難波朝廷(難波京)一覧

第2072話 2020/01/29

難波京朱雀大路の造営年代(7)

 今回のシリーズでは、使用尺の違いに着目して、前期難波宮造営勢力や造営工程を考察しました。この視点や方法論により、都市や宮殿の設計尺によるそれら遺構の相対編年や造営勢力の異同を推定することが可能なケースがあり、古代史研究に役立てることができそうです。
 ただし、そのためにはいくつかの条件とどのような手段で暦年とリンクさせ得るのかという課題がありますので、このことについて説明します。まず、この方法を安定して使用する際には次の条件を満たす必要があります。

①対象遺構が王朝を代表するものであること。例えば宮都や宮都防衛施設、あるいは王朝により創建された寺院などであること。これは使用尺が王朝公認の尺であることを担保するための条件です。
②使用尺の実寸を正確に導き出せるほどの精度を持った学術調査に基づいていること。かつ、必要にして十分な測定件数を有すこと。
 この点、藤原京からは造営当時のモノサシが出土しており、かつその尺(29.5cm)が出土遺構から導き出した数値(整数)に一致しているという理想的な史料状況です。

 このようにして導き出された使用尺の実寸を利用して、その遺構の相対編年が可能となるケースがあります。というのは、尺は時代や権力者の交替によって変化していることが知られており、一般的には年代を経るにつれて長くなる傾向があります。この傾向を利用して、遺構造営使用尺の差による相対編年が可能となります。このことは「洛中洛外日記」でも何度か取り上げたことがあり、七世紀の都城造営尺について次の知見を得ています。

【七〜八世紀の都城造営尺】
○前期難波宮(652年・九州年号の白雉元年) 29.2cm
○難波京条坊(七世紀中頃以降) 29.49cm
○大宰府政庁Ⅱ期(670年頃以降)、観世音寺(670年、白鳳10年) 29.6〜29.8cm
 ※政庁と観世音寺中心軸間の距離が594.74mで、これを2000尺として算出。礎石などの間隔もこの基準尺で整数が得られる。
○太宰府条坊都市(七世紀前半か) 29.9〜30.0cm
 ※条坊間隔は90mであり、整数として300尺が考えられ、1尺が29.9〜30.0cmの数値が得られている。
○藤原宮(694年) 29.5cm
 ※モノサシが出土。
○後期難波宮(726年) 29.8cm
 ※律令で制定された「小尺」(天平尺)とされる。

 各数値はその出典が異なるため、有効桁数が統一できていません。精査の上、正確な表記に改めたいと考えています。この不備を、加藤健さん(古田史学の会・会員、交野市)からのご指摘により気づきました。(つづく)


第2071話 2020/01/28

難波京朱雀大路の造営年代(6)

 前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という現象の発生理由が(B)のケース、すなわち造営に関わった勢力が異なっており、前期難波宮は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が築造し、条坊は「尺(29.49cm)」を採用する勢力が造営したのだとすれば、都市設計と造営工程の常識的な理解として次の展開が推定されます。

(1)難波京造営にあたり、最初に都市のグランドデザインとして、宮殿の位置とそれに繋がる中央道路(朱雀大路)や条坊区画が決定される。この決定は九州王朝(倭国)によりなされた。

(2)その都市設計や条坊造営は、「尺(29.49cm)」を採用する勢力が担当した。

(3)難波京条坊の設計尺(29.49cm)と藤原宮・京の設計尺(29.5cm)がほぼ同じであることから、難波京条坊と藤原宮・京の設計や造営は同一勢力によりなされたと考えられる。藤原京が近畿天皇家の都であることから、難波京条坊の設計・造営を担当したのも近畿天皇家(後の大和朝廷)などの在地勢力と考えるのが穏当である。

(4)その条坊都市設計に基づいて、条坊区画内に前期難波宮やその周辺官衙が築造された。その築造は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が担当した。この勢力とは、九州王朝が動員した「番匠」(『伊予三島縁起』に見える)のことと思われる。

