九州王朝(倭国)一覧

第969話 2015/06/04

「みょう」地名の分布

「洛中洛外日記」において、地名などを古田先生が提唱された「元素論」を援用して論じたことがありました。ところがまだ検討していないテーマがあります。それは「みょう」地名です。
うきは市の「楠名・重貞古墳(くすみょう・しげさだ古墳)」や福岡市西区の「女原(みょうばる)」などの「みょう」地名に関心を持っていたのですが、古田先生も「女原(みょうばる)」や「女山(ぞやま)神籠石」の「女」に着目され、九州王朝との関連で検討する必要性を述べられていました。
この「みょう」地名の淵源については様々な説が出されており、それぞれ有力とは思いますが、成立時代の差や地域差もありそうで、今のところよくわからない、というのが正直な感想です。また、当てられている漢字も「名」「女」「明」「妙」などがあり、この違いに何か意味があるのかも、まだよくわかりません(「名」が最も多い)。
他方、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、松山市)らによる精力的な調査により、愛媛県に「紫宸殿」「才明(さいみょう)」「天皇」地名を見いだされ、九州王朝と「越智国」との関係を論じた優れた研究も報告されてきました。わたしが今回着目したのはこの「才明(さいみょう)」でした。これは「みょう」地名の一つではないかと考えたのです。そこで良い機会なので基礎調査として、「みょう」地名のインターネット検索を行ってみました。まだ調査途中ですが、下記のような「みょう」地名がヒットしました。「西明寺」「光明池」などの寺名やそれに関係して成立したかもしれない「池」名などは、今回のテーマである「みょう」地名と見なしてよいか判断できませんでしたので、とりあえず検索対象から除外しました。
現時点で見つけた「みょう」地名は82件で、そのうち九州が36件(44%)で最も多く、中でも長崎県と鹿児島県に多く分布しています。次いで四国が19件(23%)です。このように全国的に「みょう」地名はありますが、九州と四国に多いという偏った分布を見せています。この分布が何を意味するのかはまだわかりませんし、成立時期や事情もそれぞれ異なると思われますが、その淵源が古代まで遡るものがあれば、九州王朝との関係を検討する必要があるかもしれません。
このように四国にも「みょう」地名が多いことを考えると、「斉明(さいみょう)」も「みょう」地名である可能性が高いようにも思われます。この件、引き続き考察します。(つづく)

