史料批判一覧

第2685話 2022/02/17

古田先生の「紀尺」論の想い出 (3)

古田先生が「紀尺(きしゃく)」を採用して論証に成功された高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』(注①)を始め高良玉垂命系図である「稲員家系図(松延本)」や「物部家系図」(明暦・文久本、古系図)についての論考があります。それは「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」という論文(注②)で、次のような書き出しで始まります。

〝今年の九州研究旅行は、多大の収穫をもたらした。わたしの「倭国」(「俀〈たい〉国」、九州王朝)研究は、従来の認識を一段と深化し、大きく発展させられることとなったのである。まことに望外ともいうべき成果に恵まれたのだった。
その一をなすもの、それが本稿で報告する、「明暦・文久本、古系図」に関する分析である。今回の研究調査中、高良大社の“生き字引き”ともいうべき碩学、古賀壽(たもつ)氏から、本会の古賀達也氏を通じて、当本はわたしのもとに托されたものである。
この古系図は、すでに久しく、貴重な文書としてわたしたちの認識してきていた「古系図」(稲員・松延本)と、多くの共通点をもつ。特に、今回の主たる考察対象となった前半部に関しては、ほぼ「同型」と見なすことができよう。
しかしながら、古文書研究、歴史学研究にとって「同型・異類」写本の出現は重大だ。ことに当本のように、従来の古代史研究において、正面から採り上げられることの少なかった当本のような場合、このような別系統本の入手の意義はまことに決定的だ。しかも、当本は「高良山の大祝家」の中の伝承本であるから、先の「稲員・松延本」と共に、その史料価値のすぐれていること、言うまでもない。〟

そして、「紀尺」による論証結果が次に示されています。

〝第二、〈その二〉の高良玉垂命神は、この「古系図」内の注記に
「仁徳天皇治天五十五年九月十三日」
とあるように、「仁徳五十五(三六七)」に当山(高良山)に来臨した、という所伝が有名である。(高良大社の「高良社大祝旧記抜書」〈元禄十五年壬午十一月日〉によって分析。古田『九州の真実 六〇の証言』かたりべ文庫。のち、駸々堂刊。注③)
中国の南北朝分立(三一六)以後、高句麗と倭国は対立し、撃突した。その危機(高句麗の来襲)を怖れ、博多湾岸中心の「倭国」(弥生時代)は、その中枢部をここ高良山へと移動させたようである。それが右の「仁徳五十五〈皇暦〉」(三六七)だ。
それ故、高良大社は、この「高良玉垂命神」を以て「初代」とする。〟

論文末尾は次のように締めくくられます。

〝「古系図」(稲員・松延本)に関しては、すでに古賀達也氏が貴重な研究を発表しておられる。「九州王朝の築後遷宮」(『新・古代学』第4集)がこれである(注④)。
「九躰の皇子」の理解等において、いささか本稿とは異なる点があるけれど、実はわたしも亦、本稿以前の段階では、古賀氏のように思惟していたのであった。その点、古賀論稿は、本稿にとっての貴重な先行論文と言えよう。
今、わたしは「俀国版の九州」の名称についても、この「九躰の皇子」にさかのぼるべき「歴史的名辞」ではないか、と考えはじめている。詳論の日を迎えたい。
先の稲員・松延氏と共に、今回の古賀壽氏の御好意に対し、深く感謝したい。
最後に、この「古系図」の二つの奥書を詳記し、今回の本稿を終えることとする。
(イ)明暦三丁酉年(一六五七)秋八月丁丑日
高良山大祝日往子尊百二代孫
物部安清
(ロ)文久元年(一八六一)辛酉年五月五日
物部定儀誌〟

以上のように、江戸期成立の近世文書を古代史研究の史料として採用するための方法論の一つとして、古田先生の「紀尺」論は有効性を発揮しています。江戸時代の文書や皇暦(『東方年表』)などを偽作扱い、あるいは軽視する論者があれば、この古田先生の論文を読んでいただきたいと思います。ここで示された「紀尺」を初めとする種々の方法論は和田家文書(明治・大正写本)の史料批判にも数多く採用されています。「紀尺」論は、古田先生の学問を理解する上で、不可欠のものとわたしは考えています。(つづく)

(注)
①『高良社大祝舊記抜書』元禄十五年(1702年)成立。高良大社蔵。
②古田武彦「高良山の『古系図』 ―『九州王朝の天子』との関連をめぐって―」『古田史学会報』35号、1999年12月。
③古田武彦『古代史60の証言』(駸々堂、1991年)59頁、「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。
④古賀達也「九州王朝の築後遷宮–玉垂命と九州王朝の都」『新・古代学』第四集、新泉社、1999年。


