古賀達也一覧

第2853話 2022/10/05

宮名を以て天皇号を称した王権(4)

 古田先生は、船王後墓誌に見える乎裟陁宮治天下天皇を敏達天皇、等由羅宮治天下天皇を推古天皇、阿須迦宮治天下天皇を舒明天皇とする通説を批判されました(注①)。次の通りです。

〝(一)敏達天皇は、日本書紀によれば、「百済大井宮」にあった。のち(四年)幸玉宮に遷った。それが譯語田(おさだ)の地とされる(古事記では「他田宮」)。
 (二)推古天皇は「豊浦宮」(奈良県高市郡明日香村豊浦)にあり、のち「小墾田(おはりだ)宮」(飛鳥の地か。詳しくは不明)に遷った。
 (三)舒明天皇は「岡本宮」(飛鳥岡の傍)が火災に遭い、田中宮(橿原市田中町)へ移り、のちに(十二年)「厩坂(うまやさか)宮」(橿原市大棘町の地域か)、さらに「百済宮」に徒(うつ)った、とされる。
 (四)したがって推古天皇を“さしおいて”次の舒明天皇を「アスカ天皇」と呼ぶのは、「?」である。(後略)〟

 この古田先生の指摘への反証を拙稿「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」(注②)で行いましたが、今回、推古天皇の宮についての古田先生の指摘が適切ではないことに気づきました。
 〝推古天皇は「豊浦宮」(奈良県高市郡明日香村豊浦)にあり、のち「小墾田(おはりだ)宮」(飛鳥の地か。詳しくは不明)に遷った。〟とされ、〝したがって推古天皇を“さしおいて”次の舒明天皇を「アスカ天皇」と呼ぶのは、「?」である。〟と批判し、これら三天皇は近畿天皇家ではないとする根拠の一つにされたわけです。ところが、この三つの地名「乎裟陁(おさだ)」「等由羅(とゆら)」「阿須迦(あすか)」の所在地について、湊哲夫さんの『飛鳥の古代史』(注③)によれば、阿須迦(飛鳥)は明日香村内の飛鳥川流域の小地域、等由羅(豊浦)は明治二十二年に飛鳥と合併して飛鳥村になっていることから阿須迦(飛鳥)の近隣(すなわち「飛鳥」内ではない)、乎裟陁(訳田)は桜井市戒重付近とされています。
 従って、現在の行政地名「奈良県高市郡明日香村豊浦」に基づき、豊浦宮を飛鳥内と理解し、推古天皇を差し置いて舒明天皇を「アスカ天皇」と呼ぶはずがないとした古田先生の批判は根拠を失うのです。古代地名としての飛鳥と豊浦が近隣の別の場所であれば、むしろ船王後墓誌の三天皇を敏達・推古・舒明とする通説の方が適切な理解となります。
 なお、アスカを筑前から筑後にかけての広域地名とする正木裕さんの研究(注④)があります。わたしの見るところ、仮説として成立しており、『日本書紀』や金石文・木簡に見える「飛鳥」との関係をどのように解釈するのかが注目されます。

(注)
①古田武彦「金石文の九州王朝 歴史学の転換」『なかった 真実の歴史学』第六号、ミネルヴァ書房、2009年。
②古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』152号、2019年。
③湊哲夫『飛鳥の古代史』星雲社、2015年。
④正木裕「『筑紫なる飛鳥宮』を探る」『古田史学会報』103号、2011年。


第2852話 2022/10/04

宮名を以て天皇号を称した王権(3)

 通説では、船王後墓誌(注①)に見える乎裟陁宮治天下天皇を敏達天皇、等由羅宮治天下天皇を推古天皇、阿須迦宮治天下天皇を舒明天皇としており、いずれも奈良盆地南辺付近の宮名を以て天皇号に称したと見なしています。「阿須迦宮治天下天皇」については「阿須迦天皇」とも記されており、いわば地名「阿須迦」を以て天皇号としています。この三つの地名「乎裟陁(おさだ)」「等由羅(とゆら)」「阿須迦(あすか)」の所在地については諸説ありますが、湊哲夫さんは次のように解説しており、通説に立てば概ね妥当なものと思います(注②)。

