞老志』の不備を補っています。しかし、この鰐口の存在自体は認めており、「善喜」という年号が従来史料に見えないものであることには修正が施されておらず、洞巌の見解に従っています。そこで問題となるのが、洞巌は九州年号、なかでも「善記」年号(522~525年)を知っていたのかという点です。もし知っていれば、そのことに触れたと思うのです。二文字目の「喜」については「七十代後冷泉帝天喜」の存在を指摘したほどですから、年号としては九州年号「善記」以外には見当たらない(注①)「善」の字についても何かしらの見解が付記されてもよいと思うからです。このことは佐藤信要の『封内名蹟志』でも同様です。
 江戸時代の伊達藩の学者、佐久間洞巌が九州年号や正史に見えない逸年号の存在を全く知らないはずはないと思うのですが、現時点ではその調査がまだ完了していません。しかし、佐久間洞巌の名前にわたしは見覚えがありました。『「九州年号」の研究』(注②)に収録した拙稿「『九州年号』真偽論の系譜」で洞巌の名前に触れていたからです。

〝江戸時代の学者新井白石は、当初、水戸藩による『大日本史』編纂事業に期待していたようですが、後にその内容に失望し、友人の佐久間洞巌に次のような厳しい手紙を出しています。

 「水戸でできた『大日本史』などは、定めて国史の誤りを正されることとたのもしく思っていたところ、むかしのことは『日本書紀』『続日本紀』などにまかせきりです。それではとうてい日本の実事はすまぬことと思われます。日本にこそ本は少ないかもしれないが、『後漢書』をはじめ中国の本には日本のことを書いたものがいかにもたくさんあります。また四百年来、日本の外藩だったとも言える朝鮮にも本がある。それを捨てておいて、国史、国史などと言っているのは、おおかた夢のなかで夢を説くようなことです。」『新井白石全集』第五巻518頁〟

 白石は九州年号真作説に立っていますが、もちろん九州王朝の年号という理解ではなく、正史から漏れた逸年号と捉えています。そのことは、水戸藩の友人の安積澹泊に出した次の手紙からわかります。

〝朝鮮の『海東諸国紀』という本に本朝の年号と古い時代の出来事などが書かれていますが、この年号はわが国の史書には見えません。しかしながら、寺社仏閣などの縁起や古い系図などに『海東諸国紀』に記された年号が多く残っています。干支などもおおかた合っているので、まったくの荒唐無稽、事実無根とも思われません。この年号について水戸藩の人々はどのように考えておられるのか、詳しく教えていただけないでしょうか。
 その時代は文字使いが未熟であったため、その年号のおおかたは浅はかなもので、それ故に『日本書紀』などに採用されずに削除されたものとも思われます。持統天皇の時代の永昌という年号も残されていますが(那須国造碑)、これなども一層の不審を増すところでございます。〟『新井白石全集』第五巻284頁

 新井白石(1657~1725年)と佐久間洞巌(1653~1736年)は同時代の学者で学問的交流もありました。ですから、洞巌がいわゆる九州年号の存在を知らなかったとは考えにくいのです。この時代、著名な学者たち(注③)が九州年号の真偽について論じていたことは先の拙稿「『九州年号』真偽論の系譜」でも紹介したところです。洞巌の九州年号に関する知見や認識については、『奥羽観蹟聞老志』などの著書を改めて精査した上で論じたいと思います。(つづく)

(注)
①『東方年表』平楽寺書店、1988年版による。
②『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
③筑前黒田藩の学者、貝原益軒(1630~1714年)は『倭漢名数』『続倭漢名数』で九州年号偽作説を唱えている。


第2786話 2022/07/13

宮城県の九州年号

     金石文(「善喜二年」鰐口銘)の史料

 『市民の古代』11集(注①)に収録された『仙台金石志』の次の九州年号金石文記事の「善喜二年」銘鰐口が所在不明であることが菊地栄吾さん(古田史学の会・仙台)の調査によりわかりました。

 「舊鰐口二噐其一銘曰。善喜二年三月日(鰐口銘文)」
 『仙台金石志』巻之十二 封内名蹟志巻十五
  宮城県栗原郡二迫屋敷村八所権現

 そこで出典とされた『仙台金石志』を調査しました。岡崎公園の京都府立図書館で国会図書館デジタルアーカイブを閲覧したのですが、『仙台叢書』に収録された『仙台金石志』(注②)に当該記事を見つけることができませんでした。わたしの見落としかもしれず、三度ほど読みましたがそれらしい記事は見えません。版本により、内容が異なっているのかもしれません。そこで、『封内名蹟志』(注③)を調べたところ、次の記事がありました。

 「八所權現。稲屋敷村に有。
 郷人高松權現と云ふ。往古寺有。春日山高松寺と號す。古鰐口二器あり。其一の銘に曰く。善喜二年三月日とあり。其二の銘に。鰐口一器。陸奥長岡郡荒谷郷。安養寺に寄附す。時に寛正三年壬午二月二十四日。願主常徳とあり。
 按るに。善喜といへる年號見へず。喜の字を下に用ひしは。醍醐帝の延喜。後冷泉帝の天喜。後堀河帝の寛喜等にして。此の外にはなし。寛正は。百三代御(ママ)花園帝の三十四年也。此銘を以て見れば。栗原は、則古の長岡郡なることを知るにたれり。」『封内名蹟志』粟原郡(『仙台叢書』第八巻 336頁)

