現代一覧

第371話 2012/01/10

東北への稲作伝播と古田説

 『生物科学』(vol.62 No.2 2011)に佐々木広堂さんらが発表された、ロシア沿海州から東北へ水田稲作が直接伝播したという説を第370話で紹介しましたが、もしこの説が正しかったら、古田説とどのような関わりを持つか考えてみました。
 まず最初に思い起こされるのが、『出雲風土記』にある「国引き神話」との関係です。古田説によれば、この神話には金属器が登場していないことから、金属器以前の旧石器・縄文時代にまで遡る神話であり、しかもその内容は日本海を挟んでウラジオストックなど沿海州との交流を描いたものとされました。従って、 水田稲作が沿海州から東北地方へ直接伝わったとする佐々木説と矛盾しません。旧石器・縄文時代からの日本海を挟んだ交流の歴史を背景に、弥生時代に沿海州 から寒冷地で栽培できる稲作が東北地方にもたらされることは、十分に考えられることです。今後、沿海州から青森県砂沢水田遺跡と同時代の水田遺跡が発見さ れれば、佐々木説は更に有力なものとなるでしょう。
 古田説との関係でもうひとつ思い起こされるのが、和田家文書にあるアビヒコ・ナガスネヒコによる筑紫から津軽への稲の伝播に関する伝承です。
 古田先生によれば、筑紫の日向(ヒナタ)の賊(天孫降臨)に追われたアビヒコ・ナガスネヒコは稲穂を持って津軽へ逃げたとのこと。また、青森の水田遺跡 に福岡の板付水田との類似構造が認められており、両者の関係がうかがわれるとのことで、筑紫から直接津軽へ水田稲作技術が伝播したから、砂沢遺跡が関東な ど筑紫との中間地帯の水田遺跡より古いことも説明できるとされました。従って、和田家文書に遺された伝承は歴史事実を反映したものと説明されました。
 ところがこの古田説は先の佐々木説と対立しそうです。佐々木さんらは『生物科学』の論文で、「北部九州などで早生品種のイネであっても、そのモミをそのまま青森にもっていって水田稲作ができることにはならない。それは超晩生品種となって稔らない。」と北部九州から青森への直接伝播(海上ルート)を否定さ れています。
 わたしにはどちらの見解が正しいのかは、今のところわかりませんが、佐々木説にも説得力を感じつつ、それならばなぜ青森の水田と福岡の板付水田の構造が類似しているのかという説明が必要と思われました。
 ところで、今わたしは東武特急で新桐生から浅草へと向かっています。関東平野に沈む夕陽がとてもきれいです。


第370話 2012/01/10

東北水田稲作の北方ルート伝播

今日は東京に向かう新幹線の中で書いています。新幹線で上京のさいには富士山が見えるE席を予約するのですが、今回は残念ながらA席しか取れませんでした。冬の晴れた日の富士山の美しさは格別です。今朝はやや曇っているので、見えないかもしれません。
先日、「古田史学の会」草創の同志である仙台の佐々木広堂さんから『生物科学』(vol.62 No.2 2011)という専門誌が送られてきました。 同誌には佐々木さんと吉原賢二さん(東北大学名誉教授)の共同執筆による「東北水田稲作の北方ルート伝播」が掲載されていました。
同論文の主旨は、我が国への水田稲作は、従来中国江南地方や朝鮮半島から九州へまず伝播し、それから列島内を北上し、東北地方へも伝わったとされていま すが、そうではなく、東北地方へはロシア沿海州から直接伝播したとするものです。この主張は『古代に真実を求めて』誌上でも佐々木さんから発表されていた ものですが、今回は『生物科学』という専門誌に発表されたのですが、とても要領よくまとめられています。
ロシア沿海州ルートの主たる根拠は、青森の砂沢水田遺跡が仙台や関東の水田遺跡よりも古いということと、稲の寒冷地栽培が可能となるためには品種変異が 必須で、そのためには千年近くの長年月が必要ともいわれ、従来説では列島内北上スピードが早すぎるというものです。
わたしは専門外なのでこの佐々木説の当否をただちに判断できませんが、水田稲作伝播の多元説ともいうべきものであり、説得力を感じました。
なおもう一人の執筆者の吉原先生は高名な化学者であり、わたしもお名前はよく存じ上げていました。「古田史学会報」97号にもご寄稿いただいています。 電話やお手紙をいただいたこともありましたが、当初は有名な吉原賢二氏とまさか同一人物とは思わず、後になってそのことを知り、大変恐縮したことを覚えて います。吉原先生のことはインターネット上でも紹介されていますので、是非、検索してみてください。いろんな分野で古田先生を支持する人々がおられること に、とても心強く思いました。


