古田武彦一覧

第2256話 2020/10/09

古田武彦先生の遺訓(2)

『史記』「三代世表」と「十二諸侯年表」の

              歴代周王調査

 古代中国における「二倍年暦」の研究を深めるために、過日、京都府立図書館で司馬遷の『史記』を読んできました。膨大な史書ですので、今回は「表」(三代世表、十二諸侯年表)に記されている歴代周王や「周本紀」の紀年記事を精査しました。
 「三代世表」には二代周王の成王から共和まで、「十二諸侯年表」には共和から敬王までが表中(最上段)に列記されており、周代を概観するのに便利な「表」です。しかし『史記』本文の周王在位年数と各「紀」や「表」に掲載された歴代周王の在位年数に微妙な違いもありますので、留意が必要です。
 それとは別に、WEB上で『竹書紀年』(古文、今文)を閲覧し、その周王部分をエクセルにコピペし、『史記』『竹書紀年』『東方年表』(注①)を並べて、年代を比較しています。
 また、昨日からは『春秋左氏伝』明治書院版全四巻(鎌田正編著、1971年)を書架から引っ張り出して、約10年ぶりに読み直しています。これらの史書は基本的に一倍年暦で著述されており、その成立時点、あるいは後代での再編集時点は一倍年暦の時代になっていたことがうかがわれます(注②)。それらを二倍年暦(二倍年齢)の視点から史料批判を試みることが今回の調査目的です。(つづく)

(注)
①藤島達朗・野上俊静編『東方年表』(平楽寺書店、1988年版)
②一例を挙げれば、『春秋左氏伝』に見える次の記事は「一倍年齢」表記と考えざるを得ない。
 「晋の公子重耳、(中略)将に齊に適(ゆ)かんとし、季隗(きかい)に謂ひて曰く、我を待つこと廿五年なれ。来たらずして而(しか)る後に嫁(か)せよ、と。對(こた)へて曰く、我は廿五年なり。又是(か)くの如くにして嫁せば、則ち木〔棺〕に就かん。請ふ子(し)を待たん、と。狄(てき)に處(お)ること十二年にして行(さ)る。(後略)」一巻362頁
 これは、晋の公子重耳が妻の季隗に、「25年待ってわたしが迎えに来なかったら他に嫁げ」と言ったが、季隗は「わたしは25歳なので、それだけ待っていたら棺桶にはいることでしょう。あなたの帰りを待たせてほしい」と言い、重耳は12年留まってから齊に去ったという説話である。
 このとき季隗は既に子供を二人産んでおり、この年齢(25歳)からは一倍年暦と考えざるを得ないが、「25年待て」という中途半端な数字であることから、本来の記事は二倍年暦による「50年待て」というものではなかったか。すなわち、『春秋左氏伝』編纂当時の一倍年暦に換算して、二分の一の「25年」に改訂表記されたのではあるまいか。とすれば、その編纂時点では二倍年暦(二倍年齢)の存在がまだ記憶されていた、ということになろう。


第2253話 2020/10/06

『纒向学研究』第8号を読む(2)

 柳田康雄さんの「倭国における方形板石硯と研石の出現年代と製作技術」(注①)によれば、弥生時代の板石硯の出土は福岡県が半数以上を占めており、いわゆる「邪馬台国」北部九州説を強く指示しています。なお、『三国志』倭人伝の原文には「邪馬壹国」とあり、「邪馬台国」ではありません。説明や論証もなく「邪馬台国」と原文改定するのは〝学問の禁じ手(研究不正)〟であり、古田武彦先生が指摘された通りです(注②)。
 古田説では、邪馬壹国は博多湾岸・筑前中域にあり、その領域は筑前・筑後・豊前にまたがる大国であり、女王俾弥呼(ひみか)がいた王宮や墓の位置は博多湾岸・春日市付近とされました。ところが、今回の板石硯の出土分布を精査すると、その分布中心は博多湾岸というよりも、内陸部であることが注目されます。それは次のようです。

〈内陸部〉筑紫野市29例(研石6)、筑前町22例(研石5)、朝倉市4例、小郡市3例(研石1)、筑後市4例(研石1)

〈糸島・博多湾岸部〉糸島市13例(研石3)以上、福岡市17例(研石1)
 ※この他に、豊前に相当する北九州市20例と築城町8例(研石1)も注目されます。

 しかも、弥生中期前半頃に遡る古いものは内陸部(筑紫野市、筑前町)から出土しています。当時、硯を使用するのは交易や行政を担当する文字官僚たちですから、当然、倭王の都の中枢領域にいたはずです。内陸部に多いという出土事実は古田説とどのように整合するのか、あるいは今後の発見を期待できるのか、古田学派にとって検討すべき問題ではないでしょうか。
 柳田さんは次のように述べて、教科書の改訂を主張されています。

