九州年号一覧

第2092話 2020/02/27

三十年ぶりの鬼室神社訪問(3)

 九州年号「朱鳥三年」(688)が刻銘されている鬼室集斯墓碑は、江戸期文化二年(一八〇五)に仁正寺藩(のち西大路藩)の藩医西生懐忠(にしなりあつただ)らによって蒲生郡日野町小野から「発見」され、銘文が解読、広く世に紹介されました(発表は翌文化三年)。
 しかし、発見当時から偽造説が出され、真贋論争が勃発し、現在に至っています。たとえば蒲生郡の郷土誌『東桜谷志』(日野町東桜谷公民館発行、一九八四年)所収、瀬川欣一さんの「鬼室集斯をめぐる謎」には次のような偽造の根拠が掲げられています。

〝西生懐忠と同時代の坂本林平という人が書き残した『平安記録楓亭雑話』に次の記事がある。
 「小野村の三町ばかり上み、西明寺へ行く道の左側の方に高さ三尺ばかりの自然石あり、昔より隣郷の里人人魚塚と言い伝えり、また同村西宮と称する社地に、高さ三尺に足らぬ子石立てり、是も人魚塚と唱へ来れり、然るに此石を西生と申す医、佐平鬼室集斯等の墓なりと申し出て、高貴の御聞に達し人を惑す罪軽からず、元より右の石は能くしりはべりしに文字は決してなし。本より拠なし、只此の辺石燈篭に室徒中とあり付ければ、是にて思い付きしならんか。」
 この記述でもわかるように、直接西生懐忠と出会っている坂本林平は、この石のことをよくよく前から知っており「文字は決してなし」と前に掲げた墓石の文字がこの時には無かったことを記し、鬼室集斯の墓でないと、この時にはっきりと否定している。〟

 このように、瀬川欣一さんは墓碑の「発見者」西生懐忠と出会っている坂本林平の証言「文字は決してなし」を偽造の根拠の一つとされました。(つづく)


第2091話 2020/02/26

三十年ぶりの鬼室神社訪問(2)

 三十年ほど前に古田先生と鬼室神社を訪れたのは、同神社に祀られている鬼室集斯墓碑の調査のためでした。雪が降るとても寒い日だったことを記憶しています。同墓碑には九州年号「朱鳥三年」(688)が刻銘されており、同時代九州年号金石文ではないかと、わたしたちは注目していました。当時は江戸時代に追刻されたとする偽造説が有力だったのですが、古田先生とわたしは真作ではないかと考えていました。
 そこで、鬼室神社を訪問し、社殿裏の石祠に祀られている同碑を拝見させていただきました。墓碑は高さ48.8cmのほぼ八角柱状で、頭部は擬宝珠状になっており、下部の水平断面は一辺約八〜九センチのほぼ正八角形です。石質は小野の石小山産黒雲母花崗岩とのことです。
 その前面と左右の計三面に、次のような文字が肉眼で確認できました。他の五面には文字は見えませんでした。
 その正面に「鬼室集斯墓」、向かって右側面に問題の「朱鳥三年戊子十一月八日〈一字不明。「殞」か〉」(戊子の二字は小字で横に並んでいる)、向かって左側面に「庶孫美成造」と彫られています。この刻銘をめぐって発見当時(江戸時代)から真偽論争が起きています。(つづく)

【鬼室集斯墓碑銘文】
「朱鳥三年戊子十一月八日(殞?)」〈向かって右側面。最後の一字は下部が摩滅しており不鮮明〉
「鬼室集斯墓」〈正面〉
「庶孫美成造」〈向かって左側面〉


第2090話 2020/02/25

三十年ぶりの鬼室神社訪問(1)

