法隆寺一覧

第3106話 2023/09/07

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (7)

 喜田貞吉の明治から昭和にかけての次の三大論争からは、喜田の鋭い批判精神と同時に、その「学問の方法」の限界も見えてきました。

Ⅰ《明治~昭和の論争》法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》 「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》藤原宮「長谷田土壇」説

 文献を重視した喜田の批判精神、〝燃えてもいない寺院を燃えたと書く必要はない〟〝何代も前の天皇を「当今」と呼ぶはずがない〟は問題の本質に迫っており、古田史学に相通じるものを感じますが、更にそこからの論証や実証を行うという、古田先生のような徹底した「学問の方法」が喜田には見られません。

 法隆寺再建論争で、喜田が「法隆寺(西院伽藍)の建築様式は古い」という非再建説の根拠を直視していれば、自らの再建説の弱点に気づき、移築説へと向かうことも、喜田ほどの歴史家であればできたはずです。喜田の再建説では、たとえば五重塔心柱伐採年の年輪年代値594年という、没後に明らかになった新事実にも応えられないのです。

 「教行信証」論争でも同様です。執筆時点の天皇しか「当今」とは呼ばないと、正しく批判しながら、その一見矛盾した史料事実の説明に〝教行信証は他者の代作〟〝親鸞、無学の坊主〟という安直な「結論」で済ませてしまいました。もう一歩進んで、そのような矛盾した史料状況が発生した理由を考え抜くための「学問の方法」に、なぜ喜田は至らなかったのでしょうか。時代的制約だったのかも知れませんが、残念です。

 藤原宮「長谷田土壇」論争では、大宮土壇からの藤原宮跡出土により、大宮土壇から長谷田土壇への藤原宮移転説に喜田は変更しました。しかし、藤原宮下層条坊の出土により、この移転説も説明困難となりました。もし移転であれば、〝条坊都市中の別の場所から大宮土壇への移転〟を藤原宮下層条坊の出土事実が示唆するからです。こうした問題を解明するのは、冥界の喜田ではなく、古田史学・多元史観を支持するわたしたち古田学派研究者の責務です。

 わたしは10年前から、「大宮土壇」と「長谷田土壇」の二つの〝藤原宮〟があったのではないかとする仮説を提起してきました(注)。本年11月の八王子セミナーでは、この藤原宮問題が論じられる予定です。喜田や古田先生の批判精神と学問の方法を継承するためにも、研究発表やディスカッションに臨みたいと思います。

(注)
古賀達也「二つの藤原宮」2013年3月の「古田史学の会・関西例会」で発表。
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/28)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
同「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3102話 2023/09/01

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (6)

 喜田貞吉の、明治から昭和にかけての次の三大論争は、その当否とは別に重要な学問的意義を持っています。

Ⅰ《明治~昭和の論争》 法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》    「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》 藤原宮「長谷田土壇」説

 喜田の三大論争のうち、真の意味で決着がついたのは、古田先生が参画したⅡ「教行信証」論争だけのように、わたしには見えます。それらの概略は次の通りです。

Ⅰ. 法隆寺論争は、昭和14年の若草伽藍の発掘調査で火災跡が発見されて、喜田の再建説が通説となった。再建問題では喜田指摘の「勝利」だが、西院伽藍が古いとする建築史学の指摘は、五重塔心柱の年輪年代で復活。真の決着はついていない。米田説(移築説)が有力。

Ⅱ.『教行信証』は親鸞自筆坂東本(東本願寺蔵)の筆跡調査により、親鸞真作が確かめられた。「今上」問題での喜田指摘は有効だったが、古田先生の科学的筆跡調査(デンシトメーター)により、親鸞〝無学の坊主〟説は「惨敗」。

Ⅲ. 藤原宮論争は大宮土壇説(出土事実)で決着したわけではない。真の論争はこれから。なぜなら〝大宮土壇では京域の南東部が大きく香久山丘陵に重なり、条坊都市がいびつな形となる〟とする喜田の指摘は今でも合理的だからだ。

 それぞれの論争に深い学問的意義、特に「学問の方法」において示唆や教訓が含まれています。何よりも喜田の文献(執筆者の意図・認識)を尊重する史学者の良心と、文献を軽視する姿勢(注)への批判精神は、古田先生の学問精神に通じるものを感じます。(つづく)

(注)たとえば「偽書説」など、その主観的な定義を含めて〝文献を軽視する姿勢〟の一種と見なしうる。これは文献史学における重要な問題であり、別に詳述する機会を得たい。


第3099話 2023/08/24

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (3)

