考古学一覧

第2501話 2021/06/24

年輪年代測定値の「100年誤り」説 (1)

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が指摘された、炭素14年代測定での国際補正値と日本補正値とで、弥生時代や古墳時代では100年程の差が生じるケースについて調査していましたら、年輪年代測定値もAD640年以前では実際よりも100年古くなるという見解があることを知りました。鷲崎弘朋さんという方の説で、「考古学を科学する会」という団体のサイト(注)に次の記事がありました。

【以下転載】
第80回 2019年5月24日 年輪年代法による「弥生古墳時代の100年遡上論」は誤り(鷲崎弘朋)

 年輪年代法で、弥生中後期および古墳開始期が通説より100年遡上した(池上曽根遺跡等)。しかし、肝心の標準パターンと基礎データは非公開でブラックボックス。また、飛鳥奈良時代の建造物でAD640年以前を示す事例(法隆寺五重塔等)は、記録と全て100年以上乖離があり100年修正すると整合する。
 光谷実拓氏のヒノキ新旧標準パターンのうち旧パターンは飛鳥時代で接続を100年誤り、弥生古墳時代の100年遡上は全てこの誤った「旧標準パターン」に起因する。なお、新標準パターンは正しいが、古代の測定事例はまだほとんど無い。

①旧標準パターン:1990年作成(BC317~AD1984) 全国各地のパターンの寄せ集め。
②新標準パターン:2005~2007年作成(BC705~AD2000) 木曽系ヒノキだけで2700年間をカバー。
 (後略)
【転載終わり】

 わたしは年輪年代測定法は1年単位で年代が判断できる優れた方法と評価してきましたので、この鷲崎さんの指摘に驚いています。もちろん、その当否を判断できるほどの知見を持っていませんので、何とも言えないのですが、もしこの指摘が妥当であれば、古田学派での研究や諸仮説についても影響を受けるものがありそうです。知り合いの考古学者にたずねてみたところ、鷲崎さんの説は有名で、考古学界内では賛否両論があるとのことでした。(つづく)

(注)考古学を科学する会 https://koukogaku-kagaku.jimdofree.com/%E6%A6%82%E8%A6%81%EF%BC%98/80/


第2500話 2021/06/23

関川尚功さんとの古代史談義(3)

―なぜ古墳から木簡が出土しないのか―

関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は様々な問題意識をお持ちで、その中に〝なぜ古墳から木簡が出土しないのか〟というものがあり、わたしも同様の疑問を抱いていたので、意見交換を行いました。
国内で出土した木簡は7世紀中頃のものが最古で、紀年が記されたものでは、前期難波宮址の「戊申年」(648年)木簡が最も古く(注①)、次いで芦屋市の三条九之坪遺跡からの「元壬子年」(652年、九州年号の白雉元年)木簡があります(注②)。
一般的には水分を多く含んだ地層から出土しており、普通の地層では木簡は腐食し、残りにくいとされています。古墳石室内の環境では腐食が進み、木簡が遺らないのではないかと推定しています。あるいは木簡を埋納する習慣そのものがなかったのかもしれません。
他方、中国では漢代の竹簡が出土しており、油分を含む竹であれば材質的に遺存しやすいようにも思います。ところが、関川さんによれば、古墳時代の日本には竹簡に使用できるような竹がなかったとのことでした。孟宗竹のわが国への伝来は遅かったということを聞いたことはありますが、竹取物語など竹に関する古い説話(注③)があるので、古代から竹は日本列島にあったのではないかと文献を根拠に反論すると、「古墳から出土しない以上、古墳時代の日本には竹は伝来していなかったと判断せざるをえない」と、関川さんは考古学者らしく、出土事実に基づいて説明されました。しかし、鏃が出土しているので、細い〝矢竹〟はあったはずとのことでした。
古代の日本と中国における木簡と竹簡の採用事情が、情報記録文化の差によるものか、湿度などの自然環境の差によるものなのか、興味深い研究テーマです。先行研究論文などを読んでみることにします。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」419話(2012/05/30)〝前期難波宮の「戊申年」木簡〟
古賀達也「洛中洛外日記」1984~1985話(2019/09/07-08)〝難波宮出土「戊申年」木簡と九州王朝(1)~(2)〟
②古賀達也「木簡に九州年号の痕跡 ―「三壬子年」木簡の史料批判―」『「九州年号」の研究 ―近畿天皇家以前の古代史―』ミネルヴァ書房、2012年。
古賀達也「『元壬子年』木簡の論理」同上。
③『万葉集』(巻十六、3791番長歌の詞書)に「竹取の翁」の説話が見える。


