九州王朝(倭国)一覧

第1396話 2017/05/13

「前期難波宮副都説」反対論者への問い(1)

 わたしが前期難波宮九州王朝副都説を発表してから10年近くの歳月が流れました。主に「古田史学の会」関西例会で口頭発表し、『古田史学会報』に論文として発表してきたのですが、多くの賛成意見が示され、その立場から研究される論者も現れ、論証や史料根拠・傍証も多岐にわたりました。
 他方、少数ですが反対意見も出されています。わたしは、学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深めると考えていますから、賛否両論が出されたことに感謝しています。しかしながら、「前期難波宮九州王朝副都説」反対論者に繰り返し求めた次の四つの問いに対して、一人として明確な返答はなされませんでした。なかには、古賀の質問などに答える必要はないとされた論者もありました。

 「副都説」反対論者への問い
1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 これらの質問に対して、近畿天皇家一元史観の論者であれば答えは簡単です。すなわち、孝徳天皇が評制により全国支配した前期難波宮である、と答えられるのです(ただし4は一元史観では回答不能)。しかし、九州王朝説論者はどのように答えられるのでしょうか。
 七世紀中頃としては国内最大規模の宮殿である前期難波宮は、後の藤原宮や平城宮の規模と比較しても遜色ありません。藤原宮や平城宮が「郡制による全国支配」のために必要な規模と律令官制に対応した朝堂院様式を持つ近畿天皇家の宮殿であるなら、それとほぼ同規模で同じ朝堂院様式の前期難波宮も、同様に「評制による全国支配」のための九州王朝の宮殿と考えるべきというのが、九州王朝説に立った理解です。
 このような考古学的事実に九州王朝説の立場から答えられる仮説が前期難波宮九州王朝副都説なのです。(つづく)


第1386話 2017/05/07

都府楼は都督府か大宰府か

 都督府についてはこれまで何度も論じてきましたが、基礎的ですが未解決で重要な問題について指摘しておきたいと思います。
 「洛中洛外日記」第1382話「倭の五王」の都城はどこか(1)において、「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)というような説明をしましたが、実はこれも結構複雑な問題が残されているのです。現在、大宰府政庁跡を「都府楼跡」と呼んでいますが、おそらくこれは菅原道真の「不出門」によるものと思われます。次の漢詩です。

不出門 菅原道真

一従謫落在柴荊
万死兢兢跼蹐情
都府楼纔看瓦色
観音寺只聴鐘声
中懐好逐孤雲去
外物相逢満月迎
此地雖身無検繋
何為寸歩出門行
(原典:『菅家後集』)

〔訳文〕
一たび謫落(たくらく)せられて柴荊(さいけい)に就きしより
万死兢兢たり 跼蹐(きょくせき)の情
都府楼は纔(わずか)に瓦の色を看
観音寺は只鐘の声を聴く
中懐好し 孤雲を逐(お)ひて去り
外物は相逢ひて満月迎ふ
此の地 身検繋(けんけい)無しと雖も
何為(なんす)れぞ寸歩も門を出でて行かん

 近畿天皇家が「都督」を任命していたことは『二中歴』都督歴に見えますから、この「都府楼」が「都督府」のことと理解することは穏当です。ただし、『養老律令』などでは「都督」「都督府」ではなく「大宰」「大宰府」とされており、正式名称は後者です。従って、『二中歴』や道真は、古くは九州王朝時代の伝統を反映して「都府楼」と表現したものと思われます。
 ここまではご理解いただけると思いますが、実はここにやっかいな問題があるのです。それは地名との非対応問題です。現在の政庁跡(都府楼跡・都督府跡)は旧・観世音寺村に属し、太宰府村ではないのです。太宰府村は現在の太宰府天満宮がある場所で、大宰政庁跡とは位置が異なるのです。もし、8世紀以降に近畿天皇家が任命した「大宰」「都督」が政庁跡に居していたのなら、そここそ「太宰府村」であるべきでしょう。しかし、現実は旧・観世音寺村に属し、字地名としては「大裏(内裏)」「紫宸殿」があり、天子の居所にふさわしい地名なのです。「大宰」「都督」は天子が任命する官職名であり、その官舎は太宰府村の方にあってしかるべきなのですが、政庁跡(都府楼)は旧・観世音寺村にあるのです。
 この一見矛盾した地名との齟齬は、おそらく「大宰府」「都督府」が九州王朝と近畿天皇家の両方に多元的に、歴史的には重層して存在していたことによるものと推察しています。ですから、古田学派の研究者はこの複雑な構造に十分留意して立論しなければなりません。わたし自身もまだ研究考察の途中ですので、断定できるような結論は持っていません。これからの研究の進展を待ちたいと思います。


