難波朝廷(難波京)一覧

第1793話 2018/11/30

前期難波宮と大宰府政庁出土「須恵器坏B」(1)

 前期難波宮の造営を天武朝期とした研究者のお一人が小森俊寬さん(元・京都市埋蔵文化財研究所)でした。小森さんの著書『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』(京都編集工房、2005年11月)には、次の論法により前期難波宮を天武朝期の造営とされました。

①遺構から出土した最も新相の土器の編年をその遺構の時代とするのが考古学的原則である。
②前期難波宮整地層から天武朝期の須恵器坏Bが出土している。
③従って、前期難波宮造営は天武朝期である。

 このように簡単明瞭な論法により小森説は成り立っていますが、わたしの目から見ると、①の論が成立するためには、当該土器の発生時期を科学的学問的に証明しなければなりませんし、それ以前には存在しないという不存在の証明(悪魔の証明)も必要です。しかし、そのような証明などできないと思います。従って、小森さんの三段論法はその初めからして成立していないのです。
 他方、難波編年を提起された佐藤隆さん(大阪文化財研究所)は『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(2000年3月、大阪市文化財協会)において次のように結論づけられています。

 「難波Ⅲ中段階には前段階の土器様相がいっそう明らかになる。(中略)年代は前後の土器様相が新しい資料の増加によって明らかになってきており、7世紀中葉から動くことはない。前期難波宮の造営はまさにこの段階に行われたものであり、『日本書紀』の記載に基づいてこの時期に起こった最も重大な出来事と結びつければ、前期難波宮=難波長柄豊碕宮説がもっとも有力であることを今回あらためて確認することができた。」(264頁)

 わたしは佐藤さんの難波編年と前期難波宮孝徳期造営説を支持していますが、それでは小森さんの説は学問的に無意味かというと、そうではありません。小森さんが『京(みやこ)から出土する土器の編年的研究 -日本律令的土器様式の成立と展開、7〜19世紀-』で紹介された前期難波宮整地層の須恵器坏B出土が事実なら、それはそれで学問的に大きな意味を持つのではないかと考えられるからです。(つづく)


第1790話 2018/11/22

前期難波宮出土「須恵器坏B」の解説(2)

 前期難波宮の造営時期を天武期とする論者の根拠とされたのが、前期難波宮整地層から須恵器坏Bが出土しているということでした。この点について、難波編年を提起された佐藤隆さんは『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(2000年3月、大阪市文化財協会)において次のように述べられています。

 「難波Ⅲ
 (前略)須恵器の坏Hは法量が縮小する。新しい器形として坏Gが現れ、次第に坏Hを凌駕する。遅れて坏Bが加わるが、まだ初源的な形態である。古・中・新の3段階に細分する。
 古段階は(中略)須恵器坏Hは受部径11〜12cm代(ママ)のものが中心で、底部・天井部はヘラ切り後不調整のものがほとんどとなる。また、わずかながら坏Gが現れる。
 中段階はNW100次SK10043[大阪市文化財協会1981A]・本調査地SK223[大阪市文化財協会1992]出土土器や、本書で報告した水利施設に関連する第7層に含まれていた土器を標識資料とする。(中略)須恵器の食器類では、坏Hと坏Gの比率は前者が少し多い。坏G蓋には口縁部径がひとまわり大きなものがあり、法量分化が認められる。須恵器坏B・同蓋は可能性のある蓋1点(本書の394)を除いて、これまでまったく見つかっていない。
 新段階は(中略)須恵器の食器類は坏Gが大半を占め、坏Hはわずかである。いずれも前段階と比べると法量が縮小している。ひとのまわり大きな坏Gの蓋がここでも存在する。坏Bはこの資料には含まれていない。
 最近の府センター調査において、「戊申」紀年銘を含めて33点の木簡(可能性のあるもの)とともに良好な資料が出土した。本調査地から北へ150mの地点にある別の谷で、その埋土である16層からである。(中略)須恵器では、坏H・Gとも口縁部径が小さい。破片を概観したかぎりでは坏Gが多い。坏B・同蓋が一定量存在する。坏Bの高台は壺や高坏の脚と同じつくりで、初現(ママ)的な形態である。」(258〜259頁)

