和田家文書一覧

第3158話 2023/11/12

八王子セミナー、深夜の編集会議

 昨日の午後から、待望の八王子セミナーに参加しました。特別講演(若井敏明さん)やその他の発表については別途紹介したいと思います。

 当日のイベントが終わった午後九時半から、わたしの部屋に集まり〝深夜の編集会議〟を開催しました。来春、八幡書店から発行予定の『東日流外三郡誌の逆襲』の企画会議で、安彦克己さん(東京古田会・会長)、皆川恵子さん(東京古田会・松山市)、冨川ケイ子さん(古田史学の会・相模原市)とわたしの四名で、企画コンセプトや収録論文、追加テーマ、2冊目の企画方針などについて話し合いました。夜遅くまで意見を出し合い、その結論として「これはきっと面白い本になる」と全員が確信しました。この企画案を明日八幡書店に提案します。若干の変更はあるかもしれませんが、その概要を紹介します。

【タイトル案】
東日流外三郡誌の逆襲

【構成案】
Ⅰ 序   ※執筆者肩書きとタイトルは仮りのもの。
○東日流外三郡誌とは何か 古田史学の会 代表 古賀達也
○和田家文書から見える世界 古田武彦と古代史を研究する会 会長 安彦克己
○和田家文書デジタルアーカイブへの招待 多元的古代研究会 藤田隆一
○和田家文書を伝えた人々 秋田孝季集史研究会 会長 竹田侑子
○東日流の新時代を迎えて 弘前市議会議員 石岡ちづ子
○東日流外三郡誌の逆襲 八幡書店 社長 武田崇元

Ⅱ 真実を証言する人々
○『東日流外三郡誌』真作の証明 ―「寛政宝剣額」の発見― 古賀達也
○松橋徳夫氏(山王日吉神社宮司)の証言
○青山兼四郎氏(中里町)書簡の証言
○藤本光幸氏(藤崎町)書簡の証言
○白川治三郎氏(青森県・市浦村元村長)書簡の証言
○佐藤堅瑞氏(淨円寺住職・青森県仏教会元会長)の証言
○永田富智氏(北海道史編纂委員)の証言
○和田章子さん(和田家長女)の証言

Ⅲ 偽作説への反証
○知的犯罪の構造 ―偽作論者の手口をめぐって― 古賀達也
○『東日流外三郡誌』の考古学 古賀達也
○伏せられた「埋蔵金」記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同― 古賀達也
○和田家文書に使用された和紙 古賀達也
○和田家文書に使用された美濃和紙 竹内強
○「偽書」を論ず ―「東日流外三郡誌」偽作説の本質―(仮題) 日野智貴
〇和田家文書裁判の真相 付:仙台高裁への陳述書2通 古賀達也

Ⅳ 資料と遺物の紹介
○『東日流外三郡誌』公開以前の史料 古賀達也
○『飯詰村史』(昭和二五年)に掲載された和田家文書
○福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」『陸奥史談』(昭和二六年)で発表された和田家史料
○福士貞蔵文庫に収録された和田家史料
○昭和二十年代の東奥日報記事
○昭和三一~三二年の青森民友新聞に連載
大泉寺の開米智鎧氏「中山修験宗の開祖役行者伝」十一月一日~翌年二月十三日まで六八回、「中山修験宗の開祖文化物語」六月三日まで八十回の連載の紹介。
○開米智鎧『金光上人の研究』の紹介
○佐藤堅瑞『金光上人』の紹介
○役の小角史料「銅板銘」全文の紹介

Ⅴ 和田家文書から見える史実 ※論文タイトルは仮題
○宮沢遺跡は中央政庁跡 安彦克己
○二戸(にのへ)天台寺の前身寺院「浄法寺」 安彦克己
○中尊寺の前身寺院「仏頂寺」 安彦克己
○『和田家文書』から「日蓮聖人の母」を探る 安彦克己
〇浅草キリシタン療養所の所在地 安彦克己
○浄土宗の『和田家文書』批判を糺す 金光上人の入寂日を巡って 安彦克己
○大神(おおみわ)神社の三つ鳥居の由来 玉川 宏
○〇石塔山レポート 秋田孝季集史研究会
○田沼意次と秋田孝季in『和田家文書』その1 皆川恵子

Ⅵ 資料編

Ⅶ あとがき
〇「東日流外三郡誌」の証言 ―令和の和田家文書調査― 古賀達也
○謝辞  和田家文書史料批判の視点 古賀達也


第3131話 2023/10/04

『東京古田会ニュース』No.212の紹介

 『東京古田会ニュース』212号が届きました。拙稿「数学の証明と歴史学の証明 ―荻上紘一先生との対話―」を掲載していただきました。これは古代史研究ではなく、学問論に関するものです。昨年の八王子セミナーのおり、追加でもう一泊したので、数学者の荻上先生と対話する機会をいただき、そのやりとりを紹介した論稿です。