 以上のような造営工程が考えられます。条坊都市の区画割りと平地の造成、谷の埋め立てなどのような膨大な労働力が必要とされる整地作業を、九州王朝が近畿天皇家を初めとする在地の豪族に命じたのではないでしょうか。その在地勢力の使用尺(29.49cm)と宮殿を築造した勢力の使用尺(29.2cm)がなぜ異なるのかという疑問は未だに解決できませんが、同一宮都の造営に二つの異なる尺が採用されたという事実は、前期難波宮九州王朝複都説であれば説明が可能です。他方、前期難波宮を近畿天皇家(孝徳であろうと天武であろうと)の王宮とする説では説明困難です。
 このように、高橋さんから教えていただいた、二つの異なる尺が前期難波宮造営期には併存していたという考古学的事実は、前期難波宮九州王朝複都説を支持する論理性を有しているのです。(つづく)


第2070話 2020/01/25

難波京朱雀大路の造営年代(5)

 前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という問題に対する高橋さんの説明により、前期難波宮造営尺と難波京条坊造営尺は前期難波宮造営時期(七世紀中頃)に併存していたことがわかり、わたしの疑問は解決されました。
 一つの宮都造営に二つの異なる「尺」が使用されているという前期難波宮・京の考古学的事実に対して、わたしは次の二つのケースを想定していました。

(A)造営時期が異なっている。前期難波宮を「尺(29.2cm)」で築造した後に「尺(29.49cm)」で条坊を区画し、条坊都市を造営した。
(B)造営に関わった勢力が異なっている。前期難波宮は「尺(29.2cm)」を採用する勢力が築造し、条坊は「尺(29.49cm)」を採用する勢力が造営した。

 高橋さんの二つの異なる尺が前期難波宮造営時期に併存していたという考古学的事実を根拠とする見解は有力です。その知見を知り、わたしが想定した二つのケースのうち、(A)が否定されたため、孝徳期に限っては(B)が妥当であることが分かったのです。このことは前期難波宮九州王朝複都説を支持する論理性を有しています。(つづく)


第2069話 2020/01/24

難波京朱雀大路の造営年代(4)

 今回の「新春古代史講演会2020」での高橋さんの講演で、わたしは大きな刺激と数々の考古学的知見を得ました。中でも、前期難波宮や難波京条坊の造営時期と発展段階について抱いていた論理上の作業仮説が考古学的発掘調査結果と整合していたことがわかり、これは大きな成果でした。しかし、わたしは更に重要な事実を高橋さんからお聞きすることができました。それは、以前から「解」が見つからずに悩んできたテーマ、すなわち前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)の不一致という難問についてです。そのことについて質疑応答のときに高橋さんにおたずねしたのです。
 高橋さんの回答は次のようなものでした。

①前期難波宮造営尺(29.2cm)と難波京条坊造営尺(29.49cm)が異なっていることを根拠に、条坊造営を天武朝のときとする意見がある。
②しかし、両尺が前期難波宮造営時期に併存していた痕跡がある。
③それは、前期難波宮と同時期の七世紀中頃に造営された西方官衙の位置が条坊造営尺(29.49cm)により区画されていたことが判明したことによる。

 このような高橋さんの説明により、わたしの疑問は氷解したのです。(つづく)


第2068話 2020/01/23

難波京朱雀大路の造営年代(3)

 「新春古代史講演会2020」での高橋さんの講演で、わたしは次の指摘に注目しました。

①前期難波宮は七世紀中頃(孝徳朝)の造営。
②難波京には条坊があり、前期難波宮と同時期に造営開始され、孝徳期から天武期にかけて徐々に南側に拡張されている。
③朱雀大路造営にあたり、谷にかかる部分の埋め立ては前期難波宮の近傍は七世紀中頃だが、南に行くに連れて八世紀やそれ以降の時期に埋め立てられている。

