九州年号一覧

第468話 2012/09/17

「三経義疏」の比較

 韓昇さんの「聖徳太子写経真偽考」(『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』所収)で紹介された『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊の鳩摩羅什訳『維摩詰経』巻下残巻の末尾に次の記事があります。

「経蔵法興寺
 定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 九州年号の「定居元年」が見え、この部分は後代の追記(偽作)とされているようですが、それほど単純な問題ではないとわたしは思っています。というのも、聖徳太子書写と偽って史料価値を高めるための偽作であれば、もっと違った追記となるのではないでしょうか。
 たとえば「経蔵法興寺」の部分ですが、聖徳太子のお寺といえば、やはり「法隆寺」でしょう。『法華義疏』(皇室御物)や『勝鬘経義疏』(鎌倉時代版本) が法隆寺に伝来していたのですから、後代追記(偽作)するのであれば「経蔵法隆寺」とするでしょう。従って「経蔵法興寺」とあるのは偽作の証拠ではなく、 逆に偽作ではないという心証を得るのです。
 次に「定居元年歳辛未上宮厩戸写」の部分ですが、これも偽作するのであれば、聖徳太子によるとされた「三経義疏」のうち、他の『勝鬘経義疏』(法隆寺蔵 鎌倉時代版本)や『法華義疏』(皇室御物。法隆寺旧蔵)と同じような下記の追記がなされるのではないでしょうか。

 「此是 大委国上宮王私
     集非海彼本」『法華義疏』

 「此是大倭国上宮
  王私集非海彼本」『勝鬘経義疏』

 これらは両義疏冒頭に記されているのですが、いずれも上宮王が私に集めたもので、「海彼」(外国からもたらされた)の本ではないことを意味しています。すなわち、上宮王が書写したり著述したものとはされていません。
 ところが、今回紹介された『維摩経義疏』は「上宮厩戸写」と記されており、他の二疏とは明らかに異なっています。これなども、偽作の手口としてはおかし なもので、逆に偽作ではなく、真作あるいは何らかの根拠があってこうした記事を追記したのではないかと考えられるのです。(つづく)


第465話 2012/09/10

中国にあった聖徳太子書写『唯摩経疏』

 名古屋市の服部和夫さん(古田史学の会・会員)から大変興味深い情報がもたらされました。聖徳太子が書写したとされる 『唯摩経疏』断簡が中国にあるというのです。服部さんからご紹介いただいたホームページ「聖徳太子研究の最前線」(石井公成・駒沢大学仏教学部教員)によると、『東と西の文化交流(関西大学東西学術研究所創立50周年記念国際シンポジウム’01報告書)』に韓昇さんの中国語論文「聖徳太子写経真偽考」が収録されており、そこには『北京大学図書館蔵敦煌文献』第二冊に鳩摩羅什訳『唯摩詰経』巻下残巻があることが報告されています。
 その『唯摩詰経』巻下残巻(17字×127行)の末尾に次のような記載があり、九州年号の「定居元年(611)」が見えるのです。

「経蔵法興寺
 定居元年歳辛未上宮厩戸写」

 韓昇さんの見解では、本文は唐代のものの可能性があるが、末尾の文章は中国人による偽作(後代追記)とされているようです。 同論文や『北京大学図書館蔵敦煌文献』をわたしはまだ見ていませんので、この『唯摩経疏』が聖徳太子の書写によるものかどうか、ただちに判断はできませんが、九州年号の「定居元年」や「経蔵法興寺」などの記事は興味深いものです。取り急ぎ、みなさんに紹介し、わたしも分析検討をすすめていきます。(つづ く)


