藤原京一覧

第3157話 2023/11/11

八王子セミナー・セッションⅡの論点整理

 今朝は久しぶりに東京に向かう新幹線車中でこの「洛中洛外日記」を書いています。窓側のE席を取れましたので、富士山(注①)が見えることを願っています。ちなみに東海道新幹線から見える名山の一つに、滋賀県と岐阜県に跨がる伊吹山(1,377m)がありますが、今日は青空の下に映えていました。富士山のような秀麗さとは異なり、そのゴツゴツとした威容は、荒ぶる神々を齋くに相応しい名山ではないでしょうか。

 旅の目的地はもちろん八王子市の大学セミナーハウスです。今日、明日と二日間にわたって開催される八王子セミナー(古田武彦記念古代史セミナー2023)に参加するためです。2015年に古田先生が亡くなられて以降「古田武彦記念」と銘打って、はやいもので6回目のセミナーとなりました。

 わたしは明日の午後に行われるセッションⅡ〝遺構に見る「倭国から日本国へ」〟で研究発表「律令制都城論と藤原京の成立 ―中央官僚群と律令制土器―」とパネルディスカッションに参加します。先日、同セッションの司会をされる橘高修さん(東京古田会・副会長)より、論点整理を兼ねたタイムテーブルが送られてきました。セミナーを有意義なものとするためのご配慮です。そうしたお気持ちに応えるべく、提示された三つの論点ごとにわたしの見解を付記し、返信しました。その部分を転載します。〝エビデンス重視〟を念頭に置いたものですが、いかがでしょうか。

【以下転載】
《論点Ⅰ》7世紀前半における倭国と日本国の関係:従属関係か並列関係か
(1) 七世紀前半に「日本国」という名称・領域はなかったと思うので、設問の表現がやや不適切だが、わかりやすく表現したものとのこと。
(2) 七世紀前半の近畿天皇家(ヤマト王権)の実態を示すエビデンスが『日本書紀』に限られ、恣意的な文献解釈による論議となるのではないか。
(3) 九州王朝(倭国)は『隋書』と法隆寺釈迦三尊光背銘などがエビデンスとなる。従って、年号(九州年号)を持ち「天子」「法皇」を名乗る九州王朝と、年号を持たず「大王」「大王天皇」を名乗ったと考えられる近畿天皇家とでは、両者は対等ではなく従属関係と考えるほかない。

《論点Ⅱ》倭国の近畿進出はあったか?あったとすればいつ頃か?
(1) エビデンスは考古学と『宋書』倭国伝(注②)くらいで、いずれもが5世紀における九州王朝(倭国)の東方浸出を示唆している。
(2) 難波(上町台地)は列島支配の拠点である。5世紀における列島最大規模の倉庫群が出土し、王権あるいはその出先機関の倉庫群と考えられている(注③)。九州は博多湾岸の比恵・那珂遺跡が拠点。
(3) 倭京二年(619)に難波に天王寺を創建したと『二中歴』年代歴の細注(注④)に見える。この年代は出土創建瓦の編年による考古学的見解(620年頃)と見事に対応している。九州年号による記事であり、造営主体の「聖徳」は九州王朝の有力者(利歌弥多弗利か)と思われる。
(4) 652年(白雉元年)に前期難波宮が創建され、その規模(列島最大)と様式(国内初の朝堂院様式)から、当時の列島の頂点となる遺構である。その地で、評制による全国の律令制統治が開始された(「難波朝廷、天下立評給時」『皇太神宮儀式帳』注⑤)。
(5) 列島最大規模の条坊都市難波京に食料を増産供給するための巨大灌漑施設「狭山池」(古代で最大規模)が築造されるが、狭山池北堤で検出されたコウヤマキの伐採年が年輪年代測定により616年とされ、狭山池築造年代の根拠となった。築造には水城と同じ敷粗朶工法が採用されており、九州王朝の勢力による、複都難波京造営のための長期的計画的な食糧増産体制が準備されたと考えられる(注⑥)。

《論点Ⅲ》先行条坊は何のために造られたか?造ったのは倭国か天武かそれとも・・?
(1) 藤原京整地層出土土器編年(須恵器坏B出土)と藤原宮下層出土の井戸ヒノキ板の年輪年代測定(682年伐採)などから天武期の造営とするのが最有力(注⑦)。
(2) 飛鳥池出土の「天皇」・皇子(天武の子供たち。大津皇子、舎人皇子、穂積皇子、大伯皇子)・「詔」木簡により、天皇と皇子を称し、「詔」を発していた天武ら(近畿天皇家、後の大和朝廷)による造営とするのが妥当(注⑧)。その他の勢力によるとできるエビデンスはない。
(3) (1)と(2)の史料事実に基づけば、王朝交代の準備として天武・持統らが全国統治のために造営したとする理解が最も穏当である。
【転載おわり】

