和田家文書一覧

第2580話 2021/09/25

『東日流外三郡誌』公開以前の和田家文書

『飯詰町諸翁聞取帳』

  昭和24年、福士貞蔵氏が紹介

昭和50年頃から『市浦村史』資料編として世に出た『東日流外三郡誌』よりも先に公開された和田家文書があります。それは『飯詰町諸翁聞取帳』(注①)というもので、『飯詰村史』に多数引用されています。『飯詰村史』は昭和26年に刊行されていますが、編者の福士貞蔵氏による「自序」には昭和24年の年次が次のように記されており、終戦後間もなく編集されたことがわかります。

「昭和廿四巳(ママ)丑年霜月繁榮を極めたる昔の飯詰町を偲びつゝ
七十二翁 福士貞蔵識之」

福士氏は『飯詰町諸翁聞取帳』を学会誌(注②)にも紹介されています。「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」という論文です。

〝(前略)然るに今回端なくも飯詰本村に於て意外の史料を発見した。
記録は『諸翁聞取帳』といって、飯詰を中心に隣村の史實を或る文献より寫したり、又は口碑傳説など聞取った事柄を書留めた物で、筆者と同じく餘り學力のある方ではないらしく、文体は成って居らんし、それに用語も無頓着で意味の判らぬ個所もあるが、全く耳新しい史料であるから、同好の士に紹介することにした。〟『陸奥史談』第拾八輯、昭和26年(1951)、20頁

このような前文に続いて、「高舘城系譜」という史料を転載されています。『飯詰村史』にも同文の「高舘城系譜」が転載されていますから、『陸奥史談』で紹介された『諸翁聞取帳』は『飯詰村史』に多数引用された『飯詰町諸翁聞取帳』のことであることがわかります。おそらく『飯詰町諸翁聞取帳』表紙には「飯詰町」と「諸翁聞取帳」を二行わたって表題が識されていたと推定されますから、『飯詰町諸翁聞取帳』と『諸翁聞取帳』という二つの書名が現れたと思われます。『飯詰村史』123頁には「諸翁聞取帳」という表記も見え、このことを裏付けています。なお、和田家文書には『東日流 津軽諸翁聞取帳』(注③)という史料があり、これも表紙には「東日流」と「津軽諸翁聞取帳」の二行表記になっています。
ちなみに『飯詰村史』の「編輯を終へて」には福士氏により次の謝辞があり、『飯詰町諸翁聞取帳』は和田家文書であることがうかがえます。

「本史編纂に當り、資料提供せられたる青弘両圖書館長、岩見常三郎、種市有隣、大久保勇作翁の方々に感謝し、併せて資料蒐集に協力せられし開米智鎧、濱館徹、和田喜八郎等の有志者に對し、茲に敬意を表する。」326頁

昭和24年といえば、和田喜八郎さんが22歳のときであり、専門の歴史研究家である福士氏により『飯詰村史』に引用されるような古文書を偽作できるはずはありません。これは、和田家文書真作説を支持する事実であり、わたしがこのことを指摘(注④)しても偽作論者からの応答反論はありません。この後も、和田家からは多くの古文書が研究者に開示されています。(つづく)

(注)
①五所川原市図書館の福士文庫には福士貞蔵氏の蔵書や研究記録が収蔵されている。その中の「郷土史料蒐集録 第拾壱號」に『飯詰町諸翁聞取帳』が書き写されている。その書名の下に「文政五年 今長太」とあり、同書の成立が文政五年(1822)であり、今長太は編者名と思われる。『飯詰村史』収録の同村絵地図には「今長太」と記された人家が見える。これは『飯詰町諸翁聞取帳』編者と同一人物ではあるまいか。
②福士貞蔵「藤原藤房卿の足跡を尋ねて」『陸奥史談』第拾八輯、陸奥史談會、昭和26年(1951)4月。
③和田喜八郎編『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』八幡書店、1989年。④古賀達也「『和田家文書』現地調査報告和田家史料の『戦後史』」『古田史学会報』3号、1994年11月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga03.html

一冊残った『東日流(六郡語部録) 諸翁聞取帳』原本

一冊残った『東日流(六郡語部録) 諸翁聞取帳』原本

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

『飯詰村史』編者の福士貞蔵氏

古田先生からいただいた『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』。

古田先生からいただいた『東日流六郡語部録 諸翁聞取帳』。


第2579話 2021/09/24

 『東日流外三郡誌』偽作説の根拠の一つに〝『東日流外三郡誌』の編著者である秋田孝季(あきた・たかすえ)が実在した証拠がない〟というものがありました。この偽作説に反論するため、わたしは秋田孝季の名前を求めて、和田家文書以外の史料調査を続けてきました。ところが、視点を変えた素晴らしい研究が発表されました。「洛中洛外日記」392話(注①)で紹介した、太田齊二郎さん(古田史学の会・会員、元副代表)による秋田市土崎地区の「橘」姓調査です。「寛政宝剣額」や『東日流外三郡誌』に記されているように、秋田孝季の居住地として「秋田土崎」が知られていました。更に孝季の元の姓は「橘」とされており、太田さんはこの二つに着目されました。
 和田家文書によれば秋田孝季のもとの名前は橘次郎孝季とされています。孝季の母親が秋田家三春藩主に「後妻」として入ったことにより、橘次郎孝季から秋田孝季と名乗るようになったようです。ですから、秋田土崎は孝季の「実家」の橘家があった可能性が高いのです。全国的に見れば、秋田県や秋田市に橘姓はそれほど多く分布していません。ところが、秋田市内の橘姓の七割が土崎に集中していることを太田さんが発見されました(太田さんは秋田県出身)。

〝孝季の兄「橘太郎守季」の確認がはかどらず、「橘」さん達への電話作戦を思い付き、図書館の資料室で電話帳を開いた時に気づいたのですが、秋田市の人口三十万のうち八万人の旧土崎湊地区に、市内全体で約四十の「橘」のうち七割が集中していたのです。〟(注②)

 この発見により、孝季が『東日流外三郡誌』をなぜ土崎で執筆したのかがわかりました。同書に記されたとおり、実家の橘家が土崎にあったのです。太田さんにより発見された秋田市内に於ける「橘」姓の分布状況は秋田孝季実在の根拠とでき、『東日流外三郡誌』真作説を支持するものです。

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」392話(2012/03/05)〝秋田土崎の橘氏〟
http://furutasigaku.jp/jfuruta/nikki8/nikki392.html
太田齊二郎「孝季眩映〈古代橘氏の巻〉」『古田史学会報』24号、1998年2月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/tugaru24.html