第1383話 2017/05/05

「倭の五王」の都城はどこか(2)

 「倭の五王」の都は筑後にあったのではないかと、わたしは考えているのですが、まだ克服すべき課題があります。
 「洛中洛外日記」第1363話「牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市」において、『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』に収録されている石木秀哲さん(大野城市教育委員会ふるさと文化財課)の「西海道北部の土器生産 〜牛頸窯跡群を中心として〜」を紹介しました。そこで指摘された牛頸窯跡群は6世紀末から7世紀初めの時期に窯の数が一気に急増している考古学的事実は、太宰府条坊都市造営時期の7世紀初頭(九州年号「倭京元年」618年)の頃に土器生産が急増したことを示しており、これこそ九州王朝の太宰府遷都を示す考古学的痕跡としました。
 この理解が正しければ、同様に「倭の五王」時代(五世紀)の王都に土器を供給するため、大量の窯跡群が筑後から出土しなければなりません。ところが石木稿に掲載されている「第1表 西海道北部の須恵器窯跡群変遷表」によると、筑後の須恵器窯跡群は八女窯跡群(上妻郡)が最も古く、その始まりを六世紀中期からとされているのです。このデータが正しければちょうど筑紫君磐井の時代の頃からとなりますから、九州年号を建元した磐井の頃の九州王朝の都がこの地域にあったことはうかがえますが、「倭の五王」時代の窯跡群の記載がないのは不思議です。まだ未発見か、この表に掲載されていないだけなのかもしれませんが、六〜七世紀以降に太宰府に土器を供給した牛頸窯跡群の存在や変遷とは異なり、筑後の王都に対応する窯跡群が見あたらないのは、わたしの説の弱点と言えそうです。この点に引き続き留意し、調査研究を進めたいと思います。


第1382話 2017/05/04

「倭の五王」の都城はどこか(1)

 古田先生と論争的意見交換を続けたテーマの一つに、五世紀の「倭の五王」時代の都はどこかという問題がありました。二人の間でもっとも激しく論争したテーマの一つでしたので、当時のやりとりを今も鮮明に記憶しています。
 『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」が中国南朝から都督を任じられていることから、その時代の九州王朝の都を「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)と、古田先生は当時考えておられました。
 それに対して、わたしは、大宰府政庁Ⅰ期の堀立柱遺構は規模が貧弱であり倭王の宮殿とみなすのは無理、かつ出土土器編年から見ても五世紀には遡らないと説明しました。それでも納得されない先生は「それでは倭の五王の都はどこだと考えているのか」と詰問され、「わかりません」と答えると、「だいたいでもよいからどこだと考えているのか」と質されるので、「筑後地方ではないかと思います」と返答しました。もちろんこの答えでも古田先生は納得されず、論争が続きました。結局、両者合意をみないままとなりましたが、『古田武彦の古代史百問百答』では「倭の五王」時代の都の所在地には触れられていませんから、晩年はどのような見解だったのかはわかりません。
 わたしが「倭の五王」時代の九州王朝の都を筑後と考えたのは、高良大社の御祭神「高良玉垂命」の名前が「倭の五王」にも襲名されたとする研究結果(「九州王朝の筑後遷宮」『新・古代学』第四集、新泉社。1999年)によるものでした。それと、古田先生が1989年に発表された「『筑後川の一線』を論ず」(『東アジアの古代文化』61号)でした。この論文は古田学派内でもあまり注目されてきませんでしたが、わたしは重要な論文と考えています。
 その主要論点は、弥生時代の九州王朝の中枢領域は考古学的出土物から見ても筑前だが、古墳時代になると様相が一変し、装飾古墳などが筑後地方に出現することから、筑後に変わっている。これは主敵が南の薩摩(隼人)などの勢力だった弥生時代から、北の朝鮮半島の国々に変化した古墳時代になると、九州王朝(倭の五王、多利思北孤)はより安全な筑後川(天然の大濠)の南に拠点を移動させたためだとされました。
 わたしはこの論文を支持しており、「倭の五王」や筑紫君磐井は筑後を都にしていたと考えています。そして多利思北孤の時代になって太宰府に遷都したと九州王朝史の大枠を理解しています。(つづく)