追伸 今、富士駅を通過しました。富士山は雲に隠れて見えません。残念。復路に期待します。

(注)
①富士山の名前の由来について、下記の「洛中洛外日記」で論じたことがある。
「洛中洛外日記」694話(2014/04/15)〝JR中央線から富士山を見る〟
「洛中洛外日記」882話(2015/02/25)〝雲仙普賢岳と布津〟
「洛中洛外日記」2673話(2022/02/02)〝言素論による富士山名考〟
②『宋書』倭国伝の倭王武上表文中に次の記事が見える。
「東征毛人五十五國、西服衆夷六十六國、渡平海北九十五國」
③南秀雄「上町台地の都市化と博多湾岸の比較 ミヤケとの関連」『研究紀要』第19号、大阪文化財研究所、2018年。
古賀達也「洛中洛外日記」1927話(2019/06/20)〝法円坂巨大倉庫群の論理(5)〟
④「倭京 二年難波天王寺聖徳造」
⑤古賀達也「洛中洛外日記」601話(2013/09/29)〝文字史料による「評」論(3)〟
同「文字史料による『評』論 ―『評制』の施行時期について―」『古田史学会報』119号、2013年。
同「『評』を論ず ―評制施行時期について―」『多元』、145号、2018年。
⑥同「洛中洛外日記」418話(2012/05/27)〝土器「相対編年」と「絶対年代」〟
同「洛中洛外日記」1268話(2016/09/07)〝九州王朝の難波進出と狭山池築造〟
⑦同「洛中洛外日記」2726話(2022/04/22)〝藤原宮内先行条坊の論理 (3) ―下層条坊遺構の年代観―〟
同「洛中洛外日記」3037話(2023/06/09)〝律令制都城論と藤原京の成立(3)〟
⑧同「洛中洛外日記」444話(2012/07/20)〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡〟
同「洛中洛外日記」689話(2014/04/03)〝近畿天皇家の称号〟
同「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」『多元』、155号、2019年。

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8,古代史セミナー2023セッション Ⅱ
遺構に見る「倭国から日本国へ」 次第 古賀達也
 
解説

https://www.youtube.com/watch?v=-CtvQ0eC8MA

このYouTube動画のみ、アドレスの「限定公開」です。


第3138話 2023/10/17

七世紀の都城の朱雀大路の幅

八王子セミナー(11月11~12日、注①)に備えて藤原宮(京)研究を続け、「洛中洛外日記」でも紹介してきました(注②)。そのなかで注目したのが、王宮を起点として南北にはしる朱雀大路の幅の比較です。各条坊都市の道路幅を本稿末尾に掲載しました(調査途中)。朱雀大路の幅は次の通りです。

□朱雀大路幅
【前期難波宮】(652年創建) 側溝芯々間 約33m
【大宰府政庁Ⅱ期】(670年頃。通説では八世紀初頭) 路面幅 約36m  側溝芯々間 約37.8m
【藤原京】(694年に遷都) 側溝芯々間 24m
※藤原宮下層朱雀大路部分 16~17m
※右郭二坊大路(長谷田土壇) 16~17m
【平城京】(710年に遷都) 路面幅か 約75m

わたしが九州王朝の東西の王都(両京制)と考える前期難波宮(652年)と大宰府政庁Ⅱ期(670年頃)の朱雀大路幅(側溝芯々間距離)は約33mと約37.8mであり、時代と共に拡大しますが、その後に創建された藤原宮(694年遷都)は24mであり、縮小します。ところが王朝交代後の大和朝廷の平城京は約75mと最大化しています。

このことから、近畿天皇家が朱雀大路の規模に無関心であったとは考えられません。しかし、王朝交代直前に造営した藤原宮(大宮土壇)は当時最大規模の王宮でありながら、朱雀大路は前期難波宮(約33m)よりも太宰府条坊都市(約37.8m)よりもかなり小さめの24mです。

この出土事実が何を意味し、王朝交代に関する諸仮説のなかで、どの仮説と最も整合するのかを検証することにより、より優れた仮説が明らかとなり、いずれその方向に王朝交代研究が収斂するのではないでしょうか。