【写真】「寛政宝剣額」と『東日流内三郡誌』。共に「土崎之住人 秋田孝季」とある。

寛政宝剣額 土崎之住人 秋田孝季

寛政宝剣額 土崎之住人 秋田孝季

東日流内三郡誌 土崎之住人秋田孝季

東日流内三郡誌 土崎之住人 秋田孝季

 


第2578話 2021/09/23

『東日流外三郡誌』真実の語り部(4)

「門外不出、他見無用」文書の公開(和田章子さん)

 1995年5月4日、石塔山荒覇吐神社を訪れたわたしは、和田喜八郎さんのご長女、和田章子(わだ・ふみこ)さんに聞き取り調査を行いました。偽作論者達が偽作の証拠とした、喜八郎さんが書いたとする手紙・原稿類の筆跡確認が目的でした。そのおり、昭和五十年頃に『東日流外三郡誌』を『市浦村史』資料編として世に出されるに至った和田家内の状況について、章子さんの証言が得られましたので紹介します。経緯の詳細は、古田史学の会HP「新・古代学の扉」に収録された『古田史学会報』8号をご覧下さい(注①)。

【以下、『古田史学会報』8号から部分転載】
 本年(1995年)の五月四日、石塔山荒覇吐神社で和田喜八郎氏の娘さんにお話をうかがうことができた。偽作論者たちが入手した喜八郎氏の自筆原稿とされているもの(『季刊邪馬台国』五一号グラビア「和田喜八郎氏の自筆原稿」)が、娘さんの字であると、古田先生から聞いていたので、別原稿についても同様の確認をとることが目的であった。
 それは藤本光幸氏から借りた、『東日流内三郡誌』を原稿用紙に書き写したものだ。それを見せて、娘さんの筆跡であるかどうかを問うた。

 「たぶん私の字だと思いますが、昔のことなのではっきりとは断言できません」
 「こうした原稿用紙への書写や清書をよくされるのですか」
 「はい。父は字がへたなので、私がよく清書します」
 「文章そのものを書き直されることはありますか」
 「はい。文章がおかしいところは私が直すこともあります。でも、そのことがどうかしたのでしょうか」

 娘さんは筆跡が問題となっていることをご存じ無いようであった。私が、偽作論者は筆跡鑑定の基礎を取り違えていること、従って「喜八郎氏の自筆原稿」とされるものが娘さんの字であるという事実は、偽作論を根底から崩すものであることを説明すると、

 「“父の字”とされた私の字と文書の字は、そんなに似ているのでしょうか。」

 と、筆跡に関して率直な疑問を呈され、

 「助けて下さい。子供は学校でいじめられて泣いて帰って来ます。働きに出ても、父の名前は出せなくなりました。どうか助けて下さい。」

 と、深々と床に頭を下げられるのであった。そして、私からの質問に答えて、ぽつりぽつりと話しだされた。

 「家の文書のことをはっきりと知ったのは高校生の時でした。『東日流外三郡誌』を出すかどうかで、家族が話し合っているのを聞いて、文書のことを知りました。家族の者はみんな反対でした。しかし、父が出すことを決断しました。」
【転載、おわり】

 『東日流外三郡誌』が世に出たのは、和田家内での深刻な討議と決断の結果だったのでした。「門外不出、他見無用」と記された文書を出すのですから、和田家でのこうしたいきさつは痛いほどわかります。現に偽作キャンペーン(注②)により、その心配は現実のものとなったのですから。(つづく)

(注)
①古賀達也「『新・古代学』のすすめ ―「平成・諸翁聞取帳」―」『古田史学会報』8号、1995年8月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga08.html
②当時、古田先生やわたしたちへのバッシング・偽作キャンペーンは、NHKや週刊誌(『朝日芸能』他)、雑誌(『季刊邪馬台国』他)、地方紙をも巻き込んだもので、猖獗を極めた。和田喜八郎氏への誹謗中傷・人格攻撃に至っては、文章にするのも憚られるほどの悪質なものがあった。

【写真】『東日流外三郡誌』明治写本。冊子本がほとんどだが「大福帳」タイプのものも少数ある。

『東日流外三郡誌』明治写本冊子本

『東日流外三郡誌』明治写本冊子本

『東日流外三郡誌』明治写本。冊子本

『東日流外三郡誌』明治写本。冊子本

『東日流外三郡誌』明治写本「大福帳」タイプ

『東日流外三郡誌』明治写本「大福帳」タイプ


第2577話 2021/09/22

『東日流外三郡誌』真実の語り部(3)

 「金光上人史料」発見のいきさつ
(佐藤堅瑞さん)

『東日流外三郡誌』が『市浦村史』資料編で紹介されるよりも早く、昭和二四年頃には当地の歴史研究者には和田家文書の存在が知られていました。そこで、当時のことを知っている人の証言を得るために、わたしたちは津軽半島各地を行脚しました。そしてようやく証言を得ることができました。1995年5月5日、青森県仏教会々長の佐藤堅瑞さん(柏村淨円寺住職。インタビュー当時、80歳)から次の証言をいただきました。その一部を抜粋して紹介します。全文は古田史学の会・HP「新・古代学の扉」に収録しています(注①)。

【以下、抜粋して転載】
インタビュー 和田家「金光上人史料」発見のいきさつ
佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・淨円寺住職)に聞く

昭和二十年代、和田家文書が公開された当時のことを詳しく知る人は少なくなったが、故開米智鎧氏(飯詰・大泉寺住職)とともに和田家の金光上人史料を調査発表された青森県柏村淨円寺住職、佐藤堅瑞氏(八十才)に当時のことを語っていただいた。(中略)「正しいことの為には命を賭けてもかまわないのですよ。金光上人もそうされたのだから。」と、ご多忙にもかかわらず快くインタビューに応じていただいた。その概要を掲載する。(編集部)

――和田家文書との出会いや当時のことをお聞かせ下さい。

昭和二四年に洞窟から竹筒(経管)とか仏像が出て、すぐに五所川原で公開したのですが、借りて行ってそのまま返さない人もいましたし、行方不明になった遺物もありました。それから和田さんは貴重な資料が散逸するのを恐れて、ただ、いたずらに見せることを止められました。それ以来、来た人に「はい、どうぞ」と言って見せたり、洞窟に案内したりすることはしないようになりました。それは仕方がないことです。当時のことを知っている人は和田さんの気持ちはよく判ります。
金光上人の文書も後から作った偽作だと言う人がいますが、とんでもないことです。和田さんに作れるようなものではないですよ。どこから根拠があって、そういうことをおっしゃるのか、(中略)安本美典さんでしょうか、「需要と供給」だなんて言って、開米さんや藤本さんの要求にあわせて和田さんが書いたなどと、よくこんなことが言えますね。

――和田家文書にある『末法念仏独明抄』には法華経方便品などが巧みに引用されており、これなんか法華経の意味が理解できていないと、素人ではできない引用方法ですものね。