 わたしが専攻した化学(有機合成・錯体化学)は〝間違いを繰り返し、新説を積み重ねながら「真理」に近づいてきた。したがって自説もいずれは間違いとされ、乗り越えられるはずだと科学者は考え、自説が時代遅れになることを望む領域〟でしたが、数学は〝一旦証明されたことは未来に渡って真実であり、変わることはなく、そのことを全ての数学者が認め、ある人は認め、別の人は反対するということはあり得ない〟領域とのこと。このような化学・歴史学と数学の性格の違いを知り、とても刺激的な対談でした。

 当号の一面には讃井優子さんの「三多摩の荒覇吐神社巡り」が掲載されており、関東にある研究団体だけに、和田家文書や荒覇吐神への強い関心がうかがえます。安彦会長からも「和田家文書備忘録2 阿部比羅夫の蝦夷侵攻」という『北鑑』の研究が発表されています。『北鑑』は『東日流外三郡誌』の続編的性格を持つ和田家文書で、わたしも基礎的な史料批判を進めているところです。ちなみに、安彦さんのご協力も得て、『東日流外三郡誌の逆襲』(仮題)という本の発行に向けて執筆と編集作業を進めています。順調に運べば、来春にも八幡書店から発刊予定です。ご期待下さい。


第3113話 2023/09/14

〝興国の大津波〟は元年か二年か

 津軽を襲った〝興国の大津波〟を「東日流外三郡誌」には「興国二年」(1341年)の事件と、くり返し記されています。しかし、ごく少数ですが「興国元年」(1340年)あるいは同年を指す「暦応庚辰年」(「暦応」は北朝年号)とも記されています。管見では下記の記事です(注①)。

(1)「高楯城略史
(中略)
依て、安東氏は興国元年の大津浪以来要途を失せる飯積の領なる玄武砦を付して施領せり。(中略)
元禄十年五月  藤井伊予記」 (「東日流外三郡誌」七三巻、同①478頁) ※元禄十年は1697年。

(2)「十三湊大津浪之事
暦応庚辰年八月四日、十三湊の西海に大震超(ママ)りて、波濤二丈余の大津波一挙にして十三湊を呑み、その浪中に死したる人々十三万六千人なり。(後略)」 (「東日流外三郡誌」七五巻、同①488頁) ※「暦応」は北朝の年号。「庚辰年」は暦応三年に当たり、興国元年と同年(1340年)。

(3)「津軽安東一族之四散(原漢書)
十三湊は興国元年八月、同二年二月に起れし大津波に安東一族の没落、水軍の諸国に四散せることと相成りぬ。(中略)
寛政五年九月七日  秋田孝季」 (「東日流六郡篇」、同①514頁) ※寛政五年は1793年。本記事は興国の大津波が、元年と二年の二回発生したとする。

 この他に、「興国己卯年」「興国己卯二年」のような年号と干支がずれている表記も見えます。すなわち、「己卯」は1339年であり、年号は「延元四年(南朝)」あるいは「暦応二年(北朝)」で、興国元年の前年にあたります。次の記事です。

(4)「建武中興史と東日流
(中略)
亦、奥州東日流に於は(ママ)、興国己卯年十三湊の大津浪に依る水軍を壊滅せる安倍氏と、埋土に依れる廃湊の十三浦は(中略)
寛政庚申天  秋田之住 秋田孝季」 (「総序篇第弐巻」、同①426頁) ※「寛政庚申天」は寛政十二年(1800年)。

(5)「高楯城興亡抄
(中略)
依テ高楯城ハ興国己卯年ニ至ル(中略)
明治元年六月十六日  秋田重季 花押
右ハ外三郡誌追記ニシテ付書ス。」 (「三一巻付書」、同①426頁) ※「東日流外三郡誌」三一巻に「付書」したとされる当記事は年次的に問題があり、「東日流外三郡誌」とは別史料として扱うのが妥当と思われる。例えば、年号が明治(1868年)に改元されたのは同年九月であり、六月はまだ慶応四年であること、秋田重季氏は明治十九年の生まれであることから、これらを書写時(明治時代)の誤りと考えても、史料としての信頼性は劣ると言わざるを得ない。従って、「興国己卯年」の考察においては三~四次資料と考えられ、本論の史料根拠としては採用しないほうがよいかもしれない。

