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第793話 2014/09/27

佐藤優『いま生きる「資本論」』を読む

 最近、佐藤優さんの著書に興味を持ち、『いま生きる「資本論」』(新潮社・2014年7月)を読みました。佐藤さんは同志社大学神学部卒の元外交官で、2002年に背任などの容疑で逮捕され有罪となったことでも有名です。かなりの博覧強記の知識人で、なかなか尊敬できる人物のようです。
 『いま生きる「資本論」』は宇野弘蔵学派の立場からマルクスの『資本論』を講義した記録です。たいへんわかりやすく、かつ広く深い教養が随所に散りばめられた快書でした。わたしは学生時代にマルクス経済学の講義を半年だけ受けましたが、当時、母校(久留米高専)の図書館にはマルクス経済学の書籍は向坂逸郎さんの『マルクス経済学入門』(だったと思う)の1冊しかなく、その本を読んで自習しました。いくら理工系の学校とはいえ、マルクス関連書籍が図書館に 1冊しかなかったというのも驚きですが、下火になっていた学生運動の影響もあり、学生が「左傾化」するのを警戒されていたのかもしれません。
 二十歳前の若造だったころですから、ほとんど深く理解はできませんでしたが、社会の不平等や恐慌・貧困が資本主義という経済システムに原因するという指摘はとても新鮮でした。今回あらためて佐藤さんによる『資本論』解説を読み、年を重ねたこともありますが、学生時代とはかなり違った新鮮さを感じました。 こんなところが古典の魅力なのだと思います。ちなみに『資本論』の発刊は1867年、明治維新の前年です。日本人がちょんまげを結い刀をさしていた時代 に、マルクスはこの名著を書いたのです。これもすごいことですね。ちなみに、古田先生もわたしもマルクス主義者ではありませんが、マルクスを優れた思想家 の一人として尊敬しています。
 『いま生きる「資本論」』に『太平記』について次のような解説がありましたので紹介します。

 「日本でいうと室町より前の文献は、実証できない語り方になっています。室町以降は実証的になる。そんな時代の分水嶺が『太平記』です。『太平記』というのはハイブリッドなのです。現代人に繋がるところもあれば、古の神々の世界に繋がるところもある。(中略)
 一六世紀にフランシスコ・ザビエルをはじめとする宣教師たちが日本へたくさん来ました。あの人たちは『太平記』を読んで、日本語を勉強していた。マカオで日本語版の『太平記』が印刷されていたんです。(中略)『源氏物語』や『平家物語』の日本語では通用しないけれども、『太平記』の日本語はそのまま使えたから、宣教師たちはこの本で勉強したのです。」(114頁)

 わたしは始めて知るエピソードです。古代史研究で『平家物語』は読みましたが、『太平記』はまだ読んだことがありません。大著ですが、時間が許せば読んでみたくなりました。


第786話 2014/09/18

倭国(九州王朝)遺産・遺跡編

 今回の「倭国(九州王朝)遺産」は遺跡編です。すでに失われた遺跡も含めて、九州王朝にとって重要な遺跡を認定してみたいと思います。

〔第1〕太宰府条坊都市と「政庁」(紫宸殿)
 太宰府に条坊があったかどうか不明とされてきた時代もありましたが、現在では考古学的発掘調査により条坊跡がいくつも発見されており、疑問の余地はありません。その上で、条坊がいつ頃造営されたのかが検討されてきましたが、井上信正さんの研究により7世紀末頃には既に存在していたとする説が地元の考古学 者の間では有力視されています。さらに井上さんの緻密な研究の結果、大宰府政庁2期遺構や観世音寺創建よりも条坊の造営の方が早いということも判明しまし た。
 こうした一元史観に基づいた研究でも太宰府条坊都市の成立が藤原京と同時期かそれよりも早いという結論になっているのですが、わたしたち古田学派の研究によれば太宰府条坊都市の成立は7世紀初頭(618年、九州年号の倭京元年)まで遡ります。従って、わが国初の条坊都市は通説の藤原京ではなく、九州王朝の首都太宰府となります。
 大宰府政庁遺跡は3期に区分されていますが、2期が九州王朝の紫宸殿と思われます。「紫宸殿」や「大裏(内裏)」という字地名が残っており、同地はいわゆる「政庁」ではなく、九州王朝の天子の宮殿と見なすべきです。ただ、規模が王宮にしては小さいので、天子が日常的に生活する館は別にあった可能性もあり ます。
 2期の造営年代は使用されている瓦が主に老司2式とされるもので、観世音寺の造営と同時期かやや遅れた頃と推定されます。観世音寺の創建年を九州年号の白鳳十年(670)とする史料が複数発見されたことから、政庁2期の造営もその頃と考えられます。九州王朝の首都遺構ではありますが、まだまだ研究途上ですので、古田学派内での論議と解明が期待されます。

 *考古学的報告書などの用語は「大宰府」が使用されていますので、考古学的遺跡名としての「大宰府政庁」などについては、現地名や九州王朝の役所名の「太宰府」ではなく、「大宰府」を使用し、使い分けています。

