和田家文書一覧

第3536話 2025/10/01

陸奧新報に出版記念講演会の記事

 弘前市に来て六日目です。昨日は宮下宗一郎青森県知事を表敬訪問し、短時間でしたが有意義な懇談ができました。若さと行動力が魅力的な知事さんでした。知事との懇談後、青森県の文化財保護課で石塔山関連遺跡の調査などについて相談しました。

 9月27日に開催された『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会の記事が、今朝の陸奧新報にカラー写真付きで掲載されました。講演会当日は、ご来場いただいた方々へのご挨拶や記念写真撮影、著書へのサインなどで忙しく、新聞記者さんにはご挨拶できないままでした。記事にしていただき、ありがとうございます。

 また、ご多忙にもかかわらず講演会でご挨拶いただいた衆議院議員の岡田華子さん(立憲民主党・青森三区)には改めて御礼申し上げます。ちなみに岡田さんは『東日流外三郡誌』を持っておられるとのこと。お祖父様から頂いたものとか。不思議なご縁でした。

 今日の夕方からは、弘前市議・青森県議・弘前市立図書館の方々に「東日流外三郡誌」を紹介することになりました。こちらは超党派の方々とのこと。当初の予定にはなかったイベントですので、議員さん向けのテーマに変更したパワポ資料をホテルに籠もって作成しました。タイトルは「和田家文書と興国の大津波」です。大地震や大津波に備えるためにも、「東日流外三郡誌」を初め津軽の先人が伝えた現地伝承〝興国元年・二年(1340・1341)の大津波〟が歴史事実であること、〝興国の津波は史実ではなく和田喜八郎氏による偽作〟とする「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンが否であることを説明します。


第3534話 2025/09/25

興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(3)

 国立歴史民俗博物館の報告書「十三湊遺跡北部地区の発掘調査」(1995年)によれば、江戸期成立文献に見える「興国の大津波」伝承は史実ではないとされていますが、理化学的年代測定により「興国の大津波」があったとする報告書があります。『地質学論集』第36号に掲載された箕浦幸治・中谷周「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」(1990年、注①)です。それには次のように報告されています。

 「1983年5月、日本海北東部で発生した日本海中部地震津波は、青森県から秋田県の海岸域に押し寄せ、これらの地域に多大な被害をもたらした。遡上した海水は、海岸湖沼や跡背湿地に流入し、一時的に水系の環境を大きく変えた(箕浦・中谷、1989)。寛保元年(西暦1741年)、渡島半島西方沖で発生した大津波は、津軽半島にも襲来し、十三湖に近い小泊で7mに達する波高を記録した(渡辺、1985)。その時の様子を、橘南谿が自著「東遊記」に克明に記録している。十三湖周辺の海岸地形は、この津波によって少なからず変容したことが推定されている(箕浦・中谷、1989)。十三往生記或は東日流外三郡誌(小館・藤本、1986)によれば、興国二年(西暦1341年)日本海北東縁に大津波が発生して津軽半島に波及し、多数の犠牲者を出すとともに、津軽の覇者安東氏の本拠であった十三浦(十三湖)を襲ってこれを壊滅させたという。」(71頁)

 「海側の砂丘の出現と砂丘間水路の閉塞の年代は、鉛同位体法により各々640年±20年前(西暦1340年±20年)及び240年±20年前(西暦1748年±20年)と推定される。

 既に述べたように、今から遡ること約650年前津軽の海岸に大津波が押し寄せたという記録或は伝承(佐藤・箕浦、1987)が、不正確ながら今日に残されている。砂丘間湖沼を出現させた海側の砂丘の発達は、その推定年代値(西暦1340年前後)から、この時の津波(興国の大津波)の襲来によって作られた可能性が大いに考えられる。十三湖の堆積物中には堆積相の急変部が認められず、従って、この津波は湖に直接及ばなかったと思われる。恐らく、海岸での急激な堆積物の移動と海岸砂丘の形成に終始し、津波による当時の港湾施設の破壊の言伝え(小館・藤本、1986)は後の誇張によるものであろう。或は、砂丘の出現による湖口部の閉鎖が水上交易を阻害し、中世十三浦の支配者たる津軽安東氏(桜井、1981)は、これ以降急速に衰退の一途を辿ったとも解釈できよう。水路の閉鎖による砂丘間湖沼の誕生は、既に報告されているように(箕浦ほか、1985)、寛保元年(西暦1741年)北海道渡島大島沖に発生した大津波によってもたらされた。」(85頁)

