古田史学の会一覧

第1123話 2016/01/16

倭人伝「その北岸、狗邪韓国」大激論

 新年最初の関西例会が本日開催されました。関西例会らしく、新年早々から大激論となりました。冒頭、正木事務局長から明日に迫った古田先生追悼講演会の入念な打ち合わせがあり、例会参加者の協力を要請しました。
 出野さんから『三国志』倭人伝の「その北岸、狗邪韓国に到る、七千余里」の理解として、韓国の外側を水行した船から見て北側にある「北岸」とされ、古田説の韓国内陸行に反対する説が示されました。それに対して多くの批判が参加者から出され、厳しい論争が続きました。「学問は批判を歓迎する」とわたしは考えていますから、実に関西例会らしい素晴らしい論争でした。
 わたしは出野さんの読解のうち、「郡から倭に到る」とある倭人伝の「倭」が、「倭国の都」ではなく朝鮮半島内の「倭」である狗邪韓国までとする理解に、有力な見解であると賛意を表明しました。出野さんは狗邪韓国を日本列島内の倭国とは別国の朝鮮半島内の「倭」とされているのですが、わたしは倭国は対馬海峡にまたがる海峡国家とする古田説が妥当であり、狗邪韓国がその倭国の「北岸」と考えています。しかし、その「郡から倭に到る」の「倭」とは、倭国との国境(狗邪韓国)までと理解する点については出野さんの読解も成立すると思いました。ちなみに、古田先生は『「邪馬台国」はなかった』では「郡から倭に到る」の「倭」を「倭国の都」(倭国の中心領域)とされています。
 今回の出野さんの発表により気がついたのですが、郡から倭の都まで至ることを示す記事は、行程記事の終わりの方に「郡より女王国に至る、万二千余里」とあります。ここでは倭国の都がある「女王国」に至るという表記となっており、狗邪韓国までの行程を示す「郡より倭に至る」とは目的地表記(「倭」と「女王国」)が異なっているのです。すなわち、到着点(通過点)が倭との国境(狗邪韓国、七千余里)と倭の都(女王国、万二千余里)と書き分けられているのです。この点、古田先生も後の著作で触れておられたように記憶しています。
 韓国内を陸行とするのか水行とするのか、狗邪韓国を倭国の北岸とするのか、朝鮮半島内の別国の「倭」とするのかで、出野さんとは意見が異なりますが、論争により倭人伝行程記事に対する認識が深まりました。まさに「学問は批判を歓迎する」を実感できた論争でした。
 1月例会の発表は次の通りでした。

〔1月度関西例会の内容〕
○明日の「古田先生追悼講演会」の打ち合わせ(正木事務局長)

①狗邪韓国についての再考察(奈良市・出野正)
②代始改元と九州年号(八尾市・服部静尚)
③「名太子為利」の訓みの疑問(高松市・西村秀己)
④『日本書紀』宣化紀に盗用された磐井と「磐井の乱」記事の実際(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生追悼文(森嶋瑤子様)・堂門冬二著『楠木正成』を読む・寄手塚味方塚訪問の想い出・室伏志畔著『薬師寺の向こう側』贈呈受・その他


第1122話 2016/01/13

本年5月に講演を2件行います

 昨日は大阪市西区の大阪科学技術センターにて近畿化学協会・機能性色素部会の定例会で講演(草木染から機能性色素へ -染料と染色の化学史-)しました。講師はわたしの他に、村中厚哉さん(理化学研究所)と高坂貴浩さん(セーレン)でした。最先端研究開発に携わっている化学者が相手でしたので緊張しましたが、「染料と染色の化学史」という切り口が思いのほか好評で、近畿化学協会誌への寄稿や大阪市立工業研究所の方から講演依頼をいただきました。
 新年も年始から講演依頼が続いていますが、特に5月は既に2件の講演が決まりました。5月20日(金)に大阪でTES会西日本支部の年次大会での特別講演を行います。講演テーマは古代史と化学の二分野でとのご依頼でしたので、「理系が読む倭人伝」と「草木染から機能性色素へ」としました。(TES:繊維製品品質管理士)
 28日(土)には久留米大学で古代史の講演を行う予定です。当日は正木裕さん(古田史学の会・事務局長)も講演されるとのことでしたので、正木さんと相談のうえ、昨年、東京家政学院大学で行った「九州王朝の『聖徳太子』」をテーマとすることにしました。二人で講演内容を分担し、参加者にわかりやすいように工夫したいと考えています。「多利思北孤は久留米にいた」という内容で構想を練っています。