〔第2〕水城(大水城・小水城・上津荒木水城)
 九州王朝の首都太宰府を防衛する国内最大規模の防塁施設が水城です。『日本書紀』天智三年条(664年)の記事により、水城は白村江戦(663年)後の 造営と通説では理解されていますが、理科学的年代測定(14C同位体測定)によれば、それよりもかなり早くから造営が開始されていたことが判明していま す。
 通常知られている水城(大水城)以外にも太宰府方面への侵入を防衛するために小水城も造営されています。さらには有明海側からの侵入を防ぐための上津荒木(こうだらき)水城が久留米市にあります。これら水城は「倭国(九州王朝)遺産」に認定するに値する規模で、現在でもその偉容を見ることができます(上津荒木水城は今ではほとんど残っていません)。
 ちなみに、この水城は鎌倉時代の元寇でも太宰府防衛に役だったことが知られています。

〔第3〕神籠石山城群
 水城と共に、九州王朝の首都太宰府や近隣の筑後国府・肥前国府を囲繞するような防衛施設(水源を内部に持ち、住民の収容も可能な大規模施設)としての神籠石山城群は九州王朝を代表する遺跡です。直方体の切石が山の中腹を取り囲む列石遺構は同じ規格で造営されていることから、統一権力者によるものと、一元史観の研究者からも指摘されてきました。瀬戸内海方面にも神籠石山城がいくつか点在しており、九州王朝の勢力範囲がうかがえます。
 水城や神籠石山城群の造営という超大規模土木事業は九州王朝の実力を推し量ることができます。文句なしの「倭国(九州王朝)遺産」です。

〔第4〕大野城
 太宰府の真北にある大野城は、首都防衛と水城が敵勢力に突破された場合、「逃げ城」としての機能も併せ持っています。大規模で頑強な「百間石垣」はその代表的な遺構ですが、山内にある豊富な水源や倉庫遺構群は長期の籠城戦にも耐えうる規模と構造になっています。首都太宰府の人々にとっては水城や神籠石山城とともに心強い防衛施設だったことを疑えません。逆から考えれば、当時の九州王朝や「都民」にとって恐るべき外敵の存在(隋や新羅、あるいは近畿天皇家)もうかがえます。
 近年の発掘や研究成果よれば、出土した木柱の年輪年代測定の結果、大野城が白村江戦(663年)以前に造営されていたことは確実です。このことは同時に 大野城が防衛すべき条坊都市太宰府もまた白村江戦以前から存在していたという論理的帰結へと至ります。従って、一元史観の通説で日本初の条坊都市とされてきた藤原京(694年遷都)よりも太宰府条坊都市の方が早いということになるのです。このことも多元史観・九州王朝説でなければ合理的で論理的な説明はできません。

〔第5〕基肄城(基山)
 太宰府の北にある大野城に対して、南方には基肄城(基山)があり、首都を防衛しています。基肄城は交通の要衝の地に位置し、現代でも麓を国道3号線と JR鹿児島本線が走っています。山頂からの眺めもよく、北は太宰府や博多湾方面、南は筑後や有明海方面、東は甘木や朝倉方面が望めます。また、太宰府条坊 都市の中心部の扇神社(王城神社)がある「通古賀(とおのこが)」は、真北(北極星)と基山山頂を結んだ線上にあり、太宰府条坊都市造営にあたり、基肄城 は「ランドマーク」の役割を果たした可能性もあります。九州王朝にとって重要な山城であったこと、これを疑えません。

〔第6〕筑後国府跡(含む曲水宴遺構・久留米市)
 倭の五王の時代、九州王朝は筑後に遷宮していたとする研究をわたしは発表したことがあります。筑後国府は3期にわたり位置を変えながら長期間存続していたことが判明しています。中でも「曲水宴」遺構は珍しく、九州王朝の中枢にふさわしい遺構です。高良山神籠石や高良大社なども、九州王朝中枢にふさわしいものでしょう。ちなみに高良大社の御祭神の玉垂命を祖先に持つ稻員家が九州王朝の王族の末裔であることは既に述べてきたとおりです。

〔第7〕鞠智城
 九州王朝研究で検証がまだ進んでいないのが鞠智城です。おそらく九州王朝による造営と思うのですが、古田学派内での調査検討はこれからです。あえて認定することにより、今後の研究を促したいと思います。

〔第8〕岩戸山古墳(八女古墳群)
 現在異論のない九州王朝の王(筑紫君磐井)の墓が岩戸山古墳です。おそらく八女丘陵に点在する石人山古墳・鶴見山古墳などは九州王朝の歴代の王の墓であることは確実と思われます。さらには三潴地方の御塚古墳なども倭の五王の墓ではないかと考えています。これらも含めて認定します。

〔第9〕装飾壁画古墳(珍塚古墳・竹原古墳・他)
 北部九州の装飾壁画古墳も九州王朝を代表する遺跡です。中でも珍塚古墳や竹原古墳の壁画は古田先生の研究により、その謎が解き明かされつつあり、貴重なものです。

〔第10〕宮地嶽古墳
 巨大な横穴式石室を持つ宮地嶽古墳は、その超豪華な副葬品(金銅製馬具・他)と共にダブル認定です。これも異論はないと思います。その石室内で九州王朝の宮廷雅楽である筑紫舞が舞われていたことも「倭国(九州王朝)遺産」にふさわしいエピソードです。