 この報告の要点は次の通りです。

❶海側の砂丘の出現と砂丘間水路の閉塞の年代は、鉛同位体法により640年±20年前(西暦1340年±20年)及び240年±20年前(西暦1748年±20年)と推定される。※数値はママ。
❷寛保元年(西暦1741年)、渡島半島西方沖で発生した大津波により十三湖周辺の海岸地形は少なからず変容したことが推定されている(箕浦・中谷、1989)。その時の様子を橘南谿が「東遊記」に克明に記録している。
❸海側の砂丘の出現と砂丘間水路の閉塞は640年±20年前(西暦1340年±20年)と考えられ、これは興国元年(1340)・二年(1341)の大津波伝承に対応している。
❹従って、砂丘間湖沼を出現させた海側の砂丘の発達は、その推定年代値(西暦1340年前後)から、この時の津波(興国の大津波)の襲来によって作られた可能性が大いに考えられる。
❺十三湖の堆積物中には堆積相の急変部が認められず、従って、興国の大津波は湖に直接及ばなかったと思われる。恐らく、海岸での急激な堆積物の移動と海岸砂丘の形成に終始している。
❻津波による当時の港湾施設の破壊の言伝え(『東日流外三郡誌』)は後の誇張によるものであろう。或は、砂丘の出現による湖口部の閉鎖が水上交易を阻害し、中世十三浦の支配者たる津軽安東氏は、これ以降急速に衰退の一途を辿ったとも解釈できよう。

 ❶~❹で示されているように、鉛同位体比年代測定により明らかとなった十三湊が閉塞された年代が、興国の大津波伝承と一致することは重要です。すなわち、理化学的年代測定値と現地伝承史料の年代が一致するという当報告は、『東日流外三郡誌』偽書説に対する強力な反証となります。少なくとも、〝『東日流外三郡誌』にしかない興国の大津波伝承は考古学調査で否定されており、従って『東日流外三郡誌』は偽書である〟というレベルの偽作キャンペーンが全く成立しないことは明白です。

 なお、『地質学論集』第36号掲載の報告書「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」の存在を、わたしはブログ「釜石の日々」の記事(注②)で知りました。同ブログ編集者に感謝します。(つづく)

《追記》明日、弘前市に向かいます。明後日の『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会(秋田孝季集史研究会主催)で講演し、その後は現地調査などを行う予定です。

(注)
①箕浦幸治・中谷 周「津軽十三湖及び周辺湖沼の成り立ち」『地質学論集』第36号、1990年。
https://dl.ndl.go.jp/pid/10809879
箕浦幸治(?-?) 東北大学理学部地質学古生物学教室
中谷 周(?-1992.08) 弘前大学理学部地球科学教室
②ブログ「釜石の日々」〝津軽十三湊の興国の大津波〟2016-09-08 19:13:23 | 歴史
https://blog.goo.ne.jp/orangeone_2008/e/260cd259cee059990c7e8c1be68426c1

《写真》「東日流外三郡誌」に描かれた〝興国二年の大津波〟

 


第3533話 2025/09/22

「34年遡り」説で

 天武紀の一切経・放生会記事を解明

 一昨日、「古田史学の会」関西例会が東成区民センターで開催されました。リモート参加は4名でした。10月例会の会場は豊中倶楽部自治会館です。

 わたしからは、「和田家文書の真実 ―『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念―」を発表しました。9月27日(土)、青森県弘前市で開催される『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会(秋田孝季集史研究会主催)のリハーサルを兼ねて発表したもので、9/05・リモート古代史研究会(多元的古代研究会主催)、9/13・和田家文書研究会(東京古田会主催)に次いで3回目のリハーサルです。様々なご意見をいただき、本番に向けての準備はほぼ完了しました。貴重なご意見を賜り、ありがとうございました。

 弘前市講演会には、新聞各社や地元選出議員の参加も予定されているようです。『東日流外三郡誌』は偽書ではなく、江戸時代における当地の歴史伝承が採録された貴重な史料であること、和田家文書以外にも津軽の民間で成立した江戸期の伝承史料が青森県には数多く遺っていることなどを紹介する予定です。