 今日は仕事で滋賀県日野町へ出張しました。そのついでに近くにある鬼室神社を訪問しました。約三十年前に古田先生と訪れて以来となります。道路や神社も当時とは比較にならないほど整備されており、時の流れを感じました。
 鬼室神社がある蒲生郡日野町小野(この)の集落は、琵琶湖に注ぐ佐久良川の上流部川沿いの奥まった狭量の地にあり、なぜこんな所に近江朝廷に仕えた百済渡来の官人(学職頭)鬼室集斯(きしつ・しゅうし)の墓碑が祀られているのか不思議です。小野の集落には「人魚塚」と呼ばれている比較的小さな「石柱」もあり、今回、初めて拝見しました。このような山間部に「人魚塚」がある理由もよくわかりませんが、住民により古くから大切に祀られているようです。(つづく)


第2088話 2020/02/21

『元亨釈書』の「大化建元」記事

 観世音寺の創建を天平18年(746)とする通説の根拠の一つとされている『元亨釈書』に、年号に関して面白い表記がありますので、紹介します。
 「国史大系31」に収録されている『元亨釈書』巻第二十一「孝徳皇帝」の冒頭に次の記事が見えます。

 「元年、春正月。建元大化。」(『元亨釈書』巻第二十一)

 『日本書紀』には「改元」とされている「大化」ですが、『元亨釈書』では「建元」とされているのです。「建元」とはある王朝が最初に年号を建てることであり、それ以降に年号を改めることは「改元」とされます。『日本書紀』に記された最初の年号であるにもかかわらず、「改元」とされている「大化」は近畿天皇家の年号ではなく、九州王朝の年号であるとする論稿をこれまでもわたしは発表してきました。今春発刊される『「古事記」「日本書紀」千三百年の孤独 ―消えた古代王朝―』(『古代に真実を求めて』23集、古田史学の会編、明石書店)にも拙稿「『大化』『白雉』『朱鳥』を改元した王朝」が収録されていますので、ご参照下さい。
 鎌倉時代の『元亨釈書』の編者は、『日本書紀』の「大化改元」記事を不審として、「大化」を「建元」と改定したものと思われます。同時に、『続日本紀』に「大宝建元」(701年)とされている記事については、次のように「改元」と改定しています。

 「三月甲午、改元大宝」(『元亨釈書』巻第二十一、文武四年条。701年)

 このように、『元亨釈書』には「大化」のみ「建元」とされ、他の年号は「改元」とされています。『日本書紀』や『続日本紀』の記述に従わない、かなり大胆な改定ですが、近畿天皇家一元史観の立場からは真っ当な改定です。すなわち、九州王朝や九州年号の存在が忘れ去られた鎌倉時代の認識に基づいて、古代史書の記述を改定するという方法がとられているのです。
 このことから、『日本書紀』『続日本紀』の「大化改元」「大宝建元」が、鎌倉時代の知識人にとって不自然に映っていたことがわかります。同様の現象は現在の年号関連書籍にも見て取れます。例えば所功編『日本年号史大事典』の次の記述です。

 〝日本の年号(元号)は、周知のごとく「大化」建元(六四五)にはじまり、「大宝」改元(七〇一)から昭和の今日まで千三百年以上にわたり連綿と続いている。〟(第三章、54頁)
 〝『続日本紀』大宝元年三月甲午条に「対馬嶋、金を貢ぐ。元を建てて大宝元年としたまふ」としており、対馬より金が献上されたことを祥瑞として、建元(改元)が行われたことがわかる。〟(127頁)
 所功編『日本年号史大事典』(平成二六年一月刊、雄山閣)

 この記述から、21世紀の今日まで近畿天皇家一元史観の影響が続いていることがわかります。恐らく、わが国で年号使用と改元が続く限り、『日本書紀』『続日本紀』の「大化改元」「大宝建元」記事の取り扱いに混乱が続くことでしょう。そして、そのことを合理的に説明できる古田先生の九州王朝説・九州年号説が、いつの時代においても古代史研究者の脳裏に蘇ることでしょう。


第2046話 2019/11/22

『令集解』儀制令・公文条の理解について(6)

 「庚午年籍」のような長期保管が必要な行政記録以外にも、後世に残すことを前提とした墓碑や墓誌銘にも九州年号の使用が許されていたのではないかとわたしは考えています。このことを示す史料を以下に紹介します。