 以上の他にも認定するにふさわしい遺跡は数多くありますが、とりあえず「遺跡編」はここまでとします。なお、わたしが九州王朝の副都と考える前期難波宮も候補の対象ですが、検証過程の仮説ですので、今回は認定しませんでした。(つづく)


第784話 2014/09/13

倭国(九州王朝) 遺産10選

 書店で世界遺産を特集した本をよく見かけるようになりました。それにヒントを 得て、いつか「古田史学の会」でも『倭国(九州王朝)遺産』のような写真で紹介する九州王朝の遺跡や文物を紹介した本を出してみたいと思うようになりまし た。そこで、もし選ぶとしたら「倭国(九州王朝)遺産」として何がふさわしいだろうかと考えてみました。個人的見解ですが、ご紹介したいと思います。まず は金石文・出土品10選です。(順不同)

〔第1〕志賀島の金印
 やはり最初に認定したいのはこれです。倭国が中国の王朝に認定された記念碑的文物ですから。『後漢書』によれば光武帝が西暦57年に倭王に贈ったもので す。「倭国が南海(南米か)を極めた」ことに対する報償です。印文の「漢委奴国王」は、「かんのいのこくおう」あるいは「かんのいぬこくおう」と訓んでく ださい。「かんのわのなのこくおう」と「三段細切れ国名」として訓むのは誤りです。

〔第2〕室見川の銘板
 倭国産の銘板で、これも外せません。後漢の年号「延光4年」(125)が記されています。吉武高木遺跡の宮殿造営(王作永宮齊鬲)を記したものとして、これも九州王朝の記念碑的文物です。

〔第3〕日田市出土「金銀象嵌鉄鏡」
 国内では唯一の出土と思われる見事な象嵌で飾られた鉄鏡です。九州王朝内の有力者の所持品と思われます。金銀象嵌(竜)の他に赤や緑の玉もはめ込まれた見事な鏡です。中国製(漢代)のようです。

〔第4〕平原出土の大型「内行花文鏡」(複数)
 この圧倒的な量と大きさも「遺産」認定に値します。

〔第5〕七支刀
 今は石上神宮にありますが、百済王が倭王旨に贈った古代を代表する異形の名刀(剣)です。「旨」は倭王の中国風一字名称です。

〔第6〕福岡市元岡古墳出土「四寅剣」
 倭国産の、これも珍しい「四寅剣」を忘れてはなりません。九州王朝内の有力氏族に与えたものと思われます。九州年号「金光」改元の年(570)に造られたものです。

〔第7〕糸島市一貴山銚子塚古墳出土「黄金鏡」
 国内でも数例しかないという鍍金された鏡です。邪馬壹国の卑弥呼が中国からもらった「金八両」が使用されたのではないかと、古田先生は推測されていま す。なお、同じ鍍金鏡として熊本県球磨郡あさぎり町才園(さいぞん)古墳出土の鏡もセットで認定したいと思います。

〔第8〕江田船山古墳出土「銀象嵌鉄刀」
 これを認定しないと本年五月にお世話になった和水町の皆様にしかられます。九州王朝の有力豪族に与えられた有名な刀です。馬だけでなく魚や鵜飼いの鵜と思われる水鳥の象嵌も貴重です。

〔第9〕隅田八幡人物画像鏡(和歌山県橋本市)
 百済の斯麻王(武寧王)から倭王「日十(ひと)大王年」に贈られた鏡です。この「年」は倭王の中国風一字名称です。岡下秀男さん(古田史学の会・会員、 京都市)の研究によれば、倭王への贈呈品とするには文様の質があまり良くないという課題もあります。

〔第10〕宮地嶽古墳出土の金銅製馬具・他
 この圧倒的に豪華な副葬品は文句なしの認定ですが、北部九州からはこの他にも王塚古墳(桂川町)などからも素晴らしい副葬品が出土しており、それらもセットで認定したいと思います。

 以上、とりあえず「10選」ということで絞りましたが、この他にも認定したいものが数多くあります。また、卑弥呼がもらった金印も発見されれば間違いなく認定です。今回漏れたものは続編か番外編にでも紹介できればと思います。(つづく)


第782話 2014/09/10

再読

『昭和天皇独白録』

 『昭和天皇実録』が完成したこともあって、20年ほど前に読んだ『昭和天皇独白録』(文春文庫、1995年)を再読しました。同書は敗戦後の昭和21年に昭和天皇が側近らに語った発言を寺崎英成御用掛が記録したものです。
 敗戦直後の米軍占領下で、昭和天皇が側近に語った言葉ですから、「事後の感想、発言」という史料性格を有していますが、大日本帝国の開戦の「正義」が次のように記されています。

 「〔大東亜戦争の遠因〕この原因を尋ねれば、遠く第一次世界大戦后の平和条件の内容に伏在してゐる。日本の主張した人種平等案は列国の容認する処とならず、黄白の差別感は依然残存し加州移民拒否の如きは日本国民を憤慨させるに充分なものである。又青島還附を強いられたこと亦然りである。
 かかる国民的憤慨を背景として一度、軍が立ち上がった時に、之を抑へることは容易な業ではない。」(24~25頁)