第2499話 2021/06/22

関川尚功さんとの古代史談義(2)

―古墳の巨大化は畿内から―

 6月19日の古代史講演会後の関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)との古代史談義の一つに、〝古墳の巨大化〟についてがありました。関川さんによれば、古墳が巨大化するのは大和からであり、弥生時代の先進地域である北部九州ではないとのこと。なぜ大和で最初に古墳が大型化したのか、その理由の解明が必要とされました。
 おそらく、通説では大和で自生した大和政権(後の大和朝廷)が箸墓古墳などの大型前方後円墳を造営し、全国に影響力を拡げたということになるのですが、古田説(九州王朝説)ではこの現象をあまりうまく説明できていません。従来は、高句麗との交戦状態にあった九州王朝(倭国)には、大型古墳を造営する余力がなかったためと説明してきました。古田学派内ではこの説明で納得してもらえるのですが、通説を支持する人への説得力は残念ながら有していません。なぜなら、〝列島内最大規模の巨大古墳群を造営できる大和・河内の勢力こそが列島の代表王朝〟とする単純簡明な論理構造が「頑強」だからです。
 関川さんは、通説とも異なる視点でこの問題を考えておられました。畿内大和の箸墓古墳などを造営した勢力は、北部九州の鉄器製造技術を受容し、東海地方や吉備の土器も多数出土することから両地域の影響も色濃く受けています。他方、古墳を大型化する〝文化・風習〟は山陰・北陸などの弥生時代の大型墳丘墓の影響を受けたのではないかとされました。
 こうした古墳時代前期の大和の考古学的事実は、どのような歴史的背景の存在があって成立したのか、多元史観・九州王朝説による説明が必要です。(つづく)


第2497話 2021/06/20

関川尚功さんとの古代史談義(1)

―炭素14年代測定の国際補正値と日本補正値―

 昨日、奈良新聞本社ビルで開催された古代史講演会(注)での関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の講演は、考古学者として出土事実にこだわる氏の気概と熱意、そして学問に対しての誠実なお人柄を感じさせるものでした。講演会後の懇談の場においても様々な知見を紹介していただきました。また、関川さんは長野県出身とのことで、古田先生が松本深志高校で教鞭をとっておられたことをご存じでした。そうしたこともあって、会話が弾みました。そこでの貴重な意見や古代史談義を紹介します。
 関川さんの一貫した主張は、考古学は出土事実に基づかなければならず、文献史学や理化学に〝寄りかかる〟のではなく、それぞれが対等な立場で切磋琢磨すべきというもので、考古学者として真っ当なご意見と思いました。その上で、それぞれの結論が一致すれば、より強力な見解となり、異なっていれば更に研究・検討を深めることになるとのこと。わたしも、この考え方や姿勢に大賛成です。
 講演でも、炭素14年代測定値について、国際標準補正値(IntCal)と日本補正値(JCal)とでは、弥生時代から古墳時代にかけてズレが大きく、国内の出土物の場合はより正確な国内補正値を使用しなければならないと指摘されました。たとえば、纒向遺跡出土物(桃の種)の測定に国際補正値を使用すると古くなり(100~250年)、それが「邪馬台国」時代とする根拠に使われたりするが、国内補正値であれば4世紀となるので、「邪馬台国」大和説に有利となる国際補正値による年代発表は問題であるとされました。
 この他にも、大きな木材の場合は年輪差があり、サンプリング部位によっては遺跡より古い年代を示すことがあり(「古木効果」と呼ばれる)、測定値をそのまま遺跡の年代判定に使用すべきではないことを、同一遺跡の複数の測定値を示して指摘されたのが印象的でした。(つづく)

(注)「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)、奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 ―仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人―