 「これからは倭国の先進地域であるイト国・ナ国の王墓などに埋葬されてもよい長方形板石硯であるが、いまだに発見されていない。いずれ発見されるものと信じるが、今回の集落での発見は一定の集落内にも識字階級が存在することを示唆しているだけでも研究の成果だと考えている。青銅武器や銅鏡の生産を実現し、一定階級段階での地域交流に文字が使用されている弥生時代は、もはや原始時代ではなく、教科書を改訂すべきである。」(43頁)

 大和朝廷一元史観に基づく通説論者からも、このような提言がなされる時代に、ようやくわたしたちは到達したのです。(つづく)

(注)
①『纒向学研究』第8号(桜井市纒向学研究センター、2020年)所収。
②古田武彦『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)


第2252話 2020/10/06

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(4)

 大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えていただいたもう一つの古い土器、サン・ペドロ複合遺物(San Pedro complex)の土器については当該論文(注)を入手し、その写真を見ることができました。サン・ペドロ土器はバルディビアの南側約40kmほどのところにあるリアル・アルト(Real Alto)遺跡で発見され、そこはバルディビアと同じ太平洋岸に位置しています。ですから、広い意味では同一領域(エクアドル太平洋岸)と考えてもよいように思います。
 論文によればサン・ペドロ土器の中で最も古いものは、バルディビア土器1層とその下の無土器時代層の間から出土しており、バルディビア土器よりも古いとされています。掲載された写真によれば、その文様は単純な〝線刻〟であり、比較的進化した文様を持つバルディビア土器よりも素朴で古いと見てよいと思われました。
 以上の理解が正しければ、バルディビア土器の誕生が縄文土器の伝播によるとする場合、最初にリアル・アルトへ伝播し、その後に北部のバルディビアへも広がり、あの多彩なバルディビア土器群へ発展したと考えることもできます。あるいは、アマゾン川下流域の土器が南米大陸を横断してリアル・アルトへ伝播したのかもしれません。
 いずれにしても、このような新知見を取り入れて、「縄文人が太平洋を渡り、縄文土器がバルディビアに伝播した」とするメガーズ説の修正発展、あるいは大胆な見直しを含む再検証が必要な時代を迎えたようです。(おわり)

(注)〝New data on early pottery traditions in South America: the San Pedro complex, Ecuador〟Article in Antiquity June 2019 Yoshitaka Kanomata , Jorge Marcos , Alexander Popov , Boris Lazin & Andrey Yabarev


第2250話 2020/10/05

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(2)

 縄文人が太平洋を渡り、縄文土器が伝播したとするメガーズ説の論点と根拠はおおよそ次のようなものでした。

①5000年前の土器がエクアドル海岸部のバルディビアから出土している。それに続く他の遺跡からは5600年前に遡る土器が出土しており、これは南北アメリカで最古の土器である。
②進化した文様を有しているバルディビア土器は、無土器時代の地層の上からいきなり出土することから、同土器は当地で独立発達したものではなく、より古い土器文明の歴史を有する他地域からの伝播と考えざるを得ない。
③調査の結果、日本列島の縄文土器の文様に類似していることが判明した。しかも、縄文土器の方が古く、数千年の土器発展の歴史を有しており、縄文土器がバルディビアに伝播したと考えざるを得ない。
④縄文土器の伝播の結果、文様が似たバルディビア土器が生まれた。土器の形態などは一部に類似する部分もあるが、全体としては似ていない。しかし、伝播の根拠として基本とすべきは文様であり、その他の形態などは、生活様式などの差により、必ずしも似るとは限らない。
⑤太平洋は文明を遮断するものではなく、むしろ文明を繋ぐ海流の道である。このことを証明する植物の伝播などの根拠もある。

 メガーズさんとお会いした25年前(1995年)は、アメリカ考古学会の内外でバルディビア土器について伝播説と独立発達説とで激しい論争が続いていました(注①)。中でも、④については日本の考古学者からも批判されていた論点でした。更に、コロンビアのサンハシントやアマゾンから、バルディビアよりも古い土器の出土が報告され始めたこともあり、①についても見直すべきであるとの次のような指摘が縄文土器研究者の小林達雄さん(国学院大学教授)から出されていました(注②)。