【インターネット検索結果】
木明(きみょう) 青森県上北郡野辺地町
下名生(しものみょう) 宮城県柴田郡柴田町
上名生(かみのみょう) 宮城県柴田郡柴田町
古庭名(こてんみょう) 新潟県佐渡
求名(ぐみょう) 千葉県東金市
小苗(こみょう) 千葉県大多喜町
古名新田(こみょうしんでん) 埼玉県比企郡吉見町
外記明・善光明(げきみょう・ぜんこうみょう) 神奈川県大和市(『新編相模風土記稿』)
天明(てんみょう) 栃木県佐野市
三ケ名(さんがみょう) 静岡県焼津市
別名(べつみょう) 富山県富山市
十年明(じゅうねんみょう) 富山県砺波市
西明(さいみょう) 富山県南砺市
清水明(しみずみょう) 富山県南砺市
公文名(くもんみょう) 福井県敦賀市
円明(えんみょう) 大阪府柏原市
助命(ぜんみょう) 奈良県山辺郡山添村
二名(にみょう) 奈良県奈良市
西五明(にしごみょう) 兵庫県姫路市豊富町神谷岩屋
本明(ほんみょう) 兵庫県宍粟郡佐用町
両名(りょうみょう) 広島県三原市沼田東町
法名(ほうみょう) 山口県美祢市
開明(かいみょう) 山口県田布施町
市明(いちみょう) 山口県田布施町
殿明(とのみょう) 山口県周南市高瀬
秋字明(しゅうじみょう) 山口県周南市
地頭名(じとうみょう) 香川県高松市庵治町
三名町(さんみょうちょう) 香川県高松市
新名(しんみょう) 香川県高松市国分寺町
五名(ごみょう) 香川県かがわ市
長尾名(ながおみょう) 香川県さぬき市
新名(しんみょう) 香川県三豊市高瀬町
下名(しもみょう) 徳島県美馬市木屋平
下名影(しもみょうかげ) 徳島県三好市
下名(しもみょう) 徳島県三好市山城町
下名(しもみょう) 徳島県三好市西祖谷山村
本名(ほんみょう) 徳島県三好市池田町白地
別名(べつみょう) 愛媛県今治市
名(みょう)  愛媛県今治市吉海町
二名(にみょう) 愛媛県上浮穴郡久万高原町
妙口(みょうぐち)  愛媛県西条市小松町
才明(さいみょう)  愛媛県今治市朝倉
立川上名(たじかわかみみょう) 高知県長岡郡大豊町
立川下名(たじかわしもみょう) 高知県長岡郡大豊町
西森名(にしもりみょう) 高知県仁淀村
女原(みょうばる) 福岡県福岡市西区
光明(こうみょう) 福岡県北九州市八幡西区
下名(しもみょう) 福岡県八女市
重吉名(しげよしみょう) 筑後国上妻郡 中世文書に見える。
阿母名(あぼみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
牛口名(うしぐちみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
永中名(えいちゅうみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
大木場名(おおこばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
川床名(かわとこみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
木場名(こばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
田之平名(たのひらみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
布江名(ぬのえみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
馬場名(ばばみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
平江名(ひらえみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
古城名(ふるしろみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
本村名(もとむらみょう) 長崎県雲仙市吾妻町
野副名(のぞえみょう) 長崎県長崎市多良見町
大搦名(おおからみみょう) 長崎県諫早市小長井町
坂上下名(さかうえしたみょう) 長崎県南島原市北有馬町乙
坂下名(さかしたみょう) 長崎県南島原市布津町丙
上与名(うわぐみみょう) 長崎県東彼杵郡高来町
下与名(したぐみみょう) 長崎県東彼杵郡高来町
余名(よみょう) 大分県杵築市
妙町(みょうまち) 宮崎県延岡市
久津良名(くつらみょう) 宮崎県宮崎市高岡町の旧名
浦之名西(うらのみょう) 宮崎県宮崎市
下名(しもみょう) 鹿児島県出水市野田町
上名(かみみょう) 鹿児島県出水市野田町
下名(しもんみょう) 鹿児島県鹿屋市吾平町
上名(かみみょう) 鹿児島県鹿屋市吾平町
下名(しもみょう) 鹿児島県いちき串木野市町
上名(かみみょう) 鹿児島県いちき串木野市町
上名(かみみょう) 鹿児島県姶良市
下名(しもみょう) 鹿児島県姶良市
求名(ぐみょう) 鹿児島県薩摩郡さつま町
浦之名西(うらのみょう) 鹿児島県薩摩川内市


第968話 2015/06/03

鞠智城「8世紀代一時廃城」説

 木村龍生さんからいただいた鞠智城関連の報告書を読んでいます。今まで知らなかったことが数多く記されており、とても刺激的です。中でも鞠智城の編年研究において、8世紀代に鞠智城が一時廃城されていたとする説があることに驚きました。今回はそのことについてご紹介します。
 熊本県教育委員会編の『鞠智城跡Ⅱ ー論考編2ー』(2014年11月)所収の向井一雄さんの「鞠智城の変遷」によれば、「少なくとも8世紀初頭以降、鞠智城は新規の建築はなく、停滞期というよりも一旦廃城となっている可能性が高い。貯水池の維持停止もそれを裏付けよう。最前線の金田城が廃城になり、対大陸防衛の北部九州〜瀬戸内〜機内という縦深シフトからも外れ、九州島内でも防衛正面から最も遠い鞠智城が8世紀初頭以降も大野城と同じように維持されたというのは、これまで大きな疑問であったが、「8世紀代一時廃城」説が認められるのならば、疑問は解消される。」(89頁)とあります。
 考古学的事実に基づいた鞠智城一時廃城説ですが、その理由の説明が「説明」になっていません。「対大陸防衛の北部九州〜瀬戸内〜機内という縦深シフトからも外れ、九州島内でも防衛正面から最も遠い鞠智城」と一元史観による解釈では、その状況は7世紀でも同様ですから、8世紀初頭に廃城しなければならない説明になっていません。というよりも、この存在理由であれば鞠智城は大和朝廷にとって、そもそも必要ではないからです。
 鞠智城が7世紀末まで機能し、8世紀初頭に一時廃城されたとする考古学的事実は、古田先生が指摘された701年のONライン、すなわち列島の代表王朝が九州王朝から近畿天皇家に交代したという九州王朝説により説明可能なのです。鞠智城8世紀初頭一時廃城説は九州王朝説を支持する考古学的事実だったのです。やはり、鞠智城を九州王朝による造営とするわたしの推察は妥当だったようです。なお、鞠智城の編年については更に報告書を精査してから、解説したいと思います。