第2495話 2021/06/18

「倭の五王」以前(3~4世紀)の銅鐸圏

 ―倭国(銅矛圏)と狗奴国(銅鐸圏)の衝突―

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)で、弥生時代の纒向遺跡がその終末期には銅鐸使用の終焉を迎えており、4世紀になると箸墓古墳の造営が始まったことを紹介されました。これは大和における〝銅鐸勢力の滅亡〟を意味する考古学的出土事実と思われます。
 古田先生が考古学について著された『ここに古代王朝ありき』(注②)を併せ読むと、弥生時代終末期には西日本各地の銅鐸勢力(狗奴国:古田説)が圧迫され、箸墓古墳などの前方後円墳を造営する勢力(倭国)が東へ東へと侵攻したことがわかります。
 こうした、銅矛勢力(倭国)から銅鐸勢力(狗奴国など)への軍事侵攻説話が『古事記』『日本書紀』中に記されていることを、古田先生は『盗まれた神話』(注③)で明らかにされてきました。近年では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が、近江の後期銅鐸勢力圏への侵攻説話が『古事記』『日本書紀』にあることを発表されました。〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」とは何か〟(注④)という論文で、近江の銅鐸圏への侵攻説話が神功紀(記)に取り込まれているとする仮説です。
 この正木説は有力と思うのですが、正木稿では近江の銅鐸圏征討の年代を3世紀末とされており、大和の銅鐸終焉時期を弥生時代末期とする関川説と整合しているのか、精査が必要です。いずれにしても、銅鐸圏を制圧しながら、古墳文化が東へと拡大を続けるわけですから、九州王朝の全国制覇の時代として古墳時代を検討する必要に迫られています。
 なお、通説ではこの現象を〝大和政権による全国統一の痕跡〟とするのですが、関川さんによれば、北部九州の鉄器製造技術が箸墓造営時期に大和に入ったとされますから、やはり古田説のように、北部九州の勢力が大和の勢力(神武の子孫ら)を伴って銅鐸圏を制圧しながら全国統一を進めたと理解せざるを得ないと思います。鉄器製造技術を北部九州から導入した大和の勢力が同時期にその北部九州にも侵攻し、前方後円墳を造営しながら、東西へ将軍を派遣し全国統一したとする通説は論理的ではありません。それでは、北部九州の勢力があまりに〝お人好し〟過ぎるからです。
 そうすると、大阪難波から出土した古墳時代中期(5世紀)最大規模の都市遺構(注⑤)は、九州王朝(倭国)による東征軍の軍事拠点とする理解へと進みそうです。この理解は、通説だけではなく、従来の古田説(近畿天皇家による関西地方制圧)にも修正を迫ることになりますので、別途、詳述したいと思います。

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第二章 銅鐸圏の滅亡」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
③古田武彦『盗まれた神話 記・紀の秘密』「第十章 神武東征は果たして架空か」朝日新聞社、昭和五十年(1975)。ミネルヴァ書房より復刻。
④正木裕〝神功紀(記)の「麛坂王・忍熊王の謀反」〟『古田史学会報』156号、2020年2月。
⑤杉本厚典「都市化と手工業 ―大阪上町台地の状況から」(『「古墳時代における都市化の実証的比較研究 ―大阪上町台地・博多湾岸・奈良盆地―」資料集』、大阪市博物館協会大阪文化財研究所、2018年12月)に次の解説がある。
 「難波宮下層遺跡は難波宮造営以前の遺跡の総称であり、5世紀と6世紀から7世紀前葉に分かれる。大阪歴史博物館の南に位置する法円坂倉庫群は5世紀、古墳時代中期の大型倉庫群である。ここでは床面積が約90平米の当時最大規模の総柱の倉庫が、16棟(総床面積1,450㎡)見つかっている。」
 南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年3月)には次の指摘がなされている。
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。」
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」


第2493話 2021/06/16

近畿の古墳時代開始の古田説と関川説

 「倭の五王」研究においては、文献史学と考古学の双方の整合と両立が不可欠です。特に考古学においては、古墳時代の編年の問題を避けては語れません。この点、古田学派の研究動向をみると、考古学分野の論考が残念ながら充分とはいえません。何よりも、わたし自身の勉強不足を痛感してきたからです。そうしたこともあって、元橿原考古学研究所員の関川尚巧さんの『考古学から見た邪馬台国』(注①)はとても勉強になっています。
 同書をもう十回近くは読みましたが、面白いことに気づきました。それは古田先生の見解と重要な部分で一致、あるいは対応しているケースが散見されることでした。一例をあげれば、近畿(畿内)における古墳時代の開始年代が一致しているのです。それは次の通りです。
 「洛中洛外日記」で紹介してきたところですが、関川さんは最古の大型前方後円墳とされる箸墓古墳の造営年代について次のように述べられています。

〝最古の大型前方後円墳である箸墓古墳の年代というものは、実際の所、前期後半とされる4世紀後半頃より大きく遡ることは考えられないということになる。〟『考古学から見た邪馬台国』131頁

 古田先生は『ここに古代王朝ありき』(注②)で、次のように説明されています。

〝噂はともあれ、確かなこと、それは”近畿の「弥生中期」「弥生後期」は九州の「弥生中期」「弥生後期」よりもおくれている”――この事実だ。そのことは当然、次のことを意味するであろう。”近畿の古墳時代の開始は、九州の古墳時代よりもおくれているのではないか”という問いだ。
 (中略)
 そしてそのことは、近畿における古墳時代の開始は、右の三一六年よりもあとに、ずれおちることを意味する。つまり、近畿における古墳時代の開始は、早くても、四世紀中葉を遡らない、ということになるのである。〟『ここに古代王朝ありき』251頁