 喜田貞吉のショッキングな仮説(親鸞「無学の坊主」説)は、親鸞自筆『教行信証』坂東本(東本願寺蔵)の研究により葬り去られました。しかし、〝もし「教行信証」が本当に親鸞の著作なら、何代も前の天皇である土御門を、あやまって「今上」などと呼ぶはずはない。〟とする喜田指摘の論理性は有効です(注①)。この喜田の学問の方法は、後の法隆寺再建論争のときの主張と同類のものです。

 『日本書紀』天智十九年条(670年)に、「法隆寺に火つけり。一屋余すなし。」と書かれていることを根拠に、喜田は〝燃えてもいない寺が燃えてなくなったなどと『日本書紀』編者は書く必要がない〟と主張しました。文献史学の視点からは、この意見はもっともなものです。しかし当時は、現存する法隆寺(西院伽藍)の建築様式や佛像などが古い時代のものであるとする、建築史や仏教美術史の立場による実証的な非再建説が有力で、『日本書紀』の記事は干支一巡(670年→610年)間違っているのではないかと反論されました。すなわち、720年に成立した『日本書紀』に記された、その50年前の火災記事よりも、現存する法隆寺という物証が優先するという反対論が説得力を有していたのです。ところが若草伽藍の火災跡出土により、同論争の趨勢は逆転し、喜田の再建説が通説となりました。これは文献史学による論証が、建築史などによる実証的な根拠(西院伽藍の年代)を覆したケースです(注②)。

 今回紹介した『教行信証』の「今上」問題も、何代も前の天皇を「今上」とはいわない、とする喜田の主張は、燃えてもいない寺を燃えてなくなったなどと書く必要がない、とする論証方法と同じ学問の方法なのですが、その結論「教行信証は親鸞の真作ではない」は、親鸞自筆『教行信証』坂東本の筆跡調査という実証的研究により否定されました。

 喜田の批判精神は、同じ学問の方法を駆使したにもかかわらず、後の法隆寺再建論争とは真逆の結論に至ったのです。これはとても興味深い現象です。この問題に決着をつけたのが、古田先生の論証と実証的研究方法でした。(つづく)

(注)
①喜田よりも早く「今上」問題の核心を表明した論稿がある。長沼賢海氏が『史学雑誌』に連載した「親鸞聖人論」(明治43年)だ。別述したい。
②喜田の再建説で一旦は決着がついた法隆寺論争だが、その後、より根源的な問題(年輪年代測定による五重塔心柱の伐採年が594年)が発生した。この点、後述する。


第3097話 2023/08/22

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (1)

  日本古代史の研究者やファンなら、喜田貞吉の名前を聞いたり読んだことがあると思います。わたしもこの名前を何度も目にしましたし、法隆寺再建・非再建論争では、文献史学の立場から再建論を唱えたことで有名です。ちなみに、わたしは「喜田貞吉」をずっと「きだ ていきち」と読んでいたのですが、ウィキペディアによれば「きた さだきち」で、次のように紹介されています。

〝喜田貞吉(きた さだきち、1871年7月11日(明治4年5月24日)~1939年(昭和14年)7月3日)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。
経歴
現在の徳島県小松島市(阿波国那賀郡櫛淵村)に農民の子として生まれる。櫛淵小学校、旧制徳島中学校、第三高等学校を経て、1893年(明治26年)23歳で帝国大学文科大学に入学し、歴史研究を学んだ。内田銀蔵(注①)や黒板勝美(注②)と同級生となった。1896年(明治29年)国史学科を卒業し、同大学院に入学。(中略)

 その後同大学で講師を務め、1909年(明治42年)に「平城京の研究・法隆寺再建論争」により東京帝国大学から文学博士の称号を得た。(中略)
1913年(大正2年)から京都帝国大学専任講師、1920年(大正9年)から1924年(大正13年)まで教授。同年、前年に設置されたばかりの東北帝国大学国史学研究室の講師となり、古代史・考古学を担当。(中略)
仙台市にて69歳(昭和14年)で没する。〟

 この「経歴」によれば喜田は徳島県出身で、晩年は草創期の東北帝国大学(国史学研究室)でも教鞭をとったとありますので、大正13年に同大学法文学部の教授となり、日本思想史科を開設した村岡典嗣先生(1884・明治17年~1946・昭和21年、注③)の〝同僚〟ということになります。古田先生は昭和20年に東北大学に入学されたので、昭和14年に没した喜田貞吉との面識はありません。(つづく)

