九州王朝(倭国)一覧

第718話 2014/05/31

「告期の儀」と九州年号「告貴」

 テレビで高円宮家典子さんと出雲大社宮司千家国麿さんのご婚約のニュースを拝見していますと、皇室の婚姻行事の「告期の儀」について説明がなされていました。お婿さんの家から女性の家へ婚姻の日程を告げる儀式のことだそうです。古代にまで遡る両旧家のご婚儀に古代史研究者として感慨深いものがあります。

 その「告期」という言葉から、わたしは九州年号の「告貴」(594~600)を連想してしまいました。婚姻の期日を告げるのが「告期」であれば、九州年号の「告貴」は「貴を告げる」という字義ですから、九州王朝の天子・多利思北孤の時代(594年)に告げられた「貴」とは何のことだったのだろうかと考え込んでしまいました。改元して「告貴」と年号にまでしたのですから、よほど貴い事件だったに違いありません。

 この年に何か慶事があったのだろうかと『日本書紀』(推古2年)を見ても、それらしい記事は見えません。その前年には四天王寺造営記事がありますが、そのことと「告貴」とが関係するようにも思えません。

 漢和辞典で「貴」の字義や用語を調べてみますと、「貴主:天子の娘」というのがあり、多利思北孤の娘か息子(利歌彌多弗利)の誕生を記念しての改元ではないかと考えました。もちろん確かな根拠があるわけではありませんが、作業仮説(思いつき)として提案したいと思います。なお、利歌彌多弗利の生年を 577年とする説を「『君が代』の『君』は誰か — 倭国王子『利歌彌多弗利』考」(『古田史学会報』34号、1999年10月)等で発表したことがありますので、こちらもご参照ください。

 もう一つ注目すべき記録があることに気づきました。九州年号(金光三年、勝照三年・四年、端政五年)を持つ『聖徳太子伝記』(文保2年〔1318〕頃成立)の告貴元年甲寅(594)に相当する「聖徳太子23歳条」の「国分寺(国府寺)建立」記事です。

 「六十六ヶ国建立大伽藍名国府寺」(六十六ヶ国に大伽藍を建立し、国府寺と名付ける)

 もし、この『聖徳太子伝記』の記事が九州王朝系史料に基づいたもので、歴史事実だとしたら、「告貴」とは各国毎に国府寺(国分寺)建立せよという 「貴い」詔勅を九州王朝の天子、多利思北孤が「告げた」ことによる改元の可能性があります。そう考えると、『日本書紀』の同年に当たる推古2年条の次の記事の意味がよくわかります。

 「二年の春二月丙寅の朔に、皇太子及び大臣に詔(みことのり)して、三宝を興して隆(さか)えしむ。この時に、諸臣連等、各君親の恩の為に、競いて佛舎を造る。即ち、是を寺という。」

 『日本書紀』推古2年条はこの短い記事だけしかないのですが、この佛舎建立の詔こそ、実は九州王朝による「国府寺」建立詔の反映ではないでしょうか。

 「告期の儀」の連想から、「九州王朝による国分寺建立」という思いもかけぬところまで展開してしまいました。これ以上の連想は学問的に「危険」ですので、今回はここで立ち止まって、もっとよく考えてみることにします。若いお二人のご多幸をお祈りいたします。


第711話 2014/05/17

九州王朝の葬礼

 本日の関西例会で、正木さんから衝撃的な研究が発表されました。九州王朝の葬礼「貴人の殯(かりもがり)」と近畿天皇家の葬礼との比較研究です。
 『隋書』によれば九州王朝(倭国)の葬礼について次のように記しています。