 「飛鳥の範囲については、ほぼ現在の明日香村域とするのが今日の通年であろう。これによれば、平田の高松塚古墳や阿部山のキトラ古墳も飛鳥の地域内ということになる。しかし、このような通念は現在の行政区画に災いされたもので、明らかに古代の飛鳥とは異なっている。現在の明日香村は昭和三十一年飛鳥・高市・坂合山村が合併して成立したが、その飛鳥村は明治二十二年飛鳥・八釣・小原・東山・豊浦・雷・小山・奥山の八村が合併して成立したものである。」
 「(雷丘東方遺跡から「小治田宮」墨書土器が出土した)結果飛鳥の地域がさらに限定され、北限を飛鳥寺付近、南限を伝飛鳥板蓋宮跡付近とする、南北一㌔㍍程の飛鳥川流域一帯とする見解が現在有力となっている。そして、飛鳥浄御原宮、飛鳥板蓋宮、後飛鳥岡本宮など飛鳥を冠する宮室はすべてこの地域内におさまることになる。」
 「敏達天皇の他田(おさだ)宮・訳語田(おさだ)幸玉宮は『日本霊異記』上巻第三に「磐余訳語田宮」とあるので、磐余に含まれることは確実である。その場所は『太子伝玉林抄』の「磐余訳語田宮者有人云今ノ大仏供ノ東開智(戒重)ノ里ヲ号訳田」から、桜井市戒重付近と推定される。」

 以上のように、阿須迦(飛鳥)は明日香村内の飛鳥川流域の小地域、等由羅(豊浦)は明治二十二年に飛鳥と合併して飛鳥村になっていることから阿須迦(飛鳥)の近隣、乎裟陁(訳田)は桜井市戒重付近とされ、奈良盆地南辺付近のそれぞれ小領域内にあった宮であり、領域が重なるなどの矛盾はありません。
 『日本書紀』にも次の記事が見え、船王後墓誌の宮名と問題なく対応しています。

◎乎娑陀宮 敏達天皇(572~585)
 「船史の祖、王辰爾ありて、よく読み釈(と)き奉(つかえまつ)る。」敏達元年五月条。
 「遂に宮を譯語田(おさだ)に営(つく)る。」敏達三年是歳条。
◎等由羅宮 推古天皇(592~628)
 「豊浦(とゆら)宮に即天皇位す。」即位前紀十二月条。
◎阿須迦宮 舒明天皇(629~641)
 「天皇、飛鳥岡の傍に遷りたまふ。これを岡本宮と謂ふ。」二年十月条。

 古田説では乎裟陁(福岡県福岡市南区曰佐)、阿須迦(福岡県小郡市井上、注③)、等由羅(山口県下関市豊浦町)に比定されており、倭京(太宰府)から離れた山口県にまで散在してはいるものの、その領域が重なるなどの矛盾点はありません。しかし、湊さんの解説によれば、古田先生の通説批判には問題が生じます。(つづく)

(注)
①船王後墓誌(三井高遂氏蔵)は大阪府柏原市の松岡山(松岳山)から出土したとされ、次の銘文が記されている。
(表)
「惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏)
三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」
②湊哲夫『飛鳥の古代史』星雲社、2015年。
③現地名は字「飛島(とびしま)」。明治期の字地名表には「飛鳥(ヒチョウ)」とある。


第2851話 2022/10/03

『維摩詰経巻下』の「浄土寺蔵経」印(3)

 九州年号「定居元年」(611年)が記されている北京大学図書館蔵『維摩詰経巻下』末尾には「浄土寺蔵経」の所蔵印が押されています。谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)はこの「浄土寺」を奈良県の法興寺と位置的に近い浄土寺(山田寺、桜井市)ではないかとされました(注①)。
 奈良県桜井市にある山田寺が浄土寺の寺号を持つことが、『上宮聖徳法王帝説』(知恩院本)の「裏書」に記されています。

 「有る本に云わく、誓願して寺を造り、三宝を恭敬す。(舒明)十三年辛丑(641年)の春三月十五日、浄土寺を治むと云々。
 注に云わく、『辛丑年に始めて地を平かにす。(中略)癸亥(643年)に塔を構う。(中略)癸酉年(673年)十二月十六日、塔の心柱を建つ。其の柱礎中、円穴を作り、浄土寺と刻す。(中略)山田寺是れ也』と。注は承暦二年〈戊午〉(1078年)、南一房に之を写す。真曜の本なり。」※()内は古賀注。(注②)

 ところが、この裏書の浄土寺について、奈良県桜井市の山田寺のことではないとする田中重久氏の論文があります(注③)。田中さんは『上宮聖徳法王帝説』裏書に見える浄土寺の塔の創建時期の矛盾した記事を根拠に、同裏書には複数の別の浄土寺記事が混在しており、「癸亥(643年)に塔を構う」の浄土寺は岐阜県各務原市の山田寺とされました。そして、「癸酉年(673年)十二月十六日、塔の心柱を建つ」とある天武期の浄土寺は大和の山田寺とされました。
 こうした田中氏の理解が可能であれば、前者の浄土寺は筑紫太宰府付近にあったとする仮説も提起できるのではないでしょうか。というのも、同裏書には浄土寺の記事に続いて次の般若寺記事があり、田中氏は「法王帝説裏書の般若寺は武蔵寺の誤」として、この武蔵寺を太宰府市の般若寺のこととされました。