 高橋さんが示された難波京条坊や朱雀大路の造営時期やその発展段階の概要には説得力があり、異論はないのですが、朱雀大路のグランドデザインや造営過程については、なお解決しなければならない問題があるように感じています。というのも、朱雀大路にかかる谷の埋め立ては八世紀段階以降のものがあるとされますが、他方、遠く堺市方面まで続く「難波大道」の造営を七世紀中頃とする調査結果があることから、全ての谷の埋め立ては遅れても、朱雀大路とそれに続く「難波大道」は前期難波宮造営時には設計されていたのではないでしょうか。
 二〇一八年二月の「誰も知らなかった古代史」(正木裕さん主宰)での安村俊史さん(柏原市立歴史資料館・館長)の講演「七世紀の難波から飛鳥への道」で、前期難波宮の朱雀門から真っ直ぐに南へ走る「難波大道」を七世紀中頃の造営とする次のような考古学的根拠の解説を聞きました。
 通説では「難波大道」の造営時期は『日本書紀』推古二一年(六一三)条の「難波より京に至る大道を置く」を根拠に七世紀初頭とされているようですが、安村さんの説明によれば、二〇〇七年度の大和川・今池遺跡の発掘調査により、難波大道の下層遺構および路面盛土から七世紀中頃の土器(飛鳥Ⅱ期)が出土したことにより、設置年代は七世紀中頃、もしくはそれ以降で七世紀初頭には遡らないことが判明したとのことです。史料的には、前期難波宮創建の翌年に相当する『日本書紀』孝徳紀白雉四年(六五三年、九州年号の白雉二年)条の「處處の大道を修治る」に対応しているとされました。
 この「難波大道」遺構(堺市・松原市)は幅十七mで、はるか北方の前期難波宮朱雀門(大阪市中央区)の南北中軸の延長線とは三mしかずれておらず、当時の測量技術精度の高さがわかります。
 この「難波大道」の造営時期と高橋さんの指摘がどのように整合するのかが課題のように思われるのです。(つづく)


第2067話 2020/01/22

難波京朱雀大路の造営年代(2)

 高橋さんの〝前期難波宮を造営し、その地を宮都とするのだから、宮都にふさわしい条坊都市が当初から存在したと考えるのが当たり前〟という論理性に基づく指摘が正しいことを証明するかのように、近年、上町台地から次々と条坊の痕跡が出土しました。たとえば次の遺構です。

1.天王寺区小宮町出土の橋遺構(『葦火』一四七号)
2.中央区上汐一丁目出土の道路側溝跡(『葦火』一六六号)
3.天王寺区大道二丁目出土の道路側溝跡(『葦火』一六八号)

 以上の三件は、いずれも難波宮や地図などから推定された難波京復元条坊ラインに対応した位置からの出土で、これらの発見により難波京に条坊が存在したと考えられるに至っています。とりわけ、2.の中央区上汐出土の遺構は上下二層の溝からなるもので、下層の溝は前期難波宮造営の頃のものとされており、七世紀中頃の前期難波宮の造営に伴って、条坊の造営も開始されたことがうかがえます。
 これらの出土事実に基づく論理の到着点について、『古田史学会報』123号(2014年8月)の「条坊都市『難波京』の論理」において、わたしは次のように説明しました。

 【以下、転載】
 それでも難波京には条坊はなかったとする論者は、次のような批判を避けられないでしょう。古田先生の文章表現をお借りして記してみます。 
 第一に、天王寺区小宮町出土の橋遺構が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第二に、中央区上汐一丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 第三に、天王寺区大道二丁目出土の道路側溝が復元条坊ラインと一致しているのは、偶然の一致にすぎず、とする。
 このように、三種類の「偶然の一致」が偶然重なったにすぎぬ、として、両者の必然的関連を「回避」しようとする。これが、「難波京には条坊はなかった」と称する人々の、必ず落ちいらねばならぬ、「偶然性の落とし穴」なのです。
 しかし、自説の立脚点を「三種類の偶然の一致」におかねばならぬ、としたら、それがなぜ、「学問的」だったり、「客観的」だったり、論証の「厳密性」を保持することができるのでしょうか。わたしには、それを決して肯定することができません。
 【転載おわり】(つづく)