第2684話 2022/02/16

古田先生の「紀尺」論の想い出 (2)

古田先生が提唱・命名された「紀尺(きしゃく)」という言葉をわたしなりに説明すれば、「『日本書紀』紀年に基づく暦年表記の基準尺」とでもいうべき方法と概念です。この文献史学における暦年表記の論理構造について解説します。

(1) 古代に起こった事件などを後世史料に書き留める場合、60年毎に繰り返す干支だけでは絶対年代を指定できない。
(2) そこで、年号がある時代であれば年号を用いて絶対年代を指定できる。それが六~七世紀であれば、九州王朝の時代であり、九州年号を使用することができる。八世紀以後であれば大和朝廷の年号が採用されている。
(3) 五世紀以前の九州年号がない時代の事件であれば、中国の年号を使用するか、『日本書紀』に記された近畿天皇家の紀年、いわゆる皇暦(『東方年表』等)を使用するほかない。事実、江戸時代以前の文書には皇暦が採用されるのが一般的である。明治以降は西暦や皇暦が採用されている。
(4) 以上のような時代的制約から、中近世文書に古代天皇の紀年で年代表記されている場合、記された皇暦をそのまま西暦に換算して認識することが妥当となるケースがある。
(5) こうして特定した暦年の妥当性が、他の情報により補強・証明できれば、その年次を採用することができる。

おおよそ以上のような論理構造により古田先生の「紀尺」論は成立しているのですが、この方法は皇暦を援用してはいるものの、その天皇とは、とりあえず無関係に暦年部分のみを採用することに、いわゆる「皇暦」とは決定的に異なる方法論上の特徴があります。
それではこの「紀尺」による年代判定事例を先生の著書から引用・紹介します。それは江戸期成立の高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』(注①)の史料批判と年代理解です。

〝すなわち、七支刀をたずさえた百済の国使は、当地(筑後)に来たのだ。それが、東晋の「泰和四年(三六九)」だった。
ところが、高良大明神の“当山開始(即位)”年代は、「仁徳五十五年(「皇暦」で一〇二七、西暦換算三六七)となる」。ピタリ、対応していた。平地で「こうや」、高地で「こうら」。百済・新羅に共通した、都城の在り方だったようである。〟(注②)

石上神宮(天理市)に伝わる七支刀(国宝)の銘文中に見える年代(泰和四年)と高良大社文書『高良社大祝舊記抜書』に記された「仁徳五十五年」が同時期であることから、七支刀は筑後にいた九州王朝(倭国)の王「高良大明神」に百済から贈られたものであるとする仮説の証明に「紀尺」が用いられた事例です。それまで意味不明とされてきた高良大社文書中の「仁徳五十五年」という年次が、生き生きと歴史の真実(四世紀の九州王朝史)を語り始めた瞬間でした。(つづく)

(注)
①『高良社大祝舊記抜書』元禄十五年(1702年)成立。高良大社蔵。
②古田武彦『古代史60の証言』(駸々堂、1991年)59頁、「証言―55 七支刀をめぐる不思議の年代」。


第2683話 2022/02/15

古田先生の「紀尺」論の想い出 (1)

古田史学の学問の方法論の一つに「紀尺(きしゃく)」という概念があります。文献史学における編年の論理性に関わる概念なのですが、この「紀尺」という言葉を初めて聞いたのは、1986年11月24日に大阪の国労会館で開催された古田先生の講演会(注)でした。この年にわたしは「市民の古代研究会」に入会し、古田先生の講演会にも参加するようになりました。ですから、古田史学に入門して間もないわたしにとって、先生の謦咳に接する貴重な機会で、35年以上経った今でも記憶に残る印象深い講演会だったのです。
その講演会で古田先生は中近世文書に見える古代の「○○天皇××年」という年代記事について、その実年代を当該天皇が存在した実際の年代で理解するのではなく、「○○天皇××年」を皇暦のまま西暦に換算するという編年方法(『東方年表』と同様)を提起され、その方法論を「紀尺」と名付けられました。この発想は当時の聴講者には驚きを持って受けとめられました。皇暦(『東方年表』)など〝皇国史観の権化〟のような紀年法と〝兄弟子〟たちは受けとめていたようで、この古田先生の新説に対して批判的でした。わたしや不二井伸平さん(古田史学の会・全国世話人、明石市)のように、深い感動をもって受けとめた〝弟子〟は少数だったように思います。(つづく)

