地名一覧

第475話 2012/09/30

合田洋一著『地名が解き明かす古代日本』

 古田学派よりまた好著が出されました。合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、同四国の会事務局長)の『地名が解き明かす古代日本』(ミネルヴァ書房)です。
 同書では『日本書紀』などに見える「渡嶋」を通説の北海道ではなく、青森県下北半島・糠部地方とする新説が掲げられています。しかし、わたしが注目したのはその結論だけではなく、そこに至った方法です。
 合田さんは文献読解から、「渡嶋」が北海道では不自然であり、下北半島・糠部地方であることを明らかにされ、更に地名辞典から全国の「わたり」地名を調 べあげ、それが糠部地方に最も集中していることをことを発見されたのです。この「全数調査」という学問の方法は、古田先生が行われた三国志から全ての 「壹」と「臺」の字を抜き出して、両者が間違って混用されている例がないことを調べあげるという、古田学派にとって象徴的な方法を踏襲されたものです(倭 人伝の邪馬壹国は邪馬臺国の誤りとする従来説への反証としての全数調査です)。また、文献解釈と現存地名分布の一致という検証の仕方も、古田学派では重視 尊重されている学問の方法です。
 その他にも、筑前・筑後などの「前」と「後」地名や、「上」「下」地名の命名を九州王朝説に基づいて再検証するという、多元史観ならではの研究成果が収録されています。結論ではなく学問の方法を最も重視する古田学派への推奨の一冊です。


第462話 2012/09/03

通古賀の王城神社

 九州歴史資料館を見学した後、太宰府市に戻って、通古賀(とおのこが)の王城神社・清明井・観世音寺・榎寺・大野城百間石垣・国分寺跡・大字大裏・水城跡などを見学しました。弟の直樹はこのあたりの地理にやたら詳しく、おかげで短時間のうちに要領よく廻れました。
 大野城にも初めて登ったのですが、その土塁や石垣の規模は想像以上でしたし、水源の豊富さにも目を見張りました。これならば多くの人々が長期間籠城できると思いました。さすがは九州王朝の都を守る日本列島屈指の山城と言えます。
 通古賀の王城神社でも貴重な「発見」がありました。同地区は筑前国府の有力候補地であり、「古賀」地名も「国衙(こくが)」に由来すると見られていま す。そして、神社の説明が書かれた看板には、この神社の始まりを天智4年(665)に都府楼が造営された時とあったことに驚きました。大宰府政の造営年代 を665年のことと伝承されているのです。
 この天智4年(665)の都府楼造営説は船賀法印(江戸時代の僧侶らしい)による「王城神社縁起」からの引用とのことで、同縁起を何としても見てみたい ものです。都府楼を「天智天皇による造営」とする現地伝承はいくつかの古文献に見えるのですが、天智4年のことと具体的年次が記されたものは初めて見まし た。
 わたしは九州王朝の宮殿である大宰府政庁2期遺構(創建瓦は主に老司2式)の造営を、観世音寺創建時期(白鳳10年、670年。創建瓦は老司1式)との関連から、同時期か少し遅れる時期と考えていましたが、王城神社の伝承では、逆に観世音寺よりも少し早い時期ということになります。いずれにしても、白鳳年間創建という大枠は揺るぎませんが、両者の前後関係は引き続き検討しなければならないなと感じています。