 この年号と干支がずれている表記がどのような理由で発生したのかは未詳ですが、「東日流外三郡誌」編纂時(寛政年間頃)に〝興国の大津波〟の年次を興国元年とする史料と興国二年とする史料とが併存していたと考えざるを得ません。この二説併存現象は先に紹介した「津軽系図略」(注②)や津軽家文書(注③)の史料情況と対応しているようで注目されます。
〝興国の大津波〟が元年なのか二年なのかは、これらの史料情況からは判断しづらいのですが、津軽家文書の編者らは元年説を重視し、「東日流外三郡誌」編纂者(秋田孝季、和田吉次)は二年説を妥当として採用し、元年説史料もそのまま採用したということになります。更には(3)に見えるように、秋田孝季自身の認識としては、元年と二年の二回発生説であることもうかがえそうです。このような両編纂者の認識まではたどれそうですが、どちらが史実なのかについては、史料調査と考察を続けます。

(注)
①八幡書店版『東日流外三郡誌2 中世編(一)』によった。
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
③陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。
同「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明(文化九年とする説がある)。


第3112話 2023/09/13

〝興国の大津波〟の

     伝承史料「前代御系譜」

 「洛中洛外日記」(注①)で紹介した『津軽系図略』(注②)、『津軽古系譜類聚 全』(注③)は、いずれも国文学研究資料館のデジタルアーカイブ収録「陸奥国弘前津軽家文書」にあるものですが、〝興国の大津波〟についての記事はその「前代御系譜」(注④)にも見えます。残念ながら編纂年次は不明ですが、冒頭に「先年御布告 前代御系譜」、末尾に「口達」「四月」「御家老」という記載がありますので、江戸期成立と推定されます(注⑤)。同系図の初代は「秀郷」で、「大織冠藤原鎌足之裔左大臣魚名第四男伊豫守藤成之曾孫」との説明が記されています。〝興国の大津波〟記事は、十四代目「秀光」の次の傍注に見えます。

 「左衛門尉、或左衛門佐、従五位上、又左馬頭。小字藤太。時有海嘯、大圯外濱之地。十三ノ城、亦壊。故城于大光寺居之。正平四年十二月五日卒、年五十五、葬于宮舘」〔句読点は古賀による〕

〔釈文〕左衛門の尉(じょう)、或いは左衛門の佐(すけ)、従五位上、又、左馬頭。小字は藤太。時に海嘯有りて、外濱之地を大いに圯(こぼ)つ。十三ノ城、亦壊れる。故にここ大光寺を城とし、之に居す。正平四年(1350年)十二月五日卒、年五十五、ここ宮舘に葬る。〔古賀による〕

 この記事では「秀光」の没年齢を「五十五」としており、「五十一」とする他史料(『津軽系図略』『津軽古系譜類聚 全』)とは異なります。また、海嘯の発生により、「外濱之地」(津軽半島の北東部)も大きな被害があったとしています。これも他史料(同前)には見えません。

 更に微妙な問題として、海嘯の発生年次が記されていないことがあります。「東日流外三郡誌」の場合はほとんどが「興国二年(1341)」、『津軽系図略』には「興国元年(1340)」とされています。そして、『津軽古系譜類聚 全』には「秀光」の治世中を意味する「此時」とあり、具体的な年次は記されていません。もしかすると、それら史料の編纂時には、海嘯発生を興国元年とする史料と興国二年とする史料が併存していたため、どちらが正しいのか不明なため、具体的年次を記さない系図が成立したのではないでしょうか。他方、秀光の没年は「正平四年」と具体的に書いていることを考えると、年次に複数説があり、どちらが正しいのか判断できない場合は、「此時」という幅のある表記を採用したのではないかと思います。

 なお、秀光の没年齢が「五十五」であり、他史料の「五十一」とは異なっていますが、その理由が誤記誤伝なのか、もし誤記誤伝ならば、なぜそうしたことが発生したのかは未詳です。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3110話(2023/09/11)〝興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」〟
同「洛中洛外日記」3111話(2023/09/12)〝“興国の大津波”の伝承史料「津軽古系譜類聚」〟
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
③陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。
④「前代御系譜」『津軽古記鈔 津軽系図類 信政公代書類 前代御系譜』成立年次不明。
⑤長谷川成一「津軽十三津波伝承の成立とその性格 ―「興国元年の大海嘯」伝承を中心に―」(『季刊 邪馬臺国』53号、梓書院、1994年)では、「『前代御系譜』は文化九年の写であると推察される。」とする。


