古賀達也一覧

第2316話 2020/12/10

『本居宣長』と『秋田孝季』

 この数日は小林秀雄さんの『本居宣長(もとおり・のりなが)』(新潮社、1977年)を読んでいます。大著ですので、最初に〝斜め読み〟してから、面白そうなところを再読しています。『本居宣長』といえば、村岡典嗣先生の『本居宣長』(警醒社書店、1911年。岩波書店、1928年)が学界では有名です。小林秀雄さんも先の書で次のように評価しています。

 「村岡典嗣氏の名著『本居宣長』が書かれたのは、明治四十四年であるが、私は、これから多くの教示を受けたし、今日でも、最も優れた宣長研究だと思ってゐる。村岡氏は、決して傍観的研究ではなく、その研究は、宣長への敬愛の念で貫かれてゐるのだが、それでもやはり、宣長の思想構造といふ抽象的怪物との悪闘の跡は著しいのである。」小林秀雄『本居宣長』19頁

 いつの頃だったか忘れましたが、古田先生との会話のなかで、村岡先生の『本居宣長』が話題に上ったことがありました。そのとき、古田先生は次のように言われました。

 「村岡先生が『本居宣長』を書かれたように、わたしは『秋田孝季(あきた・たかすえ)』を書きたいのです。」

 秋田孝季は江戸時代の学者で、『東日流外三郡誌』を初めとする和田家文書の編著者です。結局、それは果たせないままに先生は物故されました。ミネルヴァ書房の杉田社長が先の八王子セミナーにリモート参加され、和田家文書に関する著作を古田先生に書いていただく予定だったことを明らかにされましたが、恐らくはそれが『秋田孝季』だったのではないかと推定しています。
 古田先生が果たせなかった『秋田孝季』をわたしたち門下の誰かが書かなければなりません。まずは、和田家文書中の「秋田孝季」関連記事の悉皆調査とデータベース化が必要です。どなたかご協力いただければ幸いです。


第2315話 2020/12/09

波多野精一氏と古田先生の縁(えにし)

 『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)の巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判 ――フィロロギー〟によれば、古田先生はお亡くなりになる二ヶ月前に波多野精一氏の『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでおられたようです。
 歴史学の先達のお名前は古田先生からお聞きすることがよくありましたが、哲学者として高名な波多野精一氏のお名前を古田先生から直接お聞きした記憶はありません。ですから、同巻頭文の終わりに突然のように記された波多野精一氏やその著書『時と永遠』を意外に感じました。そのことが気になりましたので、波多野精一氏のことを調べてみたところ、古田先生と不思議な御縁があることを知りました。
 ウィキペディアには、波多野精一氏を次のように紹介しています。
【フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)】
波多野 精一(はたの せいいち、1877年7月21日~1950年1月17日)は、日本の哲学史家・宗教哲学者。玉川大学第2代学長。
 西田幾多郎と並ぶ京都学派の立役者。早大での教え子には村岡典嗣、東大での教え子には石原謙、安倍能成、京大での教え子には田中美知太郎、小原国芳らがいる。また指導学生ではないが、波多野の京大での受講者で波多野から強い影響を受けたとされる人物に三木清がいる。〔転載終わり〕

 古田先生の恩師の村岡典嗣先生の早大時代の先生が波多野氏だったのでした。そうすると、古田先生は波多野氏の孫弟子に当たるわけです。また、同略年譜によれば、長野県筑摩郡松本町(現:松本市)生まれとのこと。偶然かもしれませんが、古田先生が松本深志高校で教師をされていたこともあり、不思議な縁を感じました。
 恐らく古田先生は波多野氏が村岡先生の恩師だったことをご存じのはずです。水野雄司著『村岡典嗣』(ミネルヴァ日本評伝選、2018年)には、「村岡は、早稲田大学にて波多野に出会い、そして終生、篤く敬慕した。村岡にとっての波多野は、大学時代の一教員には止まらず、学問に挑む姿勢から方向性の指導、そして実際の生活についての支援まで、生涯にわたって支えられた人物となっていく。」とあり、恩師を慕う気持ちと学問精神が引き継がれていることに感銘を受けました。
 なお、村岡先生は終戦後すぐの昭和21年(1946)4月に61歳で亡くなられ、波多野氏は昭和25年(1950)に亡くなっておられます。波多野氏の晩年の著作『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を古田先生がご逝去の直前に読んでおられたことにも、学問が繋ぐ不思議な縁を感じざるを得ません。