第449話 2012/08/03

地名接尾語「な」

昨晩は金沢市で宿泊しました。金沢へは年に何度か来るのですが、宿泊したのは30年ぶりです。気のせいか、金沢や石川県は美男美女が多いようです。何か歴史的背景があるのか、地域的特性なのか、ただ単にわたしの好みの問題だけなのかもしれませんが。
今回も例によって、「金沢」の語源について考えてみました。「沢」は文字通り「沢」のことで、純粋な地名部分は「かな」でしょう。さらに、「な」は日本 各地にある地名接尾語の「な」ではないでしょうか。従って、「金沢」の地名語幹は「か」となります。
地名接尾語「な」が付くものとしては、伊奈・塩名・榛名・津名・宇品・二名・玉名・桑名・嘉手納などがあり、もしかすると、山科・更級の「な」も同類と思われます。古代朝鮮の任那(みまな)もそうかもしれません。
この「~な」地名に「沢」が付くと、金沢・稲沢・砂沢などとなり、「川」が付くと、神奈川・品川・稲川・女川・砂川などとなります。
記紀神話に登場する神様(人間)「てなづち」「あしなづち」も分解すると、「津」の「ち」(神様)、すなわち「津ち」とは「港の神様」のことで、「て な」「あしな」は地名と思われます。さらに、地名接尾語「な」を取ると、純粋な地名語幹「て」「あし」となるのです。
以上のようなことを考えながら金沢駅を後にしました。地名の研究を始めると、癖になりそうです。古田先生も、「乞食と地名研究は三日やったらやめられない」と言われていたことを思い出しました。
なお、地名接尾語「な」の意味については、今のわたしにはさっぱりわかりませんし、アイデア(思いつき)も出ません。


第437話 2012/07/08

西条市の「紫宸殿」「天皇」地名

前夜の雷雨とは一転して、今日は晴れました。瀬戸大橋を渡る車窓から見える瀬戸内海の景色は別格です。
昨日は「古田史学の会・四国」の総会で講演しました。講演会後の懇親会で、当地の会員の方から教えていただいたのですが、西条市(旧・東予市)に現存する字地名「紫宸殿」の南側を流れる新川(明理川)の対岸に、字地名「天皇」があるとのことです。
「紫宸殿」や「天皇」というただならぬ地名が近接して存在するのですから、これは大変なことになりそうです。これらは誰かが好き勝手につけられる地名で はありませんし、それを周囲が認めるものでもないでしょう。したがって、ある時代に「紫宸殿」が存在し、「天皇」が住んでいたので、それらが地名として遺 存したと考えざるを得ないのです。
この「紫宸殿」からは土器が二片出土していたことがわかっていますが、現在では行方不明になっているらしく、年代判定の貴重な史料だけに惜しまれます。しかし、字地名「紫宸殿」は現存していますから、今後の発掘調査が期待されます。
この地方を古代「越智国」とする説を合田洋一さんは発表されており、越智国に存在した「紫宸殿」「天皇」としての位置づけによる研究が進むものと期待し ています。そうした意味からも多元史観で古代史研究を進める「古田史学の会・四国」の使命は重要です。わたしも応援していきたいと思っています。


第436話 2012/07/07

地名接尾語「が」

今日は松山に向かう特急しおかぜ3号に乗っています。午後から「古田史学の会・四国」主催の講演会で講演します。テーマは太宰府市出土「戸籍」木簡を中心とする九州王朝の文字史料の説明です。年に一度、四国の会員の皆様にお会いできるのを楽しみにしています。
また、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)の「越智国論」や、今井久さん(会員・西条市)が発見された「紫宸殿」地名、万葉歌のニギタツ比定地な ど、当地は古代史研究のホットスポットでもあり、古田学派や「古田史学の会」が重視している地域なのです。観光や研究旅行地としてもおすすめです。
さて、前話で地名接尾語「ま」について述べましたが、この古語の「ま」の意味はおそらく、「一定の領域・距離・時間」のことと考えられますが、同じ地名接尾語でもその意味がどうしてもよくわからないものに、「が」があります。
私の姓の古賀もその一例で、古賀家は元々は星野姓を名乗っていましたが、豊臣秀吉の九州征伐(侵略)に敗れて、本家は討ち死にし、生き残った一族は散り 散りバラバラとなり、わたしのご先祖は浮羽郡の古賀集落に土着したことにより、古賀姓を名乗ったとされています。すなわち地名の古賀に由来した姓なので す。ちなみに新潟県小千谷市まで逃げた一族もいます(小千谷市に星野姓が多いのはこのためです)。
古賀のように、末尾に「が」がつく地名はたくさんあります。たとえば、佐賀・嵯峨・滋賀・伊賀・甲賀・加賀・多賀・山鹿・羽賀・敦賀・古河・足利・男鹿・蘇我・春日などです。このように多くの地名に接尾語「が」が見られるのですが、その意味がよくわからないのです。
役所のことを「官が」ともいいますから、何か関係があるのかもしれませんが、そう言い切れる自信はありません。これからも悩み続けようと思っています。