 「曽我日向子臣、字は無耶志(むさし)臣。難波長柄豊碕宮に御宇しめしし天皇の世、筑紫大宰の帥に任ずる也。甲寅年(654年)十月癸卯朔壬子、天皇不余*の為め、般若寺を起つるなり。」 ※「余*」=「余」の下が「心」。

 この「般若寺」と同様に、「浄土寺」も筑紫太宰府にあった寺院とできるのであれば、七世紀中頃に「浄土寺」に相応しい寺院の痕跡があります。田中氏の論文によれば、全国にある「浄土寺(院)」の大半は阿弥陀堂を持ち、本尊は阿弥陀であるとしています。この視点からすると、太宰府の観世音寺の本尊が百済から伝わった阿弥陀如来であったことが史料に遺されており、注目されます。
 白鳳十年(670年)の創建とされる観世音寺(創建瓦は七世紀後半の老司Ⅰ式)の下層から百済系単弁軒丸瓦が出土しており、この地に七世紀前半頃(注④)と思われる百済系単弁軒丸瓦を採用した寺院があり、そこに百済からの阿弥陀如来像が安置されていたのではないかと、わたしは考えています(注⑤)。阿弥陀如来を本尊とした寺院ですから、おそらく寺号は「観世音寺」ではなかったはずです。この観世音寺の地にあった阿弥陀如来を祀っていた寺院も『上宮聖徳法王帝説』裏書にある「浄土寺」の候補の一つにしたいと考えています。
 なお、百済からの阿弥陀如来像を本尊にしたにもかかわらず、なぜ寺号が観世音寺なのかは、今後の研究課題です。

(注)
①谷本茂「北京大学図書館蔵敦煌文献「定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」『唯摩結經巻下』の史料批判」古田史学の会・関西例会、2015年5月。
②岩波文庫『上宮聖徳法王帝説』東野治之校注、2013年。
③たなかしげひさ(ママ)「『上宮聖徳法王帝説』裏書の浄土寺・山田寺別寺説」『仏教芸術』99号、1974年。
④服部静尚「小田富士雄氏の瓦編年に疑問を呈する」『東京古田会ニュース』202号、2022年。
⑤古賀達也「百済伝来阿弥陀如来像の流転 ―創建観世音寺と百済系素弁瓦―」『東京古田会ニュース』181号、2018年。
 同「洛中洛外日記」1638~1644話(2018/04/01~08)〝百済伝来阿弥陀如来像の流転(1)~(6)〟


第2850話 2022/10/02

宮名を以て天皇号を称した王権(2)

 橘高修さんが「『船王後墓誌』から見える近畿王朝」(注①)で指摘されたように、宮名が天皇号として称される制度を九州王朝が採用し、太宰府条坊都市(倭京)創建後(七世紀前半以降)も、代替わりのたびに周囲の宮を転々としていたのかという問題は重要です。この「宮名を以て天皇号を称した」という痕跡は、近畿天皇家では藤原宮や平城宮創建まで続いており、この史料事実については学界では早くから注目されてきました。たとえば藪田嘉一郎氏は「法隆寺金堂薬師・釈迦像光背の銘文について」(注②)で次のように述べています。

 「かかる宮號を以て稱する天皇の號は崩御後の天皇、過去の天皇についてのみ用いられる慣習だったのである。奈良朝に入って平城宮が恒久的宮城となってからは、平城宮治天下天皇という號はひとり過去の天皇に稱するのみでなく現在の天皇にも稱するようになったが、奈良朝以前では過去の天皇を稱する時のみ使用したのである。これは代毎に宮が變ったからである。但し持統朝と文武朝では、持統天皇が天武天皇の飛鳥浄御原宮に居られ、のち藤原宮に遷られたため、両宮の名によって稱され、文武天皇は藤原宮に在り、持統天皇と同宮號を以て呼ばれるが、持統天皇朝で飛鳥浄御原宮治天下天皇といえば天武天皇を指し、文武天皇朝で藤原宮天皇といえば持統天皇だけを指すことになっていたのである。」

