史料批判一覧

第778話 2014/09/05

「古田武彦先生講演録集」を読む

 「古田史学の会」の友好団体「多元的古代研究会」(安藤哲朗会長)の事務局長の和田昌美さんから、同会の発足20周年記念に出版された「古田武彦先生講演録集」が送られてきました。同講演録には古田先生の三つの記念講演が収録されており、いずれも古田先生にとっても記念すべき次の講演の記録です。

「信州の古代文明と歴史学の未来」1979年9月13日、松本深志高校にて、「古田武彦と古代史を研究する会」発行の同会の冊子より再録

記念講話「岡田先生と深志」1990年、松本深志高校にて、同校発行校内誌より再録

記念講演「筑紫舞と九州王朝」2014年3月2日、アクロス福岡イベントホール、宮地嶽神社主催「筑紫舞再興三十周年記念イベント」にて

 いずれも古田先生にとっても記念すべき講演で、とてもよい出版企画となっています。なかでも1990年の「岡田先生と深志」は感慨深く拝読しました。古田先生にとって歴史研究とは何かというテーマにもふれられており、わたしも若い頃から何度も先生からお聞きした次のような言葉です。

 「歴史学の目標は私は予言にあると思います。何故かというと、結局、過去を勉強する、何のために--骨董いじりのような過去を勉強するか、言うまでもなく、人類の未来を知りたいから過去を勉強するわけです。現在という一点に立って、未来を知るためには過去を知ることによって過去から現在へ延長させると、その行く先の未来がどの方向に行くかが分ってくるわけです。その意味で歴史を学ぶ目標は、未来を知るためだと、私はこの点は一度も疑ったことはありません。」(78頁)

 「歴史学は人類の未来のための学問である」この言葉は古田先生から学んだ歴史研究の原点です。すべての古田学派や古田ファン の皆さんにも是非とも知っていただきたいと願っています。そういう意味でも、「多元的古代研究会」の20周年記念出版事業にふさわしい冊子でした。ご恵送たまわり、ありがとうございます。


第776話 2014/08/29

女王の国

 今日は大阪市で開催されたアラン・スィフト先生(Dr.J Alan Swift)の来日記念講演会(A personal journey investigating the chemistry and structure of human hair:毛髪の構造と化学研究にかかわってきた人生を振り返って)を聴講しました(主催:繊維応用技術研究会)。スィフト先生は毛髪やウールの構造解析研究における世界的な研究者で、イギリスのリード大学におられ、マンチェスター生まれとのこと。このたび50年ぶりに奥様とご一緒に来日されました。
 講演ではきれいな発音でゆっくりと話されたのですが、事前に配布されたレジュメやプロジェクター画像と通訳がなければ、わたしの英語力ではとても理解困難な学術講演でした。講演会後の懇親会ではご挨拶させていただきました。わたしのへたくそな英語が通じて、ホッとしました。
 今、スィフト先生の母国イギリスではスコットランドの独立運動が進められており、独立の是非を住民投票で決められるとのこと。分離独立が平和裏にルールに基づき住民投票で決められ、その結果を分離独立される側(UK、イングランド)も尊重し、受け入れるというのですから、さすがは民主主義のお手本のような国で、尊敬できます。このようなことは人類史上でも珍しいことでしょう。
 こうした平和的ルールに基づいて独立が認められる世界になれば、国際紛争はかなり減るのではないでしょうか。人類がそのような精神文化を獲得するに至るまで、あとどのくらいかかるのでしょうか。近年のロシアや中国の行いを見ると絶望感にとらわれますが、今回のスコットランドのような例を知ると、一縷の希望も見えてきそうです。
 女王陛下の国も「ブリテンの大乱」とも言うべき状況です。『三国志』倭人伝によれば倭国は卑弥呼を共立することにより、内戦を収束させ女王国として安定したようですが、西洋の現代の女王国はどのようになるのでしょうか。興味津々です。
 わたしはイギリス史は詳しくありませんが、イングランドとスコットランドが不仲なのは知っていました。各国の国歌の歌詞を調べたことがあるのですが、イギリス国歌(法律で決まっているわけではないようです)「ゴッド・セイブ・ザ・クィーン(キング)」の六番の歌詞になんと次のようなものがあるのです。
「激流の如きスコットランドの反乱を打ち破らん」
 スコットランド人にしてみたら、こんな歌詞が国歌にあったら、それはいやでしょうね。独立したいという気持ちもわかります。わたしたち日本人の感覚では 非常識な歌詞です。たとえば「君が代」の歌詞に「九州や北海道の反乱を打ち破らん」があることなど考えられないからです。
 ところが今回調べて知ったのですが、スコットランド人も負けていませんでした。なんと事実上の「スコットランド国歌」とされているものがあり、その歌詞に繰り返し次のようなフレーズ出てくるのです。