 このような昭和天皇の発言が記されています。そして同書編集部による次の〔注〕が付されています。

 「大正八年(一九一九)、第一次大戦が終ると、平和会議が招集されて、連合国二十八カ国がパリに集まった。日本全権は西園寺公望。このとき各国の人種差別的移民政策に苦しんできた日本は、有色人種の立場から二月十三日に“人種差別撤廃”案を提出した。しかし、さまざまな外交努力にもかかわらず、日本案は四月十一日に正式に否決された。日本の世論は、この報に一致して猛反対でわき上がった。
 さらに大正十三年(一九二四)五月、アメリカはいわゆる「排日移民法」を決定する。それは日本にとって「一つの軍事的挑戦」であり、「深い永続的怨念を日本人の間に残した」ものとなった。日本の世論は憤慨以外のなにものでもなくなった。「アメリカをやっつけろ」「宣戦を布告せよ」の怒号と熱気に国じゅうがうまったといっていい。日本人の反米感情はこうして決定的となった。」(25~26頁)

 戦後の占領政策に基づく「戦後民主教育」により、日本国民はアメリカの「正義」と大日本帝国の「軍部の暴走」という「不正義」を「歴史」教育で学んできましたが、ことはそれほど単純ではなかったことが昭和天皇の独白録からもうかがえます。
 戦争は国家間の「正義」と「正義」の衝突であるという古田先生の定義から見れば、第一次大戦後の日本の「正義」(人種差別撤廃)と欧米の「正義」(人種差別)、中でもアメリカの「正義」(排日移民法)の衝突が太平洋戦争への布石の一つとなったことが見えてきます。同時に世界で有色人種を代表して日本のみが「列国」(白人帝国主義列強)と国際舞台で論戦していた歴史事実を、「戦後民主教育」では「なかった」ことにして日本国民には伏せられてきたこともわかります。
 歴史研究や歴史教育は自国の「正義」を超えた真実に基づかなければ、その国民は自国の「正義」のみに基づき、同じ誤りや失敗を繰り返し、「歴史は繰り返す」こととなりかねません。多元史観・フィロロギーは人類の未来の為に、真実の歴史に肉薄し、明らかにするという「学問の方法」「学問分野」です。わたしたち古田学派の真価が問われる時代なのです。


第781話 2014/09/09

『昭和天皇実録』刊行

と多元史観

 本日の朝刊各紙1面に掲載された『昭和天皇実録』完成記事を、感慨深く読みました。『日本書紀』を筆頭とする官選史書「六国史」以来、明治になってから天皇の「実録」が編纂されてきましたが、今回の『昭和天皇実録』は特別な性格を有しています。内容については新聞に解説されている以上のことはわかりませんが、歴史学的に見てとても興味深い「実録」になるはずと推定しています。
 なぜなら『日本書紀』に匹敵する時代の激変期の「実録」だからです。『日本書紀』編纂は九州王朝から大和朝廷への権力構造の激変(王朝交代)の時代に編纂されたため、その政治的必要性に貫かれた編纂方針、すなわち前王朝である九州王朝の存在を消すという方針がとられました。それは、当時では周知の歴史事実であった「九州王朝の時代」をなかったことにするという相当無理無茶なものでした。それほどに新たな権力者、大和朝廷にとって、無理でも無茶でもそうした史書を編纂せざるを得なかった事情があったのです。
 今回の『昭和天皇実録』も同様の権力構造の激変(敗戦による戦前と戦後の構造と意識の変化)が一人の天皇の時代に発生したことにより、編纂にあたり、かなり深刻な問題を抱え込んだはずです。それは、戦前の明治憲法下における天皇、タイを除けばアジアでほぼ唯一の完全な独立国家の君主としての天皇と、敗戦後の世界最強の米軍とその核兵器に自国の防衛と運命を委ねている「独立国」の「君主」として、どちらの大義名分に立った『昭和天皇実録』とするのか、国家事業としての編纂作業においてどちらの立場をとっているのかという問題です。
 古田先生の言葉「戦争は国家間の『正義』と『正義』の衝突である」という戦争の思想史的定義からすれば、戦前の大日本帝国が主張した「正義」があったはずですし、太平洋でアメリカの「正義」と衝突して戦争となりました。それは、歴史的に西へ西へと侵略を続け植民地化(ネイティブアメリカン・メキシコ・ハワイ・フィリピン・他)するアメリカの帝国主義時代の「正義」と、その西の果てにあった日本の自衛戦争という「正義」との対立の構図もあったはずですが、どちらの「正義」を昭和天皇は語ったのでしょうか。そして、「実録」ではどちらの昭和天皇の発言を「採用」しているのでしょうか。興味は尽きません。
 権力構造が劇的に変化した時代の史書である『日本書紀』を、わたしたち古田学派は多元史観の目で分析してきたように、今回の『昭和天皇実録』もそうした多元的歴史観・フィロロギーの目で読むことにより、現代日本の史書編纂官僚の意志(大多数の国民が「戦後民主教育」を受けた結果に形成された国家意志や国民意識の反映)を再認識し、現代日本の真実の姿を読みとることができるように思われるのです。
 何を「正義」として編纂されたのかを明らかにする、これこそ『昭和天皇実録』を研究する歴史家の責務ではないでしょうか。昭和天皇の「発言」として権威づけられた「正義」が、これからの日本と日本人に影響を与え続けるのですから。