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)が参画している。
②古賀達也「洛中洛外日記」3129~3134話(2023/10/02~07)〝藤原京「長谷田土壇」の理論考古学(一)~(五)〟

【前期難波宮道路幅】(652年創建) 側溝芯々間距離
□朱雀大路幅 約33m
□西二路(大路)の幅が約14m

【大宰府政庁Ⅱ期道路幅】(670年頃。通説では八世紀初頭)
□朱雀大路(路面幅) 約36m  (側溝芯々間)約37.8m
□条坊南端の二十二条大路(路面幅) 約8m (側溝芯々間)約10m

【藤原京道路幅】(694年に遷都) 側溝芯々間距離
□朱雀大路 24m
□六条大路(宮城の南を東西に通る) 21m
□二条(坊)・六条(坊)などの偶数大路 16~17m
□三条(坊)・五条(坊)などの奇数大路 9m
□条(坊)大路の中間にある小路 6~7m
※各条・各坊の数値は岸俊男説による。

【平城京道路幅】(710年に遷都)
□朱雀大路 約75m


第3134話 2023/10/07

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学 (五)

 ―「長谷田土壇」下層条坊の有無―

 藤原宮下層から出土した「先行条坊」に対応する「先行王宮」の有力候補に長谷田土壇がなりうるのか、どのような調査で確認できるでしょうか。それには、「長谷田土壇」下層に先行条坊跡があるのかを発掘調査で確認するという方法があります。この場合、西二坊大路の部分だけの調査でも明らかになりますので、大規模な発掘調査は必ずしも必要ではありません。もしかすると、既に対象地区の発掘がなされているかもしれませんので、引き続き調査報告書を探索したいと思います。

 もし、長谷田土壇下に先行条坊がなければ、それは条坊造営時、その地に西二坊大路を跨ぐ大型建築物を創建する計画があったことを意味します。従って、その大型建築物は先行条坊を埋め立てて造営した藤原宮(大宮土壇)に先行するものと判断できます。しかも長谷田土壇からは古瓦が出土しており、近隣には礎石が遺っていることから(注)、瓦葺きで礎石作りの大型建築物が条坊都市造営時に造られた可能性が高くなります。

 逆に、長谷田土壇下層からも先行条坊が検出されれば、藤原宮と同様に条坊完成後にその条坊を埋め立てて創建された建物があったことになります。その場合、瓦葺き礎石造りの建物ですから、寺院の可能性が発生します。しかし、条坊を埋め立ててまで寺院を造る必要があるのか疑問は残ります。条坊道路の枠内に造ればよいのですから。(つづく)

(注)古賀達也「洛中洛外日記」546話(2013/03/31)〝藤原宮へドライブ〟で次の情報を紹介した。
「橿原考古学研究所附属博物館に行き、長谷田土壇の発掘調査報告書の有無について問い合わせましたが、あいにく学芸員の方が不在でしたので、後日連絡していただくことになりました。

 そのとき、長谷田土壇がある醍醐集落から礎石が発見されていることを教えていただきました。礎石は道路沿いの小川の淵に露出しており、見ることができるとのこと」


第3133話 2023/10/06

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学 (四)

 ―「朱雀大路」道路幅の論理―

 藤原宮下層から出土した「先行条坊」に対応する「先行王宮」の有力候補の長谷田土壇ですが、その地に藤原宮(大宮土壇)に先行する王宮が存在していたのか否かは考古学発掘調査により解明できるのですが、当地の調査記録をまだ見いだせていません。表面観察により、土壇が遺り、古瓦が散在するとのことですので(注①)、有力候補地ではあります。そこで、当地が「先行王宮」であったと判断するためにはどのような方法が有効なのかについて考察します。
条坊都市は王宮を中心として、南北に朱雀大路が通り、条坊内の他の大路よりも道路幅が広いことが知られています。藤原宮の場合も同様で、各道路幅は次の通りです。

【藤原京道路幅】側溝中心間距離
□朱雀大路 24m
□六条大路(宮城の南を東西に通る) 21m
□二条(坊)・六条(坊)などの偶数大路 16~17m
□三条(坊)・五条(坊)などの奇数大路 9m
□条(坊)大路の中巻にある小路 6~7m
※各条・各坊の数値は岸俊男説による。

 長谷田土壇の中を南北に通る大路は西二坊大路ですが、その道幅は16~17mです。これは朱雀大路の21mより狭いのですが、藤原宮下層の朱雀大路の位置にある先行条坊の幅は16~17mですので、西二坊大路(偶数大路)と同規格です。従って、条坊造営当初の「先行王宮」を長谷田土壇と考えた場合、その南北大路が他の偶数大路と同規模となり、「先行朱雀大路」にはふさわしくありません。この点は、長谷田土壇説の弱点と言えそうです。