 スコットランド国歌「スコットランドの花」 (Flower of Scotland)
「エドワード軍への決死の戦い 暴君は退却し 侵略を断念せり」

 このエドワードとはイングランド王の名前です。イングランド国王を「暴君」と呼び、「侵略」を断念させたと、スコットランドでは歌われるのです。 ここまで双方が相手側を「国歌」でののしりあうのですから、分離独立というのもわからないこともありません。ただ、イギリス国歌は問題の六番は実際には歌われないときいています。
 西洋の女王国はこれからどうなるのでしょうか。仮にスコットランドが独立しても仲良くしていただきたいものです。そして民主主義のお手本を全世界に示していただきたいと願っています。


第774話 2014/08/27

貝原益軒と九州年号

 今朝はJR北陸本線を大聖寺から福井へと向かっています。昨日、北陸地方を襲ったとテレビで報道されていた大雨も、わたしが行った先ではそれほどではありませんでした。

 今朝、ホテルでいただいた読売新聞朝刊1面のコラム「編集手帳」に、今日が江戸時代の学者貝原益軒(1630-1714)の命日と紹介されていました。貝原益軒は筑前黒田藩の学者で『養生訓』『筑前国続風土記』など多くの著書を残しました。益軒はわたしにとってとてもなじみ深い学者です。というのも、九州年号研究で貝原益軒の名前は何度も見てきたからです。
 従来から九州年号は「私年号」や「逸年号」とされてきたり、あるいは僧侶による偽作(偽年号)扱いされてきました。こうした九州年号偽作説が誰により言われてきたのかという研究を、京都大学で開催された日本思想史学会で発表したことがあるのですが、益軒の『続和漢名数』の「日本偽年号」の項に、九州年号を僧侶による偽作と学問的根拠や論証を示さず断定しています。詳細は『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房刊)をご覧下さい。益軒以降、現在に至るまで九州年号偽作説論者は益軒と同様に学問的論証を経ることなく、偽作説を踏襲しているようです。
 益軒の九州年号偽作論は現在の学界に影響を及ぼしているだけではなく、筑前黒田藩有数の学者である益軒の影響もあってか、九州王朝の中枢地域だった筑前の寺社縁起や地誌などから九州年号がかなり消された可能性があるのです。理屈から考えれば九州王朝の中枢領域にもっとも九州年号史料が残存していてもよさそうなのですか、管見によれば筑後や肥前・肥後と比べてちょっと少ないように思われるのです。
 九州年号研究者にとっては益軒先生も困ったことをしてくれたものだと思っています。とはいえ、今日は益軒先生の命日とのことですので、郷里の先学のご冥福をお祈りしたいと思います。


第772話 2014/08/24

「大文字焼き」は誤用か

 「洛中洛外日記」767話で、わたしは「大文字焼きがある如意ヶ岳が見え、送り火の日は大勢の見物客で夜遅くまでごった返します」と書いたのですが、熱心な読者のSさんから次のようなご注意をいただきました。それは、「五山の送り火」が正式名称で、生粋の京都人は「大文字焼き」とは言わない。外部の人が「大文字焼き」と言うことに対して、京都人は内心快く思っていない。という趣旨のご指摘でした。
 わたしの「洛中洛外日記」を読んでいただき、こうしたご意見をいただけることは大変ありがたいことと思っています。その上で、わたしはSさんに謝辞とともに次のような趣旨の返答メールを出しました。