 「その前に、サン・ハシントですか。今度はそっちと比べなければいけなくなったわけですね、そっちのほうが古いわけですから。こっちの土器がどこから来たかというときには、焦点はそっちに移るわけで、それと比べなければいけない、ということになるわけです。」(『海の古代史』192頁)
 「それからアマゾン川のほうに、やっぱり六〇〇〇年前ぐらいだと思うんですけれども、相当厚い貝層が遺っているんですが、そこから土器が出て、それがやっぱり六〇〇〇年前くらいなんです。そういうことを重ね合わせていくと、まだまだ土器の起源というものを、外にすぐに求めるというようなやり方よりも、内部でもう少し見ていくほうがいいんじゃないかという気がするんです。」(同193頁)

 小林さんはバルディビア土器はアメリカ大陸内に発生源があったと考えた方がよいとの見解ですが、同時に、サン・ハシントの土器が縄文土器に似ていることも述べておられます。

 「さらに、土器なんかも、相当、縄文に近いのが、立体的で、サンハシントのやつは突起に近いやつがあったりしますね。そういった意味では、もっともっとバルディビアの土器なんかより、そういう意味では似ていると思いますね。」(同212頁)

 わたしもサン・ハシントの土器が縄文土器にそっくりなので驚いたのですが、しかし、縄文土器の伝播とするにはまだ問題もありました。メガーズさんもサン・ハシント遺跡の写真を持参され、「これに似た遺跡が日本にないか」と古田先生にたずねられていました。(つづく)

(注)
①古田武彦訳著『倭人も太平洋を渡った コロンブス以前の「アメリカ発見」』(創世記、1977年)に伝播説を批判した論稿「様式と文化交流の間」(ジョン・マラー)が掲載されている。原著の編集者は、Carroll L.Riley J.Charles Kelley Campbell W.Pennington Robert L.Rands。
②古田武彦著『海の古代史』(原書房、1996年)


第2249話 2020/10/04

ベティー・J・メガーズ博士の想い出(1)

 古田武彦先生の名著『「邪馬台国」はなかった』(朝日新聞社、1971年。ミネルヴァ書房より復刻)の中で異彩を放つテーマがあります。倭人が中南米にあった裸国・黒歯国まで太平洋を渡って交流していたというテーマです。この部分の削除を編集者から要請されたり、ご友人からも掲載に反対されたとのことですが、古田先生はそれを拒否されました。
 その後、倭人の太平洋横断を支持する研究がアメリカでもなされていたことがわかりました。アメリカの考古学者、クリフォード・エバンズ(Clifford Evans)夫妻の研究によれば、エクアドルのバルディビア遺跡から出土した土器の文様が日本列島の縄文土器に類似していることから、縄文人が太平洋を渡り、縄文土器の文様が伝播したとされました。この研究を知った古田先生は自説を支持するものとして評価され、古田武彦訳著『倭人も太平洋を渡った コロンブス以前の「アメリカ発見」』(創世記、1977年)を刊行されました。
 1995年11月にはエバンス夫人(Betty Jane Meggers 1921-2012、アメリカ合衆国考古学会副会長)が来日され、古田先生を始め各界の専門家との「縄文ミーティング」に出席されました。その内容は古田武彦著『海の古代史』(原書房、1996年)に掲載されていますのでご参照下さい。わたしは古田先生のご配慮により、録音係として同ミーティングに同席させていただきました。今でも、通訳の女性の博識を鮮明に記憶しています。メガーズ博士が話される考古学用語や出席者の多方面の専門用語を見事に訳されていました。日本語訳について確認されたのは「〝point〟は〝やじり〟でよろしいですね」の一回だけでした。出席者の各分野の専門用語を淀むことなく英訳され、ミーティング終了時には参加者一同から拍手が贈られたほどです。

【縄文ミーティング出席者】
 1995年11月3日(金) 全日空ホテル(東京都港区赤坂)
ベティー・J・メガーズ博士
大貫良夫(東京大学理学部教授)
鈴木隆雄(老人総合研究所疫学室長)
田島和雄(愛知ガンセンター疫学部長)
古田武彦(昭和薬科大学教授)〈司会〉
 ※所属・肩書きは当時のもの。

 議論が白熱すると、通訳を待たずに全員が英語で話し出すという一幕もあり、主催者の藤沢徹さん(故人・東京古田会々長)から、「この内容は日本語で書籍化しますので、日本語で話して下さい」と注意がなされたほどです。通訳の女性は、皆が英語で話している間は一休みできてホッとされていました。わたしの英語力では専門用語はもとより、メガーズさんの英語はほとんど理解できませんでした。ときおり耳に入る〝migration〟という言葉に、縄文人や土器の「移動」について論議されているのだなあと推測していました。
 ところが、南米でバルディビア土器よりも古い土器の発見が続いていることを最近になって大原重雄さん(『古代に真実を求めて』編集部)から教えていただき、従来のメガーズ説について検証が必要であることを知りました。(つづく)