 表現は若干異なりますが、両者とも従来説とは異なる視点により、近畿(畿内)の古墳造営開始を四世紀前半頃とされています。古田先生の著作は昭和五四年(1979)のものですから、四十年以上も前の論理的考察結果が、最新の橿原考古学研究所による考古学的発掘事実に基づいた、関川さんの見解にほぼ一致していることに驚きました。
 この一致は、ただ単に近畿(畿内)の古墳時代の開始年代にとどまるものではありません。というのも、古田先生は続いて次の重要問題を提起されているからです。

〝このことは一体、何を意味するか。――すなわち、応神ー仁徳ー履中ー反正ー允恭ー安康ー雄略の各「天皇陵」を、五世紀の倭の五王と結びつけてきた、あの時間帯の定点――考古学上の根本定式の崩壊である。〟『ここに古代王朝ありき』252頁

 このように「倭の五王」を考古学的に検証するにあたり、古墳時代編年そのものから検証し、論じなければなりません。これにはかなりの研鑽が必要となります。本年11月に開催される八王子セミナーまでに、どれだけ勉強が進むかはわかりませんが、古田先生の関連著作だけはしっかりと精読するつもりです。

(注)
①関川尚巧『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』「第四部 失われた考古学」朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。

※「考古学上の根本定式」などについては別の機会に詳述します。


第2489話 2021/06/13

古田学派における「倭の五王」研究

 大和の考古学的出土事実と倭人伝の史料事実に基づき、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)は「邪馬台国」大和説批判を圧倒的な説得力で展開されました。その関川さんによる4世紀と5世紀の歴史認識が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)にも少しだけ示されていますので、紹介します。

〝箸墓古墳と纒向遺跡の発展は4世紀
 このようにみると、箸墓古墳の造営が始まり、纒向遺跡が最も拡大化する庄内式末期から布留式の初めにかけての時期というものは、やはり4世紀に入ってからのことであろう。近畿大和に邪馬台国の痕跡というものが確認できない以上、ここに邪馬台国の同時代の箸墓古墳や纒向遺跡が存在するなどということは、ありえることではないからである。〟158頁

〝対外交流の盛んな大和・河内の5世紀
 このような対外的な交流をめぐり、大和地域の弥生後期・庄内期の遺跡と全く対照的な内容を示すのは、古墳時代中期・5世紀の状況である。
 5世紀は、中国宋王朝との通交が行われ、半島諸国とも大きな関わりをもつ、いわゆる「倭の五王」の時代である。この時期、大阪平野や奈良盆地には巨大古墳が群生し、当時の政権の中枢が近畿中部に存在したことは明らかである。
 そして古墳にみる副葬品はもちろん、この時期の遺跡を発掘すれば、それ以前にはみられなかった半島系の韓式・陶質土器や古式の須恵器、さらには馬の歯・骨などが出土するのである。
 この時代の大和・河内が、政治ばかりでなく、対外交流の面でも、その中心にあり、それと共に新来の文物が到来する様を、古墳や遺跡からまぎれもなく実感することができる。〟77~78頁

 このように、「邪馬台国」が北部九州にあったとする関川さんでも、4世紀には大和で政権が成立し、その政権が5世紀には「倭の五王」へ続くと理解されています。その根拠は他地域を凌駕する河内・大和の巨大古墳群の存在ですが、こうした結論に至る、関川さんの学問の方法は一貫しています。考古学的事実と文献史学における史料事実の解釈が整合すれば、その解釈を最有力説とする方法です。具体的には次のように述べられています。

〝箸墓古墳は墳丘長300m近い大型前方後円墳である。そして同じような墳形・規模をもつ古墳は、5世紀の百舌鳥・古市古墳群にもみることができる。これらの古墳群には、この時期最大級の現仁徳・応神陵を始めとする大型古墳がみられるが、その中には中国史書に倭国王として登場する人物の古墳が含まれていることは確実であろう。
 それならば、箸墓古墳は卑弥呼の墓ではありえない。箸墓古墳の被葬者は、このような倭国王と同じ系列の古墳につながる、大和政権にかかわりのある人物であるとしか言いようがないのである。〟163頁