第461話 2012/09/02

九州歴史資料館(小郡市)を初訪問

 昨日、久留米大学公開講座で講演を行いました。「久留米は日本の首都だった — 九州王朝史概論」というテーマで、講演冒頭に「久留米は日本の首都 だった」という胡散臭い演題ですので疑いながら聞いてください、と前置きして中国史書(隋書・旧唐書)に見える「倭国」「日本国」について説明しました。
 おかげさまで、大勢のみなさまに御聴講いただき、盛会でした。最後の質疑応答の時間も、次から次へとご質問をいただき、かなり時間オーバーとなってしまい、主催者にご迷惑をおかけしたのではないかと思っています。久留米大学の福山先生やご協力いただいた久留米地名研究会の古川さんらに御礼申し上げます。
 その前日の8月31日には、弟(古賀直樹)の案内で小郡市に移転した九州歴史資料館を初訪問しました。以前は太宰府市にあったのですが、新しくできた同館にはまだ行ったことがありませんでした。当初は太宰府市の国立九州博物館に行くつもりでしたが、ネットで展示内容を調べたところ、それほど関心のある内容ではなかったので、九州歴史資料館訪問に急遽変更したのです。
 この判断は大正解で、わたしが見たかった太宰府や観世音寺関連の遺物が多数展示してあり、大変勉強になりました。特に、大野城出土「孚石都」刻字木柱、 観世音寺や大宰府政庁2期編年の根拠とされた老司式瓦などが実見できて感動しました。いずれも九州王朝にふさわしい優美さを感じられました。同館入場料は 200円(駐車場は無料)と良心的です。是非、皆さんも訪問されてはいかがでしょうか。まだ真新しくとても美しい建物です。ただし、遺跡や遺物の「解説」 はみごとに旧来の大和朝廷一元史観に基づいていますので、この点は期待されないほうがよいと思います。


第460話 2012/08/29

九州年号改元の手順

 先日、正木裕さん(古田史学の会・会員)が見えられ、最近の研究テーマや話題について意見交換しました。主な話題は札幌市の阿部周一さんが「発
見」された九州年号群史料『日本帝皇年代記』でした。二人ともこのような史料がまだ残されていたことに驚き、おそらくわたしたちがまだ知らない史料が各地に遺されているであろうことなどを話し合いました。古田学派の研究者の数がもっと増え、切磋琢磨して研究レベルを上げることができれば、こうした史料発掘や研究がさらに進むことでしょう。今回の阿部さんの史料発掘には感謝の気持ちでいっぱいです。

 「洛中洛外日記」第459話でご紹介した九州年号改元記事(各地からの白雉などの献上に基づいて改元されたという記事)について、わたしの見解を述べたところ、正木さんからするどい指摘がなされました。それは、改元の動機と手順についての基本的な論理性についてでした。

 正木さんが指摘されたのは、白雉や赤雀・赤雉が献上されたから、白雉・白鳳や朱雀・朱鳥に改元されたのではなく、まず改元の動機となる事件(国家的災難・吉兆や辛酉改元の慣習など)が発生し、ついで改元予定の発表があり、それに基づいて各地から献上品が届けられ、その上で新元号が定められ、最後に改元の詔勅が公布されるのではないか、という考え方です。

 細かい点はいろいろとあるにせよ、基本的に改元とはこうした行政手続きを経て行われるというのは、ある意味で当然のことと思いました。この正木さんの指摘は大変するどいものといわざるを得ません。おそらく、九州王朝内で改元の検討が始まったとき、各地でそれにふさわしい献上品が選択され、九州王朝に競って献上されたのではないでしょうか。新元号の根拠とされた品を献上した国に対しては、昇進や褒美、あるいは課役の免除が行われるからです。『日本書紀』の白雉改元記事を見ても、このことは明らかです。

 この正木さんが指摘された「改元手順の論理性」のおかけで、わたしはある疑問の解決案を思いつきました。それは芦屋市出土の「元壬子年」木簡について抱いていた疑問です。同木簡が九州年号の白雉元壬子年(652)を意味することは疑えないのですが、その記載内容や「書式」に疑問をわたしはずっと抱いていたのです。その疑問の一つは、「元壬子年(以下欠)」と書かれた面と、その裏面の「子卯丑□何(以下欠)」という文字列の書き出しがずれていることです。具体的には「元壬子年」の文字が、裏面の文字列より一字分下にずれて書かれているのです。そのため、「元壬子年」という文字列の上にはかなりの空白があり、「白雉」という年号を記すスペースは十分あるにもかかわらず、何故か空白となっていることに、わたしは疑問を感じていました。

 この疑問に対して、今回の正木指摘に基づいて考えると、この「元壬子年」木簡が記された時点では、新年号は未定だったのではないかという可能性と新理解が浮かんだのです。改元の予告と、新元号が決定されるまでの期間にこの木簡が作られた場合、未定の新年号部分を意図的に空白にしたと考えたのです。そのように考えた場合、この木簡の史料状況がうまく説明できるのですが、いかがでしょうか。

 さらにももう一つの疑問ですが、この木簡の上部は半円形に加工されており、いわゆる荷札木簡とは形状が異なっています(下部は欠損)。おそらくこの木簡は手に持っての使用を想定されたもので、改元に関わる儀礼・儀式に用いられたのではないでしょうか。意味不明の「子卯丑□何」という記載もこうした視点からの検討が必要と思われます。