第1121話 2016/01/12

古田先生追悼講演会、迫る! 済み

 大阪府立大学i-siteなんばでの古田武彦先生追悼講演会(17日)が迫ってきました。当日、ご披露させていただく各界からの追悼メッセージや先生の著作目録を収録した案内パンフレットももうすぐ完成します。このパンフレットは当日来場者に無料で進呈いたします。
 追悼会に先だって、追悼文を送っていただいた方々のお名前をご紹介します。(順不同)

荻上紘一様(大妻女子大学学長・新東方史学会会長)
池田大作様(創価学会インターナショナル会長)
高島忠平様(旭学園理事長・考古学者)
佐藤弘夫様(東北大学教授・日本思想史学会前会長)
中山千夏様(作家・タレント)
桂米團治様(落語家)
森嶋瑤子様(経済学者森嶋道夫氏夫人)

 この方々の追悼メッセージは『古代に真実を求めて』19集(明石書店より今春発行)に掲載します。
 追悼会では友好団体の東京古田会の藤沢会長、多元的古代研究会の安藤会長からもご挨拶をいただきます。主賓としてミネルヴァ書房の杉田社長からは弔辞を賜ります。「古田史学の会」の地域の会などの代表からもご挨拶いただきます。わたしからは、古田先生の代表的著作と業績について解説させていただきます。ご遺族を代表され古田光河様からも最後にご挨拶していただく予定です。
 追悼会の後に新井宏先生(韓国国立慶尚大学招聘教授)のご講演「鉛同位体比から視た平原鏡から三角縁神獣鏡」となります。鉛同位体分析による銅鏡分析の最新研究成果をお話しいただけるとのことで、わたしも楽しみにしています。
 講演会終了後は会場の近くのレストラン(オルケスタ)で懇親会(有料)を催し、古田先生を偲びたいと思います。多くの皆様のご参加をお願い申しあげます。
 ※会場などの詳細は「古田史学の会」ホームページ掲載の案内をご覧ください。


第1120話 2016/01/01

シルヴィ・ギエムの「ボレロ」をみて年越し

 大晦日の夜はテレビで紅白歌合戦をみたあと、シルヴィ・ギエムの現代バレエ「ボレロ」をみました。その圧巻のパフォーマンスはとても50歳とは思えない迫力と躍動感溢れるもので、年越しに相応しい番組でした。
 シルヴィ・ギエムは1965年生まれのバレリーナで、デビュー時から100年に一人の逸材といわれました。18歳のときには国際バレエコンクールで金賞など三冠を受賞し、19歳のときには「白鳥の湖」で初主演し、フランスのトップバレリーナとなりました。1988年には所属していたパリ・オペラ座を退団したのですが、そのときフランスでは「国家的損失」といわれたそうです。
 現代バレエの女王、シルヴィ・ギエムの代表作「ボレロ」をテレビで初めてみたのですが、なんと2015年で引退するということで、今回がファイナル公演でした。世界的バレリーナが大晦日の深夜に日本でファイナル公演したのですから、驚きとともに、それをテレビでみながら新年を迎えることができ、とても幸運でした。
 今から思えば、昨年8月に行われたKBS京都のラジオ番組「本日、米團治日和。」での収録が古田先生の「ファイナル公演」でした。そのとき、米團治師匠からの「これからはどのような研究をされますか」という問いかけに古田先生は「やるべきことはやりました。」と答えられました。いつもなら「こんな発見がありました」とか「○○の研究をやります」と言われてきた先生でしたが、このときは違っていました。そしてわたしたちにあとを託されたのでした。
 2016年、古田先生のあとを託されたわたしたちによる、古田史学・多元史観の第二幕の始まりです。