「貴人は三年外で殯(かりもがり)し、庶人は日を卜(うらな)って葬る。」『隋書』イ妥国伝

 倭国では貴人(王族か)の葬礼においては直ちに埋葬せずに、外で三年(足かけなら2年)殯するとあります。ところが正木さんの調査によれば、『日本書紀』に記された7世紀(隋以降の時代)の天皇の殯の期間は短く、『隋書』の貴人への葬礼とされた3年間(足かけなら2年)行われた天皇は、なんと天武だけなのです(2年と61日。天智は葬儀記事が無く不明)。推古は195日、孝徳に至ってはわずかに58日間です。すなわち、天武以外の近畿天皇家の天皇は「貴人」ではなかったとされたのです。
 これまで古田学派では、少なくとも7世紀の近畿天皇家は九州王朝下の最有力豪族であり、九州王朝の天子に対する、ナンバー2としての「天皇」を名乗っていたと考えられてきました。しかし、今回の正木さんの研究によれば、近畿の天皇たちは貴人ではなかった、あるいは貴人にふさわしい殯はされなかったということになるのです。
 更に『日本書紀』の大化2年(646)の薄葬令は九州王朝の天子「利歌弥多弗利」の崩御に際して出された「命長7年(646)」の薄葬令とする見解も示されました。この点については、九州年号の「大化2年(696)」に出されたものではないかとする反対意見が水野代表や西村秀己さんから出されました。さらなる論争と研究が待たれます。
 5月例会の報告は次のとおりでした。わたしからは、「洛中洛外日記」709話で紹介した「石原家文書」の「大化~安政間の年数計算」史料のコピーを紹介し、解説しました。

〔5月度関西例会の内容〕
1). 汗人と九夷と孔子(木津川市・竹村順弘)
2). 船王後墓誌の整合性(八尾市・服部静尚、代読:竹村順弘)
3). 推古の二倍年暦の百歳(八尾市・服部静尚、代読:竹村順弘)
4). 『そんなバカな』を読んで(京都市・岡下英男)
5). 「三人の継体帝」と「いくつもの伊勢大神」(大阪市・西井健一郎)
6). 『三国志』の「自○以北」の用法(姫路市・野田利郎)
7). 『隋書』の「貴人の葬礼」記事と薄葬令の正体(川西市・正木裕)
8). 熊本県和水町「石原家文書」(大化~安政間の年数計算史料)の紹介(京都市・古賀達也)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(体調良好とのこと。ヨーロッパ古典の読み直しをされています。プラトン『国家論』、デカルト『方法序説』、他。10/04 松本深志高校で講演予定。)・会務報告・『伊豫史談』373号の合田洋一氏稿・帝塚山大学考古研市民大学講座視聴・黒田智著『藤原鎌足時空をかける・変身 と再生の日本史』・大和郡山市の大職冠鎌足神社訪問・放送大学TV「渡り鳥の旅を追う」・その他


第708話 2014/05/11

隋使の来た道

 和水町の講演で、『隋書』によれば倭国に来た隋使は阿蘇山の噴火を見ており、そのためには江田船山古墳に見られるような有力者がいた和水町まで来た可能性があると述べました。そして、隋使が来たのは7世紀初頭の九州年号の時代であることから、当地域に残された九州年号による記録や伝承を調査していただきたいと締めくくりました。
 そうしたら、質疑応答のさいに会場から「自宅の近くにある阿蘇神社の記録に『告貴』という年号が記されているが、それが九州年号であったことがよくわかりました。」という発言がありました。「告貴」は6世紀末(594~600年)の九州年号であり、『隋書』に記された九州王朝の天子、多利思北孤の時代の年号です。
 多利思北孤の事績は、後代において『日本書紀』の影響を受けて、近畿天皇家の「聖徳太子」に置き換えられて伝承されている例が多く(法隆寺の釈迦三尊像 など)、熊本県(下益城郡、『肥後国誌』)の九州年号に「聖徳太子」伝承に伴ったものがあることや、熊本県に「天子宮」という名称の神社が濃密に分布していることも(古川さんの調査による)、九州王朝の多利思北孤との関係をうかがわせるものです。
 このように考えてみると、6世紀末から7世紀初頭にかけて、九州王朝は肥後に一拠点をおいたのではないかと、わたしは考えています。例えば菊池城なども そうした背景と影響下に造営されたように思われるのです。また、九州王朝の宮廷雅楽である筑紫舞の「翁」も、「肥後の翁」が中心になって構成されていると聞いていますので、このことも九州王朝と肥後との関係の強さがうかがえるものでしょう。
 九州王朝研究において、筑前・筑後・肥前に比べて、肥後の研究はまだまだ不十分です。和水町での講演や、「納音」付き九州年号史料の発見を良い機会として、当地の皆さんによる調査研究を心から願っています。わたしもまた当地を再訪問したいと思ってします。


