太宰府一覧

第1697話 2018/06/24

観世音寺古図と資材帳の不一致

 「洛中洛外日記」1696話「観世音寺古図の史料性格」で、観世音寺古図は12世紀まで観世音寺に伝来していた「養老繪圖一巻」に基づいている可能性があり、創建観世音寺の姿を伝えているとわたしは指摘しました。同様の見解が九州歴史資料館から発行された『大宰府への道 -古代都市と交通-』にも同古図の解説として記されています。

 「西海道随一の古刹である観世音寺の威容と歴史を物語る古絵図。講堂を中心として金堂・五重塔・僧坊などの堂塔を配し、随所に同寺の由緒や故事を描き込む。伽藍は発掘調査の成果や延喜五年(九〇五)の観世音寺資材帳の記述と符合することから、平安時代の絵図を手本として大永六年(一五二六)に書写されたものと考えられる。講堂には落慶法要の情景が描かれ、僧坊には最澄や空海と思われる僧侶の姿がみえる。(松川)」九州歴史資料館編『大宰府史跡発掘50年記念特別展 大宰府への道 -古代都市と交通-』(2018年)

 他方、観世音寺古図は史料としての信頼性が劣り、創建観世音寺の姿を伝えたものではないとする見解もあります。この見解も有力なものですので、ご紹介します。たとえば大越邦生さん(東京古田会・会員)は次のように指摘されています。

 「本論ではあえて『観世音寺絵図』をとり上げなかった。なぜなら、絵図のような観世音寺は『存在していなかった』からだ。絵図の金堂は『単層屋根』の建物として描かれている。だが、金堂が『単層』になったのは、一一〇八年の再建時だ。それまでは『重層』だった(資材帳)。一方五重塔は一〇六四年に焼失していて、その後、再建されたことがない。絵図の金堂と五重塔は、『共存していなかった』のである。したがって、この絵図は、いくつかの原図が合成された作品とみられる。(中略)もちろん『絵図成立史』の研究には意義はあるが、観世音寺の『草創』を扱う本論では、取り上げるべき対象とはみなせなかった。」大越邦生「観世音寺草創の問題(後編)」(『東京古田会ニュース』No,180、2018年5月)

 ここで大越さんが根拠として上げられた(資材帳)とは、延喜五年(九〇五)成立の『観世音寺資財帳』のことで、当時の観世音寺の伽藍の規模や様相などともに破損や修復の状況まで詳しく記録されています。金堂については次のように「二層」と記されています。

 「瓦葺二層金堂壹宇 長五丈四尺 廣三丈四尺五寸 高一丈四尺五寸
 貞観三年小破 八年修理全」
 『延喜五年観世音寺資財帳』『大日本仏教全書』117(大正二年八月)

 この他にも「観世音寺古図」とは異なる記事が散見されます。たとえば「古図」の中門は二層ですが、「資材帳」には単に「瓦葺中門壹宇」とあるだけです。従って、大越さんが「古図」を史料として使用されなかった慎重さはよく理解できます。
 しかしながら、「古図」に描かれた伽藍配置が考古学的発掘成果とよく整合していることなど、全くの想像の産物とも思われません。今回、山田春廣さんからの指摘により知った五重塔の「二重基壇」問題なども、「古図」の中に創建観世音寺の姿が残されていると推定できる点ではないでしょうか。また、大越さんご自身も「絵図は、いくつかの原図が合成された作品とみられる」とされているように、その原図の中に創建観世音寺を描いたものがあれば、この「古図」の中にも創建時の面影が残される可能性があります。(つづく)


第1696話 2018/06/23

観世音寺古図の史料性格

 「洛中洛外日記」1694話の「観世音寺古図の五重塔『二重基壇』」で触れた「観世音寺古図」の史料性格については、拙稿「よみがえる倭京(太宰府)─観世音寺と水城の証言─」(『古田史学会報』No.50所収。2002年6月1日)で次のように説明していますので、転載します。