 昨年12月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルは次の通りです。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 12月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2015/12/02 古田先生追悼会への御来賓とメッセージ
2015/12/04 「東京古田会ニュース」古田先生追悼特集号が届く
2015/12/05 荻上さんと八王子セミナー再開の相談
2015/12/09 「古田史学の会・東海」竹内会長・林さんと
2015/12/12 学問の方法に関する小論執筆
2015/12/18 30年ぶりに訪問「つかしん」
2015/12/21 繊維機械学会誌「せんい」へ寄稿要請
2015/12/25 学振第120委員会から講演要請
2015/12/27 facebookの輪が広がっています
2015/12/29 日本刀の祖「丙子椒林剣」


第1116話 2015/12/30

2015年の回顧『古田史学会報』編

 2015年に発行した『古田史学会報』126〜131号の掲載稿を下記に記しました(例会報告など事務連絡の類は省略しました)。
 昨年に続いて正木裕さんは精力的な研究発表を続けられました。また、古田史学入門編として「壹から始める古田史学」の連載も129号から開始されました。古田先生が亡くなられたことにより、わたしは「追憶・古田武彦先生」の連載を開始しました。
 常連組が安定した研究レベルにより優れた論稿を発表される一方、平田さん(“たんがく”の“た”)、安随さん(「唐軍進駐」への素朴な疑問)、清水さん(四国・香川県の史跡巡り)が会報デビューされました。中でも印象に残っているのが、安随さんの「『唐軍進駐』への素朴な疑問」です。意表を突かれたという意味でも好論でした。
 また、古田先生の最後の対談をラジオ番組でされた桂米團治さんのオフィシャルブログからの転載も感慨深いものとなりました。投稿していただいた皆様に御礼申し上げます。

『古田史学会報』126号(2月)
○平成二十七年、賀詞交換会のご報告  京都市 古賀達也
○犬を跨ぐ  山東省曲阜市 青木英利
○「室見川銘板」の意味するもの  奈良市 出野 正
○盗用された任那救援の戦い -敏達・崇峻・推古紀の真実-(下)  川西市 正木 裕
○先代旧事本紀の編纂者  高松市 西村秀己
○四天王寺と天王寺  八尾市 服部静尚
○盗用された「仁王経・金光明経」講話  川西市 正木 裕
○倭国(九州王朝)遺産10選(上)  京都市 古賀達也
○年頭のご挨拶  代表 水野孝夫

『古田史学会報』127号(4月)
○「張家山漢簡・居延新簡」と「駑牛一日行三百里」  川西市 正木 裕
○短里と景初 誰がいつ短里制度を布いたのか?  高松市 西村秀己
○“たんがく”の“た”  大津市 平田文男
○邪馬台国畿内説と古田説はなぜすれ違うのか  八尾市 服部静尚
○学問は実証よりも論証を重んじる  京都市 古賀達也
○「唐軍進駐」への素朴な疑問  芦屋市 安随俊昌
○『書紀』の「田身嶺・多武嶺」と大野城  川西市 正木 裕
○倭国(九州王朝)遺産10選(下)  京都市 古賀達也
○断念  古田武彦

『古田史学会報』128号(6月)
○網野銚子山古墳の復権  京丹後市 森茂夫
○「短里」の成立と漢字の起源  川西市 正木裕
○「妙心寺」の鐘と「筑紫尼寺」について  札幌市 阿部周一
○長者考  八尾市 服部静尚
○九州王朝の丙子椒林剣  京都市 古賀達也
○「漢音」と「呉音」 皇帝の国の発音  札幌市 阿部周一

『古田史学会報』129号(8月)
○孫権と俾弥呼 -俾弥呼の「魏」への遣使と「呉」の孫権の脅威-  川西市 正木裕
○鞠智城と神籠石山城の考察  京都市 古賀達也
○四国・香川県の史跡巡り  神戸市 清水誠一
○大化改新論争  八尾市 服部静尚
○「相撲の起源」説話を記載する目的  京都市 岡下英男
○九州・四国に多い「みょう」地名  京都市 古賀達也
○会代表退任のご挨拶  水野孝夫
○代表就任のご挨拶  古賀達也
○「壹」から始める古田史学1  古田史学の会事務局長 正木裕