第1379話 2017/04/29

『古田武彦の古代史百問百答』百考(3)

 今回、『古田武彦の古代史百問百答』を熟読して、今まで気づかなかった古田先生の新仮説や新たな論理展開に遭遇し、はっとさせられることがいくつもあります。たとえば、『二中歴』「年代歴」にのみ見える最初の九州年号「継躰」(517〜521年)を当時の倭国の天子の名前とする次の見解などがそうです。

 「福井から二十年かけて大和に入った天皇は、その時はもちろん天皇ではなく、後に継躰天皇と謚(おくりな)されただけです。具体的には男大迹大王と言いましょうか。要するに近畿の首長です。この時点ではもちろん、九州に進出しておりません。
 これに対して、九州王朝では、前に言った丁酉の年(五一七)に継躰の年号を持った天子がいました。これについて『日本書紀』継躰紀二十四年の春二月の詔(『岩波日本書紀』下、四二ページ)では、継躰之君というのが出てきますが、これを通説では『ひつぎ』と普通名詞に取っていますが、普通名詞の人に『中興』の功を論じるのはこじつけで、はからずも九州王朝の天皇の名称を盗用したとした方が正しいのではないでしょうか。そのように解釈すると、近畿の男大迹とほぼ同じ頃に九州に継躰天皇がいたということになります。近畿王朝は、武烈を倒して、新王朝を樹立した男大迹を、ちょうど天子を名乗り始めた九州王朝の継躰にならい、『継躰』の名を謚したのです。そして九州の継躰を完全には消しえなかったのが、継躰二十四年の詔ということになります。」(110頁)

 この古田先生の見解を読んだとき、わたしは納得できませんでした。なぜなら、古代において天子の名前をそのまま年号に用いるなどという例を、中国や当の九州王朝でも知らなかったからです。逆に、天子の名前の字を避けるというのが古代中国における慣習でしたから、九州王朝の官僚たちが最初の年号を決めるにあたり、そのときの天子の名前「継躰」を採用したことになる古田説に、猛烈な違和感を覚えました。
 たとえば、今、知られている九州王朝の倭王や天子の名前に用いられた漢字(俾弥呼、壹與、讃、珍、済、興、武、旨、磐井、葛子、阿毎多利思北孤、利歌彌多弗利、薩夜麻、など)は九州年号に使用されていません。ましてや、その時代の天子の名前(今回のケースでは継躰)をそのまま年号に用いるなどとは考えられないのではないでしょうか。もし、九州王朝は天子の名前を年号に使用したとするのであれば、その根拠(たとえば中国での先例)を明示して論証が必要と思われるのです。
 他方、後世になって、「継躰」年号の時代の天子を「継躰之君」と呼んだり記したりすることはあるかもしれません。これは平安時代の例ですが、醍醐天皇(897〜930)のことを『大鏡』(平安後期の成立)では、その即位期間の代表的な年号「延喜」(901〜923)を用いて「延喜帝」と表記されています。『日本書紀』継躰紀二十四年の「継躰之君」がこれと同じケースであれば、この「継躰」は天子の名前ではなく九州年号ということになります。
 従って、「継躰之君」の「継躰」は、“ひつぎ”(通説)と“九州王朝の天子の名前”(古田説)と“後世における年号の転用”という三つの可能性がありますから、どの仮説が最も妥当かという論証が必要です。
 今年になって、『二中歴』に見える九州年号「継躰」は、「善記」を建元したときに、遡って「追号した年号」とする説が西村秀己さんから発表されています(「倭国〔九州〕年号建元を考える」、『古田史学会報』139号、2017年4月)。この西村説を援用するならば、天子の名前の「継躰」を年号として「追号」した可能性や、「年代歴」編纂時に、天子の名前「継躰」を年号と勘違いして「年代歴」に入れてしまったというケースも考えられるかもしれません。このことを西村さんに伝え、検討を要請しました。関西例会で検討結果が報告されることを期待しています。もし、古田先生がご健在であれば、どのように答えられるでしょうか。(つづく)