(注)
①内田銀蔵(1872~1919年)。日本経済史学の先駆者。古田先生らと立ち上げたプロジェクト貨幣研究(1999~2000年)では、内田銀三「日本古代の通貨史に関する研究」(『日本経済史の研究』上巻収録)を研究資料として採用した。
②黒板勝美(1874~1946年)。歴史学者で専門は日本古代史、日本古文書学。「国史大系」の編纂者として著名。
③村岡典嗣先生の略歴。
明治17年(1884)9月18日東京で誕生。
明治39年(1906)早稲田大学哲学科卒業。
明治41年(1908)独逸新教神学校卒業。
明治44年(1911)『本居宣長』上梓。
大正9年(1920)広島高等師範学校教授に就任。
大正13年(1924)東北帝国大学法文学部教授となり、日本思想史科を開設。
昭和20年(1945)古田武彦先生が東北帝国大学法文学部日本思想史科に入学(岡田甫先生の薦めによる)。
昭和21年(1946)定年退官。
昭和21年(1946)4月13日没。享年61歳。


第2976話 2023/03/29

『東京古田会ニュース』No.209の紹介

 『東京古田会ニュース』209号が届きました。拙稿「『東日流外三郡誌』真実の語り部 ―古田先生との津軽行脚―」を掲載していただきました。同稿は3月11日(土)に開催された「和田家文書」研究会(東京古田会主催)で発表したテーマで、30年ほど前に行った『東日流外三郡誌』の存在を昭和三十年代頃から知っていた人々への聞き取り調査の報告です。当時、証言して頂いた方のほとんどは鬼籍に入っておられるので、改めて記録として遺しておくため、同紙に掲載していただいています。次号には「『東日流外三郡誌』の考古学」を投稿予定です。
当号には特に注目すべき論稿二編が掲載されていました。一つは、同会の田中会長による「会長独言」です。今年五月の定期総会で会長職を辞されるとのこと。藤澤前会長が平成28年(2016)に物故され、その後を継がれて、今日まで会長としてご尽力してこられました。
当稿では、「高齢化の波は当会にも及んでおり、会員の減少だけでなく、月例学習会への結集も低迷が続いています。」と、高齢化やコロナ過による例会参加者数の低迷を吐露されています。これは「古田史学の会」でも懸念されている課題です。日々の生活や目前の関心事に追われるため、わが国の社会全体で〝世界や日本の歴史〟を顧みる国民が減少し続けていることの反映ではないでしょうか。そうした情況にあって、例会へのリモート参加が高齢化の課題解決に役立っているのではないかと、田中会長は期待を寄せられています。わたしも同感です。この方面での取り組みを、わたし自身も始めましたし(古田史学リモート勉強会)、「古田史学の会」としても同体制強化を進めてきました。関係者のご理解とご協力を得ながら、更に前進させたいと願っています。
注目したもう一つの論稿は新庄宗昭さん(杉並区)の「小論・酸素同位体比年輪年代法と法隆寺五重塔心柱594年の行方」です。奈文研による年輪年代法が、西暦640年以前では実際よりも百年古くなるとする批判が出され、基礎データ公開を求める訴訟まで起きたことは古代史学界では有名でした。そうした批判に対して、奈文研の測定値は間違っていないのではないかとする論稿〝年輪年代測定「百年の誤り」説 ―鷲崎弘朋説への異論―〟をわたしは『東京古田会ニュース』200号で発表しました。今回の新庄稿ではその後の動向が紹介されました。
奈文研の年輪年代のデータベース木材をセルロース酸素同位体比年輪年代法で測定したところ、整合していたようです。その作業を行ったのは、「古田史学の会」で講演(2017年、注①)していただいた中塚武さんとのこと。中塚さんはとてもシャープな理化学的論理力を持っておられる優れた研究者で(注②)、当時は京都市北区の〝地球研(注③)〟で研究しておられました。氏の開発された最新技術による出土木材の年代測定に基づいた、各遺構の正確な編年が進むことを期待しています。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1308話(2016/12/10)〝「古田史学の会」新春講演会のご案内〟
②同「洛中洛外日記」2842話(2022/09/23)〝九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)〟で、中塚氏との対話を次のように紹介した。
「中塚さんは、考古学的実証力(金属器などの出土事実)を持つ邪馬壹国・博多湾岸説には理解を示されたのですが、九州王朝説の説明には納得されなかったのです。
巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその中塚さんからは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。そして、わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、中塚さんが放たれた次の言葉は衝撃的でした。
「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。古賀さんも理系の人間なら客観的エビデンスを示せ。」
中塚さんは理由もなく一元史観に固執する人ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ科学者です。その彼を理詰めで説得するためにも、戦後実証史学で武装した大和朝廷一元史観との「他流試合」に勝てる、史料根拠に基づく強力な論証を構築しなければならないと、このとき強く思いました。」
③総合地球環境学研究所。地球研は略称。


第2631話 2021/12/09

再読、川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(2)