そうそう。だいたい、和田さんがいくら頭がいいか知らないが、金光上人が書いた『末法念仏独明抄』なんか名前は判っていたが、内容や巻数は誰も判らなかった。私は金光上人の研究を昭和十二年からやっていました。
それこそ五十年以上になりますが、日本全国探し回ったけど判らなかった。『末法念仏独明抄』一つとってみても、和田さんに書けるものではないですよ。

――内容も素晴らしいですからね。

素晴らしいですよ。私が一番最初に和田さんの金光上人関係資料を見たのは昭和三一年のことでしたが、だいたい和田さんそのものが、当時、金光上人のことを知らなかったですよ。

――御著書の『金光上人の研究』(注②)で和田家史料を紹介されたのもその頃ですね(脱稿は昭和三二年頃、発行は昭和三五年一月)。

そうそう。初めは和田さんは何も判らなかった。飯詰の大泉寺さん(開米智鎧氏)が和田家史料の役小角の調査中に「金光」を見て、はっと驚いたんですよ。それまでは和田さんも知らなかった。普通の浄土宗の僧侶も知らなかった時代ですから。私らも随分調べましたよ。お墓はあるのに事績が全く判らなかった。そんな時代でしたから、和田さんは金光上人が法然上人の直弟子だったなんて知らなかったし、ましてや『末法念仏独明抄』のことなんか知っているはずがない。学者でも書けるものではない。そういうものが七巻出てきたんです。

――和田さんの話しでは、昭和二二年夏に天井裏から文書が落ちてきて、その翌日に福士貞蔵さんらに見せたら、貴重な文書なので大事にしておくようにと言われたとのことです。その後、和田さんの近くの開米智鎧さんにも見せたということでした。開米さんは最初は役小角の史料を調査して、『飯詰村史』(昭和二四年編集完了、二六年発行)に掲載されていますね。

そうそう。それをやっていた時に偶然に史料中に金光上人のことが記されているのが見つかったんです。「六尺三寸四十貫、人の三倍力持ち、人の三倍賢くて、阿呆じゃなかろうかものもらい、朝から夜まで阿弥陀仏」という「阿呆歌」までがあったんです。日本中探しても誰も知らなかったことです。それで昭和十二年から金光上人のことを研究していた私が呼ばれたのです。開米さんとは親戚で仏教大学では先輩後輩の仲でしたから。「佐藤来い。こういうのが出て来たぞ」ということで行ったら、とにかくびっくりしましたね。洞窟が発見されたのが、昭和二四年七月でしたから、その後のことですね。

――佐藤さんも洞窟を見られたのですか。

そばまでは行きましたが、見ていません。

――開米さんは洞窟に入られたようですね。

そうかも知れない。洞窟の扉に書いてあった文字のことは教えてもらいました。とにかく、和田家は禅宗でしたが、亡くなった開米さんと和田さんは師弟の間柄でしたから。

――和田さんは忍海という法名をもらって、権律師の位だったと聞いています。偽作論者はこれもありそうもないことだと中傷していますが。

正式な師弟の関係を結んだかどうかは知りませんが、権律師は師弟の関係を結べばすぐに取れますからね。それでね、和田さんは飯詰の駅の通りに小さなお堂を建てましてね、浄土宗の衣着て、一番最下位(権律師)の衣着て、拝んでおったんです。衣は宗規で決っておりますから、「あれ、権律師の位を取ったんかな」と私はそばから見ておったんです。直接は聞いておりませんが、師弟の関係を結んで権律師の位を取ったと皆さんおっしゃっていました。

――それはいつ頃の話しでしょうか。

お寺建てたのは、洞窟から経管や仏像が出て、二~三年後のことですから昭和二十年代の後半だと思います。

――佐藤さんが見られた和田家文書はどのようなものでしょうか。

淨円寺関係のものや金光上人関係のものです。

――量はどのくらいあったのでしょうか。

あのね、長持ちというのでしょうかタンスのようなものに、この位の(両手を広げながら)ものに、束になったものや巻いたものが入っておりました。和田さんの話では、紙がくっついてしまっているので、一枚一枚離してからでないと見せられないということで、金光上人のものを探してくれと言っても、「これもそうだべ、これもそうだべ」とちょいちょい持って来てくれました。大泉寺さんは私よりもっと見ているはずです。

――和田さんの話しでは、当時、文書を写させてくれということで多くの人が来て、写していったそうです。(中略)それらがあちこちに出回っているようです。

そういうことはあるかも知れません。金光上人史料も同じ様なものがたくさんありましたから。

――和田さんと古文書の筆跡が似ていると偽作論者は言っていますが。

私の孫じいさん(曾祖父)が書いたものと私の筆跡はそっくりです。昔は親の字を子供がお手本にしてそのまま書くんですよ。似ててあたりまえなんです。

――親鸞と弟子の筆跡が似ているということもありますからね。

そうなんです。心魂込めて師が書いたものは、そのまま弟子が受け継ぐというのが、何よりも師弟の関係の結び付きだったんですから、昔は。似るのが当り前なんです。偽物だと言う人はもう少し内容をきちんと調べてほしいですね。文書に出て来る熟語やなんか和田さんに書けるものではありません。仮に誰かの模写であったとしても模写と偽作は違いますから。
和田さんが偽作したとか、総本山知恩院の大僧正まで騙されているとか、普通言うべきことではないですよ。常識が疑われます。

――当時の関係者、福士貞蔵氏、奥田順蔵氏や開米智鎧さんなどがお亡くなりになっておられますので、佐藤さんの御証言は大変貴重なものです。本日はどうもありがとうございました。〔質問者は古賀〕
【転載、おわり】

このインタビューは、1995年5月の連休に「古田史学の会・北海道」会員の皆さんと西津軽郡柏村淨円寺を訪問したときに行ったものです。一週間にわたる調査旅行でしたので多くの収穫に恵まれました。インタビューの前日には、昭和五十年頃に和田家文書のなかでも代表的な文書である『東日流外三郡誌』を『市浦村史』資料編として世に出されるに至った和田家内の状況について、和田喜八郎さんのご長女、和田章子(わだ・ふみこ)さんの証言が得られました。(つづく)

(注)
「インタビュー 和田家「金光上人史料」発見のいきさつ 佐藤堅瑞氏(西津軽郡柏村・淨円寺住職)に聞く」『古田史学会報』7号、1995年6月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou07.html
②佐藤堅瑞『金光上人の研究』昭和三五年(1960年)。

【写真】飯詰村史(昭和24年編集)と同誌に掲載されている和田家が山中から発見した仏像・仏具・舎利壺。

和田家が山中から発見した仏像・仏具・舎利壺

和田家が山中から発見した仏像・仏具・舎利壺

和田家が山中から発見した仏像

和田家が山中から発見した仏像

飯詰村史(昭和24年編集)