第2066話 2020/01/21

難波京朱雀大路の造営年代(1)

 1月19日に開催された「新春古代史講演会2020」(古田史学の会・共催)では、高橋 工さん(一般財団法人大阪市文化財協会調査課長)と正木 裕さん(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)による講演がなされました。テーマは次のとおりで、いずれも最新の研究テーマを含み、新年を飾るにふさわしい優れたものでした。

○「難波宮・難波京の最新発掘成果」高橋 工さん
○「令和改元と万葉歌に隠された歴史」正木 裕さん

 中でも高橋さんの難波京条坊と朱雀大路の発掘調査による最新の報告は新知見と示唆に富んだもので、とても勉強になりました。特に難波京の条坊の有無についての論争にふれられ、〝前期難波宮を造営し、その地を宮都とするのだから、宮都にふさわしい条坊都市が当初から存在したと考えるのが当たり前〟という指摘は素晴らしく論理的です。考古学者からこれほどロジカルな発言を聞くのは初めてのことで、わたしは深く感動しました。
 というのも、わたしも前期難波宮九州王朝複都説に至る前から同様の考えを持っていたからです。そのことを『古田史学会報』123号(2014年8月)の拙論「条坊都市『難波京』の論理」において、次のように記したことがあります。

 【以下、転載】
 わたしは前期難波宮九州王朝副都説を提唱する前から、前期難波宮には条坊が伴っていたと考えていました。それは次のような論理性からでした。

1.七世紀初頭(九州年号の倭京元年、六一八年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在し、「条坊制」という王都にふさわしい都市形態の存在が倭国(九州王朝)内では知られていたことを疑えない。各地の豪族が首都である条坊都市太宰府を知らなかったとは考えにくいし、少なくとも伝聞情報としては入手していたと思われる。
2.従って七世紀中頃、難波に前期難波宮を造営した権力者も当然のこととして、太宰府や条坊制のことは知っていた。
3.上町台地法円坂に列島内最大規模で初めての左右対称の見事な朝堂院様式(十四朝堂)の前期難波宮を造営した権力者が、宮殿の外部の都市計画(道路の位置や方向など)に無関心であったとは考えられない。
4,以上の論理的帰結として、前期難波宮には太宰府と同様に条坊が存在したと考えるのが、もっとも穏当な理解である。

 以上の理解は、その後の前期難波宮九州王朝副都説の発見により、一層の論理的必然性をわたしの中で高めたのですが、その当時は難波に条坊があったとする確実な考古学的発見はなされていませんでした。ところが、近年、立て続けに条坊の痕跡が発見され、わたしの論理的帰結(論証)が考古学的事実(実証)に一致するという局面を迎えることができたのです。この経験からも、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉を実感することができたのでした。
 【転載おわり】(つづく)


第2051話 2019/12/07

新春古代史講演会2020(1月19日)のご案内

 他団体との共催事業として「古田史学の会」では、来年1月19日(日)に恒例の「新春古代史講演会2020」を開催します。今回は大阪市文化財協会の考古学者で難波宮を発掘調査されてきた高橋工先生をお招きし、難波宮(京)発掘調査の状況などについて講演していただきます。「古田史学の会」からは、正木裕事務局長(大阪府立大学講師)に新年号「令和」と九州王朝との関係について講演していただきます。
 講師の高橋工先生の最近の主なお仕事は次の通りです。
○難波宮跡の発掘調査
 『難波宮址の研究』第15(前期難波宮東方官衙と後期難波宮「東南新宮」候補地の提唱)
 『難波宮址の研究』第20(前期難波宮造営と土地整備)
○難波宮関係著書
 「前期・後期難波宮跡の発掘成果」:『難波宮と都城制』中尾芳治・栄原永遠男編 吉川弘文館刊(2014年7月)