 川端説(注①)では、法隆寺(1材=24.5㎝×1.1=26.95㎝)だけではなく大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺も南朝尺(1尺=24.5㎝)を基本単位として唐代よりも前に建造されたとしています。しかし、わたしは次の理由により大宰府政庁Ⅱ期と観世音寺は七世紀後半の造営と考えています。

(1) 大宰府政庁Ⅱ期と観世音寺の創建瓦は複弁蓮華文の老司Ⅰ式・Ⅱ式であり、七世紀後半の瓦とされている。
(2) 大宰府政庁Ⅱ期の整地層からは須恵器杯Bが出土しており、七世紀後半の造営とするのが妥当である。
(3) 観世音寺創建年を白鳳十年(670年)とする史料(注②)があり、瓦や土器の編年と整合している。
(4) 井上信正さん(注③)の研究によれば、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺よりも条坊が先に造営されている。その条坊の造営尺は約30㎝とされ、それよりも新しい大宰府政庁・観世音寺造営尺としてより短い南朝尺(24.5㎝)を採用したとするのは、時代と共に長くなる「尺」の一般的変化(注④)に逆行する。

 こうした理由により、南朝尺に基づいて建造されたのは法隆寺に留まり、七世紀中葉からは倭国の独自尺(29.2㎝)により前期難波宮などが造営されたと考えるのが穏当ではないでしょうか。少なくとも国家的建築物の設計尺は国が定めた度量衡に従ったと思われます。
 この「尺」の変遷については、共に勉強を続ける古田学派の研究者らと検討を進める予定です。最後に付言しますが、法隆寺が南朝尺に基づくとする川端さんの研究は九州王朝説の視点からも特筆すべき学問的成果と思います。今後の南朝尺に基づいた建造物(道路・古墳等を含む)の調査研究が期待されます。

(注)
①川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、2004年。
②古賀達也「観世音寺の史料批判 ―創建年を示す諸史料―」『東京古田会ニュース』(192号、2020年)にて、観世音寺創建を白鳳十年、あるいは白鳳年間とする次の史料を紹介した。『勝山記』『日本帝皇年代記』『二中歴』『筑紫道記』。
③太宰府市教育委員会の考古学者。太宰府条坊に関する次の先駆的研究がある。
 井上信正「大宰府の街区割りと街区成立についての予察」『条里制・古代都市の研究十七号』二〇〇一年。
 同「大宰府条坊区画の成立」『考古学ジャーナル』五八八、二〇〇九年。
 同「大宰府条坊研究の現状」『大宰府条坊跡 四四』太宰府市教育委員会、二〇一四年。
 同「大宰府条坊論」『大宰府の研究』大宰府史跡発掘五〇周年記念論文集刊行会、高志書院、二〇一八年。
④【七~八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年、九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京主要条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
 難波京北西域条坊(七世紀中頃以降) 29.2cm
○鬼ノ城礎石建物 29.2㎝
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳十年) 29.6~29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを二千尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9~30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として三百尺が考えられ、一尺が29.9~30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された小尺(天平尺)とされる。
〔各数値はその出典が異なり、有効桁数が不統一。〕


第2630話 2021/12/07

再読、川端俊一郎著『法隆寺のものさし』(1)

 先日、一緒に古田史学を勉強している方から、法隆寺の設計尺が南朝尺(1尺=24.5㎝)とする川端説についてどう思うかとたずねられました。川端説とは川端俊一郎さんにより『法隆寺のものさし』(注①)などで発表された仮説で、九州王朝は中国の南朝尺を採用し、法隆寺や観世音寺、大宰府政庁などを建造したとするものです。
 同書を十数年前に著者から贈呈していただきましたが、当時のわたしには深く理解できなかったようで、その詳細をあまり記憶していませんでした。久しぶりに再読しましたが、五重塔心柱調査の経緯や実態についての解説は秀逸でしたし、法隆寺の設計尺が南朝尺の影響を受けたとする仮説には説得力を感じました。
 同書によれば、南朝尺(24.5㎝)の1.1倍の26.95㎝を基本単位(川端説では「1材」と表現する)として法隆寺は設計されているとされました。確かに金堂や五重塔の柱間距離がこの建築基本単位「1材=26.95㎝」で割ると整数が得られます。この他の尺、たとえば前期難波宮造営尺(29.2㎝)、藤原宮造営尺(29.5㎝)など(注②)では整数を得られませんから、川端説は最有力と思われました。
 他方、南朝尺の1.1倍に当たる26.95㎝を七世紀初頭の九州王朝(倭国)は倭国尺(仮称)として採用し、法隆寺を設計したとは考えられないかとも思います。また、川端説では大宰府政庁や観世音寺は南朝尺そのものを基本単位として設計されているとされ、それらの造営年代についても『法隆寺のものさし』で次のように述べられています。