第2314話 2020/12/08

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(5)

 景初元年短里開始説の論証に成功した西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)の論文「短里と景初 ―誰がいつ短里制度を布いたのか―」が収録された古田史学の会編『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)は、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)による編集の下、わたしたち「古田史学の会」が作り上げた渾身の一冊です。中でも短里の研究は白眉を為すもので、古田武彦先生の遺稿となった同書巻頭文〝「短里」と「長里」の史料批判 ――フィロロギー〟で、次のような過分の評価をいただきました。

〝「古田武彦はなかった」 ―― いわゆる「学会の専門家」がこの四~五年とりつづけた〝姿勢〟である。
 けれども、この一書(『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』)が出現し、潮目が変わった。新しい時代、研究史の新段階が出現したのである。
 「短里」と「長里」という、日本の古代史の、否、中国の古代史の〝不可欠〟のテーマがその姿をキッパリと姿を現した。
 この八月八日(二〇一五)はわたしの誕生日だ。この一書は、永年の「待たれた」一冊である。

 〔中略〕

 やがてわたしはこの世を去る。確実に。しかし人間の命は短く、書物や情報のいのちは永い。著者が死んだ時、書物が、生きはじめるのである。

 今、波多野精一さんの『時と永遠』(岩波書店、昭和十八年)を読んでいる。
 この時期から今まで、ようやく「短里」と「長里」問題を、実証的かつ論証的に論ずることができる。具体的にそれを証明するための、画期的な研究史にわたしたちは、今巡り合うたのである。
 平成二十七年八月八日校了〟

 同書収録の拙稿「『三国志』のフィロロギー ―「短里」と「長里」混在理由の考察―」の原稿を読まれた古田先生からお電話があり、お褒めの言葉をいただきました。先生のもとで古代史を学び始めて三十年、叱られることの方が多かった〝不肖の弟子〟でしたが、最後にいただいたこのお電話は忘れがたいものとなりました。
 同書の上梓を前に先生は亡くなられ(二〇一五年十月十四日、八九歳)、この巻頭文は遺稿となりました。同書を企画編集された服部さんとミネルヴァ書房の田引さんに感謝申し上げます。(おわり)


第2313話 2020/12/07

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(4)

わたしたち「古田史学の会」関西例会の研究者たちは、景初元年短里開始の論証方法の検討に入りました。そして、関西例会(2015/02/21)で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が〝短里と景初〟というテーマで次のような発表をされました。
西村さんは、魏朝における長里(約435m)から短里(約77m)への変更時期を明帝の景初元年(237)に暦法を「殷制」に変更したときではないかとされ、その史料根拠として『三国志』文帝紀延康元年(220)十月条に見える、「暦」や「度量衡」の変更検討を命じた記事を指摘されました。この改定は文帝の時代には行われた痕跡が無く、その後、明帝の景初元年(237)に暦法が変更されていることから、文帝の命令が明帝の時代に実行されたと考えられたのです。
そして西村さんはこの仮説を証明するために、次のような作業仮説を導入され、それを検証されました。

〔作業仮説〕
1.魏朝における長里から短里への変更が景初元年であれば、それ以前は魏朝でも長里が使用されたはずで、その長里の期間に成立した史料(情報)は長里表記のはずである。

2.陳寿が『三国志』編纂に当たっては、編纂時の公認里単位「短里」で統一するために、長里史料を短里に換算する必要がある。

3.その換算方法として、たとえば1000里や100里の場合、約6倍(435÷77=5.65)しなければならないが、その場合端数が出るので、「数千里」「数百里」と概算値表記とするのが簡便である。(古賀注:1000里とか100里のような「丸められた」数値にかけ算して出た端数は数学の有効桁数としては意味がありませんから、陳寿は「数千里」「数百里」という概算値表記にしたものと思われます。)

4.その簡便な換算方法を陳寿が採用したのであれば、景初元年より前の長里の時代に「数千里」「数百里」という簡便換算表記が、景初元年以後の短里の時代よりも頻出するはずである。