『古田史学会報』130号(10月)
○「・多利思北孤・鬼前・干食」の由来  川西市 正木裕
○「権力」地名と諡号成立の考察  京都市 古賀達也
○「仲哀紀」の謎  千歳市 今井俊國
○九州王朝にあった二つの「正倉院」  松山市 合田洋一
○「熟田津」の歌の別解釈(一)  札幌市 阿部周一
○「壹」から始める古田史学2
 古田武彦氏が明らかにした「天孫降臨」の真実  古田史学の会・事務局長 正木裕
○「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載
○『盗まれた「聖徳太子」伝承』出版記念講演会の報告  服部静尚
○「坊ちゃん」と清  高松市 西村秀己

『古田史学会報』131号(12月)
○古田武彦先生ご逝去の報告  古田史学の会・代表 古賀達也
○古代の真実の解明に生涯をかけた古田武彦先生  古田史学の会・事務局長 正木裕
○追憶・古田武彦先生(1)
 蓮如生誕六百年に思う  古田史学の会・代表 古賀達也
○「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載
 「古田武彦先生、逝去」
○昭和44年11月12日 読売新聞第二社会面
 邪馬台(ヤマタイ)国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国
○「みょう」地名について -「斉明」と「才明」-  松山市 合田洋一
○垂仁紀の謎  千歳市 今井俊國
○「熟田津」の歌の別解釈(二)  札幌市 阿部周一
○「ものさし」と「営造方式」と「高麗尺」  八尾市 服部静尚
○「壹」から始める古田史学3
 古代日本では「二倍年暦」が用いられていた  古田史学の会・事務局長 正木裕
○割付担当の穴埋めヨタ話⑧ 五畿七道の謎  高松市 西村秀己


第1115話 2015/12/30

2015年の回顧「学問・研究」編

 次は学問・研究について回顧します。2015年も多くの学問的成果や新たな課題が続出し、多元史観・古田学派ならではの業績と経験に恵まれました。

○多元的「国分寺」研究の進展
 国分寺は聖武天皇よりも以前に、九州王朝でも造営されていたのではないかとする意見が以前からありましたが、今年は埼玉県所沢市の会員、肥沼孝治さんからの武蔵国分寺遺跡の方位のぶれ問題の提起により画期的な進展を見ました。9月5日には肥沼さんの案内により、関東地区の古田史学の会・会員とともに現地調査も実施しました。

○「赤淵神社縁起」(九州年号史料)の現地調査
 九州年号「常色」「朱雀」などが記されている九州年号史料「赤淵神社縁起」(天長五年〔828〕成立)を所蔵している赤淵神社(兵庫県朝来市)を訪問し、同神社のご了解の元で写真撮影などの調査を行いました。平安時代に成立した文書に九州年号が記されていることにより、九州年号が鎌倉時代に偽作されたとしてきた一元史観の「仮説」が改めて否定されることとなりました。

○鞠智城現地調査と九州王朝造営説
 従来から古代山城としては異質とされてきた鞠智城(熊本県山鹿市・菊池市)を5月に訪問し、現地調査を行いました。その結果、考古学出土事実などから従来の大和朝廷一元史観による編年よりもやや古く、鞠智城は九州王朝による造営と考えざるを得ないことが明らかとなりました。『古代に真実を求めて』19集にこの研究論文が収録されます。

○狗奴国研究の深化
 正木裕さんの一連の研究により、『三国志』倭人伝に見える狗奴国が銅鐸圏の国家であることを考古学と文献史学からのアプローチにより明確になりました。こうした研究業績により、倭人伝研究も一層の発展を見せました。その集大成として『邪馬壹国の歴史学』(古田史学の会編)がミネルヴァ書房よりもうすぐ刊行されます。