飯詰村史(昭和24年編集)


第2576話 2021/09/21

『東日流外三郡誌』真実の語り部(2)

 『東日流外三郡誌』が初めて本格的に世に出たのは、『市浦村史』の資料編(注①)として収録されたときです。その『市浦村史』を刊行された当時の市浦村々長の白川治三郎さん(昭和四六年から3期12年村長を務められた)からお手紙をいただきました。というのも、安本美典氏責任編集『季刊邪馬台国』52号(注②)に掲載された「虚妄の偽作物『東日流外三郡誌』が世に出るまで」という記事で、白川さんに対して、秘宝探しのために公費を支出したなどという誹謗中傷が同誌編集部からなされたため、白川さんの反論を御寄稿いただいたものです。
 秘宝探しのために公費を支出したなどという『季刊邪馬台国』の記事は、事実無根の中傷であり、村の公費支出が事実ならば、記録が残されているはずです。議会の承認がなければそのような支出を村長個人で決められるものでもありません。あまりにひどい中傷記事でしたので、『古田史学会報』6号(注③)に白川さんからの反論を掲載しました。その一部を転載します。

【以下、転載】
○和田氏から発掘調査の費用を出してほしいと申し出たこと。
 この話は村にもちかけられたこともないし、従って公費を出す訳はない。
 他の五~六人のひとが、また藤本氏が多額出資したと言うことも聞いていない。その後秘宝が出ないからと言って、和田氏といざこざがあったと言うことも聞いていない。
 また、村では秘宝探しの発掘もしていないから、和田氏を追及する根拠もない。 

○『東日流外三郡誌』と市浦村関係者が名付けたと言うこと。
 『東日流外三郡誌』を初めて見たのは、昭和四十六年の秋頃と思う。場所は市浦村役場の村長室です。資料は一冊がコピーされてから次の一冊が届けられるので、日数の間隔はかなり費やされている。その都度一冊ずつ、全部読み切らず断片的に見ていた。
 私の記憶では最初から史料に『東日流外三郡誌』と書かれていたと思う。

○秘宝探しに公費支出した責任逃れの為、『外三郡誌』を刊行したと言うこと。
 資料(『東日流外三郡誌』)はこれまでの日本史に書かれなかった、安倍安東氏にまつわる極めて貴重と思われる内容が多く、これを一般に公開して世論を喚起し、その真偽の程を学者の研究にゆだねると共に、安倍安東氏の政策の根底には、混迷せる国際情勢に於てこれからは真に平和な国際社会醸成の為の人権確立や、正しい宗教観が貫かれていること等を世に喧伝したいという目的があった。責任逃れ等とは、とんでもないことだ。

○仏像その他出土品を分けた話。
 村として秘宝発掘の事実はないし、他にも仏像その他発掘による出土品のことは全く聞いていない。従って、これらを出資者が分けたと言う話は全く根拠がない。
【転載おわり】

 以上のような反論を掲載した『古田史学会報』に対して、偽作論者からは〝白川氏はそのようなことは言っていない、『古田史学会報』の内容は詐術〟とする中傷報道がなされました(注④)。そこで『古田史学会報』16号に白川さんのお手紙のコピー(冒頭部分)をそのまま掲載しました。なぜ偽作論者達は〝すぐにばれる嘘〟をつくのか、不思議に思ったものです。こうしたなりふりかまわぬ偽作論者の攻撃は、真実を語る現地の人々の証言に、彼らが追い詰められている証拠と思われました。(つづく)

(注)
①『市浦村史資料編』(上・中・下)市浦村史編纂委員会、昭和五〇年(1975)~昭和五二年(1977)。『市浦村史資料編』刊行以前、『車力村史』(1973年刊。つがる市)にも『東日流外三郡誌』の一部が掲載されているようです。
②「なぜ原本を出さぬ、詐術にまみれた三郡誌騒動」『ゼンボウ』1996年9月号。
③白川治三郎「『季刊邪馬台国』の中傷記事に反論する『東日流外三郡誌』公刊の真実」『古田史学会報』6号、1995年4月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou06.html
④古賀達也「古田史学会報への中傷に反論する 地に堕ちた偽作キャンペーン」『古田史学会報』16号、1996年10月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou16/koga16.html

【写真】白川元村長からの手紙(部分)。『市浦村史資料編』他。

白川元村長からの手紙(部分)

白川元村長からの手紙(部分)

『市浦村史資料編』他

『市浦村史資料編』他


第2575話 2021/09/20

『東日流外三郡誌』真実の語り部(1)

 『東日流外三郡誌』の編著者、秋田孝季(あきた・たかすえ)の名前が記された「寛政宝剣額」を見つけ、青山兼四郎さん(当時72歳、中里町)の証言を得ることができました(注①)。「洛中洛外日記」2572話(2021/09/17)〝『東日流外三郡誌』、「寛政宝剣額」の発見(2)〟で紹介した通りです。それ以降も古田先生とわたしは、津軽の古老達の証言を求める調査を続けました。
 平成6(1994)年8月4日には、山王日吉神社宮司松橋徳夫さん(市浦村・洗磯崎神社宮司)の証言を得ることができました。「寛政宝剣額」が奉納されていた神社宮司の証言ですから、第一級の証言と言えるでしょう。松橋宮司は見るからに誠実な方で、「わたしは神に仕える身ですから、嘘はつけません」と次のように語られ、ビデオ撮影とその公開も了承されました。聞き手は古田先生です(注②)。

(古田)お忙しいところ、どうもすみません。この宝剣額(宝剣額の写真を示しながら)は市浦の教育委員会にあったものでございますが、その前は日枝神社にあったとお聞きしてておりますが、そうでございますか。

(松橋)はい、間違いございません。わたくしが昭和二十四年五月に宮司に就任いたしまして、ここのお神楽は毎年旧の六月の十六日でございまして、その場に参りました時に、昭和二十四年の年に初めてこの額を拝見したわけでございます。

 二十四年でございますね。

 そうでございます。剣が二本と、「奉納御神前日枝神社」というような字は見ておりますけれども、あとは何が書いてあるかよく気をつけなかったのではっきりしたことは判りません。