 たとえば、九州王朝の東都(太宰府は西都)と考える前期難波宮の場合、その朱雀大路の幅は約33m(注②)、西二路(大路)の幅が約14m(注③)と推定されており、難波京朱雀大路の幅が藤原京よりも大きいこともわかっています。この〝朱雀大路の幅〟という出土事実は、長谷田土壇「先行王宮」説にとって不利な事実です。そしてそれは、長谷田土壇を九州王朝の王宮跡とする作業仮説の成立も同様に困難にしています。(つづく)

(注)
①木下正史『藤原京 よみがえる日本最初の都城』(中公新書、2003年)には次のように長谷田土壇を紹介する。
「鷺巣神社の真北約一キロ、醍醐町集落の西はずれの小字「長谷田」に、周囲約一八メートル、高さ約一・五メートルの土壇がある。古瓦が出土し、近くで礎石も発見されている。」
②日経新聞web版(2015年4月2日)に次の記事がある。
〝難波京の朱雀大路か 側溝を確認、道幅推定33メートル
大阪市にあった難波京のメーンストリート「朱雀大路」の側溝とみられる溝跡が同市中央区で見つかり、大阪市博物館協会大阪文化財研究所が1日までに明らかにした。これまで見つかっていない難波京朱雀大路の一部の可能性がある。道幅は藤原京(奈良県橿原市、694~710年)の約24メートルを上回り、推定約33メートルとみられるという。
京の中枢部に当たる難波宮は、7世紀中ごろの孝徳天皇の時代から整備された前期と、聖武天皇が726年から造営した後期に分かれる。
昨年の発掘調査で溝を発見。1993年に見つかった前期難波宮の朱雀門跡から南に約140メートルの地点にあった。
溝は幅2.2~2.8メートル、深さ50センチで、長さ南北9メートル分を確認した。位置や方向から朱雀大路の西側溝の可能性が高いと判断した。
同研究所によると、溝は難波宮の中軸線から約16.35メートル離れていることから朱雀大路の幅は推定で約32.7メートルとなる。平城京の朱雀大路の幅は約75メートル。積山洋学芸員は「朱雀大路の跡が実際に見つかり、幅も推定できた意義は大きい」と話している。〔共同〕〟
③平田洋司「四天王寺南方から見つかった難波京条坊跡」『葦火』168号、2014年。


第3132話 2023/10/05

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学 (三)

 藤原宮下層から出土した「先行条坊」により、藤原宮(京)研究は新たな問題に直面しました。それは、藤原宮(大宮土壇、橿原市高殿)よりも藤原京条坊都市が先行して造営されていたことを意味し、それならば条坊造営時には別の場所に「先行王宮」があったのではないかという可能性です。この「先行王宮」候補地として、喜田貞吉が提唱していた長谷田土壇(橿原市醍醐)をわたしは作業仮説として「洛中洛外日記」で提案しました。

 〝藤原宮には考古学的に大きな疑問点が残されています。それは、あの大規模な朝堂院様式を持つ藤原宮遺構の下層から、藤原京の条坊道路やその側溝が出土していることです。すなわち、藤原宮は藤原京造営にあたり計画的に造られた条坊道路・側溝を埋め立てて、その上に造られているのです。
この考古学的事実は王都王宮の造営としては何ともちぐはぐで不自然なことです。「都」を造営するにあたっては当然のこととして、まず最初に王宮の位置を決めるのが「常識」というものでしょう。そしてその場所(宮殿内)には条坊道路や側溝は不要ですから、最初から造らないはずです。ところが、現・藤原宮はそうではなかったのです。この考古学的事実からうかがえることは、条坊都市藤原京の造営当初は、現・藤原宮(大宮土壇)とは別の場所に本来の王宮が創建されていたのではないかという可能性です。
実は藤原宮の候補地として、大宮土壇とは別にその北西にある長谷田土壇も有力候補とされ、戦前から論争が続けられてきました。〟(注①)
〝藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるという点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いびつな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれいな長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。〟(注②)