第967話 2015/06/02

鞠智城と前期難波宮の「八角堂」比較

今回の久留米大学や和水町での講演会では大きな学問的収穫に恵まれました。なんといっても鞠智城を見学できたことは幸いでした。訪問当日、温故創生館は休館日だったにもかかわらず、木村龍生さんのご案内と解説によりとても勉強になりました。
たとえばわたしが最も関心を持っていた鞠智城の「八角堂(鼓楼)」について多くの知見を得ることができました。なかでも前期難波宮の「八角堂」との違いがよくわかり、共に九州王朝による造営と思われるのですが、その性格的違いの理由を改めて考えさせられました。
特に木村さんからの、前期難波宮の方には芯柱が無いという指摘は衝撃的で、遺跡の図面をよく見比べればわかることなのですが、指摘されるまでわたしは気づきませんでした。そして実際に鼓楼の内部に入ってみると、1階は柱だらけの印象で、内部に何かを保管したり、儀礼を行うというスペースはありません。ですから、鞠智城の場合は「八角堂」というような表現は適切ではなかったのです。「堂」であれば内部に一定のスペースが必要ですから。
この点、規模も大きく、芯柱も無い前期難波宮の場合は「八角堂」「八角殿」という表現が妥当です。こうした差異から、両者は「八角」という点では共通していますが、その使用目的や性格は異なると思われました。このことに気づいたのも、今回の成果の一つでした。
もう一つの相違点は、共に1対2棟の「八角堂」なのですが、前期難波宮は東西対称に同じ規模で並び、南北方向は正確に北を向いています。ところが鞠智城は南北に並び、南北軸は北とは無関係ですし、それぞれ大きさや柱の数も異なります。なお、同じ場所に新旧の「八角堂(鼓楼)」が立てられた痕跡があり、鞠智城の「八角堂」は新旧2対の計4棟あったことが明らかとなっています。そのうち1棟だけは礎石造りで、他の3棟は堀立柱構造です。
このように、鞠智城の「八角堂(鼓楼)」の向きがが磁北とずれていることは、その性格を理解する上で留意すべき点と思われます。この差異も、前期難波宮と鞠智城の「八角堂」の目的や性格が異なることを指し示しているように思われるのです。

(後記)本稿に対して西村秀己さんより、「一階が柱だらけ、ということで何のための建物かというイメージがつかみにくい。」という感想をいただきました。この通りで、わたしにもまだイメージが掴めていません。これからの課題です。


第966話 2015/06/01

鞠智城を初訪問

京都に帰る新幹線の車中で書いています。前垣さんと高木先生のご案内で鞠智城を見学してきました。主任学芸員の木村龍生さん(熊本県立装飾古墳館分館歴史公園鞠智城温故創生館)から懇切丁寧な説明と同遺跡を案内していただきました。しかも特別に「八角堂(鼓楼)」の内部も入らせていただきました。感謝感激です。矢継ぎ早のわたしからの質問に対しても的確に答えていただき、若くてとても博学な研究者でした。
わたしからの主な質問と、木村さんのお答えは次のような内容でした。簡潔に記します。

(問)鞠智城の訓みは「キクチ」と「ククチ」とではどちらが適切か。
(答)『和名抄』の郡名の訓みでは「ククチ」とあり、これが史料根拠としては最も古い。

(問)鞠智城の編年は須恵器に依っているのか。
(答)須恵器と土師器に依った。

(問)貯木場から出土した木材の年輪年代測定は実施したのか。
(答)していない。(予算的に困難のようであった)

(問)出土した仏像を百済系とされているが、その根拠は何か。
(答)全体の形式から百済系と判断された。ただし韓国の学者には、仏像が筒状のものを持っているが、百済の仏像には見られないので、百済系ではないという意見の人もいる。百済系仏像は中国南朝の影響を受けており、「宝珠」を持つのが普通とのこと。

(問)仏像の出土状況はどのようなものだったか。故意に廃棄されたのか、それとも何らかの理由で放置されたのか。
(答)発掘当事者の意見としては、周囲の土が固められたようだったので、故意の埋納の可能性もあるとのこと。