 今回の例会で最も注目したのが正木裕さんの発表「繰り下げられた利歌彌多弗利の事績」でした。『日本書紀』天武紀には不自然な記事がありました。例えば、天武二年(673)の初めての一切経書写記事、天武四年(675)の殺生・肉食禁止記事、天武五年(676)の放生会記事などです。唐突に記されたこれら一連の記事は、本来は九州王朝によるものであり、それらが三十四年後の天武紀に転用されたとする仮説です。これは正木さんにより提起されてきた「34年遡り」説の適用であり、この方法と理解により、『二中歴』年代歴の九州年号細注記事などと整合することを明らかにしました。
この正木説によれば、『日本書紀』編纂時の九州王朝記事の概要を推定できそうですし、それは九州王朝史復元研究に貢献できます。正木説の検証や展開が期待されます。

 9月例会では下記の発表がありました。発表希望者は上田さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。発表者はレジュメを25部作成されるようお願いします。
なお、古田史学の会・会員は関西例会にリモート参加(聴講)ができますので、参加希望される会員はメールアドレスを本会までお知らせ下さい。

〔9月度関西例会の内容〕
①蘇我馬子と聖徳太子 ―俀国と兄弟統治を解明する― (姫路市・野田利郎)
②一つ目の人面付き甲冑埴輪の謎 (大山崎町・大原重雄)
③東日流外三郡誌の後出しジャンケンの六本柱復元絵図 (大山崎町・大原重雄)
④中国史書の方位表記の検討 (京都市・二宮廣志)
⑤和田家文書の真実 ―『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念― (京都市・古賀達也)
⑥多元的九州王朝論のすすめ (茨木市・満田正賢)
⑦消された「詔」と遷された事績(後編) (東大阪市・萩野秀公)
⑧『古事記』『日本書紀』の成立事情 (八尾市・服部静尚)
⑨繰り下げられた利歌彌多弗利の事績 (川西市・正木裕)

□「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費500円
10/18(土) 10:00~17:00 会場:豊中倶楽部自治会館

参考

古代大和史研究会(80) 2025年9月23日(火)正木裕

於:奈良県立図書情報館

聖徳法皇 利歌彌多弗利 から 常色の天子 伊勢王へ

https://youtu.be/Rld4hVpxYrw


古代大和史研究会(79) 2025年8月26日(火)正木裕

於:奈良県立図書情報館

利歌彌多弗利— 法隆寺にいたもうひとりの聖徳太子

https://youtu.be/6VQCi1e8B-I


 


第3532話 2025/09/20

興国の津軽大津波伝承の理化学的証明(2)

 長谷川成一氏(弘前大学文学部教授)が「近世十三湊に関する基礎的考察」(1995年、注①)で紹介した国立歴史民俗博物館の報告書「福島城・十三湊遺跡 1991年度調査概要」(1993年、注②)には、十三湊(とさみなと)遺跡から出土した遺物(陶器・漆器・他)の点数が年代別に表記されています。次の「表6」(319頁)です。

 表6 遺物年代別個体数(十三湊遺跡で年代を判定できた資料)
(1991年度分布調査分)
破片数  口縁部
12世紀 1 0.1
13世紀 4 0
14世紀 19 0.7
15世紀 21 0.7
16世紀 0 0

 津軽の「興国の大津波」は興国元年(1340)・二年(1341)と伝承されていますから、14世紀の事件となります。伝承ではこの大津波で十三湊は壊滅したとされますが、採取遺物の編年によれば14~15世紀の遺物が増加しており、興国の大津波が十三湊を襲ったとは思われません。むしろ16世紀に遺物が激減しており、十三湊の活動停止時期がこの頃であることを示しているようです。また、津波の痕跡についての報告も同報告書には見えません。

 津軽十三湊の遺構に津波の痕跡が無かったことをはっきりと記した報告は、国立歴史民俗博物館の報告書「十三湊遺跡北部地区の発掘調査」(1995年、注③)に見えます。それには次の発掘調査所見と意味深な「付言」が記されています。

〝 5 十三湊遺跡北部地区の発掘調査
ここでは十三湊遺跡の土塁以北の調査について記述する。対象となるのは92年度調査第1地区および93年度調査第1地区である。
《中略》
B 93年度第1地区
(1)位置と層序
93年度調査区は92年度調査の成果を受けて、土塁北側地区でもっとも中心的な施設が存在すると推測した十三小学校周辺で、面的な調査が可能であった地点として選択された。
《中略》