 このように前期難波宮造営期に相当する「難波Ⅲ中」からは「須恵器坏B・同蓋は可能性のある蓋1点(本書の394)を除いて、これまでまったく見つかっていない」と断言されています。この「可能性のある蓋1点」にしても径が通常の坏Bよりも大きく、同じ層位から出土した大型椀の蓋の可能性も示唆されています。この蓋について大阪府文化財センターの江浦洋さんにもおたずねしたところ、「通常の坏Bよりも大型であり、坏Bの範疇には入らない」との見解でした。
 確実に須恵器坏Bとされる土器は前期難波宮完成後の時期に相当する「難波Ⅲ新」になってようやく出土しますが、それにしても「初現(ママ)的な形態」とされています。従って、前期難波宮整地層から須恵器坏Bが出土したとすることに基づいて造営時期を天武期とする説は根拠そのものが脆弱だったようです。同書において佐藤さんは次のように結論されています。

 「難波Ⅲ中段階には前段階の土器様相がいっそう明らかになる。(中略)年代は前後の土器様相が新しい資料の増加によって明らかになってきており、7世紀中葉から動くことはない。前期難波宮の造営はまさにこの段階に行われたものであり、『日本書紀』の記載に基づいてこの時期に起こった最も重大な出来事と結びつければ、前期難波宮=難波長柄豊碕宮説がもっとも有力であることを今回あらためて確認することができた。」(264頁)

 「前期難波宮=難波長柄豊碕宮説がもっとも有力」という意見には賛成できませんが(前期難波宮は大阪市中央区で「長柄豊碕」は北区に位置し、場所が異なる。わたしは前期難波宮=九州王朝副都説です)、難波Ⅲ古段階が7世紀中葉から動くことはなく、前期難波宮の造営はまさにこの段階に行われたという点は大賛成です。


第1789話 2018/11/22

前期難波宮出土「須恵器坏B」の解説(1)

 七世紀の土器編年の基準土器としてよく使用されるのが「須恵器坏(すえきつき)」と呼ばれるもので、主な様式に須恵器坏H、坏G、坏Bがあります。より古いタイプが須恵器坏Hで古墳時代から七世紀中頃まで続いている、いわばロングラン土器です。これは碁石の容器のような形状で、蓋にはつまみがなく、底には現代のお茶碗にあるような「脚」はありません。次いで七世紀前半頃から出現するのが坏Gで、これは坏Hの蓋の中央につまみがついたタイプです。蓋の開け閉めに便利なようにつまみが付けられた進化形です。更にこの坏Gの底に「脚」がついたものが最も新しい坏Bで、七世紀後半から出現するとされています。底に「脚」をつけることにより、平らな机や台に置いたときに安定感がありますから、須恵器坏の最進化形です。
 この様式の進化を利用して須恵器の相対編年が可能となり、出土層位や出土遺構の編年に用いられます。さらにその各様式内の細部の変化を利用してより細かな相対編年も可能とされています。たとえば、須恵器坏は大きさ(法量)が時代と共に小さくなるという傾向があり、その大きさの差を利用して同様式内の土器の相対編年に利用されています。
 また、蓋と容器の「かみ合わせ」部分のタイプも相対編年に利用されています。より古いタイプは蓋が大きく容器の上から包み込むようにかぶせる、いわばお弁当箱のような構造になっています。ところがどんぶりの蓋のように、容器よりも蓋が小さく、容器の内側に蓋をはめ込むタイプがより新しいとされています。このタイプですと暖かいお汁が蒸発して蓋の内側で冷やされ環流しても、水滴が容器の内側に流れ落ちることになり、外側には滴り落ちません。ですから、お弁当箱タイプよりもどんぶりの蓋タイプの方が進化形と見なせるのです。
 このように七世紀は須恵器坏が短期間で進化発展した時代であることから、須恵器坏による相対編年が利用しやすい時代なのです。ところが、そのことでわかるのは相対編年だけですから、それら各須恵器坏をどの実年代(暦年)にリンクするのかという課題が横たわっています。その暦年とのリンクにおいて、考古学者間や地域間で見解が異なることがあり、遺構の編年について異説が出現し、論争となることがあります。その典型的で有名な例が前期難波宮や大宰府政庁の造営年代についての論争です。
 なお、学問研究では異見が出され論争となることは良いことで、〝学問は批判を歓迎〟します。古田先生も繰り返しわたしたちに言われてきたように、「師の説にななづみそ」(本居宣長)は学問の金言です。そして何よりも、「学問は自らが時代遅れとなることを望む領域」(マックス・ウェーバー)なのですから。(つづく)