第2247話 2020/10/02

古田武彦先生の遺訓「二倍年暦の研究」

 今日は秋晴れのなか、岡崎公園にある京都府立図書館を訪れ、二冊の本を閲覧しました。岳南著『夏王朝は幻ではなかった 一二〇〇年遡った中国文明史の起源』(柏書房、2005年)と佐藤信弥著『中国古代史研究の最前線』(星海社、2018年)です。
 前者は中国の国家プロジェクトとして実施された中国古代王朝の絶対年代決定プロジェクト(夏商周断代工程)の概要と結果をまとめたもので、その結論が正しければ古田先生やわたしが提唱してきた『論語』など周代史料の二倍年暦説が否定されます。後者はタイトルにある通り、中国古代史研究の最新状況を紹介したもので、主に「夏商周断代工程」以後の研究について解説されたものです。
 二倍年暦研究において、わたしは古田先生から『論語』の語彙悉皆調査を委託されましたが、その当時は仕事が多忙で果たせませんでした(注)。本年八月、わたしは四五年間勤務した化学会社を定年退職し、ようやく古田先生の遺訓を実現できる研究環境を得ました。
 『論語』はもとより、『春秋』『竹書紀年』の本格的な史料批判をこれから試みます。その手始めとして、この二冊を読みました。そこからは、わたしが想像していた通り、二倍年暦や「二倍年齢」という概念を持たない現代中国の研究者たちの限界と混乱の様子が見えてきました。(つづく)

(注)
 平成二二年(二〇一〇)「八王子セミナー」で古田先生は次のように発言されています。
 「二倍年暦の問題は残されたテーマです。古賀達也さんに依頼しているのですが、(中略)それで『論語』について解釈すれば、三十でよいか、他のものはどうか、それを一語一語、確認を取っていく。その本を一冊作ってくださいと、五、六年前から古賀さんに会えば言っているのですが、彼も会社の方が忙しくて、あれだけの能力があると使い勝手がよいのでしょう、組合の委員長をしたり、忙しくてしようがないわけです。」『古田武彦が語る多元史観』六六~六七頁(ミネルヴァ書房、二〇一四年)


第2230話 2020/09/10

南極越冬隊員、北村泰一先生のこと

 昨日、関西テレビで放送された「世界の何だコレ!?ミステリーSP」(19:00~20:54)を視て感動した妻が「南極のタローとジローの他にリキというリーダー犬が生存していたらしい」と番組の内容を事細かに報告するので、「そのときの越冬隊の方に知り合いがいるよ」と言うと、「北村泰一さんというカラフト犬担当のご老人がその番組に出ていた」とのこと。「僕はその北村先生と知り合いで、お会いしたこともある」と自慢げに説明すると、妻は驚いていました。わたしは、北村先生がご健在であることを知り、嬉しくなり、昔のことを思い出しました。
 北村泰一先生(九州大学名誉教授)は古田先生の大ファンで古田史学の熱心な支持者です。福岡市で開催した古田先生の講演会にもよくお見えになっておられました。そうした御縁もあって、『新・古代学』第二集(新泉社、1996年)の特集「地球物理学と古代史と」「タクラマカン砂漠の幻の海 ―変わるシルクロード」をご寄稿いただきました。同書には古田先生との対談「地球物理学と古代史」も掲載されています。また、「古田史学の会」にご寄付をいただいたこともありました。
 北村先生は京都市のご出身で、鴨沂高校から京都大学へ進まれました。京大山岳部に所属されていたこともあり、同大学院生時代に第一~三次南極越冬隊にオーロラ観測と犬ぞりのカラフト犬担当係として参加されました。最年少隊員(25歳)だったそうです。第三次越冬隊のとき、昭和基地でタロー・ジローと奇跡の再会をされたことは有名です。
 なお、今回の番組は『その犬の名を誰も知らない』という本を基に企画されたものです。著者の嘉悦洋さんは、西日本新聞の記者を務められた方で、2018年、まったくの偶然から南極観測隊第一次越冬隊の犬係だった北村先生が福岡市でご健在であることを知り、インタビューに訪れ、同書を上梓されたとのことです。

書名 その犬の名を誰も知らない
監修・編集・著者 嘉悦洋著、北村泰一監修
出版社 小学館集英社プロダクション
出版年月日 2020年2月20日
定価 本体1500円+税


第2229話 2020/09/09

文武天皇「即位の宣命」の考察(11)