(注)「市民の古代研究会」主催の古田武彦講演会。演題は「古代王朝と近世の文書 ―そして景初四年鏡をめぐって―」で、『市民の古代 古田武彦とともに』第9集(市民の古代研究会編、新泉社、1987年)に「講演録 景初四年鏡をめぐって」として、その前半部分が収録されている。「紀尺」に関する後半部分「近世文書」は同講演録からは割愛されているため、筆者の記憶に誤りがないかを、不二井伸平氏に録音テープを確認していただいた。その結果、筆者の記憶通りであり、不二井氏も同様の記憶であることを確認した。〝古賀の記憶違い〟との批難を避けるため、慎重を期した。


第2673話 2022/02/02

言素論による富士山名考

 京都地名研究会主催の講演会(注①)で研究発表された初宿成彦さんは富士山の名称についても持論を紹介されました(注②)。わたしも富士山の名前を言素論で考証(注③)してきましたので、興味深く拝聴しました。
 初宿さんの説は富士を「ふ」と「じ」に分解し、それぞれの意味を探るという手法で、結論として、「ふ」は〝山の神霊〟を意味し、「じ」は〝下〟を意味するとして、「ふじ」とは〝山の神のふもと〟のこととされました。そして本来は富士という地名であり、いつの頃からか地名の富士を山名にして富士山という名称になったというものです。
 富士を「ふ」と「じ」に分解することは言素論の視点から賛成ですが、「ふ」は〝生まれる〟〝生む〟のことではないかとわたしは考えています。そして、「じ」は本来は「ぢ」であり、古層の神名「ち」のことではないでしょうか。そして、「ふぢ」とは万物を生む創造神のことではないかと考えています。縄文時代の富士山は噴火していたと聞いたことがありますが、溶岩や噴煙を吹(ふ)き出す姿は文字通り〝天地を創造する神〟のようであることから、古代の人々は「ふち」の山と呼んだのではないかと想像しています。この場合の「吹く」も「ふ」の動詞化と推定されます。
 その根拠として、武生(たけふ)や麻生(あそう=あさふ)という地名・人名の「ふ」の音に「生」という漢字を当てられていることがあります。これは「ふ」の音の元来の意味が、「生む」であることを知っていて初めて可能となる当て字だからです。
 なお、「ぢ」から「じ」に使用漢字が変化したとする点についてはまだ論証が成立していません。恐らく、西日本では「ち」「ぢ」と発音されていたものが、関東や東北地方では「し」「じ」になったのではないかと推定しています。その傍証として、現代日本人の苗字の「ふくし」(福士)は東北地方に分布しており、「ふくち」(福知、他)は関西に分布していることに注目しています。静岡県西部にあった敷知郡(現、湖西市・浜松市)の「ふち」と富士山の「ふじ」も関係があるように思います。しかしながら、現時点では作業仮説(思いつき)のレベルで、間違っているかもしれませんので、これからも検討を続けます。

(注)
①京都地名研究会(会長:小寺慶昭氏)第57回地名フォーラム。於:キャンパスプラザ京都。
②初宿成彦(しやけ しげひこ)「富士山の呼称由来に関する新説」
③古賀達也「洛中洛外日記」694話(2014/04/15)〝JR中央線から富士山を見る〟
 古賀達也「洛中洛外日記」882話(2015/02/25)〝雲仙普賢岳と布津〟


第2671話 2022/01/31

ミニ講演会「化学者が語る古代史」

 先週、上京区の喫茶店「うらのつき」さんで古代史のミニ講演会を行いました。妻が懇意にしているお店で、以前からご要請いただいていたこともあり、一念発起して「化学者が語る古代史」として話させていただきました。
 それほど広いお店ではないためやや密になりましたが、参加者には医療関係者もおられ、コロナ対策は万全でした。参加者からは古代史以外に化学や政治についても質問や意見がだされ、「元気が出た」と好評だったようです。毎月行ってほしいとのことでしたので、参加者と話題が続く限り行うことにしました。
 当日、使用したレジュメを転載します。

令和四年(2022年)1月26日
うらのつき古代塾
―化学者が語る日本古代史―
         講師 古賀達也
《講師紹介》
福岡県久留米市出身
京都の化学会社に45年間勤務(色素化学・染色化学)
古田武彦氏(1926-2015年 日本古代史・親鸞研究)に師事
古田史学の会・代表(全国組織、会員約400名)
著書(共著) 『「九州年号」の研究』、『邪馬壹国の歴史学』、『九州王朝の論理』、他