○「白鳳壬申年(六七二)」骨蔵器(江戸時代に博多から出土。その後、紛失)
 『筑前国続風土記附録』に次のように紹介されています。
 「近年濡衣の塔の邊より石龕一箇掘出せり。白鳳壬申と云文字あり。龕中に骨あり。いかなる人を葬りしにや知れず。此石龕を當寺に蔵め置る由縁をつまびらかにせず。」(『筑前国続風土記附録』博多官内町海元寺)

○「大化五子年(六九九)」土器(骨蔵器、個人蔵)
 古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房。二〇一二年)を参照してください。

○「朱鳥三年(六八八)」鬼室集斯墓碑(滋賀県日野町鬼室集斯神社蔵)
 古賀達也「二つの試金石 九州年号金石文の再検討」(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房。二〇一二年)を参照してください。

○法隆寺の釈迦三尊像光背銘の「法興元卅一年」もその類いでしょう。

 以上のように残された史料事実(木簡、詔報、墓碑等)から判断すれば、九州王朝律令には年号使用を定めた「儀制令」があり、その運用が「式」などで決められていたと思われるのです。(おわり)


第2045話 2019/11/21

『令集解』儀制令・公文条の理解について(5)

 木簡のように使用後の廃棄・再利用が想定されるものに〝王朝の象徴でもある崇高な年号〟を記すことを九州王朝は条令(式)などで禁止し、使用を許さなかったのではないかとわたしは考えていますが、同時に長期保管・永久保管が必要な文物などには九州年号使用を命じたり、使用を許していたと考えています。今回はこのことについて紹介します。
 九州王朝にも様々な行政文書・記録類があったはずです。特に戸籍や各種認証記録は長期保管が必要です。その最たるものが著名な「庚午年籍」(白鳳十年。670年、庚午の年に造られた戸籍)と呼ばれている基本戸籍です。九州王朝(倭国)の時代に造籍されたものですが、大和朝廷でも『大宝律令』などにより「永久保管」を各地の国司に命令しています。このような長期保管が必要な行政記録には九州年号が使用されたはずと、わたしは考えています。干支だけですと、60年ごとに同じ干支が巡ってきますから、60年以上の長期保管記録には干支だけではいつのことなのか不明となりますから、年号使用が不可欠と考えたのです。
 このことを支持する次の史料があります。『続日本紀』に見える九州年号記事として有名な聖武天皇の詔報です。

 「白鳳以来朱雀以前、年代玄遠にして尋問明め難し。亦所司の記注、多く粗略有り。一に見名を定めてよりて公験を給へ」(『続日本紀』神亀元年〈七二四〉十月条)

 これは治部省からの僧尼の名籍についての問い合わせに対する聖武天皇の返答です。九州年号の白鳳(六六一〜六八三年)から朱雀(六八四〜六八五年)の時代は昔のことであり、その記録には粗略があるので新たに公験を与えよという「詔報」です。すなわち、九州王朝時代の僧尼の名簿に九州年号の白鳳や朱雀が記されていたことが前提にあって成立する問答です。従って、九州王朝では僧尼の名簿などの公文書(公文)に九州年号が使用されていたことが推察できます。同様に「庚午年籍」にも造籍年次が「白鳳十庚午年」というような九州年号で記されていたのではないでしょうか。(つづく)


第2044話 2019/11/20

『令集解』儀制令・公文条の理解について(4)

下記の『令集解』「儀制令・公文条」の当該文章の解釈により、「年号使用を規定した条文がなかった」との理解も可能ですし、「年号という制度がなかった」という理解も成立するのですが、どちらの理解であっても、それは九世紀段階の『令集解』編者(惟宗直本)の解説(認識)というにとどまりますから、九州年号時代の歴史事実(九州王朝律令の条文)がどうであったのかは、別に論証が必要です。今回はこの問題を論じます。