 また、この調査では茶褐色砂質土中に厚さ1cm~5cm程度の薄い黄褐色のきめ細かな砂層がまばらに形成されている様子が観察された。この層は水性堆積によって、十三湖岸の砂がもち込まれたことで生み出されたと評価され、この地域が十三湊の活動期から何度かの水害に悩まされていたことを裏付ける。

 しかし、このことは巷間に広く伝えられているように、大規模な水害によって十三湊が最終段階に壊滅的な被害を受けたという伝説を考古学的に認めるものではない。逆に水害の後、砂で埋まった道路側溝などの諸施設が速やかに修復されている様子がはっきりと確認できることから、十三湊の直接の廃絶の原因を大規模な水害とする可能性はなくなったと言える。そして、十三湊の成立と廃絶は安藤氏権力の消長とともに、日本海・北方交易の展開、北部日本の政治構造の変化を見据えた中で位置づけられ、評価していかなければならない。

 なお、ひとこと付言すれば、二次的な編纂物と考古学的な調査成果との整合性を云々するのも、生産性のない議論であることは言うまでもない。(千田)〟『国立歴史民俗博物館研究報告』第64集(1995)

 このように、十三小学校周辺には水害の痕跡はあるものの、大規模な水害(大津波)で廃絶したとする可能性を否定しています。そして、「二次的な編纂物と考古学的な調査成果との整合性を云々するのも、生産性のない議論であることは言うまでもない。」との付言で締めくくられています。ここでの「二次的な編纂物」とは『東日流外三郡誌』や津軽藩系の系譜の「興国の大津波」記事のことと思われますが、文献と考古学的出土物の関係や整合性を論じることを、「生産性のない議論であることは言うまでもない。」と切り捨てるのはいかがなものでしょうか。こうした論法が許されるのなら、倭人伝や『日本書紀』の記述と考古学的出土物の整合性を論じるのも「生産性のない議論」となりかねず、学問や歴史研究を志すものとしては到底首肯できるものではありません。(つづく)

(注)
①長谷川成一「近世十三湊に関する基礎的考察」『国立歴史民俗博物館区研究報告』第64集、237頁、1995年。
②千田嘉博・小島道裕・宇野隆夫・前川要「福島城・十三湊遺跡 1991年度調査概報」『国立歴史民俗博物館研究報告』第48集、1993年。
③千田嘉博・高橋照彦・榊原滋隆「十三湊遺跡北部地区の発掘調査」『国立歴史民俗博物館研究報告』第64集、88~112頁、1995年。


第3531話 2025/09/17

興国の津輕大津波伝承の理化学的証明(1)

 三十年ほど前に突然始まった『東日流外三郡誌』偽作キャンペーンは、同文書の所蔵者である和田喜八郎氏を偽作者、古田先生を偽作の協力者として、学問的批判の域を超えた誹謗中傷・名誉毀損の限りを尽くしたものでした。その一端をこの度上梓した『東日流外三郡誌の逆襲』で紹介し、反証を行いました。残念ながら偽作説への全ての反論を掲載できなかったので、残りは同書続編に委ねますが、良い機会でもありますので、偽作キャンペーンのテーマになった「興国の津軽大津波伝承」についての偽作説への反証を紹介します。

 偽作キャンペーン誌『季刊 邪馬台国』53号(1994年)に掲載された長谷川成一氏(弘前大学文学部教授・当時)の「津軽十三津波伝承の成立とその性格 ―「興国元年の大海嘯」伝承を中心に―」には、文献史学の立場から次のように述べています。

〝すなわち、「興国元年の大海嘯」はそれを記す何本かの十三藤原氏系図の内容それ自体が荒唐無稽であって、歴史的な事実を記したものとはとうてい考えられない。したがって文献史料からは、その存在を確認するのは不可能であり、大津波は興国元年になかった可能性が非常に高い、と言わざるを得ないのである。(中略)したがって、現段階においては、文献史学の分野からの、これ以上の十三津波へのアプローチはできないし、またその意味もないと思われ、自然科学の分野における解明を期待して擱筆することにしたい。〟(216頁)

 長谷川氏は『東日流外三郡誌』などに記された「十三藤原氏系図の内容それ自体が荒唐無稽」と全否定したため、「文献史学の分野からの、これ以上の十三津波へのアプローチはできないし、またその意味もないと思われ、自然科学の分野における解明を期待して擱筆することにしたい。」と言わざるを得なくなっているわけです。そしてこの論稿の翌年(1995年)に発表した「近世十三湊に関する基礎的考察」(注①)でも同様の所見が見えます。