第369話 2012/01/02

三社参り

皆様、新年おめでとうございます。京都に戻る新幹線の車中で書いています。久留米の実家で新年を迎えるたびに思うことがあります。それは九州では初詣の習慣として「三社参り」があることです。
わたしの子供の頃は、初詣として近所の神社と高良大社、そして太宰府天満宮の三社をお参りするのがしきたりでした。なぜ三社なのかは父親も教えてくれませんでしたが、子供心にも三社参らないと正月の行事をきちんと行った気がしませんでした。
ちなみに筑前の福岡あたりでは、太宰府天満宮・筥崎宮・宮地嶽神社の三社が、三社参りの定番とのことですが、誰がいつ決めたのかは知りません。おそらくは九州王朝の歴史にまで縁源があるのではないかとにらんでいます。
わたしはこの三社参りが九州のローカルな風習であることを、就職で京都に来るまで知りませんでした。恥ずかしながら、三社参りは日本全国の初詣の習慣だと、30歳頃まで思っていました。
ところで、先の宮地嶽神社ですが、九州新幹線に配備されているJR九州が作ったフリーペーパー「プリーズ」2012年1月号(No.296)に宮地嶽神社の特集があり、同神社にある宮地嶽古墳(7世紀造成と紹介)について、権禰宜の渋江公誉(しぶえ・きみたか)さんの説明として、「この古墳の王はこの地 を治めた王朝の王であろうと思われます。ただこのように、この時代に特に貴重な黄金や瑠璃をふんだんに使用した出土品を見れば、この地を支配した氏族が繁栄し、富を持っていたことは一目瞭然です。当時の日本において、相当の力を持っていたことは間違いありません」と紹介されています。
大和朝廷一元史観による通説では、宮地嶽古墳は「大和朝廷支配下の北部九州の豪族の墓」とされているのですが、権禰宜の渋江さんは、この地を治めた「王朝」の王の墓と説明されているのです。これこそ九州王朝説に他なりません。おそらく渋江さんは古田先生の九州王朝説をご存じのことと推察しました。
どうやら、古田史学・九州王朝説はわたしたちの思っている以上に、深く広く静かに浸透しているようです。新年も古田史学にとって、すばらしい一年になりそうな予感がしています。


第368話 2011/12/31

平成23年の回顧

 平成23年も最後の一日となりました。我が国にとって今年は非情で沈痛で困難な年でした。東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りし、被災地の復興を祈念しながら、「古田史学の会」の一年を振り返りたいと思います。
 全くの個人的学問的感想となりますが、ご紹介いたします。まず第一はやはり『「九州年号」の研究』の編集作業と上梓です。刊行企画から上梓まで三年ほど かかりました。会員の皆さんにはお待たせしたことをお詫びします。それから、編集作業を進めていただいたミネルヴァ書房の田引さんにあらためて感謝いたし ます。自画自賛となりますが、九州年号の研究書は近年他に類書もなく、後世に残る一冊と自信を持っています。
 第二は、福岡市から出土した「大歳庚寅年」銘鉄刀が四寅剣だったことが解明されたことです。朝鮮半島の伝統的剣である四寅剣が九州王朝にもあったこと と、九州年号「金光」改元との関係が推測できることなど、九州王朝研究にとってもすばらしい金石文の発見でした。
 第三は、百済人祢軍墓誌拓本の出現です。七世紀末の『日本書紀』にも登場する祢軍の墓誌という第一級史料の出現は、九州王朝から大和朝廷への王朝交代を研究する上で画期的な事件でした。本格的研究の幕開けが楽しみです。
 第四は、九州年号史料に見える「始哭」や『二中歴』に記されていない「法興」「聖徳」年号についての新たな仮説が正木さんから発表されたことです。『「九州年号」の研究』の続編を出すときには収録したい研究成果の一つです。
 第五は、太宰府の観世音寺の創建年について『勝山記』に白鳳十年と記されていることの「発見」です。『二中歴』には白鳳年号の細注に「観世音寺東院造」 とありますが、具体的な年次が不明でした。とところが『勝山記』には白鳳十年(670)の項に「鎮西観音寺造」とあり、具体的な年次が判明したのでした。 太宰府政庁や条坊の編年研究にも貴重な史料となるでしょう。
 この他にも優れた論稿が会報や会誌で発表されましたが、何といっても古田先生が畢生の書とされた『卑弥呼』が刊行されたことです。古田先生の四十年にわ たる邪馬壱国研究の総決算ともいうべき一冊で、古田学派必読の書です。わたしも年始には再読します。
 それでは皆様、新年が良き年でありますように。