 「鏡山(鏡山猛氏)は南朝の小尺ではなく、唐尺と高麗尺の適否のみを検討して唐尺が適当としているが整数値を得ていない。太宰府遺構は大和朝廷が唐代に設置したものと見て唐尺のほうが好いとしているのである。しかし大和朝廷の編纂した日本書紀には大宰府設置についてはなにも書かれていないから、太宰府遺構はむしろ大和朝廷が創建したものではなく、従ってまた唐代以前の創建、つまり唐尺導入以前の創建とみるべきであっただろう。」50頁
 「この観世音の呼び名は古いもので、唐帝国の時代には、太宗李世民の世の字を避けて(避諱)、観音と呼ばれるようになる。観世音寺の創建を、唐と戦って敗れた後の遣唐使時代とするのは、作り話であろう。」52頁

 川端さんは、大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の創建年代を唐代以前とされていますが、この点については賛成できません。(つづく)

(注)
①川端俊一郎『法隆寺のものさし ―隠された王朝交代の謎―』ミネルヴァ書房、2004年。
②【七~八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年、九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京主要条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
 難波京北西域条坊(七世紀中頃) 29.2cm
○鬼ノ城礎石建物 29.2㎝
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳十年) 29.6~29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを二千尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9~30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として三百尺が考えられ、一尺が29.9~30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された小尺(天平尺)とされる。
〔各数値はその出典が異なり、有効桁数は不統一。〕


第2506話 2021/06/30

九州王朝(倭国)の仏典受容史 (3)

 ―九州王朝に伝来した『仏説阿弥陀経』―

 九州王朝が釈迦信仰(法華経)から阿弥陀信仰(無量寿経)へと変容したとされた服部静尚さん(古田史学の会・会員、八尾市)は、その史料痕跡として次の「命長七年文書」を挙げられました(注①)。

         「御使 黒木臣
名号称揚七日巳(ママ) 此斯爲報廣大恩
仰願本師彌陀尊 助我濟度常護念
   命長七年丙子二月十三日
進上 本師如来寶前
        斑鳩厩戸勝鬘 上」

 これは信州の善光寺史料(注②)に収録されたもので、聖徳太子から善光寺如来に宛てた書簡の一つと伝えられてきたものです。往復書簡として全六通の内の最初のものです。法隆寺にも〝善光寺如来の御文箱〟という寺宝が伝えられており、その内の一通が「公開」されています。これらのことについては拙稿「法隆寺の中の九州年号 ―聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎―」(注③)などで発表していますのでご参照ください。
 わたしは九州年号「命長」が記された、この「命長七年(646年)文書」を九州王朝の有力者が善光寺如来に宛てた「願文」であり、おそらく死期が迫った利歌彌多弗利によるものではないかとしました。阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)は差出人の名前「斑鳩厩戸勝鬘」にある「勝鬘」を重視され、女性とする説(注④)を発表され、服部さんも支持されています。この理解も有力と思います。
 九州王朝の仏典受容史の視点から同文書を見たとき、服部さんが指摘されたように、『無量寿経』などによる浄土信仰の影響を受けていることは歴然です。そこで、「名号称揚七日」という部分に焦点を当てて、どの経典の影響が強いのかを調査したところ、浄土三部経(『仏説無量寿経』『仏説観無量寿経』『仏説阿弥陀経』)の一つ、『仏説阿弥陀経』(注⑤)の次の説話に注目しました。

『仏説阿弥陀経』(抜粋)
 「舍利弗。若有善男子。善女人。聞説阿弥陀仏。執持名号。若一日。若二日。若三日。若四日。若五日。若六日。若七日。一心不乱。其人臨命終時。阿弥陀仏。与諸聖衆。現在其前。是人終時。心不顛倒。即得往生。阿弥陀仏。極楽国土。舍利弗。我見是利。故説此言。若有衆生。聞是説者。応当発願。生彼国土。」

 七日間、一心不乱に「執持名号」することにより、善男子と善女人は臨終後に阿弥陀仏の極楽国土に往生できるとされており、「名号称揚七日」とある「命長七年文書」はこの『仏説阿弥陀経』の影響を受けているのではないでしょうか。もちろん仏典全てを精査したわけではありませんので、有力な可能性の一つとして提起したいと思います。この見解が正しければ、七世紀前半頃までには九州王朝へ『仏説阿弥陀経』が伝来していたことになります。(つづく)