 他方、一元史観の通説に基づく考古学者たちは、藤原宮下層先行条坊の存在理由に〝苦肉〟の解釈(注③)を試みましたが、いずれも矛盾をかかえており、成功していません。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
②同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
③藤原宮造営予定地に条坊を施工した理由の説明として、藤原宮の位置が条坊敷設当初には決まっていなかったとする説がある(宮地未定説)。先行条坊が宮外の藤原京条坊と同規格で作られており、藤原宮の下層に建物や塀が建てられ、宮外と同じように坪内が利用された時期があり、当初その場所が藤原宮になることが決定していなかったと考える説。しかし、京の造営という国家的計画が、宮地未定のまま進められたというのは不自然。
これに対し、藤原宮は先行条坊を基準に設計されており、先行条坊は宮・京を設計するための測量成果を土地に記すという意味もあり、宮建設予定地に条坊施工がなされていることは不自然ではないとする説もある(測量基準説)。この説では、宮内にくまなく条坊側溝を掘削した理由を説明できない。藤原宮造営時、既に先行条坊の側溝は埋め立てられており、埋め立てから藤原宮の建設開始までには数年の時間があくことも、測量基準説には不都合な事実である。


第3130話 2023/10/03

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学 (二)

 〝もうひとつの藤原宮〟の可能性を持つ「長谷田土壇」(橿原市醍醐)ですが、長谷田土壇説を提起した喜田貞吉の根拠や論理性は優れたものです。喜田の長谷田土壇説について、木下正史さんは著書『藤原京』(注①)で次のように紹介しています。

〝一九一三(大正二)年、喜田は藤原宮と京に関する優れた問題意識と理論を背景に斬新な新説を打ち出す。まず大宝令職員令にみえる左・右両京職の下に「坊令」一二人を置く、という規定に注目する。坊令は四坊ごとに一人置く規定だから、藤原京は南北一二単位、東西は朱雀大路を中心に左右両京をそれぞれ四単位に分割する碁盤目状の街区からなっており、その「坊」の一単位は令大尺の七五〇尺(約二六五メートル)になるはずだ、と考えた。(中略)
大宮土壇を中心として、南北一二条、左右京各四坊の京の範囲を現地に当てはめると、左京のかなりの部分が香具山などの丘陵地にかかってしまう。喜田は、藤原京=大宮土壇説は不都合だと考え、『扶桑略記』などが記す「鷺巣坂」に注目する(注②)。(中略)式内社鷺巣神社は、畝傍・香具山両山のほぼ中央にあり、ここに朱雀大路が通っていたのではないか。神社の北にある小字「門の脇」は朱雀門に関わる地名だろう。鷺巣神社の真北約一キロ、醍醐町集落の西はずれの小字「長谷田」に、周囲約一八メートル、高さ約一・五メートルの土壇がある。古瓦が出土し、近くで礎石も発見されている。「長谷田土壇」は藤原宮の建物跡で、大宮土壇は記録に残っていない寺院跡とみるべきだろう。〟『藤原京』14~16頁

 このように喜田の長谷田土壇説を説明し、木下さんは次のように絶賛します。

 〝喜田説は、地形や地名、古代の道路、文献史料などを綿密に、また多角的に検討し、それらを総合して打ち出した説得力ある論考であった。(中略)藤原京の構造復元に果たした意義は大きく、今なお光彩を放つ研究成果である。〟『藤原京』18頁

 わたしもこの見解に賛成です。そしてこの喜田の長谷田土壇説の再評価をうながす発見がありました。それは大宮土壇の藤原宮下層から出土した「先行条坊」です。この発見は、決着を見たはずの「藤原宮」所在地論争の新たな出発点となりました。(つづく)

(注)
①木下正史『藤原京 よみがえる日本最初の都城』中公新書、2003年。
②『扶桑略記』や『釈日本紀』によると、藤原宮は「鷺巣坂」の北にあると記されている。


第3129話 2023/10/02

藤原京「長谷田土壇」の理論考古学(一)

八王子セミナー(11月11~12日、注①)の開催日が近づいてきました。同セミナーで討議予定の藤原宮(京)研究において、特に注目されている〝もうひとつの藤原宮〟問題、「長谷田土壇」について論究することにします。

藤原宮の所在地については江戸時代ら大宮土壇(橿原市高殿)が有力視されてきましたが、喜田貞吉(注②)が長谷田土壇説(橿原市醍醐)を発表し、その根拠や論理性が優れていたため、論争へと発展しました。その後、大宮土壇の発掘が開始され、大型宮殿遺構が出土したことにより、この論争は決着がつき、今日に至っています。