第780話 2014/09/06

奴(な)国か奴(ぬ)国か

「古田史学の会」会員の中村通敏さん(福岡市在住)から、ご著書『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』 (海鳥社、2014年9月)が送られてきました。古田先生の邪馬壹国説の骨子がわかりやすく紹介されており、古田史学入門書にもなっていますが、著者独自の仮説(奴国の比定地など)も提示されており、古田先生に敬意を払いながらも「師の説にななづみそ」を実践された古田学派の研究者らしい好著です。
また、志賀島の金印の出自に関する古田先生の考察など、興味深いテーマも取り扱われています。中でもわたしが注目したのが、『三国志』倭人伝に見える国名の「奴国」の「奴」を「な」とするのは誤りであり、「ぬ」である可能性が高いことを論じられたことです。わたしも「奴国」や金印の「委奴国」の「奴」の 当時の発音は「ぬ」か「の」、あるいはその中間の発音と考えています。通説の「な」とする理解が成立困難であることは、古田先生も指摘されてきたところです。中村さんはこの点でも、独自の根拠を示しておられ、説得力を感じました。
なお、奴国の位置については『古代に真実を求めて』17集にも中村稿とともに正木稿が掲載されており、両者の説を読み比べることにより、倭人伝理解が深 まります。このところ古田学派による著書の出版が続いていますが、中村さんの『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』はお勧めの一冊です。

インターネット事務局案内

 中村通敏(棟上寅七)さんが主宰するホームページ(新しい歴史教科書(古代史)研究会)と『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』中村通敏著のPRです。

棟上寅七の古代史本批評 へ


第778話 2014/09/05

「古田武彦先生講演録集」を読む

 「古田史学の会」の友好団体「多元的古代研究会」(安藤哲朗会長)の事務局長の和田昌美さんから、同会の発足20周年記念に出版された「古田武彦先生講演録集」が送られてきました。同講演録には古田先生の三つの記念講演が収録されており、いずれも古田先生にとっても記念すべき次の講演の記録です。

「信州の古代文明と歴史学の未来」1979年9月13日、松本深志高校にて、「古田武彦と古代史を研究する会」発行の同会の冊子より再録

記念講話「岡田先生と深志」1990年、松本深志高校にて、同校発行校内誌より再録

記念講演「筑紫舞と九州王朝」2014年3月2日、アクロス福岡イベントホール、宮地嶽神社主催「筑紫舞再興三十周年記念イベント」にて

 いずれも古田先生にとっても記念すべき講演で、とてもよい出版企画となっています。なかでも1990年の「岡田先生と深志」は感慨深く拝読しました。古田先生にとって歴史研究とは何かというテーマにもふれられており、わたしも若い頃から何度も先生からお聞きした次のような言葉です。

 「歴史学の目標は私は予言にあると思います。何故かというと、結局、過去を勉強する、何のために--骨董いじりのような過去を勉強するか、言うまでもなく、人類の未来を知りたいから過去を勉強するわけです。現在という一点に立って、未来を知るためには過去を知ることによって過去から現在へ延長させると、その行く先の未来がどの方向に行くかが分ってくるわけです。その意味で歴史を学ぶ目標は、未来を知るためだと、私はこの点は一度も疑ったことはありません。」(78頁)

 「歴史学は人類の未来のための学問である」この言葉は古田先生から学んだ歴史研究の原点です。すべての古田学派や古田ファン の皆さんにも是非とも知っていただきたいと願っています。そういう意味でも、「多元的古代研究会」の20周年記念出版事業にふさわしい冊子でした。ご恵送たまわり、ありがとうございます。


第776話 2014/08/29

女王の国

 今日は大阪市で開催されたアラン・スィフト先生(Dr.J Alan Swift)の来日記念講演会(A personal journey investigating the chemistry and structure of human hair:毛髪の構造と化学研究にかかわってきた人生を振り返って)を聴講しました(主催:繊維応用技術研究会)。スィフト先生は毛髪やウールの構造解析研究における世界的な研究者で、イギリスのリード大学におられ、マンチェスター生まれとのこと。このたび50年ぶりに奥様とご一緒に来日されました。
 講演ではきれいな発音でゆっくりと話されたのですが、事前に配布されたレジュメやプロジェクター画像と通訳がなければ、わたしの英語力ではとても理解困難な学術講演でした。講演会後の懇親会ではご挨拶させていただきました。わたしのへたくそな英語が通じて、ホッとしました。
 今、スィフト先生の母国イギリスではスコットランドの独立運動が進められており、独立の是非を住民投票で決められるとのこと。分離独立が平和裏にルールに基づき住民投票で決められ、その結果を分離独立される側(UK、イングランド)も尊重し、受け入れるというのですから、さすがは民主主義のお手本のような国で、尊敬できます。このようなことは人類史上でも珍しいことでしょう。
 こうした平和的ルールに基づいて独立が認められる世界になれば、国際紛争はかなり減るのではないでしょうか。人類がそのような精神文化を獲得するに至るまで、あとどのくらいかかるのでしょうか。近年のロシアや中国の行いを見ると絶望感にとらわれますが、今回のスコットランドのような例を知ると、一縷の希望も見えてきそうです。
 女王陛下の国も「ブリテンの大乱」とも言うべき状況です。『三国志』倭人伝によれば倭国は卑弥呼を共立することにより、内戦を収束させ女王国として安定したようですが、西洋の現代の女王国はどのようになるのでしょうか。興味津々です。
 わたしはイギリス史は詳しくありませんが、イングランドとスコットランドが不仲なのは知っていました。各国の国歌の歌詞を調べたことがあるのですが、イギリス国歌(法律で決まっているわけではないようです)「ゴッド・セイブ・ザ・クィーン(キング)」の六番の歌詞になんと次のようなものがあるのです。
「激流の如きスコットランドの反乱を打ち破らん」
 スコットランド人にしてみたら、こんな歌詞が国歌にあったら、それはいやでしょうね。独立したいという気持ちもわかります。わたしたち日本人の感覚では 非常識な歌詞です。たとえば「君が代」の歌詞に「九州や北海道の反乱を打ち破らん」があることなど考えられないからです。
 ところが今回調べて知ったのですが、スコットランド人も負けていませんでした。なんと事実上の「スコットランド国歌」とされているものがあり、その歌詞に繰り返し次のようなフレーズ出てくるのです。