○『令集解』「儀制令・公文条」(『国史大系 令集解』第三冊733頁)
 凡公文應記年者、皆用年號。
〔釋云、大寶慶雲之類、謂之年號。
古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。
穴云、用年號。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。〕

 残念ながら「九州王朝律令」やその条文などは現存しませんから、九州王朝が自らの年号の使用についてどのような態度であったのかは、現存史料の状況や内容から推定するほかありません。そこで、わたしは史料根拠に基づき、次のような仮説を発表してきました。
 七世紀の年次表記木簡は全て干支が使用されており、九州年号を記したものは〝皆無〟であることから、この史料情況を〝使い慣れた干支が偶然にも全ての木簡利用者に採用され、全国の誰一人として九州年号を木簡の年次表記に選ばなかった〟と理解するよりも、木簡のように使用後の廃棄・再利用が想定されるものに、〝王朝の象徴でもある崇高な年号〟を記すことを九州王朝は条令(式)などで禁止し、許さなかった結果と考える方が、より合理的な史料情況解釈ではないでしょうか。
 さらにその証拠として、難波宮出土「戊申年」(648年)木簡や、芦屋市三条九之坪遺跡出土の「元壬子年」(652年)木簡のように、その上部に「常色二戊申年」「白雉元壬子年」というように、九州年号(「常色」「白雉」)を記すスペースが十分あるにもかかわらず、あえて空白のままにされていることも、木簡への年号使用が禁止された、あるいは憚られたとするわたしの仮説を支持していると思われるのです。(つづく)


第2034話 2019/11/03

『令集解』儀制令・公文条の理解について(2)

 「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする阿部さんの説が成立するためには、少なくとも次の二つのハードルを越えなければなりません。一つは、『令集解』「儀制令・公文条」の当該文章(本稿末に掲載)の読みが妥当であることの証明。二つ目は、『令集解』の解説部分は同書成立当時(九世紀中頃)の編者(惟宗直本:これむね・なおもと)の認識であり、その認識が六〜七世紀の九州年号時代の歴史事実を正しく反映していることの証明です。
 阿部さんのブログの当該論稿〝「那須直韋提の碑文」について(三)〟にはそれらの証明がなされていません(他の論稿中にあるのかもしれませんが)。もっとも、この論稿の主たる目的や要旨は「那須国造碑」碑文の理解や史料批判で、「九州王朝律令」そのものの研究論文ではありませんから、上記の証明にはあえて触れておられないだけかもしれません。(つづく)

○『令集解』「儀制令・公文条」 (『国史大系 令集解』第三冊733頁)

 凡公文應記年者、皆用年號。
〔釋云、大寶慶雲之類、謂之年號。
古記云、用年號。謂大寶記而辛丑不注之類也。
穴云、用年號。謂云延暦是。
問。近江大津宮庚午年籍者、未知、依何法所云哉。
答。未制此文以前所云耳。〕
 ※〔 〕内は『令集解』編者による解説。「国史大系」本によれば、二行細注。

《参考資料:『令集解』ウィキペディアの解説》
『令集解』(りょうのしゅうげ)は、9世紀中頃(868年頃)に編纂された養老令の注釈書。全50巻といわれるが、35巻が現存。
惟宗直本という学者による私撰の注釈書であり、『令義解』と違って法的な効力は持たない。
 まず令本文を大字で掲げ、次に小字(二行割注)で義解以下の諸説を記す。概ね、義解・令釈・跡記・穴記・古記の順に記す。他に、讃記・額記・朱記など、多くの今はなき令私記が引かれる。特に古記は大宝令の注釈であり、大宝令の復元に貴重である。ただし、倉庫令・医疾令は欠如している。 他にも、散逸した日本律、『律集解』、唐令をはじめとする様々な中国令、及び令の注釈書、あるいは中国の格(中にはトルファン出土文書と一致するものもある)や式、その他の様々な法制書・政書及び史書・経書・緯書・字書・辞書・類書・雑書、また日本の格や式、例などの施行細則等々が引用されている。
 現存35巻のうち、官位令・考課令第三・公式令第五の3巻は本来の『令集解』ではなく、欠巻を補うために、後に入れられた令私記である。