 このように、過去の天皇のことを称する場合に「○○宮治天下天皇」と宮名を使用し、恒久的宮城(平城宮)となってからは「平城宮治天下天皇という號はひとり過去の天皇に稱するのみでなく現在の天皇にも稱するようになった」という藪田氏の解説は貴重です。すなわち、代替わりしても恒久的宮城に居るのであれば、同じ「平城宮治天下天皇」という称号を採用せざるを得ないとするわけです。
 この大和朝廷での宮名を以て天皇号を称するという制度は、九州王朝での先例に倣ったのではないでしょうか。そうであれば、倭京(太宰府)創建後の九州王朝では、代替わりしても「倭京の○○宮天子(あるいは天皇)」と称したことになります。残念ながら九州王朝が倭京の宮殿をなんと称していたのかは不明です。
 従って、倭京(太宰府)の造営年代・遷都年代がいつかということが次に問題となるのですが、九州王朝の太宰府遷都は倭京元年(618年)とする説(注③)が有力ですから、船王後墓誌に見える「阿須迦宮治天下天皇」の「末歳次辛丑」が641年に相当しますから、これは九州王朝の恒久的宮城である倭京(太宰府)への遷都後です。そうであれば、墓誌に見える「阿須迦宮治天下天皇」「阿須迦天皇」を通説通り近畿天皇家の舒明とするか、倭京(太宰府)内の「阿須迦宮」と呼ばれた宮殿に居た九州王朝の天皇とするのかということになります。
 通説では、乎裟陁宮治天下天皇を敏達天皇、等由羅宮治天下天皇を推古天皇、阿須迦宮治天下天皇を舒明天皇としており、いずれも奈良盆地南辺付近での遷宮と見なしています。
 他方、古田先生はこれらの天皇は九州王朝の天子のことであり、その宮は福岡県(乎裟陁・阿須迦)や山口県(等由羅)にあるとされました。そうすると、全国支配のための王都倭京(太宰府)から離れた山口県の「等由羅宮」で「治天下」していたことにもなりかねず、かなり不自然であることは否めません。ですから、橘高さんの疑問点、〝国王が変わるごとに年号が変わることは一般的と思われますが、宮の場所まで変わるとなるとどういうことになるのでしょうか。「天皇の坐す宮」と大宰府などの政庁はどういう関係だったのだろうか〟は、とても重要な指摘だと思います。

(注)
①橘高修「『船王後墓誌』から見える近畿王朝」『東京古田会ニュース』206号、2022年9月。
②藪田嘉一郎「法隆寺金堂薬師・釈迦像光背の銘文について」『仏教芸術』7号、昭和25年(1950)。
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。


第2849話 2022/10/01

宮名を以て天皇号を称した王権(1)

 『東京古田会ニュース』206号(2022年9月)に掲載された橘高修さん(東京古田会・事務局長、日野市)の論稿「『船王後墓誌』から見える近畿王朝」で重要な問題点の指摘がありました。同墓誌は大阪府柏原市の松岡山(松岳山)から出土したとされ、次の銘文が記されています。

 「船王後墓誌」(大阪、松岳山出土、三井高遂氏蔵)
(表)
「惟舩氏故 王後首者是舩氏中祖 王智仁首児 那沛故首之子也生於乎娑陀宮治天下 天皇之世奉仕於等由羅宮 治天下 天皇之朝至於阿須迦宮治天下 天皇之朝 天皇照見知其才異仕有功勲 勅賜官位大仁品為第
(裏)
三殯亡於阿須迦 天皇之末歳次辛丑十二月三日庚寅故戊辰年十二月殯葬於松岳山上共婦 安理故能刀自同墓其大兄刀羅古首之墓並作墓也即為安保万代之霊基牢固永劫之寶地也」

《訓よみくだし》
 「惟(おも)ふに舩氏、故王後首(おびと)は是れ舩氏中祖 王智仁首の児那沛故首の子なり。乎娑陀(おさだ)の宮に天の下を治(し)らし天皇の世に生れ、等由羅(とゆら)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に奉仕し、阿須迦(あすか)の宮に天の下を治らしし天皇の朝に至る。天皇、照見して其の才異にして仕へて功勲有りしを知り、勅して官位、大仁、品第三を賜ふ。阿須迦(あすか)天皇の末、歳次辛丑十二月三日庚寅に殯亡しき。故戊辰年十二月に松岳山上に殯葬し、婦の安理故(ありこ)の刀自(とじ)と共に墓を同じうす。其の大兄、刀羅古(とらこ)の首(おびと)の墓、並びに作墓するなり。即ち万代の霊基を安保し、永劫の寶地を牢固(ろうこ)せんがためなり。」

 通説では、乎裟陁宮治天下天皇を敏達天皇、等由羅宮治天下天皇を推古天皇、阿須迦宮治天下天皇を舒明天皇としますが、古田先生はこれらの天皇は九州王朝の天子のことであり、その宮は福岡県や山口県にあるとされました(注①)。わたしはその古田説に反対し、通説の理解を支持する論稿(注②)を発表しました。今回の橘高稿はわたしと同様の結論に至っていますが、その中でとても重要で興味深い問題が提起されています。