 阿部さんの史料発掘や正木さんの改元手順の指摘のおかげで、新たな理解に至ることができ、さらなる展開が期待できそうです。


第459話 2012/08/26

『日本帝皇年代記』の九州王朝記事

 阿部周一さん(古田史学の会・会員)から教えていただいた『日本帝皇年代記』は様々な史料を寄せ集めて編集されていますが、その中に九州王朝系史料からの引用と思われるものが散見されます。それらの史料批判により九州王朝史の復元に寄与できそうです。それら九州王朝記事についてご紹介します。
 九州王朝系記事として注目さるのが、白雉・白鳳・朱雀・朱鳥の九州年号改元記事です。白雉は「壬子白雉」(652)の下の細注に「依長門国上白雉也」と、長門国からの白雉献上に基づいて改元したとあります。この白雉献上記事は『日本書紀』の「白雉元年」(庚戍・650)二月条に記されているのですが、 『日本帝皇年代記』には九州年号の白雉元年(652)に記されており、本来の九州年号史料に基づいていると考えられます。なお、『日本書紀』の白雉改元記事が二年ずらして盗用されていることに関しては、拙論「白雉改元の史料批判」(『「九州年号」の研究』所収)をご参照ください。
 次に白鳳改元記事ですが、「辛酉白鳳」(661)の細注に「依備後国上白雉也」とあり、備後国からの白雉献上に基づいて白鳳に改元したとされています。これは『日本書紀』にも見えない記事で、九州王朝系記事として貴重です。
 朱雀改元記事では、「甲申朱雀」(684)の細注に「依信濃国上赤雀為瑞」と、信濃国からの赤雀献上が記されています。これも『日本書紀』には見えない記事です。
 朱鳥改元でも、「丙戍朱鳥」(686)の細注に「依大和国上赤雉也」とあり、この大和国からの赤雉献上記事も『日本書紀』には見えません。これは九州王朝への赤雉献上記事ですが、近畿天皇家一元史観では「大和の朝廷」への「大和国」からの献上となり、不自然な感じがあります。
 この他にも、『日本帝皇年代記』には九州王朝系記事が見られますので、別途、『古代に真実を求めて』に小論を投稿したいと思います。


第458話 2012/08/25

『日本帝皇年代記』の九州年号

 昨日の深夜、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)からメールが届きました。『日本帝皇年代記』(鹿児島県、入来院家所蔵未刊本)のことが紹介されており、その中に九州年号が使用されていることや、白鳳10年条(670)に「鎮西建立観音寺」という記事があることなどをお知らせいただきました。『日本帝皇年代記』という年代記はわたしも初めて聞くもので、阿部さんもインターネット検索で「発見」されたとのこと。
 さっそく、お知らせいただいた長崎大学リポジトリ(山口隼正「『日本帝皇年代記』について:入来院家所蔵未刊年代記の紹介」2004.03.26)を閲覧したところ、たしかに今まで見たことのないタイプの九州年号群史料でした。神代の時代から始まり、歴代天皇へと続く年代記ですが、九州年号の善記元年(522)からは九州年号を用いた編年体年代記となり、大化6年(700)までは九州年号を、それ以降は近畿天皇家の大宝年号へと続いています。
 多くの史料から集められた様々な和漢の記事が記されている年代記ですが、なかでもわたしが注目したのは、阿部さんも指摘された白鳳10年(670)の 「鎮西建立観音寺」という記事でした。太宰府の観世音寺創建年を記す貴重な記録ですが、同様の記事が山梨県の『勝山記』に見えることは既にご紹介してきたところです。観世音寺白鳳10年建立を記した史料が、山梨県から遠く離れた鹿児島県の入来院家所蔵本『日本帝皇年代記』にも記されているという史料状況は、観世音寺白鳳10年建立の記事が誤記誤伝の類ではなく、九州王朝系史料に確かに存在していたことを指し示すものです。同年代記の「発見」により、観世音寺白鳳10年建立説は創建瓦の編年との一致も含め、ますます確かなものになったといえます。(つづく)

参考

『日本帝皇年代記』について : 入来院家所蔵未刊年代記の紹介(上) PDF


第448話 2012/07/28

松山市出土「大長」木簡

 芦屋市出土の「元壬子年」木簡が九州年号の白雉「元壬子年」(652年)木簡であることは、これまでも報告してきたところですが、当初、この木簡は「三壬子年」と判読され、『日本書紀』の「白雉三年」のこ とと『木簡研究』などで報告されており、九州年号群史料として有力史料と判断していた『二中歴』とは異なっていました。