第435話 2012/07/06

地名接尾語「ま」

第434話で地名接尾語の「ま」についてふれましたが、昨日、富山県魚津市や富山市を訪れて、富山(とやま)の「ま」も同じく地名接尾語の「ま」ではないかと気づきました。
というのも、富山市付近には「と」山と呼ばれるような著名な山もないようですし、地名語源についても納得できるような説もみあたりません。したがって、「とや」が地名の語幹で、それに地名接尾語「ま」が付いたのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
ちなみに、地名接尾語「ま」がついたと思われる地名として、前回紹介したもの以外にも次のようなものがあります。筑摩・練馬・鹿島・吾妻・三潴・但馬・ 大間・入間・宇摩・球磨・鞍馬・浅間・志摩・中間・群馬などです(個別の検証はおこなっていません。試例としてご理解下さい。)。
これら地名接尾語「ま」の応用地名として「まつ」があります。すなわち「ま」津で、港がある地名のケースです。この場合、「まつ」の当て字として「松」 が多用されています。たとえば、高松・浜松・小松・若松・下松・黒松などですが、今津というような、「松」の字を使わない例もあります。
したがって高松の場合、「たか」+「ま」+「津」で、地名語幹は「たか」です。同様に浜松の地名語幹は「はま」となります。今まで何となく浜辺に松林が あるから「浜松」と思っていましたが、地名接尾語「ま」と港を意味する「津」との合成語地名であることに気づいたのです。こうした視点から、日本各地の地 名を見直すと、歴史的にもおもしろいことが見えてきそうです。
なお付言しますと、「山(やま)」「浜(はま)」「島(しま)」などの基本的地形名詞の「ま」も、地名接尾語「ま」と同類と推測しています。日本語成立の過程を考えるうえでヒントになるのではないでしょうか。


第425話 2012/06/12

「天草」の語源

第422話で紹介しましたように、先週、出張で天草に行ったとき、ふと考えたのが「天草」の意味でした。もちろん漢字は当て字で、「天にはえている植物」の意味ではないと思います。
この疑問はわりと簡単に「解決」しました。「天(あま)」は「海」のことで、「草(くさ)」は太陽のことです。すなわち「あまくさ」とは「海の太陽」のことではないでしょうか。天草島の地理関係から考えると、「海に沈む夕日」が適切かもしれません。
ちなみに、現在では上天草島や下天草島など全体を「天草」と称していますが、もともとは下天草島の西海岸側の一部の地名だったようです。ですから、そこ は海に沈む夕日がきれいな絶景の観光スポットだと思いますし、「あまくさ」=「海の太陽」(が美しく見える地)という地名にぴったりです。ホテルでもらっ た観光案内パンフレットにも天草の紹介文として「東シナ海に沈む夕日が日本一きれいなところ」とありました。偶然とは思えない表現の一致です。
「あま」が「海」というのはよく知られていますし、今も「海」を「あま」と読む地名は少なくありません。しかし、「くさ」が何故「太陽」なのか疑問に思われる方もおられると思います。
実は昔、古田先生から教えていただいたことなのですが、「日下」を「くさか」、「日下部」を「くさかべ」と訓むように、「日」のことを古代日本では「くさ」と訓んでいたのです。すなわち、太陽のことを「くさ」」と訓んだ時代や人々が日本列島にあったのです。
「あまくさ」の語源に対応した正確な漢字を当てるとすれば、「海日」ではないでしょうか。「海に沈む夕日が美しい島」、天草は古代史研究(装飾壁画古墳)でも重要な島なのですが、そのことは別の機会にふれたいと思います。