 スコットランド国歌「スコットランドの花」 (Flower of Scotland)
「エドワード軍への決死の戦い 暴君は退却し 侵略を断念せり」

 このエドワードとはイングランド王の名前です。イングランド国王を「暴君」と呼び、「侵略」を断念させたと、スコットランドでは歌われるのです。 ここまで双方が相手側を「国歌」でののしりあうのですから、分離独立というのもわからないこともありません。ただ、イギリス国歌は問題の六番は実際には歌われないときいています。
 西洋の女王国はこれからどうなるのでしょうか。仮にスコットランドが独立しても仲良くしていただきたいものです。そして民主主義のお手本を全世界に示していただきたいと願っています。


第772話 2014/08/24

「大文字焼き」は誤用か

 「洛中洛外日記」767話で、わたしは「大文字焼きがある如意ヶ岳が見え、送り火の日は大勢の見物客で夜遅くまでごった返します」と書いたのですが、熱心な読者のSさんから次のようなご注意をいただきました。それは、「五山の送り火」が正式名称で、生粋の京都人は「大文字焼き」とは言わない。外部の人が「大文字焼き」と言うことに対して、京都人は内心快く思っていない。という趣旨のご指摘でした。
 わたしの「洛中洛外日記」を読んでいただき、こうしたご意見をいただけることは大変ありがたいことと思っています。その上で、わたしはSさんに謝辞とともに次のような趣旨の返答メールを出しました。

(1)「大文字焼き」の正式名称が「五山の送り火」「大文字の送り火」とされているのはその通り。
(2)Sさんが言われるような見解は京都のガイドブックや「京都」関連本によく見かける内容である。
(3)わたしは4~6歳(昭和35年頃)ころ、京都市聖護院で暮らしており、そのころ「大文字焼き」を見た記憶がある。そのころから周囲の大人は「大文字焼き」と言っていたので、わたしも「大文字焼き」というようになった。
(4)生粋の京都人(下鴨神社付近で暮らしていた)である妻も「大文字焼き」と普通に言っている。

 このようなご返事を出したのですが、もしかするとわたしの記憶違いかもしれないと心配になり、聞き取り調査をすることにしました。そして今日までに次のような証言を得ました。

証言1(妻の親戚、70歳代、生粋の京都人)自分や周囲の人は「送り火」と言っている。「大文字焼き」とは言わない。
証言2(妻の知人、60歳くらい、生粋の京都人)自分が子供の頃、父親から「大文字焼きは誤りで、正しくは送り火である」と厳しく教えられてきた。
証言3(妻の母、80歳代、生粋の京都人)自分は「大文字焼き」とは言わない。
証言4(水野孝夫代表、70歳代、京都市下鴨生まれで京都大学卒)京都時代に何と言っていたか記憶はないが、「大文字焼き」という言い方に違和感はない。
証言5(西村秀己さん、60歳代、香川県出身)40年ほど昔、大阪で働いていた頃、京都によく行ったが京都人の友人は「大文字焼き」と普通に言っていた。
証言6(正木裕さん、60歳代、徳島県出身、京都大学卒)京大在学中、京都の友人は「大文字焼き」と言っていた。
証言7(服部静尚さん、60歳代、大阪府出身)自分が子供の頃から京都の人が「大文字焼き」と言っていた。「大文字焼き」という表現は縁起が悪いというような話を以前誰かから聞いた記憶がある。

 とりあえず、このような証言を得ることができました。これらの証言から次のようなことが推定できます。

1,京都には「大文字焼き」と言う人が少なくとも50年以上前からいた。
2.「大文字焼き」は間違いであり、「送り火」が正しいと主張する人も、少なくとも50年前からいた。
3.その結果、現代の京都には「大文字焼き」と普通に言う人、「送り火」という人、さらには「大文字焼き」は誤りであると主張する人が混在している。ただし、その割合は今のところ不明。
4,「大文字焼き」は誤りであると主張する人の意見が「正論」として各種機関・書籍に採用されている。