 こうした関川さんの理解は、大和朝廷一元史観成立の最大の根拠になりつつあります。「邪馬台国」論争は、関川さんの著書に示されたように、ほぼ古田説と同方向(北部九州説)へと収斂しつつあるようですが、「邪馬台国」の後継勢力が4世紀に大和へ進出し、大和政権の基礎を築き、5世紀には圧倒的な巨大古墳群を築造した「倭の五王」に続くとする通説を形成しているのです。
 これこそ、わたしが提起した「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」(注②)の《一の矢》に他なりません。これは、古田先生が提唱された多元史観・九州王朝説を是とする、わたしたち古田学派にとって避けることのできない課題です。考古学的事実に基づいて成立した「倭の五王」=「河内・大和の巨大前方後円墳の被葬者」という通説に、どう対峙するのかが問われています。本年11月の八王子セミナーで、この問題についてどのような議論が行われるのかが、わたしにとっての最大の関心事です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「九州王朝説に刺さった三本の矢」(『古田史学会報』135、136、137号。2016年8、10、12月)、古賀達也「洛中洛外日記」1221~1254話(2016/07/03~08/14)〝九州王朝説に刺さった三本の矢(1)~(15)〟において、古田学派が説明しなければならないテーマとして、次の3点を指摘した。
【九州王朝説に突き刺さった三本の矢】
《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿(河内・大和)。
《二の矢》六世紀末から七世紀にかけての列島内での寺院(現存・遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿。
《三の矢》全国に評制施行した九州王朝最盛期の七世紀中頃において、国内最大の宮殿・官衙群遺構は北部九州(大宰府政庁)ではなく大阪市の前期難波宮(面積は大宰府政庁の約十倍。東京ドームが一個半入る)であり、国内初の朝堂院様式の宮殿でもある。


第2488話 2021/06/12

文献史学はなぜ「邪馬台国」を見失ったのか

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 考古学的出土事実と倭人伝の史料事実に基づき、「邪馬台国」大和説を鋭く批判している関川尚巧さん(元橿原考古学研究所員)ですが、肝心の「邪馬台国」の位置については、その論理的だった姿勢に揺らぎがみえます。たとえば、『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)には「邪馬台国」の所在について次の記述があります。

〝文献史学の大勢である邪馬台国九州説〟86頁

〝邪馬台国の位置問題についても、このような北部九州を起点とする、大きな文化の流れの中にあることは明らかで、その中で近畿中部の優位性を説くことは不可能である。〟160頁

〝邪馬台国は、このような対中国外交を専権として、他地域とは隔絶した内容をもつ、北部九州地域の中においてのみ出現することが可能であったと理解するのが、やはり順当な見方といえよう。
 このような趨勢においては、邪馬台国大和説は成り立つ術はないのである。〟161頁

〝当時の中国の政治情勢をみると、日本列島の中においては、九州以外に邪馬台国の存在を考えることはできないことになる。〟171頁

〝また、『魏志』は中国正史であるため、位置問題についても、それまで特に東洋史家を中心とした解釈と大局的な観点により、文献上からは、ほぼ九州説が大勢であるといえるのが主な邪馬台国論考を通覧してみた感想である。〟188頁

 このように、関川さんはご自身の専門分野である考古学だけではなく、文献史学・東洋史・地政学など多方面にわたる関連諸学の知見も取り入れて、「邪馬台国」の所在地を北部九州とされています。ところが、北部九州のどこかという問題には答えておられません。
 その理由は、文献史学の学者が、列島内最大規模の博多湾岸遺跡群を奴国(二万余戸)に比定してしまったため、奴国以上の規模(七万余戸)の「邪馬台国」(倭人伝原文は邪馬壹国)の候補地とできる弥生時代の大型遺跡など日本列島にはなく、そのために比定地を見失ってしまったことによります。その結果、関川さんは次のような結論へと向かわれました。

〝邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに超えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。〟180~181頁

〝卑弥呼の宮殿の行方
 このような遺跡の現状をみると、女王が都する所とされた邪馬台国中枢に相当する遺跡は、必ずしも湾岸地域にある奴国級の大型遺跡であると想定することはできないであろう。〟181頁

〝結論は、九州説の内容を肯定するというよりも、大和説は成り立たないという、いわば消去法による邪馬台国位置論という結果になった。〟187頁

 すなわち、関川さんのような文献にも詳しい考古学者でも、文献史学の〝誤解〟に躓かれたと言わざるを得ません。
 それではなぜ文献史学ではこのような結論、「邪馬台国」の位置不明となる博多湾岸「奴国」説に至ってしまったのでしょうか。それは、古田先生が『「邪馬台国」はなかった』(注②)で提唱された、魏西晋朝における「短里」(1里約76m)の概念が、古代史学界にはなかったことによります。倭人伝の里程記事は短里で書かれており、それによれば、邪馬壹国の位置は博多湾岸となり、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡群を倭国の都に比定でき、文献史学と考古学の結論が整合できるのです。
 関川さんの古代史講演会(注③)もいよいよ一週間後となりました。この奴国の位置比定の根拠と当否について、ぜひともお聞きしたいと思います。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
③「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13:30~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人