第367話 2011/12/30

九州王朝と筑紫王朝

 九州新幹線「さくら」で帰省中です。グリーン車並の四列座席ですから、山陽新幹線よりも絶対お得です。今、博多駅を通過したのですが、社内の停車駅の説明アナウンスが、それまでの日本語と英語の他に、韓国語と中国語でもされています。九州に帰ってきたのだなと、実感されま す。
 近年、古田説や多元史観支持者から多くの著書が発刊されていますが、学問的にも大変喜ばしいことだと思います。ただ、その中で九州王朝のことを「筑紫王朝」と表現される方も少なからず目にします。筑紫王朝という表記が必ずしも誤りというわけではありませんが、学問的厳密性から見れば、微妙だと思います。
 古田先生の『失われた九州王朝』をしっかりと読まれた方はご理解いただけると思いますが、古田先生がなぜ「筑紫王朝」ではなく九州王朝という表記にされたのかというと、九州島が「九州」と現代も呼ばれていることを、天子の直轄支配領域としての政治用語である「九州」との関係で重視されたからです。
 すなわち、筑紫という北部九州の小領域の権力者ではなく、九州島全体を直轄支配領域とした九州島の権力者という視点を重視され、その結果、筑紫王朝ではなく九州王朝という政治概念と呼称を自説に採用されたのです。ですから、古田学派の研究者の皆さんには、是非、九州王朝という表記を使っていただきたいと思っているのです。もちろん、強制すべきことではありませんが、わたしは論者の学問的厳密性への意識や認識を判断するうえでの一つの基準としています。
 ただし、天孫降臨直後であればまだ九州一円の平定以前ですから、学問的に正確に限定したいという立場で、その期間の九州王朝に限り「筑紫王朝」という表記を使用されるということであれば、それには大賛成です。
 なぜそんな細かいことを、と思われる方もおられると思いますが、学問的な深化や展開を考えたとき、たとえば九州王朝という表記であれば南九州の「隼人」 を九州王朝天子の直轄支配の「民」と見なすべきという論理性が明確になるのですが、「筑紫王朝」という表記ではこうした概念があいまいとなり、歴史研究において不正確な認識や誤った仮説の提示を促しかねないからです。
 単なる名称表記の問題ととらえるのではなく、古田先生が学問的に考え尽くされて選ばれた言葉が「九州王朝」であるとの思いに至っていただければ幸いです。
 なお、九州王朝が自らの国名を何と呼んでいたのかは、史料根拠に基づいての考察が必要です。これは「九州王朝」という学術用語の選定とはまた別の問題ですから。


第366話 2011/12/29

2012年新年賀詞交換会のご案内

新年の1月14日(土)に、恒例の「古田史学の会」新年賀詞交換会を古田先生をお招きして開催します。開会は午後1:30から、会場は「大阪市立市民交流センターひがしよどがわ」で、新大阪駅の近くです。
冒頭、水野代表や地域の会、友好団体からの参加者のご挨拶の後、古田先生よりご挨拶と講演をしていただくことになっています。ふるってご参加下さい。講 演終了後は懇親会(人数に制限があります。当日会場にてお申し込み下さい)も開催します。
『「九州年号」の研究』が上梓されたことは既にご紹介しましたが、「古田史学の会」2011年度会員には一冊進呈することになっています。幸い、ミネル ヴァ書房様から発送作業のご協力をいただき、会員の皆様には届き始めていることと思います。お正月にゆっくりとお読みいただければ幸いです。
各地の図書館で購入希望図書受付制度があれば、是非申し込みをお願いします。九州年号と九州王朝の存在を全国の歴史ファンに知らせたいと願っています。ご協力のほど、お願いいたします。