第1787話 2018/11/20

佐藤隆さんの「難波編年」の紹介

 前期難波宮の造営時期をめぐって孝徳期か天武期かで永く論争が続きましたが、現在ではほとんどの考古学者が孝徳期造営説を支持しています。その根拠とされたのが佐藤隆さんが提起された「難波編年」でした。この佐藤さんによる「難波編年」は多くの研究者から引用される最有力説となっています。
 ただ、その論文が収録された『難波宮址の研究 第十一 -前期難波宮内裏西方官衙地域の調査-』(2000年3月 大阪市文化財協会)はまだWEB上に公開されていないようで、研究者もなかなか見る機会がないと思われます。わたしは京都市に住んでいることもあり、大阪歴博の図書館(なにわ歴史塾)で同書を閲覧することが容易にできます。そこで、同書に記された前期難波宮造営年代に関する「難波編年」のキーポイントをここで紹介することにします。研究者の皆さんのお役に立てば幸いです。
 佐藤さんが同書で「難波編年」を論じられているのは「第2節 古代難波地域の土器様相とその歴史的背景」です。佐藤さんは出土土器(標準資料)の様式により「難波Ⅰ〜Ⅴ」と五段階に分類され、更にその中を「古・新」あるいは「古・中・新」と分類されました。そして前期難波宮造営期頃の土器(SK223・水利施設7層)を「難波Ⅲ中」と分類され、暦年代として「七世紀中葉」と編年されました。その編年の根拠として次の点を挙げられています。

①飛鳥の水落遺跡出土土器(667-671年)よりも確実に古い。
②水利施設出土木枠の板材の伐採年代が年輪年代測定により634年という値が得られている。
③兵庫県芦屋市三条九ノ坪遺跡から出土した「白雉元(三)壬子年(652)」木簡に共伴した土器が同段階である。
④655年には存在した川原宮の下層出土土器と同段階。

 ここで注目すべきは、前期難波宮を『日本書紀』孝徳紀に見える白雉三年(652)造営の宮殿とすることを自らの編年の根拠にあえて入れていないことです。というのも、前期難波宮の造営が孝徳期か天武期かで論争が続けられてきたという背景があるため、『日本書紀』孝徳紀の記述とは切り離して前期難波宮の編年を行う必要があったためと思われます。こうした佐藤さんの姿勢はとても学問的配慮が行き届いた考古学者らしいものとわたしは思いました。わたしが七世紀における「難波編年」の精度を信頼したのも、こうした事情からでした。


第1783話 2018/11/09

九州王朝と大和朝廷の難波と太宰府

 拙稿「前期難波宮は九州王朝の副都」(『古田史学会報』八五号、二〇〇八年四月)で前期難波宮九州王朝副都説を発表してから十年になりますが、今でも様々なご批判をいただくことがあります。最近でも、〝難波は九州ではない。だから難波に九州王朝の副都などあるはずがない〟という趣旨の批判があることを知りました。
 この種の批判は、わたしが副都説を発表する際に最初に想定したものでした。というよりも、わたし自身が副都説に至る思考の最中に自らに発した問いでもありました。ですから、こうした批判が出ることは当然であり、驚くには及ばないのですが、この種の批判に対してこの十年間に何回も説明・反論してきたにもかかわらず、未だに出されるということに、自らの説明の不十分さを思い知らされました。わたしは〝学問は批判を歓迎する〟と考えていますので、どのように説明したらこの種の批判に対して効果的かを考えてみました。
 ちなみに今までは次のように説明してきました。

①九州王朝は列島の代表王朝であり、必要であれば自らの支配領域のどこに副都を置こうが問題はない。
②中国や朝鮮半島諸国・渤海国には副都(複都)を置く例があり、むしろ複都を持つことが当然のようでもある。従って九州王朝(倭国)が副都を置くのは当然でもある。
③新羅の例では、かつての敵地(百済)に副都を置いている。従って、九州王朝が難波に副都を置いても不思議とはいえない。
④『日本書紀』天武紀に信州に「都」を置こうとした記事があり、古田先生はこの記事を九州王朝の「信州遷都計画」とされた。従って、古田説支持者であれば、信州よりも九州に近い難波に九州王朝が副都を置くことはありえないとは言えないはずである。もちろん、学問研究である以上、古田先生と異なる説を唱えることに何も問題はない。わたしの副都説も古田先生の見解とは異なるのであるから。