しかし、わたしは喜田貞吉の指摘した論理性は今でも有力とする見解を「洛中洛外日記」(注③)で表明しました。

〝藤原宮を「長谷田土壇」とした喜田貞吉説の主たる根拠は、大宮土壇を藤原宮とした場合、その京域(条坊都市)の左京のかなりの部分が香久山丘陵にかかるという点でした。ちなみに、この指摘は現在でも「有効」な疑問です。現在の定説に基づき復元された「藤原京」は、その南東部分が香久山丘陵にかかり、いびつな京域となっています。ですから、喜田貞吉が主張したように、大宮土壇より北西に位置する長谷田土壇を藤原宮(南北の中心線)とした方が、京域がきれいな長方形となり、すっきりとした条坊都市になるのです。
こうして「長谷田土壇」説を掲げて喜田貞吉は「大宮土壇」説の学者と激しい論争を繰り広げます。しかし、この論争は1934年(昭和九年)から続けられた大宮土壇の発掘調査により、「大宮土壇」説が裏付けられ、決着を見ました。そして、現在の定説が確定したのです。しかしそれでも、大宮土壇が中心点では条坊都市がいびつな形状となるという喜田貞吉の指摘自体は「有効」だと、わたしには思われるのです。〟(つづく)

(注)
①正式名称は「古田武彦記念古代史セミナー2023」。公益財団法人大学セミナーハウスの主催。実行委員会に「古田史学の会」(冨川ケイ子氏)が参画している。
②喜田貞吉(きた・さだきち、1871~1939年)は、第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた。法隆寺再建論争で、再建説を主張したことは有名。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟


第3106話 2023/09/07

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (7)

 喜田貞吉の明治から昭和にかけての次の三大論争からは、喜田の鋭い批判精神と同時に、その「学問の方法」の限界も見えてきました。

Ⅰ《明治~昭和の論争》法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》 「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》藤原宮「長谷田土壇」説

 文献を重視した喜田の批判精神、〝燃えてもいない寺院を燃えたと書く必要はない〟〝何代も前の天皇を「当今」と呼ぶはずがない〟は問題の本質に迫っており、古田史学に相通じるものを感じますが、更にそこからの論証や実証を行うという、古田先生のような徹底した「学問の方法」が喜田には見られません。

 法隆寺再建論争で、喜田が「法隆寺(西院伽藍)の建築様式は古い」という非再建説の根拠を直視していれば、自らの再建説の弱点に気づき、移築説へと向かうことも、喜田ほどの歴史家であればできたはずです。喜田の再建説では、たとえば五重塔心柱伐採年の年輪年代値594年という、没後に明らかになった新事実にも応えられないのです。

 「教行信証」論争でも同様です。執筆時点の天皇しか「当今」とは呼ばないと、正しく批判しながら、その一見矛盾した史料事実の説明に〝教行信証は他者の代作〟〝親鸞、無学の坊主〟という安直な「結論」で済ませてしまいました。もう一歩進んで、そのような矛盾した史料状況が発生した理由を考え抜くための「学問の方法」に、なぜ喜田は至らなかったのでしょうか。時代的制約だったのかも知れませんが、残念です。

 藤原宮「長谷田土壇」論争では、大宮土壇からの藤原宮跡出土により、大宮土壇から長谷田土壇への藤原宮移転説に喜田は変更しました。しかし、藤原宮下層条坊の出土により、この移転説も説明困難となりました。もし移転であれば、〝条坊都市中の別の場所から大宮土壇への移転〟を藤原宮下層条坊の出土事実が示唆するからです。こうした問題を解明するのは、冥界の喜田ではなく、古田史学・多元史観を支持するわたしたち古田学派研究者の責務です。

 わたしは10年前から、「大宮土壇」と「長谷田土壇」の二つの〝藤原宮〟があったのではないかとする仮説を提起してきました(注)。本年11月の八王子セミナーでは、この藤原宮問題が論じられる予定です。喜田や古田先生の批判精神と学問の方法を継承するためにも、研究発表やディスカッションに臨みたいと思います。

(注)
古賀達也「二つの藤原宮」2013年3月の「古田史学の会・関西例会」で発表。
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/28)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
同「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3102話 2023/09/01

喜田貞吉の批判精神と学問の方法 (6)

 喜田貞吉の、明治から昭和にかけての次の三大論争は、その当否とは別に重要な学問的意義を持っています。

Ⅰ《明治~昭和の論争》 法隆寺再建・非再建論争
Ⅱ《大正の論争》    「教行信証」代作説・親鸞「無学の坊主」説
Ⅲ《大正~昭和の論争》 藤原宮「長谷田土壇」説

 喜田の三大論争のうち、真の意味で決着がついたのは、古田先生が参画したⅡ「教行信証」論争だけのように、わたしには見えます。それらの概略は次の通りです。

Ⅰ. 法隆寺論争は、昭和14年の若草伽藍の発掘調査で火災跡が発見されて、喜田の再建説が通説となった。再建問題では喜田指摘の「勝利」だが、西院伽藍が古いとする建築史学の指摘は、五重塔心柱の年輪年代で復活。真の決着はついていない。米田説(移築説)が有力。