 この特徴的な図柄でございますから、この二本の宝剣のついた額はあった、ということは間違いございませんですね。

 はい。

 それで、やはりこの宝剣の額のことについて、それまでの氏子さんや氏子総代さんともお話になったわけですね。

 ええ。珍しい額だというので、その時は「ああ、これ古い額ですね」ということを申し上げまして、皆で見ておりました。しかし、下の文字とかは記憶しておりませんので。

 「御神前」とか「日枝神社」とかいうのはあったわけでございますね。

 そうでございます。

 ここに「日枝神社」と書いてありますが、現在、現地で(神社を)拝見しますと「日吉神社」と字は書いてございますね。

 そうでございます。

 発音はやはり「ひえ」神社と。

 そうでございます。東京に同じ日枝神社という神社がございますし、ここは俗に山王様と申し上げまして、昔は山王宮とも言われた神社でございます。いずれにしても「ひえ」神社、字は違っていても「ひえ」神社、「日」の下に「吉」書いても「枝」書いても「ひえ」神社ということでございます。

 京都の比叡山の所にもございますものね。

 はい、そうでございます。

 そうしますと、念を押すようでございますけれど、氏子さんや氏子総代さんも含んで、そういう方々も永年この額には慣れ親しんできておられると。

 ええ、当時の方はそういうことでございますね。

 昭和四十年代の終りの頃か五十年代の初めに教育委員会に移ったということのようで。

 そうでこざいますね。私もはっきり記憶はございませんが、昭和五十年頃ではないかと記憶しております。

 それまでは氏子さんたちもよく慣れ親しんでおられたということでございますね。

 そうです。

 それからもう一つお聞きしておきたいのですが、先ほど、文字が「奉納御神前」とか「日枝神社」というのははっきり憶えていると、他ははっきり憶えていなかったと仰ったんですが、しかし、ここ(額面の「秋田孝季」「東日流外三郡誌」などの部分)にこういうふうに文字があったこと自身はよく憶えておられるのですね。

 ええ、それは書いてあったことはよく憶えております。その時分まだ興味はなかったものですので、はっきりしたことは憶えておりません。ただ文字が書いてあったことは記憶しております。

 こういう感じの字面というか、姿をしておったわけですね。

 はい

 貴重な御証言、どうもありがとうございました。

 以上の証言を得ました。次いで、市浦村元村長の白川治三郎さん(『東日流外三郡誌』や「宝剣額」写真を収録した『市浦村史』発刊時の村長)からはお手紙をいただきました。(つづく)

(注)
①古賀達也「特集/和田家文書 秋田孝季奉納額の「発見」 「和田家文書」現地調査報告」『古田史学会報』創刊号、1994年6月
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga01.html
「山王日吉神社宮司松橋徳夫氏の証言 宝剣額は日吉神社にあった」『古田史学会報』5号、1995年2月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/kaihou05.html

【写真】「寛政宝剣額」と『東日流内三郡誌』

寛政宝剣額 土崎之住人 秋田孝季

寛政宝剣額 土崎之住人 秋田孝季

東日流内三郡誌 土崎之住人秋田孝季

東日流内三郡誌 土崎之住人秋田孝季


第2574話 2021/09/19

竹内強さんの思い出と研究年譜

 昨日(令和三年九月十八日)、古田史学の会・東海の会長、竹内強さん(古田史学の会・全国世話人、愛知県阿久比町議)がご逝去されました(享年七一歳)。謹んで哀悼の意を捧げます。
 昨年の暮れ、竹内さんからお電話がありました。手術入院するとの連絡でした。病状がかなり悪いようで、「古賀さんへのお別れの電話になると思う」と言われ、「お互い、まだ使命があります。使命を果たすまで死ぬことはできません。古田先生ならもっと頑張れと言われるはずです。」と励ますことしか、わたしにはできませんでした。そして、今年春のお電話が最後の会話となりました。
 竹内さんが阿久比町議になられ、研究の第一線から退かれてからも、名古屋出張のおりには夕食をご一緒していました。学問研究のこと、古田史学の将来のこと、議員活動のことなど、話題は尽きませんでした。しかし、体調が良くないようでしたので、町議を引退されてはどうかと、会う度に進言しましたが、地方町議の議員報酬は少ないので若い人では生活ができず、そのため後任の立候補者もなく、辞められないとのことでした。
 竹内さんが町議に立候補する際、古田先生に報告されたのですが、先生は猛反対されました。二時間にわたり立候補への思いを訴えられ、古田先生も最後には「がんばりなさい」と言われたそうです。
 竹内さんは二十年ほど前から「古田史学の会」関西例会に岐阜市から参加されていました。二〇〇三年からは、古田先生の呼びかけに応えて、和田家文書に使用された美濃和紙の紙問屋調査に入られました。そして、廃業した紙問屋の御子孫を探しだし、和田家文書の紙が明治時代の美濃和紙であることをつきとめ、二〇〇五年六月の「古田史学の会」大阪講演会で発表されました。その研究論文「和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」は『和田家資料3 北斗抄』(北方新社)に掲載されました(古田史学の会HPに収録)。
 その経緯を「洛中洛外日記」2570話(2021/09/16)〝『東日流外三郡誌』に使用された和紙(2)〟で紹介したのですが、その翌々日に竹内さんは亡くなられました。偶然とは思えません。和田家文書偽作キャンペーンに抗して、古田先生と古田史学を守り続けてきた同志のご逝去、無念と言うほかありません。
 竹内さんの研究年譜をここに書きとどめ、弔いといたします。

【竹内強さんの研究年譜】
2003/06 古田先生の大阪講演会(「王朝の本質 九州王朝から東北王朝へ」)に参加。先生の呼びかけに応えて、美濃和紙の調査を始める。
2005/05 「法隆寺金石文金銅仏『笠評君観音菩薩立像』の分析」(古田史学の会・関西例会)
2005/06 「和田家文書に使用された美濃紙追跡調査」(古田史学の会・大阪講演会)
2005/08 「安倍仲麻呂『天の原ふりさけみれば…』を考える」(古田史学の会・関西例会)
2005/09 「闇の中に消された『竺志』」(古田史学の会・関西例会)
2006/01 「和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」(『和田家資料3 北斗抄』北方新社)
2006/03 「大安寺伽藍縁起並流記資財帳の中の仲天皇と袁智天皇とは?」(古田史学の会・関西例会)
2006/07 「大野城創建と城門柱の刻書」(古田史学の会・関西例会)
2006/10 「竺志考2」(古田史学の会・関西例会)
2007/02 古田先生のエクアドル調査旅行に同行。
2007/03 「エクアドルの旅─古田武彦と共に」(古田史学の会・関西例会)
2007/08 「『上宮聖徳法王帝説』中のもう一つの九州年号」(古田史学の会・関西例会)
2007/10 古田史学の会・東海会長に就任。その後、古田史学の会・全国世話人に就任。
2008/03 「両面宿儺伝説についての一考察」(古田史学の会・関西例会)
2008/08 「伊予の湯の岡碑文と九州王朝論 ─白方勝氏の歴史観について─」(古田史学の会・関西例会)
2008/09 「『上宮聖徳法王帝説』再考」(古田史学の会・関西例会)
2008/11 「二人の天子と『仁王経』―『隋書』「俀国伝」日出ずる処の天子についての新理解」(古田史学の会・関西例会)
2009/01 「前期難波宮の中の九州王朝」(古田史学の会・関西例会)
2009/03 「愛知県刈谷市の天子神社と海士族の伝播」(古田史学の会・関西例会)
2011/07 「板付水田遺跡は弥生か縄文か」(古田史学の会・関西例会)
2013/09 「ワニ氏の北方系海人族としての歴史的考察」(古田史学の会・関西例会)