 以上の説明では納得していただけない方があるため、わたしは新たに次の説明を加えることにしました。

⑤近畿天皇家は列島の代表王朝となった大宝元年に『大宝律令』を制定し、九州島支配のため「大宰府」を置き、難波には摂津職を置いた。
⑥〝福岡県太宰府市は大和(奈良県)ではない。だから大和朝廷が福岡県に大宰府を置くはずがない〟という批判は聞いたことがない。
⑦同様の理屈から、摂津難波に九州王朝が副都を置いたとする説に対して〝難波は九州ではない〟などという批判が成立しないことは当然であろう。
⑧大和朝廷が『大宝律令』に基づき、筑前に「大宰府」を置き、難波に摂津職(後の難波副都)を置いたように、九州王朝が九州王朝律令に基づき太宰府に都を置き、難波に副都(摂津職)をおいたとしても何ら不思議ではない。
⑨大和朝廷は九州諸国を監督する「大宰府」を筑前に置くことができるが、九州王朝は摂津難波に副都を置くことはできないとするのであれば、その理由の説明が必要。

 以上のような新たな説明を考えてみました。これなら理解していただけるのではないでしょうか。もし納得していただけないとすれば、どのような説明が必要なのか、わたしはあきらめることなく考えてみます。〝学問は批判を歓迎する〟のですから。


第1782話 2018/11/08

上町台地北端部遺構の造営方位

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員、所沢市)により、古代遺構の中心線の振れ方向に時代や王朝毎に一定の傾向があり、その傾向差を利用して遺構の編年が可能とする仮説が発表されました。とても興味深い仮説であり、わたしもその推移を注目しています。他方、遺構の造営方位はそれほど単純な変遷ではなく、個別に精査すると複雑な状況も見えてきます。本稿では六世紀〜七世紀における大阪市上町台地北端部遺構の造営方位とその背景についての研究を紹介します。
 その研究とは「洛中洛外日記」1777話(2018/10/26)「難波と筑前の古代都市比較研究」で紹介した南秀雄さんの「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」(大阪文化財研究所『研究紀要』第19号、2018年3月)という論文です。同論文には六世紀における上町台地北端の遺構について次のように説明されています。

 「上町台地北端では、台地高所を中心に200棟以上の建物が把握されている。竪穴建物は6棟のみで他は掘立柱建物である。傾向として、中央部(現難波宮公園)には官衙的建物があり〔黒田慶一1988〕、その北西(大阪歴博・NHK)には倉庫が多い。中央部から北や東では、手工業と関連した建物群がある。また規模や区画施設から『宅』、瓦の点在から寺院の存在が予測される。」(6頁)

 そして、「北西地域の建物変遷(旧大阪市立中央体育館地域)」の時代別の遺構図を示され、次のようにその建物の方位について述べられています。

 「北西地域の建物群は、約150年間、北西-南東または北北西-南南東を向いている。地形に合わせたというより、近くを通る道に合わせたためと考えられる。(中略)津-倉庫群-官衙域という機能の分化・固定と歩調を合わせて、それらを結ぶ道が固定し、その道に方向等を合わせるように屋敷地や土地利用の固定化が惹起されていった。」(7頁)

 このように上町台地北端部付近では六世紀から七世紀前半の150年間は中心線を西偏させた建物群が造営され、七世紀中頃になると正方位の前期難波宮や朱雀大路・条坊が造営されます。難波京や前期難波宮のような正方位の都市計画や宮殿・官衙の造営には権力者の意思(設計思想)の存在を想定できますが、それ以前の150年間は単に2点間を最短距離で結んだ直線道路に合わせて建物造営方位が設定されたことになり、それは「思想性」の発現というよりも、都市の発生に伴う「利便性」の結果と言わざるを得ません。従って、そうした「利便性」により、たまたま成立した同一方位を持つ建物群の場合は、その方位に基づく編年は適切ではないことになります。
 以上のように考えると、ある権力者(王朝)の方位に対する思想性の変遷をその遺構の編年に用いる場合は、少なくとも次の条件が必要と思われます。

①権力者の意思が設計思想に反映していると考えられる王宮や中央官衙、あるいは都の条坊などの方位を対象とすること。
②それら対象遺構の造営年代が別の方法により安定して確定していること。
③それら遺構の方位が自然地形の影響(制約)を受けていないこと。
④より古い時代の「利便性」重視により造営された道路等の影響を受けていないこと。
⑤地方官衙・地方寺院などの場合、中央政府の設計思想の影響を受けており、その地方独自の影響等を受けていないこと。