第313話 2011/04/17

雪より白き神の山

先日、仕事で石川県小松市を初めて訪れました。小松市と言えば、恥ずかしながら航空自衛隊の小松基地ぐらいしか知らなかったのですが、今回訪れて、当地が旧所名跡に溢れた歴史的にも由緒深い地であることを知ることができました。
たとえば、弁慶・義経主従が通った「勧進帳」で有名な安宅の関や、芭蕉も訪れて句を詠んだ多太神社などがあります。多太神社には斉藤実盛の兜が奉納され て いますが、実盛は高齢であることを敵にさとられないよう、白髪を墨で染めて戦陣に散った平家の武者です。この故事はわが国初の白髪染めとしても著名で、ヘ アカラーの研究者から講演などでよく紹介されます。芭蕉も多太神社の兜を拝観して、「むざんやな 兜の下の きりぎりす」という句を残しています。
古代史的に見れば、多太神社の創建年が武烈5年(503)とされていることが注目されます。継体天皇(即位以前)による創建と伝えられており、北陸地方における継体の影響力を考える上でも貴重な伝承と思われます。
小松市でわたしが最も感動したのは、純白の雪を冠していた白山の優美な姿でした。手前の山々が雪解けにより山肌が露出していたのに比べ、白山はその名の 通り真っ白だったのです。青空に映えたその美しさが今も忘れられません。麓の白山比?神社には姫神が祀られていると聞いていますが、御祭神の調査研究のた めにもいつか訪れてみたい神社の一つです。
そこで、わたしも芭蕉に倣って一句詠みました。「姫神は 雪より白き 神の山」。北陸地方は古代史上 の重要さに比べれば、古田史学・多元史観による研究が充分に進んでいるとは言えないようです。是非、現地の研究者が多元史観による古代の真実の解明に取り 組んでいただければ幸いです。

 


第284話 2010/10/02

久留米地名研究会 済み

 来る10月9日(土)に久留米地名研究会で講演をします。会場は「えーるピア久留米(久留米生涯学習センター)」(西鉄久留米駅から南徒歩10分)で午後1時半からです。演題は「筑後 地方の九州年号−九州王朝の地名研究とその方法−」で、九州年号を切り口にして九州王朝の実在を論じ、「九州」という地名が持つ論理性について触れます。 後半は具体的な地名研究の歴史学への応用として、『古事記』神武記の史料批判と北部九州の地名との関連を紹介する予定です。
 他方、筑後地方の九州年号や地名・神名調査の協力についてもお願いしたいと考えています。地名研究が歴史研究にどのように貢献できるかを参加者の皆さんと一緒に考える機会になればと楽しみにしています。
 下記に講演レジュメの一部を紹介します。ふるってご参加下さい。

1.九州年号の論理
1) 鶴峯戊申『襲国偽潜考』で古写本「九州年号」より九州年号を紹介。
2) 明治25年『日本史学新説』広池千九郎著 で古写本「九州年号」より九州年号を紹介。
3) 宇佐八幡宮文書『八幡宇佐宮繋三』元和三年(1617)五月、神祇卜部兼従編纂  「文武天皇元年壬辰大菩薩震旦より帰り、宇佐の地主北辰と彦山権現、當時〔筑紫の教到四年にして第廿八代安閑天皇元年なり、〕天竺摩訶陀國より、持来り 給ふ如意珠を乞ひ、衆生を済度せんと計り給ふ、」 ※〔 〕内は細注。
参考
九州年号・九州王朝説 ーー明治二五年 冨川ケイ子(会報68号)
「宇佐八幡宮文書」の九州年号古賀達也(会報五九号)

2.「九州」の論理
古田武彦氏との共著『九州王朝の論理』所収「九州」史料一覧参照

3.筑後地方の九州年号
『耳納』掲載「筑後地方の九州年号」参照

4.『古事記』神武記の地名と神名
○『古事記』「熊野村」「吉野河の河尻」「宇陀」「訶夫羅前」「井氷鹿(井光)」
○『筑後志』三瀦郡  「威光理明神社 同郡六丁原村にあり。」 「威光理明神社 同郡高津村にあり。」
参考
盗まれた降臨神話 『古事記』神武東征説話の新史料批判 古賀達也(会報48号)