 わたしは奈良文化財研究所HPの木簡データベースでこの木簡の存在を知ったとき、この「白雉三年」との説明に驚きました。『二中歴』を最も有力な九州年 号史料としていた自説と異なっていたからです。そこで、わたしはこの木簡を徹底的に調査実見し、その「三壬子年」と判読されてきたことが誤りであり、「元 壬子年」と書かれていたことを発見したのでした。

 このとき、わたしは自説に不利な史料から逃げずに、徹底的に立ち向かって良かったと思いました。このときの体験は、わたしの歴史研究生活にとって、大きな財産となりました。

 それ以後も九州年号木簡を探索してきましたが、奈良文化財研究所の木簡データベースを閲覧していて、もしかすると九州年号木簡かもしれない木簡を見いだしましたので、ご紹介します。

 それは愛媛県松山市の久米窪田II遺跡から出土した木簡で、「大長」という文字が書かれているようなのです(前後の文字は判読不明。「長」の字も推定の ようです)。最後の九州年号「大長」(704~712年)の可能性もありそうですが、断定は禁物です。人名の「大長」かもしれませんし、法華経など仏教経 典の一部、たとえば「大長者」の「大長」という可能性も小さくないからです。

 『木簡研究』第2号によれば、「大長」木簡は1977年に出土しており、その出土層は八世紀初期を前後するものとされており、まさに九州年号の大長年間(704~712年)にぴったりなのです。

 こうなると、実物を見る必要がありますので、松山市の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)に連絡し、愛媛県埋蔵文化財センターに問い合わせていた だいたところ、同木簡は「発掘へんろ」巡回展に出されており、現在は高知県で展示されていることがわかりました。そのため、同木簡が愛媛県に戻るのは来年三月とのこと。

 残念ながら、それまでは本格的な調査はできませんが、九月には香川県で展示されるようですので、せめてガラス越しにでも見に行こうと思っています。


第420話 2012/06/02

「はるくさ」木簡の考察

 難波宮編年の勉強を続けていて気がついたことがあります。それは難波宮南西地点から出土した「はるくさ」木簡に関することです。第352話「和歌木簡と九州年号」でもふれましたが、万葉仮名で「はるくさのはじめのとし」と読める歌の一部と思われる文字が記された木簡が、前期難波宮整地層(谷を埋め立てた層)から出土し、注目されました。

 わたしは、この「はじめのとし」という表記に興味をいだき、これは年号の「元年」のことではないかと考え、この時期の九州年号として、「常色元年」 (647)の可能性が高いと判断しました(「としのはじめ」であれば新年正月のことですが)。もちろん「白雉元年」(652)の可能性もありますが、『日 本書紀』によれば652年に完成したとされる前期難波宮の整地層からの出土ですから、やはり「常色元年」だと思います。

 このわたしの理解が正しければ、この木簡の歌は、春草のように勢いよく成長している九州王朝の改元を言祝(ことほ)いだ歌の一部ということになります。 そうすると、この歌は九州王朝の強い影響下で詠まれたものであり、その木簡が出土した前期難波宮を九州王朝の宮殿(副都)とするわたしの説に整合します。 ちなみに、この常色年間は九州王朝が全国に評制を施行した時期に当たり、「はるくさの」という枕詞がぴったりの時代です。

 さらに言えば、7世紀中後半での九州年号の改元は、「常色元年」「白雉元年」を過ぎると、「白鳳元年」(661)、「朱雀元年」(684)、「朱鳥元 年」(686)、「大化元年」(695)であり、これらの年が「はじめのとし」の候補となるのですが、661年は斉明天皇の時代です(近江京造営時期)。 684年と686年では天武天皇の晩年であり、その数年後に宮殿が完成したとすれば、それは藤原宮造営時期と同年代になります。しかし、出土土器の編年は、前期難波宮整地層と藤原宮整地層とでは明確に異なります。

 したがって、「はるくさ」木簡の「はじめのとし」を九州年号の「元年」のことと理解すると、前期難波宮整地層の年代は7世紀中頃にならざるを得ないと言 う論理性を有していることに気づいたのです。この論理性の帰結と、現在の考古学編年が一致して前期難波宮の造営を7世紀中頃としていることは重要なことだと思います。もちろん、「はじめのとし」を「元年」ではなく、もっと合理的でふさわしい別の意味があれば、わたしのこの説は撤回します。今のところ「元年」と理解するのが最も妥当と思っていますが、いかがでしょうか。