(問)「八角堂(鼓楼)」は前期難波宮の八角堂と比較してどのような差があるか。
(答)前期難波宮よりもやや小さい。前期難波宮にはない芯柱を持っている。

(問)「八角堂(鼓楼)」の一つは礎石造りとのことだが、瓦葺きか板葺きか。
(答)その付近から瓦は出土していないので、板葺きと思われる。復元された鼓楼が瓦葺きなのは、耐候性やメンテナンスなどのことを考えてのこと。数十トンの瓦の重量を支えるため、地下7mまで掘り下げて基礎を造った。

(問)瓦を造った窯の場所はどこか。
(答)不明。

(問)周囲の土塁の高さはどのくらいだったのか。土塁の上に柵はあったのか。
(答)土塁の高さは約3m程度と思われる。上部は削られていたので、柵の有無は不明。土塁の前面と後面は版築のための柵が設けられている。

(問)建造物の柱は残っていないのか。
(答)抜き取られていて残っていない。瓦なども他に持ち出されて再利用された可能性が指摘されている。

(問)製鉄や鋳物工房跡はないのか。
(答)鉄製遺物と小さなフイゴが出土しており、小規模な金属加工が行われていた可能性はある。

(問)貨幣は出土しているか。
(答)していない。

(問)近くに古代道路の「車路」が通っているが、鞠智城からの距離はどのくらいで、西海道とどちらが古いと考えられるか。
(答)1kmほど離れている。西海道よりも「車路」の方が古いと考えている。もともとの官道は「車路」で、8世紀に肥後国府ができてから西海道が造営されたと考えている。

(問)鞠智城の性格はどのようなものと考えられているか。
(答)様々な説が出されており、論争中。たとえば、大宰府や肥後国府への兵站基地、官庁的性格、倉庫的性格、対隼人戦の基地など。

(問)鞠智城への見学者はどのくらいか。
(答)年間10万人ほど。春と秋が多い。夏は暑く、冬は積雪の心配があって来場者は減る。

この他にもたくさんの質疑応答を行いました。貴重な報告集などもいただき、何度もお礼を述べて鞠智城を後にしました。京都に帰ったら、しっかりと勉強したいと思います。
帰りの新幹線の時間まで余裕がありましたので、高木先生の案内で山鹿市の横穴装飾墳を見学しました。壁面に五弦の琴を持った人物が掘られた墓もあり、とても興味深いものでした。お世話になった皆さん、本当にありがとうございました。
ここまで書いたら、ちょうど京都駅に到着しました。


第965話 2015/06/01

九州王朝の兄弟統治と「兄弟」年号

今朝は菊池市のホテルにいます。鞠智城を見学するため、菊池市内のホテルを予約していただきました。昨日の菊水史談会(石山仁明会長)主催の和水町中央公民会での講演会には約100名の参加者があり、盛況でした。主催者の説明によると和水町外からの参加者も多く、インターネットを見て参加された人も少なくなかったそうです。2時間ほど講演しましたが、皆さん最後まで熱心に聴講され、持ち込んだ『盗まれた「聖徳太子」伝承』も完売しました。ありがとうございました。
講演終了後は菊水史談会の皆さんと懇親会があり、夕食をご一緒しながら、時間の都合で講演では話せなかった新「発見」について追加発表させていただきました。
今回の講演のキーワードは「兄弟統治」「二人の天子」です。『隋書』「イ妥(タイ)国伝」によれば、イ妥国は夜は兄、昼は弟が統治するという兄弟統治という体制でした。九州年号にも「兄弟」(558年)があり、この「兄弟統治」との関係をうかがわせます。そして、天子(兄か弟)が筑紫(久留米)の多利思北孤であり、もう一人の天子(弟か兄)は筑紫舞に見える「肥後の翁」ではないかとする作業仮説が考察の出発点でした。
昨日、早く着いた新玉名駅で観光案内パンフレットを読んでいますと、熊本市の案内に「市内最古の神社」として健軍神社が紹介されていました。「最古」とあるだけで具体的年代は書かれていないので、スマホで調べてみると、ウィキペディアには「欽明19年(558年)」の創建とされていました。この創建年こそ九州年号の「兄弟元年」に相当するのですが、神社創建と改元には関係があるのではないかと考えています。「兄弟統治」を記念して、九州年号は「兄弟」と改元され、「肥後の翁」に相当する人物(兄か弟)が改元にあわせて健軍神社を創建したのではないでしょうか。これから調査したいと思います。