《前話》 理系のわたしの歴史研究
(1)歴史学は犯罪捜査と共通する性格を持つ
 ①どちらも過去に起こった事件の真実(真相)を解明する。
 ②証拠と動機(なぜ?)の解明が必要。
 ③ただし弁護士がつかない⇒冤罪発生のリスクが伴う。
(2)最新科学は正しいのか
〈アポロ計画〉実績がある旧技術を採用し、人類を月面に送った。
〈足利事件〉当時、最先端の科学技術DNA鑑定で有罪⇒悲劇的な冤罪が発生した。
〈和歌山カレー毒物事件〉最新科学装置によるヒ素の分析により有罪判決⇒因果関係が非論理的で冤罪の可能性がある。
(3)教科書に書かれている日本古代史は前提から間違っている。
〈日本古代史の前提〉大和朝廷が日本列島の唯一の卓越した王朝である。⇒この『古事記』『日本書紀』の記述は信用してもよいのか。

《第一話》 学校では教えない本当の古代史
(1)大和朝廷の最初の年号は大化か?
 ■『日本書紀』の三年号
 「大化」645~649年 「白雉」650~654年 「朱鳥」686年
 ■「改元」と「建元」 ※「建元」は王朝の最初の年号で、一回しかない。後は王朝が滅ぶまで「改元」が続く。
 大化改元(645年)、白雉改元(650年)、朱鳥改元(686年)『日本書紀』の三年号は全て「改元」とある。
 大宝建元(701年)『続日本紀』大宝以降は改元が連続して続き、令和に至る。
(2)「白鳳時代」「白鳳文化」の「白鳳」とは何か?
 「白鳳」(661~683年)は九州年号の一つ。九州年号は、「継体」元年(517年)から「大長」九年(712年)まで連続して続く。九州年号の中に「白雉」(652~660年)、「朱鳥」(686~694年)、「大化」(695~704年)がある。⇒『日本書紀』は他の王朝の年号(九州年号)を転用している。
(3)地名に遺された「九州」「太宰府」「内裏(大裏)」とは何か?
(4)金印(国宝)はなぜ志賀島(福岡市)から出土したのか?
 「漢委奴国王」を「かんのわのなのこくおう」とは読めない。⇒漢の委奴(ゐの)国王。
(5)博多湾岸に飛来する渡り鳥の名はなぜ「都鳥(ミヤコドリ)」なのか?
(6)古代中国の史書は倭国(日本国)をどのように記しているか?

〔『隋書』倭(俀)国伝の証言〕
 倭国王の名前は阿毎多利思北孤(アメ・タリシホコ)で男性(奥さんがいる)。太子の名前は利歌彌多弗利(リ・カミタフリ)。当時の大和朝廷の天皇は推古天皇で女性。隋の使者は倭国王に面会しており、倭国王が男か女かを見間違うとは考えられない。
 また、倭国には阿蘇山があり、隋使はその噴火を見ている。「阿蘇山あり。その石、故なくして火を起こし、天に接す。(有阿蘇山其石無故火起接天)」と記している。

〔『旧唐書』倭国伝・日本国伝の証言〕
 日本列島には倭国と日本国があり、両国は別の国とされている。「日本国は倭国の別種なり。(日本國者、倭國之別種也)」と記している。そして、「日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あ)わす。(日本舊小國、併倭國之地)」と記し、日本国(大和朝廷)が倭国(九州王朝)を併合したとある。古代の日本列島で王朝交替があった。
(7)中国史書と『日本書紀』はどちらが信用できるのか?
 勝者が自らのために創作した歴史書(『日本書紀』)は、〝容疑者の証言〟であり、そのまま証拠として採用してはならない。〝うらどり〟が必要。
 中国史書の倭国伝・日本国伝は、隣国の観察記録であり、言わば防犯カメラの録画のようなもの。精度の差はあるが、基本的に証拠として採用できる。