古田史学の会・東海 第3代会長 故竹内強氏

古田史学の会・東海 第3代会長 故竹内強氏


第2572話 2021/09/17

『東日流外三郡誌』、「寛政宝剣額」の発見(2)

 『東日流外三郡誌』の編著者、秋田孝季(あきた・たかすえ)の名前が記された「寛政宝剣額」を探し求めて、古田先生と二人で津軽の五所川原市を訪れたのは1994年5月5日のことでした。そして、市浦村役場の成田義正さんのご協力を得て、「宝剣額」が同村教育委員会で保管していることをつきとめ、ガラスケースの中に納められていた「宝剣額」とようやく対面することができました。
 その「宝剣額」の実見調査に基づく古田先生の所見が『古田史学会報』創刊号に報告(注①)されています。次の通りです。

〝「新しい段階」は、一枚の奉納額によって導入された。長さ、約七十センチ、幅、約三十三センチ、厚さ、約三・四センチの木板だ。その中央には、二振りの矛状鉄剣(宝剣)が打ちつけられている。長さ、約四八・五センチ。
 その周辺の文字は、次のようである。
 「(向って右側)
 奉納御神前 日枝神社
 (下部署名)
 土崎住
  秋田孝季
 飯積住
  和田長三郎
  (向って左側)
 寛政元年酉八月□日 東日流外三郡誌 (右行)筆起(左行)爲完結」(後略)〟『古田史学会報』創刊号

 後日、古田先生は「宝剣額」を市浦村からお借りして、昭和薬科大学で木材部分の顕微鏡写真撮影、東北大学金属研究所にて金属部分の検査を実施されました。その検査結果については後述します。
 このように徹底した学術調査が実施されました。しかし、偽作論者たちによる〝反論〟、たとえば「宝剣額は和田喜八郎氏による偽造」、あるいは「別の所にあった宝剣額を盗んで、文面を書き換えた」などの中傷が予想されたので、「宝剣額」が昔(例えば戦前)から山王日吉神社に奉納されていたことを知っている当地のご老人の証言を得るために、それこそ津軽半島を駆け巡りました。そして、ついに青山兼四郎さん(当時72歳、中里町)の証言を得ることができたのです。次の通りです。

〝青山兼四郎氏、七二歳。地元で建築関係の仕事に携わられておられ、郷土史にも詳しい方だ。青山氏の証言によれば次の通りだ(ビデオに収録。後日、手紙で再確認)。
①この額は山王日吉神社に掲げられていたものである。子供の頃から見て知っていた。
②昭和二八年秋頃、市浦村の財産区調査により測量を行ったが、自分以外にも調査関係者がこの額を見ている。存命の者もいる。
③当時、関係者の間でも大変古い貴重な額であることが話題になった。
④「日枝神社」「秋田孝季」という字が書かれていたことは、はっきりと覚えている。〟『古田史学会報』創刊号(注②)

 青山さんには詳細な事実関係等について、『古田史学会報』(注③)にも寄稿していただきました。
 古田先生とわたしは、津軽の古老達の証言を求める調査旅行を翌年以降も続けました。その結果、山王日吉神社宮司の松橋徳夫さん、市浦村元村長の白川治三郎さん(『東日流外三郡誌』や「宝剣額」写真を収録した『市浦村史』発刊時の村長)、青森県仏教会々長の佐藤堅瑞さん(柏村・浄円寺住職)ら当地有力者による貴重な証言を次々と得ることができました。(つづく)

(注)
①古田武彦「決定的一級史料の出現 ―「寛政奉納額」の「発見」によって東日流外三郡誌「偽書説」は消滅した―」『古田史学会報』創刊号、1994年6月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/furuta01.html
②古賀達也「特集/和田家文書 秋田孝季奉納額の「発見」 「和田家文書」現地調査報告」『古田史学会報』創刊号、1994年6月
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga01.html
③青山兼四郎「『東日流外三郡誌』は偽書ではない ―青森県古代・中世史の真実を解く鍵―」『古田史学会報』6号、1995年4月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/tugaru06.html


第2571話 2021/09/17

『東日流外三郡誌』、「寛政宝剣額」の発見(1)

 『東日流外三郡誌』を歴史史料として使用するにあたり、学問的手続きとして、事前に進めなければならないことがありました。それは文献史学で言うところの史料批判という作業です。その史料がどの程度歴史の真実を伝えているのか、信頼性がどの程度あるのかを確かめる作業です。『古事記』『日本書紀』など、既に広く学界で認められている史料の場合は、とりたてて基礎的な史料批判の手続きを求められることはありませんが、和田家文書のように戦後になって世に出た史料の場合は、この手続きが不可欠なのです。
 なお、和田家文書の場合は、こうした学問的作業の最中に、悪意に満ちた偽作キャンペーンが始まりましたので、不幸なことであったと言わざるを得ません。学問研究には、静かで落ち着いた環境が必要だからです。もっとも、当時の偽作キャンペーンは古田先生やその学説(多元史観、九州王朝説)への中傷攻撃という側面が強かったので、その意味では偽作論者の目論見は、一応は成功したのかもしれません。
 その史料批判の第一段階として、使用された紙の調査を実施したことを先の「洛中洛外日記」〝『東日流外三郡誌』に使用された和紙〟(注①)で紹介しました。結論として和田家文書の多くが明治時代末頃からの機械漉きの和紙(美濃和紙)であったことが確認できました。
 もう一つの確認作業として、編著者とされる秋田孝季(あきた・たかすえ)についての調査も並行して行いました。わたしとしては、この秋田孝季調査が、『東日流外三郡誌』の真偽論や学問的史料として使用可能かを判断する上で重要課題と考えていましたので、最初に取り組みました。秋田孝季の実在を証明するためには、和田家文書以外の史料からその存在を証明しなければなりませんので、孝季が活躍した寛政年間(1789~1800年)から文政年間(1818~1830年)頃の地誌や日記類を調べました。たとえば津軽を旅行した文人、菅江真澄(すがえ・ますみ)は著名でしたので、『菅江真澄全集』は丹念に読み込みました。そして、菅江真澄の津軽での足跡について、偽作説への反証論文(注②)も書きました。
 ところが、秋田孝季と『東日流外三郡誌』のことを記した「寛政元年酉八月」(1789年)の年次を持つ「宝剣額」が市浦村に存在していることを偶然に知りました。そのきっかけは次のようなことでした。