もうすぐ菊水史談会事務局長の前垣芳郎さんと考古学者の高木正文先生がホテルまで迎えに来られます。両氏の御案内で鞠智城を初訪問します。とても楽しみです。


第964話 2015/05/31

鞠智城はキクチ城かククチ城か

昨日とは打って変わり、今朝は雨もあがり、好天に恵まれました。今は新玉名駅に向かう九州新幹線の車中です。九州新幹線は座席が4列のグリーン車並で、木材を使用したゴージャスな作りです。窓のブラインドも木製の簾なのには驚きです。JR各社でも九州が最も車両デザインがおしゃれではないでしょうか(「七つ星」はその最高峰)。
わたしが研究開発にいた頃、JR九州の車両内装用のコルクボードを染色できる染料と染色処方の開発を試みたことがありましたので、九州新幹線とも少しは縁があります。ちょうど「木材染色」の技術開発に熱中していた頃でしたから、今でも懐かしく思います。開発した木材染色技術や専用染料はホテルや商業ビルの内装、大手家電メーカーの建材等に使用されており、一見すると木目が美しい「天然銘木」なのですが、わたしには人造の「染色木材」であることがわかります。出張先のホテルの内装などでみかけると、ここでも使用されているのかと、うれしくなります。ちなみに「古田史学の会」の水野代表は若い頃(日本ペイント株式会社勤務時代)、新幹線開業時の車両用塗料の開発に関わられたとのこと。
今日は玉名郡和水町で講演しますが、どうしても事前に調べておきたいことがあり、約束の時間よりも1時間早く新玉名駅に行くことにしました。今回の主要テーマの一つが鞠智城なのですが、わたしは「キクチじょう」と読んでいました。ところが、講演会主催者の菊水史談会の前垣芳郎さん(事務局長)から、メールで「ククチのキ」と読むのが正しいとする見解を知らせていただいていたので、この鞠智城についてしっかりと調べておく必要を感じたのです。
鞠智城については読み方だけでなく、その所在地も今までは漠然と菊池市と山鹿市にまたがった遺跡で、主には菊池市に含まれると思っていたのですが、これもよく調べてみると逆で、両市にまたがっているもののその多くは山鹿市に属しているのでした。
このように熊本県で講演するのに、あまりにもご当地についての知識が不足していたり、間違って理解していることもありそうなで、急遽、講演会の位置づけを少し変更して、わたしのアイデア(思いつき・作業仮説)をご披露し、その当否と新たな知見やご当地のご意見をうけたまわる、そのような「講演」にすることとしました。はたして、このような「講演」が受け入れられるか。いざ、「火の国」熊本県和水町へ。


第963話 2015/05/30

地震列島の歴史学

 鹿児島で火山が噴火したかと思ったら、今度は小笠原で地震が発生です。久留米大学の講演も盛況のうちに終わり、実家でのんびりしていたら、地震のニュースです。震源地から遠く離れた筑後地方が震度3と報道されていました。関東は震度4や5とテレビで解説され、福井と筑後がポツンポツンとどういうわけか震度3です。九州の他地域や中国・四国は震度1か2なのに、筑後地方だけが震度3ということで不思議に思いました。ちなみに、久留米の実家では揺れに気づきませんでした。
 テレビの緊急地震速報を見ながら、九州ではなぜ筑後地方だけ震度3なのだろうかと考えました。素人判断ですが、やはり地盤が地震に弱いのではないでしょうか。古代史上でも有名な筑紫大地震もこの地方に発生し、その水縄断層のずれが今でも地表に露出しており、断層の痕跡を見ることができます。
 筑紫大地震は『日本書紀』によれば、天武7年12月(679)に発生し、筑紫国は大きな被害に遭っています。その6年後の天武13年(684)には白鳳大地震(南海トラフ巨大地震)が発生しています。白村江の敗戦後、九州王朝は度重なる巨大地震により滅亡を早めたのかもしれません。もしかすると、古代の人々にはこれら巨大地震を「九州王朝への天(神)の怒り」と感じ、弥生時代から続いた九州王朝への信頼や畏敬の念は急速に失われたようにも思いました。
 このように地震と歴史との関係を研究対象とする地震考古学は今までも優れた研究が残されていますが、歴史の変遷そのものと地震との関係を深く考察する「地震列島の歴史学」の研究も期待されます。東北大震災により「原発の安全神話」が崩れ去ったように、巨大な天変地異が九州王朝の建国神話を崩壊(大和朝廷による盗用)させ、滅亡を加速させたという仮説に基づく、九州王朝史研究の深化が必要と思いました。