(注)
①服部静尚「女帝と法華経と無量寿経」『古田史学会報』164号、2021年6月。
②『善光寺縁起集註(4) 』天明五年(1785)成立。
③古賀達也「法隆寺の中の九州年号 ―聖徳太子と善光寺如来の手紙の謎―」『古田史学会報』15号、1996年8月
 古賀達也「九州王朝仏教史の研究 ―経典受容記事の史料批判―」『「九州年号」の研究』ミネルヴァ書房、2012年。
④阿部周一「『厩戸勝鬘』とは誰か」ブログ〝古田史学とMe〟、2021年2月27日。
⑤ウィキペディアによれば、『仏説阿弥陀経』一巻は姚秦の鳩摩羅什訳(402年ごろ訳出)。


第2502話 2021/06/25

年輪年代測定値の「100年誤り」説 (2)

 年輪年代測定値が、AD640年以前では100年古く誤っているという鷲崎弘朋さんの指摘が妥当であれば、古田学派での研究や諸仮説にも影響を受けるものがあります。
 たとえば、年輪年代測定により594年とされた法隆寺の五重塔心柱伐採年が100年後の694年となり、米田良三さんが提唱された法隆寺移築説(注①)の成立根拠の一つが失われます。他方、現法隆寺の再建年代を和銅年間(708~714年)とする通説と修正伐採年(694年)が整合し、通説が更に有力となります。このことも、年輪年代測定値が100年古く誤っていることの根拠の一つとされています。というのも、従来説では、594年に伐採した心柱が約100年後の法隆寺再建時に使用されたことになり、伐採から100年も放置(不使用)した合理的説明に苦慮してきたからです。
 この点、移築説であれば、100年前に建立された古い寺院を移築したという説明が容易にでき、通説の再建説よりも有力な仮説であると古田学派内では考えられてきました。ところが、年輪年代測定値は100年古く間違っているという鷲崎さんの指摘により、移築説が成立困難となったわけです。
 しかしながら、法隆寺五重塔の建築様式は8世紀初頭の頃とは考えにくいと思います。たとえば、心柱を基壇地下に埋め込むタイプは古いもので、とても8世紀の寺院建築とは思えません。また、版築基壇が二重に形成されているのも古い様式とされてきました(注②)。更に、金堂の釈迦三尊像光背銘(注③)に記された「法興元卅一年」(621年)という紀年が年輪年代測定による伐採年(594年)と近いことも、偶然とは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①米田良三『法隆寺は移築された』新泉社、1991年。
②「二重基壇」については、白鳳十年(670年)創建の観世音寺五重塔(太宰府市)にも採用されており、決定的な根拠とはできないが、現法隆寺は古い寺院を移築したものとする説と矛盾しない。なお、観世音寺の「二重基壇」については次の拙稿を参照されたい。
 古賀達也「洛中洛外日記」1694話(2018/06/19)〝観世音寺古図の五重塔「二重基壇」〟
 古賀達也「『観世音寺古図』の史料批判 ―塔基壇と建物、非対応の解明―」『東京古田会ニュース』182号、2018年9月。
③古田説ではこの釈迦像や光背銘文を、九州王朝の天子阿毎多利思北孤(『隋書』による)のためのものとする。


第2422話 2021/04/02

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(3)

 法隆寺釈迦三尊像の光背などが大きく傷んでいることを説明しましたが、この事実は法隆寺が私寺か国家的官寺かの論争にも関係しそうです。「洛中洛外日記」2265~2299話(2020/10/18~2020/11/19)〝新・法隆寺論争(1~8)〟で紹介しましたが、若井敏明さんは法隆寺は斑鳩の在地氏族による私寺とする説を発表しました(注①)。その概要と根拠は次のような点です。

〔概要〕
 法隆寺は奈良時代初期までは、国家(近畿天皇家)からなんら特別視されることのない地方の一寺院であり、その再建も斑鳩の地方氏族を主体として行われたと思われ、天平年間に至って「聖徳太子」信仰に関連する寺院として、特別待遇を受けるようになった。その「聖徳太子」信仰の担い手は宮廷の女性(光明皇后・阿部内親王・無漏王・他)であって、その背景には法華経信仰がみとめられる。

〔根拠〕
(1)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、大化三年九月二一日に施入され、天武八年に停止されているが、いずれも当時の一般寺院に対する食封の施入とかわらない。これを見る限り、法隆寺は国家(近畿天皇家)から特別な待遇をうけてはいない。
(2)食封停止は、法隆寺の再建が国家(同上)の手で行われてなかった可能性が強いことを示している。
(3)『法隆寺伽藍縁起幷流記資材帳』によれば、奈良時代初期までの法隆寺に対する国家(近畿天皇家)の施入には、持統七年、同八年、養老三年、同六年、天平元年が知られるが、これらは特別に法隆寺を対象としたものではなく、『日本書紀』『続日本紀』に記されている広く行われた国家的儀礼の一環に過ぎない。
(4)『日本書紀』が法隆寺から史料を採用していないことも、同書が編纂された天武朝から奈良時代初期にかけて法隆寺が国家(同上)から特別視されていなかった傍証となる。特に、「聖徳太子」の亡くなった年次について、法隆寺釈迦三尊像光背銘にみえる(推古三十年・622年)二月二二日が採られていないことは、「聖徳太子」との関係においても法隆寺は重要な位置を占めるものという認識がなされていなかったことを示唆する。