第2670話 2022/01/30

格助詞に着目した言素論の新展開

 本日、正木裕さんのご紹介で京都地名研究会主催の講演会(注①)を聴講しました。古田先生が提唱された「言素論」に関係が深そうな研究発表があるとのことで参加することにしたものです。それは大阪市立自然史博物館の職員で昆虫学者の初宿成彦(しやけ しげひこ)さんによる「格助詞に着目した地名の要素分解」という研究発表です。
 「言素論」とは、古代日本語の単語や文字表記において、「一字・一音節・一義」がより古い形態と考え、一音節ごとに言葉を分解し、その言葉の本来の意味を明らかにするという方法論です。たとえば、「魚」という字で表記される意味はfishですが、音は「ぎょ」(音読み)と「な」「うお」「さかな」(訓読み)などがあります。このfishを意味する日本語のうち、「な」を最も古いとする、これが「言素論」の基本前提です。すなわち、「魚」という表記の訓みの「一字・一音節・一義」が「な」と考えるわけです。詳細については拙稿「『言素論』研究のすすめ」(注②)をご参照下さい。
 初宿さんは地名や苗字を語頭+格助詞+語尾に分解し、語頭の意味を推定し、その多くは神の名前ではないかとされました。そして、次のような例を多数紹介されました。

地名 =語頭+格助詞+語尾⇒格助詞がない同義地名
穴生  あ   の   お  粟生・阿尾
稲田  い   な   だ  井田
稲本  い   な  もと  井本
勝田  か   つ   た  加太・嘉田
神奈川 か   な  がわ  香川
真田  さ   な   だ  佐田
砂田  す   な   だ  須田
角田  つ   の   だ  津田
箕面  み   の   お  三尾
湊   み   な   と  水戸
水上  み   な  かみ  三上
箕輪  み   の   わ  三輪・三和
渡辺  わた  な   べ  渡部(わたべ)

 上記の分解や理解がすべて正しいのかどうかはわかりませんが、言素を格助詞で繋ぎ、新たな名詞が構成されるという視点は重視すべきと思いました。今までの言素論研究に格助詞の視点を導入する必要を感じました。(つづく)

(注)
①京都地名研究会(会長:小寺慶昭氏)第57回地名フォーラム。於:キャンパスプラザ京都。

各助詞に着目した地名の要素分解 初宿成彦

研究発表「各助詞に着目した地名の要素分解」
初宿成彦(しやけしげひこ)

②古賀達也「『言素論』研究のすすめ」『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集)古田史学の会編、明石書店、2016年。

 


第2649話 2021/12/27

『旧唐書』と『新唐書』の共通認識

 先週、多元的古代研究会の研究発表会にリモート参加させていただきました。そのとき、参加者から次のような質問がありました。

 「九州王朝説の史料根拠として『旧唐書』を一元史観の人に示しても、『旧唐書』は誤りが多い史料で信頼できないと反論される。どのように説明すればよいだろうか。」

 そこで、わたしは次のように答えました。

 「『旧唐書』には倭国伝と日本国伝が別国として併記されており、一元史観にとってもっとも都合が悪い史料です。そのため、信頼できないと無視するしかないのです。古田先生は〝唐が白村江戦を戦った相手が一国なのか二国なのかを間違うはずはない〟と言っておられました。」

 一元史観の通説論者は、『旧唐書』(945年成立)では倭国と日本国を別国としているのは倭国から日本国への国名変更を別の国のことと間違って伝えたもので、『新唐書』(1060年成立)では正しく日本国一国に修正されていると説明します。しかし、『新唐書』をよく読めば一元史観では説明できないことがわかります。
 『旧唐書』では倭国伝と日本国伝が併記されており、日本国伝には冒頭に「日本国は倭国の別種なり」とあり(注①)、誰が読んでも倭国と日本国が別国として認識されていることがわかります。それに比べると、『新唐書』には日本国伝だけで倭国伝はありませんが、次の記事が見えます。

 「或いは云う、日本は乃(すなわ)ち小国、倭の併わす所と為る。」

 『旧唐書』日本国伝では、

 「或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併わす。」

 とあり、併合した国と併合された国が『新唐書』とは逆です。この理由については中小路駿逸先生の考察があり(注②)、そこで指摘されたのが、『新唐書』日本国伝にも、倭国と日本国が併合した国と併合された国として別国表記されているということです。この史料事実も一元史観には不都合な事実ではないでしょうか。
 なお、『新唐書』日本国伝には「隋の開皇の末にはじめて中国に通ず」という記事もあり、これらも多元史観・九州王朝説でなければ説明できないことを「洛中洛外日記」(注③)にて論じたことがありますので、ご参照下さい。

(注)
①日本国伝の「別種」を「別偁」の誤記誤伝とする説があるが、その説が成立しないことを次の拙稿で論じた。
 古賀達也「洛中洛外日記」898話(2015/03/14)〝日本国は倭国の別種〟
 古賀達也「洛中洛外日記」899話(2015/03/15)2〝『旧唐書』の「別種」表記〟
②中小路駿逸「旧・新唐書の倭国・日本国像」『市民の古代』9集、新泉社、1987年。
③古賀達也「洛中洛外日記」1079話(2015/10/21)〝『新唐書』日本国伝の新理解〟