○竜田関の防衛方向の研究
 服部静尚さんの「古代の関」研究により、河内と大和の間に設けられた竜田関がその構造や地勢から、大和方面から河内に侵入する「外敵」に対しての「関」ということが明らかとなりました。すなわち、竜田関は九州王朝の副都「前期難波宮」を大和(方面)の勢力から防衛するために設けられた「関」ではないかとされました。「古代の関」の多元史観から見直しという新たな研究領域の出現といえるでしょう。

 これらの他にも、多くの研究成果が報告されました。古田学派ならではの革新的な研究領域であり研究成果です。


第1114話 2015/12/30

2015年の回顧「古田史学の会」編

 今日は帰省の新幹線車中で書いています。2015年は激動と慟哭の年となりまし。心重いのですが、例年のように「古田史学の会」に関連した出来事について回顧します。

○古田武彦先生のご逝去(10月14日)
 古田先生のご逝去はわたしたち古田学派や読者に激震をもたらしました。10月はわたしにとって慟哭の月となりました。享年89歳ですが、古田先生が敬愛された親鸞の没年齢と奇しくも同じ年齢です(親鸞は数え年で90歳没)。

○「古田史学の会」水野代表が退任
 6月の会員総会で、「古田史学の会」創立以来20年にわたり代表を務められてきた水野孝夫さんが退任されました。後任としてわたしが代表を勤めさせていただくことになり、新たに正木裕さんが事務局長、竹村順弘さんが事務局次長に就任されました。小林副代表は留任され、新四役体制が確立しました。水野さんには顧問(全国世話人)として、引き続きご指導いただけることになりました。

○米田敏幸さんを迎え、記念講演会(6月21日)
 6月の会員総会では庄内式土器の専門家、米田敏幸さんを講師に迎え、記念講演を行いました。正木さんも狗奴国に関する講演をされました。考古学者をお招きしての講演会は「古田史学の会」としては初めての試みです。今後も、日本古代史の関連諸分野の研究者を講演会にお招きしたいと考えています。

○『古代に真実を求めて』18集をリニューアル
 明石書店より発行している会誌『古代に真実を求めて』を大幅にリニューアルし、『盗まれた「聖徳太子」伝承』として刊行しました。従来の応募原稿中心の編集から、毎号毎に特集を組み、それにふさわしい原稿を中心に編集することにしました。19集は「九州年号特集」を予定していましたが、急遽、「古田武彦先生追悼号」に変更し、編集作業中です。

○『盗まれた「聖徳太子」伝承』刊行記念東京講演会開催(9月6日)
 『盗まれた「聖徳太子」伝承』刊行を記念して、東京講演会を開催しました。会場は東京家政学院大学千代田キャンパスをお借りし、在京の友好団体「東京古田会」「多元的古代研究会」のご協力もいただき、成功裏に開催することができました。講師は正木さんとわたしが担当しました。プロジェクター映像を本格的に駆使するなど、新たな講演スタイルにも挑戦しました。

○メール配信事業「洛洛メール便」をスタート
 ネット環境を利用して、ホームページに連載している「洛中洛外日記」や、ホームページには掲載しない「洛中洛外日記【号外】」を希望される会員に配信するサービスを4月から開始しました。配信作業は竹村事務局次長に担当していただきました。

○「古田史学の会facebook」を開設
 「古田史学の会」の活動をよりビジュアルに発信するために、従来のホームページ(新・古代学の扉)とは別に「古田史学の会facebook」を開設しました。関西例会や遺跡巡りハイキングの写真や動画を掲載しています。これも竹村さんに担当していただいています。
 更に、facebookを利用している会員間で「友達」として意見交換や情報発信も始まりました。わたしや正木さん、竹村さん、横田さん(「古田史学の会」インターネット事務局)、竹内さん(「古田史学の会・東海」会長)、そして会員の冨川けい子さんらが「友達」となって活発な情報発信・意見交換を行っています。

○「愛知サマーセミナー2015」で講義(7月19日、名古屋市)
 愛知淑徳高でに開催された「愛知サマーセミナー2015」で、「古田史学の会・東海」の取り組みの一環として、わたしも講義しました(テーマ:教科書が書かない!日本古代史の真実とは!)。愛知県下の高校生だけでなく中学生も熱心に聴講されていました。子供たちに古田史学を紹介し、学問の方法を語ることは将来的にも貴重な取り組みです。

 以上、2015年の「古田史学の会」の取り組みを思いつくままに記しました。


第1107話 2015/12/19

『日本書紀』安閑紀に

 「九州年号建元」記事発見!