 〝近年の国立歴史民俗博物館を中心とした、十三湊の本格的な発掘による貴重な成果が、千田嘉博・小島道裕・宇野隆夫・前川要「福島城・十三湊遺跡 1991年度調査概報」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第48集 1993年 所収)として発表され、従来の文献史料を主とした研究に大きな影響を与えた。
(中略)

 自然科学的に津波が存在したか否かは、人文科学系の研究者にとってとうてい解明できる問題ではないが、このたびの中世の十三湊遺跡の発掘調査においては、津波の痕跡は検出されておらず、歴史考古学の立場から津波の存在は否定されたと見て支障なかろう。〟

 このように、長谷川氏は文献史学では興国年間(1340~1345)の津軽大津波伝承の史実性を確認できないとして、考古学的出土報告の所見に従って、『東日流外三郡誌』などに記された興国二年(1341年)あるいは興国元年(1340年)に十三湊を大津波が襲ったとする当地の伝承は歴史事実ではないとするわけです。このような見解は文献史学としても不適切とわたしは考えており、「洛中洛外日記」などで次のように指摘しました(注②)。

 〝江戸時代に「興国の大津波」が伝承されていたことを考えても、「起きもしなかった〝興国の大津波〟を諸史料に造作する、しかも興国年間(元年、二年)と具体的年次まで記して造作する必要などない」と言わざるを得ません。

 これは法隆寺再建論争で、「燃えてもいない寺院を、燃えて無くなったなどと、『日本書紀』編者が書く必要はない」と喝破した喜田貞吉の再建論が正しかったことを想起させます。いずれも、史料事実に基づく論証という文献史学の学問の方法に導かれた考察です。いずれは、発掘調査という考古学的出土事実に基づく実証によっても、証明されるものと確信しています。〟

 こうした視点こそ、文献史学の文献史学たる由縁ではないでしょうか。それでは、長谷川氏が「従来の文献史料を主とした研究に大きな影響を与えた」とする国立歴史民俗博物館の発掘調査報告を見てみることにします。(つづく)

(注)
①長谷川成一「近世十三湊に関する基礎的考察」『国立歴史民俗博物館区研究報告』第64集、1995年。
②古賀達也「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝興国の大津波の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
同「興国の津軽大津波伝承の考察 ―地震学者・羽鳥徳太郎の慧眼―」『東京古田会ニュース』215号、2024年。


第3530話 2025/09/14

ミネルヴァ書房・杉田社長からの電話

 半月後に迫った弘前市での『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)出版記念講演会(9/27、弘前市立観光館。秋田孝季集史研究会主催)の準備で忙しくしていますが、先日、京都市山科区に本社を置くミネルヴァ書房の杉田啓三社長からお電話をいただきました。古田先生の追悼講演会以来のことですから、お声を聞くのも十年ぶりです。

 開口一番、「『東日流外三郡誌の逆襲』を送ってくれてありがとう。三日かけて読んだ。これは面白いねえ。」とのこと。京都の人文・社会科学系出版の雄、ミネルヴァ書房と言えば、本作りのプロ中のプロの集団。そこの社長の杉田さんからのお褒めの言葉だけに、感激しました。「三十年かかりました」と言うと、「ようあれだけ調べたねえ。それにしても偽作論者はひどい。彼らには何を言っても無駄だろうけれども、本当によう調べたと思う。」

 このようなやりとりのあと、三十数年前に起きた和田家文書偽作キャンペーンと「市民の古代研究会」への激しい組織攻撃(理事会の切り崩し、裏切りなど)を受け、最後はわたし一人で「古田史学の会」の立ち上げを決意し、集まってくれた数人の同志と、そして古田武彦先生と共に、全国の古田ファン・古田史学支持者を糾合するため、北海道から九州まで行脚し、「古田史学の会」の組織を作り、この本の発刊に至ったことを杉田社長に説明しました。ですから、「古田史学の会」が今日あるのは、偽作論者や偽作キャンペーンの賜とも言えそうです。何よりも、『季刊 邪馬台国』や週刊誌・書籍、右翼雑誌などから名指しの攻撃を受けたことにより、わたし自身も精神的・学問的にタフになりました。