第3111話 2023/09/12

〝興国の大津波〟の伝承史料

       「津軽古系譜類聚」

 津軽を襲った〝興国の大津波〟については、「東日流外三郡誌」の他にも、明治十年(1867年)に刊行された『津軽系図略』(注①)があります。更に江戸時代(文化九年、1812年)に成立した『津軽古系譜類聚 全』(注②)にも見えます。両書の当該部分(「秀光」の傍注)を転載します。

 「興国元年八月海嘯大ニ起津波津軽大半覆没シテ死者十万余人十三城壊ル自是平賀郡大光寺ニ城築之ニ居ル(後略)」(『津軽系図略』)
〔釈文〕興国元年(1340)八月、海嘯大いに津波を起こし、津軽の大半が覆没し、死者十万余人、十三城が壊れる。これより平賀郡大光寺に城を築き、之に居る。〔古賀による〕

 「此時、海嘯大起リ、津輕之地悉被覆没、人民多死亡、十三城亦壊ル。故築干大光寺、居之。丗人或称大光寺氏。正平四年十二月五日卒五十一」(小山内建本撰「御系譜要綱」『津軽古系譜類聚 全』)〔句読点は古賀による〕

 「此時、海風大起、津軽之地悉覆没、人民多死亡、十三城亦壊。故築干大光寺、居之。世人或称大光寺氏。正平四年己丑十二月五日卒五十一、葬干宮舘」(小山内建本撰「近衛殿御當家 両統系譜全圖」『津軽古系譜類聚 全』)〔句読点は古賀による〕

 これらの系図・系譜に見える「秀光」(没年は正平四年・1350年)の治世期は興国年間(1340~1346年)を含んでおり、系譜に記された「此時」の「海嘯」「海風」を〝興国の大津波〟と考えて何の矛盾もありません。
また、今回紹介した『津軽古系譜類聚 全』は文化九年(1812年)の成立とされており、秋田孝季らが「東日流外三郡誌」を編纂した寛政年間(1789~1801年)とほぼ同時期です。当時、それぞれの編者が津軽の史料や伝承を採集し、〝大津波〟を記録していることから、津軽を襲った興国の大津波伝承が巷間に遺っていたことと思われます。

 以上のように、江戸時代に〝興国の大津波〟が伝承されていたことを考えても、「起きもしなかった〝興国の大津波〟を諸史料に造作する、しかも興国年間(元年、二年)と具体的年次まで記して造作する必要などない」と言わざるを得ません。

 これは法隆寺再建論争で、〝燃えてもいない寺院を、燃えて無くなったなどと、『日本書紀』編者が書く必要はない〟と喝破した喜田貞吉の再建論が正しかったことを想起させます。いずれも、史料事実に基づく論証という文献史学の学問の方法に導かれた考察です。いずれは、発掘調査という考古学的出土事実に基づく実証によっても、証明されるものと確信しています。

(注)
①下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。
②陸奥国弘前津軽家文書「津軽古系譜類聚」文化九年(1812年)。国文学研究資料館のデジタルアーカイブで閲覧できる。
https://archives.nijl.ac.jp/G000000200300/data/00147


第3110話 2023/09/11

興国二年大津波の伝承史料「津軽系図略」

 地震学者の羽鳥徳太郎さんの「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」(注①)に、「東日流外三郡誌」の興国二年大津波の記事が紹介されています。この〝興国の大津波〟については、他の史料にも記されています。和田家文書「東日流外三郡誌」偽作キャンペーンには、〝興国の大津波〟は「東日流外三郡誌」のみに見られる記事であり、史実ではないとする主張もあるようです。しかし、管見では〝興国の大津波〟は他の史料中にも見えます。その一つ、「津軽系図略」(注②)を紹介します。

 「津軽系図略」は明治十年に編集発行された津軽氏の系図です。初代を藤原秀榮(ヒデヒサ。同系図には藤原基衡の第三子秀衡の舎弟とあります)とし、弘前津軽家の大浦為信(津軽為信)を経て、明治九年に没した昭徳(アキヨシ)まで記されています。冒頭の8代は次のようです。

○秀榮 ― 秀元 ― 秀直 ― 頼秀 ― 秀行 ― 秀季 ― 秀光 ― 秀信 ―(以下略)

 7代目の秀光の傍注に次の記事が見えます。

 「興国元年八月海嘯大ニ起津波津軽大半覆没シテ死者十万余人十三城壊ル自是平賀郡大光寺ニ城築之ニ居ル(後略)」

〔釈文〕興国元年(1340)八月、海嘯大いに津波を起こし、津軽の大半が覆没し、死者十万余人、十三城が壊れた。これより平賀郡大光寺に城を築き、之に居る。〔古賀による〕