〝昨年(1993年)八月発行の歴史読本特別増刊号『「古史古伝」論争』に掲載された藤本光幸氏の論文「『東日流外三郡誌』偽書説への反証」中に、秋田孝季が山王日吉神社に奉納したとされる額の写真がある。印刷が不鮮明なため正確には読み取れなかったが、「寛政元年八月」「土崎」「秋田」という字が読み取れた。
 この額が現存していれば和田家文書真作説の有力な証拠となるはずである。さっそく、藤本氏に問い合わせてみたが、現在どこにあるか不明とのこと。そこで、今回(1994年5月)の調査目的の一つにこの奉納額の探索を加えたのだが、事態は二転三転、スリリングな展開を見せた。〟(注③)

 この「寛政宝剣額」の調査旅行を皮切りに、5年間に及んだ、わたしたちの津軽行脚がスタートしました。古田先生67歳。わたしは38歳のまだ若かりし日のことでした。(つづく)

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」2569~2570話(2021/09/169〝『東日流外三郡誌』に使用された和紙(1)~(2)〟
②古賀達也「『山王日吉神社』考(3) 菅江真澄は日吉神社に行っていない」『古田史学会報』8号、1995年8月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga08.html
③古賀達也「特集/和田家文書 秋田孝季奉納額の「発見」 「和田家文書」現地調査報告」『古田史学会報』創刊号、1994年6月
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga01.html


第2570話 2021/09/16

『東日流外三郡誌』に使用された和紙(2)

 『東日流外三郡誌』を始めとする和田家文書に使用されている紙が明治時代末頃の和紙らしいことまでは分かってきたのですが、それを確認する方法はないものかと思案していたところ、古田先生が講演(注①)で次のようなことを話されました。

〝『丑寅風土記』(和田家文書)の先頭に和田末吉が、佐々木嘉太郎(五所川原の豪商)という紙問屋の御主人に対して感謝の言葉を書いてある。つまり寛政原本が古びて破損してきたので和田末吉が筆写しています。それが出来たのは、もっぱら和紙を提供していただいた佐々木嘉太郎さんのおかげであると、感謝の辞を筆写した文言の中に書き連ねている。
 和田末吉は不用になった大福帳を貰ってきて、それに『東日流外三郡誌』を筆写している。この「北斗抄」の最後のところに岐阜県の美濃の会社名の判子がいくつも押してありました。つまり和紙は美濃紙なのです。美濃紙のことを、岐阜県の博物館や美術館に行って郷土史に詳しい方にお聞きすれば、この判子は明治何年まで使っていました。そのようなことが分かるのではないか。〟〈講演録を古賀が要約〉

この講演を聴いた、当時岐阜県に住んでいた竹内強さん(古田史学の会・東海 会長)による執念の美濃紙調査が始まりました。この時のことを竹内さんは次のように報告されています(注②)。

〝講演終了後、「私は岐阜に住んでいます。一度調べてみましょうか。」と申し出ていた。こんな大変なことを素人の私が申し出たことを今思えば、冷汗の出る思いです。
 古田氏から渡された九枚の「北斗抄」のコピーをよく見ると四つに大別することができる。

 A、判印の無いもの
 B、岐阜市元濱町山下商店の角印
  「常盤」の大判、「ヤマセ」の記号(屋号)
 C、「岐阜市岡田商舗」の角印
  「八島」の大判、「マル小」の記号
 D、読みとれない角印「白龍」の大判、「カネト」の記号

 Cの「八島」の大判、岡田商舗の印の用紙は、明治三十年から明治末期までの間に「紙兵」の前身、玉井町に店のあった岡田商舗から売られた美濃和紙にまちがいない。(中略)
 美濃史料館の(中略)一番奥の資料展示室をのぞいて興奮した。なんと私が探していた、Dの大判「白龍」の版木がそこに展示してあるのだ。よくわからなかった角印も、更に見わたすとあの「カネト」の屋号の入った判天や提灯があちこちに置いてあるのです。
 係の人に話を聞くと、ここ今井家は、江戸時代からの庄屋で、その一方で和紙問屋も商っていた。当主は、代々今井兵四郎を名乗り明治三十年代に最も栄えたが、昭和十六年子孫が絶えて紙問屋も廃業となり、現在この建物は美濃市の管理となって、史料館として利用されているとのことです。
 これまでの調査の結果をまとめてみると、B、C、Dの紙がほぼ同時期の品物であれば明治三十年から四十年代末のものと思われる。〟

 和田家文書に捺されていた角印を手がかりに、現在は廃業している紙問屋の御子孫を探し出し、それらの問屋が明治末頃に操業していたことを突き止められたのです。竹内さんの執念の調査により、和田家文書に明治末頃の美濃和紙が使用されていたことが判明したのでした。この調査結果は真作説を決定づけるものです。戦後偽作説では、あれだけの大量の明治末頃の美濃和紙の入手を説明できないからです。

(注)
①古田武彦講演録「王朝の本質1 九州王朝から東北王朝へ」2003年6月29日、大阪市 毎日新聞社ビル六階研修センター。
②竹内強「寄稿 和田家文書『北斗抄』に使用された美濃和紙を探して」『和田家資料3 北斗抄 一~十一』藤本光幸編、北方新社、2006年。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/tyosa108/takeutim.html


第2569話 2021/09/16

『東日流外三郡誌』に使用された和紙(1)

 今から30年程前のことです。『東日流外三郡誌』の真偽が問題となった当時、わたしは和田家文書を偽作文書と思い、お叱りを受けることを覚悟して古田先生に数度にわたり意見しました。しかし、先生は頑として同書は真作であると主張され、論議は平行線をたどりました。そこでわたしは、古田先生の和田家文書調査に同行させてほしいとお願いしました。そして、1994年5月に古田先生と二人で五所川原市を訪問し、所有者の和田喜八郎さんと支援者の藤本光幸さん(共に故人)にお会いし、和田家文書を初めて見ることができました。その経緯は『古田史学会報』(注①)に掲載しました。
 そのときの第一印象は、紙質や墨跡などの状況から戦後になって偽作されたものとは思えず、また、失礼ながら和田喜八郎さんが執筆に必要な歴史教養をお持ちとはとても感じられないというものでした。しかし、それだけでは学問的根拠にはなりませんので、文面だけではなく、使用された和紙の調査、大福帳などの裏紙再利用の場合は裏面の文字や内容に至るまで調べました。更に専門家の意見を聞くために和田家文書の一部をお預かりして、紙の調査も行いました。その結果、お二人の方から所見を聞くことができました。
 お一人は中井康さん(故人)。わたしの元勤務先の上司(研究開発部長、京都工芸繊維大学卒)で、和紙や繊維・染料の専門家です。わたしとの質疑応答については『古田史学会報』(注②)に掲載しました。