第2648話 2021/12/26

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (7)

 本シリーズで最も重要なテーマ、すなわち現在の常識や知識ではなく、当時の史料編者や読者の認識で史料を理解しなければならないというフィロロギーの視点について説明します。
 現代のわたしたちは地図上で実際の距離を測定することが可能であり、唐代の長里(約560m)による里程換算もできます。しかし、この現代人の知識で『旧唐書』の古代里程記事を理解することは不適切です。「去京師一萬四千里」も同様で、現代の地図に基づく実距離での理解は古代人の認識とは異なります。『旧唐書』編者が現代のような地図を持っているはずもなく、先行史料の里程記事や編纂時に得られた情報に基づいて里程が算出されたと考えるべきです。その算出方法の復原作業こそ、本稿でわたしが行った一連の論理的考察(論証)です。
 次に『旧唐書』の里程記事が実際の距離とどの程度整合しているのかを調べたところ、唐の長里(560m)とはほとんど整合していないことがわかりました。その具体例として、ほぼ東西に並んでいる京師(現、西安市)と東都(現、洛陽市)、卞州(現、開封市)、徐州(現、徐州市)の『旧唐書』地理志の里程とwebで調べた実際距離、それらから算出した1里の長さを示します。

○京師⇒河南府(洛陽付近) 「在西京(長安)東八百五十里」 327km〔1里385m〕
○京師⇒卞州 「在京師東一千三百五十里」 497km〔1里368m〕
○東都⇒卞州 「東都四百一里」 170km〔1里424m〕
○京師⇒徐州 「在京師東二千六百里」 757km〔1里291m〕
○東都⇒徐州 「至東都一千二百五十七里」 435km〔1里346m〕

 このように『旧唐書』に記された各里程記事を実際の距離で算出すると、1里の長さはバラバラです。唐の長里を560mとする説は本当に正しいのだろうかとの疑念さえ覚えます(注)。従って、『旧唐書』の倭国への里程記事「去京師一萬四千里」は、実際の距離で理解するのではなく、『旧唐書』編纂者の認識でもって解釈するというフィロロギーの方法が最も適切と思われるのです。(つづく)

(注)森鹿三「漢唐一里の長さ」(『東洋史研究』5(6)、1940年)に、唐代の1里を440m程度とする説が紹介されている。


第2647話 2021/12/25

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (6)

 いよいよ本シリーズで最も重要なテーマ、フィロロギーの視点について論じますが、その前にわたしの仮説についての理路(論理の構造と過程)を整理してみました。次の通りです。

(1) 『旧唐書』倭国伝には唐の都から倭国までの里程として「去京師一萬四千里」の記事があるが、『三国志』の短里(約77m)でも唐の長里(約560m)でも実際の距離と大きく異なり、どのように理解すべきか諸説が出されている。

(2) 「一萬四千里」は倭人伝の「萬二千余里」と唐代の長里による「二千里」が単純に加算されたものではないかとする作業仮説を発案した。

(3) その場合、加算された「二千里」は唐代の認識に基づいているので、『旧唐書』中にその「二千里」という数値が導かれた根拠があるはずである。

(4) 倭国に至る途中の国々のことが記された東夷伝に「二千里」の根拠を求めた。

(5) 高麗(高句麗)伝に次の里程記事があり、その差がちょうど二千里となる。それ以外に二千里となる数値を今のところ見いだせない。
 (a) 「(高麗の都、平壌は)京師を去ること東へ五千一百里」
(b) 「(高麗の領域は)東西三千一百里」

(6) そうであれば、この差の二千里は、高麗の西端から京師(長安)までの距離と『旧唐書』編者は認識していたことになる。

(7) 高麗の西端の位置を示す次の記事が同じく高麗伝にあり、それは遼東半島の西側にある遼水(現、遼寧省遼河)付近となる。
 (c) 「西北は遼水を渡り、榮州に至る」

(8) 他方、『旧唐書』編者が参考にしたであろう唐代成立の〝同時代史料〟『隋書』俀国伝の俀(倭)国への里程記事の起点は「楽浪」とされている。
 (d) 「古に云う、楽浪郡の境および帯方郡を去ること一萬二千里」

(9) 『旧唐書』地理志に次の記事が見え、高麗西端の遼東に古の楽浪があったと『旧唐書』編者が認識していたことを示している。
 (e) 「漢地の東は楽浪・玄菟に至り、今の高麗・渤海なり。今の遼東にあり、唐土にあらず」