 およそ以上のような学問的配慮が必要と思われます。これらの条件を満たした遺構の方位の振れに基づき、新たな編年手法が確立できれば素晴らしいと思います。


第1777話 2018/10/26

難波と筑前の古代都市比較研究

 大阪文化財研究所『研究紀要』第19号(2018年3月)に今まで読んだことがないような衝撃的な論文が掲載されていました。南秀雄さんの「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」という論文です。このタイトルだけでも九州王朝説・古田学派の研究者や「洛中洛外日記」の読者であれば関心を持たれるのではないでしょうか。「博多湾岸」といえば天孫降臨以来の九州王朝の中枢領域ですし、「上町台地の都市化」と聞けばまず前期難波宮を連想し、この両地名により前期難波宮九州王朝副都説が思い浮かぶはずだからです。もちろん、わたしもそうでした。
 この論文は五世紀の古墳時代から七世紀前半の前期難波宮以前の上町台地の都市化の経緯を出土事実に基づき、世界の都市化研究との対比により考察したもので、更に上町台地との比較で福岡平野の比恵・那珂遺跡の分析を行ったものです。論文冒頭の「要旨」には次のように記されています。

 「要旨 地政学的位置が類似する大阪上町台地と博多湾岸を対象に、都城制以前の都市化について、外部依存と機能分化を指標に比較・検討した。上町台地では、5世紀以降三つの段階を経て、6世紀末には、木材・農産物・原材料を外部に依存し、手工業生産を膝下に抱える需給体制が整備され、工房群・港・各種の行政外交施設を地形に即して分置した機能分化が進行した。6世紀後葉には、世界標準に照らして都市と呼ぶべき姿となっていた。一方の博多湾岸の比恵・那珂遺跡も、手工業を広域で分担した違いはあるが、7世紀前半には類似した内部構成を取っていた。2地域の都市化には、ミヤケ(難波屯倉・摂津官家)による、地形環境の変化に適合した開発・殖産が大きな動因となったと考える。」

 この論文でわたしが最も注目したのは、数ある遺跡の中でなぜ上町台地との比較対象に博多湾岸の比恵・那珂遺跡が選ばれたのかという理由と、上町台地北部から出土した5世紀の法円坂遺跡の大型倉庫群について漏らされた次の疑問でした。

 「法円坂倉庫群は、臨時的で特殊な用途を想定する見解もあったが、王権・国家を支える最重要の財政拠点として、周囲のさまざまな開発と一体的に計画されたことがわかってきた〔南2014b〕。倉庫群の収容力を奈良時代の社会経済史研究を援用して推測すると、全棟にすべて頴稲を入れた場合、副食等を含む1,200人分強の1年間の食料にあたると算定した〔南2013〕。」(2頁)
 「何より未解決なのは、法円坂倉庫群を必要とした施設が見つかっていない。倉庫群は当時の日本列島の頂点にあり、これで維持される施設は王宮か、さもなければ王権の最重要の出先機関となる。もっとも可能性のありそうな台地中央では、あまたの難波宮跡の調査にもかかわらず、同時期の遺構は出土していない。佐藤隆氏は出土土器とともに、大阪城本丸から二ノ丸南部の、上町台地でもっとも標高の高い地域を候補としてあげている〔佐藤2016〕。」(3頁)
 「全国の古墳時代を通じた倉庫遺構の相対比較では、法円坂倉庫群のクラスは、同時期の日本列島に一つか二つしかないと推定されるもので、ミヤケではあり得ない。では、これを何と呼ぶか、王権直下の施設とすれば王宮は何処に、など論は及ぶが簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい。」(16頁)

 ここに記された法円坂倉庫群を必要とした王宮・王権とは、わたしは九州王朝が河内・難波を6世紀末頃の「河内戦争」により直轄支配領域とする以前に当地を支配した王者のことではなかったかと推定しています。近畿天皇家一元史観論者であればこの倉庫群を「大和朝廷の出先機関」と結論づけるところでしょうが、南さんは「簡単なことではなく、本稿はここで筆をおきたい」とされ、出土事実を重視される考古学者らしい慎重さがうかがわれます。その上で、次の記述で論文を締めくくっておられます。

 「都城制以前の都市化については、政治拠点・王宮の所在地の奈良盆地との対比が必須である。これは今後の課題としたい。」(17頁)

 わたしとしては、南さんが上町台地と比恵・那珂遺跡を対比されたように、九州王朝の政治拠点・王宮所在地の筑紫との対比をまず行っていただきたいところです。


第1766話 2018/10/05

土器と瓦による遺構編年の難しさ(3)