(1)「大文字焼き」の正式名称が「五山の送り火」「大文字の送り火」とされているのはその通り。
(2)Sさんが言われるような見解は京都のガイドブックや「京都」関連本によく見かける内容である。
(3)わたしは4~6歳(昭和35年頃)ころ、京都市聖護院で暮らしており、そのころ「大文字焼き」を見た記憶がある。そのころから周囲の大人は「大文字焼き」と言っていたので、わたしも「大文字焼き」というようになった。
(4)生粋の京都人(下鴨神社付近で暮らしていた)である妻も「大文字焼き」と普通に言っている。

 このようなご返事を出したのですが、もしかするとわたしの記憶違いかもしれないと心配になり、聞き取り調査をすることにしました。そして今日までに次のような証言を得ました。

証言1(妻の親戚、70歳代、生粋の京都人)自分や周囲の人は「送り火」と言っている。「大文字焼き」とは言わない。
証言2(妻の知人、60歳くらい、生粋の京都人)自分が子供の頃、父親から「大文字焼きは誤りで、正しくは送り火である」と厳しく教えられてきた。
証言3(妻の母、80歳代、生粋の京都人)自分は「大文字焼き」とは言わない。
証言4(水野孝夫代表、70歳代、京都市下鴨生まれで京都大学卒)京都時代に何と言っていたか記憶はないが、「大文字焼き」という言い方に違和感はない。
証言5(西村秀己さん、60歳代、香川県出身)40年ほど昔、大阪で働いていた頃、京都によく行ったが京都人の友人は「大文字焼き」と普通に言っていた。
証言6(正木裕さん、60歳代、徳島県出身、京都大学卒)京大在学中、京都の友人は「大文字焼き」と言っていた。
証言7(服部静尚さん、60歳代、大阪府出身)自分が子供の頃から京都の人が「大文字焼き」と言っていた。「大文字焼き」という表現は縁起が悪いというような話を以前誰かから聞いた記憶がある。

 とりあえず、このような証言を得ることができました。これらの証言から次のようなことが推定できます。

1,京都には「大文字焼き」と言う人が少なくとも50年以上前からいた。
2.「大文字焼き」は間違いであり、「送り火」が正しいと主張する人も、少なくとも50年前からいた。
3.その結果、現代の京都には「大文字焼き」と普通に言う人、「送り火」という人、さらには「大文字焼き」は誤りであると主張する人が混在している。ただし、その割合は今のところ不明。
4,「大文字焼き」は誤りであると主張する人の意見が「正論」として各種機関・書籍に採用されている。

 なぜ現在のような状況が発生したのか、いつ頃から「大文字焼き」と言う京都人がいたのかが、今後の調査のポイントとなりそうです。
 どうしてこのようなことをわたしが気にするのかというと、『三国志』原文には「邪馬壹国」とあるにもかかわらず、「邪馬壹国」は誤りで「邪馬臺国」が正 しいとする意見が学界やマスコミで全面的に採用され、今では原文が「邪馬壹国」であることさえもほとんどの国民が知らないという状況です。このように、古田学派の研究者として、「権威」や「辞典」「マスコミ」「国家権力」が「正しい」としているからという理由だけで、それを鵜呑みにすることがわたしにはできないからなのです。
 この件、引き続き調査検討します。こうした機会を与えていただいたSさんに、改めて感謝いたします。


第749話 2014/07/22

倭人伝の下賜品

「金八両」

 7月の関西例会では安随さんの発表以外にも、なかなか面白いアイデアが正木裕さん(古田史学の会・全国世話人、川西市)から出されました。倭人伝に記された中国から倭国への下賜品「金八両」に関するアイデアです。
 『三国志』倭人伝には中国(魏)から倭国への下賜品として、各種絹製品の他に「金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各五十斤」等の記載がありま す。正木さんはこの「金八両」という記事に注目され、この「八両」という半端な量になった理由を考えられました。そしてその重量を調べられ、八両は約 110gに相当し、志賀島の金印(漢委奴国王)の重量とほぼ同じであることに気づかれたのです。この一致が偶然ではないのではないかというのが、今回正木さんが提起されたアイデアです。
 もちろん、偶然なのか何らかの理由があるのかは論証困難ですから、いずれとも断定はできませんが、わたしは面白いアイデアだと思いました。ちなみに古田先生は、このとき下賜された「金八両」で鍍金されたのが、糸島郡二丈町の一貴山銚子塚古墳から出土した「黄金鏡」ではないかと考えておられます。黄金鏡など、日本列島での出土例は極めて少ないことから、その可能性はあると思います。「黄金鏡」の鍍金の科学的成分分析により、産地が特定できれば面白いと思います。