第707話 2014/05/10

続・「九州年号」の王朝

 「九州年号」が九州の権力者により制定された年号であることを示す史料として、古写本「九州年号」という出典史料名や『二中歴』の「九州年号」記事細注の他に、隣国史書の『旧唐書』(945年成立)があります。
 「洛中洛外日記」第590~594話で連載した「『旧唐書』の倭国と日本国」でも詳述しましたが、『旧唐書』には「倭国伝」と「日本国伝」が別国として記録されています。その地勢表記から、倭国は九州島を中心とする国であり、日本国は本州島にあった国であることがわかります。そして、唐と倭国との交流記事の最後は倭国伝では貞観22年(648)、唐と日本国との最初の国交記事は日本国伝には長安3年(703)とあり、両者の日本列島代表王朝の地位の交代は648~703年の間にあると考えられます。そして、『二中歴』記載の九州年号の最後「大化6年(700)」と近畿天皇家の最初の年号(建元)である大宝元年(701)が、その期間に入っていることからも、「九州年号」の王朝が『旧唐書』に記録された倭国であることは明白です。
 このように「九州年号」と近畿天皇家の年号(大宝~平成)の関係と、『旧唐書』の「倭国伝」と「日本国伝」の関係が見事に対応しているのです。すなわち隣国史書『旧唐書』の記事が示していることも、「九州年号」は九州王朝(倭国)の年号であるということなのです。(つづく)


第706話 2014/05/09

「九州年号」の王朝

 「洛中洛外日記」第705話『「改元」と「建元」の論理性』で記しましたように、和水町での講演会で近畿天皇家以前に「九州年号」を公布した王朝があったとする論理性(理由)を説明しました。次いで、その王朝がどこにあったのかについて次のように説明しました。
 『二中歴』などに記された古代年号が「九州年号」と呼ばれてきた事実こそが、それらの年号が九州の権力者によって公布されたことを意味します。たとえば、江戸時代の学者、鶴峯戊申が書いた『襲国偽僭考』に九州年号が紹介され、古写本「九州年号」によったと出典を記しています。
 また、『二中歴』の九州年号部分の「細注」の考察からも、この九州年号記事部分が北部九州で成立したことがうかがわれます。それは「倭京二年(619)」に「難波天王寺を聖徳が造る」という天王寺(大阪市の四天王寺)建立記事と、「白鳳」年間に「観世音寺を東院が造る」という太宰府観世音寺建立記事の比較分析です。観世音寺には地名がなく、天王寺には難波という地名が付記されていることから、こられの記事は、太宰府の観世音寺のことを「観世音寺」だけでそれと理解できる地域で成立したことがわかります。すなわち、北部九州で成立した記事であり、読者も同じく北部九州の人々を想定しているわけで す。
 他方、天王寺のほうは「難波」と地名を付記しなければ、遠く離れた大阪の天王寺であることが、北部九州の読者には特定できないから、地名を付記した表記になったわけです。このように、九州年号記事の細注の分析からも、これら「九州年号」記事が北部九州で成立したことが推定できます。このことも、『二中歴』に記された「九州年号」が、九州で成立したことを指示しているのです。(つづく)