 なぜ現在のような状況が発生したのか、いつ頃から「大文字焼き」と言う京都人がいたのかが、今後の調査のポイントとなりそうです。
 どうしてこのようなことをわたしが気にするのかというと、『三国志』原文には「邪馬壹国」とあるにもかかわらず、「邪馬壹国」は誤りで「邪馬臺国」が正 しいとする意見が学界やマスコミで全面的に採用され、今では原文が「邪馬壹国」であることさえもほとんどの国民が知らないという状況です。このように、古田学派の研究者として、「権威」や「辞典」「マスコミ」「国家権力」が「正しい」としているからという理由だけで、それを鵜呑みにすることがわたしにはできないからなのです。
 この件、引き続き調査検討します。こうした機会を与えていただいたSさんに、改めて感謝いたします。


第768話 2014/08/17

シュリーマンが見た日本

 お盆休みの読書の最後の一冊として『シュリーマン旅行記 清国・日本』 (1998年、講談社学術文庫・石井和子訳)を読みました。10年ほど前に読んでいた本ですが、昨今の日本社会の食品偽装とか万引き事件などのニュースに接するたびに、昔の日本社会や日本人が持っていた倫理観が、現代では大きく変わってしまったと感じ、もう一度読み直すことにしました。
 ご存じの通り、シュリーマンはトロイ遺跡を発見した考古学者として有名で、その著書『古代への情熱』は歴史研究者であれば是非とも読んでいただきたい一冊です。シュリーマンはトロイ遺跡発見の6年前(1865年)に来日しており、その旅行記が『シュリーマン旅行記 清国・日本』です。
 シュリーマンは幕末の日本について、考古学者らしい観察力と西洋人としての視点から、その国情を記しています。特に日本人の誠実な倫理観と、他方、宗教心がうすいことを矛盾と感じ、困惑しています。クリスチャンとしてのシュリーマンの持つ「宗教心」と当時の日本人特有の「宗教心」が異なっていたため、 シュリーマンには理解できなかったのかもしれません。日本人の誠実さとして、次のようなエピソードが記されています。

 「船頭たちは私を埠頭の一つに下ろすと「テンポー」と言いながら指を四本かざしてみせた。労賃として四天保銭(13スー)を請求したのである。これには大いに驚いた。それではぎりぎりの値ではないか。シナの船頭たちは少なくともこの四倍はふっかけてきたし、だから私も、彼らに不平不満はつきものだと考えていたのだ。(中略)
 日曜日だったが、日本人はこの安息日を知らないので、税関も開いていた。二人の官吏がにこやかに近づいてきて、オハイヨ(おはよう)と言いながら、地面に届くほど頭を下げ、三十秒もその姿勢を続けた。
 次に、中を吟味するから荷物を開けるようにと指示した。荷物を解くとなると大仕事だ。できれば免除してもらいたいものだと、官吏二人にそれぞれ一分(2.5フラン)ずつ出した。ところがなんと彼らは、自分の胸を叩いて、「ニッポンムスコ」(日本男児?)と言い、これを拒んだ。日本男児たるもの、心づけにつられて義務をないがしろにするのは尊厳にもとる、というのである。おかげで私は荷物を開けなければならなかったが、彼らは言いがかりをつけるどころか、ほんの上辺だけの検査で満足してくれた。一言で言えば、たいへん好意的で親切な対応だった。彼らはふたたび深々とおじぎをしながら、「サイナラ」(さ ようなら)と言った。」(第四章「江戸上陸」、78~79頁)
 「彼ら(役人)に対する最大の侮辱は、たとえ感謝の気持ちからでも、現金を贈ることであり、また彼らのほうも現金を受け取るくらいなら「切腹」を選ぶのである。」(第六章「江戸」、146頁)

 この他にも日本のことを次のように記しています。

 「日本人が世界でいちばん清潔な国民であることは異論の余地がない。どんなに貧しい人でも、少なくとも日に一度は、町のいたるところにある公衆浴場に通っている。」(第四章「江戸上陸」、87頁)
 「もし文明という言葉が物質文明を指すなら、日本人はきわめて文明化されていると答えられるだろう。なぜなら日本人は、工芸品において蒸気機関を使わずに達することのできる最高の完成度に達しているからである。それに教育はヨーロッパの文明国家以上にも行き渡っている。シナをも含めてアジアの他の国では 女たちが完全な無知のなかに放置されているのに対して、日本では、男も女もみな仮名と漢字で読み書きができる。」(第七章「日本文明論」、167頁)

 シュリーマンが今日の日本社会を見たら、その旅行記に何と記すのでしょうか。次のように、また記してくれるでしょうか。

 「・・・・この国には平和、行き渡った満足感、豊かさ、完璧な秩序、そして世界のどの国にもましてよく耕された土地が見られる。」(第六章「江戸」、126頁)

 明日から、またハードワークの日々が続きます。ファンモンの「ヒーロー」を聴きながら頑張ります。


第766話 2014/08/15

終戦の日、雑感

 「終戦の日」の今日は、最近買ったばかりのファンモン(FUNKY  MONKEY BABYS)の3枚組アルバム「LAST BEST」を聴いています。昨年、惜しまれながら解散したグループで、プロ野球の田中将大選手のテーマ曲でもある「あとひとつ」やラストシングルとなった「ありがとう」、そして「サヨナラじゃなくて」「ちっぽけな勇気」「ヒーロー」などが好きな曲で、繰り返し聴いています。