第1375話 2017/04/23

7世紀後半の「都督府」

 「洛中洛外日記」1374話において、「都督」や「都督府」を多元的に考察する必要を指摘し、太宰府の都府楼跡を倭の五王時代(5世紀)の都督府とすることは考古学的に困難であることを説明しました。他方、7世紀後半に太宰府都府楼跡に「都督府」がおかれたとする説が発表されています。わたしの知るところでは次の二説が有力です。
 一つは古田先生による九州王朝下の「都督」「都督府」説です。『なかった 真実の歴史学』第六号(ミネルヴァ書房、2009年)に収録されている「金石文の九州王朝--歴史学の転換」によれば、7世紀後半の「評の時代」に九州から関東までに分布している「評」「評督」を統治するのが「都督」であり、太宰府にある「筑紫都督府」(太宰府都府楼跡、『日本書紀』天智紀)であるとされました。
 もう一つは、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による、唐の冊封下の「筑紫都督府」とする理解です(「『近江朝年号』の研究」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』所収)。白村江戦の敗戦で唐の捕虜となった筑紫君薩夜麻が唐軍と共に帰国したとき、唐から筑紫都督(倭王)に任命され、太宰府政庁(筑紫都督府)に入ったとする仮説です。
 両説とも根拠も論証も優れたものですが、同時に解決すべき課題も持っています。古田説の場合、7世紀中頃の評制施行の時期に太宰府都府楼跡の遺構である大宰府政庁Ⅱ期の朝堂院様式の宮殿はまだ造営されていません。同遺構の造営年代は観世音寺創建と同時期の670年頃(白鳳10年)と考えられますので、650年頃に評制を施行したのはこの宮殿ではありません。670年以降であれば筑紫都督府が太宰府政庁Ⅱ期の宮殿としても問題ありませんが、評制施行時期では年代的に一致しないという問題があるのです。
 この点、正木説は薩夜麻が帰国にあたり唐から都督に任命されたとするため、大宰府政庁Ⅱ期の遺構と時代的には矛盾はありません。しかし、古田説のように「評督」の上位職の「都督」との関係性については説明されていません。この点、古田説の方が有利と言えるでしょう。
 仮に両説を統合する形で新たな仮説が提示できるかもしれませんが、その場合でも「評制」を施行した「都督府」(都・王宮)はどこなのかという課題に答えなければなりません。「難波朝廷天下立評給時」(『皇太神宮儀式帳』延暦二三年・八〇四年成立)という記事を重視すれば、7世紀中頃に全国に「評制」を施行し、「評督」を統治した「都督府」は当時の難波朝廷(前期難波宮)という理解が可能ですが、用心深く検討や検証が必要です。


第1369話 2017/04/12

武部健一著『道路の日本史』を読む

 武部健一著『道路の日本史』(中公新書、2015年)を読んでいます。以前から書店で目にしていて、気になっていた一冊でしたので、今日、思い切って購入しました。
 著者の武部さん(1925-2015)は日本道路公団に勤務され、高速道路の建設に従事されていたと紹介されています。同書の出版は2015年5月25日で、著者が亡くなられたのが同年5月ということですから、著者最後の一冊のようです。同書で「交通図書賞」「土木学会出版文化賞」を受賞されたとありますので、もしかすると物故後の受賞なのかもしれません。著者の人生の集大成ともいうべき渾身の一冊ではないでしょうか。
 まだ読了していませんが、次の箇所が気になっています。多元的古代官道研究を進める上でヒントになりそうです。

 「図に見るように、都の位置は京都の平安京である。各道には、都からそれぞれ駅路が一本ずつ樹状につながった。西海道だけは別で、大宰府を中心にネットワークを形成していた。」
 「西海道は特にネットワーク性が強く、一カ所が不通になっても他の経路を使って迂回することが可能なように組まれていた。当時の国家が外敵の侵入に備えて、不時の場合でも対処できるように計画したものと推察される。」(45〜46頁)