第2487話 2021/06/11

「邪馬台国」大和説と畿内説の落差

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「邪馬台国」大和説が成立しないとする根拠として、関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)か指摘された〝鉄器の証言〟〝伊都国の証言〟の他にも、いかにも実証的な考古学者らしい指摘が『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)にはあります。たとえば同書のタイトルにも用いられている「大和説」という表現です。学界では、ほぼ同じ意味で「畿内説」とも呼ばれていますが、関川さんは両者をあえて区別されています。次のとおりです。

〝畿内説と大和説
 邪馬台国の位置問題においては、九州説に対して近畿地方にその所在地を求める説を、畿内説と呼ぶことが多い。これは、主に近畿圏外からの呼び方という印象がある。
 しかし、近畿中部にあたる畿内と一言でいっても、その範囲は大和・河内・山城など、広域にわたっている。しかも、これら古代近畿の域内においても、かなりの地域差がみられるので、それらの遺跡や古墳を一律に扱うことはできない。畿内という名称自体も、以後の時代の用語である。
 また、近畿の中でも大和周辺地域では、ここ以外に邪馬台国の有力な候補地は挙げられてはいない。小林行雄も、邪馬台国の所在地を明確に大和としているので、ここでは大和説としておきたい。〟17~18頁

 このように述べ、具体的な地域差として、次の例をあげられています。

〝金属製品の少なさ
 大和地域の弥生遺跡から出土した鉄製品は、今のところ唐古・鍵遺跡では4点、そのほか六条山や三井岡原遺跡のような丘陵性遺跡出土の鉄鏃等、大型集落の平等坊・岩室遺跡の鉄斧をはじめ、総数10点余りにすぎない。隣接する大阪府下では、総数はすでに120点を超えており、それと比較しても格段に少ないというのが実態である。
 さらに、鉄器の製作にかかわる遺構や遺物は、まだ知られていない。大和では、弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示すものとなる。
 また、青銅製品については、調査例の多い唐古・鍵遺跡で32点が報告されている。(中略)この中で最も多いのは、24点の銅鏃であり、また銅鏡がほとんどみられないことも大和の弥生遺跡総体にみる傾向である。(中略)近畿の中で、その遺跡数をみると、河内を中心とする大阪府が10カ所を越えて最多となる。
 大和地域は、近畿圏の中で金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い。〟35~36頁

 このような関川さんの、いわば「内部告発」のような指摘を読んで、わたしは驚愕しました。〝弥生後期の始め頃までは石器が使用されており、鉄器の少なさは、その普及の状況を示〟し(注②)、〝金属器は少なく、また青銅器生産も盛んなところとは云い難い〟大和地域に、倭国女王(俾弥呼)の都、「邪馬台国」(原文は邪馬壹国)が存在したとする「邪馬台国」大和説なるものが、なぜ学問的仮説といえるのか、なぜ考古学界では多数意見となるのか、わたしには到底理解しがたいのです。
 「王様は裸だ」。これが、関川さんの著書を読み終えての、わたしの第一の感想です。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古田先生も『ここに古代王朝ありき』(朝日新聞社、昭和五四年〔1979〕)で、このことを指摘されている。


第2486話 2021/06/11

「邪馬台国」〝非〟大和説、伊都国の証言

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)を読んで、改めて気づかされた重要な論点がありました。その中でも、なるほど面白い視点と思ったのが「邪馬台国」と伊都国との位置関係についての次の指摘でした。

〝邪馬台国と伊都国
 『魏志』によれば、邪馬台国の外交は伊都国を窓口としている。ここには「一大率」が置かれ、また帯方郡使が留まり、さらに魏王朝からの重要な文書・賜物の点検が行われ、その後に邪馬台国への伝送を行うところであったという。この北部九州の伊都国から近畿大和までは、帯方郡から伊都国までの距離に及ぶほどの遠距離である。
 魏王朝との通交において直接かかわるような、きわめて重要な港津がある伊都国は、地理的に邪馬台国とは、かなり遠隔の地にあるとは考え難い。伊都国で厳重な点検を受けた魏の皇帝からの重要文書や多種多量の下賜品を、さらにまた近畿大和のような遠方にまで運ぶようなことは想定できないからである。
 これら国の外交にかかわる重要な品々の移動を考えれば、伊都国は邪馬台国と絶えず往還できるような、比較的遠くない位置にあったとみるべきであろう。〟177頁

〝仮に邪馬台国が大和であるならば、後の事例からみてその外港の位置は、おそらく河内潟や大阪湾岸地域であろうから、伊都国が外港である邪馬台国は大和ではありえない、ということにもなる。〟178頁