 土器の相対編年はその様式(スタイル)や大きさの変化に基づいて行われており、先後関係は出土層位の差を利用したり、遺構の成立年を文献(主に『日本書紀』)の記述にリンクすることにより定められています。その結果、『日本書紀』に記述されている畿内(飛鳥地方)の遺構の暦年とのリンクで成立した「飛鳥編年」を基本にして、全国の遺跡から出土した土器や遺構を編年するという手法が一般的にとられています。近年ではそれを基本にしながらも地域差に配慮した補正も行われるようになりましたが、根本は近畿天皇家一元史観に基づく『日本書紀』リンク編年(飛鳥編年)が一元的に採用されているのが実態のようです。
 「飛鳥編年」はその基礎データの数値や認識が間違っており、信頼性に疑問があることを服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)が既に発表されています。更に10年単位で7世紀の土器編年が可能とする「飛鳥編年」に対して、そこまで厳密に断定することはできず、逆に編年を間違ってしまう可能性があるという意見をある考古学者からお聞きしたことがあります。わたしもこの意見に賛成です。
 そもそも土器に製造年が書いてあるわけでもありませんし、土器そのものも破損するまで長期間使用されるのが普通と思われますから、ある様式の土器が出土したからといって、その出土層位や遺構の編年を土器の「飛鳥編年」にリンクするというのは危険です。更には土器様式そのものにも発生期から流行期・衰退期・生産中止期という恐らく数十年という変遷(ライフサイクル)をたどりますから、「飛鳥編年」により10年単位で遺構を編年できると考える方がおかしいと思います。
 その具体的事例を紹介しましょう。前期難波宮整地層から極少数出土した「須恵器坏Bと思われる土器」を根拠に、それが「飛鳥編年」では660年頃と編年されていることから、前期難波宮造営は660年を遡らないとする批判が少数の考古学者から出されたことがありました。そこで難波宮発掘に関わってこられた複数の考古学者の見解を聞いてみたところ、大阪府文化財センターの考古学者は「その土器はやや大きな須恵器であり、いわゆる須恵器坏Bの範疇には入らない」とのご意見でした。また大阪歴博の考古学者の見解は「須恵器坏B発生の初期段階のものであり、7世紀中頃と見なせる」というものでした。その上で、前期難波宮整地層や前期難波宮の水利施設から大量に出土した土器が7世紀前半から中頃とされる須恵器坏Gであることが決定的証拠となり、前期難波宮を孝徳期の造営とする説がほとんどの考古学者に支持されるに至ったと説明されました。(つづく)


第1764話 2018/09/30

土器と瓦による遺構編年の難しさ(1)

 わたしは古田先生から主に文献史学の方法論を学んで来ました。古代史学の関連分野である考古学については体系的に勉強する機会がありませんでしたので、この10年ほどは7世紀の土器編年や瓦の変遷について専門書や考古学者から学ぶようにしてきました。そうした経験から、思っていたよりも土器や瓦による遺構の編年が難しいこと、7世紀における「難波編年」が比較的正確であることなどを知りました。そこで今回はその難しさについて説明することにします。
 土器による遺構の編年について、大阪歴博の考古学者から基礎的な編年方法について教えていただいたことがあります。まず前提として、出土土器により遺構の年代を編年する場合の条件として、対象遺構の整地層の中とその上から土器が出土しないと正確な編年ができないことです。
 たとえば整地層から7世紀中頃の土器が出土しても、そのことから導き出せるのはその遺跡が7世紀中頃以後に造営されたということだけで、それ以上の年代編年は原理的にできません。ところが整地層の上の層位から7世紀後半の土器も出土していれば、その遺構は7世紀中頃から後半の造営とする編年が可能となります。
 逆に整地層からは編年できるような土器が出土せず、その上の層位から7世紀中頃の土器が出土している場合は、その遺構は7世紀中頃以前の造営とすることはできますが、それ以上のことは判断できません。
 このように遺構の層位を挟むように整地層の中と上からの出土土器が揃ったときに造営年代の編年が可能となります。この原理をしっかりと押さえておくことが重要です。遺構から「何世紀の土器が出土した」という情報に対しては、それが遺構のどの層位から出土したのか、遺構の層位を挟むように複数の土器が出土したのかを見極めることが重要であり、そうした情報がない報道や論稿は要注意です。(つづく)


第1753話 2018/09/19

7世紀の編年基準と方法(1)

 歴史研究において遺跡・遺物や史料の編年は不可欠の作業で、年代が不明では歴史学の対象になりにくい場合があります。わたしも九州王朝史研究において、いつも悩まされるのがその研究対象の編年の基準と編年方法についてです。そこでこの問題について、比較的研究が進んでいる7世紀について改めて論じることにしますが、一般論や抽象論ではなく、なるべく具体的事例をあげて説明します。

