九州王朝(倭国)一覧

第588話 2013/08/31

阿部周一さんからの「鎮西」試案

 第587話「観世音寺と観音寺」に対して、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)より興味深いメールが寄せられましたので、ご紹介します。
 太宰府の観世音寺の創建年を記した史料『日本帝皇年代記』の「鎮西建立観音寺」の読みについて、わたしは「鎮西」を九州という地名表記と見なしたのです が、阿部さんは単なる地名表記ではなく、観世音寺(観音寺)の創建主体、すなわち九州太宰府(九州王朝)のことと理解すべきではないかと提起されたので す。
 その理由として、「鎮西」が「九州の」といった地域特定のための「形容詞的」用法であるなら、「鎮西建立観音寺」ではなく、「建立鎮西観音寺」というように「観音寺」の直前になければならないというものでした。しかし、「鎮西建立観音寺」とあるので、この「鎮西」は『日本帝皇年代記』に見える他の寺院建立記事と同様に読まれるべきで、そうであれば「鎮西」が観音寺を建立したと解さざるを得ないという御指摘をされたのです。
 たしかに「文法的」には阿部さんの言われることはもっともです。そのため、わたしは「検討させていたたきます」とメールで返答しました。学問的検証方法としては、当該史料『日本帝皇年代記』の史料批判、すなわち執筆者の「和風漢文」の「文法」を調べたり、史料中の同じような用例や「鎮西」の抽出と比較解析などが必要と思われます。ただちに阿部試案の当否は判断できませんが、とても興味深く鋭い御指摘ですので、しっかりと検討させていただきたいと思います。
 阿部さんのような優れた研究者がわたしの洛中洛外日記に対して、このような試案を寄せていただくことは有り難いことです。
 なお、太宰府の観世音寺を「観音寺」と表記する史料を新たに見いだしましたのまで、ご紹介します。それは『新抄格勅符抄』という平安時代成立の文書で、 そこに収録されている大同元年(806)の太政官牒に「太宰観音寺 二百戸 丙戌年施 筑前国百戸 筑後国百戸」と記されているようです。ちなみに、この「丙戌年」は朱鳥元年(686)のことと見なされているようですが(『若宮町誌』上巻、2005年)、このことが正しければ、朱鳥元年には観世音寺が太宰府に存在していたことの証拠となります。原本未見ですので、引き続き調査します。


第580話 2013/08/15

近江遷都と王朝交代

 今年もNHKの大河ドラマ「八重の桜」を楽しみに見ていますが、前半のクライマックス「会津戦争」が終わり、今週からは京都を舞台にした「京都 編」が始まりました。同志社大学校舎が建てられた旧薩摩藩邸跡地や大久保利通邸跡地などの石碑がご近所にありますので、とても身近に感じられる大河ドラマです。娘の母校の同志社大学からも新島八重の生涯を紹介したパンフレットが送られて来るなど、並々ならぬ力の入れようです。

 近江大津宮についての考察を続けてきましたが、いよいよ最後のテーマ「王朝交代」の考察に入ります。これまでの考察をまとめますと、遷都年は『日本書紀』天智6年(667)と『海東諸国紀』の白鳳元年(661)とする二説があり、下層出土土器の編年(飛鳥編年による)から白鳳元年(661)説のほうが妥当と思われるということでした。しかし、『日本書紀』天智紀などの記事から、天智が近江大津宮にいたことは、特に否定できるような疑問点も見あたり ませんから、史実としてよいでしょう。そうすると、九州王朝により造営され「遷都」した大津宮に、天智天皇は「遷都」したことになります。すなわち、二つの王朝が同じ大津宮に異なる時期に「遷都」し、君臨したと考えてみてはどうでしょうか。
 白村江戦の敗北と九州王朝の筑紫君薩野馬の抑留などにより、大きなダメージを受けた九州王朝に代わって、天智は主人不在の大津宮で新王朝の樹立、または九州王朝からの王権の継承を宣言したのではないかという作業仮説(アイデア)が浮かんでいるのですが、そのことと関連するのではないかと思われる史料根拠があります。
 第577話で触れた『続日本紀』に見える「不改の常典」、すなわち「大津宮の天皇が定めた不改常典により、わたしは天皇位につく」という趣旨の宣命もその史料痕跡の一つなのですが、『日本書紀』天智7年(668)7月条に見える次の記事が注目されます。