第380話 2012/02/02

聖徳太子と九州年号

先日、NHKのBS放送で聖徳太子の特別番組が放送されたそうです。事前に何人かの会員の方からその番組のことをお知ら せいただいたのですが、あいにく我が家のテレビではBS放送は映らず、同番組を見ることができませんでした。放送を見た人のお話では、あいかわらず近畿天 皇家一元史観による「陳腐」な内容だったようです。
ちょうど良い機会ですので、聖徳太子と九州年号が意外と関係が深いというテーマについてご紹介したいと思います。
たとえば後代に編纂された『聖徳太子伝』などの聖徳太子の伝記類には、九州年号の「金光」「勝照」「端政」などが散見されます。おそらく、九州王朝の天 子・多利思北弧やその太子、利歌彌多弗利の九州年号付きで記された年代記を盗用する際、九州年号がそのまま残されたものと推察しています。
さらに、法隆寺にも九州年号が記された文書が存在しているようなのです。それは「聖徳太子の御文箱」と呼ばれているもので、X写真によれば、その箱の中 に3枚の文書が入っており、それらは聖徳太子と善光寺如来との間で交わされた書簡とされています。その内、1通は国立東京博物館に明治時代の写しが現存し ています。他の2通の内容は不明です。
法隆寺側は「御文箱」を永久に封印する方針とのことなので、その聖徳太子の書簡を見ることはできないのですが、残りの2通に九州年号が記されている可能 性が濃厚なのです。そこで、何とかその往復書簡の内容を調べたいと思い、わたしは善光寺側の史料を調査したのですが、なんと善光寺側はそれら書簡を公開し ていたのでした。
詳しくは拙論「九州王朝仏教史の研究」(『「九 州年号」の研究』に収録)を読んでいただきたいのですが、聖徳太子からの手紙に「命長七年」という九州年号が記されていたのです。すなわち、聖徳太子と善 光寺如来の往復書簡とは九州王朝の天子と善光寺との書簡だったのです。おそらく、それら書簡が法隆寺移築時か後に法隆寺にもたらされ、聖徳太子の書簡とし て伝来されたようです。
このように聖徳太子と九州年号は結構関係が深いのですが、こうした史料状況は聖徳太子伝説の多くが九州王朝の伝承だった可能性を強く感じさせるのです。


第377話 2012/01/20

日本刀と九州年号

今日は岐阜県関市に来ています。関市といえば「関の孫六」で有名な日本刀の産地で、今でも日本刀が関市で造られているようですが、日本刀と九州年号に関係があることをご存じでしょうか。
『刀剣美術』384号(昭和64年、新年号)に掲載された間宮光治さんの「刀剣古伝書と九州年号」によれば、『銘尽正安本写』(刀剣博物館蔵)などに九 州年号が散見されることが報告されています。たとえば『佐々木氏延暦寺本銘尽』によれば、「海中 継体天皇御宇、善記年中、二尺三寸剣竜王作」「宗(方+ ム) 法清年中、走雲鬼作、号野干剣焼無之夜暗ヲハラス」「長光 師安年中 鬼作、忠崎(ナカゴサキ)三ニ破タリ 長二尺」「天雲 継体天皇御宇 教到年 中、天(火+兼)切作之」といった記事があり、九州年号の「善記」「法清」「師安」「教到」「朱鳥」が記されています。
刀剣の作成時期が九州年号で記されており、興味深い史料です。刀剣博物館でそれら刀剣古伝書を実見したいものです。
この他にも、刀剣古伝書には九州年号に関して面白い史料があり、いつかご紹介できればと思っています。関市への出張のおかげで、間宮さんの論稿を思い出 しましたので、ご紹介しました。ちなみに、間宮稿には製鉄加工技術の伝来は北部九州にもあったのではないかとされておられます。