5.「元壬子年」木簡の論理と衝撃
芦屋市三条九ノ坪遺跡出土(1996年)『市民タイムズ』(長野県松本市)2006/08/20 参照


第190話 2008/09/28

「古賀」と「古閑」

 9月の関西例会では正木さんより熟田津が愛媛県西条市にあったという説が、史料根拠を提示して発表されました。かなり説得力のある説で、論文発表が待たれます。もしこの説が正しかったら、行方不明となっている伊予の温湯碑は西条市のどこかにあることになり、今後の展開も楽しみです。
 わたしは、8月に永井さんが紹介された「こが」地名のうち、「古賀」が福岡県・佐賀県に濃密分布し、「古閑」は菊池川流域を中心として熊本県に分布しているというデータにヒントを得て、賀と閑がいずれも万葉仮名「か」に使用されていることから、九州王朝内部でも万葉仮名は多元的に成立していたのではないかとする作業仮説を報告しました。こちらも今後の研究の深化が求められています。
〔古田史学の会・9月度関西例会の内容〕
○研究発表
1). プラトンの弁明・西村命題の向こう側(豊中市・木村賢司)
2). 熟田津論点整理(川西市・正木裕)
3). 「上宮聖徳法王帝説」再考(岐阜市・竹内強)
4). 万葉仮名成立の論理(京都市・古賀達也)
5). 九州王朝の近江遷都はあったか2(木津川市・竹村順弘)
○水野代表報告
古田氏近況・会務報告・西行法師の伊勢参宮の歌・他(奈良市・水野孝夫)


第117話 2007/01/27

「原(ばる)」地名
 タレントのそのまんま東さんが宮崎県知事に当選されましたが、その報道によりご本名が東国原(ひがしこくばる)という大変珍しい名前であることを知りました。特に「原」を「ばる」や「はる」と読むのは九州の地名などに多く見られますから、由緒の深い苗字と思われます。
  ちなみに、福岡県には原田(はるだ)、佐賀県には中原(なかばる)・目達原(めたばる)という地名があります。私の故郷の久留米市にも太郎原と書いてダイロウバルという字地名があります。現地の正確な発音としては「デーロバル」だったような記憶があります。
  この「はる」地名ですが、海外にもあります。アフガニスタンのカンダハルやインドのタージマハル(宮殿名)などです。語源的に共通しているのでしょうか。更にはクアラルンプールのプールや、ハンブルグ・ルクセンブルグのブルグも「はる」地名と語源的な関係を推察させますが、いかがでしょうか。
  ところで、日本国内で「原」をはる・ばると読む地名の北限はどこでしょうか。どなたか、教えていただけないでしょうか。


第11話 2005/07/11

信州のお祭り・お船

 松本市での講演会の前日、同市の中央図書館に行き、以前から気になっていた諏訪大社の御柱祭について調査しました。同祭の写真集などを見ていると、御柱を出迎える「お船」が道路上を曳かれている光景がありました。こんなところにも「お船」が登場するのかとちょっと驚きました。
 信州のお祭で有名なものに、穂高神社(南安曇郡穂高町)のお船祭がありますが、安曇という地名からも想像できるように、海人(あま)族のお祭ですからお船と呼ばれる山車が登場するは、よく理解できるのです。しかし、諏訪大社の御柱祭にまで主役ではないようですがお船が登場することに、その由緒が単純なものではないなと感じたわけです。
 祇園山鉾や博多山笠の山車が、古代の船越に淵源するのではないかという古川さんの説を洛中洛外日記第7話で紹介しましたが、今回の調査の際、『隋書』倭国伝(原文はイ妥国伝)の次の記事の存在に気づき、新たな仮説を考えました。

 『隋書』には倭国の葬儀の風習として次のように記録しています。

「葬に及んで屍を船上に置き、陸地之を牽くに、或いは小輿*(よ)を以てす。」

輿*(よ)は、輿の同字で、輿の下に車 [輿/車]。

 倭国では葬儀で死者を運ぶのに陸地でも船を使用していたことが記されているのです。そうすると、山車の淵源は海人族の葬儀風習にあったと考えてもよいのではないでしょうか。祇園山鉾や博多山笠の「ヤマ」が古代の邪馬台国(『三国志』原文は邪馬壹国)と関係するのではないかという、わたしのカンも当たっているかもしれませんね