 時の人の曰く、「天皇、天命将及」といふ。

 岩波『日本書紀』には、「天命将及」に「みいのちをはりなむとす」という訓みをつけ、頭注には「中国で王朝交代の意」との説明をしています。訓みは天智天皇の寿命のこととする変な解釈を行っていますが、やはり頭注で説明された「王朝交代」のこととするべきです。多元史観では何の問題もなく「王朝交代」と字義にそった解釈が可能ですが、近畿天皇家一元史観では天智天皇の寿命のこととする矮小な解釈しかできないのです。先の「不改常典」の内容についても一元史観の諸説が提案されていますが、いずれもうまく説明できていません。「天命将及」も同様に一元史観ではうまく説明できないのです。
 ちなみに、『日本書紀』天智7年(668)7月条の、「天命将及」を天智天皇が大和朝廷の創立者であったとする証拠として指摘された論者に中村幸雄さん(古田史学の会草創の同志、故人)がおれらます。このことが記された中村さんの研究論文「誤読されていた日本書紀」は当ホームページに掲載されていますので、是非ご覧ください。
 さらにもう一つ、朝鮮半島の史料『三国史紀』新羅本紀の文武王10年条(670)に見える次の記事です。

倭国、更(あらた)めて日本と号す。自ら言う。日出づる所に近し。以(ゆえ)に名と為すと。

 文武王10年条(670)ですから天智9年に相当します。倭国から日本国への国名の変更記事ですが、『旧唐書』では倭国伝(九州王朝)と日本国伝 (近畿天皇家)を書き分けられていますから、同様に考えれば『三国史紀』のこの記事も倭国(九州王朝)から日本国(近畿天皇家)への「交代」を反映した記事ではないでしょうか。
 以上のように、天智が大津宮で「王朝交代」を行った史料痕跡が見えるのですが、もしこの推論が正しかったとすれば、天智は「王朝交代」に成功したので しょうか。この点は比較的はっきりしています。天智の時代の九州年号は「白鳳」で、白鳳年間(661~683)に天智の称制即位(662)から没年 (671)までが入っていますが、即位年も没年も、新王朝の創立者として「建元」もされず、九州王朝を継承者としての「改元」もされていません。ですか ら、天智は何らかの宣言(不改常典)はしたのでしょうが、「王朝交代」には成功しなかったと思われます。
 以上、近江大津宮遷都年・造営年の考察から、天智の「不改常典」「王朝交代」まで推論を試みてみました。もちろん、この推論が正解かどうかは学問的検証の対象です。一つの作業仮説(アイデア・思いつき)としてご検討していただければと思います。


第578話 2013/08/09

近江大津宮の造営年と遷都年

 今日は大阪に来ています。わたしが理事をしている繊維応用技術研究会の講演会に出席しています。様々な分野の講演が続きましたが、中でも高輝度光科学研究センター(スプリング8)の熊坂崇さんの講演「放射光施設SPring-8における生体高分子の構造研究」は大変興味深い内容でした。最先端科学でここまで高分子構造が解明できるのかと驚きました。歴史研究に応用できれば、もっと多くの科学的知見が得られ、歴史の真実の解明が一層進むことと思われました。
 さて、第577話において、大津宮遷都年の二説の6年の差が、歴史理解において大きな問題点を含んでいることを述べました。ここでのキーポイントは、その6年の間に白村江戦の敗北という九州王朝における大事件が起こっていることです。ですから近江大津宮遷都年が661年なのか、667年なのかの検討が必要です。このテーマを考古学と文献史学の両面から迫ってみましょう。
 まず確認しておかなければならないことですが、造営年と遷都年が同時期かどうかという点です。『日本書紀』天智6年条の遷都記事を根拠に、従来は何となく大津宮造営年(完成年)も同年と考えられてきたようですが、『日本書紀』には大津宮造営に関する記事は見えません。前期難波宮は652年に完成したことが記されていますが、大津宮はいきなり遷都記事があるだけで、造営年(完成年)は記されていないのです。このことに留意する必要があります。
 というのも、第566話で紹介しましたように、白石太一郎さんの論文「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」『大阪府立近つ飛鳥博物館 館報 16』(2012年12月)によると、『日本書紀』天智紀には大津宮遷都は天智6年(667)とされていますが、大津宮(錦織遺跡)内裏南門の下層出土土器の編年が「飛鳥1期」(645~655頃)であり、遷都年に比べて古すぎるようなのです。
 この考古学的知見が正しければ、大津宮は白村江戦以前に完成していた可能性が高く、そうであれば第577話で指摘したように、その宮殿は九州王朝の宮殿 と考えざるを得ないという論理性により、遷都年は『海東諸国紀』に記された白鳳元年(661)とする理解へと進みます。それでは、『日本書紀』天智6年条の遷都記事は九州王朝史書からの盗用だったのでしょうか、それとも史実なのでしょうか。(つづく)