 思い起こせば、当時、古田先生は次のように言われました。
「偽作キャンペーンが今でよかった。もしこれが十年後であったなら、わたしの身体は到底もたなかった。」
このとき、先生は六十七歳、わたしは三十八歳でした。
話を戻します。ミネルヴァ書房からは、これまで「古田史学の会」の本を二冊出版していただきました。『「九州年号」の研究』(2012年)と『邪馬壹国の歴史学』(2016年)です。どちらも「古田史学の会」編の自信作です。電話の最後に、「また機会があれば「古田史学の会」の本を出していただきたいと思います。」と述べ、拙著へのお褒めの言葉に対して重ねてお礼を申し上げました。


第3526話 2025/09/05

『東日流外三郡誌の逆襲』

     出版記念講演のリハーサル

 本日、「多元的古代研究会」主催のリモート研究会で、「和田家文書の真実」というテーマを発表させていただきました。9月27日(土)の弘前市(秋田孝季集史研究会主催)と10月25日(土)に東京(八幡書店主催)で開催される『東日流外三郡誌の逆襲』出版記念講演会のリハーサルを兼ねて発表しました。
この三十年間の研究成果をパワポファイル120枚を使用して説明しましたが、最後に、これから十年をかけて『東日流外三郡誌』の編者秋田孝季の生涯と思想を研究し、古田武彦先生ができなかった『秋田孝季』の伝記執筆のための研究を続け、後継者に委ねたいと締めくくりました。この思いを綴ったのが『東日流外三郡誌の逆襲』の最後に収録した「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」です。その末尾の一節を転載します。同書出版に込めた思いの一端が読者に伝われば幸いです。

【以下、転載】
あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。
それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それこそが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が遺した『秋田孝季』の筆を、わたしたち門下の誰かが握り、繋がねばならない。その一著が世に出るとき、東日流外三郡誌に関わった、冥界を彷徨い続ける人々の魂に、ひとつの安寧が訪れることを信じている。
〔令和七年(二〇二五)五月十二日、筆了〕


第3511話 2025/08/01

運命の一書

 『東日流外三郡誌の逆襲』近日刊行

 30年もかかってしまいましたが、今月中頃までには『東日流外三郡誌の逆襲』(八幡書店)が発刊されます。この本を出すまでは死ぬことはできないと心に決めてきました。版元をはじめ、原稿執筆依頼に応じていただいた皆様に深く感謝いたします。

 弘前市での出版記念講演会を弘前市立観光館にて9月27日(土)に行うことも決まりました(秋田孝季集史研究会主催)。講演会には偽書派を代表する論者、斉藤光政さん(東奥日報)をご招待することにしていましたが、氏が7月24日にご逝去されたことを知りました。斎藤さんとは30年前に青森で一度だけお会いしたことがあります。そのときの斉藤記者と古田先生とのやりとりは今でも記憶しています。『東日流外三郡誌の逆襲』刊行直前のご逝去でもあり、不思議なご縁と運命の巡り合わせを感じます。激しい論争を交わした相手ではありますが、それだからこそ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 『東日流外三郡誌の逆襲』末尾の拙稿「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」の一節を紹介します。

〝五 真偽論争の恩讐を越えて

 本書を手に取り、ここまで読み進めでくださった方にはすでに十分伝わっているかと思うが、和田家文書の歴史は不幸の連続であった。なかでも所蔵者による偽作だとする、メディアによるキャンペーンはその最たるものであった。本稿で提起したような分類や正確な認識によることもなく、本来の学問的な史料批判に基づいた検証とは程遠い、浅薄な知識と悪質な誤解に基づく偽作キャンペーンが延々と続けられた。口にするのも憚られるようなひどい人格攻撃と中傷が繰り返された。そういった悪意の中で、和田家(五所川原市飯詰)は離散を強いられたのである。和田家文書を真作として研究を続けた古田武彦先生に対しても、テレビ(NHK)や新聞(東奥日報)、週刊誌などでの偏向報道・バッシングは猖獗を極めた。まるで、この国のメディアや学問が正気を失ったかのようであった。

 しかしそれでも、真偽論争の恩讐を越え、学問の常道に立ち返り、東日流外三郡誌をはじめとする和田家文書を史料批判の対象とすること。これをわたしは世の識者、なかでも青森に生きる方々にうったえたい。本書はその確かな導き手となるであろう。その結果、和田家文書の分類が見直されることになったとしても、これまでの研究結果とは異なる新たな事実がみつかることになろうとも、わたしたち古田学派の研究者は論理の導くところへ行かなければならない。たとえそれが何処に至ろうとも。〟