第365話 2011/12/28

漫画・「邪馬台国」はなかった

福與篤(ふくよ・あつし)さんから『漫画・「邪馬台国」はなかった』(ミネルヴァ書房、2200円+税)を御恵送いただ きました。一読し、古田先生の邪馬壱国説をよく理解されたうえで、漫画化されていることがわかりました。まさに、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』の エッセンシャル版と呼ぶにふさわしい一冊です。福與さんは漫画家ではないとのことですが、本当によく描かれたものだと感心しました。
もっとも、「漫画」と銘打たれていますが、漫画好きの若者向けではなく、古田説を知らない古代史好きむけの「入門書」との位置づけと思われました。仕事 柄、マーケティングに関わっていることもあって、どうしても、「狙うターゲット層は?」「販売戦略のポジショニングは?」「価格設定は適切か?」というビ ジネス視点で見てしまうことが、わたしの悪い癖ですが、猛烈に文字数や解説文が多い同書は、いわゆる「漫画読者」が対象とはならないでしょう。
とはいえ、邪馬壱国説の入門書にふさわしく、三国志倭人伝の版本と古田先生による読み下し文も掲載されており、すでに『「邪馬台国」はなかった』をお持ちの人にも、おすすめの一冊です。同書が多くの人々に読まれることを期待しています。


第364話 2011/12/18

「論証」スタイル(2)

  今日は岐阜県各務原に来ています。当地には航空自衛隊の基地があり、ときおり戦闘機や輸送機の離着陸の轟音が響いてきます。この轟音は地元の方にはご迷惑なことと思いますが、同時に、災害派遣や国防の任にあたっておられる自衛官のご苦労も大変なことだと思いました。
 さて、361話に続いて、「論証」スタイルについて触れることにします。
  これはわたしの見方ですが、論証は「絶対論証」と「相対論証」というものに大別できるのではないでしょうか。「絶対論証」とは、「こういう史料根拠により、誰がどのように考えてもこうとしか言えない」というような決定的な証拠と論理性にもとづいた論証です。ここまで断定できる論証は、史料的に限定された 古代史研究においては珍しいことですが、安定的に成立した論証であり、この論証に基づいて、さらに仮説を展開することも可能です。
 対して、「相対論証」とは、史料根拠に基づいて、Aの可能性やBの可能性など複数の可能性が考えられるが、人間の平明な理性や経験に基づけば相対的にAの可能性が著しく、あるいは最も高い、という論証のケースです。「絶対論証」より論証力は劣るものの、他の仮説よりも有力な仮説を提起できます。
 従って、「相対論証」にとどまる場合は、なるべく多くの傍証を提示し、「相対論証」の説得力を増すよう努めなければなりません。こうした「相対論証」を得意とされるのが正木裕さん(「古田史学の会」会員)です。
  日本書紀の「34年遡り現象」というツール(九州王朝史復元手法)を駆使して、正木さんは日本書紀の中に盗用された九州王朝記事の選別と九州王朝の復元という学問的成果を次々とあげられているのですが、その論証スタイルこそ、大和朝廷一元史観に基づいた通説よりも、合理的に矛盾なく理解できる仮説を提起するという、「相対論証」なのです。
 すなわち、「絶対にそうか」といわれれば「絶対にそうだ」とは言えないまでも、「従来説よりもはるかに矛盾なく説明できる」とする、仮説の論証方法なのです。この方法は歴史研究において多用される方法なのですが、どうしてもその相対的評価時(他の仮説よりも有力と判断する時)において恣意性(自説が正しいと思いこむ)がつきまといますので、慎重に使用しなければなりません。