 この『封内名蹟志』は仙台藩の佐藤信要(ノブアキ)が1741年に編纂したもので、『奥羽観蹟聞老志』の誤謬を訂正し、記事を簡潔にしたものとされています。そこで『奥羽観蹟聞老志』(注④)も閲覧したところ、栗原郡「八所權現」に『封内名蹟志』とほぼ同内容の漢文体の次の記事がありました。

 「八所ノ權現
 在稲敷村平形ノ地 有寺號春日山高松寺 有古鰐口二器 其一ノ銘ニ曰 善喜二年三月日 其二ノ銘ニ曰 寄附ス鰐口一器ヲ 於陸奥長岡郡荒谷郷安養寺 時寛正三年壬午二月二十四日願主常徳
 按ニ善喜ノ年號不見 用喜ノ字ヲ于下者ハ七十代後冷泉帝天喜外無有之 寛正ハ百三代後花園帝三十四年也 依此銘而會テ知ル 此地乃古之長岡郡也 然ハ則此時未タ収村落 猶立郡名也 高松寺後称安養寺乎 又其寺在荒谷 而適以此器而蔵此寺者乎」『奥羽観蹟聞老志』巻之八(『仙台叢書』第十四巻 339頁)

 ここでは、喜の字を用いた年号を「後冷泉帝天喜外無有之」としていますが、先の『封内名蹟志』では延喜と寛喜をつけ加えています。しかし、両書とも「善喜」という年号は見えないとしています。他方、善の字については何も触れておらず、その理由がわかりません。いずれにしても、両書が成立した十八世紀時点では、「善喜二年三月日」の銘文を持つ古い鰐口が八所権現に存在していたと記しています。(つづく)

(注)
①『市民の古代』11集、新泉社、1989年。
②吉田友好『仙台金石志』享保四年(1719年)、『仙台叢書』に収録。
③佐藤信要『封内名蹟志』、1741年。同書は『奥羽観蹟聞老志』の誤謬を訂正し、記事を簡潔にしたもの。『仙台叢書』第八巻には漢文から国字に改めたものが収められている。
④『奥羽観蹟聞老志』は、仙台藩の儒学者、佐久間洞巌(1653-1736)が四代藩主伊達綱村の命により編纂し、1719年に完成した。全20巻からなる仙台藩内および東北の地誌。『仙台叢書』第十四巻に収録。


第2785話 2022/07/12

宮城県の九州年号

   金石文(「善喜二年」鰐口銘)の調査

 来月の古田史学リモート勉強会で発表する「九州年号金石文の紹介」資料を作成していますが、三十年前から気になっていた宮城県の九州年号金石文「善喜二年」鰐口銘について、調査と考察を集中的に進めています。化学会社を定年退職して二年間、時間を割いて取り組んできたテーマの一つでした。
 33年前に発行した『市民の古代』11集(注①)の編集にわたしは参画し、九州年号を特集しました。九州年号資料が同書の末尾に掲載されており、そのなかに『仙台金石志』(注②)の次の記事がありました。それは九州年号「善喜(記)」を銘文に持つ「八所権現」の金石文(鰐口)の存在を記録したものです。

 「舊鰐口二噐其一銘曰。善喜二年三月日(鰐口銘文)」
 出典『仙台金石志』巻之十二「封内名蹟志巻十五」
 所在地 宮城県栗原郡二迫屋敷村八所権現

 しかし、宮城県の土地勘がないわたしには、「栗原郡二迫屋敷村八所権現」の場所もわかりませんでした。また、「善記」が「善喜」と誤記・誤伝されていることもあって、当時のわたしには同記事の信憑性についても判断できませんでした。そのため、三十年近く気になりながらも研究の進展を見ませんでした。この度、「古田史学の会・仙台」の菊地栄吾さんに御協力を仰いだところ、ただちに調査していただき、次のメールが届きました。

古賀達也様
 先日の勉強会では、解りやすい話で為になりました。
 本件の回答ですが、次の様です。
 八所権現は、現在の「雄鋭(おどの)神社」で、宮城県栗原市栗駒稲屋敷高松51(電話0228-45-5104)にあります。元々、本社、末社合わせて8社があり八所権現または高松権現と呼ばれたようです。
 鰐口については、現在の神主に問い合わせたところ、「赴任当初から無かった」と言っておりました。何処かの場所にあるとも聞いていないそうです。以上です。取り急ぎご連絡します。
 菊地栄吾

 地元の研究者だけに調査は早く的確です。おかげさまで、「八所権現」の場所は判明しましたが、鰐口は同社に伝わっていないとのこと。残念ですが、こうなると当面は『仙台金石志』の記事だけで研究を進めざるを得ません。(つづく)