(10) 以上の史料事実と考察によれば、高麗の西端(古の楽浪)から倭国までの距離を一萬二千里と『旧唐書』編者は認識していたと考えられる。

(11) そして、京師(長安)から倭国までの距離を「一萬四千里」としていることから、京師から高麗の西端までの距離を『旧唐書』編者は二千里と認識していたことになる。

 わたしの仮説はこのように展開したのですが、その結果、京師(長安)から遼河(遼水)河口付近までの距離を二千里と『旧唐書』編者が認識していたということになりました。しかし、現代のわたしたちの認識(知識)では、地図上での実際の距離は直線距離でも約1,300㎞であり、これだと『旧唐書』での1里が約650mとなってしまい、約560mとされている唐の長里とは大きく異なってしまいます。
 このようなとき、古田史学で重視されるのがフィロロギーという学問の方法です。すなわち、現在の常識や知識ではなく、当時の史料編者や読者の認識で史料を理解しなければならないという視点です。(つづく)


第2646話 2021/12/24

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (5)

 『隋書』俀国伝には、楽浪郡から俀(倭)国までの距離を「一萬二千里」としていますので、『旧唐書』編者は京師(長安)から楽浪郡までの距離を二千里と認識していたことになります。

 「古に云う、楽浪郡の境および帯方郡を去ること一萬二千里」『隋書』俀国伝(注①)

 それでは『旧唐書』の編者は楽浪郡の位置をどのように認識していたのでしょうか。地理志冒頭部分(注②)に次の記事があります。

 「今天寶十一載地理、唐土東至安東府、西至安西府、南至日南郡、北至單于府。南北如前漢之盛、東則不及、西則過之。〔漢地東至楽浪、玄菟、今高麗、渤海是也。今在遼東、非唐土也。漢境西至燉煌郡、今沙州、是唐土。又龜茲、是西過漢之盛也。〕」※〔〕内は細注。

 唐の領域の四至を記し、南北は漢代の領域の如くだが、東は及ばず、西はそれ以上と説明した記事です。そして細注に「漢地の東は楽浪・玄菟に至り、今の高麗・渤海なり。今の遼東にあり、唐土にあらず。」とあり、楽浪は今の遼東にあったとの認識が示されています。
 従って、楽浪があった遼東から倭国までの距離を『隋書』の記事に基づいて一萬二千里と認識していたわけです。すなわち、唐国内の里程二千里(唐の長里)と楽浪・倭国間の距離一萬二千里(短里)の接点は「今在遼東(今の遼東に在り)」(正確には遼水付近)であると『旧唐書』編者は認識していたので、倭国への総里程を「去京師一萬四千里」とする記事が成立したと考えられます。(つづく)

(注)
①岩波文庫『魏志倭人伝 他三篇』1988年版。
②『旧唐書』五「志三」中華書局、1987年版。


第2645話 2021/12/23

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (4)

 『旧唐書』倭国伝には「去京師一萬四千里」とあり、『三国志』の短里(1里約77m)表記「萬二千余里」に唐代の長里(1里約560m)による二千里が単純に足されているのではないかと考え(作業仮説)、この「二千里」が『旧唐書』の中にあるはずと精査を続けました。そして、「萬二千里」部分は唐の直前の『隋書』の次の記事に依っていると推測しました。『旧唐書』編者にとって、唐代に成立した『隋書』が最も時代が近い〝同時代史料〟であり、最有力情報として参考にするはずと考えたからです。

 「古に云う、楽浪郡の境および帯方郡を去ること一萬二千里」『隋書』俀国伝(注①)

 この記事には、楽浪郡から俀(倭)国までの距離を「一萬二千里」としていますので、『旧唐書』編者は京師(長安)から楽浪郡までの距離を二千里と認識していたことになります。そこで、わたしは高麗(高句麗)伝(注②)の次の里程記事に着目しました。

(1) 「京師を去ること東へ五千一百里。」
(2) 「東西三千一百里、南北二千里。」

 (1)は唐の京師(長安)から高句麗の都(平壌)までの距離、(2)は高句麗の領域の東西と南北の距離です。もし、平壌が高句麗の東端付近に位置していたとすれば、5,100里-3,100里=2,000里となり、この二千里が高句麗の西端付近から京師(長安)までの距離であり、わたしの作業仮説の二千里と一致します。それでは高句麗の西端はどこでしょうか。これも『旧唐書』高麗伝にヒントがありました。次の記事です。