 先月公開されたテキサス医科大学の研究者による下記論文は、損傷筋細胞からいわゆる「STAP現象」による幹細胞の発現を確認したというものらしいのですが、ネイチャーの電子版に掲載されています。残念ながらわたしの英語力では全く理解できませんでした。もちろん、門外漢のわたしには当否も判断できません。

 『Characterization of an Injury Induced Population of Muscle-Derived Stem Cell-Like Cells』
 損傷誘導性による筋肉由来の幹細胞様細胞(iMuSCs)
  http://www.nature.com/articles/srep17355

 願わくは、小保方さんや笹井さんの時のような集団バッシング(マスコミなどによる日本型リンチ)にあうことなく、発表者たちが落ち着いた環境で研究を進められますように。仮に間違っていたり不正確な仮説であっても、自由に発表しあえる学問的寛容性もまた科学を発展させてきたのですから。
 本日の「古田史学の会」関西例会では正木裕さん(古田史学の会・事務局長)から、『日本書紀』安閑紀に「九州年号建元」記事発見を報告されました。従来から『日本書紀』編纂にあたり漢籍(「芸文類聚」等)からの転用があることは知られていましたが、その漢籍転用は九州王朝が先行して行っており、その転用した九州王朝史書を『日本書紀』編纂にあたりそのまま引用した可能性があることを指摘されました。
 そうした研究過程で安閑紀に「九州年号建元」記事なるものを発見されました。さらに、この方法論による『日本書紀』史料批判の結果、九州王朝の漢籍受容の検証が進み、九州王朝思想史の研究にも道を拓くことが予想されます。とても興味深く重要な発表でした。今後の展開が楽しみです。
 12月例会の発表は次の通りでした。

〔12月度関西例会の内容〕
①「九州年号」と「評」から見た九州王朝の風景(八尾市・服部静尚)
②多利思北孤の都は伊勢(三重県)にあった(姫路市・野田利郎)
③仮説「国伝」のご意見への回答(姫路市・野田利郎)
④狗邪韓国の一考察(奈良市・出野正)
⑤『三角縁神獣鏡研究の最前線』〜精密計測から浮かび上がる製作地〜(京都市・岡下英男)
⑥『日本書紀』における「神武紀」の役割及びニギハヤヒの位置付け 後編2(東大阪市・萩野秀公)
⑧『大唐青龍寺三朝供奉大徳行状』の空海(高松市・西村秀己)
⑦『日本書紀』の「原典」と九州王朝(川西市・正木裕)

○水野顧問報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生追悼会の準備・宮本美代志氏(米子市)から質問fax・史跡巡りハイキング(JR四条畷駅付近・市立歴史民俗資料館〔開館30周年特別展「継躰天皇と河内の馬飼い」〕・楠正行墓)・TV視聴(奈良大学文学講座)・別府史談会30周年記念投稿募集案内・蛭田喬樹『周髀算経』と「短里」、『歴史研究』No.636、2015/11・その他


第1106話 2015/12/13

『壬申大乱』に古田先生のサイン

 来年1月17日の古田先生の追悼講演会で、わたしは古田先生の学問業績について解説することになっています。そのとき使用するプロジェクター映写に使用する先生の著作の写真撮影を行いました。限られた短時間での発表ですから、学問的に特に重要な著作を選んだのですが、いずれも重要な先生の多くの著作群から抜粋する作業は大変でした。
 その一冊に『壬申大乱』(東洋書林、2001年。後にミネルヴァ書房から復刻)を選んだのですが、そこに先生のサインがあることに気づきました。次のようなサインです。

 「三十周年の日に
      東京 朝日ホールにて
  古賀達也 様
   若々しく充実したお志と
   お力によって 求めつづけます。
   二〇〇一、 十月八日  古田武彦」