第748話 2014/07/21

唐と百済の「倭国進駐」

 先日の関西例会で安随俊昌さん(古田史学の会・会員、芦屋市)から“「唐軍進駐」への素朴な疑問”という興味深い研究発表がありました。安随さんは関西例会常連のお一人ですが、研究発表されるのは珍しく、もしかすると初めてではないかと思います。
 今回、満を持して発表された仮説は、『日本書紀』天智10年条(671)に見える唐軍2000人による倭国進駐記事についてで、従来、この2000人の 唐軍が倭国に上陸し、倭国陵墓などを破壊したのではないかと、古田先生から指摘されていました。ところが安随さんによれば、この2000人のうち1400 人は倭国と同盟関係にあった百済人であり、600人の唐使「本体」を倭国に送るための「送使」だったとされたのです。
 その史料根拠は『日本書紀』で、その当該記事には、「唐国使人郭務ソウ等六百人」と「送使沙宅孫登等千四百人」と明確にかき分けられており、1400人は「送使沙宅孫登」指揮下の「送使団」とあることです。そして、送使トップの沙宅孫登の「沙宅」とは百済の職位(沙宅=法官大補=文官)であることから、 孫登は百済人であり、百済人がトップであれば、その部下の「送使団」1400人も百済人と理解するべきというものです。ですから、百済人1400人の送使 団は戦闘部隊(倭国破壊部隊)ではないとされました。
 さらに、送使団は「本体」を送る役目を果たしたら、先に帰るのが原則とされたのです(『日本書紀』の他の「送使」記事が根拠)。従って、百済人1400人が長期にわたり倭国に残って、倭国陵墓などを破壊するというのは考えにくいとされました。安随さんは他にも傍証や史料根拠をあげて、倭国に進駐した「唐軍」による倭国陵墓や施設の破壊はなかったのではないかとされました。
 この安随説の当否は今後の研究や論議を待ちたいと思いますが、意表を突いた興味深い仮説と思いました。『古田史学会報』への投稿が待たれます。この他にも、今回の関西例会では興味深い仮説やアイデアが報告されました。


第745話 2014/07/13

復刻『古代は輝いていた III』

 ミネルヴァ書房より古田先生の『古代は輝いていた III 』が復刻されました。これで同シリーズ全三巻の復刻が完結しました。同書は九州王朝の輝ける時代と滅亡の時代、6~7世紀が対象です。わたしの研究テーマ の一つである「九州年号」の時代ですので、今回読み直してみて、古田先生の研究の深さと広さを再認識でき、とても触発されました。
 7世紀末には大和朝廷との王朝交代の時期を迎えますので、九州王朝研究にとってもスリリングなテーマが続出します。また、第三部にある「出現した出雲の金石文」で取り上げられた岡田山1号墳出土の鉄刀銘文「各田卩臣」(額田部臣)の「臣」に注目された論稿は、列島内に実在した多元的王朝(九州王朝、出雲王朝、関東王朝、近畿天皇家)や「臣」の痕跡を改めて明確にされたものです。
 九州王朝の輝ける天子、多利思北孤の活躍など同書は九州王朝史研究にとって最も重要な一冊です。皆さんに強くお勧めします。


第744話 2014/07/13

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(7)

 この「邪馬台国」畿内説は学説に非ずシリーズも一応今回で最後になりますが、『三国志』倭人伝に記された女王国(邪馬壹国)の所在地を考える上で、倭国の「文字文化」という視点を紹介したいと思います。
 倭人伝には次のような記事が見え、この時代既に倭国は文字による外交や政治を行っていたことがうかがえます。

 「文書・賜遣の物を伝送して女王に詣らしめ」
 「詔書して倭の女王に報じていわく、親魏倭王卑弥呼に制詔す。」
 「今汝を以て親魏倭王となし、金印紫綬を仮し」
 「銀印青綬を仮し」
 「詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔をもたらし」
 「倭王、使によって上表し、詔恩を答謝す。」
 「因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄を為(つく)りてこれを告喩す。」
 「檄を以て壹与を告喩す。」