5.この作業仮説が妥当かどうか、『三国志』本文中の全里数表記を調べ、景初元年を境に有意の差があるかどうかを見ればよい。あるいは、長里を使用していたはずの呉や蜀と、短里の時代の魏の景初元年以後との比較で有意の差があるかを見ればよい。

〔検証結果と帰結〕『三国志』本文の全数調査
1.『三国志』本文中の「里」(距離としての「里」のみ)表記中に占める「数○○里」という概算表記の出現比率は次の通りであった。
漢(長里使用)  21.3%(47例中10例)
魏 景初元年より前(長里の時代) 37.5%(16例中6例)
景初元年以後(短里の時代) 5.3%(39例中2例)←激減する!
蜀(長里使用)  33.3%(9例中3例)
呉(長里使用)  40.0%(10例中4例)

2.上記集計結果の通り、『三国志』中の「数○○里」という概算表記出現率は、魏における「短里の時代」である景初元年以後のみ明らかに低い。

3.従って、「短里の時代・領域」の史料(情報)はもともと短里で表記されており、『三国志』編纂時に短里に換算する必要がないので、「数○○里」という長里からの換算による概算表記する必要がなかったと考えるのが妥当である。

4.よって、『三国志』は短里で編纂されているとした古田説は正しいと判断して問題ない。

5.その論理的帰結として、「邪馬台国」畿内説は成立せず、邪馬壹国博多湾岸説の古田武彦説こそ歴史の真実とするべきである。

以上が西村報告の骨子であり、その論理的帰結です。この視点と『三国志』の「里」全数調査により明らかとなった景初元年を境とする〝有意の差〟は、景初元年短里開始説を強く指示しています。これは見事な証明方法と調査結果だと感服したことを憶えています。なお、この西村論証は論文化(「短里と景初 ―誰がいつ短里制度を布いたのか―」)され、古田史学の会編『邪馬壹国の歴史学 ―「邪馬台国」論争を超えて―』(ミネルヴァ書房、2016年)に収録されました。(つづく)


第2312話 2020/12/07

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(3)

 「古田史学の会」関西例会(2015/01/17)で正木裕さん(古田史学の会・事務局長)は、次の記事の「三百餘里」を長里ではないかとされました。

 「青龍四年(中略)今、宛に屯ず、襄陽を去ること三百餘里、諸軍散屯(後略)」(王昶伝、「魏志」列伝)

 この「三百餘里」が記された部分は王昶(おうちょう)による上表文の引用ですが、正木さんは「これは王昶の『上表文』の転記であり、魏の成立以前(漢代)から仕えていた王昶個人は長里を用いていたことがわかる。」とされました。
 わたしは上表文という公式文書に長里が使われるというのは納得できないとしたのですが、その後、魏ではいつ頃から短里に変更したのかという質問が参加者から出され、西村秀己さんが暦法を変更した明帝からではないかとされたことに触発され、この上表文が短里への変更以前であれば長里の可能性があることに気づいたのです。
 そこで『三国志』を調べたところ、明帝は景初元年(237)に景初暦を制定したようですので、このときに短里が公認制定されたとすれば、王昶の上表文が出されたのはその直前の青龍四年(236)ですから、「三百餘里」が長里で記載されていても矛盾はありません。もしそうであれば、陳寿は上表文の文面についてはそのまま『三国志』に引用し、短里に換算することはしなかったことになります。すなわち、魏を継いだ西晋朝の歴史官僚である陳寿はその上表文(あるいはその写本)を見た上で(見なければ『三国志』に引用できません)、皇帝に提出された上表文の文章は変更することはしないという編纂方針を採用したことになります。
 こうして、景初元年短里開始の〝状況証拠〟が確認されたことにより、関西例会の研究者は電話やメールで情報や意見交換を進め、論証方法の検討に入りました。誰が最初に論証に成功するだろうかと注視していたところ、翌月の関西例会(2015/02/21)で西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が驚きの研究結果〝短里と景初〟を発表されました。(つづく)


第2311話 2020/12/06

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(2)

 「古田史学の会」関西例会(2015/01/17)で正木さんが発表された〝「魏・西晋朝短里」は揺るがない〟で、『三国志』に長里が混在する可能性があるケースとして次の諸点をあげられました(古賀からの追加例を含む)。