第2033話 2019/11/03

『令集解』儀制令・公文条の理解について(1)

『多元』No.154に掲載された服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)の論稿「金石文に九州年号が少ない理由」を興味深く拝読しました。服部さんは金石文に九州年号の使用が少ない理由として、「九州王朝律令」に九州年号の使用を命じた条文がなかったので、人々は「年号」よりも使い慣れた「年干支」を使用したためとされました。そして、「九州王朝律令」には『養老律令』「儀制令・公文条」のような年号使用を規定した条文がなかったとする阿部周一さん(古田史学の会・会員、札幌市)の説を紹介されました。
 その阿部さんの説は下記のブログに掲載されています。関係部分を転載します。

【以下、転載】
https://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/43fed8a15ed5361aecdc521c482058b4
「古田史学とMe」 2017年09月10日
「那須直韋提の碑文」について(三)

 (前略)これについては『令集解』の「儀制令」「公文条」の「公文」には「年号」を使用するようにという一文に対して、「庚午年籍」について『なぜ「庚午」という干支を使用しているか』という問いに対し、『まだ「年号」を使用すべしというルールがなかったから』と答えています。

 「凡公文応記年者。皆用年号。 釈云。大宝慶雲之類。謂之年号。古記云。用年号。謂大宝記而辛丑不注之類也。穴云。用年号。謂云延暦是。同(問)。近江大津官(大津宮)庚午年籍者。未知。依何法所云哉。答。未制此文以前所云耳。」

 この答は「庚午」の年には「年号」があったということを前提としたもののようにも考えられます。それが使用されていないのは「年号」がなかったからではなく、それを使用するという制度がなかったからと受け取れるものであり、このことから「九州年号」付きの公文書というものは「大宝」以前は存在していなかったともいえるでしょう。(後略)
【転載おわり】

 博識で律令に詳しい阿部さんらしい論証です。阿部さんは『令集解』「儀制令・公文条」の解説部分にある「庚午年籍」に関する問答を根拠に、〝「年号」がなかったからではなく、それを使用するという制度がなかった〟〝「九州年号」付きの公文書というものは「大宝」以前は存在していなかった〟とする見解を用心深く表明されています。
 これはわたしの見解とは異なりますが、こうした異説・異論の発表は学問・研究にとって大切なことであり、しかも史料根拠(エビデンス)や論理展開(ロジック)も明解で、歓迎したいと思います。(つづく)


第2029話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(5)

 本シリーズ冒頭で、ご町内の北村美術館庭園(四君子苑)で多くの石造物(五輪塔・多層石塔・石仏など)を拝観させていただいたことを紹介しましたが、そのとき、わたしが最も関心を払ったのが古そうな三重石塔の年代でした。というのも、満月寺五重石塔の年代検討のため、わたしは日本各地の鎌倉時代の多層石塔をインターネットで調査し、その様式による年代観を勉強していたからです。ですから、その年代観がどの程度のものか、北村美術館の石塔で確かめたいと考えたわけです。その結果、その三重石塔は鎌倉時代のものと判断し、美術館の方に確認したところ、ほぼ当たっていました(鎌倉前期頃とのこと)。
 わたしがインターネットで調査した多層石塔は次のものでした(ネットで写真を見ることができます。付されていた解説も一部転載しました)。こうした同時代の他の多層石塔の様式からも、満月寺五重石塔の造立年代を鎌倉時代後期の「正和四年乙卯」(1315)とすることは極めて妥当との結論に至りました。と同時に、九州年号「正和四年」(529)とするのは困難というのが学問的判断と思われます。(おわり)

【以下、転載】
http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-kanto.html
石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(1)東日本(関東以北)の石塔巡拝