 こうした指摘は、九州王朝の存在を裏付けるように思われました。
 また、「古代道路は幅12メートルの直線路」という指摘もされており、これなどは当時の「尺」単位が約30cmの「北朝系」であったことを指示しているのではないでしょうか。それですと12m÷0.3m=40尺の道路となりますが、「南朝系」の1尺約25cmでは、幅48尺道路となり、中途半端な数字です。もし、幅12mの古代官道が九州王朝によるものであれば、「北朝系」尺の採用を開始したと考えられる7世紀初頭以降ということになりそうですが、今後の研究課題です。


第1368話 2017/04/11

『古田史学会報』139号のご案内

『古田史学会報』139号が発行されましたので、ご紹介します。本号には刮目すべき論文二編が収録されています。西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)の「倭国(九州)年号建元を考える」と山田春廣さんの「『東山道十五国』の比定 -西村論文『五畿七道の謎』の例証-」です。
西村さんの論稿は、『二中歴』年代歴のみに見える最初の九州年号「継躰」を、「善記」年号が建元された時、遡って「追号」されたものとする新仮説です。西村さんからこのアイデアを初めて聞いたとき、わたしは「変なことを言ってるなあ。西村さんらしくもない」と思い、年号の「追号」など聞いたこともないと反論し、論争となりました。しかし、そう考えざるを得ない『二中歴』「善記」細注記事の矛盾や、中国での「追号」例があることなどの説明を聞くうちに、これはすごい仮説かもしれないと思うようになったのです。引き続き、論争や検証が必要ですが、なぜ「継躰」年号が『二中歴』にしか現れず、他の九州年号史料が「善記」を年号の初めとする理由などが、西村説により説明可能となるのです。
山田稿は『日本書紀』景行紀に見える「東山道十五国都督」という記事について、大和朝廷にとっての東山道諸国は8国であり、この記事とは対応していないが、九州王朝の東山道(豊前・山陽道・東山道など)であれば、ちょうど15国になることを明らかにされました。従って景行紀の当該記事は九州王朝史料に基づくもので、記事中に見える「都督」も九州王朝の都督であるとされました。
わたしも、景行紀の「都督」を以前から不思議な記事だと思っていたのですが、わけがわからないまま放置してきました。それを今回山田さんが九州王朝の古代官道「東山道」として、見事な解説で解き明かされたのです。山田稿を受けて、西村さんは「編集後記」で、九州王朝の「東海道」を「豊後・南海道・東海道など」とする見解を示されました。これらの論稿を読み、九州王朝説に基づく多元的古代官道研究の幕開けを予感しました。
このように『古田史学会報』139号は九州王朝研究にとって画期をなすものとなりました。掲載された論稿・記事は次の通りです。

『古田史学会報』139号の内容
○倭国(九州)年号建元を考える 高松市 西村秀己
○6月18日(日)井上信正氏講演会・「古田史学の会」会員総会のお知らせ
○太宰府編年への田村圓澄さんの慧眼 京都市 古賀達也
○「東山道十五国」の比定 -西村論文「五畿七道の謎」の例証- 鴨川市 山田春廣
○「多利思北孤」について 京都市 岡下秀男
○書評 倭人とはなにか -漢字から読み解く日本人の源流- 木津市 竹村順弘
○金印と志賀海神社の占い 京都市 古賀達也
○ご紹介 『大知識人坂口安吾』大北恭宏(『飛行船』二〇一六年冬。第二〇号より抜粋) 事務局長 正木 裕
○文字伝来 八尾市 服部静尚
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○「壹」から始める古田史学Ⅹ 倭国通史私案⑤
九州王朝の九州平定-糸島から肥前平定譚
古田史学の会・事務局長 正木裕
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○二〇一七年度 会費納入のお願い
○編集後記 西村秀己