【以下転載】
養老絵図と大宝四年縁起
 古の観世音寺の姿を伝える大永六年(一五二六)写の観世音寺古図というものがある。法隆寺移築論を発表された米田良三氏はその著書『法隆寺は移築された』において、同古図を紹介され、古図と現法隆寺との伽藍配置等の一致から、法隆寺の移築元として観世音寺説を発表された。これに対して、同古図が創建当時の観世音寺かどうか不明であり、観世音寺移築説の根拠とすることに対して疑義が寄せられていた。
 既に観世音寺移築説が困難であることは述べて来たとおりであるが、同古図について言うならば、これは創建時の観世音寺が描かれたものと考えざるを得ない。何故なら、本稿で紹介したように、観世音寺の五重塔は康平七年に焼亡しており、以後、再建された記録はない。また、考古学的発掘調査でも金堂は新旧の基壇が検出されているが、五重塔は再建の痕跡が発見されていない。従って、五重塔が描かれている同古図は創建時の観世音寺の姿と考えられるのである。
 このことを支持する史料がある。観世音寺は度重なる火災や大風被害のため貧窮し、もはや独力での復興は困難となった。そのため、保安元年(一一二〇)に東大寺の末寺となったのであるが、そのおり、東大寺に提出した観世音寺の文書案文(写し)の目録が存在する。それは「観世音寺注進本寺進上公験等案文目録事」という文書で、その中に「養老繪圖一巻」という記事が見える。その名称から判断すれば、養老年間(七一七〜七二四)に描かれた観世音寺の絵図と見るべきものであり、それが一一二〇年時点で現存していたことを意味する。同目録には「養老繪圖一巻」の右横に「雖入目録不進」と書き込まれていることから、この養老絵図の写しは、この時、東大寺には行かなかったようである。
 こうした養老絵図が十二世紀に現存していたことを考えると、大永六年に写された観世音寺古図はこの養老絵図を写した可能性が高いのである。考古学的発掘調査の結果も、古図と同じ伽藍配置を示しており、この点からも同古図が創建観世音寺の姿を伝えていると見るべきである。
 そうなると、いよいよもって観世音寺を法隆寺の移築元とすることは困難となる。というのも、観世音寺古図と現法隆寺は伽藍配置は類似していても、描かれた建物と法隆寺の特徴的な建築様式とは著しく異なるからである。一例だけあげれば、中門の構造が現法隆寺は二層四間であり、中央に柱が存在するが、観世音寺古図の中門は一層五間であり、一致しない。従って、米田氏の思惑とは真反対に、同古図は法隆寺の移築元は観世音寺ではない証拠だったのである。
 同目録中には今ひとつ注目すべき書名がある。それは「大宝四年縁起」である。大宝四年(七〇四)成立の観世音寺縁起が一一二〇年時点には存在していたことになるのだが、先に紹介した『本朝世紀』康治二年(一一四三)の太宰府解文に記された、百済渡来の阿弥陀如来像の事などがこの「大宝四年縁起」には記されていたのではあるまいか。従って、『本朝世紀』の本尊百済渡来記事は信頼できると思われるのだ。
 なお現在、観世音寺の縁起は伝わっておらず、関連文書として最も古いものでは延喜五年(九〇五)成立の「観世音寺資財帳」がある。九州王朝の中心的寺院であった観世音寺の縁起も近畿天皇家一元史観によって書き直され、あるいは破棄されたのであろう。
【転載終わり】

 観世音寺古図に描かれた五重塔の「二重基壇」と考古学的出土状況による「二重基壇」の可能性との一致は、この古図が創建観世音寺を描いた「養老絵図」を書写したものとする理解を支持しています。
 また、観世音寺の「大宝四年縁起」が存在していたということは、大宝四年(704)以前に観世音寺は創建されていたことになり、一元史観の通説のように観世音寺創建を8世紀前半とする見解よりも、九州年号史料(『勝山記』『日本帝皇年代記』)に見えるように白鳳10年(670)創建説を支持するようです。