 文武天皇と元明天皇の「即位の宣命」の考察結果が、古田先生による天智天皇(近江朝)による671年(天智十年)の「日本国」創建という〝奇説〟と正木裕さんの「九州王朝系近江朝」説とに結びつき、671年の「王朝統合」(禅譲に近い)と701年の「王朝交替」という九州王朝末期の歴史復元が可能となりました。
 しかしながら、671年の「王朝統合」は、九州年号「白鳳」(661~683年)が改元されず継続していることから、天武と大友皇子との「壬申の大乱」により「九州王朝系近江朝」は滅び、元々の九州王朝が継続することになったことがわかります。
 この「王朝統合」(禅譲に近い)と「壬申の大乱」(九州王朝系近江朝の滅亡)のことが、元明天皇から元正天皇への「譲位の詔」に記されていることを本シリーズの最後に紹介します。それは霊亀元年(715年)「譲位の詔勅」冒頭の次の記事です。

〝(元明)天皇、位を氷高内親王(元正天皇)に禅(ゆず)りたまふ。詔して曰はく、
 「乾道は天を統べ、文明是(ここ)に暦を馭す。大なる宝を位と曰ひ、震極、所以に尊に居り。
 昔者(むかし)、揖譲(いうじょう)の君、旁(ひろ)く求めて歴(あまね)く試み、干戈(かんか)の主、体を継ぎて基(もとい)を承(う)け、厥(そ)の後昆(こうこん)に貽(のこ)して、克(よ)く鼎祚(ていそ)を隆(さか)りにしき。朕、天下に君として臨み、黎元(おほみたから)を撫育するに、上天の保休を蒙り、祖宗の遺慶に頼(よ)りて、海内晏静にして、区夏安寧なり。(後略)」〟
 『続日本紀』巻第六、元明天皇霊亀元年九月二日条

 この詔の「昔者(むかし)、揖譲(いうじょう)の君、旁(ひろ)く求めて歴(あまね)く試み、干戈(かんか)の主、体を継ぎて基(もとい)を承(う)け、厥(そ)の後昆(こうこん)に貽(のこ)して、克(よ)く鼎祚(ていそ)を隆(さか)りにしき。」という部分にわたしは着目しました。その大意は次のようです。

①「昔者、揖譲の君、旁く求めて歴く試み」
 昔、天子の位を禅譲(揖譲)する者は優れた人材を各地から集め、その才能を試み、
②「干戈の主、体を継ぎて基を承け」
 武力(干戈)により位についた者は、天子の位を継承し、
③「厥の後昆に貽して、克く鼎祚を隆りにしき。」
 それを子孫(後昆)に継承し、天子の地位(鼎祚)を確かなものにした。

 通説では、この文を古代中国における禅譲や放伐による王朝の興亡を故事として述べたものと理解されてきたと思われますが、九州王朝説に立てば、極めて具体的な歴史事実を示したものととらえることができます。
 この詔を聞いた官僚や諸豪族は、九州王朝から大和朝廷への王朝交替というわずか十数年前の歴史事実に照らしてこの文を受け止めるのではないでしょうか。少なくとも、『古事記』や『日本書紀』に記された近畿天皇家の歴史に禅譲など存在しませんから、元明天皇の「譲位の詔」に自らと無関係な古代中国の禅譲の故事など不要ですし、むしろ禅譲などする気もない近畿天皇家にとって無用の故事です。
 しかし、「王朝統合」(禅譲に近い)と「壬申の大乱」(九州王朝系近江朝の滅亡)という新たな仮説に照らして考えると、「揖譲の君」は「九州王朝系近江朝」の天皇位を天智に禅譲した九州王朝の天子のことであり、その「九州王朝系近江朝」を武力討伐した天武は「干戈の主」に対応しています。そしてその子孫である大和朝廷の天皇は「厥の後昆・鼎祚」というにぴったりです。
 この元明の「譲位の詔」ではこうした歴史認識が示された後に、元正への譲位が宣言されます。そして、元正天皇の時代(720年)に編纂された『日本書紀』には、天智に禅譲した九州王朝の天子はもとより、九州王朝の存在そのものが隠されていますし、天智が定めた「不改常典」さえも登場しません。すなわち、自らの権威の淵源を天孫降臨以来の神々と初代神武天皇とすることにより、文武天皇や元明天皇の「即位の宣命」とは似て非なる大義名分を造作し、それを国内に流布するという政略を大和朝廷は採用しました。その結果、『日本書紀』の一元的歴史観は千三百年にわたりわが国の基本歴史認識となりました。しかし、九州王朝の存在や王朝交替を認めないその基本認識(一元史観)では、禅譲による近江朝の樹立と天皇即位の根拠になった「不改常典」について正しく理解することが困難なため、諸説入り乱れるという古代史学界の今日の状況を生み出すこととなったようです。(おわり)


第2228話 2020/09/08

文武天皇「即位の宣命」の考察(10)