 「(古田説によれば、船王後墓誌に見える)宮は天皇ごとに違うので、九州王朝は国王が変わるたびに中心となる宮の場所が変わる制度をもっていたことになるわけです。国王が変わるごとに年号が変わることは一般的と思われますが、宮の場所まで変わるとなるとどういうことになるのでしょうか。『天皇の坐す宮』と大宰府などの政庁はどういう関係だったのだろうか」※()内は古賀による補記。

 このご指摘は重要で、宮名が天皇号として称されるという制度を九州王朝が採用していたのか、太宰府条坊都市(倭京)という王都王宮創建後(七世紀前半以降)も、それとは無関係に代替わりのたびに周辺の宮を転々としていたのかという問題に発展するからです。(つづく)

(注)
①古田武彦「金石文の九州王朝 歴史学の転換」『なかった 真実の歴史学』第六号、ミネルヴァ書房、2009年。
②古賀達也「『船王後墓誌』の宮殿名 ―大和の阿須迦か筑紫の飛鳥か―」『古田史学会報』152号、2019年。


第2848話 2022/09/30

『維摩詰経巻下』の「浄土寺蔵経」印(2)

 九州年号「定居元年」(611年)が記されている北京大学図書館蔵『維摩詰経巻下』末尾には本文とは異筆で次の二行が記され、「浄土寺蔵経」の所蔵印が押されています。この所蔵印があることを谷本茂さんの研究発表(注①)により知りました。

 「始興中慧師聡信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
 「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」

 谷本さんはこの「浄土寺」を奈良県の法興寺と位置的に近い浄土寺(山田寺、桜井市)ではないかとされました。わたしも谷本さんの見解は妥当なものと思いますが、もう一つの可能性についても紹介しておきます。
 奈良県桜井市にある山田寺が浄土寺の寺号を持つことが、『上宮聖徳法王帝説』(知恩院本)の「裏書」に記されています。

 「有る本に云わく、誓願して寺を造り、三宝を恭敬す。(舒明)十三年辛丑(641年)の春三月十五日、浄土寺を治むと云々。
 注に云わく、『辛丑年に始めて地を平かにす。(中略)癸亥(643年)に塔を構う。(中略)癸酉年(673年)十二月十六日、塔の心柱を建つ。其の柱礎中、円穴を作り、浄土寺と刻す。(中略)山田寺是れ也』と。注は承暦二年〈戊午〉(1078年)、南一房に之を写す。真曜の本なり。」※()内は古賀注。(注②)

 ところが、この裏書の浄土寺について、奈良県桜井市の山田寺のことではないとする田中重久氏の論文があります(注③)。(つづく)

(注)
①谷本茂「北京大学図書館蔵敦煌文献「定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」『唯摩結經巻下』の史料批判」古田史学の会・関西例会、2015年5月。
②岩波文庫『上宮聖徳法王帝説』東野治之校注、2013年。
③たなかしげひさ(ママ)「『上宮聖徳法王帝説』裏書の浄土寺・山田寺別寺説」『仏教芸術』99号、1974年。


第2847話 2022/09/29

『維摩詰経巻下』の「浄土寺蔵経」印(1)

 先日、「東京古田会」の月例会にリモート参加させていただきました。安彦克己さん(同会副会長)の発表では『法華義疏』(皇室御物)の紹介があり、そこに九州王朝の「大委国上宮王」の署名があることなどの説明がなされました。それに関連して、九州年号「定居元年」(611年)が記されている北京大学図書館蔵『維摩詰経巻下』の存在を、わたしから質疑応答のときに紹介しました。同『維摩詰経巻下』末尾には本文とは異筆で次の二行が記されています。

 「始興中慧師聡信奉震旦善本観勤深就篤敬三宝」
 「経蔵法興寺 定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」

 従来の研究(注①)では、この「定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」は、後から追記した偽作とされているようですが、「上宮厩戸」(聖徳太子)による写本とするための偽作であれば、九州年号「定居元年」を用いたり、聖徳太子と縁が深い「法隆寺」ではなく、「経蔵法興寺」と追記するとは考えにくく、むしろ『法華義疏』同様に九州王朝内で成立した文書か、その写本ではないかとする見解をわたしは発表したことがあります(注②)。
 また、谷本茂さん(古田史学の会・会員、神戸市)も「古田史学の会」関西例会でこの『維摩詰経巻下』について発表され、偽作ではないとされました(注③)。発表資料として同下巻末尾のコピーが配られ、そこに「浄土寺蔵経」という蔵書印が押されていることを知りました。谷本さんはこの「浄土寺」を奈良県の法興寺と位置的に近い浄土寺(山田寺、桜井市)ではないかとされました。(つづく)