 海嘯(かいしょう)とは、地震による津波、あるいは満潮の影響で河口に入る潮波が河を逆流する現象です。「十三城が壊る」とあるのは、13の城が壊れたということではなく、十三湊にあった居城(十三城・トサ城)が壊れたと解されます。というのも、初代秀榮の傍注に「康和中陸奥國津軽、江流澗郡、十三ノ港城ヲ築テ是ニ住ム」とあり、その後、秀光が平賀郡の大光寺に築城するまで、居城が代わったという記事が同系図には見えないからです。

 同系図の傍注記事で注目されるのは、〝興国の大津波〟が「東日流外三郡誌」に見える興国二年(1431)ではなく、興国元年(1430)とされていることと、「八月」や「これより平賀郡大光寺に城を築き、之に居る。」と、内容が具体的であることです。津軽藩主の遠祖からの系図ですから、いわば〝津軽家公認〟の史料に基づく系図と思われ、民間で成立した「東日流外三郡誌」とは史料性格が異なっています。そうした双方の史料中に〝興国の大津波〟が伝承されていることから、興国年間に津軽が大津波に襲われたことは史実と考えざるを得ません。起きもしなかった〝興国の大津波〟を諸史料に造作する、しかも興国年間(元年、二年)と具体的年次まで記して造作する必要など考えにくいのです。

 以上の考察から、「東日流外三郡誌」は津軽の貴重な伝承史料集成であり、研究に値する史料であると考えられます。常軌を逸した偽作キャンペーンにより、学界がこうした史料群の研究を避けている状況は残念と言うほかありません。

(注)
①羽鳥徳太郎「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」『津波工学研究報告15』東北大学災害科学国際研究所、1998年。
②下澤保躬「津軽系図略」明治10年(1877)。


第3109話 2023/09/10

地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (3)

 地震学者の羽鳥徳太郎さんの「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」(注①)には、「東日流外三郡誌」の興国二年大津波の記事が引用されています。次の通りです。

〝3.津波の史料・伝承
「東日流外三郡誌」は全6巻の活字体で刊行されており(八幡書院(ママ)、東京大崎)、十三湊の津波に関する史料はその一部分である。都司(1989)は詳しく検討し、「人為的な虚構で補われたとみられる記事が、本来の伝承と渾然一体となって記され、史料の価値を低下させている」と論評した。史料の一つとして、安部水軍四散録には次のようにある。
「興国二年の大津浪に依る十三湊中島柵水軍は壊滅す。折よく渡島及び出航の安部水軍は急ぎ帰りけるも、十三湊は漂木に依れる遠浅の為に、巨船は入湊し難く、(中略)波浪に亡命生存のあてもなく惨々たる十三湊は幾千の死骸は親族さえも不明なる程に無惨に傷付きて、陸に寄せあぐ骸には、無数のアブやウジ虫の喰込や亦、鴉は鳴々として人骸をついばむ相ぞ、此の世さなが(ママ)の生地獄なり」(注②)とある。後世の創作であろうか。明治三陸大津波の惨状を連想させるほど、凄惨な描写が生々しい。(中略)
そのほか、水戸口での地変の記事が注目される。地震による地殻変動または津波で起こされた漂砂か、近年の津波でも港口付近でときどき起こる現象である。
中世には、十三湊の集落は地盤高2m前後の低地にあったことが検証され、現在よりも津波災害を受けやすい状態であったようだ。壇臨寺は、津波で流出したと伝えられている。湖面を基準にハンドレベルで測ると、跡地の地盤高は約1.5mである。津波の高さが4m程度に達すれば、流出の可能性があろう。〟

 以上のように、羽鳥さんは「東日流外三郡誌」の興国二年大津波の描写を「後世の創作であろうか。明治三陸大津波の惨状を連想させるほど、凄惨な描写が生々しい。」と、伝承すべき貴重な史料と捉えています。地震学者のこの警鐘を、和田家文書偽作説により埋もれさせてはならないと思います。

(注)
①羽鳥徳太郎「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」『津波工学研究報告15』東北大学災害科学国際研究所、1998年。
②この記事の出所を調べたところ、『東日流外三郡誌2』(八幡書店版)の「安倍水軍四散禄」(509~510頁)であった。若干の文字の異同・脱字があるため、八幡書店版の記事を転載する。
「安倍水軍四散禄
興国二年の大津浪に依る十三湊中島柵水軍は壊滅す。折よく渡島及び出航の安倍水軍は急ぎ帰りけるも、十三湊は漂木と埋土に依れる遠浅の為に、巨船は入湊し難く再びその安住地を求め何処へか去りにけり。
亦、波浪に亡命生存のあてもなき惨々たる十三湊は幾千の死骸は親族さえも不明なる程に無惨に傷付きて、陸に寄せあぐ骸には、無数のアブやウジ虫の喰込や、亦鴉は鳴々として人骸をついばむ相ぞ、此の世さながらの生地獄なり。
安倍一族が栄えし十三湊、今は昔に復すこと叶ふ術もなし。」