第1694話 2018/06/19

観世音寺古図の五重塔「二重基壇」

 5月25日に開催された東京古田会の講演会で、大越邦生さんが「よみがえる創建観世音寺」というテーマで、いくつかの重要な仮説を発表されました。その中でわたしが最も注目したのが、観世音寺の五重塔にはⅠ期とⅡ期の二つがあり、発掘調査で発見された礎石はⅠ期の上に再建されたⅡ期のものであり、Ⅰ期は更に大きな規模であったとされました。
 これは基壇の一辺が15mもあるのに、建物は一辺6mであり、両者のバランスがとれていないという構造上の問題点を根拠とした仮説で、考古学的出土事実に基づいた合理的な推定と思われました。他方、観世音寺の五重塔が再建されたとする史料はなく、発掘調査からも礎石などに再建の痕跡は発見されていません。すなわち、大越さんが提起された仮説を積極的に実証できる史料や出土遺構が見あたらないという問題がありました。
 ところがこの問題を解決できるかもしれない発見を山田春廣さん(古田史学の会・会員)が同氏のブログ(sanmaoの暦歴徒然草)で発表されました。山田さんは、有名な「観世音寺古図」に描かれた五重塔を拡大して見ると、塔の基壇が「二重基壇」として描かれていると指摘されたのです。
 わたしもこの「観世音寺古図」を幾度となく凝視し、論文でも取り上げた経験があるのですが、この塔の「二重基壇」には気づきませんでした。正確に言えば、気づいていてもその持つ意味を理解していなかったのです。ところが、基壇と建物の規模のアンバランスという大越さんの指摘を講演会で詳しく知ることになり、「二重基壇」の持つ意味に気づいたのでした。
 塔の基壇が二重であれば、下部の一辺15.0mの基壇の上に一回り小さな基壇があり、塔の建物はその上部の小さな基壇の上に建てられたことになり、面積規模のアンバランスは発生しません。従って、大越さんが指摘された疑問はこの「二重基壇」構造により説明可能となるのです。そうであれば、出土事実や文献との整合性も問題ありません。
 そこで、近年の観世音寺研究の成果をまとめた九州歴史資料館発行の『観世音寺 考察編』を読み直してみると、なんとこの「二重基壇」の可能性について記されていました。

 「(前略)基壇外縁から建物までの距離が4.5mと想定されることから基壇一辺の長さが15.0mという数値は、一重基壇にしては大きすぎるきらいがあり、二重基壇であった可能性を指摘しておきたい。」(小田和利「観世音寺の伽藍と創建年代について」1頁。『観世音寺 考察編』九州歴史資料館編。2007年)

 小田さんのこの論文は何度も読んでいたのですが、「二重基壇」の可能性に触れたこの記事の持つ意味に気づいていませんでした。ですから、大越説との出会いにより、多くの知見を得るとともに認識を深めることができたのです。大越さん、山田さんに感謝したいと思います。
 古代寺院における「二重基壇」は、現存するものでは法隆寺の五重塔・金堂に採用されています。従って、九州王朝は法隆寺や観世音寺に「二重基壇」を採用したことになるのですが、「観世音寺古図」の金堂も塔ほど明確ではありませんが、「二重基壇」として描かれているように見えます。この点、引き続き調査したいと思います。
 なお本稿の当否にかかわらず、大越説は仮説として成立(基壇と建物の規模の不対応を説明できる)しており、今後の研究の進展(新史料や考古学的新知見の発見など)によっては最有力説となる可能性も有していることを付言しておきます。


第1675話 2018/05/23

太宰府と藤原宮・平城宮の鬼瓦(鬼瓦の論証)