第705話 2014/05/07

「改元」と「建元」の論理性

 熊本県和水(なごみ)町での講演会で「九州年号」を紹介するにあたり、まず最初に説明したのは「改元」と「建元」についてでした。
 講演を聴きに来られた皆さんやわたしの世代は、日本最初の年号を「大化」(645年)と学校で習ったはずです。「大化の改新」の「大化」です。ところがその「大化」年号や「大化の改新」を記した『日本書紀』には、天豊財重日足姫天皇(皇極天皇)の四年を改めて大化元年とする(孝徳天皇即位前紀)とあり、 王朝が初めて年号を制定する際の「建元」ではなく、なんと「改元」記事なのです。
 それでは大和朝廷(近畿天皇家)にとって最初の年号制定を意味する「建元」記事はどこにあるかといえば、『続日本紀』の文武天皇大宝元年三月条(701年)にあります。
 「建元して大宝元年としたまう。」(『続日本紀』)
 『日本書紀』も『続日本紀』も近畿天皇家が自らの歴史を、自らの利益のために、自らが編纂記録したものであり、自らに有利になるように記事を「修正・改竄・捏造」することはあっても、不利になるような変更はしないはずです。年号においても同様で、645年に「大化」年号を建元したのであればそう記すはずで、「改元」記事に変更する必要はまったくありません。同様に、701年に「大宝」年号を建元したと自ら主張しているのですから、これもまた嘘をつく必要はありません。すなわち、近畿天皇家は正直に「大化」は「改元」で、「大宝」は「建元」と主張していると考えざるを得ないのです。
 そうすると当然のこととして、一つの王朝にとって「建元」は最初の一回だけで、後は「改元」しかありません。近畿天皇家にとっての「建元」が701年の 「大宝」建元であれば、『日本書紀』に記された「大化(645~649年)」「白雉(650~654年)」「朱鳥(686年)」の3年号はいずれも「改元」と記されていることから、近畿天皇家以外の王朝が、近畿天皇家の「建元」よりも以前に、それらの年号を公布・改元していたと考えざるを得ません。これ が「改元」と「建元」の論理性なのです。
 『日本書紀』に改元記事として記されている「大化」「白雉」「朱鳥」は、『二中歴』などに見える「九州年号」中にありますので、「九州年号」は近畿天皇家以外の王朝が、近畿天皇家よりも以前に「建元」「改元」した年号であることは、上記の論理的帰結なのです。わたしのこの説明に、和水町の皆さんは深く同意され、「九州年号」というものをご理解していただけたようでした。(つづく)


第704話 2014/05/05

『隋書』と和水(なごみ)町

 昨日の和水町での講演会の演題は「『九州年号』の古代王朝」で、副題は「阿蘇山あり、その石、火起こり天に接す。『隋書』」でした。九州年号を発布した古代王朝こそ、『隋書』イ妥国伝に記された阿蘇山のある「九州王朝」であることを、講演の結論としたのですが、今回、初めて江田船山古墳がある和水町を訪問し、『隋書』イ妥国伝に記された風物がこの地に存在していることを確信したのです。
 『隋書』には倭国(九州王朝)について次のような記事があります。わかりやすく、順不同で列挙します。

1.阿蘇山あり、その石、故なくして火起こり天に接す。
2.葬に及んで屍を船上に置き、陸地これを牽(ひ)くに、或いは小輿を以てす。
3,二百余騎を従えて郊労せしむ。
4,小環を以て「慮鳥」「茲鳥」(ろじ)の項にかけ、水に入りて魚を捕らえしめ、日に百余頭を得る。

 1.の記事から九州王朝に来た隋の使者は阿蘇山を実見し、その噴火をリアルに記しています。「その石、故なくして火起こり天に接す」という表現は、活火山が無い中国の中原の人々にとっては驚きを持って受け止めた見事な文章ではないでしょうか。そこで、和水町の方にお聞きしたところ、和水町の山からは阿蘇山が見えるとのこと。わたしの実家の久留米市からは山に登っても阿蘇山は見えませんから、隋使は和水町まで行った可能性は小さくないと思われます。
 次に2.の葬儀の様子ですが、屍を船に乗せるという倭国の風習もまた、隋使にとって珍しい風習と受け止められ、記録に残されたものでしょう。この記事と対応するように、江田船山古墳がある清原(せいばる)古墳群の松坂古墳・首塚古墳・京塚古墳などに「舟形石棺」があります。さらには玉名市の石貫穴観音横穴墓内にも、ご遺体の安置台(側面)がゴンドラ型の石造物であり、まさに『隋書』の記事に対応した埋葬状況が見られるのです。わたしは前垣芳郎さん(菊水史談会事務局)と高木正文さん(当地の考古学者)のご案内により、横穴墓内のゴンドラ型の石造物を見たとき、先の『隋書』の一節を思いだし、その一致に驚 きました。
 3,の記事から、倭国は騎馬隊を持っていたことがわかりますが、高木さんのご説明では玉名地方の古墳から馬の骨が出土するとのこと。江田船山古墳からも 鉄製の鐙(あぶみ)・轡(くつわ)・馬具片が出土しています。有名な銀象嵌鉄刀(国宝)にも見事な馬の象嵌があります。こうしたことから、この地域では少なくとも古墳時代には馬が飼われていたことがわかります。この「馬」や「騎馬」の一致も、『隋書』と和水町を結びつけるものでしょう。
 最後に4.の鵜飼いの記事ですが、筑後川では今でも原鶴で鵜飼いが続けられていますし、矢部川でも江戸時代には鵜飼いが盛んであったことが『太宰管内誌』などの地誌に見えます。和水町を流れる菊池川には鮎はいるそうですが(今でも鮎釣りは盛んとのこと)、鵜飼いの風習はないそうです。ところが、先に紹介した江田船山古墳出土の銀象嵌鉄刀の「馬」の象嵌の裏面に「魚」と「鳥」の象嵌があることが発見されていたことを、わたしは今回の訪問で知りました。高木さんや前垣さんの御厚意によりいただいた『菊水町史 江田船山古墳編』(平成19年発行。菊水町は合併により現在では和水町になっています。)のカラー写真を確認したところ、「鳥」のくちばしの先が下に曲がっており、この「鳥」は鵜である可能性が高いのです。少なくとも、「魚」と一緒に描かれていること から「水鳥」と見るのが自然な理解です。また、「鳥」の首が長いことも「鵜」と見ることを支持していますし、首のあたりに「輪」とも見える象嵌が施してあり、鵜飼いの際に付ける「輪」のようにも思われるのです。
 以上、4点にわたり、『隋書』の記事と和水町の文物との一致を確認してきたのですが、これほどの一致は偶然と見るよりも、隋使がこの地を訪問した根拠とするに十分な傍証と思われるのです。(つづく)