 元明天皇の「即位の宣命」にあるように、近畿天皇家の天皇即位の根拠や王朝交替の正統性が、天智天皇が定めた「不改常典」法にあるとすれば、そのことと深く関わる論文二編があります。
 一つは古田先生の著書『よみがえる卑弥呼』(駸々堂、1987年)に収録されている「日本国の創建」という論文で、671年(天智十年)、近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったとされています。これは古田史学の中でも〝孤立〟した説で、古田学派内でもほとんど注目されてこなかった論文です。言わば古田説(九州王朝説)の中に居場所がない〝奇説〟でした。
 もう一つの論文は、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の「『近江朝年号』の実在について」(『古田史学会報』133号、2016年4月)です。これは、近畿天皇家出身の天智が九州王朝を受け継いで近江大津宮で即位し、九州王朝(倭国)の姫と思われる「倭姫王」を皇后に迎えたというものです。すなわち、「九州王朝系近江朝」という概念を提起されたのです(注①)。
 この正木さんの「九州王朝系近江朝」説により、古田先生の671年(天智十年)に近畿天皇家の天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったという〝奇説〟が、従来の九州王朝説の中で、671年の「王朝統合」(禅譲に近い)と701年の「王朝交替」という結節点と臨界点としての位置づけが可能となり、九州王朝末期における新たな歴史像の提起が可能となったように思われます。ただし、671年の「王朝統合」は天武と大友皇子との「壬申の大乱」により水泡に帰します。近世史でいえば、幕末の「公武合体」が失敗したようにです。しかし、このとき天智により定められた「不改常典」法が701年の王朝交替とその後の天皇即位の正統性の根拠とされました。その痕跡が本シリーズで紹介してきたように、文武天皇と元明天皇の「即位の宣命」に遺されたのです(注②)。(つづく)

(注)
①次の関連論文がある。
 正木 裕「『近江朝年号』の研究」(『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』明石書店、2017年)に収録。
 古賀達也「九州王朝を継承した近江朝庭 正木新説の展開と考察」(『古田史学会報』134号、2016年6月)。『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(『古代に真実を求めて』20集。明石書店、2017年)に転載。
②王朝交替期における大和朝廷による九州王朝の権威の継承や、それを現す「倭根子天皇」という表記について、次の拙稿で論じているので、参照されたい。
 古賀達也「九州王朝系近江朝廷の『血統』 ―『男系継承』と『不改常典』『倭根子』―」(『古田史学会報』157号、2020年4月)


第2110話 2020/08/22

旧石器捏造事件の想い出

 本日、「古田史学の会」関西例会が開催されました。司会の西村秀己さん(全国世話人、高松市)が所用で参加されなかったので、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)に司会進行を担当していただきました。わたしはご町内(上京区梶井町)の地蔵盆のため、1時間ほど遅刻しましたので、服部さんの発表を聞けませんでした。そこで、お昼の休憩時間に概要を教えていただきました。
 今回の発表では、大原さん(『古代に真実を求めて』編集部)による、旧石器捏造事件の解説は特に印象的でした。当時、特定人物による旧石器の発見が続出したことを疑問視する考古学者は少なくなかったのですが、学界の「権威」に対して沈黙したこと、事件には「共犯者」がいたとする見解などが紹介されました。そして、「事件を風化させない継続的な働きかけや考古学への外部チェックのような存在として古田史学はその役割を発揮しなければならないのではないか」と締めくくられました。
 旧石器捏造事件が発覚する前に、古田先生はその捏造の当事者に会われたことがあるとお聞きしました。その後、「古田史学の会・仙台」がその人物に講演をお願いしたところ、急に態度がよそよそしくなり、交流が途絶えたとのことです。そしてその直後に捏造事件が明るみになったことなど、わたしは大原さんの発表を聞いていて思い出しました。
 正木さんからは『隋書』や『日本書紀』に見える、中国(隋・唐)と日本(九州王朝・近畿天皇家)との国書や交流記事についての古田先生の説が初期の頃と晩年とでどのように変化したのかについて解説され、それぞれの問題点とその解決案についての発表がありました。かなり重要で複雑な論証を含む内容ですので、別の機会に改めて論じたいと思います。
 今回の例会発表は次の通りでした。なお、発表者はレジュメを40部作成されるようお願いします。発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレス)か電話で発表申請を行ってください。

〔8月度関西例会の内容〕
①秦韓慕韓問題(八尾市・服部静尚)
②倭地周旋と邪馬台国論(姫路市・野田利郎)
③風化させてはならない旧石器捏造事件(大山崎町・大原重雄)
④欽明天皇の存在にまつわる不可思議(茨木市・満田正賢)
⑤「驛」記事の検証(東大阪市・萩野秀公)
⑥『書紀』の「小野妹子の遣唐使」記事とは何か(川西市・正木 裕)