 「洛中洛外日記」1673話「太宰府出土『鬼瓦』の使用尺」で紹介した『大宰府史跡発掘50年記念特別展 大宰府への道 -古代都市と交通-』(九州歴史資料館発行)に掲載された太宰府出土鬼瓦ですが、鬼気迫る形相の芸術性の高さが以前から注目されてきました。そこでその芸術性という側面から多元史観・九州王朝説との関わりを指摘したいと思います。
 大宰府政庁や大野城から出土した古いタイプの鬼瓦は立体的で見事な鬼の顔ですが、大和朝廷の宮殿の鬼瓦は藤原宮のものは「弧文」だけで鬼は描かれていませんし、平城宮のものも何種類かありますが古いタイプは平面的な鬼の裸体があるだけで、太宰府のものとは雲泥の差です。すなわち、王宮の規模は大きいものの、鬼瓦の意匠性においては規模が小さい大宰府政庁のものが圧倒的に芸術的なのです。このことは次のようなことを意味するのではないでしょうか。

①王宮の規模の比較からは、藤原宮や平城宮の方が日本列島を代表する王朝のものにふさわしい。
②鬼瓦の比較からは、王朝文化の高い芸術性を引き継いでいるのは太宰府である。
③この現象は九州王朝から大和朝廷への王朝交替の反映と考えることができる。
④ということは、太宰府では王朝文化を継承した瓦職人がいたことを意味する。
⑤太宰府にいた高い芸術性と技術を持つ瓦職人により、優れた意匠性の軒丸瓦が造られたと考えるのが自然な理解である。
⑥従って、7世紀末頃に大和・筑前・肥後の三地域で同時発生したとされる「複弁蓮華文軒丸瓦」の成立と伝播の矢印は「北部九州から大和へ」と考えるべきである。
⑦観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期に使用された「複弁蓮華文軒丸瓦」(老司式瓦)の発生は、大和の藤原宮に先行したと考えざるをえない。
⑧この論理帰結は、観世音寺や大宰府政庁Ⅱ期の造営を、藤原宮(694年遷都)よりもはやい670年(白鳳十年)頃とするわたしの理解と整合する。

 九州王朝説を支持する「鬼瓦の論証」として、以上を提起したいと思いますが、いかがでしょうか。


第1673話 2018/05/20

太宰府出土「鬼瓦」の使用尺

 昨日の関西例会で、いつも各地の博物館などの図録を持参して紹介されている久冨直子さんから、九州歴史資料館発行の『大宰府史跡発掘50年記念特別展 大宰府への道 -古代都市と交通-』を譲っていただきました。カラー写真満載の206頁の分厚い図録ですが、お値段はなんと1000円とお買い得です。久冨さんが九州歴史資料館で5冊ほど購入され、そのうちの1冊を分けていただきました。
 同図録に掲載されている出土品の写真はいずれも見慣れたものではありますが、1冊中にこれだけそろうと改めて多くのことに気づかされました。中でも美術的にも高い価値を有する、大宰府政庁や大野城出土の鬼瓦(重要文化財)に興味深いことを発見しました。重要文化財に指定されている大宰府跡出土のもの(九州国立博物館所蔵)と九州歴史資料館所蔵で大宰府政庁跡出土のもの、同じく大野城太宰府口城門跡出土の鬼瓦の寸法がいずれも縦50.0cm、幅45.0cmと記されており、かなりの精度で同一寸法で造られているのです。わたしが注目したのは縦50.0cmという寸法で、この50cmという長さを決めるに当たり使用された「尺」は太宰府政庁Ⅱ期造営に使用された「唐尺(1尺=29.6〜29.7cm)」ではなく、より短い1尺=25cmの「尺」ではないでしょうか。1尺約30cmの「尺」では50cmという寸法は出てこないと思われるのです。1尺=25cmの「尺」であれば、縦2尺・幅1.8尺ときりのいい値が得られますが、1尺約30cmの「尺」では縦はきりのいい値が得られません。
 この1尺=25cmの「尺」はいわゆる「南朝尺」系統の短い「尺」のように思われますが、政庁は北朝系統の「唐尺」で造営し、その屋根に乗せた鬼瓦はより古いタイプの「南朝尺」系統のものを使用したということになり、これは不思議な現象です。この他にも様々な可能性があると思いますので、これから検討します。
 こうした新たな知見に接することができ、同図録を提供していただいた久冨さんに感謝します。