第575話 2013/07/28

白雉改元「小郡宮」説

 わたしはこれまで、白雉改元の儀式が行われた宮殿は前期難波宮であり、その時期は九州年号の白雉元年(652)であることを論証してきました。そのキーポイントは『日本書紀』孝徳紀の白雉元年二月条(650)の白雉改元記事は、九州年号の白雉元年二月(652)に行われた 行事の白雉年号ごと二年ずらしての盗用であることを明らかにしたことです(宮殿完成記事は652年九月条)。
 ちなみに近畿天皇家一元史観の通説では、白雉改元の宮殿を小郡宮とされているようです。吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・渤 海』(吉川弘文館、2011年)によれば、「難波宮の先進性」という章で白雉改元の宮殿について次のように紹介しています。

 「白雉元年(六五〇)、小郡宮とは明記されていないが、おそらくはそうであろう宮において白い雉が献上された(『日本書 紀』白雉元年二月甲申条)。その様子は以下のようであった。(中略)白雉献上の様子や礼法の規模の大きさからすると小墾田宮より大規模であったように推測 されるが、遺構などが見つかっていないため、これ以上踏み込むことはできない。」(117~118頁)

 このように小郡宮説が記されていますが、「小郡宮とは明記されていないが」「おそらくはそうであろう」「遺構などが見つかっていない」「これ以上踏み込むことはできない」という説明では、とても学問的仮説のレベルには達していません。それほど、白雉改元「小郡宮」説は説明困難な仮説なのですが、ある意味、著者は正直にそのことを「告白」されておられるのでしょう。その「告白」が指し示すことは、白雉改元の儀式が可能な大規模な宮殿遺構は前期難波宮しか発見されていないということです。「白雉」は九州年号ですから、改元した王朝は九州王朝です。その場所の候補遺構が前期難波宮しかなければ、前期難波宮は九州王朝の宮殿と考えざるを得ません。
 そして、『日本書紀』に記されている三つの九州年号「大化」「白雉」「朱鳥」のうち、「白雉」のみがその改元の様子が詳細に記されていることから、近畿天皇家が改元儀式に参列し、その様子を見ることができたからこそ、『日本書紀』に記すことができたと思われます。そうすると、孝徳の宮殿と改元の儀式が行われた九州王朝の宮殿は参列可能な程度の近くにあったことになります。この点も、前期難波宮九州王朝副都説でしかうまく説明できない『日本書紀』の史料事実なのです。


第573話 2013/07/25

いびつな宮殿、飛鳥宮

 今日は初めて福井県鯖江市に宿泊しました。鯖江駅前の案内板には「近松門左衛門の町」と表記されており、鯖江市と近松がどのような関係にあるのか興味を持ちました。京都に帰ったら調べてみようと思います。
 長時間の移動を伴う出張の際には、本を一冊かばんに入れておくのですが、今回の出張のお供は吉田歓著『古代の都はどうつくられたか 中国・日本・朝鮮・ 渤海』(吉川弘文館、2011年)です。古代都城の変遷や、中国の影響などわかりやすく解説された好著でした。もちろん著者は近畿天皇家一元史観に立って いますので、日本の都城として太宰府などは触れられていませんし、前期難波宮ももちろん孝徳天皇の難波長柄豊碕宮として取り扱われています。そうした「学問的限界」はありますが、参考にはなります。皆さんにもご一読をお勧めします。
 同書を読んで改めて感じたテーマがあります。同書89頁に掲載されている飛鳥浄御原宮(飛鳥宮3−B期)の平面図にそれは示されています。数年前に既に 古田史学の会関西例会でも発表したのですが、天武天皇や持統天皇の宮殿と見なされている飛鳥浄御原宮を平面図で見ると、その形が長方形や正方形ではなく、 いびつな台形なのです。
 天武天皇よりも以前に、大規模で見事な左右対称の朝堂や内裏を持つ前期難波宮や大津宮が造営されているのに、その後の飛鳥浄御原宮は平面形がいびつな台形で、建造物の配置も左右対称ではありません。もしこれらの宮殿が同一王朝のものとしたら、この「落差」をどのように説明できるのでしょうか。
 この宮殿の様式の落差は、同一王朝内のものではなく、前期難波宮を九州王朝の副都とするわたしの仮説と整合することがご理解いただけるものと思います。 また、わたしは九州王朝の「近江遷都(白鳳元年)」という仮説も発表していますが、この仮説とも整合する考古学的事実なのです。
 このように前期難波宮九州王朝副都説は文献的史料根拠だけではなく、考古学的事実という根拠も持っているのです。