第962話 2015/05/30

志賀島の「金印」か「銀印」か

本日の久留米大学公開講座では九州王朝の歴史の概略について説明し、特に学問の方法について意識的にふれました。冒頭、志賀島の金印の持つ論理性について述べ、金印は中国の王朝から見て、周囲の朝貢国内のナンバーワンの権力者に与えられるものであり、その金印が志賀島から出たのであれば、倭国の王者が北部九州にいた証拠であるとしました。
ちなみに、『三国志』倭人伝によれば卑弥呼には金印が下賜され、その部下の難升米には銀印が与えられたと記されています。このことから、金印は倭国のナンバーワンに与えられるのであり、ナンバーツー以下であれば銀印がふさわしいことがわかります。従って、志賀島の金印を従来説(近畿天皇家一元史観)のように「漢の委(わ)の奴(な)の国王」というように、大和朝廷(委)をトップとする下での奴国に与えられたとするのであれば、金印ではなく銀印か銅印でなければなりません。志賀島から出たのが金印ではなく銀印であれば、倭国のナンバーツー以下がもらったと言えないこともありませんが、事実は「志賀島の金印」であり「志賀島の銀印」ではないのです。
こうした「金印」と「銀印」の論理性に、今回の久留米大学での講演の準備をしていて気づきましたので、冒頭に話させていただいたものです。
講演の最後には、久留米出身の超有名古代人こそ九州王朝の天子・多利思北孤であり、その伝承が「聖徳太子」の事績として『日本書紀』などに盗用されていたことを『盗まれた「聖徳太子」伝承』に詳しく記したと紹介しました。おかげで会場に持ち込んだ同書を完売することができました。久留米の皆さん、お買い上げいただき、ありがとうございました。会場で販売していだいた不知火書房の米本様にも改めて御礼を申し上げます。


第951話 2015/05/13

鞠智城と

古代官道「車路(くるまじ)」

「蜑(アマ)の長者」伝説などを調べているうちに、肥後にあった古代の官道「車路(くるまじ)」の存在を知りました。鞠智城についてずっと気になっていたこととして、鞠智城の位置が古代官道「西海道」から離れており、このことが何とも理解しがたい疑問として残っていたのです。しかし、この「車路」の存在を知り、ようやく納得することができました。今回はこの問題について説明したいと思います。
「洛中洛外日記」944話「隋使行程記事と西海道」で述べましたように、隋使は筑後(久留米市)から大牟田へ抜けたのではなく、内陸部を通る官道「西海道」(現・九州縦貫道のルートにほぼ相当)の「十余国」を経て肥後の「海岸に達した」と、『隋書』の記事から理解したのですが、そうすると玉名郡の江田(和水町)から菊池川を下って有明海に出るか、そのまま南へ進み熊本市付近で「海岸に達した」と考えられるのですが、いずれの行程も更に東にある鞠智城には至りません。すなわち、西海道から離れ、江田付近から東へ向かわなければ鞠智城に至らないのです。
『隋書』の記事の通り隋使が「海岸に達し」かつ「噴火する阿蘇山」を見たのであれば、鞠智城経由では阿蘇山の噴火は見えても、「海岸に達する」ことはできませんから、うまく行路を説明できません。この問題がずっと疑問として残っていたのです。やや強引に理解すれば、江田から一旦東の鞠智城に向かい、その後、江田まで戻り菊池川を下って海岸に達したと理解することも可能ですが、『隋書』の行路記事を素直に読めば、これは隋使が鞠智城に行ったとするための強引な説明(こじつけ)に過ぎず、やはりわたし自身を納得させることはできませんでした。
ところが「蜑(アマ)の長者」伝説によれば、肥後国府(熊本市)から鞠智城に至る「車路」を「蜑(アマ)の長者」が造営したとあり、現地研究者の調査により、古代官道・西海道よりも東側を通るルートに「車路」に関わる地名が転々と存在していることが確かめられました。しかも、その「車路」は鞠智城から更に江田方面に延びており、西海道に合流しているのです。
こうした研究成果から、わたしは九州王朝の時代の「西海道」は江田から鞠智城を経過し肥後国府(熊本市)の「車路」のルートではなかったかと考えています。九州王朝が造営したあれほどの城塞都市(鞠智城)が、同じく九州王朝が造営した「西海道」とは無関係の位置にあったとは考えにくいからです。従って、九州王朝造営の古代官道「西海道」は、九州王朝滅亡後には鞠智城の存在価値が低下したり、あるいは存在目的が変わったため、筑後国府から肥後国府をより短距離で結ぶルートとして現「西海道」になったのではないでしょうか。なお、「西海道」という名称は701年以後の近畿天皇家の時代になって作られたものと思われますから、この「西海道」の本来の名称は不明です。あるいは、九州王朝副都・前期難波宮を「中心」と考えれば「西海道」でもよいのかもしれません。この点も今後の研究課題です。(つづく)