○元箱根賽の河原層塔(神奈川県箱根町元箱根)
 初層軸部(塔身)は、四方に輪郭をとり、二字づつの梵字を刻んである。写真の塔身左側から四仏の不空成就(アク)と釈迦(バク)、正面は観音(サ)と四仏の阿弥陀(キリーク)と続き、さらに左回りで、地蔵(カー)と四仏の宝生(タラーク)、四仏の阿しゅく(ウーン)と薬師(バイ)がセットになって彫られているのである。金剛界四仏だけでは事足らず、信仰の対象として馴染み深い釈迦、観音、地蔵、薬師という仏たちまで彫り込んだ意欲には脱帽であろう。
 基礎正面の中央輪郭部に、正和三年(1314)という鎌倉後期の年号が彫られているそうである。残欠塔とはいえ、関東には鎌倉時代の在銘層塔は数基しかなく、まことに貴重な存在なのである。

○城願寺五重塔(神奈川県湯河原町)
 塔身(初重軸部)は、周辺に関東様式ともいえる輪郭を巻き、金剛界四仏の梵字を彫り込んでいる。写真に写っているのは、アク(不空成就)である。やや力の無い書体である。
 各層の屋根は、軒裏に垂木型が刻んであり荘重なシルエットを創出している。軒の反りは鎌倉風の剛健な様式で美しい。相輪の存在が記された本があったが、現在は失われてしまったようだ。塔身に嘉元二年(1304)という、貴重な鎌倉後期の年号が刻まれているのである。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-chugoku.html
石塔紀行(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(10)中国・四国・九州(大分以外)の石塔巡拝

○薬師寺七重塔(広島県尾道市因島原ノ町)
 正和四年(1315)鎌倉後期に建てられた石塔で、全体にほぼ完存する秀麗な遺構と言えるだろう。
 基礎には輪郭を巻いた中に格狭間を彫り、塔身には金剛界四仏の種子が刻まれている。梵字の彫りは、この時代にしては華奢で、同じ鎌倉後期でも次掲の光明院塔に比べると、鎌倉の豪快さはかなり失われてしまっているようだ。
 それでも、笠や相輪の優美さは見事で、軒の反りや厚さには鎌倉後期の特徴を十分に見ることが出来る。屋根の裏に一重の垂木型が彫り出されており、繊細な美意識も感じ取れる。笠の幅の逓減率も理想的で全てが美しいのだが、優等生だがやや個性に欠ける、といった評価が出来るのかもしれない。
 基礎は低いが、背の高い塔身(初層軸部)には、輪郭の巻かれた中に金剛界四仏が薄肉彫りされている。各仏の名称は方位から推測するしかないが、いずれもほのぼのとした情緒に満ちた彫像である。

○青目寺五重塔(広島県府中市本山町)
 やや摩滅しているが、四面に胎蔵界四仏の種子(梵字)が薬研彫りされている。
 各層の屋根を見ると、軸部と一体に作られていることと、軒の厚さや反り具合が何とも大らかに造られていることに気が付く。のびのびとした表現は鎌倉後期以後の様式通の範疇からは抜けており、案の定案内板によれば、基礎正面に「正応五年(1292)」という鎌倉後期の初めの年号が刻まれているのだった。
 相輪が失われているのは残念だが、全体に漂う飛び切りの古塔ならではのオーラのような雰囲気が感じられて感動した。各層の屋根はそれぞれが上の軸部と一体となる彫り方で、適度な厚さのある軒は緩やかな反りを示している。五層の屋根の幅の逓減率が自然なので、見るからに品位のある落ち着いた姿をしている。
 塔身東面の仏像(阿閦如来か)の下に、寛元元年(1243)という鎌倉中期の銘が入っているそうだったが、肉眼では判然としなかった。各部の特徴が、いかにもこの魅力的な造立銘に相応しい佇まいであることに感動した。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~truffe/to-kyoto-n.html
石塔(層塔・宝塔・宝篋印塔・五輪塔)
(5) 京都(北部)の石塔巡拝