 同書を多くの皆様、とりわけ青森県の方々に読んでいただきたいと願っています。


第3506話 2025/07/16

『東日流外三郡誌の逆襲』

       表紙カバー作成

 八幡書店から発行される『東日流外三郡誌の逆襲』の最終校(第4校)を本日ようやく提出できました。『古代に真実を求めて』二冊分に相当する440頁の大部の著作ですので、校正のたびに新たな誤りが見つかり、いつまでこの作業を繰り返さなければならないのかと思いながら、体力と集中力をすり減らす日々が続きました。その作業からようやく解放されました。

 それと同時に出版社から本のカバーデザインと帯のキャッチコピーが届きました。赤と黒を基調としたおどろおどろしい雰囲気の表紙カバーですが、書名や表紙デザインは出版社の判断によりますので、出版のプロの意見を尊重することにしました。

 帯に記されたキャッチコピーは、わたしや古田先生の気持ちをよく表しており、ちょっと感動しました。それは次のような文章です。

 「壁の外」に歴史はあった。
学界は長く、この書を「偽書」と断じてきた。
笑い、罵り、語る価値すらならいと切り捨ててきた。
だが、それでも足を止めなかった者たちがいる。
北の果て、語部の記録に宿った“もう一つの日本”。
――それは、封じられた真実か。それとも、壮大な反逆か。
いま、禁忌の書は再び開かれる。
すべては、壁の内側に飼い慣らされた歴史を打ち壊すために。

 早ければ7月末、遅くとも8月中には刊行予定です。その後、9月には青森県弘前市で出版記念講演会(主催:秋田孝季集史研究会)を予定しています。10月には東京で八幡書店主催の出版記念講演会が予定されており、いずれもわたしと八幡書店の武田社長が出席します。

 本書の発行に30年の歳月が必要でしたが、「この書を世に出すまで死ねない」という思いを抱いで今日に至りました。わたしは古田門下の中では、漢文や古典の教養も低く、先生からよく叱られた〝できの悪い弟子〟でした。それだけに、反古田学派の和田家文書偽作キャンペーンによる「市民の古代研究会」分裂騒動後、「古田史学の会」を創立し、一貫して古田史学と古田先生を支持してきたこと、それと本書の上梓を生涯の誇りとします。本書を志半ばで倒れた同志に捧げます。


第3496話 2025/06/13

東日流外三郡誌の逆襲

     再校ゲラが到着

 八幡書店から刊行する『東日流外三郡誌の逆襲』再校ゲラのPDFが届きました。当初予定していた200頁を大幅に超え、430頁ほどの大著となりました。

 これは『列島の古代と風土記』(『古代に真実を求めて』28集、定価2200円+税)の二倍ほどです。価格も四千円くらいになるかもしれません。少しでも価格を抑えるため、わたしは献本のみで、印税はいただかないことにしました。誠に申し訳ありませんが、執筆していただいた方々にも献本だけとなります。ごめんなさい。

 これから一週間ほどで全ページの校正をしなければなりませんが、6月22日(日)には大阪講演会や「古田史学の会」会員総会も控えているので、お酒を断ち、睡眠時間を削って間に合わせようと思います。取り急ぎ、執筆者にはPDFファイルを転送し、各自の論文校正をお願いしました。執筆者校正はこの再校ゲラが最後で、第3校ゲラの校正は八幡書店とわたしで行う予定です。それが済むと印刷・製本に入ります。もう一息です。

 再校ゲラを読んでいて、末尾の方に掲載された八幡書店の武田社長との対談録が思っていたよりも面白く、かつ両者の興味、微妙な意見の食い違いや、激しく同意している様子もうかがえ、版元と著者の関係を越えた、人としての志や熱を感じました。読者にもきっと受け止めていただけるのではないでしょうか。冥界の古田武彦先生にも喜んでいただければ嬉しいのですが、「こんなレベルではダメ。もっと真実に迫りなさい」と叱られるだろうなとも思っています。それでも、少しでも学恩に報いることができればと願っています。