第362話 2011/12/16

映画「アレクサンドリア」の衝撃

この数年、多忙のため映画鑑賞の機会がめっきり減りましたが、最近ものすごい映画に遭遇しました。2009年、スペインで制作された「アレクサンドリア」という作品です。
原題はラゴラ(広場という意味)で、舞台は紀元四世紀の古代都市アレクサンドリア(エジプト)です。美貌の女性哲学者(数学者・天文学者)ヒュパティア の半生を描いたもので、ヨーロッパ映画史上最高額の制作費といわれる壮大なスケールにまず圧倒されるのですが、よくこんな映画がヨーロッパで作られたもの だと、本当に衝撃を受けました。しかも、主人公のヒュパティアが実在の人物ということに、さらに驚きました。
当時のローマ帝国皇帝がキリスト教徒になったこともあって、アレクサンドリアでもキリスト教徒が増大し、多神教の信者やユダヤ教徒への迫害(虐殺)が荒 れ狂う中、天動説を疑い地動説を研究するヒュパティアを魔女としてキリスト教徒が迫害するという、史実に基づいた映画でした。そして、「わたしが信じるも のは真理だけです」と言い放ち、キリスト教への改宗を拒否し、学問研究を続ける主人公の言動に深く感銘を受けました。
古代エジプトにおける宗教対立や奴隷制など、さまざまな問題を内包した作品ですが、わたしがもっとも驚いたのは、キリスト教徒による集団的残虐シーンが これでもかこれでもかと続くこの映画が、国民の75%がカトリック信者というスペインで作成されたという事実です。そして、この映画が興業的にも成功した という事実に、ヨーロッパでもついにこのような映画が製作され、受け入れられる時代になったということに、感銘したのです。
別の視点から見れば、この映画は古代を題材にしながらも、極めて現代的な問題を提起しているといえます。この映画の成功は思想史的にも貴重なものではな いでしょうか。学問と真実を愛する、古田学派の皆さんに是非見ていただきたい作品でしたので、紹介させていただきました。


第361話 2011/12/13

「論証」スタイル(1)

 今日は名古屋に来ています。これから星ヶ丘にある椙山女学園大学に向かいます。同大学のJ教授とお会いし、学生の卒論研究テーマの打ち合わせを行うことになっています。大学に行くと、研究や学問に打ち込む若い学生さんがたくさんおられ、いい刺激を受けます。
 さて、「会報投稿のコツ」で「論証」に触れましたが、その具体例についてもご紹介したいと思います。最初は、西村秀己さん(「古田史学の会」全国世話人、会報編集担当、会計)です。
 西村さんの口癖は「それはおかしいやろう」ですが、研究発表への厳しい指摘や批判が、この言葉とともに続きます。ですから、わたしは研究成果を論文にする前に、できる限り関西例会で発表し、西村さんの顔色を確かめてから執筆にかかるようにしています。「それはおかしいやろう」が出たら、その部分を訂正したり、再反論を考えてから論文化するのです。これにより、わたしの勘違いや論証の弱点に気づくことができるので、西村さんの「それはおかしいやろう」を大変重宝しています。
 その西村さんの「論証」スタイルは、一言で言えば「骨太な論断」です。大局的に見てこう考えざるを得ない、という「論証」スタイルです。たとえば、七世紀末の列島最大規模の宮殿・都市は藤原宮(京)だから、701年以前には九州王朝の天子が藤原宮にいたと考えるべき、といった一刀両断の「論証」スタイル です。
 わたしは、その論理性に一定の妥当性を認めながらも、王朝交代時期の七世紀末について、それほど単純に割り切るのはいかがなものか、少なくともわたしは そこまで大胆にはなれないと、いつも「反論」しています。もっとも、西村さんはその後も傍証を固められ、自説強化に努められています。
 こうした大胆な論証を好まれる西村さんですが、わたしが舌を巻いた緻密な論証もあります。「マリアの史料批判」です。
 ある日、西村さんが「新約聖書に記されたイエスの周囲にいる女性の名前にマリアが多すぎる。これはおかしいやろう。」と言われたので、当時はマリアとい う名前はありふれたもので、たまたまではないかと生返事をしたところ、西村さんはとんでもないことをされたのです。
 その後しばらくして西村さんは書きあげたばかりの一編の論文をわたされました。そこには何と、旧約聖書に登場する全女性の名前を調べあげ、「マリア」と いう名前の女性は1名しか登場しないことを指摘し、当時、「マリア」という名前はありふれた名前ではないということを証明されたのです。
 わたしはグウの音も出ず、ただ「おそれいりました」と頭を下げました。その時の西村さんの「どや顔」を今でもよく覚えています。これは見事な論証と言うしかありません。その論文が「マリアの史料批判」だったのですが、わたしはキリスト教研究史に残る名論文だと思います。西村さんに英訳を勧めているのですが、英語に堪能などなたかご協力いただけないでしょうか。
 新約聖書に記されたマリアが、ありふれた名前かどうかを新約聖書以前の史料である旧約聖書で全数調査するという学問の方法こそ、古田学派らしい論証方法ではないでしょうか。古田先生が「邪馬壹国は邪馬臺国の誤り」としていた通説を検証するために、三国志の中の「壹」と「臺」の字の全数調査をされ、両者が間違って使われている例が無いことを証明されましたが、その方法を西村さんは踏襲されたのです。
 本ホームページにも「マリアの史料批判」が掲載されていますので、是非ご一読下さい。切れ味鋭い「論証」スタイルの一端に触れることができます。(つづく)