第1671話 2018/05/13

九州王朝の「東大寺」問題(3)

 九州王朝の「東大寺」、すなわち「国府寺」の総本山にふさわしい寺院遺跡が筑後から見つかっていないことから、次に7世紀初頭から太宰府遷都した倭京元年(618)頃の筑前を検討してみました。

 九州王朝を代表する寺院である観世音寺は創建が白鳳10年(670)と考えられますから、全国国府寺の「総本山」とすることができません。この他には太宰府条坊都市内に「般若寺」が出土していますが、これも創建瓦として観世音寺と同じ老司Ⅰ式が出土しているため、7世紀後半頃となり、「総本山」とするには時代が新しく対象から外れます。

 そこでわたしが注目しているのが観世音寺寺域から出土した百済系素弁軒丸瓦です。「洛中洛外日記」1638〜1644話「百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)〜(6)」で論じましたが、白鳳10年創建の観世音寺に先行する寺院がこの地に存在していたことはまず間違いないと思われます。ただ、礎石などの遺構は不明です。太宰府条坊の右郭中心部の「通古賀」の北東ですから、条坊都市造営に当たり、全国国府寺の「総本山」が置かれていても妥当な位置ではないでしょうか。しかもご本尊は百済伝来の阿弥陀如来像ですから、格式からしても問題ないと思いますがいかがでしょうか。

 この他の有力候補遺跡としては筑前ではありませんが、小郡市の井上廃寺があります。出土瓦編年の再検討が必要ですが、候補としてあげておきたいと思います。


第1655話 2018/04/20

天智五年(666)の高麗使来倭

 「洛中洛外日記」1627、1629、1630話(2018/03/13-18)「水城築造は白村江戦の前か後か(1〜3)」で、水城築造年が『日本書紀』の記事通り、白村江戦後の天智三年(664)で問題ないとする見解について説明しましたが、このことを支持すると思われる天智五年(666)の高麗遣使来倭記事について紹介します。
 水城築造を白村江戦の前とする説の論拠は、白村江戦後に唐軍の進駐により軍事制圧された状況下で水城など築造できないとするものでした。わたしは唐軍二千人の筑紫進駐は『日本書紀』によれば天智八年(669)以降のことであり、『日本書紀』の水城築造記事がある天智三年段階では筑紫は唐軍の筑紫進駐以前で、水城築造は可能としました。この理解を支持するもう一つの記事が、『日本書紀』天智五年(666)条に見える高麗使(高句麗使)の来倭記事です。
 『日本書紀』天智五年(666)条に次のような「高麗(高句麗)」から倭国に来た使者の記事が見えます。

 「高麗、前部能婁等を遣(まだ)して、調進する。」(正月十一日)
 「高麗の前部能婁等帰る。」(六月四日)
 「高麗、臣乙相菴ス等を遣して、調進する。」(十月二六日)

 これらの高麗(高句麗)使は、当時、唐との敵対関係にあった高句麗が倭国との関係強化を目指して派遣したと理解されています。というのも、この年(乾封元年)の六月に、唐は高句麗遠征を開始しています。従って、倭国が唐軍の制圧下にあったのであれば、高句麗使が倭国に支援を求めて来るばすはなく、また無事に帰国できることも考えられません。
 こうした高句麗使来倭記事は、少なくとも天智五年(666)時点では倭国は唐軍の制圧下にはなかったことを示しています。


第1644話 2018/04/08

百済伝来阿弥陀如来像の流転(6)