Ⅱ.『教行信証』は親鸞自筆坂東本(東本願寺蔵)の筆跡調査により、親鸞真作が確かめられた。「今上」問題での喜田指摘は有効だったが、古田先生の科学的筆跡調査(デンシトメーター)により、親鸞〝無学の坊主〟説は「惨敗」。

Ⅲ. 藤原宮論争は大宮土壇説(出土事実)で決着したわけではない。真の論争はこれから。なぜなら〝大宮土壇では京域の南東部が大きく香久山丘陵に重なり、条坊都市がいびつな形となる〟とする喜田の指摘は今でも合理的だからだ。

 それぞれの論争に深い学問的意義、特に「学問の方法」において示唆や教訓が含まれています。何よりも喜田の文献(執筆者の意図・認識)を尊重する史学者の良心と、文献を軽視する姿勢(注)への批判精神は、古田先生の学問精神に通じるものを感じます。(つづく)

(注)たとえば「偽書説」など、その主観的な定義を含めて〝文献を軽視する姿勢〟の一種と見なしうる。これは文献史学における重要な問題であり、別に詳述する機会を得たい。


第3039話 2023/06/11

律令制都城論と藤原京の成立(4)

 ―「倭京」の成立と論理―

 新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』(注①)には、藤原宮(大宮土壇)に先行して造営された条坊は「倭京条坊」であり、〝藤原京以前に「倭京」と呼ばれた条坊都市が当地にあった〟とする仮説が示されています(注②)。そして、「倭京」創建を孝徳期~斉明期とします。その根拠として、『日本書紀』孝徳紀や天武紀などに見える「倭京」記事を挙げています。ですから、この仮説は文献史学の分野である『日本書紀』の新解釈に依っており、考古学的エビデンスを根拠としたわけではありません。
古田学派では倭京を九州王朝の王都、太宰府条坊都市のこととする理解が主流です(注③)。その根拠は九州年号の「倭京(618~622年)」です。また、「倭京」の直前の年号「定居(611~617年)」も、倭京造営にあたり、多利思北孤がその地を王都建設予定地に定めたことによると理解されています(注④)。従って、倭京とは7世紀前半に造営された倭国の新都(太宰府条坊都市)の名称であり、それに伴う九州年号と考えられています。
他方、『日本書紀』には孝徳白雉四年(653)~天武元年(672)の期間にのみ「倭京」記事が散見します。これらの倭京記事を根拠に「倭京条坊」の造営時期を孝徳期~斉明期とされたようですが、「孝徳白雉四年(653)」の頃は太宰府条坊都市「倭京」が九州王朝(倭国)の王都として機能していたと考えられますから、『日本書紀』に見える「倭京」を「藤原宮先行条坊にあった京」のことと理解するのは困難ですし、論証も成立していません。これは『日本書紀』の記事を史実として、そのまま信用してもよいのかという、文献史学における論証の問題であり、新庄説は論証不十分と云わざるを得ないのです。
もちろん、『日本書紀』編者は九州年号の「倭京」を知っているはずですし、九州王朝の国名が「倭」であったことも知っています。そして王朝交代直前の7世紀末頃には、自らの中枢領域である大和を「倭国」と称したことが藤原宮出土「倭国所布評」木簡により判明しています(注⑤)。『日本書紀』の史料批判や論証はこうしたことを前提に行わなければなりません。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②湊哲夫『飛鳥の古代史』(星雲社、2015年)94~111頁に類似の諸仮説が紹介されている。
③古賀達也「よみがえる倭京(太宰府) ─観世音寺と水城の証言─」『古田史学会報』50号、2002年。『古代に真実を求めて』12集(明石書店、2009年)に再録。
『発見された倭京 ―太宰府都城と官道』(『古代に真実を求めて』21集)明石書店、2018年。
④同「太宰府建都年代に関する考察 九州年号『倭京』『倭京縄』の史料批判」『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房。2012年)所収。
正木 裕「盗まれた遷都詔 聖徳太子の『遷都予言』と多利思北孤」『盗まれた「聖徳太子」伝承』(古田史学の会編・明石書店。2015年)所収。
⑤古賀達也「洛中洛外日記」447話(2012/07/22)〝藤原宮出土「倭国所布評」木簡〟
同「洛中洛外日記」464話(2012/09/06)〝「倭国所布評」木簡の冨川試案〟
同「藤原宮出土『倭国所布評』木簡の考察」『東京古田会ニュース』168号、2016年。