(1)2定点(出発地と到着地の具体的地名)が示されない里数値の場合。陳寿自身もそれが短里による記録なのか、長里による記録なのかが不明な史料に基づいて引用した可能性があり、長里により記された史料を短里に換算せずに『三国志』に使用した場合。
(2)漢代成立の、あるいは魏朝が短里を公認する前の手紙や上表文、会話記録にあった里数値(長里)をそのまま『三国志』に引用した場合。
(3)長里により成立した成語の場合。短里による成語である「千里の馬」(1日に千里走る名馬)とは逆のケース。
(4)長里を使用していたと考えられる呉や蜀で成立した記録をそのまま引用せざるを得ない場合。たとえば手紙や会話記録。
(5)極めて短距離であり、陳寿自身も長里か短里か判断できない記録を引用した場合。

 これらのケースでは長里が混在する可能性があります。もちろん、その場合でも陳寿は公認の短里で『三国志』を編纂するという姿勢を貫いたはずです。長里記事をどのように引用・記載するべきか、編纂方針を考え抜いたことでしょう(短里に換算するべきか、そのまま記載するべきかなど)。
 正木さんからの、『三国志』長里混在の可能性という問題提起により、魏朝での短里採用時期へと関西例会の論議は進展しました。(つづく)


第2310話 2020/12/05

明帝、景初元年(237)短里開始説の紹介(1)

 本年11月に開催された八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2020)で、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が〝裏付けられた「邪馬壹国の中心は博多湾岸」〟というテーマを発表されました。福岡市の比恵・那珂遺跡の紹介など多彩な研究成果や新情報が紹介され、好評を博しました。
 その質疑応答において、魏朝で短里が使用されたのはいつからかという質問に対して、明帝の景初元年(237)ではないかと正木さんは回答されたのですが、それには史料根拠がなく、論証されていないというような反論が出されました。時間がなかったので、わたしは発言しませんでしたが、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)が既に景初元年(237)短里開始説を論証し、論文発表されていることをご存じないようでした。良い機会ですので、同説の発表経緯も含めてあらためて紹介することにします。
 ことの発端は、約6年前の「古田史学の会」関西例会(2015/01/17)での正木さんの発表〝「魏・西晋朝短里」は揺るがない〟でした。そのとき次のような論議が行われました。
 正木さんからは、「古田の短里説は『魏志』においてさえも成立不能」とする寺坂国之著『よみがえる古代 短里・長里問題の解決』に対して、地図を示し具体的にその誤りを批判されました。また『三国志』に長里が混在した場合、なぜそうなったかの個別の検討が必要とされました。そして、魏朝ではいつから短里を公認制定したのかという質問が参加者から出され、西村秀己さんが「暦法を周制に変更した明帝の時ではないか」とする見解を示されました。(つづく)


第2309話 2020/12/04

古田武彦著『古代通史』が復刻(ミネルヴァ書房)

 ミネルヴァ書房(京都市)から古田武彦著『古代通史』(注①)が復刻されました。ミネルヴァ書房から贈呈していただいた同書には、『東日流外三郡誌』の編著者秋田孝季と和田長三郎の名前が記された寛政宝剣額(注②)のカラー写真(青山富士夫氏撮影)が掲載されており、和田家文書調査のため古田先生と二人で津軽半島を駆け巡った当時を思い出しました。
 同書には復刻にあたり、新たな二編が加えられています。冒頭の青木洋さんによる「復刊によせて」と古田光河さん(ご子息)による「あとがきにかえて」です。青木さんは自作のヨットで世界一周した著名なヨットマンです。倭人が太平洋を横断したとする説を発表された古田先生と懇意にされていた方です。古田光河さんは親子間の会話や想い出が紹介されており、古田先生の新たな一面をうかがい知ることができました。
 その「あとがきにかえて」にも紹介されていますが、同書冒頭の「投石時代から狩猟時代へ」に「論証」という言葉が繰り返し使われています。次の通りです。

 「なぜ違っているのかということの論証が必要」「新しい論証の連続」「論証をもとにして」「論証の連続」「論証が時代別に分かれている」(同書1頁)