 以上のように若井さんは論じられ、法隆寺再建などを行った在地氏族として、山部氏や大原氏を挙げます。この若井説に対して、田中嗣人さんから厳しい批判がなされました。
 田中さんは、「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ(一例をあげれば、金銅潅頂幡や伝橘夫人念持仏の光背などは当時の技術の最高水準のもので、埋蔵文化財など当時のものとの比較からでも充分に理解される)から言って、とうてい山部氏や大原氏などの在地豪族のみで法隆寺の再興がなされたものとは思わない。」(注②)とされました。
 本シリーズで説明したように、釈迦三尊像の光背の飛天は失われ、その上部は折れ曲がっています。もし法隆寺が国家的な官寺であれば飛天の修復くらいはできたはずです。それがなされず、脇侍の左右入れ替えで済まされているという現状は、若井さんの私寺説に有利です。
 他方、田中さんが官寺説の根拠とした「法隆寺の建築技術の高さ、仏像・仏具その他の文物の質の高さ」という事実は、九州王朝による官寺とその国家的文物が大和朝廷以前に存在し、それらが移築後(王朝交替後の八世紀初頭)の法隆寺に持ち込まれたとする多元史観・九州王朝説を支持するものに他なりません。今、斑鳩にある法隆寺と釈迦三尊像こそ、九州王朝の実在を証言する歴史遺産なのです。

(注)
①若井敏明「法隆寺と古代寺院政策」『続日本紀研究』288号、1994年。
②田中嗣人「鵤大寺考」『日本書紀研究』21冊、塙書房、1997年。


第2421話 2021/04/01

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(2)

 法隆寺金堂の釈迦三尊像が傷んでいることを古田先生からうかがっていましたが、脇侍が左右反対に置かれていることも不思議でした。更に光背も大きく傷んでおり、本来その外縁にあった飛天(注①)が失われていたことを最近になって知りました。
 ブログ「観仏日々帖」(注②)によれば、同光背周縁に長方形(幅約8mm、縦約25mm)の枘(ほぞ)穴が左右に各々13個ずつ穿たれており、本来は飛天が装飾されていたと考えられています(注③)。その根拠として、国立東京博物館の「法隆寺献納宝物の甲寅銘光背」をみると、周縁左右に各7個の飛天が取り付けられており、中国、竜門石窟の北魏式仏像の光背も、周縁を飛天で囲まれたものが一般的であることを指摘されています。そして、光背の飛天復原が東京芸術大学で行われたことを紹介され、その写真も掲示されています。

《以下、「観仏日々帖」より転載》
【復元制作された光背周縁の飛天~東京藝術大学の「クローン文化財」制作プロジェクト】
 2017年。周縁の飛天を再現した、大光背の復元制作が行われました。東京藝術大学が取り組んでいる文化財の超精密複製、通称「クローン文化財」制作プロジェクトによって、法隆寺釈迦三尊像のクローン文化財が制作されたのです。その制作にあたって、大光背周縁の飛天も、甲寅銘光背などを参考にして、復元制作されたのでした。
 このクローン文化財・釈迦三尊像復元像は、2017年秋に東京藝術大学美術館で開催された、シルクロード特別企画展「素心伝心~クローン文化財 失われた刻の再生」(各地を巡回)などで展示されましたので、ご記憶のある方も多いのではないかと思います。
《転載おわり》