第1367話 2017/04/09

太宰帥に任じたのは天智か薩夜麻か

 今年三月に発刊した『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(古田史学の会編・明石書店刊)の巻頭言で、本書中出色の論稿として正木裕さんの「『近江朝年号』の研究」を紹介しました。今日、改めて正木稿を読み、天智称制が六年間続いた後、天智七年になって天皇に即位した理由を九州王朝の天子薩夜麻の帰国との関係で論じられていることを興味深く思いました。
 その後、本書末尾に収録された九州年号史料の『海東諸国記』に次の記事があることに気づきました。

 「天智天皇(中略)元年壬戌〔用白鳳〕七年戊辰始任太宰帥(後略)」

 天智天皇の記事に「初めて太宰帥に任じた」とあるのですが、文脈からは天智天皇が七年(668)にはじめて太宰帥に任じたと読めます。『日本書紀』には見えない記事ですから、九州王朝系史書からの引用記事の可能性が高いのですが、正木説によればこの頃に筑紫君薩夜麻が唐より帰国したとされていますので、もしかすると太宰帥に任じたのは薩夜麻かもしれません。
 従来は『日本書紀』天智七年七月条に見える栗前王を「筑紫率」に任命した記事のことと漠然と理解していましたが、よく読むと官職名も対象者も異なり、別の記事ではないかと考えています。
 不思議な記事ですが、「九州王朝系近江朝廷」という正木説によりどのような理解が可能なのか、今後の研究の進展が期待されます。こうした新たな問題を発見できた『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』は、九州年号のみならず九州王朝史研究にも役立つ優れた一冊ではないでしょうか。多くの古代史ファンに読まれることを願っています。


第1362話 2017/04/02

太宰府条坊の設計「尺」の考察

 「洛中洛外日記」1356話の「九州王朝の大尺と小尺」で紹介した先月の「古田史学の会」関西例会での服部静尚さんが発表された古代の「高麗尺」はなかったとするテーマに触発され、南朝尺(25cm弱)を採用していた九州王朝は7世紀初頭には北朝の隋との交流開始により北朝尺(30cm弱)を採用したと考えました。その根拠として太宰府条坊区画(約90m=300尺)をあげましたが、大宰府政庁や観世音寺などの北部エリアの新条坊区画が太宰府条坊都市の区画と「尺」単位が微妙に異なる点についてはその事情が不明で、引き続き検討するとしました。
 使用尺が1尺何センチなのかは当時のモノサシの実物が存在していればはっきりするのですが、それ以外では大規模な条坊や条里の距離から推測する方法があります。宮殿や寺院など建築物の場合は、規模が小さく計測誤差や何尺で建築したのかは設計図でもなければ判断できませんので、あまり有効ではありません。
 幸い九州王朝の場合、大規模な太宰府条坊都市から条坊設計に用いられた「尺」が推測できます。太宰府の条坊間隔は90mであり、整数として300尺が考えられ、1尺が29.9〜30.0cmの数値が得られています。条坊都市成立後にその北側に新たに造営された大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の条坊区画はそれよりもやや短い1尺29.6〜29.7cmが採用されており、この数値は「唐尺」と一致します。
 こうした推定「尺」から、太宰府条坊都市の設計に使用された「尺」は7世紀初頭に北朝の隋からもたらされたものではないかと考えています(とりあえず「隋尺」と呼ぶことにします)。7世紀後半(670年頃か)に造営された政庁Ⅱ期や観世音寺には「唐尺」が用いられたとしてよいと思います。その頃には唐軍が筑紫に進駐していますから、「唐尺」が用いられても不思議ではありません。
 また、6世紀以前は約25cmの「南朝尺」が九州王朝で採用されていたと思うのですが、それを証明できるような文物が存在するか、これから研究します。
 なお、服部さんの報告によれば、仮称「隋尺」(29.9〜30.0cm)に相当する下記のモノサシが国内に現存しています。
○正倉院蔵モノサシ5点(29.6〜30.4cm)