(3) 「西北は遼水を渡り、榮州に至る。」
(4) 「儀鳳中(676~679年)、高宗は高蔵(高句麗王)に開府儀同三司、遼東都督を授け、朝鮮王に封ず。」

 (3)の記事によれば高句麗の西端は遼水(注③)であり、そこを渡ると唐の榮州に至るとあります。(4)の記事では高句麗王が唐から遼東都督に任命されており、高句麗の領域が遼水の東側の遼東であることがわかります。ですから、唐代の高句麗の領域は遼東半島を含み東西に広がっていたことがわかります。
 以上の史料事実に基づく考察により、追加された二千里と遼水の西岸付近から京師(長安)までの距離二千里とが一致対応するのですが、この理解を支持する記事が『旧唐書』地理志(注④)にありました。(つづく)

(注)
①岩波文庫『魏志倭人伝 他三篇』1988年版。
②『旧唐書』十六「伝十」中華書局、1987年版。
③中国遼寧省を流れる遼河。
④『旧唐書』五「志三」中華書局、1987年版。


第2644話 2021/12/23

『旧唐書』倭国伝「去京師一萬四千里」 (3)

 『旧唐書』倭国伝には「去京師一萬四千里」とあり、起点が楽浪郡や帯方郡ではなく京師(長安)となり、里数も二千里増えています。そこで、『旧唐書』では『三国志』の短里(1里約77m)表記「萬二千余里」に唐代の長里(1里約560m)による二千里が単純に加えられているのではないかと、わたしは考えました。このことが本テーマの主論点ですが、起点「京師」についてのわたしの見解をまず説明しておきます。というのも、野田説や野田さんが紹介された清水庵さんの説(注①)では、「京師」は長安でなくてもよいとして、新たな読解が提案されたからです。
 わたしが支持する文献史学の基本的な考え方に〝同一史料中に記された同一単語は、特に説明がない限り、同一の意味を有す〟というものがあります。このことに説明は要らないと思います。そうでなければ、筆者が自らの意見を読者に正確に伝えることができないからです。もちろん、読者をだますことが目的(詐欺)であればこの限りではありませんが、中国の史書は、編纂時の王朝の最高権力者(天子)に提出するという史料性格(編纂目的)を持ちますから、その夷蛮伝の記述に詐術的な用語使用をする必要もありませんし、もし嘘と知りつつ天子を欺くために虚偽を書いたのであれば、それこそ史官の首が飛ぶことでしょう。特に今回のケースは天子の都城を意味する用語「京師」ですから、書いた編纂者とそれを読む天子の認識が一致していることを疑えません。それでは『旧唐書』では「京師」という言葉がどのように定義され、使用されているでしょうか。
 『旧唐書』二百巻は巻一の高祖本紀から始まり、その文中に「京師」は頻出します。いずれも天子の居城「長安」を指しています。ちなみに唐は二京制を採用しており、京師(長安)の他にも「東都」(洛陽)も頻出します。更に巻三十八~四十一に地理志が収録されています。その初めの方に「京師」という項目があり、「秦の咸陽、漢の長安なり」で始まり、「隋の開皇二年、漢の長安故城より東南へ二十里移して新都を置く。今の京師は是れなり。」(注②)とあり、位置の移動も詳細に記しています。読者はこの記事を読んでから、巻百九十九上の倭国伝を読むことになり、そこに「去京師一萬四千里」とあれば、〝唐の首都長安を去ること一萬四千里〟と理解するほかなく、編纂者もそのように読者が理解することを当然としているはずです。
 更に、倭国伝が収録されている巻百九十九上「東夷」の高麗伝にも高句麗の都、平壌の位置情報として「京師を去ること東へ五千一百里」とあり、「京師」を起点としています。その高麗伝中に、「(総章元年・668年)十二月、京師に至り、含元宮にて俘を献ず。」(注③)とあり、これは京師の含元宮(大極殿に相当)で捕虜を献上した記事ですから、この京師は長安と解するほかありません。この史料事実から高麗伝中の「京師を去る」と「京師に至る」は同じ京師(長安)のこととしか理解のしようがありません。従って、倭国伝の「京師を去る」も同様に長安のこととなります。(つづく)

(注)
①清水庵(しみず・ひさし)「隋書、新・旧唐書の東夷伝も短里」『なかった 真実の歴史学』六号、ミネルヴァ書房、2009年。
②『旧唐書』五「志三」中華書局、1987年版。
③『旧唐書』十六「伝十」中華書局、1987年版。