第572話 2013/07/21

九州王朝の采女制度

 今日は参議院議員選挙の投票日です。わたしは朝に投票を済ませました。投票所の京極小学校は湯川秀樹さんの出身校で、娘 の母校でもあります。投票所では著名な狂言師の茂山千五郎さんを久しぶりにお見かけしました。茂山さんのご自宅屋上にはいつも阪神タイガースの旗が掲げら れており、ご近所でも有名です。
 なお、今回の投票では、わたしは原発問題を主な判断基準にして政党や候補者を選びました。この選挙を通じて、よりよい日本になればと願うばかりです。
 昨日の関西例会には、高松市在住の会員、寺崎さんが初参加されました。また、遠くは多摩市から参加されている齋藤さんからは、「采女」について研究報告 がなされました。近畿天皇家の采女制度は、九州王朝で先行して行われていたとする仮説です。わたしの記憶では、「采女」については古田学派内でもほとんど 研究されてこなかったテーマではないかと思います。これからの展開が期待されます。7月例会の発表は次の通りでした。

〔7月度関西例会の内容〕
1). 「安帝の鎖」高句麗好太王vs倭王讃(木津川市・竹村順弘)
2). 貴倭国と邪馬たい国(木津川市・竹村順弘)
3). 古代日本の実名敬避俗について(八尾市・服部静尚)
4). 巨大古墳についての一考察(八尾市・服部静尚)
5). 「別」の探求-天孫降臨以前の九州-(姫路市・野田利郎)
6). 采女について(多摩市・齋藤政利)
7). 『粘土に書かれた歴史』を読んで(京都市・岡下秀男)
8). 「常色律令」-『書紀』天武紀の「位冠・律令・法式・礼儀」記事について-(川西市・正木裕)
9). 倭人伝を尊重した末廬国・伊都国・奴国・不彌国の比定(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・ミネルヴァ書房からの古田書籍発刊・八王子セミナーの案内・行基建立の四十九院・文字より数字が先に発明された・『先代旧事本紀大成経』の国生み神話の小豆島・その他


第570話 2013/07/10

九州年号史料「伊予三島縁起」

 わたしが大三島の大山祇神社を訪れたかった理由の一つに、九州年号史料として 著名な同神社の縁起「伊予三島縁起」を実見したかったからでした。わたしが持っている「伊予三島縁起」は五来重編『修験道史料集(2)西日本編』所収の活 字版ですので、是非とも実物か写真版で九州年号部分を確認したかったのです。残念ながら宝物館には「伊予三島縁起」は展示されておらず、販売されていた書 籍にも「伊予三島縁起」は掲載されていませんでした。
 「伊予三島縁起」の九州年号史料としての性格が、四国地方にある他の九州年号史料とはかなり異なっており、このことが以前から気にかかっていました。と いうのも、四国地方の他の九州年号史料に見える九州年号は、「白雉」や「白鳳」といった『日本書紀』『続日本紀』などの近畿天皇家の文献にも現れるものが 多く、そのため本来の九州年号史料ではなく、それら近畿天皇家史料からの転用の可能性を完全には否定できないのです。この点、「伊予三島縁起」に見える九 州年号は、「端政」「金光」「願転(転願)」「常色」「白雉」「白鳳」「大(天)長」などで、これらは『日本書紀』や『続日本紀』などからは転用のしよう がない九州年号であり、「番匠初、常色二年」など九州王朝系史料からの引用と思われる貴重な記事も含まれており、その史料性格は格段に優れているのです。
 こうした理由から、わたしはどうしても「伊予三島縁起」原本を見たかったのです。『修験道史料集』に掲載されている「伊予三島縁起」の解題には、原本は大山祇神社にあり、善本は内閣文庫にあると記されています。引き続き調査してみたいと思います。