◆「古田史学の会」関西例会(第三土曜日) 参加費1,000円(「三密」の回避に大部屋使用のため)
 09/19(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
 10/17(土) 10:00~17:00 会場:ドーンセンター
 11/21(土) 10:00~17:00 会場:福島区民センター(※参加費500円)

《各講演会・研究会のご案内》
◆「市民古代史の会・京都」講演会 会場:キャンパスプラザ京都
 09/15(火) 18:30~20:00 「万葉の色と染」 講師:古賀達也
 10/20(火) 18:30~20:00 「能楽の中の古代史」 講師:正木 裕さん

◆「古代大和史研究会」講演会(原 幸子代表) 参加費500円
 09/29(火) 10:00~12:00 会場:奈良県立図書情報館
    「多利思北孤の時代② 仏教を梃とした全国統治」 講師:正木 裕さん
 10/27(火) 10:00~12:00 会場:奈良新聞社西館3階
    「多利思北孤の時代③ 「聖徳太子」の「遣隋使」はなかった」 講師:正木 裕さん

◆「古代史講演会in八尾」 会場:八尾市文化会館プリズムホール
 09/12(土) 14:00~16:00 ①「九州王朝」と「倭国年号」の世界 ②「盗まれた天皇陵」 講師:服部静尚さん
 10/03(土) 14:00~16:00 ①「古代瓦と飛鳥寺院」 ②「法隆寺の釈迦三尊像と薬師像」 講師:服部静尚さん
 11/03(火・祝) 14:00~16:00 ①「大化の改新」と難波京 ②「条坊都市はなぜ造られたのか」 講師:服部静尚さん

◆「和泉史談会」講演会 会場:和泉市コミュニティーセンター

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《古田武彦記念古代史セミナー2020》(八王子セミナー)
 11/14~15 大学セミナーハウス(東京都八王子市)
 新型コロナ対策として、Zoomを使ったオンライン+現地参加の「ハイブリッド方式」での開催となりました。オンライン参加6,000円、現地参加15,000円。


第2200話 2020/08/09

『隋書』「俀国」表記の古田先生の理解

 『隋書』夷蛮伝の「俀国」の「俀」の由来について、古田先生が『失われた九州王朝』(第三章 四、『隋書』俀国伝の示すもの)で次のように説明されていることを「洛中洛外日記」2182話(2020/07/11)〝九州王朝の国号(8)〟で紹介し、同2183話(2020/07/12)〝九州王朝の国号(9)〟では、「古田先生は、五世紀以来、『タイ国』という名称を用いた九州王朝が『倭』に似た文字の『俀』と一字で表記した」と説明しました。

【以下、引用】
〈三国志〉
 邪馬壹国=山(やま)・倭(ゐ)国(倭国の中心たる「山」の都)
〈後漢書〉
 邪馬臺国=山(やま)・臺(たい)国(臺国〔大倭(たいゐ)国〕の中心たる「山」の都)
〈隋書〉
邪靡堆=山(やま)・堆(たい)(堆〔大倭〕の中心たる「山」の都)
 〈中略〉
 右のように、五世紀以来、「タイ国」という名称が用いられていたのが知られる。おそらく「大倭(タ・ヰ)国」の意味であろう。これを『後漢書』では「臺国」と表記し、今、『隋書』では「倭」に似た文字を用いて、「俀国」と表記したのである。このように一字で表記したのは、中国の一字国号にならったものであろう。なお、「倭」の字に中国側で「ゐ→わ」という音韻変化がおこり、「倭」を従来通り「ゐ」と読みにくくなった。このような、漢字自体の字音変化も、「俀」字使用の背景に存しよう。
【引用、終わり】

 この引用文の直前の「俀国の由来」冒頭には、次のようにも述べられています。

〝ここで「俀」という、わたしたちにとって〝目馴れぬ〟文字を国名とした由来について考えてみよう。
 『隋書』俀国伝の記述は、先にのべたように、多利思北孤の国書に直接もとづいている。だから、この国書の中に自国の国名を「俀(タイ)国」と名乗っていた。そのように考えるほかない。〟

 この文章は『失われた九州王朝』「第三章 高句麗王碑と倭国の展開」(朝日新聞社、1973年)に記されたもので、その時点での古田先生の見解を示しています。ところが、東京古田会の機関紙『東京古田会ニュース』バックナンバーを精査したところ、次の古田先生の寄稿文がありました。要点部分を転載します。