第3108話 2023/09/09

地震学者、羽鳥徳太郎さんの言葉 (2)

 地震学者の羽鳥徳太郎さん(1922~2015年)はフィールドワークや地方の津波伝承などを重視するという研究者で、「いつ起こるかわからない自然災害の備えには、まず、先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史を知り、教訓を引き出し、これを伝承することだ」(注①)との〝格言〟を遺しました。この格言を自ら実行し、「先人の尊い犠牲が刻まれた郷土の歴史」の一つとして、『東日流外三郡誌』を論文に紹介しています。それは、「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」(注②)という論文です。論文冒頭の「1.はじめに」には、次のように記されています。

 〝青森県北津軽郡市浦村の十三湖周辺には、縄文時代の石器土器のほか、中世のころの国内各地の陶器や韓国・中国製の清(ママ)磁・白磁の器が大量に出土し、城跡や社寺の史跡が点在する。十三湊(とさみなと)は、鎌倉時代から室町時代にかけて地方豪族安藤(安東)氏が支配し、貿易都市として繁栄していたという。それが「地震と津波で消滅」という伝承が、地元で根強く語り伝えられている。十三湖口には、1983年日本海中部地震を記念する「津波の塔」が建てられ、興国の津波で死亡十万余人の文字が刻まれている。
(中略)最近、歴史民族(ママ)博物館・富山大学による発掘調査では、集落跡の遺構に津波の痕跡が見当たらず、津波説を否定した。
一方、筆者らは(羽鳥・片山、1977)日本海沿岸での津波調査の一環として、初めて興国津波を取り上げた。出典は、江戸中期に津軽地方の歴史・地誌を収録した「東日流外三郡誌」によったのである。同誌は明治時代に創作が加えられ、都司(1989、1994-5)は歴史家の評価と同じく偽書と断定し、津波を疑問視している。(中略)
本稿では十三湖近海に波源域を想定して津波の挙動を検討し、問題点を整理してみる。〟

 このあとの「3.津波の史料・伝承」で、「東日流外三郡誌」に記された興国2年の大津波の記事が紹介されます。(つづく)

(注)
①「思則有備」(https://shisokuyubi.com/bousai-kakugen/index-715)では、羽鳥氏の格言の出典を、読売新聞(1993(平成5)年8月7日夕刊)の記事「高角鏡:『歴史津波』に学ぶ」と紹介している。
②羽鳥徳太郎「興国2年(1341)津軽十三湊津波の調査」『津波工学研究報告15』東北大学災害科学国際研究所、1998年。


第3086話 2023/08/01

『東京古田会ニュース』No.211の紹介

 『東京古田会ニュース』211号が届きました。拙稿「伏せられた『埋蔵金』記事 ―「東日流外三郡誌」諸本の異同―」を掲載していただきました。『東日流外三郡誌』には三つの校本があるのですが、北方新社版には欠字が多く、それは「埋蔵金」の隠し場所を記した部分であり、「埋蔵金」探しにより遺跡が荒らされることを懸念した編集者(藤本光幸さん)の判断により、欠字にされたことを拙稿では紹介しました。更に、八幡書店版編纂時には遺跡の地図が描かれた「東日流外三郡誌」五冊が既に紛失しており、それを所持している人が〝宝探し〟をしているという情報を得たことも紹介しました。すなわち、当時(昭和50~60年代)の地元の人々は、「東日流外三郡誌」を偽書とは思っていなかったのでした。このことは偽作説への反証となるため、論文発表を考えていましたが、古田先生に止められた経緯もあり、それから20年以上を経て、今回、ようやく発表に至りました。

《『東日流外三郡誌』3校本》
(ⅰ)『東日流外三郡誌』市浦村史資料編(全三冊) 昭和五〇~五二年(一九七五~一九七七年)。
(ⅱ)『東日流外三郡誌』北方新社版(全六冊) 小舘衷三・藤本光幸編、昭和五八~六〇年(一九八三~一九八五年)。後に「補巻」昭和六一年(一九八六年)が追加発行された。
(ⅲ)『東日流外三郡誌』八幡書店版(全六冊) 平成元年~二年(一九八九~一九九〇年)。