(注)
①韓昇「聖徳太子写経真偽考」『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』関西大学出版部、2004年。
②次の「洛中洛外日記」で発表した。
465話(2012/09/10)〝中国にあった聖徳太子書写『維摩経疏』〟
466話(2012/09/12)〝二説ある聖徳太子生没年〟
468話(2012/09/17)〝「三経義疏」の比較〟
469話(2012/09/21)〝法興寺と法隆寺〟
471話(2012/09/23)〝韓昇「聖徳太子写経真偽考」を拝読〟
476話(2012/10/01)〝「三経義疏」国内撰述説〟
477話(2012/10/02)〝「三経義疏」九州王朝撰述説〟
480話(2012/10/09)〝「始興」は「始哭」の誤写か〟
482話(2012/10/14)〝中国にあった「始興」年号〟
953話(2015/05/16)〝北京大学図書館蔵「九州年号史料」の報告〟
③谷本茂「北京大学図書館蔵敦煌文献「定居元年歳在辛未上宮厩戸寫」『唯摩結經巻下』の史料批判」古田史学の会・関西例会、2015年5月。


第2845話 2022/09/27

九州王朝説に三本の矢を放った人々(5)

 通説側からの「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注①)への反論として考えた前期難波宮九州王朝複都説でしたが、通説側でも論争が続いていました。それは、この巨大な前期難波宮を孝徳期とするのか天武期とするのかというものでした。それぞれに根拠を持った見解でしたので簡単に決着が付きそうもありませんでした。文献史学では、孝徳紀の大化改新詔などの文言が七世紀中頃のものではなく、孝徳紀の記事が疑わしく、出土した前期難波宮も規模や様式が七世紀中頃の宮殿にふさわしくないとする見解が出されていました。

 他方、考古学者からは出土土器編年や宮殿の北西部の谷から出土した干支木簡(「戊申年」648年)を根拠に、孝徳期とする見解が優勢でした。しかし、少数ですが天武期ではないかと考える考古学者もいました。たとえば難波の発掘に携わってこられた大阪歴博の考古学者、伊藤純さんもそのお一人でした。2012年9月、大阪歴博で伊藤さんに前期難波宮についてのご意見をうかがったところ、次のように答えられました(注②)。

「わたしは少数派(天武朝説)です。90数パーセント以上の考古学者は孝徳朝説です。しかし、学問は多数決ではありませんから。」

 「学問は多数決ではない」というご意見には大賛成ですとわたしは述べ、考古学出土物(土器編年・634年伐採木樋年輪年代・「戊申年」648年木簡)などは全て孝徳期造営説に有利ですが、天武期でなければ説明がつかない出土物はあるのですかと質問しました。

 伊藤さんの答えは明瞭でした。「もし、宮殿平面の編年というものがあるとすれば、前期難波宮の規模・様式は孝徳朝では不適切であり、天武朝にこそふさわしい。」というものでした。すなわち、孝徳期では大和朝廷の王宮の発展史から前期難波宮は外れてしまい、天武期と考えると適切ということなのです。それと同時に、出土した土器の編年からみると、「孝徳期説の方がすわりが良い」とも正直に述べられました。この発言を聞いて、自説に不利なことも隠さずに述べられる伊藤さんの考古学者としての誠実性を感じました。

 この伊藤さんの〝前期難波宮の規模・様式は大和朝廷の王宮の発展史と整合しない〟とする見解こそ、前期難波宮は近畿天皇家(後の大和朝廷)の宮殿ではないとする、九州王朝複都説の根拠の一つでしたので、伊藤さんの見解を知り、わたしは自説への確信を深めました。(つづく)

(注)
①九州王朝説への《三の矢》「7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。」
②古賀達也「洛中洛外日記」474話(2012/09/26)〝前期難波宮「孝徳朝説」の矛盾〟


第2844話 2022/09/26

九州王朝説に三本の矢を放った人々(4)