〝第一に「俀」の訓み。わたしは「タイ」と訓んできたが、田口さんは「ツイ」と訓んでおられる。お聞きすると、「漢音では『タイ』だが、呉音系列では『ツイ』。九州王朝は南朝系だから『ツイ』と訓んだ。」とのこと。なるほど、一つの筋道だ。
 だが、わたしはお答えした。
 「問題は、この『俀』という文字を“使った”のが、九州王朝側か、それとも隋書を作った『唐』側か、という点です。
 この『俀』という字には『よわい』という意味しかありません(諸橋、大漢和辞典)。そんな字を、九州王朝自身が“使って”外国(隋か唐)への国書を送るものか。有名な『日出ずる処の天子』を自称するほど、誇りに満ちた王朝ですからね。」
 わたしは言葉を次いだ。
 「ですから、わたしの考えでは、九州王朝側は『大倭』(タイヰ)と国書に書いたのではないか。と思うのです。
 『倭』は、魏や西晋など、洛陽・西安滅亡の『四一六』、南北朝成立以前には『wi』です。右の北朝、つまり北魏(鮮卑)の黄河流域制圧以後、『wa』の音が成立してきた、と思います。
 (中略)
 それで、『大倭』は『タイヰ』と発音していたはずです。ところが、隋や唐側は、これを“面白く”思わなかった。『大隋』というのは、隋自身の“誇称”ですからね。『天子』を自称する倭国側には当然でも、隋には『不愉快』。いわんや唐にとっては、“許しうる国号”ではありません。ですからこれを『弱い』という意味の『俀』に“取り変え”て表記したのではないでしょうか。
 ちょうど、三国志に出てくるように、新の王莽が高句麗を敵視して『下句麗』と書き改めたという、あれと同じです。文字の国独自の“やり口”ですね。」
 わたしはそのように語った。
 「まかりまちがっても、倭国側が自分でわざわざ『弱い』という意味の文字を使うはずはありませんからね。」
と、わたしにとっても、永年の模索の結論だったのである。〟『東京古田会ニュース』108号(2006年5月)「閑中月記 第四十一回 創刊『なかった』」

 このように2006年段階では、「俀国」という文字使用は、隋書を作った『唐』側によるものとされています。そして末尾にあるように、このことを「永年の模索の結論だった」と述べておられますから、自説変更のため、三十年以上、模索されていたわけです。ですから、本件についての「古田説」を紹介する場合は、2006年段階の〝「俀国」表記は隋書を作った唐側による〟とするのが適切ではないでしょうか。


第2184話 2020/07/13

九州王朝の国号(10)

 六世紀末から七世紀初頭の九州王朝が「倭国」から「大委国」へと国号を変更したとする拙論は、同時代の史料(『法華義疏』)に見える「大委国」と『隋書』夷蛮伝に見える「俀」の字を根拠に成立しています。そこで次の検討課題は七世紀後半の国号です。白村江戦敗北による唐軍の筑紫進駐や「壬申の大乱」、そして大和朝廷との王朝交替へと続く激動の時代であり、国号についても難しい問題があります。
 古田説では、「倭国」を名乗った九州王朝から701年の王朝交替により「日本国」を名乗った大和朝廷の創立という大きな歴史認識があります。ところがそれよりも30年前の671年(天智十年)に、天智天皇の近江朝が「日本国」を名乗ったとする古田先生の論文があります。「日本国の創建」(『よみがえる卑弥呼』駸々堂、1987年)という論文で、古田学派内でもあまり注目されてきませんでしたし、古田先生ご自身もその論文について触れることは、わたしの知る限りではありませんでした。
 他方、『失われた九州王朝』(朝日新聞社、1973年)では、『旧唐書』日本国伝の記事を根拠に大和朝廷が「日本」を名乗る以前に九州王朝が「日本」を名乗ったとされており、「日本国の創建」で発表された天智天皇による671年の日本国創建説とは相容れません。『失われた九州王朝』「第四章 隣国史料にみえる九州王朝」には次のように記されています。

【以下、引用】
(一)「委奴国」や「卑弥呼」より、「多利思北孤」にいたる連綿たる九州王朝が「倭国」の中心王朝である(一時「俀国」とも名乗った)『隋書』。
(二)その倭国が「日本」と自ら国号を改称した。
(三)近畿大和の一小国だった天皇家がこれを征服し、併合した。
(四)そのとき、天皇家は、国号を九州王朝から「継承」し、やはり「日本国」と称した。
 つまり、「日本」と名乗った最初は、天皇家ではなく、九州王朝だ、というのである。
【引用終わり】

 以上のように、「日本」の国号を最初に名乗ったのが九州王朝とする説と近畿天皇家の天智天皇(近江朝)とする相容れない二説が古田説として併存しているのです。ところが、近年、この矛盾を解決できる仮説が発表されました。正木裕さん(古田史学の会・事務局長)の「九州王朝系近江朝」という新説です。(つづく)