 当号には印象深い論稿がありました。一面に掲載された安彦克己新会長のご挨拶です。会長就任の決意を次のように語られています。

「古田先生が亡くなられて早7年余りが過ぎました。東京古田会に限らず各地には、先生の謦咳を受け、先生の論説に共感し、また研究方法に共鳴した学徒がたくさんおられます。通説を疑う論稿はその後も続々と発表されています。
しかし、諸々の理由で会員数が減少傾向にあるのは、否めない状況です。一方でミネルヴァ書房から出版されている「古田武彦古代史コレクション」に接して、共に学び・研究したいと入会を希望する方も常におられます。この会が、そうした学徒の思いに応えられる場であり、知的空間となりますよう、微力ながらお手伝いできればと思っております。私自身も、今まで以上に史料を読みこみ、新たな発見につながるよう勉強することをお誓いいたします。」

 このご挨拶に接し、わたしたち「古田史学の会」も同じ志を高く高く掲げ、ともに歩んでいきたいと改めて思いました。同号には8月5日の東京講演会の案内を同封していただきました。東京古田会様のご協力に感謝します。


第3080話 2023/07/26

「役小角一代」と

  東日流外三郡誌の史料性格

 飯詰村山中の洞窟から発見された「役小角一代」と東日流外三郡誌は共に「和田家文書」と呼ばれてきましたが、和田家が山中から発見した文書と、秋田孝季と和田吉次により執筆編纂された和田家伝来文書とでは史料性格が異なります。今回はこの点について簡単に説明します。

 東日流外三郡誌などの孝季らが編纂した文書は、安倍・安東の歴史を叙述するとともに津軽の伝承を集録するという編纂目的があり、安倍・安東の歴史的正当性を主張するという基本思想に基づいています。古田先生はこの史料性格を〝津軽皇国史観〟と呼ばれたことがありました。その表れの一つが、「津軽」のことを「東日流」とする表記(当て字)することです。東日流外三郡誌を筆頭にこの当て字が採用されています(一部に「津軽」表記も見える。注①)。〝東の太陽が流れる〟あるいは〝東へ太陽が流れる〟という意味にもとれる雄大なイメージの当て字を採用したと思われます。なお、「東日流」という表記は和田家文書よりも成立が早い他の中近世文書にも見えます(注②)。

 他方、「北落役小角一代」「大師役小角一代」には「東日流」という表記は見えず、前者は「國末石化嶽」(注③)、後者は「国末石化嶽」「国末津刈石化嶽」(注④)と記されています。この「国末」という表記は、「東日流」の文字が持つイメージとは異なっています。このことは、東日流外三郡誌等の和田家伝来史料とは編纂者が異なっていることと対応していますし、和田家も〝洞窟から発見した〟と説明してきました。山中の洞窟からの発見史料は、江戸期に成立し明治~昭和初期にかけて和田家で書写が続けられた、いわゆる「和田家文書」とは別の名称がふさわしいようです。

(注)
①和田喜八郎『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』(八幡書店、1989年)などに「津軽諸翁聞取帳」の表題を持つ和田家文書の写真が掲載されている。同表題の「津軽」の右側に小文字で「東日流」の傍書がある。
②『青森県史資料編中世2』(青森県史デジタルアーカイブ)に「東日流記」(高屋豊前編)の表題を持つ史料(17世紀成立)が掲載されている。弘前図書館蔵。
③古賀達也「洛中洛外日記」3077話(2023/07/23)〝藤田さんから朗報、「役小角」銅板銘データ〟
④藤田隆一「大師役小角一代」
https://shugen.seisaku.bz/


第3079話 2023/07/25

昭和26年、

  東奥日報が報道「和田家の隕石」

 「洛中洛外日記」3076話(注①)で、昭和24年に和田元市・喜八郎親子が飯詰村梵珠山中の洞窟から発見した銅製銘板や佛像・仏具・木皮文書が地元で評判になったことが昭和26年8月29日付「東奥日報」に掲載されていることを紹介しました。その前日の東奥日報にも和田家所蔵の隕石の記事が掲載されていました。このことも論文で紹介しました(注②)。同記事のコピーも見つかりましたので、論文の関係部分を転載します。

【以下、転載】
昭和二六年当時は比較的公正な記事を掲載しているようだ。たとえば、同年八月二八日の紙面 に「八百年前の隕石 飯詰村和田君保存」という見出しで次の様な記事が見える。

「北郡飯詰村の史跡を調査中の考古学者中道等氏は、古墳並に佛像、佛具、舎利壺を発見、保管している飯詰村民和田喜八郎君(二四)の宅から日本には珍しい流れ星の破片である隕石を見附けた。この隕石は重さ二百匁、高さ二寸五分、底辺三寸の三角形で約八百年位 以前に落下して風化したもので隕石としてはやや軽くなっている。
和田君の語るところでは古墳の祭壇に安置されていたもので古代人も不思議に思って神としていたものであるといわれている。」