 観世音寺寺域から出土した百済系単弁軒丸瓦を根拠に、観世音寺に先だって建立された「仮設寺院」に観世音寺の本尊となる百済伝来阿弥陀如来像が安置されていたとする作業仮説(思いつき)に至りましたが、それではその「仮設寺院」は何と呼ばれていたのでしょうか。また、百済系単弁瓦の編年において、一元史観の通説では7世紀後半から7世紀末とされているのですが、この問題について更に深く考えてみました。
 まず寺院名ですが、素人判断では阿弥陀如来像を本尊とするのであれば観世音寺では不自然な気がします。観世音寺であれば観世音菩薩像を本尊にしてほしいところです。しかしながら観世音寺の本尊が阿弥陀如来像であったことは文献に見えており、疑えません。したがって、現時点では「仮設寺院」の名称は不詳とせざるをえません。
 次に「仮設寺院」の創建年代ですが、わたしの説に対応させるのであれば、創建観世音寺が白鳳10年(670)ですから、「仮設寺院」は百済系単弁瓦の編年から7世紀前半頃となるのですが、実は本テーマを執筆していてもう一つの可能性にも言及する必要があることに気づきました。それは通説の編年観に立った場合、観世音寺寺域に先在した百済系単弁瓦の「仮設寺院」が、『二中歴』や『勝山記』などに白鳳10年に創建されたとある「観世音寺」ではなかったかという可能性です。もしそうであれば、いわゆる天智により発願された観世音寺はその「仮設寺院」を取り壊して、同じ場所に造営された創建観世音寺(完成は8世紀前半とする)ということになります。これですと、通説の編年と矛盾無く整合します。
 この問題の鍵は百済系単弁瓦が九州王朝(倭国)で7世紀後半まで採用されたのか否かというテーマとも関連しており、引き続き検討を続けたいと思います。


第1642話 2018/04/06

百済伝来阿弥陀如来像の流転(5)

 下原幸裕「〔発掘調査速報〕大野城跡クロガネ岩城門出土の軒丸瓦」(『都府楼』46号、古都太宰府保存協会。2014年)によれば、観世音寺寺域からの出土した百済系単弁軒丸瓦は、新旧あわせて42片あり、その編年を7世紀後半とされています。太宰府では観世音寺寺域に集中出土していることから、創建観世音寺以前に観世音寺と関連した伽藍があったと推定され、それを「仮設建物か」と次のように解説されています。

 「ところで、既に述べたように020A型式は観世音寺の発掘調査でも一定量出土していて、文様的にも後出すると考えられる020B型式も観世音寺のみで出土している。他の単弁瓦を含まず、観世音寺の寺域という局所的な出土は、政庁周辺の単弁瓦の在り方とは異質で、政庁Ⅰ期段階の官衙関連施設の一部が観世音寺周辺にも存在したというより、観世音寺そのものに関わる建物(本格的な伽藍完成までの仮設建物か)に用いられた可能性が高いのではないか。」(60頁)

 この下原さんの推定が正しかった場合、この百済系単弁軒丸瓦を用いた「本格的な伽藍完成までの仮設建物」は何のために建てられたのでしょうか。わざわざ瓦葺きで造営された建造物ですから、大切な物の長期「保管」を前提としたと考えざるを得ません。そうしますと、観世音寺の本尊とされた百済伝来阿弥陀如来像が安置されていたのではないでしょうか。恐らく百済系瓦が用いられたのも偶然ではなく、百済伝来仏を安置するのにふさわしい瓦が選ばれたと考えることもできそうです。もちろん、これは一つの作業仮説に過ぎませんが、他に有力な安置寺院やその伝承が見あたらないことから、他の適切な仮説を提起できません。
 それでは百済伝来阿弥陀如来像が「本格的な伽藍完成までの仮設建物」に安置されたのはいつ頃でしょうか。状況証拠からの推測でしかありませんが、上限は九州王朝が太宰府遷都した倭京元年(618)、下限は百済が滅亡した660年とできますから、大枠としては7世紀前半頃としてよいと思います。
 ちなみに、7世紀前半は九州王朝仏教に浄土信仰・阿弥陀如来信仰の痕跡が色濃く残っている時代です。たとえば、九州王朝の天子多利思北孤の崩御により造られた法隆寺釈迦三尊像光背銘には「浄土」などの用語が見えますし、その太子の利歌彌多弗利の時代には、「聖徳太子」と善光寺如来との往復書簡「命長七年文書」(「命長」は九州年号、七年は646年)の存在が知られています。