 以上のように倭人伝には繰り返し中国から「詔・詔書」が出され、「印綬」が下賜されたことが記され、それに対して倭国か らは「上表」文が出されていることがわかります。従って、弥生時代の倭国は詔書や印に記された文字を理解し、上表文を書くこともできたのです。おそらく日本列島内で最も早く文字(漢字)を受容し、外交・政治に利用していたことを疑えません。従って、日本列島内で弥生時代の遺跡や遺物から最も「文字」の痕跡 が出現する地域が女王国(邪馬壹国)の最有力候補と考えるのが、理性的・学問的態度であり、学問的仮説「学説」に値します。そうした地域はどこでしょう か。やはり、北部九州・糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。
 筑前中域には次のような「文字」受容の痕跡である遺物が出土しています。

 志賀島の金印「漢委奴国王」(57年)
 室見川の銘版「高暘左 王作永宮齊鬲 延光四年五」(125年)
 井原・平原出土の銘文を持つ漢式鏡多数

 これらに代表されるように、日本列島内の弥生遺跡中、最も濃厚な「文字」の痕跡を有すのは糸島博多湾岸(筑前中域)なのです。この地域を邪馬壹国に比定せずに、他のどこに文字による外交・政治を行った中心王国があったというのでしょうか。
 最後に、「邪馬台国」畿内説論者をはじめとする筑前中域説以外の考古学者へ発せられた古田先生の次の一文を紹介して、本シリーズを締めくくります。

 あの筑前中域の出土物、その質量ともの豊富さ、多様さは、日本列島の全弥生遺跡中、空前絶後だ。そして倭人伝に記述された「もの」と驚くほどピッタリ一致して齟齬をもたなかったのである。
  (中略)
 そうすればわたしは、その“信念の人”の前に、静かに次の言葉を呈しよう。“あなたのは、考古学という科学ではない。考古学という「神学」にすぎぬ”と。
 (古田武彦『ここに古代王朝ありき』朝日新聞社、86頁)


第743話 2014/07/12

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(6)

 今週は東京から埼玉・新潟・石川・福井をぐるっと出張しました。心配していた台風8号の影響もそれほど受けずに、無事、仕事を終えることができました。京都に戻り、今日は自宅でくつろいでいますが、京都は祇園祭の準備が町中で進められています。今年は山鉾巡行が二回行われます(「前祭」と「後祭」で巡行されます)。

 「邪馬台国」畿内説が学説の体をなしていないことは、これまでの説明でご理解いただけたものと思いますが、文献史学では 成立しない畿内説に対して、物(出土物・遺跡)を研究対象とする、ある意味では「理系」に近い考古学の分野では、どういうわけか畿内説論者が少なくありま せん。これは一体どういうことでしょうか。
 『三国志』倭人伝を基礎史料とする文献史学の結論として、畿内説は学説として成立しない場合でも、考古学的に畿内説が成立するケースが無いわけではありません。それは、倭人伝に記された倭国の文物の考古学的出土分布が畿内が中心となっていれば、畿内を倭国の中心とする理解は考古学的には成立します。この ケースに限り、考古学者が畿内説に立つのは理解できますが、考古学的事実はどうでしょうか。
 まず倭人伝に記された倭国の文物には次のようなものがあります。

(金属)「銅鏡百枚」「兵には矛・盾」「鉄鏃」
(シルク)「倭錦」「異文雑錦」

 遺物として残りやすい金属器として、中国から贈られた「銅鏡百枚」について、弥生時代の遺跡からの銅鏡の出土分布の中心 は糸島・博多湾岸です。「鉄鏃」を含む鉄器や製鉄遺構も弥生時代では北部九州が分布の中心です。畿内(奈良県)の弥生時代の遺跡からはこれらの金属器はほとんど出土が知られていません。シルクの出土も弥生時代の出土は北部九州が中心です。
 このように考古学的事実も畿内説は成立しないのです。「邪馬台国」論争の基礎史料である倭人伝の記述と考古学的出土事実が畿内説では一致しないのに、畿内説を支持する考古学者が少なくないという考古学界の状況は全く理解に苦しみます。物(遺物・遺跡)を研究対象とする考古学は、近畿天皇家一元史観(戦後 型皇国史観)ではなく、「自然科学」としての観測事実や出土事実にのみ忠実であるべきだと思うのですが、畿内説を支持しなければならない、何か特別な事情でもあるのでしょうか。わたしは、それを学問的態度とは思いません。(つづく)