 「紙質については、和紙や染料に造詣が深い、中井康さん(山田化学工業(株)相談役・京都工芸繊維大学卒)に見ていただいたところ、手漉の和紙であるとの見解を得た。他の文書も同様であった。」『古田史学会報』8号

 もうお一人は、『北海道史』編纂に関わられた永田富智さん(故人)です。1996年8月、北海道松前町阿吽寺での聞き取り調査で次のように証言されました(注③)。

〈永田さん〉それ(『東日流外三郡誌』)を私が見せてもらった時(昭和46年)に、一番最初に感じたのは、まず、たくさんの記録が書かれてありますが、その記録は古いものではないということです。それから、墨がそんなに古いものではない。だいたい明治の末期頃のものだという感じを受けました。
 それは何故かというと、だいたい明治の末頃にはやりだした機械織りの和紙がありまして、その和紙を使っているということです。
 (中略)
〈古賀〉『東日流外三郡誌』は山内英太郎さんの御自宅で見られたのですか。
〈永田さん〉市浦村の村役場の中です。
〈古賀〉数にして二百冊から三百冊をその時点で見られたのですね。
〈永田さん〉はい。
〈古賀〉それは明治の末頃の紙に、だいたい明治時代に書かれたものと考えてよろしいでしょうか。
〈永田さん〉はい。
〈古賀〉たとえば、戦後になって最近書いたものだとか。
〈永田さん〉いや、そういうふうには感じません。
〈古賀〉そういうふうには見えなかったということですね。
〈永田さん〉はい。

 永田さんは『北海道史』編纂に関わられた中近世史の専門家で、多くの古文書を調査されてきた研究者です。この理系と文系の専門家による見立ては、「手漉きの和紙」あるいは「明治の末頃にはやりだした機械織りの和紙」というもので、和田家文書は戦後の紙ではないという心証を強めるものでした。
 この紙質調査はその後さらに進展を見せます。竹内強さん(古田史学の会・東海 会長)による執念の美濃紙調査です。(つづく)

(注)
①古賀達也「『新・古代学』のすすめ ―「平成・諸翁聞取帳」―」『古田史学会報』8号、1995年8月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga08.html
②同①
「永田富智氏へのインタビュー 昭和四六年『外三郡誌』二百冊を見た ―戦後偽作説を否定する新証言―」『古田史学会報』16号、1996年10月。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou16/kaihou16.html

北斗抄 美濃和紙

北斗抄 美濃和紙  B、岐阜市元濱町山下商店の角印   「常盤」の大判、「ヤマセ」の記号(屋号)  C、「岐阜市岡田商舗」の角印   「八島」の大判、「マル小」の記号  D、読みとれない角印「白龍」の大判、「カネト」の記号

故竹内強氏

古田史学の会・東海 第3代会長故竹内強氏


第2568話 2021/09/15

『東日流外三郡誌』山王坊の磐座

 前話で紹介した拙稿「和田家文書と考古学的事実の一致」(注①)には、追記として山王坊(山王日吉神社)の発掘調査で発見された磐座前の三列石が『東日流外三郡誌』に見えることを紹介しました。これなども発掘調査で発見されたことであり、このことも和田家文書の真作性をうかがわせるものです。また、山王日吉神社にそのような「石塔」があることが『東日流外三郡誌』(注②)にも次のように記されています。

 「安部求道記
 十三山王の渓水を汲みて掌を清め、生垣を見越しに崇む十三宗の伽藍、山門より境内に参ずれば、香々たる法場のかんばせに、知らず歩を駐めて仰ぐ老樹の梢霞かかりて、枝々にほろほろと鳴く山鳥の声、寂々たる仙境にこだまむ。
 苔の華は、古墓、石塔に衣となり、老木に含む露雫わがすずかけをぬらしめり。
 十三宗の仏堂みな香灯仏壇に献ぜられ、あたかも天竺、支那の正伝仏陀の世界を感応す。六根清静各堂参礼なし、以て三(ママ)王権現日吉神社の大鳥居神々しき聖域の威ぞ尚顕しぬ。(後略)」

 このように山王日吉神社に「古墓、石塔」があったと記されています。『東日流外三郡誌』の「十三宗三神社山王坊図」の右上部分に「古墓、石塔」が小さく描かれており、和田家文書が往時の山王日吉神社の景観をかなり正確に伝承していたことがうかがえます。拙稿の【追記】当該部分を転載し、皆さんに紹介します。

【以下転載】
和田家文書と考古学的事実の一致
 ―『東日流外三郡誌』の真作性― 京都市 古賀達也

【追記】
 加藤孝氏の山王坊調査報告『「中世津軽日吉神社(仮称)東本宮社殿列石考(その一)』(『東北文化研究所紀要』十八号、一九八六)によると、山腹の社殿東側に「磐座」の存在が報告されている。

 「本社殿跡北方に位置し、約三〇・〇〇メートル北方の傾斜地に長三角形一辺三・〇〇メートル程の安山岩質の大石が一基あって、その前方一〇・〇〇メートル前方に、平坦な礎石様の上面 の平らな安山岩質の石が、三基接近して置いてある。
 この長三角型の大石が、この日吉神社の磐座と考えられるのである。何故なれば、この磐座に当る長三角型大石から南方線を延長すると、本社殿の中軸線を貫き、舞殿跡、渡廊跡の南北中軸線に重なり、さらに、拝殿跡の南北中軸線に重複するからである。」

 この報告で注目されるのが、磐座の存在と三基の列石である。なぜならば、『東日流外三郡誌』北方新社版第五巻二九七頁、「十三宗三神社山王坊図」の当該場所に「石造物」らしきものが三基記されているからだ。描かれた位置や三基という数の一致は偶然とは思えない。これも『東日流外三郡誌』と考古学的事実との貴重な一致点ではあるまいか。 
 このように和田家文書と考古学的事実の見事な対応関係は真作説の有力な根拠であり、同時に和田喜八郎氏の偽作など、とうてい不可能な事柄であることを指し示すのである。『東日流外三郡誌』を先入観を排して、謙虚に見据える時、多くの学的収穫が得られる。
 そうした発見は現在もなお続出しているが、順次報告していきたい。まことに和田家文書は驚くべき「一大伝承史料群」であった。

(注)
①古賀達也「和田家文書と考古学的事実の一致 ―『東日流外三郡誌』の真作性―」『古田史学会報』4号、1994年12月。
http://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga04.html
②『東日流外三郡誌』第五巻、北方新社版、271頁。