第375話 2012/01/15

「これから出る本」

昨日の賀詞交換会に相模原市から参加された冨川ケイ子さんから面白いパンフレットをいただきました。「これから出る本」(2012年No.2、日本書籍出版協会)というもので、近々発刊される本を紹介するものです。
その歴史図書の欄に『「九州年号」の研究』が紹介されていたのですが、同じ欄に久保常晴著『日本私年号の研究(新装版)』(吉川弘文館、14700円) も掲載されていました。この本は九州年号研究者であれば知らない人はいないという一冊なのです。九州年号偽作説に立っていますが、九州年号史料をが多数紹 介されており、史料調査に大変役立ちました。わたしが研究を始めた20年前には既に市販されていませんでしたので、京都府立総合資料館で長時間閲覧したも のでした。
このような古代や中世の逸年号の研究書が復刻発刊されるということに驚きましたが、おそらく九州年号に対する興味が古代史ファンに広がっている反映だと 思われます。古田説や九州王朝説が確実に浸透していることが、このことからもうかがえます。2012年が古田史学にとって画期となる年となる予感がしてい ます。


第373話 2012/01/13

『「九州年号」の研究』編集後記

 今日は大阪で仕事をしています。お昼休みを利用して、紀伊国屋書店(本町店)をのぞいてきました。もちろん目的は『「九州年号」の研究』がおいてあるかどうかの確認です。その結果は、幸いなことに何と古代史コーナーに平積みで並んでいました。ありがたいことです。わたしは紀伊国屋書店が大好きになりそうです。
 ミネルヴァ書房の田引さんの話では、『「九州年号」の研究』は順調に売れているそうです。そこで、田引さんのご了承を得ましたので、『「九州年号」の研究』の編集後記を転載します。まだお読みになっていない方に、同書の概要をご理解いただけると思いますので。

『「九州年号」の研究』編集後記

 古田武彦先生が日本古代史学の分野に多元史観を提唱され、その中核をなす九州王朝説はそれまでの大和朝廷一元史観の閉塞を打ち破り、真実の古代史像をわたしたちの眼前に示されたのであるが、その主要テーマの一つが九州王朝(倭国)の年号「九州年号」であった。
 以来、古田先生を初め古田説支持者による九州年号研究は、各地に遺存する九州年号や九州年号史料の調査発掘という第一段階を経て、その年号立ての原形論研究という第二段階へと発展したのであるが、『二中歴』所収「年代歴」の九州年号が最も原形に近いとする一定の「結論」を迎えた後は、その九州年号に基づいた九州王朝史の究明というテーマを中心とする第三段階へと進んだ。本書はその第三段階での主たる研究論文などにより構成されている。
 本書には、正木裕さんと冨川ケイ子さんの秀逸の論文を収録できた。お二人は「古田史学の会」における優れた研究者であり、わたしも関西例会などで繰り返し意見を闘わし、共に研究を進めてきた学問的同志である。
 正木さんの、九州年号を足がかりとした『日本書紀』の史料批判による九州王朝史復原研究は、近年の古田学派における質量ともに優れた業績である。冨川さんによる、明治時代における九州年号研究の発掘は、古写本「九州年号」の実在を鮮明にしたものであり、同写本の再発見をも期待させるものである。
 最近の十年間における最も大きな九州年号研究の成果といえば、やはり「元壬子年」木簡の「発見」であろう(芦屋市三条九ノ坪遺跡、一九九六年出土)。当初、この木簡は『日本書紀』の白雉年号にあわせて「三壬子年」と解読されてきたが、わたしたちによる再検査により、その文字は「元壬子年」であり、『二中 歴』などに記されている九州年号の白雉元年壬子(六五二)に相当する九州年号木簡であることが判明したのである。
 同木簡の写真と赤外線写真(大下隆司さん撮影)を本書冒頭に掲載した。九州王朝や九州年号を認めない大和朝廷一元史観の古代史学界はこの九州年号木簡の 「発見」に対して、今も黙殺を続けているが、それでこの木簡が消えて無くなるわけではない。九州王朝と九州年号の真実の歴史の「生き証人」として、この木 簡は古代史学界を悩ませ続けるに違いない。
 本書の序文は「古田史学の会」代表水野孝夫さんからいただいた。水野さんもまた「古田史学の会」草創の同志であり、人生の先輩でもある。本書を「古田史学の会」の事業として出版することに御賛同いただいたものであり、感謝に堪えない。古田先生からは巻頭論文を新たに書き下ろしていただいた。ありがたい御配慮である。
 わたしが古田武彦先生の著作に感銘し、その門を叩いたのは今から二五年前のことである。以来、古田先生の学説や学問の方法に学び、主たる研究テーマの一 つとして九州年号の研究に没頭してきた。その二五年間の集大成ともいうべき本書を上梓することにより、学恩に僅かでも報いることができれば、まことに幸いとするところである。
二〇一一年七月二四日記    古賀達也