 倭国と魏王朝との外交の窓口(外港)とされる伊都国は、倭国の都である邪馬台国(原文は邪馬壹国)と遠くない位置になければならず、したがって、「邪馬台国」大和説は成立しないという論理は単純明快で、反論が困難です。このテーマは、『三国志』倭人伝に関する文献史学の論理的問題ですので、考古学者の関川さんからこうした指摘がなされていることに驚きました。このことが、同書を「わたしがこれまで読んだ考古学者による一般読者向けの本としては最も論理的で実証的な一冊」(注②)と評した理由の一つでした。(つづく)

(注)
①関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。
②古賀達也「洛中洛外日記」2480話(2021/06/06)〝邪馬台国畿内説の終焉を告げる〟


第2485話 2021/06/10

「邪馬台国」〝非〟大和説、鉄器の証言

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 古田先生は『ここに古代王朝ありき』(注①)において、考古学の視点から、邪馬壹国博多湾岸説の根拠として、漢式鏡・鉄器・絹などの出土量が大和に比べて北部九州が圧倒的に多いことを指摘されました。「邪馬台国」〝非〟大和説に立つ関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)も『考古学から見た邪馬台国大和説』(注②)で同様の見解を述べられています。

〝邪馬台国大和自生説の困難さ
 さらに、邪馬台国が大和において自生的に出現したというのであれば、すでに弥生時代の早い段階から近畿大和が北部九州より、対外交流や文化内容においても卓越性を持っていなければならないことになる。
 しかし、3世紀以前、時期を遡るほど北部九州の弥生文化は、中国王朝との交流実態を示す有力首長墓の副葬遺物を始めとして、近畿大和と比較にならないほどの内容をもっていることは明らかである。首長墓の地域比較においても、大和地域の墳墓が、北部九州に次ぐ瀬戸内・山陰・北陸地方の大型墳丘墓にも達していないという、その事実を認識する必要がある。古墳の出現年代を遡らせ、それを邪馬台国と結びつけるということは、むしろ近畿大和における邪馬台国の自生的な成立を、さらに困難にさせることになるのである。
 このことから、有力首長墓の存在が確認できず、さらに対外関係と無縁ともいえるこの時期の大和地域において、北部九州の諸国を統属し、積極的に中国王朝と外交を行った邪馬台国のような国が自生するということは、考え難いことといえよう〟147~148頁

 鉄器の出土について、次のように述べられています。

〝纒向遺跡の鉄器生産が示すもの
 先にふれたように、庄内式の終わり頃、纒向遺跡で出土した鉄器製作にかかわる鞴(ふいご)の羽口には、福岡県・博多遺跡群と同じ形のものがある。そして、ここでは半島南部の陶質土器も伴っている。これをみても、この時期の鉄器生産技術というものが、半島南部より北部九州を経て及んだものであることは疑いない。
 (中略)この博多遺跡群について重要なことは、遺跡の所在するところが、『魏志』にいう「奴国」の領域にあたることである。(中略)博多遺跡群における鉄器生産の規模は、この時期では列島内最大級という圧倒的なものである。北部九州から発する鉄器生産技術の広がりは、纒向遺跡のみならず、関東地方の遺跡まで及ぶという、はるかに広域な地域にわたっている。〟148~149頁)

 そして次のように結論されています。

〝纒向遺跡の鉄器生産が、箸墓古墳の造営が始まるような時期に、ようやく北部九州からの技術導入で始まっているという事実は、やはり鉄の問題においても、邪馬台国大和説とは相いれるものではないことを示しているといえよう。〟150頁

 長く大和の遺跡を調査されてきた著者の発言だけに、誰も無視することはできないでしょう。北部九州における鉄器生産規模が圧倒的であることは、考古学者であれば誰もが知っている事実です。以前、大阪の考古学者と意見交換したときも、その方は「邪馬台国」畿内説を支持されていましたが、鉄器に関しては北部九州説が有利であることを正直に認めておられました。(つづく)

(注)
①古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、昭和五四年(1979)。ミネルヴァ書房より復刻。
②関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説 ~畿内ではありえぬ邪馬台国~』梓書院、2020年。