 この記事に並んで、隕石の写真が掲載されている。翌二九日にも、「山岳神教の遺跡発見 飯詰村山中に三つの古墳」という見出しで、和田家が発見した佛像・佛具などについての中道氏の見解などが掲載されている。その記事によれば、当時和田家が発見保管している物として、佛像十六体、木皮に書かれた経文百二十五枚、唐国渡来の佛具、青銅製舎利壷二個が紹介され、「国宝級」と評している。
こうした遺物を和田家が昭和二四年頃から集蔵している事実を見ても、昨今の偽作説がいかに成立困難なものであるかは明白だ。
図書館での調査を終え、和田喜八郎氏へ電話で隕石の記事のことを話すと、「その隕石ならあるよ。見せるから明日来てくれ」とのこと。四十年以上も昔のことなので、今では紛失しているのではと心配していたが、和田家で大切に保管されていたのだった。
翌朝、古田先生や札幌の吉森政博さん(古田史学の会・北海道)と合流し、和田氏が待つ石塔山へ向かった。相変わらずサービス精神旺盛な喜八郎氏は遠来の私たちにその隕石をはじめ様々な遺物を提示された(隕石はその重さなどから隕鉄のように思われた)。
【転載終わり】

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3076話(2023/07/22)〝昭和26年、東奥日報が山岳遺跡発見を報道〟
②古賀達也「平成諸翁聞取帳 天の神石(隕石)編」『古田史学会報』10号、1995年。
「続・平成諸翁聞取帳 『東日流外三郡誌』の真実を求めて」『新・古代学』3集、新泉社、1999年。

【写真】昭和26年8月28日付「東奥日報」

昭和26年8月28日付「東奥日報」

【写真】昭和26年8月28日付「東奥日報」 八百年前の隕石 飯詰村 和田君保存


第3078話 2023/07/24

二つの「役小角一代」史料

 和田家が昭和24年に洞窟から発見した「北落役小角一代」のテキストデータを送っていただいた藤田隆一さん(多元的古代研究会・会員)からは玉川宏さん(秋田孝季集史研究会・事務局長)が再写した「大師役小角一代」のデータもいただきました。同史料の存在は知っていましたが、全容は初めて見ました。「洛中洛外日記」に全文を掲載したいのですが、テキストファイルで60KBもあり、容量が「洛中洛外日記」としては大きすぎますので、別途、公開方法を検討したいと思います。なお、訓み下し文は藤田さんがネット上で公開されており(注①)、ご参照下さい。

 また、藤田さんからは2018年に発表された研究資料の提供も受けました(注②)。和田家文書中の役小角史料を紹介・解説したもので、初学者にもわかりやすく内容も優れたものでした。藤田さんのサイトには〝これらの史料は玉川宏さんによれば、1990年代に旧森田村歴史民俗資料館(青森県)の館長さんより入手したものだそうです。これは「森田村古文書解読研究会」がコピーした「大師役小角一代(原漢文)」という資料です。その注釈を見ると、これは開米智鎧さんが作成した一次写本の写しのようです。〟とあります。

 ちなみに「洛中洛外日記」3077話(注③)で公開した銅板銘文「北落役小角一代」(1185字)はテキストファイルで3KBですから、単純計算で比較しても60KBの「大師役小角一代」は二万字を越えます。このような大量の和風漢文史料(銅銘板あるいは木皮文書)を戦後間もない昭和24年当時、炭焼きを生業としていた和田家に偽造できるはずがないことは一目瞭然です。偽作者と名指しされた和田喜八郎氏に至っては当時まだ22歳です。世の偽作論者に問いたい。あなたが22歳の時、二万字にもおよぶ漢文の史料(銅板銘や木皮文書)を山中の炭焼き小屋で働きながら書けましたかと。地元紙やメディアにより数十年にわたって延々と繰り返された非道な偽作キャンペーンにより、和田家は〝一家離散〟しました。その責任をどうとるつもりですか。答えていただきたい。(つづく)

(注)
①藤田隆一「大師役小角一代」
https://shugen.seisaku.bz/
②同「役行者の金石文」2018年4月14日
https://shugen.seisaku.bz/etc/En-nogyoujaNoKinsekibun.pdf
同「役行者の金石文(改訂版)」2018年10月27日
③古賀達也「洛中洛外日記」3077話(2023/07/23)〝藤田さんから朗報、「役小角」銅板銘データ〟

【写真】「大師役小角一代」再写本

【写真】「大師役小角一代」再写本