 講演会後は希望者による講師を囲んでの懇親会も開催します。多くの皆様のご参加をお願いいたします。

〔新春古代史講演会2020〕
【日時】1月19日(日) 開場13:00 開会13:30〜17:00
【会場】アネックスパル法円坂 3階2号室
(旧大阪市教育会館)℡06-6943-5021
*JR大阪環状線及び大阪メトロ森ノ宮駅、西に徒歩10分(中央線谷町4丁目から東に10分)難波宮跡の東隣り。

【演題・講師】
○「難波宮・難波京の最新発掘成果」 13時30分〜15時
 高橋 工氏(一般財団法人大阪市文化財協会調査課長)
○「令和改元と万葉歌に隠された歴史」 15時10分〜16時40分
 正木 裕氏(大阪府立大学講師、古田史学の会・事務局長)
【参加費】1,000円 定員70名(事前予約不要)
【懇親会】当日、会場で受け付けます。(参加費は別途)
【共催団体】和泉史談会、古代大和史研究会、市民古代史の会・京都、誰も知らなかった古代史の会、古田史学の会、ほか


第2031話 2019/11/01

難波京朱雀大路から大型建物と石組溝が出土

 前期難波宮九州王朝複都説に反対する論者からは、七世紀中頃の難波宮の存在を否定したり、上町台地上の日本列島内最大級の遺構(古墳時代〜前期難波宮時代)を矮小化する見解が未だに見られるのですが、そうした見解に対して考古学的出土事実は〝ノー〟を示し続けています。その新たな発見が『葦火』195号(2019年10月、大阪市文化財協会編集)に掲載されましたので紹介します。
 『葦火』195号で「難波京朱雀大路跡で古代の大型建物と石組み遺構を発見」という記事が発表されました。今回の出土地点は前期難波宮朱雀門(南門)から南へ約800mのところ(天王寺区城南寺町)で、豊臣秀吉が城下町として整備した古い寺町が残っているため、これまであまり発掘調査が進んでいない地域です。そこから、掘立柱建物1棟と南北方向の石組み溝が発見されました。建物の全体の規模は不明ですが、柱の規模から一般の建物としては大型のものとされています。
 石組みは、建物の西側を通る朱雀大路の(幅32.7m)よりも東側にあるため、朱雀大路の側溝ではなく、建物敷地内の溝と思われます。石組み溝内や柱抜き取り穴から七世紀中〜後葉の時期の須恵器や土師器、遺物が出土しており、溝と建物は前期難波宮の時期のものと考えられます。石組に使用された石材は前期難波宮の北西官衙の水利施設の暗渠に使用されたものと共通する、六甲や播磨地域を含む山陽帯の花崗岩が用いられていました。
 更にもう一つ大きな発見がありました。同遺構の前期難波宮造営時期かそれ以前に遡る可能性のある層位から、「奉」と推定される文字が刻まれた「陶硯」が出土したのです。土器に記された「奉」の文字としては、日本では最も古い事例になりそうとのことです。新羅でも陶器に「奉」の文字を刻む例があることから、新羅から伝わった祭祀文物とみる説もあるそうです。そして、次のように指摘されています。

 「硯の出土は、文書を扱う人が周辺で活動していたことを物語ります。今回見つかった建物が建てられる以前に、周辺に重要な施設があった可能性も想定する必要がありそうです。」(大庭重信・協会学芸員)

 わたしが前期難波宮九州王朝複都説を発表して以来、この十年間も前期難波宮や難波京が国内最大規模の王都・王宮であることを支持する出土が続いています。この考古学的事実を九州王朝説ではどのように説明できるのかという考究を続けた末の結論が、前期難波宮九州王朝複都説であることを是非ご理解いただきたいと願っています。


第2030話 2019/11/01

首里城焼亡を悼む

 沖縄県の象徴的建造物であり文化遺産の首里城が火災により失われたことをニュースで知りました。沖縄県民や首里城を愛しておられる皆様のお嘆きはいかばかりか。心より同情申し上げます。