第1360話 2017/03/26

井上信正さんの問題提起

 井上信正さんは太宰府条坊と大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺の遺構中心軸がずれていることを発見され、従来は共に8世紀初頭に造営されたと考えられていた条坊都市とその北側に位置する大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺は異なる「尺」単位で区画設計されており、条坊都市の方が先に成立したとされました。すなわち、条坊都市は藤原京と同時期の7世紀末、大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺は従来説通り8世紀初頭の成立とされたのです。
 その暦年との対比は同意できませんが、条坊都市が先に成立していたとする発見は画期的なものと、わたしは高く評価してきました。そしてその優れた洞察力は前畑土塁や水城などの太宰府防衛遺構についても発揮されています。「第9回 西海道古代官衙研究会資料集」に収録された井上さんの「前畑遺跡の版築土塁の検討と、城壁事例の紹介」は示唆に富んだ好論と紹介しましたが、その中でわたしが最も驚いたのが次の問題提起でした。

 「中国系都城での『羅城』は条坊(京城)を囲む城壁を指すが、7〜9世紀の東アジアには、条坊のさらに外側に全周巡らす版築土塁の構築例は無い。また仮に百済系都城に系譜をもつ『羅城』だったとしても、この中にもうける『居住空間』をこれほど広大な空間で構想した理由・必要性と、後の『居住空間』となる大宰府条坊はそれに比してあまりに狭く、大宰府の拡充に反して街域が縮小された理由も説明されなくてはならない。」(41頁)

 この井上さんの問題提起は次のようなことです。

1.水城や大野城・基肄城・前畑土塁などの版築土塁(羅城)で条坊の外側を囲まれた太宰府のような都城は、7〜9世紀の東アジアには構築例が無い。
2.これら版築土塁等よりも後に造営される太宰府条坊都市の規模よりもはるかに広範囲を囲む理由や必要性が従来説(大和朝廷一元史観)では説明できない。
3.8世紀初頭、大宝律令下による地方組織である大宰府(政庁Ⅱ期)が造営されているのに、街域(条坊都市の規模)が縮小していることが従来説(大和朝廷一元史観)では説明できない。
4.こうした問題を説明しなければならない。

 こうした井上さんの指摘と問題提起は重要です。すなわち、大和朝廷一元史観では太宰府条坊都市とそれを防衛する巨大施設(水城・大野城・基肄城・土塁)が東アジアに例を見ない様式と規模であることを説明できないとされています。考古学者として鋭く、かつ正直な問題提起です。
 ところがこれらの問題や疑問に答えられるのが九州王朝説なのです。倭国の都城として国内随一の規模を有すのは当然ですし、唐や新羅との戦いに備えて、太宰府都城を防衛する巨大施設が存在する理由も明白です。他方、701年の王朝交代以後は権力の移動により街域が縮小することも不思議ではありません。このように、井上さんの疑問や問題提起に九州王朝説であれば説明可能となるのです。


第1347話 2017/03/04

続・和歌山の神武(鎮西将軍)

 昨日から奈良大学生の日野さん(古田史学の会・会員)と筑前・筑後の史跡調査旅行を続けています。昨日は水城・大宰府政庁跡・観世音寺・大野城山城を見学しました。今日は高良大社・高良山神籠石・大善寺玉垂宮・岩戸山古墳・瀬高のこうやの宮を見学しました。
 わたしが運転するクルマでの会話で、「洛中洛外日記」で紹介した「和歌山の神武(鎮西将軍)」について日野さんから次のような疑問が出されました。鎮西将軍とは神武のことではなく、数次にわたる九州王朝からの東征軍の将軍の一人ではないかという疑問です。『紀州名勝志』所載の「朝椋神社伝」の次の記事が神武とほ別の東征軍の将軍ではないかと指摘されたのです。

 「上古鎮西将軍〔不知何御宇何許人〕攻伐之砌、為最勲故二造建」(※〔 〕内は細注。)

 実はわたしも気になっている部分でした。『日本書紀』成立以後であれば「鎮西将軍」などという名前ではなく神武の伝承としてそのまま伝えればよいのに、何故「鎮西将軍」などという表記で伝承したのかが不明でした。通常、古代の伝承は権威付けのため大和の天皇と結びつけて修飾・改変されることが多いのですが、この和歌山での伝承は敢えて神武と結びつけることなく「鎮西将軍」という表現で伝承されており、そうした理由があるはずです。そのような問題意識を持っていたので、日野さんのご指摘にはうなづけるものがありました。
 この和歌山の「鎮西将軍」伝承については、日野さんのご意見も考慮して引き続き検討したいと思います。