 「終戦の日」のテレビの特別番組を見ると思うのですが、世界中で戦争に負けた日を「記念日」として、毎年国を挙げて「記念」している国は他にあるのでしょうか。「独立記念日」や「建国記念日」「戦勝記念日」を祝う国は多いと思うのですが、日本は特別なのでしょうか。考えてみると不思議な気持ちがします。
 先の戦争の敗戦は日本にとって初めての敗戦ではありません。みなさんはよく知っておられるように、663年の白村江戦で当時の倭国(九州王朝)は天子が捕虜となるほどの敗北を唐と新羅の連合軍に喫しました。敗戦後、唐の軍隊や使節が数千人単位で何度も筑紫に来たことが『日本書紀』に記されています。そして、倭国(九州王朝)から大和朝廷(近畿天皇家)に列島の代表者が交代しました。701年(大宝元年)のことです。
 鎌倉時代になると有名な元寇があり、対馬や博多湾岸は元軍の侵略により主戦場となりました。一般的には「神風」が吹き、博多湾で元の軍船は壊滅し、日本は救われたとされ、「神国日本」と言われるようになりましたが、だいぶ前に読んだ研究論文では、日本軍の勝利は「神風」だけではないという説が記されていました。勝因はいくつかあったようですが、一つは鎌倉武士がよく戦ったということがあります。そしてもう一つはなんと古代に築造された水城でした。
 わたしが読んだ論文によれば、博多湾の防塁は簡単に元軍に突破されてしまうのですが、鎌倉武士は苦戦しながらもよく戦い、元軍の猛攻に耐えながら水城まで撤退します。その水城で防戦し、結局、元軍は目的としていた大宰府攻略を目前にしながらも水城を突破できませんでした。そして日が暮れたのが幸いしました。元軍は敵地での野営は夜討ちの危険があるため、博多湾まで戻り、船中で夜を明かすことにしました。そのときです、博多湾に暴風雨が吹き荒れたのです。 そして、元軍の船舶は壊滅します。
 このように、研究者の論文が正しければ元寇を防いだ要因は鎌倉武士の勇敢さと古代九州王朝が築造した水城、そして「神風」だったのです。元寇ではこうした要因により奇跡的に勝利しましたが、白村江戦と先の大戦は敗北しました。これは歴史的必然だったのでしょうか。古代史研究と近代史研究はどのように結論付けるのでしょうか。こんなことを、終戦の日にファンモンを聴きながら考えています。


第760話 2014/08/06

研究者、受難の時代

 昨日、理研の笹井副センター長が自殺するという痛ましい事件が、とうとう発生してしまいました。「とうとう」と記したのは、こうした事態がいずれ引き起こされるのではないかと、わたしは危惧していたからです。いったい笹井さんは死ななければならないようなことをしたのでしょうか。たかだかイギリスの商業誌(「ネイチャー」は学会誌ではありません)に論文を一つ発表しただけで、なぜあそこまで叩きに叩き、死ぬまで追いつめる必要があったのでしょう か。いつから日本社会は法治国家ではなく「集団でリンチ」する国になったのでしょうか。
 NHKは小保方さんを女子トイレまで追いかけ回し、全治二週間の傷害を負わせ、小保方さん笹井さんを特別番組(クローズアップ現代)で犯人扱いし、死ぬまでバッシングを続けたのです。この際、NHKは「日本犯罪者協会」と名称を変えるべきでしょう。
 例によってNHKの意に添ったテレビに出たがる御用学者を使い、一方的な「解説」をさせ、学問的に決着が付いていない研究(STAP細胞・現象)に対して非中立的な報道を続けました。これは明らかに放送法第4条違反です。

放送法
(国内放送等の放送番組の編集等)
第四条  放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たっては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一  公安及び善良な風俗を害しないこと。
二  政治的に公平であること。
三  報道は事実をまげないですること。
四  意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

 NHKは放送法違反の報道や番組をこれまでも何度も放送してきました。和田家文書偽作キャンペーンのときもそうでした。古田先生と安本美典氏の討論番組で、安本氏にVTRの使用や多くの時間配分を行うなど、明らかにアンフェアな番組を放送したのです。このときはさすがにNHK関係者からも非難の声があがりました。
 今回は、優秀な研究者を自殺するまで、半年間にわたり叩き続けたのです。小保方さんにしても発表した論文中の80枚近くの写真うち、3枚に悪意のない過誤があったにすぎず、しかも正しい写真は存在し、結論にも影響しないというものでした。それを「研究不正」などと称してバッシングを続け、女子トイレまで追いかけ回しました。その論文を指導した笹井さんを死ぬまで追いつめ続けました。
 日本社会は放送局(特にNHK)や新聞社(特に毎日新聞)、週刊誌、御用評論家らが白昼堂々と何も犯罪を犯していない個人を「集団でリンチ」する社会になってしまいました。研究者受難の国、受難の時代です。安倍総理の言う「法による支配」はウソだったのでしょうか。「技術立国」など今後は望むべくもない でしょう。