 今回の首里城焼亡の様子をテレビで見ていて、巨大木造建築物に一旦火がつくと、その火の手の速さが想像以上であったことに驚きを禁じ得ませんでした。
 古代史研究においても『日本書紀』に記された著名な火災記事として、法隆寺(天智九年・670年)と難波宮(天武紀朱鳥元年・686年)の焼亡があります。特に難波宮(前期難波宮)は瓦葺きではないことから、外部の火災であってもその火の粉により類焼しやすいことと思われますし、上町台地上という立地条件により、消火のための「水利施設」が十分にあったとも考えられません。従って、その延焼速度は今回の首里城よりも速かったのではないでしょうか。
 『日本書紀』天武紀朱鳥元年正月条には難波宮焼亡が次のように記されています。

 「乙卯(十六日)の酉のとき(午後六時頃・日没時)に、難波の大蔵省失火して、宮室悉(ことごと)く焚(や)けぬ。或いは曰く、阿斗連薬が家の失火、引(ほびこ)りて宮室に及べりという。唯(ただ)し兵庫職のみは焚けず。」

 この記事によれば、大蔵省か阿斗連薬の家で発生した火災により、宮殿が全焼したことになります。しかも「酉のとき」日没の時間帯ですから、瀬戸内海方面に沈む夕日に照らされる中、当時、日本列島内最大規模の難波宮(前期難波宮)が紅蓮の炎の中に焼亡する様子を、難波の都人たちは為す術もなく眺めていたことでしょう。
 現代も古代も、このような火災は痛ましいものです。難波宮跡からはこの火災により焼けた焼土層が検出されており、それにより整地層上に重層的に建設された前期難波宮と後期難波宮の遺構を区別することが可能な場所もあります。あるいは、瓦葺きだった後期難波宮の遺構層位からはその瓦が出土しますから、このことによっても前期難波宮と後期難波宮の遺構の区別が可能です。
 また、前期難波宮焼土層からは白い漆喰も多数出土しており、前期難波宮の主要施設は漆喰で加工されていたと推定されています。しかし、その漆喰も火災を止めることはできませんでした。
 白い漆喰により表面が加工されていた前期難波宮は、恐らく現在の改修後の姫路城のように白い宮殿だったのではないでしょうか。その完成間近の前期難波宮で白雉改元の儀式が執り行われています(九州年号「白雉元年」652年。『日本書紀』には二年ずらされて650年を「白雉元年」とし、その二月に大々的な白雉改元儀式記事が挿入されています。拙稿「白雉改元の史料批判」をご参照下さい。『「九州年号」の研究』に再録)。
 姫路城が「白鷺城」の異名を持つように、前期難波宮も「白雉宮」と呼ばれていたのではないかと、わたしは想像しています。「白雉元年(652)」九月に完成したという、九州年号の「白雉」と白い漆喰の出土しか、今のところ根拠がない作業仮説ですが、いかがでしょうか。


第2002話 2019/09/28

九州王朝(倭国)の「都督」と「評督」(6)

 九州王朝(倭国)の「都督」を論じる際、必ず触れなければならない出色の論文があります。山田春廣さん(古田史学の会・会員、鴨川市)の「『東山道十五國』の比定 ー西村論文『五畿七道の謎』の例証ー」(『発見された倭京 ー太宰府都城と官道ー』古田史学の会編・明石書店、2018年)です。
 この山田論文はそれまで不明とされてきた『日本書紀』景行五五年条に見える、「彦狭嶋王を以て東山道十五國の都督に拝す。」の「東山道十五國」が九州王朝の都太宰府を起点とした国数であるという、目の覚めるような論証に成功されました。その上で、この「東山道十五國の都督」任命記事について、「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代において、信頼する有力な者を『東山道の周辺諸国』を監察する『都督』(軍を自由に動かすことができる官職)に任命した」と解されました。この指摘は九州王朝の全国支配体制を考察する上で、貴重な仮説と思われます。
 山田論文にある「倭王が『天子』となり、『朝庭』を開いた時代」こそ、日本列島初の朝堂院様式の宮殿(朝庭)を持つ前期難波宮創建(652年、九州年号の白雉元年)の頃に対応するものと思われます。すなわち、7世紀中頃の評制施行時期に「東山道十五國都督」が任命されたのではないでしょうか。この点、もう少し丁寧に論じます。それは次のようです。