(注)
①『市民の古代』11集、新泉社、1989年。
②吉田友好編『仙台金石志』享保四年(1719年)、『仙台叢書』13・14巻に収録。


第2784話 2022/07/10

「九州年号金石文の紹介」の準備

 古田史学の勉強のため、リモートで遠方の研究者や若い研究者との意見交換を続けていますが、来月はわたしから九州年号金石文の紹介をさせていただく予定です。その為の資料作りを進めています。今まで発表していなかった金石文や行方不明になっている史料も網羅した、総合的な資料にしたいと考えています。また、金石文ではありませんが、「九州年号」部分が空白となっている干支木簡についても、複数紹介する予定です。
 あわせて、後代造作「九州年号」金石文も資料に加えようと、過去の論稿や写真を書棚から探していますが、なかなか見つからずに難儀しています。その一例として、八年前に「洛中洛外日記」(注①)で紹介した「大化元年」石文の資料がようやく見つかりました。それは、豊国覚堂「多野郡平井村雑記(上)」(注②)に掲載された「大化元年の石文」の報告です。

〝大化元年の石文
 又富田家には屯倉の遺址から掘出したと称する石灰岩質の牡丹餅形の極めて不格好の石に「大化元乙巳天、□神王命」と二行に陰刻した石文がある。神王の上に大か天か不明の一字があつて、其左方より上部は少しく缺損して居るが――見る所随分ふるそうなものである、併し大化の頃、果して斯る石文があつたものか、或は後世の擬刻か、容易には信じられない、又同所附近よりは赤土素焼の瓶をも発掘したと聞いたが未だ實物は一覧しない。〟

 掲載された拓本によると、陰刻文字は「大化元巳天 文神王命」とわたしには見えます。元年干支が「巳」とあり、これは『日本書紀』の「大化元年乙巳」(645年)と一致しますから、この石文は『日本書紀』成立以後に作成された後代造作「九州年号」金石文と思われます。ちなみに、本来の九州年号「大化元年」(695年)の干支は乙未です。
 下山昌孝さん(多元的古代研究会・元事務局長、故人)に同石文の所在調査をお願いしていたのですが、その調査結果を記したお手紙(2000年8月)も見つかりました。それによると、多野郡平井村は現・藤岡市に属し、所蔵されている富田家に問い合わされたところ、同家はこの石文のことをご存じなかったとのこと。富山家は倉を持つ旧家で、藤岡市教育委員会が同家所有古文書の目録を作成中とお手紙にはありましたから、現在では完成しているのではないでしょうか。
 今日まで35年間、古田史学を支持する全国の方々のご協力を得て、情報収集や調査研究を進めてきましたので、わたしの記憶と体力が確かなうちに、書棚のどこかに眠っている資料の探索と整理(デジタルデータ化)を行い、「洛中洛外日記」やFaceBook、リモート勉強会などで紹介していきたいと思います。古田先生亡き後、この仕事はわたしの大切なライフワークの一つです。

(注)
①「洛中洛外日記」816話(2014/11/02)〝後代「九州年号」金石文の紹介〟
②豊国覚堂「多野郡平井村雑記(上)」『上毛及上毛人』61号、大正11年。


第2727話 2022/04/23

藤原宮内先行条坊の論理 (4)

 ―本薬師寺と条坊区画―

 藤原宮内下層条坊の造営時期を考古学的出土物(土器編年・干支木簡・木材の年輪年代測定)から判断すれば、天武期頃としておくのが穏当と思われ、そうであれば壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として造営したのが〝拡大前の藤原京条坊都市〟ではないかと考えました。他方、木下正史『藤原宮』によると、木簡が出土した大溝よりも下層条坊が先行するとあります。

〝「四条条間路」は大溝によって壊されており、「四条条間路」、ひいては一連の下層条坊道路の建設が大溝の掘削に先立つことは明らかである。大溝の掘削が天武末年まで遡るとなると、条坊道路の建設は天武末年をさらに遡る可能性が出てくる。〟木下正史『藤原宮』61頁

 さらに本薬師寺が条坊区画に添って造営されていることが判明し、『日本書紀』に見える天武九年(680)の薬師寺発願記事によれば、条坊計画がそれ以前からあったことがうかがえます。こうした考古学的事実や『日本書紀』の史料事実から、壬申の乱に勝利した天武が自らの王都として藤原京を造営しようとしたのではないかとわたしは推定しています。
 わたしは九州王朝(倭国)による王宮(長谷田土壇)造営の可能性も検討していたのですが、その時期が天武期の680年以前まで遡るのであれば、再考する必要がありそうです。というのも、九州王朝の複都制による難波京(権力の都。評制による全国統治の中枢都市)がこの時期には存在しており、隣国(大和)の辺地である飛鳥に巨大条坊都市を白村江戦敗北後の九州王朝が建設するメリットや目的が見えてこないからです。しかし、これが天武であれば、疲弊した九州王朝に代わって列島の支配者となるために、全国統治に必要な巨大条坊都市を造営する合理的な理由と実力を持っていたと考えることができます。その上で九州王朝の天子を藤原宮に囲い込み、禅譲を強要したということであれば、「藤原宮に九州王朝の天子がいた」とする西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の仮説とも対応できそうです。