 最初に紹介する事例は前期難波宮です。前期難波宮の編年についてはこの10年間わたしが最も研究したテーマですから、かなり自信を持って説明できます。前期難波宮の造営年代については一元史観の古代史学界でも孝徳期か天武期かで永く論争が続いてきましたが、現在ではほとんどの考古学者が孝徳期(7世紀中頃)とすることを支持しており、事実上決着がついています。その根拠となったのが次の基準や研究結果によるものでした。私見も交えて説明します。

①宮殿に隣接した谷(ゴミ捨て場)から「戊申年」(648年)木簡が出土。
②井戸がなかった前期難波宮に水を供給したと考えられている水利施設遺構の造成時に埋められた7世紀前半から中頃に編年されている土器(須恵器坏G)が大量に出土した。
③その水利施設から出土した木樋の年輪年代測定値が634年だった。その木材には再利用の痕跡が見当たらず、伐採後それほど期間を経ずに前期難波宮の水利施設の桶に使用されたと考えられる。
④宮殿を囲んでいた塀の木柱が出土し、その最外層の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値が583年・612年であった。
⑤出土した前期難波宮の巨大な規模と様式(日本初の朝堂院)は、『日本書紀』孝徳紀の白雉三年条(652年、九州年号の白雉元年に相当)に記されている〝言葉に表すことができないような宮殿が完成した〟という記事に対応している。
⑥天武期に造営が開始され、持統天皇が694年に遷都したと『日本書紀』に記されている藤原宮の整地層から出土した主流土器は須恵器坏Bであり、前期難波宮整地層から出土した主流土器須恵器坏Gよりも1〜2様式新しいとされている。すなわち、整地層からの出土土器は天武期造営の藤原宮より前期難波宮の方が数十年古い様相を示している。
⑦瓦葺きで礎石造りの藤原宮よりも、板葺きで掘立柱造りの前期難波宮の方が古いと考えるのが、王宮の変遷として妥当である。

 以上のような多くの根拠や論理性により前期難波宮の創建は孝徳期とする通説が成立したのですが、ここでの編年決定において重要な方法が自然科学ではクロスチェックと呼ばれる方法です。すなわち、異なる実験方法・測定方法や異なる研究者が別々に行った実験結果(再現性試験)が同じ結論を示した場合、その仮説はより確かであるとする方法です。

 今回紹介した前期難波宮の編年も、それぞれ別の根拠でありながら、いずれも天武期ではなく孝徳期を是とする、あるいはより妥当とする結論を示したことが、自然科学でのクロスチェックと同じ効果を発揮したものです。

 これが例えば根拠が①の「戊申年」木簡だけですと、〝たまたま古い木簡がどこかに保管されており、何故か30〜40年後に廃棄された〟という「屁理屈」のような反論が可能です。同様に③④の木材の年代にしても〝たまたま数十年前に伐採した木材がどこかに保管されており、なぜかそれを使用した〟というような「屁理屈」も言って言えないことはないのです。しかし、上記のように多数の根拠によるクロスチェックがなされていると、それらを否定するためには〝すべてのケースにおいて、古いものがなぜか数十年後に使用された、捨てられた結果である。『日本書紀』の記事も何かの間違い〟というような根拠を示せない「屁理屈」を連発せざるを得ません。もちろん「学問の自由」ですからどのような主張・反論・「屁理屈」でもかまいませんが、そのような研究者は自然科学の世界では、研究者生命を瞬時に失うことでしょう。ことは歴史学でも同様です。(つづく)