 この飛天が復原され、脇侍が本来の位置に戻された〝クローン釈迦三尊像〟の写真を見て、脇侍が左右逆に配置された理由がようやくわかりました。それは光背と三尊像の左右幅バランスの問題だったのです。すなわち、飛天が復原された光背は一回りも二回りも大きくなり、その大きな本来の光背であれば、脇侍裳裾の長い方が外側になる本来の配置により、左右の幅が大きな光背にバランス良く収まります。ところが、飛天が失われた現状の光背では、脇侍の裳裾が左右に大きくはみ出し、見るからにバランスが良くないのです。そこで、短い裳裾が外側になるよう、左右逆に脇侍を配置すれば、飛天がない現状の光背の幅に脇侍の裳裾が収まるのです。
 従来、脇侍が左右逆に置かれた理由を、九州王朝の仏像を奪い、法隆寺金堂に納めた大和朝廷側の人々が、本来の正しい脇侍の配置を知らなかったためと、わたしは理解してきました。しかし、それは誤解でした。移築された法隆寺金堂に、飛天を失った光背と釈迦三尊像を置いたとき、その美的なバランスの悪さを取り繕うために、脇侍を左右逆に配するというアイデアを採用したのではないでしょうか。これは、移築・移転に携わった技術者たちの優れた美的センスのなせる技だったのです。
 なお、この飛天が失われた光背や、二体の脇侍の金箔剥落の大きな差異は、これら仏像の保管状態がかなり劣悪だったことを推測させます。光背に至っては、上部が手前に折れ曲がっており、大きな力が加わったことを示しています。この状況は同釈迦三尊像の元々置かれていた場所が、遠く離れた九州王朝の都太宰府付近だったのか、あるいは比較的近距離にある難波複都だったのかという未解決のテーマに対し、何らかのヒントになるかもしれません。よく考えてみたいと思います。

(注)
①仏教で諸仏の周囲を飛行遊泳し、礼賛する天人で、仏像の周囲(側壁や天蓋)に描写されることが多い。〈ウィキペディアによる〉
②https://kanagawabunkaken.blog.fc2.com/blog-entry-204.html
③平子鐸嶺「法隆寺金堂本尊釈迦佛三尊光背の周囲にはもと飛天ありしというの説」『考古界』6-9号、1907年(後に『仏教芸術の研究』所収)。


第2420話 2021/03/24

傷だらけの法隆寺釈迦三尊像(1)

 過日、水野孝夫さん(古田史学の会・顧問、前代表)のお宅にうかがい、多くの書籍をいただきました。その中に『国宝法隆寺金堂展』(朝日新聞社、平成20年)がありました。同書は平成20年6~7月に奈良国立博物館で開催された「国宝法隆寺金堂展」の図録で、多くのカラー写真を含む豪華本です。
 法隆寺金堂内の仏像などを対象とした図録ですから、釈迦三尊像や薬師如来像などのカラー写真があり、その状態が比較的よくわかります。ある意味では、法隆寺の暗い金堂内で離れた位置から見るよりも、仏像の細部がよくわかります。そこで思い起こしたのが、あるとき少人数での会話で、古田先生がこの釈迦三尊像について、「写真で見るときれいですが、実物は結構傷んでいます」と仰っていたことです。
 図録の写真には、釈迦像のお顔を左右両面から撮影したものもあり、表面の金箔が剥がれ落ちている状況などがはっきりとわかります。更に、二体の脇侍(注①)ですが、向かって左側のものは表面の金箔が全体に残っていますが、右側の方はほとんど残っていないように見えます。これも不思議な現象です。同時期に造られたのであれば、同じような経年劣化をするはずですが、表面の金箔に関しては全く異質です。また、この脇侍は左右が逆に配置されていることも知られており、これもおかしなことです。
 古田学派では法隆寺の金堂・五重塔などは、六世紀末頃に建立された別寺院が移築されたものと考えられており、釈迦三尊像は九州王朝の天子、阿毎多利思北孤のために造られたもので、これも移築時に持ち込まれたとされています。移築元寺院がどこにあったのかについては、当初、太宰府観世音寺が八世紀初頭に移築されたとする説(注②)が発表されましたが、それについて賛否両論が出され(注③)、移築元寺院がどこにあったのかは未だ特定できていません。
 脇侍が左右逆に配置されていることも、九州王朝の寺院から移築時に持ち込まれたとき、本来の配置を知らなかったた大和朝廷側が誤ったものと考えられてきました。しかし、脇侍の衣の裾は左右で長さが異なっており、長く伸びている方が釈迦像の左右の外側になるのが本来の配置であり、現状は長く伸びた裾が両脇侍とも釈迦像の台座に隠れてしまっています。
 寺院を移築できるほどの技術者集団の誰一人として、これだけ明瞭な差異を持つ脇侍の配置を間違うとは考えにくいのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①釈迦の脇侍は文殊菩薩と普賢菩薩とされている。
②米田良三『法隆寺は移築された ─太宰府から斑鳩へ』1991年、新泉社刊。
③大越邦生「法隆寺は観世音寺からの移築か(その一)(その二)」『多元』43・44号、2001年6月・8月。
 川端俊一郎「法隆寺のものさし─南朝尺の「材と分」による造営そして移築」『北海道学園大学論集』第108号、2001年6月。
 飯田満麿「法隆寺移築論争の考察─古代建築技術からの視点─」『古田史学会報』46号、2001年10月。
 古賀達也「法隆寺移築論の史料批判 ─観世音寺移築説の限界─」『古田史学会報』49号、2002年4月。
 古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年6月。