第950話 2015/05/12

肥後にもあった

「アマ(蜑)の長者」伝説

山鹿市の「米原(よなばる)長者」が九州王朝の有力者「肥後の翁」の伝承であり、もしかすると天子(弟)かもしれないと考えています。なお、「よなばる」の「よな」とは火山灰のことだそうです。阿蘇山のある肥後に相応しい地名のようです。
今回、肥後の長者伝承を調べていてとても興味深い伝承の存在を知りました。なんと肥後の国府(熊本市)に「アマの長者」がいたという伝承があったのです。正確には「蜑(アマ)の長者」と呼ばれており、この「蜑(アマ)」という字の意味は海洋民、すなわち「海人」のことなのだそうです。九州王朝は天孫族に淵源を持っていますから、まさにこの「蜑」の字義と一致しています。何よりも多利思北孤の姓が「阿毎(アメ・アマ)であり、肥後の「蜑(アマ)の長者」も九州王朝の王族と見なしてもよいと思われるのです。
しかも、この蜑の長者の娘が米原長者に嫁入りしたという伝承まであるようで、たくさんの贈り物を米原長者に送るため、国府から鞠智城まで「車路(くるまじ)」を造営したとされています。この伝承から考えると、上位者は娘や貢ぎ物をもらった米原長者のようにも見えます。
「蜑の長者」「米原長者」とは九州王朝のどのような人物だったのでしょうか。肥後の現地伝承を多元史観・九州王朝説により調査検討する必要を感じています。すごい発見ができそうな予感がしてなりません。(つづく)


第949話 2015/05/11

「肥後の翁」の現地伝承

筑後地方(うきは市)の「天の長者」伝説が九州王朝の天子・多利思北孤かその一族の人物の伝承ではないかと考えていますが、同様に肥後地方にも九州王朝の長者伝説があれば、それが「肥後の翁」ではないかと思い、調査しました。
まだ調査途中ですが、鞠智城がある山鹿市米原には「米原(よなばる)長者伝説」があり、同じく山鹿市には「駄の原(だのばる)長者」伝説もありました。この他にも肥後には「長者伝説」があり、この中に九州王朝に関係する長者がありそうです。
今回、わたしは「米原長者伝説」に注目しました。ウィキペディア等の解説によれば、同伝説は三段階に分かれており、一段目は菊池郡の四丁分村(現在の菊池市出田周辺)に住む貧乏な男に都から高貴なお姫様が嫁ぎ、その男は裕福な長者になるというものです。これは各地にある「炭焼き長者伝説」と同類の説話です。
二段目は、山鹿市あるいは山本郡(熊本市植木町周辺)に権勢を誇る駄の原(だのはる)長者と、お互いの宝物を比べあい、金銀財宝を並べた米原長者に対して、多くの子供(子宝)を持つ駄の原長者が勝ったというもので、同類の伝説は筑後のうきは市にもあります。
三段目は、用明天皇の頃に長者という称号を賜った米原長者が、その広大な領地の田植えが昼間の内には終わらなかったため、沈みかけた太陽を引き戻して強引に田植えを続けたことに、天が怒って火の輪(玉)を降らして米原長者の領地(日岡山)を焼き尽くしたというものです。
この米原長者伝説の三段目に、わたしは特に注目したのですが、その理由は「用明天皇の頃(在位585〜587年)に長者という称号を賜った」という年代設定を持つ伝承だからです。これは多利思北孤の時代とほぼ同時期で、九州年号の勝照1〜3年に相当し、多利思北孤が即位した端政1年(589年)の直前なのです。
さらに、沈む太陽を引き戻すという行為が「昼を司る天子(弟)」に相応しい説話と思われることと、最後は「天」の怒りに触れて滅んだということも、九州王朝の兄弟統治を「義理なし」として隋の天子により廃止させられたことを反映した伝承ではないかと思われるのです。
このような長者伝承は後世において脚色されたり、その時代(後世)にふさわしい人名や事件に変質するという性格があるので、どの部分がどの程度の歴史事実を反映しているのかを見極めることが難しいのです。しかし、この米原長者伝説のケースは、時代が特定でき、鞠智城という九州王朝の造営による山城がある地域が舞台となっており、その鞠智城遺跡も出土し、「長者原」「長者山」「米原」という地名も現存しているという点で、大変有力な九州王朝系伝承と見なすことができるのです。引き続き、同伝説を記したより古い出典史料を探索したいと思います。(つづく)