第1713話 2018/07/24

律令と評制で全国支配が可能な王宮

 孝徳紀から出現し始める「封戸」記事などに着目された服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の研究により、わたしの認識も一歩進むことができました。律令制による中央集権的国家体制維持に不可欠な地方官僚の俸禄を「現地調達」するという「封戸」などの徴税権の中央集約という問題の重要性に気づくことができたからです。この問題も、当時の人々の認識を再認識するというフィロロギーによる研究や論証が有効です。7世紀中頃における九州王朝の評制による全国支配を可能とするために論理的に考えて何が必要であり、そのことに対応した実証的な証拠として何が存在するのかについて論じることにします。
 まず「封戸」制度に必要な公地公民制と律令制にとって不可欠な「律令」そのものについて考えてみます。近畿天皇家の最初の律令は「大宝律令」ですから、それ以前の7世紀の評制施行時の律令は九州王朝「律令」と理解せざるを得ません。
 次に律令に規定された大規模な中央官僚(服部静尚さんの試算によれば約8000人)を収容できる王宮・官衙が必要です。古田学派であれば、ここまでは反対する人はいないでしょう。
 次にその宮殿の規模はどのくらいかについて考えてみます。これにも参考とすべき「後例」があります。それは701年以降九州王朝に替わり、文字通りの「大和朝廷」として大宝律令で全国支配を行った近畿天皇家の王宮、平城宮です。あるいはその直前までの藤原宮です。これら「大和」にあった朝堂院(朝廷)様式の巨大宮殿の規模こそ、全国支配に必要な規模の「後例(8世紀)」となります。このことにも異論は出されないでしょう。
 それでは平城宮や藤原宮と同規模・同様式の7世紀中頃の宮殿・官衙遺構はあるでしょうか。日本列島内でひとつだけあります。言うまでもなく大阪市中央区法円坂から出土した前期難波宮です。規模も両宮殿に匹敵し、様式も国内初の朝堂院様式です。宮殿の南方からは条坊跡も出土していることから、それは北闕様式の「難波京」でもあります。
 その造営年代が7世紀中頃(孝徳期)であることも、整地層・水利施設出土主要土器(須恵器坏G)編年・水利施設出土木製品の年輪年代測定(634年)・出土「戊申年(648年)」木簡・出土木柱の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値(583年、612年)などを実証的根拠として、わが国のほぼ全ての考古学者・歴史学者が認めています。
 以上の出土事実・理化学的測定事実から、7世紀中頃に施行された評制により全国支配した律令制の宮殿・官衙は前期難波宮であるとの結論が導き出されます。このことをもって、近畿天皇家一元史観の論者は前期難波宮は『日本書紀』の記述通り孝徳天皇の難波長柄豊碕宮であり、全国を評制支配した宮殿である、九州王朝など無かったと主張します。
 わたしたち多元史観・九州王朝説(古田史学)の支持者であれば、評制は九州王朝が施行した制度と考えますから、そうであるならば前期難波宮は九州王朝の宮殿であると言わざるを得ません。この一点こそ、わたしが前期難波宮九州王朝副都説に至らざるを得なかった最大の理由なのです。もし九州王朝説に基づく代替案(前期難波宮以外の律令制による全国支配が可能な規模と様式を持つ7世紀中頃の宮殿官衙遺構)があるのなら出してください。わたしはその代替案の当否について真剣に検討します。学問研究とはそうした真摯な営みなのですから。


第1712話 2018/07/23

孝徳紀から出現する「封戸」記事

 先日の「古田史学の会」7月度関西例会では、竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)からの捕鳥部萬(ととりべのよろず)の墓守(塚元家・岸和田市)訪問報告の他にも、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から重要な研究発表がありました。「天武五年の封戸入れ替え」です。『日本書紀』に見える「封戸」関連記事に着目されたもので、『日本書紀』天武五年条に見える「封戸入れ替え」記事はこの時期としては不自然であり、約30年遡った孝徳期の頃の事績を天武紀に転載されたとする仮説です。
 「封戸(ふこ)」とは古代における官人や貴族への俸禄制度で、与えられた封戸からの税収(食封)が官人らへの俸禄とされます。従って、公地公民制と律令制を前提として成り立つ制度です。
 服部さんの発表の中で特に重要と感じたことは、『日本書紀』で封戸記事が現れるのが孝徳紀からという史料事実の指摘でした。孝徳期(7世紀中頃)は九州王朝(倭国)が全国に評制を施行した時期であり、そのことと『日本書紀』に封戸記事が孝徳紀から現れることは無関係ではないと考えられます。中央集権的評制により、諸国の国宰・評督の任命や派遣が九州王朝によりなされますから、それらの官人の俸禄を封戸制度という「現地調達」で賄ったことになります。このことは、それまで現地の豪族などの支配下にあった「徴税権」が公地公民制と律令の規定により、部分的とは思われますが中央政府に取りあげられることを意味し、中央政府(九州王朝)の強大な権力(軍事力)がなければ成立し得ない制度であることは論を待たないでしょう。
 前期難波宮九州王朝副都説に反対する論者に、7世紀中頃の九州王朝の勢力(評制による全国支配力)を過小に評価する意見もあるようですが、今回、服部さんが指摘された「封戸」問題を見ても、九州王朝説(古田説)に立つ限り、7世紀中頃には九州王朝の全国支配力が最盛期を迎えていたことを疑えません。そうした意味でも服部さんの九州王朝説による「封戸」研究は貴重なものと思われます。