 本編冒頭の一頁にこれだけ「論証」という言葉が見えます。古田先生がいかに論証を重視されていたのかおわかりいただけると思います。わたし自身も古田先生に私淑した30年間、次の言葉を繰り返し聞かされました。「論理の導く所へ行こうではないか、たとえそれがいかなるところへ到ろうとも」(注③)。「学問は実証よりも論証を重んずる」(注④)。「論証は学問の命」。これらの言葉の意味は古田先生の著書にも記されていますし、復刻された本書もこの精神で貫かれています。

(注)
①古田武彦『古代通史 古田武彦の物語る古代世界』は原書房から1994年に発刊され、この度、ミネルヴァ書房から「古田武彦古代史コレクション27」として復刻された。
②青森県市浦村の山王日枝神社に奉納された宝剣額。「寛政元年(1789)八月一日」の日付を持ち、秋田孝季と和田長三郎(吉次)が『東日流外三郡誌』完成を祈願したもの。
③古田武彦『真実に悔いなし』(ミネルヴァ書房、2013年)によれば、旧制広島高校時代の恩師岡田甫氏から学んだソクラテスの言葉とのこと。
④村岡典嗣氏のこの言葉は次の論稿にて紹介されている。
 古田武彦「魏・西晋朝短里の方法 中国古典と日本古代史」『文芸研究』100~101号。東北大学文学部、1982年。同論文は『多元的古代の成立・上』(駸々堂出版、1983年)に収録された。
 古田武彦『よみがえる九州王朝 幻の筑紫舞』「日本の生きた歴史(十八)」ミネルヴァ書房、2013年にも紹介されている。


第2308話 2020/12/03

古田武彦先生の遺訓(17)

周代史料の史料批判(優劣)について〈後篇〉

 『竹書紀年』などの伝世史料や金文にも検討すべき問題があり、厳密な意味での同時代史料として取り扱うには克服すべき課題がありました。その結果、現時点で一次史料としての信頼性を有すのは竹簡であることがわかりました。しかし、学術調査で出土した竹簡であればよいのですが、古物商ルートで入手した盗掘品の場合、偽造の可能性もあるので、信頼してもよいものか懸念がありました。
 ところが、古物商ルートで入手したと思われる精華簡『繋年』(注)の場合、放射性炭素同位体年代測定法により紀元前305±30年という数値が発表されています。ですから、戦国期後半の同時代史料といえるのです。
 このように、竹簡の場合は放射性炭素同位体年代測定法により成立年代の確認が可能なため、伝世史料や金文よりも成立年代の信頼性が担保できるというメリットがあります。ただし、竹簡は伝世史料に比べると情報量が少ないため、やはり研究には伝世史料を用心深く使用せざるを得ないのが現実です。このような周代史料の実情を、わたしは定年退職後の勉強の結果知ることができ、ようやく周代暦年研究のスタートラインに立つことができました。(つづく)

(注)精華簡とは北京の「精華大学蔵戦国竹簡」の略で、2388点の竹簡からなる膨大な史料である。このうち、138件からなる編年体の史書が『繋年』と名付けられ、2011年に発表された。西周から春秋時代を経て戦国期までおおむね時代順に配列されており、全23章のうち第1章から第4章までに西周の歴史が記されている。


第2307話 2020/12/02

古田武彦先生の遺訓(16)

周代史料の史料批判(優劣)について〈中篇〉

 主な周代史料には伝世史料(『春秋左氏伝』『周礼』『国語』『竹書紀年』など)、金文(殷周の青銅器に記された文字)、竹簡(精華簡『繋年』など)があります。これらの史料批判として、一般論としては竹簡や金石文などの考古史料が確かな史料として位置づけられるのですが、それほど単純ではないことがわかってきました。
 これはわたしの初歩的なミスだったのですが、当初、『竹書紀年』は出土竹簡に基づいており、信頼性が高いと思っていました。ところが調べてみると、それはとんでもない誤解でした。『竹書紀年』については『中国古代史研究の最前線』(注①)に次のような解説があります。