第948話 2015/05/10

「肥後の翁」の考古学

 わたしが「肥後の翁」を九州王朝の天子ではないかと考えた理由は次のようなことでした。

1.筑紫舞の「翁」で主に活躍するのが「都の翁」ではなく、「肥後の翁」であること。
2.肥後地方に「天子宮」が濃密分布すること。
3.『隋書』によれば隋使が阿蘇山の噴火が見える地域(肥後)まで行っていること。
4.(タイ)国では、兄と弟により兄弟統治していること。従って、多利思北孤とは別にもう一人イ妥王がいたことになる。

 以上のような理由から、肥後に九州王朝の有力者がおり、それが筑紫舞の「肥後の翁」ではないかと考えたのです。そこで、今回は「肥後の翁」の考古学痕跡について紹介します。
 まず一つは弥生時代の鉄器出土数です。服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)の論稿「鉄の歴史と九州王朝」(『古田史学会報』124号2014年10月所収)によれば、福岡県と熊本県の鉄器出土数の変遷は次の通りで、両県が群を抜いた国内最多出土県です。

    弥生前期 弥生中期 弥生後期・終末期(本)
福岡県    50  411   984
熊本県    1   41  1565

 服部さんの表では「鉄鏃」と「その他鉄器」を分けて表示されていますが、転載にあたり合計しました。このように、弥生後期・終末期になるとそれまでトップだった福岡県を抜いて、熊本県がダントツのトップとなるのです。その理由や出土状況の詳細は知りませんが、肥後が九州王朝内で重要な地域であったこと、すなわち有力者がいたことをこのデータは指し示しています。
 ちなみに、奈良県は前期0、中期0、後期・終末期6と、全国や近畿の他県よりも「圧倒的に貧相」な出土状況なのです。これは「邪馬台国」畿内説に立つ考古学者や歴史学者の常識や理性を疑うに十分な考古学的出土事実と言わざるを得ません。
 二つ目の考古学的痕跡は、装飾古墳の出現が肥後地方が国内で最も多く、時期も早いという点です。昨年、玉名郡和水町にうかがったおり、当地の考古学者の高木正文さんからいただいた報告書「肥後における装飾古墳の展開」(高木正文著。『国立歴史民俗博物館研究報告』第80集、97-150頁、1999年3月発行)によれば、次のように肥後における装飾古墳の変遷が説明されています。抜粋します。

 「肥後(熊本県)には、現在約190基の装飾古墳が確認されており、数の上では全国一を誇っている。」
 「(八代市・天草島地域は)肥後で最も早い段階で朝鮮半島から横穴式石室が導入された所の1つでもある。肥後の装飾古墳はこの地域で出現し、他の地域へ波及したものと考えられる。」
 「八代・天草地域で出現した装飾古墳は、5世紀半には宇土半島に広がり、5世紀後半には熊本平野へも波及する。」

 このように装飾古墳が肥後の八代・天草地域から発生し、宇土半島・熊本平野へと波及しているのですが、全国的にも原初的発生地域と考えられ、また宇土半島で産出する石棺用のピンク石が他県や近畿の古墳でも使用されていることは有名です。こうした考古学的事実も肥後に九州王朝の有力者がいたことを指し示しているのです。(つづく)