 「九州王朝説に刺さった三本の矢」の中で最も深刻なものが《三の矢》「7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。」でした。
 《一の矢》の巨大前方後円墳や《二の矢》の古代寺院群については、〝お墓やお寺の存在は必ずしも列島の代表王朝がその地に存在した根拠とは言えない〟とする解釈で反論することもできないわけではありません(説得力を感じませんが)。しかし、列島随一の規模と最新の建築様式(朝堂院)を持つ前期難波宮の存在は、難波に列島を支配した王権・王朝が7世紀中頃に存在したという理解に至らざるを得ません(注①)。この圧倒的な実証力には解釈論で逃げ切るという方法が通用しないのです。
 わたしはこの《三の矢》を九州王朝説批判に使用されたら、反論が困難ではないかと苦慮してきましたが、幸いというか、通説側からは《三の矢》による九州王朝説批判はありませんでした。おそらく、通説側も、この巨大な前期難波宮を孝徳期とするのか天武期とするのかで論争が続いていましたから、九州王朝説批判どころではなかったのかもしれません。しかし、わたしは九州王朝説の在否に関わる重要問題と認識していましたので、苦心の末に前期難波宮九州王朝副都説(後に複都説に変更)へ至り、その仮説を発表しました(注②)。そして、この仮説の重要性を古田学派研究者に訴えたのですが、反対意見が古田先生から出され、それに同調する見解が古田学派内から出てきたのです。
 当時、拙論への批判が身内からなされるなど、わたしにはその理由が理解できませんでした。通説通り、前期難波宮を近畿天皇家の宮殿とするのであれば、7世紀中頃には大和朝廷が列島の代表者として難波宮に君臨し、全国に評制を施行したことになるからです。白村江戦(663年)で九州王朝が唐・新羅連合軍に大敗する以前に、大和朝廷と王朝交代していたとでも言わない限り、成立しない批判だからです。(つづく)

(注)
①古賀達也「前期難波宮九州王朝副都説の新展開」『東京古田会ニュース』(171号、2016年)で、わたしは次のように訴えた。
〝「副都説」反対論者への問い
 「学問は批判を歓迎する」とわたしは考えています。ですから前期難波宮九州王朝副都説への批判や反論を歓迎しますが、その場合は次の四点について明確な回答を求めたいと思います。
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。
 これらの質問に答えていただきたいと、わたしは繰り返し主張してきました。近畿天皇家一元史観の論者であれば、答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した前期難波宮である、と答えられるのです(ただし4は一元史観では回答不能)。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。残念ながら、この四つの質問に明確に答えられた「副都説」反対論者をわたしは知りません。
 七世紀中頃としては国内最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と遜色ありません。藤原宮や平城宮が「郡制による全国支配」のための規模と朝堂院様式を持った近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「評制による全国支配」のための九州王朝の宮殿と考えるべきというのが、九州王朝説に立った理解なのです。〟
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)に収録。


第2843話 2022/09/24

九州王朝説に三本の矢を放った人々(3)

 「九州王朝説に刺さった三本の矢」の《二の矢》(注①)を強く意識したのは、駒澤大学仏教学部名誉教授の石井公成さんのブログ「聖徳太子研究の最前線」を拝見したことによります。同ブログには聖徳太子研究に関する幅広い知見が記されており、多元史観ではないものの勉強になりました。これまでも「洛中洛外日記」で紹介したことがありました(注②)。
 6~7世紀、九州王朝で仏教が崇敬されていたことは、『隋書』に記された多利思北孤の記事や、九州年号に仏教色の強い漢字(僧要・僧聴・和僧・法清・仁王、他)が用いられていることからもうかがえます。したがって、九州王朝説が正しければ、日本列島を代表する九州王朝の中心領域である北部九州に仏教寺院などの痕跡が日本列島中最密であるはずです。ところが考古学的出土事実は〝6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿〟なのです。これを九州王朝説に突き刺さった《二の矢》としたのですが、わたしがこの問題の深刻性にはっきりと気づいたのが、石井さんのブログ中のやりとりで、九州王朝説支持者からの批判に対して、この《二の矢》の考古学的事実をもって反論されている記事を読んだときでした(注③)。
 この九州王朝説反対論に対する九州王朝説側からの有効な再反論をわたしはまだ知りません。(つづく)

(注)
①《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
②古賀達也「洛中洛外日記」465話(2012/09/10)〝中国にあった聖徳太子書写『維摩経疏』〟
 同「洛中洛外日記」471話(2012/09/23)〝韓昇「聖徳太子写経真偽考」を拝読〟
 同「洛中洛外日記」476話(2012/10/01)〝「三経義疏」国内撰述説〟
 同「洛中洛外日記」477話(2012/10/02)〝「三経義疏」九州王朝撰述説〟
③同「洛中洛外日記」1223話(2016/07/07)〝九州王朝説に突き刺さった三本の矢(3)〟で紹介した。


第2842話 2022/09/23

九州王朝説に三本の矢を放った人々(2)