第569話 2013/07/09

伊予大三島の大山祇神社参詣

 7月6日(土)に松山市にて「王朝交替の古代史-7世紀の九州王朝」というテーマで講演しました。「古田史学の会・四 国」の主催によるものです。大和朝廷の養老律令や宮殿の規模・様式変遷、飛鳥出土木簡などを通じて、九州王朝から大和朝廷への権力交替期についての持論や 作業仮説(思いつき)を発表しました。幸い、「わかりやすかった」「また来てほしい」とお褒めの言葉もいただきました。「古田史学の会・四国」の皆さん、 ありがとうございます。
 講演会終了後の「四国の会」の会員総会では、会員や例会参加者を増やす方法について真剣に議論されていたのがとても印象的でした。懇親会でも熱心な質疑 応答が続き、わたし自身も啓発されました。高松市から参加された西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)を交えての論議もまた楽しいものでした。
 翌日の日曜日には合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、四国の会事務局長)のご厚意により、一度行ってみたかった大三島の大山祇神社を西村さんもご 一緒に三人で訪問しました。最初に社務所に寄り、『「九州年号」の研究』(古田史学の会編、ミネルヴァ書房)を進呈しました。宝物館は圧巻で、源義経奉納 の鎧(国宝)など重要文化財や国宝が多数展示してありました。国宝館には斉明天皇奉納と伝えられている大型の「禽獣葡萄鏡」がありました。「唐鏡」と説明 されていましたが、その大きさなどから国産のように思われました。
 大山祇神社の他にも、合田さんの案内で「しまなみ海道」の大島にある村上水軍の記念館なども見学できました。合田さんには何から何までお世話いただき、本当にありがとうございました。


第567話 2013/06/27

松山市で講演します

 7月6日(土)に松山市で講演します。「古田史学の会・四国」の主催によるもので、テーマは「王朝交替の古代史--7世紀の九州王朝」です。今年 2月に「多元的古代研究会」(東京)で話した内容と同じテーマですが、松山市での講演ということもあり、古代越智国と九州王朝との関係や、越智国の「紫宸 殿」地名についても触れます。
 それから、合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、四国の会事務局長)からのご要望により、九州王朝から大和朝廷への王朝交替についても詳しくふれる予定です。ただし、まだアイデア(思いつき)段階の作業仮説がどうしても多くなりますので、この点は用心深く、かつ大胆に述べてみたいと思います。
 この点、高松市に転居された西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)も当日は参加されますので、わたしと西村さんらとで行った「禅譲・放伐」論争について、西村さんのご見解もお話いただければと考えています。
 翌7日には合田さんに伊予大三島の大山祇神社へご案内していただけることになりましたので、とても楽しみにしています。同神社の「縁起」には九州年号が記されていることでも有名で、是非とも訪れたい神社です。


第555話 2013/05/05

筑後川の一線
 今日は特別な「子供の日」です。長嶋監督と松井選手の国民栄誉賞表彰式をテレビで見ています。わたしは巨人ファンではありませんが(西鉄時代からのライオンズファンです)、長嶋さんと松井さんの受賞を心よりお祝い申しあげたいと思います。
            

 九州王朝史研究において、その歴史を概観するうえで古田先生の重要な論文があります。「『筑後川の一線』を論ず」(『東
アジアの古代文化』61号、1989)です。古田学派でもあまり知られていない小論文ですが、筑後川を挟んでの九州王朝王都の移動変遷に関する重要論文で
す。
             