 このサインを、古田先生の『「邪馬台国」はなかった』発刊30周年記念講演会のときにいただいたことを思い出しました。東京古田会・多元的古代研究会・古田史学の会の三団体の主催で東京の朝日ホールで行われた記念行事ですが、このときわたしは「古田史学の過去・現在・未来」という演題で古田先生のご略歴や学問業績について講演しました。当初、「古田史学を学ぶ覚悟」という演題を申し入れていたのですが、実行委員会の事務局をされていた東京古田会の高木事務局長(故人)から、刺激的すぎるので演題を変更してほしいといわれました。わたしとしてはその理由がわからず納得できなかったのですが、何か事情があるのだろうと演題の変更に応じました。ただし、講演内容は変更せず、古田学派の研究者に対して「古田史学を学ぶ覚悟」を訴えました。
 おそらく来年の追悼講演会でも「古田先生亡き後の古田史学を学ぶ覚悟」を訴えることでしょう。


第1105話 2015/12/11

中山千夏さんからの追悼文

 古田先生の追悼文が「古田史学の会」へ続々と届いていますが、古くからの古田ファンの中山千夏さんからも追悼文をいただきました。古田先生との出会いから綴られた心温まる内容でした。
 わたしは中山さんと一度だけお会いしたことがあります。それは信州白樺湖畔の昭和薬科大学諏訪校舎で開催された「邪馬台国」徹底論争のシンポジウム(1991年)のときでした。わたしは事務方を担当していましたので、御来賓の方のお世話もしていたのですが、そのシンポジウムのトークセッションに中山さんが参加されたのです。直接にはそれほど中山さんとお話しする機会は無かったように記憶していますが、中山さんのお付きの若い女性(マネージャーさんかも)がなかなかの美人で驚きました。
 その後、中山さんは『新古事記伝』という初心者にもわかりやすい『古事記』の解説本を出されたのですが、当時、「市民の古代研究会」にその出版記念パーティーの招待状をいただきました。会場が東京だったことと勤務の都合で出席できなかったので、かわりに関東の安藤哲朗さん(現・多元的古代研究会会長)に代理で出席していただきました。
 後日、パーティーの様子を録音したテープが届いたのですが、詩人で作家の辻井喬さん(つじい・たかし。1927-2013年)が出席され、お祝いのスピーチをされていたのです。わたしは大の辻井喬ファンでしたので、「しまった。無理してでも行けばよかった」と後悔したものです。
 辻井喬さんは詩集『異邦人』で室生犀星賞(1961年)、自伝的小説『いつもと同じ春』で平林たい子賞(1984年)、『虹の岬』で谷崎潤一郎賞(1994年)を受賞された優れた作家であると同時に、本名は堤清二という当時脚光を浴びていた経営者でした。西武セゾングループの代表で、バルコなど若者文化の最先端を切り開く文化人でもありました。とりわけ新進のコピーライター糸井重里さんを起用して「おいしい生活」(西武百貨店)という、その後の日本語にも影響を与えた名コピーを世に広めたことは有名です。
 出版記念バーティーに辻井喬さんが出席されたほどですから、中山千夏さんの交友関係の広さやお人柄がよくうかがえました。古田先生との出会いも、『「邪馬台国」はなかった』に対する質問のお手紙を先生に出されたことがきっかけでした。そうした経緯が追悼文には記されており、追悼会でご披露し『古代に真実を求めて』19集に掲載させていただきます。


第1104話 2015/12/10

佐藤弘夫先生からの追悼文

 東北大学の古田先生の後輩にあたる佐藤弘夫さん(東北大学教授)から古田先生の追悼文をいただきました。とても立派な追悼文で、古田先生との出会いから、その学問の影響についても綴られていました。中でも古田先生の『親鸞思想』(冨山房)を大学4年生のとき初めて読まれた感想を次のように記されています。