第742話 2014/07/10

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(5)

 今朝は長岡から金沢・小松・福井へと向かっていますが、雨の影響で列車が遅れており、お客様との約束の時間に間に合うだろうかとひやひやしています。

 『三国志』倭人伝には行程記事・総里程記事以外にも女王国の所在地を推定できる記事があります。この記事も畿内説論者は知ってか知らずか、古田先生からの指摘があるにもかかわらず無視しています。こうした無視も学問的態度とは言い難いものです。
 倭人伝冒頭には畿内説を否定する記事がいきなり記されています。次の記事です。

 「倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。」

 倭人の国、倭国は帯方(ソウル付近とされる)の東南の大海の中にある島国であると記されています。中国人は倭国を島国と認識していたのですが、九州島は文字通り「山島」でぴったりですが、本州島はこの時代には島なのか半島なのかを認識されていた痕跡はありません。本州島を島と認識するためには津軽海峡の存在を知っていることが不可欠ですが、『三国志』の時代に中国人が津軽海峡を認識していた痕跡はないのです。
 従って、倭人伝冒頭のこの記事を素直に理解すれば、倭国の中心国である女王国(邪馬壹国)が九州島内にあったとされていることは明白です。ですから、倭人伝は冒頭から畿内説が成立しないことを示しているのです。畿内説論者は自説の成立を否定するこの記事の存在を、古田先生が指摘してきたにもかかわらず、 無視してきました。こうした態度も学問的とは言えません。ですから、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではないことを、倭人伝冒頭の記事も指し示しているのです。(つづく)


第741話 2014/07/09

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(4)

 今日の新潟地方は大雨・雷・土砂崩れと難儀な出張になりました。各地で被害が出ているようで心配です。

 「邪馬台国」畿内説論者による、『三国志』倭人伝の行程記事の改竄(研究不正)について説明を続けてきましたが、彼らの 研究不正は他にもあります。それは自説にとって決定的に不利な記事(基礎データ)を無視(拒絶)するという研究不正です。この方法が許されると、たとえば 裁判などでは冤罪が続出することでしょう。学問としては絶対にとってはならない手法です。理系論文で自説を否定する実験データを故意に無視したり、隠したりしたら、これも即アウト、レッドカード(退場)ですが、日本古代史学界では集団で研究不正を黙認していますから、「古代史村」から追放される心配はなさそうです。
 倭人伝には行程記事以外にも女王国の所在地を示す総里程記事(距離情報)が明確に記されています。次の通りです。

 「郡より女王国に至る万二千余里」

 「郡」とは帯方郡(ソウル付近と考えられています)のこと、女王国は邪馬壹国のことですが、その距離が12000里余りとありますから、1里が何メートルかわかれば、単純計算で女王国の位置の検討がつきます。少なくとも、北部九州か奈良県のどちらであるかはわかります。 「古代中国の里」の研究によれば、倭人伝の「里」は漢代の約435mとする「長里」説と、周代の約77mとする「短里」説の二説があり、それ以外の有力説はありません。それでは倭人伝の記事(基礎データ)に基づいて単純計算してみましょう。

短里 77m×12000里=924000m=924km
長里 435m×12000里=5220000m=5220km

 短里の場合は北部九州(博多湾岸付近)となりますが、長里の場合は博多湾岸はおろか奈良県(畿内)もはるかに通り越し、 太平洋の彼方に女王国はあることになってしまいます。従いまして、倭人伝の総里程記事(基礎データ)に基づくのであれば、倭人伝は短里を採用しており、女王国の位置は北部九州(博多湾岸付近)と見なさざるを得ません。短里であろうと長里であろうと、間違っても奈良県(畿内)ではありません。
 この基礎データに基づく小学生でもできるかけ算が、少なくとも義務教育を終えたはずの畿内説論者にできないはずはありませんから、彼らは自説を否定する 基礎データ(12000余里)を無視・拒絶するという、非学問的な態度をとっていることは明白です。これは研究不正であり、「邪馬台国」畿内説が学説(学問的仮説・学問的態度)ではない証拠の一つなのです。(つづく)