第2484話 2021/06/10

「邪馬台国」〝非〟九州説の論理

–関川尚功『考古学から見た邪馬台国大和説』

 「邪馬台国」〝非〟大和説に立つ関川尚功さん(元橿原考古学研究所員)の『考古学から見た邪馬台国大和説』(注①)には、「邪馬台国」研究史における「邪馬台国」〝非〟九州説の発生根拠や論理ついても紹介されています。学問研究においては、自説と異なる意見やその背景となる根拠と論理構造を理解することは大切ですので(注②)、関川さんの著書はとても役立ちます。読者の皆さんにも一読をお奨めします。
 古田先生の『「邪馬台国」はなかった』(注③)によれば、江戸時代の松下見林以降の「邪馬台国」畿内説の背景として、〝古代より日本の代表権力者は近畿天皇家だけ〟とする皇国史観にあったことは明らかですが、さすがに現代では、そこまで露骨な理由は通用しませんので、どのような根拠に基づくのかを知りたいと思っていました。関川さんの著書には次のように説明されています。

〝邪馬台国「七万余戸」と弥生遺跡
 邪馬台国の所在地を北部九州の域内とすると、九州説の難点とされる主な理由に、『魏志』に伝える邪馬台国の戸数、「七万余戸」の記述がある。邪馬台国九州説においては、遺跡に対する異論が多い。その大きな理由は、邪馬台国時代の北部九州においては、戸数「二万余戸」の奴国、あるいは伊都国をはるかに越える遺跡は認め難い、ということである。
 それは大正期以来、北部九州の遺跡踏査を重ねた中山平次郎(1871~1956)が、九州説の有力候補地である筑後山門には際だった遺跡がみられないとし、邪馬台国九州説を否定した大きな理由である。
 当時、九州考古学の現状に最も通じた中山が、この踏査の結果を以て邪馬台国山門説を支持するのであれば、考古学上から中山の見解を否定することは、かなり困難な状況であったであろう。
 小林行雄も、「三世紀のことはわからないが、一、二世紀でも、また四、五世紀でも、九州地方に奴国より戸数の多い国がありえたとすることは、考古学的には不可能である。これは邪馬台国九州説にとって、致命的ともいえる難点となろう。」と述べている(小林行雄『女王国の出現』)。(中略)
 邪馬台国の戸数、「七万余戸」の文言は、文献上のことである。奴国をはるかに越えるという大遺跡は、弥生時代の北部九州・近畿大和、いずれの地域においても認め難いといえそうである。〟179~181頁

 この説明を読んで、わたしは「なるほど」と思いました。博多湾岸の遺跡を奴国とする以上、それ以上の規模の弥生時代の遺跡などおそらく日本列島にはないと思われます。すなわち、文献史学において、博多湾岸を奴国と比定したことが根本的な誤りであり、その結果、その文献史学の誤った通説に基づいて、考古学者が出土事実を解釈したことが、「邪馬台国」〝非〟九州説の成立根拠と経緯だったわけです。
 古田先生が『「邪馬台国」はなかった』で述べられたように、『三国志』の時代に「奴」の字が「な」と発音されていた形跡はありません。倭人伝では、「な」の音に「難」「那」の字が当てられており、奴の字音は「ぬ」「の」「ど」が妥当とされました。したがって、後世に博多湾が「那(な)の津」と呼ばれていたことと結びつけて、博多湾岸を奴国に比定したことは、学問的な論証を経ていません。これは明らかに文献史学側の誤りでした。その結果、弥生時代最大規模の博多湾岸遺跡群を「二万余戸」の奴国としてしまい、「七万余戸」の邪馬壹国に比定できる規模の遺跡が〝所在不明〟になってしまったのでした。
 また考古学側も、国内最大規模の博多湾岸遺跡群を倭人伝中の国に比定するのであれば、最大戸数(七万余戸)の邪馬壹国がもっともふさわしいとする、考古学的出土事実に基づいた判断ができなかったことにも問題があります。
 なぜ、考古学側がこのような判断を現在でも採用しているのかについて、6月19日(土)に奈良新聞本社ビルで開催される関川さんの講演会(注④)の時にお聞きしてみようと思います。(つづく)

(注)
①関川尚功
②〝学問は批判を歓迎し、相手をリスペクトした真摯な論争は研究を深化させる〟とわたしは考えています。これは恩師、古田先生から学んだ学問の精神です。
③古田武彦『「邪馬台国」はなかった ―解読された倭人伝の謎―』朝日新聞社、昭和四六年(1971)。ミネルヴァ書房より復刻。
④「古田史学の会」他、関西の古代史研究団体の共催による古代史講演会。6月19日(土)13:30~16:30。奈良新聞本社ビル。
 講師 関川尚功さん(元橿原考古学研究所)
 演題 考古学から見た邪馬台国大和説 ―畿内ではありえぬ邪馬台国―
 講師 古賀達也(古田史学の会・代表)
 演題 日本に仏教を伝えた僧 仏教伝来「戊午年」伝承と雷山千如寺・清賀上人