 「ひとたび読み始めると、まさに驚きの連続でした。飽くなき執念をもって史料を渉猟し、そこに沈潜していく求道の姿勢。一切の先入観を排し、既存の学問の常識を超えた発想にもとづく方法論の追求。精緻な論証を踏まえて提唱される大胆な仮説。そして、それらのすべての作業に命を吹き込む、文章に込められた熱い気迫。--『親鸞思想』は私に、それまで知らなかった研究の魅力を示してくれました。読了したあとの興奮と感動を、私はいまでもありありと思い出すことができます。学問が人を感動させる力を持つことを、その力を持たなければならないことを、私はこの本を通じて知ることができたのです。」

 佐藤先生のこの感動こそ、わたしたち古田学派の多くが『「邪馬台国」はなかった』を初めて読んだときのものと同じではないでしょうか。
 わたしが初めて佐藤先生を知ったのは、京都府立総合資料館で佐藤先生の日蓮遺文に関する研究論文を偶然読んだときのことでした。それは「国主」という言葉を日蓮は「天皇」の意味で使用しているのか、「将軍」の意味で使用しているのかを、膨大な日蓮遺文の中から全ての「国主」の用例を調査して、結論を求めるという論文でした。その学問の方法が古田先生の『三国志』の中の「壹」と「臺」を全て抜き出すという方法と酷似していたため、古田先生にその論文を報告したのです。そうしたら、佐藤先生は東北大学の後輩であり、日本思想史学会などで旧知の間柄だと、古田先生は言われたのです。それでわたしは「なるほど」と納得したのでした。佐藤先生も古田先生の学問の方法論を受け継がれていたのです。
 その後、わたしは古田先生のご紹介で日本思想史学会に入会し、京都大学などで開催された同学会で佐藤先生とお会いすることとなりました。佐藤先生は同学会の会長も歴任され、押しも押されぬ日本思想史学の重鎮となられ、日蓮研究では日本を代表する研究者です。その佐藤先生からいただいた追悼文を来年1月17日の古田先生追悼講演会でご披露し、『古代に真実を求めて』19集に掲載します。ご期待ください。佐藤先生、立派な追悼文をありがとうございました。


第1102話 2015/12/06

『古田史学会報』131号のご紹介

 『古田史学会報』131号が発行されましたのでご紹介します。今号は古田先生の訃報に始まる「追悼号」となりました。正木事務局長は先生の学問業績を振り返り、わたしは「追憶・古田武彦先生」の連載を開始しました。また、茂山憲史さん(『古代に真実を求めて』編集委員)が見つけられた読売新聞の昭和44年11月12日の古田先生の「邪馬壹国」説の紹介解説記事を転載しました。この二年後に歴史的名著『「邪馬台国」はなかった』が朝日新聞社から出されますが、それよりも早く「邪馬壹国」説に着目し、記事にした読売新聞の担当記者の学識がうかがわれます。
 前号に続いて北海道2名(今井・阿部)、四国2名(合田・西村)が活躍しています。桂米團治さんのオフィシャルブログからも、古田先生の追悼文を転載させていただきました。正木さんの連載「『壹』から始める古田史学」も快調です。
 掲載稿は下記の通りです。

『古田史学会報』131号の内容
○古田武彦先生ご逝去の報告  古田史学の会・代表 古賀達也
○古代の真実の解明に生涯をかけた古田武彦先生  古田史学の会・事務局長 正木裕
○追憶・古田武彦先生(1)
 蓮如生誕六百年に思う  古田史学の会・代表 古賀達也
○「桂米團治さんオフィシャルブログ」より転載
 「古田武彦先生、逝去」
○昭和44年11月12日 読売新聞第二社会面
 邪馬台(ヤマタイ)国ではなく邪馬壹(ヤマイ)国
○「みょう」地名について -「斉明」と「才明」-  松山市 合田洋一
○垂仁紀の謎  千歳市 今井俊國
○「熟田津」の歌の別解釈(二)  札幌市 阿部周一
○「ものさし」と「営造方式」と「高麗尺」  八尾市 服部静尚
○「壹」から始める古田史学3
 古代日本では「二倍年暦」が用いられていた  古田史学の会・事務局長 正木裕
○割付担当の穴埋めヨタ話⑧ 五畿七道の謎  高松市 西村秀己
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己