第740話 2014/07/08

「邪馬台国」畿内説は学説に非ず(3)

 今朝は新幹線で東京に向かっています。午後、さいたま市で仕事をした後、夜は新潟県長岡市に入ります。週末まで出張が続きますので、帰りに大型の台風8号と遭遇しそうです。
 先日の四国講演では、能島(のしま)上陸・クルージングを楽しんだり、阿部誠一さん(古田史学の会・四国の新会長、今治市)の彫刻アトリエを見せていただいたりと貴重な体験をさせていただきました。瀬戸内海の海流の速さや、小島・岩礁の多さも瀬戸内海の特徴ですが、自分の目で見ることにより瀬戸内海航行が難しいことを実感しました。
 阿部さんのアトリエには多数のブロンズ像や塑像が所狭しと並べられており、芸術家の情熱とその作品の迫力に圧倒されました。少女像や裸婦像を得意とされておられ、高松市の公園にも阿部さんの作品が立てられているほどの著名な彫刻家です。今まで造った作品は500点以上とのことで、近年は古田史学の勉強や活動に時間がとられ、作品製作のペースが落ちたそうです。古田先生の銅像も造りたいので、先生の写真をたくさん撮っておいてほしいと頼まれました。

 「邪馬台国」畿内説論者が『三国志』倭人伝の原文(基礎データ)の文字を「南」から「東」に改竄(研究不正)していることを指摘しましたが、彼らはもう一つの改竄(研究不正)にも手を染めています。それはより悪質で本質的な改竄で、こともあろうに倭国の中心 である女王国の名称を原文の邪馬壹国から邪馬台国(邪馬臺国)にするというもので、理系の人間には信じられないような大胆な改竄(研究不正)です。今回は この研究不正の動機について解説します。
 既に述べましたように、邪馬壹国の位置を博多湾岸の東方向とするために、「南」を「東」に改竄しただけでは畿内説「成立」には不十分なので、畿内説論者は女王国の国名をヤマトにしたかったのです。実は改竄(研究不正)はこの国名改竄の方が先になされました。畿内説論者の研究不正の順序はおおよそ次のよう なものでした。

(1)倭国の中心国は古代より天皇家がいたヤマトでなければならない。(皇国史観という「信仰」による)
(2)ところが倭人伝には邪馬壹国とあり、ヤマトとは読めない。(「信仰」と史料事実が異なる)
(3)「壹」とあるのは誤りであり、「壹」の字に似た「臺(台)」が正しく、中国人が間違ったことにする。(証拠もなく古代中国人に責任転嫁する。「歴史冤罪」発生)
(4)「邪馬臺国」を正しいと、皆で決める。(集団による改竄容認・研究不正容認)
(5)しかしそれでも「邪馬臺国」ではヤマトとは読めない。(改竄・研究不正してもまだ畿内説は成立しない)
(6)「臺」は「タイ」と発音するが、同じタ行の「ト」と発音してもよいと、論証抜きで決める。
(7)「臺」を「ト」と読むことにするが、同じタ行の「タ」「チ」「ツ」「テ」とは、この場合読まないことにする。(これも論証抜きの断定)
(8)こうしてようやく「邪馬臺国」を「ヤマト国」と読むことに「成功」する。
(9)この「ヤマト国」は奈良県のヤマトのことと、論証抜きで決める。(自らの「信仰」に合うように断定する)

 これだけの非学問的な改竄や論証抜きの断定を繰り返した結果、「邪馬台国」畿内説という研究不正が「完成」したのです。ですから、畿内説は学説ではありません。学問的手続きを経たものではなく、研究不正の所産なのです。
 ここまでやったら、「毒を食らわば皿まで」で、先の「南」を「東」に改竄することぐらい平気です。しかも集団(古代史学界)でやっていますから、恐いものなしでした。ところが、「信仰」よりも歴史の真実を大切にする古田武彦という歴史学者の登場により、彼らの研究不正が白日の下にさらされたのです。(つづく)