 その要旨は、弥生時代の倭国の墳墓中心領域は筑後川以北であり、古墳時代になると筑後川以南に中心領域が移動するというもので、その根拠としてそれぞれ
の時代の主要遺跡(弥生墳墓と装飾古墳)分布が、天然の濠「筑後川の一線」をまたいで変遷するという指摘です。その理由として、主敵が弥生時代は南九州の
勢力(隼人)で、古墳時代になると朝鮮半島の高句麗などとなり、神聖なる墳墓を博多湾岸から筑後川以南の筑後地方に移動させたと考えられています。
               この「筑後川の一線」という指摘に基づいて、わたしは「九州王朝の筑後遷宮」
いう仮説を提起しました。そして、高良大社の玉垂命こそ古墳時代の倭国王(倭の五王ら)であったとする論文を発表しました。古田先生も「『筑後川の一線』
を論ず」において、「弥生と古墳と、両時代とも、同じき『筑後川の一線』を、天然の境界線として厚く利用していたのである。南と北、変わったのは『主敵方
向』のみだ。この点、弥生の筑紫の権力(邪馬壱国)の後継者を、同じき筑紫の権力(倭の五王・多利思北弧)と見なす、わたしの立場(九州王朝説)と、奇し
くも、まさに相対応しているようである。」とされています。

            

 毎年、五月五日には拙宅の前を上御霊神社の子供御輿が通ります。少子化の時代、元気な子供たちのお祭りを見ると、心が和みます。


第554話 2013/05/02

「五十戸」から「里」へ(3)

 『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の造籍記事などを根拠に、わたしは「さと」の漢字表記が「五十戸」とされたの が、同年(九州年号の白雉元年)ではないかと考えました。 この問題に関連した論稿が阿部周一さん(古田史学の会々員・札幌市)より発表されています。 『「八十戸制」と「五十戸制」について』(『古田史学会報』113号。2012年12月)です。阿部さんは一村を「五十戸」とする「五十戸制」よりも前 に、一村「八十戸」とする「八十戸制」が存在し、七世紀初頭に「八十戸制」から「五十戸制」に九州王朝により改められたとされました。『隋書』国伝の 次の記事を史料根拠とする興味深い仮説です。

「八十戸置一伊尼翼、如今里長也。」

 おそらくは九州王朝の天子、多利思北弧の時代に一村の規模を八十戸から五十戸へと再編され、その「五十戸」という規模を 表す漢字が、後の「さと」の漢字表記とされる原因になったと考察されています。この「五十戸(さと)」が683年頃に「里(さと)」へと表記が変更された ことは既に紹介したとおりです。この阿部説が正しければ、「五十戸」の訓みが「さと」ですから、「八十戸」の訓みは「むら」だったのかもしれません。木簡 などで「八十戸」表記が見つかれば、より有力な仮説となることでしょう。これからの研究の進展が楽しみです。


第553話 2013/05/01

「五十戸」から「里」へ(2)

 「評」の下部単位である「さと」が五十戸毎に編成され、その漢字表記が「五十戸」とされたのがいつ頃かは、木簡からは残念ながら判明していません。「五十戸」から「里」表記に変更されたのが683年頃であるのは、次の干支木簡から推測されています。

 「辛巳年鴨評加毛五十戸」(飛鳥石神遺跡出土)
               「癸未年十一月 三野大野評阿漏里」(藤原宮下層運河出土)

 辛巳年は681年で、癸未年は683年です。「三野大野評」とあるのは「三野国大野評」のことで、「国」が省略された様式とされています。木簡の「五十戸」表記は683年以降も続いていますが、「里」表記木簡は今のところこの癸未年(683)が最も早く、おおよそこの頃か ら「里」表記が始まったと見てもよいようです。この「五十戸」から「里」への変更命令や変更記事は、九州王朝の行政単位の「評」と同様に『日本書紀』には 記されていません。
 今のところ「五十戸」表記の始まりを推定できるような木簡は出土していませんが、一元史観の学界内では、評制の成立時期と同じ頃ではないかとする説もあるようです。この説の論文を未見ですので、引き続き調査検討したいと思いますが、わたしは『日本書紀』白雉三年(652)四月是月条の次の記事に注目して います。

 「是の月に、戸籍造る。凡(おおよ)そ、五十戸を里とす。(略)」

 通説では日本最初の戸籍は「庚午年籍」(670)とされていますから、この652年の造籍記事は史実とは認められていないよ うですが、わたしはこの記事こそ、九州王朝による造籍に伴う、五十戸編成の「里」の設立を反映した記事ではないかと推測しています。なぜなら、この652 年こそ九州年号の白雉元年に相当し、前期難波宮が完成した九州王朝史上画期をなす年だったからです。すなわち、評制と「五十戸」制の施行、そして造籍が副都の前期難波宮で行われた年と思われるのです。(つづく)