①山田論文によれば、景行紀の「東山道十五國」という表記は太宰府を起点とした国数であることから、それは九州王朝系史料に基づいている。
②そうであれば、彦狭嶋王を「東山道十五國の都督」に任じたのも九州王朝と考えざるを得ない。
③従って、「都督」という官職名も九州王朝系史料に基づいたことになる。
④中国南朝の冊封を受けていた時代は、九州王朝の倭王自身が「都督」であるから、その倭王が部下を「都督」に任じたということは、中国南朝の冊封から外れた6世紀以降の記事と見なさざるを得ない。
⑤『二中歴』「都督歴」によれば最初の「都督」に蘇我臣日向が任じられた年を「孝徳天皇大化五年(649)」としていることから、彦狭嶋王の「東山道十五國の都督」任命もこの頃以降となる。

 およそ、このような論理構造(論証)によれば、景行紀の「都督任命」記事は、本来は7世紀中頃のこととすべきではないでしょうか。この理解が正しければ、おそらく「都督」に任命されたのは「筑紫都督」(蘇我臣日向)・「東山道都督」(彦狭嶋王)だけではなく、他の「東海道都督」や「北陸道都督」らも同時期に任命されたのではないかと想像されます。しかしながら、彦狭嶋王の年代はもっと古いとする研究(藤井政昭「関東の日本武命」、『倭国古伝』古田史学の会編・明石書店、2019年)もあり、この点、引き続き検討が必要です。(つづく)


第1998話 2019/09/23

大和「飛鳥」と筑紫「飛鳥」の検証(10)

 飛鳥(飛鳥池遺跡・石神遺跡等)からの出土木簡に「大学官」「勢岐官」「道官」「舎人官」「陶官」とあることから、そのような職掌が飛鳥浄御原宮にあったことは明らかですが、通説のように「浄御原令」に基づく行政が近畿天皇家で行われていたとするには、その「官」はいわゆる上級官省(大蔵省・中務省・民部省・宮内省・刑部省・兵部省・治部省などに相当する官省)とはいえず、その下部官庁ばかりです。もちろん、たまたま「下部官庁」木簡だけが遺存し出土した可能性も否定できませんが、それにしても不自然な出土状況とわたしは感じていました。たとえば藤原宮や平城宮からは上級官省を記した木簡も出土しているからです。

 前期難波宮で評制による全国統治を行っていた九州王朝の官僚群の多くが飛鳥宮や藤原宮(京)へ順次転居し、新王朝の国家官僚として働いたのではないかとわたしは推定しています。従って、藤原宮(京)が完成するまでは、前期難波宮か近江大津宮にそれら上級官省が残っていたと思われます。例えば『日本書紀』に見える次の記事などはその痕跡ではないでしょうか。

○「丁巳(二十四日)に、近江宮に災(ひつ)けり。大蔵省の第三倉より出でたり。」天智十年(671)十一月条
○「乙卯の酉の時に、難波の大蔵省に失火して、宮室悉く焚(や)けぬ。或は曰く『阿斗連薬が家の失火、引(ほびこり)て宮室に及べり』といふ。唯し兵庫職のみは焚(や)けず。」朱鳥元年(686)正月条

 この「大蔵省」が7世紀当時の名称なのか、『日本書紀』編纂時の名称なのかという問題はありますが、「大蔵省」に相当する官庁が近江宮や難波宮にあったとする史料根拠と思われます。7世紀末頃の九州王朝から大和朝廷への王朝交替の経緯を考察する上で、こうした推測は重要な視点と思われます。考古学的にも、孝徳天皇没後も白村江戦の頃までは、飛鳥よりも難波の方が出土土器の量は多く、遺構の拡張なども活発であることが明らかにされており、わたしの推測と整合しているのです。
大阪歴博の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(大阪歴博『研究紀要』15号、2017年3月)に次の指摘があり、注目しています。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)