 わたしには、「九州王朝説に刺さった三本の矢」(注①)の存在をはっきりと意識した瞬間やきっかけがありました。たとえば《一の矢》については、ある科学者との対話がきっかけでした。その科学者とは年輪セルロース酸素同位体比年代測定法の開発者、中塚武さんです。
 2016年9月9日、わたしは服部静尚さんと二人で、京都市北区にある総合地球環境学研究所(地球研)を訪問し、中塚武さんにお会いしました。中塚さんは年輪セルロース酸素同位体比年代測定法を用いて、前期難波宮出土木柱の年輪が7世紀前半のものであることや平城京出土木柱の伐採年が709年であったことなどを明らかにされ、当時、もっとも注目されていた研究者のお一人でした。
 2時間にわたり、中塚さんと意見交換したのですが、理系の研究者らしく、論点がシャープで、九州王朝存在の考古学的事実の根拠や説明を求められました。たとえば、巨大古墳が北部九州よりも近畿に多いことの説明や、7世紀の北部九州に日本列島の代表者であることを証明できる考古学的出土事実の説明を求められました。これこそ、「九州王朝説に刺さった《一の矢》」に相当するものでした。中塚さんは、考古学的実証力(金属器などの出土事実)を持つ邪馬壹国・博多湾岸説には理解を示されたのですが、九州王朝説の説明には納得されなかったのです。
 巨大前方後円墳分布などの考古学事実(実証)を重視するその中塚さんからは、繰り返しエビデンス(実証データ)の提示を求められました。そして、わたしからの文献史学による九州王朝実在の説明(論証)に対して、中塚さんが放たれた次の言葉は衝撃的でした。

 「それは主観的な文献解釈に過ぎず、根拠にはならない。古賀さんも理系の人間なら客観的エビデンスを示せ。」

 中塚さんは理由もなく一元史観に固執する人ではなく、むしろ論理的でシャープなタイプの世界的業績を持つ科学者です。その彼を理詰めで説得するためにも、戦後実証史学で武装した大和朝廷一元史観との「他流試合」に勝てる、史料根拠に基づく強力な論証を構築しなければならないと、このとき強く思いました。(つづく)

(注)
①《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
 《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
 《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。
②酸素原子には重量の異なる3種類の「安定同位体」がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は、樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。この酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。この方法は年輪年代測定のように特定の樹種に限定されず、原理的には年輪がある全ての樹木の年代測定が可能となる。


第2841話 2022/09/22

九州王朝説に三本の矢を放った人々(1)

 古田史学・多元史観、なかでも九州王朝説に対する強力な実証的批判を「九州王朝説に刺さった三本の矢」と名付けて、「洛中洛外日記」を初め諸論文で解説してきました(注①)。「九州王朝説に突き刺さった三本の矢」とは次の三つの考古学的出土事実のことです。

《一の矢》日本列島内で巨大古墳の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《二の矢》6世紀末から7世紀前半にかけての、日本列島内での寺院(現存、遺跡)の最密集地は北部九州ではなく近畿である。
《三の矢》7世紀中頃の日本列島内最大規模の宮殿と官衙群遺構は北部九州(太宰府)ではなく大阪市の前期難波宮であり、最古の朝堂院様式の宮殿でもある。

 《一の矢》については古田先生からの反論がなされており、その要旨は〝朝鮮半島へ出兵していた九州王朝に巨大古墳を造営できる余裕はなく、むしろ畿内の巨大古墳は当地の権力者(近畿天皇家)は朝鮮半島に出兵していた倭国ではないことの証拠である。〟というものでした。また、古田説支持者のなかからは「巨大古墳だから列島の代表王朝の墳墓だとは言えない」という意見もありました。
 しかし、わたしはこの主張では、九州王朝説支持者には納得してもらえても、通説支持者を説得できないと考えていました。列島内最大規模の古墳群を造営できる権力者は、それを可能とできる生産力や権威・権力を有していたと考えるのは、決して無茶なものではなく、むしろ合理的な理解だからです。また、ヤマト王権の命令で九州の豪族を朝鮮半島へ派兵したとする通説も解釈上成り立ち、否定しにくいと思います。
 《二の矢》については、九州王朝の都があった北部九州(筑前・筑後)には廃寺跡が多く、それらが九州王朝による古代寺院群とする意見もありました。しかし、畿内や近畿にも多くの廃寺跡があり、単純比較ではやはり畿内・近畿が古代寺院の最密集地とする通説は揺るぎそうにありません。
 《三の矢》に至っては、わたしが問題視するまでは古田学派内で注目もされてきませんでした。古田先生も前期難波宮を「『日本書紀』に記載されていない天武の宮殿ではないか」とする理解にとどまっておられました。それに沿った論稿も九州王朝説支持者から発表されてきました(注②)。
 この三本の矢は多元史観・九州王朝説にとって避けがたい〝弱点〟を突いており、戦後実証史学(大和朝廷一元史観)を支える強力な考古学的根拠と考え、わたしは古田学派内に警鐘を打ち鳴らしてきました。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」1221~1254話(2016/07/03~08/14)〝九州王朝説に刺さった三本の矢(1)~(15)〟
 同「九州王朝説に刺さった三本の矢」『古田史学会報』135136137号。2016年。
②大下隆司「古代大阪湾の新しい地図 難波(津)は上町台地になかった」「古田史学会報」107号、2011年。