○金輪寺五重塔(京都府亀岡市宮前町)
 延応2年(1240)という鎌倉前中期の作との事だが、総体的に古調を示していて格調高い。特に反りの少ない笠の緩やかさは、石塔寺のイメージにも似て素晴らしい。初層軸部に四方仏が彫られ、その下の基礎石には梵字の四方仏が彫られていた。梵字にはアやアンが見られることから胎蔵界四仏だろう。


第2028話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(4)

 満月寺五重石塔の「正和四年乙卯夘月五日」を九州年号「正和」とするには、年干支の不一致や「夘月」という表記成立時期の問題があるため困難なのですが、それら以外にも下部に大きく記された「梵字」の伝来時期という課題も横たわっています。
 満月寺五重石塔の下部の四角四面部分に「梵字」四文字が大きく彫られています。この「梵字」も中近世の石造物(五輪塔や多層石塔、板碑など)によく見られるものです。この満月寺石塔の「梵字」は大日如来を囲む金剛界四仏のこととされ、キリーク(阿弥陀)・タラーク(寶生)・ウーン(阿閦)・アク(不空成就)の四文字が彫られています。
 「梵字」とはウィキペディアによれば、「日本で梵字という場合は、仏教寺院で伝統的に使用されてきた悉曇文字を指すことが多い。これは上述のシッダマートリカーを元とし、6世紀頃に中央アジアで成立し、天平年間(729年-749年)に日本に伝来したと見られる。」と説明されています。もちろん、この解説は大和朝廷一元史観に基づいていると思われますから、梵字や密教の九州王朝(倭国)への伝来がいつ頃かは不詳とせざるを得ません。しかし、六世紀の金石文や七世紀の史料などに「梵字」は見えませんから、満月寺五重石塔の造立を六世紀とすることはやはり困難と言わざるを得ません。(つづく)


第2027話 2019/10/31

多層石塔(臼杵市・満月寺石塔)の年代観(3)

 鶴峯戊申が『臼杵小鑑』で紹介した満月寺石仏の「正和四年卯月五日」の刻銘は現存しないようですが、満月寺には「正和四年乙卯夘月五日」と刻銘された五重石塔が現存しています。その下部から次のような刻銘が読み取れます。

【満月寺五重石塔刻銘】
「正和四年乙卯夘月五日願主阿闍梨隆尊敬白」
「滅罪証覚利益衆生所奉造立供養如件」
「右為先師聖霊尊全及隆尊之先考先妣」
「合力作者 阿闍梨圓秀」

 このように「正和四年乙卯夘月五日」とあり、年干支が「乙卯」と記されていますので、九州年号「正和四年」の年干支「己酉」と一致しません。
 他方、「正和」という年号は鎌倉時代にもあります。その正和四年(1315)の年干支は「乙卯」であることから、この五重石塔は鎌倉時代の正和四年乙卯(1315)の造立であることがわかります。この石塔の刻銘の写真を拝見しますと、干支の「乙卯」は縦書きの「正和四年乙卯夘月五日」とある文字列の中で「二行割注」のように横書きで「卯乙」と記されています。このように干支部分のみを小文字二行の横書きに記す例は中近世史料では普通に見られる書法で、同石塔に刻された「正和四年」(1315)の年次と矛盾なく対応しています。
 たとえば年干支二文字を小文字で横書きにされた金石文として、九州年号「朱鳥」が記された「鬼室集斯墓碑」が著名です。没年について次のように記されています。

 「朱鳥三年戊子十一月八日殞」

 一行の縦書きですが、年干支「戊子」部分の二字は小文字の横書きです。なお、年干支部分を小文字で横書きにするのは、鎌倉時代頃の金石文からよく見られるようになるといわれています。
 また、「夘月」という表記も六世紀前半にまで遡る例は国内史料には見えず、10世紀初頭頃に成立した『古今和歌集』136番歌(紀利貞)の詞書に見える「うつき(卯月)」の例が国内史料では最も古いようです。このことも同石塔を九州年号の「正和四年」(529)とする理解を困難としています。その点、鎌倉時代の「正和四年」(1315)であれば全く問題はありません。(つづく)