 「       御使 黒木臣
名号称揚七日巳 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
       斑鳩厩戸勝鬘 上」
 『善光寺縁起集註』(天明五年〔一七八五〕成立)※「命長七年文書」については『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房。2012年)所収の拙稿「九州王朝仏教史の研究」をご参照下さい。

 このように九州王朝(倭国)で阿弥陀如来信仰が興隆したときに、百済から阿弥陀如来像が伝来したと考えることに無理はありません。(つづく)


第1641話 2018/04/05

百済伝来阿弥陀如来像の流転(4)

 創建観世音寺の金堂跡から出土した基壇の瓦積について説明します。小田和利「観世音寺の伽藍と創建年代」(『観世音寺 考察編』九州歴史資料館、2007年)には次のように記されています。

 「第3節 金堂
 調査の結果、44次数に及ぶ発掘調査をとおして、今回、初めて創建期と考えられる瓦積基壇を検出した。また、創建期から明治期に及ぶⅤ期の基壇変遷が明らかとなるなど大きな成果が得られた。(中略)
 ここで注目されるのが、瓦積基壇の基壇化粧として用いられた格子目叩打痕平瓦片である。この平瓦片は偏行忍冬唐草紋軒平瓦(瓦形式541A)の凸面に叩打された格子目と同一であり、偏行忍冬唐草紋軒平瓦は観世音寺南面築地推定地にあたる第122次調査の井戸SE3680から老司Ⅰ式軒丸瓦・軒平瓦とともに出土しており、井戸SE3680出土の土器年代から8世紀前半頃と考えられる。近年、観世音寺の創建年代を考察した小田富士雄によれば、偏行忍冬唐草紋軒平瓦の年代を観世音寺Ⅱ期(和銅2年・709〜和銅4年・711)に比定することができるとしている。」(3頁)

 このように創建観世音寺の金堂基壇出土瓦を老司Ⅰ式(複弁蓮華紋の瓦当を持つ)の時代としており、通説ではそれを8世紀前半頃とし、わたしは7世紀後半頃としているわけです。今回のテーマである百済伝来阿弥陀如来像はこの創建金堂に安置されたのですが、通説では少なくとも百済滅亡の660年から710年頃の約半世紀以上の間、どこか別の場所に置かれていたことになり、わたしの説の場合は少なくとも10年以上どこかに安置されていたことになります。(つづく)


第1640話 2018/04/04

百済伝来阿弥陀如来像の流転(3)

 百済から伝来した創建観世音寺の本尊金銅阿弥陀如来像は白鳳十年(670)の観世音寺完成までどこに安置されていたのでしょうか。百済滅亡が660年ですから、それ以前に伝来したことと思われますから、短くても10年以上はどこかに安置されていたと考えざるを得ないのですが、そのような伝承を持つ寺院などの存在は知られていません。わたしが観世音寺創建白鳳十年説に至ったとき、この問題が脳裏をよぎりました。しかし、よい解決案を見い出せずにきました。
 そのような中、九州歴史資料館で赤司さんからいただいた下原幸裕「〔発掘調査速報〕大野城跡クロガネ岩城門出土の軒丸瓦」(『都府楼』46号、古都太宰府保存協会。2014年)に大野城や太宰府から出土した軒丸瓦を記した地図「大野城周辺の単弁軒丸瓦の分布」があり、7世紀前半頃と思われる百済系単弁軒丸瓦が観世音寺寺域から出土していることを知りました。観世音寺創建瓦は老司Ⅰ式(7世紀後半)とわたしは理解していますので、それよりも古い百済系単弁軒丸瓦の出土には驚きました。そこで同論文を読んでみると、この百済系単弁軒丸瓦は観世音寺創建瓦ではなく、それ以前に当地にあった寺院のものと推定されていました。
 創建観世音寺の金堂跡から出土した基壇は瓦積みであり、その瓦は老司Ⅰ式と同時期と編年されており、一元史観の通説では8世紀前半と編年されています。老司Ⅰ式瓦が7世紀後半頃であれば、金堂の基壇に用いられた瓦も7世紀後半頃となり、創建観世音寺の建立を7世紀後半の白鳳十年(670)とする文献史料(『勝山記』他)の記述と整合します。したがって観世音寺寺域から出土した百済系単弁軒丸瓦が創建観世音寺以前に当地にあった寺院のものとする判断は穏当です。(つづく)