第3037話 2023/06/09

律令制都城論と藤原京の成立(3)

 新庄宗昭さんが『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』(注①)で発表された諸仮説の大半については、わたしも同意見です。他方、新庄説のなかでも最も賛成できないテーマが、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期(新庄説)とするのか、天武期(通説)とするのかです。最大で約30年もの差異がありますので、考古学的出土物(エビデンス)により、どちらが妥当かは明らかになると思います。

 藤原宮と藤原京の造営経緯を簡単に言えば、藤原京条坊造営開始が先行し、一旦造った条坊道路や側溝などを埋め立てて、その上に藤原宮(大宮土壇)が造営されています。通説ではその年代を、天武期に条坊の造営が開始され、持統期に藤原宮が創建されたとします。

この年代観の根拠となったのが、藤原宮下層から出土した干支木簡です。「壬午年」「癸未年」「甲申年」と干支で年紀を記した木簡が三点あり、天武十一年(682)、天武十二(683)、天武十三年(684)に相当します。これらの木簡は藤原宮下層の大溝底部堆積層から出土しており、この大溝は藤原宮下層条坊道路を掘削して造られたことが判明しています。従って、下層条坊の造営開始は天武十三年以前と考えることができ、更に下層遺構出土土器が藤原宮時代(694~710年頃)の土器よりも古い様相を示していることも、干支木簡の年次と整合しています。

 更に下層条坊遺構(西方官衙南区画外)の井戸に使用されたヒノキ板が出土しており、年輪年代測定により682年に伐採されたことがわかっています。また、下層条坊の側溝出土土器(須恵器坏B)の年代観からも、「七世紀第三・四半期より早くはならない。」(注②)と見られています。考古学エビデンスである干支木簡(683~684年)や年輪年代(682年伐採)、出土土器(須恵器坏B)編年に基づけば、下層条坊の造営は天武期頃とするのが適切であり、孝徳期・斉明期とするのはさすがに無理とわたしは考えています(注③)。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②木下正史『藤原京』中公新書、2003年。
③古賀達也「藤原宮下層条坊と倭京」『多元』172号、2022年。


第3033話 2023/06/06

律令制都城論と藤原京の成立(2)

新庄宗昭さんの力作『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』を改めて精読しました(注①)。新庄説と通説との最大の違いは、藤原京条坊の造営開始年代を孝徳期~斉明期とすることです。通説では天武期とします。最大で約30年もの差異がありますが、わたしは通説を支持しています。この問題については後述することにして、新庄説とわたしの説の一致点に興味を覚えました。両者には次のような一致点があります。

【新庄説と古賀説の一致点】
(1) 前期難波宮(難波京)を九州王朝(新庄さんは「上位権力X」「鼠」「倭」と表現)による652年創建の王宮・王都とする。(注②)
(2) 藤原京条坊(新庄さんは「先行条坊」「倭京条坊」と表現)創設当初の中枢遺構が長谷田土壇にあった可能性(喜田貞吉説)を指摘。(注③)
(3) 持統紀に見える「新益京」を、藤原宮(大宮土壇)創建により、同宮を周礼型の中心地となるように京域を拡大したことによる名称とする。(注④)
(4) 難波(難波津)には前期難波宮創建以前に既に九州王朝が進出していた。(注⑤)

以上の一致点は九州王朝説にとっていずれも重要なテーマであり、新庄説の登場はとても心強く思いました。(つづく)

(注)
①新庄宗昭『実在した倭京 ―藤原京先行条坊の研究―』ミネルヴァ書房、2021年。
②古賀達也「前期難波宮は九州王朝の副都」『古田史学会報』85号、2008年。『「九州年号」の研究』(古田史学の会編・ミネルヴァ書房、2012年)に収録。
③古賀達也「洛中洛外日記」544話(2013/03/28)〝二つの藤原宮〟
同「洛中洛外日記」545話(2013/03/29)〝藤原宮「長谷田土壇」説〟
④同「洛中洛外日記」547話(2013/04/03)〝新益京(あらましのみやこ)の意味〟
⑤同「洛中洛外日記」1268話(2016/09/07)〝九州王朝の難波進出と狭山池築造〟
「難波の都市化と九州王朝」『古田史学会報』155号、2019年。