第333話 2011/08/14

靖国神社参詣

 先週の8月9日、仕事で市ヶ谷に行った折、少し時間ができましたので猛暑の中、靖国神社を初めて訪れ参詣しました。歴史の研究調査で 日本各地の神社や仏閣を訪問参詣する機会が多いのですが、靖国神社だけは今まで行ったこともなかったのです。古代史とはあまり関係がなさそうということが、その理由でしたが、 日本思想史学や近代史の問題として、あるいは明日の終戦記念日に象徴される現代の問題と最も深く関わっている神社なのですから、どうしても一度は行かなければならないとも感じていたのでした。
 わたしが二十代の頃は、ご他聞にもれず「戦後民主教育」の影響により、靖国神社といえば「右翼」「軍国主義」の象徴という感覚と、他方、御国のために若くして戦没された特攻隊員のことを思うと粗末には扱えないなといった複雑な、あるいは宙ぶらりんの認識に留まっていました。
 その後、古田先生に歴史学や思想史学を学び、少しずつ認識を深め、かつ改めたのですが、決定的認識の変化をうながされたのが、古田先生の論文「靖国参拝の本質ーー「結恨横死」論」(『古田史学会報』46号、2001年10月)でした。
 同論文中の「A級戦犯。わたしは『この人々の霊を、断乎、靖国神社に祀るべし。』そう考える。なぜなら、右にあげたように『結恨横死の霊』こそ祀らるべきなのである。幸福な人生を遂げ、衆人の賛美の中にその十全の人生を過ごした人々より、この『結恨横死』の人々こそ祀らるべきだ。それが真実の宗教である。」や「天皇の任務。近年、『靖国参拝』問題が首相に関して語られること、不審だ。なぜなら、誰人よりも、この参拝をなすべきは、天皇その人である。靖国に祀られている人々は『天皇の名によって』戦い、死んだ人々だからである。外国の批議や非難を恐れ、参拝したり、中止したりする、いわゆる『A級戦犯の合祀』で、また態度を変える。醜い。」とする古田先生の指摘は衝撃的でした。
 あるいは、「『A級戦犯』というのは、政治だ。これに対し、『祭祀』は宗教である。政治を宗教に優先させる。これは天下の邪道だ。近代国家の傲慢である。 宗教は、政治の外、政治の上に立つ。これが人類史の到達してきた道標である。」という思想史学的考察には、さすがは古田先生だと思いました。
 これらの問題は人それぞれ意見が異なると思いますが、人類の歴史的普遍性を持った考察と思想性の観点が必要と思われ、古田先生の論文はとても示唆的です。


第331話 2011/08/13

防人の詩

 EXILE魂というテレビ番組に、さだまさしさんがゲストで出ていました。同じ九州出身ということもあって、私はさださんの歌を学生時代から よく聞いたり歌ったりしていました。番組ではさださんの名曲「防人の詩」をエグザイルのメンバーが歌っていましたが、久しぶりに聞いて、いい曲だなあと改めて感動しました。
 この曲の詩は『万葉集』の歌に触発されて作られたと聞いていますが、恐らくそれは『万葉集』巻一六の3852番歌「鯨魚(いさな)とり 海や死にする山や 死にする死ぬれこそ 海は潮干(しほひ)で山は枯れすれ」の歌だったと思います。岩波古典文学大系『万葉集』の頭注には次のように大意が記されています。

「(問)海は死ぬだろうか。山は死ぬだろうか。
(答)死ぬからこそ、海は潮が干るし、山は草木が枯れるのに。」

 古代日本列島の人々の死生観の一つが歌いこまれたものと思いますが、さださんの「防人の詩」の最後のフレーズを今聴くと、震災と津波、そして原発事故で苦しんでいる東北の大地や海の姿とオーバーラップして、涙が出てきます。それは、次のフレーズです。

「海は死にますか 山は死にますか 
春は死にますか 秋は死にますか 
愛は死にますか 心は死にますか 
私の大切な故郷もみんな逝ってしまいますか」

 一日も早く東北の大地が徐染されることを願わずにはいられません。
 一日も早く東北の大地が徐染されることを願わずにはいられません。