第1639話 2018/04/03

百済伝来阿弥陀如来像の流転(2)

 観世音寺創建時の本尊は百済から伝来した金銅阿弥陀如来像であったことが次の史料から明らかになっています。

 「其の状(太宰府解文)云わく、去る(康治二年、一一四三)六月二一日の夜、観世音寺の堂塔・回廊焼亡す。(略)但し、塔に於いては康平七年(一〇六四)五月十一日に焼亡す。中尊の丈六金銅阿弥陀如来像、猛火の中に在りても尊容に変わり無し。昔、百済國より之は渡り奉られり。云々。」(古賀訳)
 『国史大系』所収、「本朝世紀」
 康治二年(一一四三)七月十九日条

 これは康治二年(一一四三)の火災の記事ですが、このときは金堂は被災しておらず、阿弥陀如来像は無事でした。このように観世音寺は創建以来度々火災に遭っていることが、各史料に記されています。例えば次の通りです。

○筑前國観世音寺三綱等解案
 「當伽藍は是天智天皇の草創なり。(略)而るに去る康平七年(一〇六四)五月十一日、不慮の天火出来し、五間講堂・五重塔婆・佛地が焼亡す。」(古賀訳)
 元永二年(一一一九)三月二七日
 『平安遺文』〔一八九八〕所収。
 ※内閣文庫所蔵観世音寺文書

 康平七年(一〇六四)の火災により観世音寺は五重塔や講堂等が全焼し、金堂は火災を免れました。「不慮の天火出来」とありますから、落雷による火災と思われます。その後、観世音寺の復興が進められますが、五重塔だけは再建されていないようです。
 観世音寺の本尊金銅阿弥陀如来像は百済渡来で「丈六」とされていることから、身長一丈六尺(四・八五m)の仏像のようです(座像の場合は半分の二・四二m)。この丈六の阿弥陀如来像が百済から献上されたのであれば、それは百済滅亡(六六〇)以前の出来事となり、阿弥陀如来像の九州王朝への「搬入」は、当然、観世音寺創建(六七〇)よりも以前のこととなります。
 ちなみに、この阿弥陀如来像は天正十四年の兵乱により失われたようで、『筑前国続風土記拾遺』に次のように記されています。

 「此阿弥陀佛は金銅なりしか百済より船に積て志摩郡岐志浦につく。其所を今も佛崎とよぶ。此佛の座床なりし鐵今も残れり。依て其村を御床と云。彼寺の佛像ハ天正十四年兵乱に掠られてなくなりしといふ。」
 『筑前国続風土記拾遺』御笠郡三、観世音寺

 倭国と百済の盟友の証であった阿弥陀如来像も天正十四年(一五八六)岩屋城攻防戦のおり、島津軍兵によって鋳潰され刀の鍔にされたと伝わっています。こうして白鳳十年の創建以来残っていた佛像も失われました。
 なお、『筑前国続風土記拾遺』によれば、「講堂佛前の紫石の獅子は百済國より献すると云」(御笠郡観世音寺)とあり、本尊以外にも百済からの奉納品があったことがうかがえます。(つづく)