〝『竹書紀年』は西晋の時代に(注②)、当時の汲郡(今の河南省衛輝市)の、戦国魏王のものとされる墓(これを汲冢と称する)から出土した竹簡の史書であり、夏・殷・周の三王朝及び諸候国の晋と魏に関する記録である。体裁は『春秋』と同様の年代記で、やはり記述が簡潔である。(中略)
 ただし『竹書紀年』は後に散佚したとされており、現在は他の文献に部分的に引用された佚文が見えるのみである。その佚文を収集して『竹書紀年』を復元しようとする試みが清代より行われている。その佚文や輯本(佚文を集めて原書の復元を図ったもの)を便宜的に古本(こほん)『竹書紀年』と称する。
 これに対して、南朝梁の沈約のものとされる注が付いた『竹書紀年』が現存しているが、こちらは一般的に後代に作られた偽書であるとされる。これを古本に対して今本(きんぽん)『竹書紀年』と称する〟157頁

 この説明によれば、今ある『竹書紀年』は三世紀の出土後に散佚し、その千年以上後の清代になって収集されたものであり、元の姿をどの程度遺しているのか、用心してかからなければならない伝世史料なのでした。
 金文についても同様で、同時代金石文と単純にとらえることができないこともわかりました。殷周の青銅器の中には古美術商ルートで出回ったものも少なくなく、偽造の可能性がついてまわります。次に出土であってもその遺構の編年の問題があります。というのも、その時代における青銅器の偽造、あるいは模造という可能性があり、殷周時代との同時代性の確認が必要です。
 このような「周代史料」の実態がわかってきましたので、それでは最も信頼できる史料は何なのかという課題について熟慮しました。(つづく)

(注)
①佐藤信弥『中国古代史研究の最前線』星海社、2018年。
②西晋(265~316年)。


第2306話 2020/12/01

古田武彦先生の遺訓(15)

周代史料の史料批判(優劣)について〈前篇〉

 『論語』が成立した周代における二倍年暦(二倍年齢)研究のために、周代史料について調査勉強を続けてきました。そのなかで各種史料の優劣を見極める作業、史料批判について認識を改めることが多々ありました。そのことについて説明します。
 古田先生の下で研究や現地調査を行う中で、史料批判について具体例をあげて学んだことがありました。その代表的なものは次のようなことでした(順不同)。

①木簡などの同時代史料を優先する。
②より古い史料を優先する。ただし、『三国志』写本のような例外もある(書写年代がより古い紹興本よりも、新しい紹熙本が原文の姿「対海国」「一大国」を遺している)。
③同時代金石文を優先する。ただし、金石文成立時の作成者の意思(作成目的)や認識(当時の常識)の影響を受けており、史実と異なる可能性があることに留意が必要。
④史料性格を分析し、史料作成目的を把握する。
⑤史料内容が関連諸学や安定して成立している先行説と整合しているか。
⑥現代の認識では理解できない、あるいは矛盾し、誤りと思われる内容にこそ、当時の古い姿が遺されているケースもあり、注意が必要。安易に原文改訂してはならない。

 このようなことを折に触れて教えていただきました。文献史学では、まずこの史料に対する目利き(史料批判)が重要です。ところが、周代史料の場合、史料状況がもっと複雑であり、より論理的な深い考察が史料批判に求められていることに気づきました。(つづく)


第2305話 2020/11/30

『東京古田会ニュース』195号の紹介

 本日、『東京古田会ニュース』195号が届きました。同号には拙稿〝「二倍年暦」と「二倍年齢」の歴史学 ―周代の百歳と漢代の五十歳―〟を掲載していただきました。同稿では、中国周代の「百歳」記事と漢代の「五十歳」記事を紹介し、周代の長寿「百歳」と漢代の長寿「五十歳」という、ちょうど二倍になる認識の存在は二倍年暦(二倍年齢)仮説でなければ説明困難としました。
 同号冒頭には田中巌さん(東京古田会・会長)による「会長独言 郷土史の掘り起こしから」があり、地元千葉県佐倉市の農民一揆や義民伝承について報告されていました。わたしの七代前のご先祖、古賀勘右衛門(浮羽郡西溝尻村庄屋)が江戸時代屈指の百姓一揆(久留米藩宝暦一揆)のリーダーであったこともあり、関心を持って読みました。宝暦一揆については、「古田史学の会」HPに拙稿「久留米藩宝暦一揆の庄屋たち 西溝尻村庄屋六郎左衛門と百姓勘右衛門」(『古田史学会報』66号、2005年2月)が掲載されていますので、ご覧いただければ幸いです。