第3483話 2025/05/07

八幡書店・武田社長との対談録

 八幡書店から刊行する『東日流外三郡誌の逆襲』に収録する、武田社長との対談録の原稿が先日届き、校正追記して送り返しました。A4版で40枚の原稿となり、大変な作業でしたが、その甲斐あって面白い対談録になりました。

 和田家文書の信頼性や偽書の定義など、武田社長とわたしの見解の差なども随所にあらわれており、読者にも楽しんでいただけるものと思います。一言でいえば、和田家文書を文献史学の視点から研究するわたしと、伝承文学として捉えようとする武田社長との差異といってもよいかもしれません。ただ、偽作説に対する批判や憤りは共感しており、とても楽しく有意義な対談録になりました。校正に当たっては、そうした会話体の雰囲気を損なわないよう、かつ読者が理解しやすいような修正にとどめました。

 その後も武田社長から毎晩のように内容確認や相談の電話が続いています。後世に残す一冊にしようとする熱意が感じられ、わたしも同じ気持ちですので、連日、初校ゲラの修正を行っています。かなりの修正件数となり、発行を少し遅らせてでもゲラ校正作業を一回増やす必要を感じています。

 刊行後、東京や青森で出版記念講演会を行う予定です。武田社長は青森の講演会にも参加したいとのことでした。本を世に出すにあたり、執筆者と版元の情熱と息が合うことの大切さを改めて知ることができました。NHK大河ドラマ「べらぼう」の〝蔦重〟の気持ちが少しはわかったような気がします。

『東日流外三郡誌の逆襲』構成
●まえがき
•『東日流外三郡誌』を学問のステージへ 古田史学の会 代表 古賀達也
•『和田家文書研究のすすめ』 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
•『東日流外三郡誌の逆襲』の刊行に寄せて 古田史学の会・仙台 原 廣通
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●目次
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プロローグ

第1章 東日流の新時代を拓く 弘前市議会議員 石岡ちづ子
第2章 和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
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第一部 真実を証言する人々

第3章 『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
第4章 真実を語る人々 古賀達也
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第二部 偽作説への反証

第5章 知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
第6章 実在した「東日流外三郡誌」編者 ―和田長三郎吉次の痕跡― 古賀達也
第7章 伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
第8章 和田家文書に使用された和紙 古賀達也
第9章 和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也
第10章 「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の「和田家文書」調査― 古賀達也
第11章 新・偽書論 「東日流外三郡誌」偽作説の真相 日野智貴
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第三部 資料と遺物

第12章 石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
第13章 役の小角史料「銅板銘」の紹介 古賀達也
第14章 和田家文書の戦後史 古賀達也
第15章 和田家文書デジタルアーカイブへの招待 藤田隆一
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第四部 和田家文書から見える世界

第16章 宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
第17章 二戸天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
第18章 中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
第19章 『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
第20章 浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
第21章 浄土宗の『和田家文書』批判を糺す —金光上人の入寂日を巡って— 安彦克己
第22章 大神神社の三つ鳥居の由来 秋田孝季集史研究会 事務局長 玉川 宏
第23章 田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子
第24章 秋田実季の家系図研究 冨川ケイ子
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○巻末特別対談 東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元・古賀達也
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あとがき 謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ― 古賀達也


第3479話 2025/04/25

『東日流外三郡誌の逆襲』謝辞に代えて

 ―冥界を彷徨う魂たちへ―

 5月末刊行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』のために書き下ろした「謝辞に代えて ―冥界を彷徨う魂たちへ―」掉尾の一節を紹介します。

【以下、転載】
七、冥界を彷徨う魂たち
あるとき、古田先生はわたしにこう言われた。「わたしは『秋田孝季』を書きたいのです」と。東日流外三郡誌の編者、秋田孝季の人生と思想を伝記として世に出すことを願っておられたのだ。思うにこれは、古田先生の東北大学時代の恩師、村岡典嗣(むらおかつねつぐ)先生が二十代の頃に書かれた名著『本居宣長』を意識されてのことであろう。

 それを果たせないまま先生は二〇一五年に逝去された。ミネルヴァ書房の杉田社長が二〇一六年の八王子セミナーにリモート参加し、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされた。恐らく、それが『秋田孝季』だったのではあるまいか。先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければならない。その一著が世に出るまで、東日流外三郡誌に関わった人々の魂は冥界を彷徨い続けるであろうから。〔令和六年(二〇二四)四月十日、筆了〕

【写真】『東日流内三郡誌』と『東日流外三郡誌』。(明治写本)