第701話 2014/04/27

ONライン(701年)の画期

 読者の皆様やHP運営担当の横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人、東大阪市)のおかげで、「洛中洛外日記」も701話を迎えることができました。感謝申し上げます。そこで、701話にふさわしいテーマについて触れることにします。
 ご存じのように、古田先生は九州王朝(倭国)から近畿天皇家(日本国)への王朝交代の画期点として、701年を重視され、「ON(オーエヌ)ライン」と 命名されました。「ON」とは「オールド・ニュー」のイニシャルです。旧王朝から新王朝への交代年をこのように表現されたのですが、その主たる根拠は次の ような点でした。

1,『二中歴』などに見える九州年号は700年(大化6年)で終わり、701年からは近畿天皇家の最初の年号「大宝」が「建元」されます。『続日本紀』には大宝を「改元」ではなく、初めての年号制定を意味する「建元」と記されており、大宝が近畿天皇家最初の年号であることは明白です。
2,藤原宮出土木簡などから、700年までは行政単位は「評」であり、701年からは一斉に「郡」に変更されています。
3,『旧唐書』に見える「倭国伝」と「日本国伝」の記事は、倭国から日本国への政権交代が701年とする古田説と整合します。

 以上のような、文献(九州年号)と考古学的史料事実(木簡)、そして外国史料(『旧唐書』)などの一致を根拠に、王朝交代の画期点を701年とされました。わたしもこの古田説に賛成です。
 ところが、この10年間ほどで九州王朝研究は進展し、王朝交代の実体が複雑なものであることも判明してきました。例えば、九州年号は701年以後も継続しており、「大化」は703年まで続き、その後「大長」が712年までの9年間続いていたことがわかりました。そのため、701~712年の間は近畿天皇家と九州王朝がそれぞれ年号を持って併存していた可能性が出てきました。その間の九州王朝の実体はまだよくわかりませんが、701年に単純な王朝交代が行われたのではないようです。今後の九州王朝史研究の課題です。


第698話 2014/04/23

「梅花香る邪馬壹国の旅」

 松浦秀人さん(古田史学の会・四国)から素敵な写真付きの旅行記が送られてきました。「古田史学の会・四国」福岡旅行(2/28~3/03)の記録です。本ホームページに「史跡探訪と講演会参加 梅花香る邪馬壹国の旅」として掲載していますので、是非ご覧ください。

 古田先生の福岡講演や宮地嶽神社神官による筑紫舞を中心に、水城・大宰府政庁跡・太宰府天満宮・観世音寺・宮地嶽神社や九州国立博物館、九州歴史資料館、古賀市立歴史資料館訪問の写真などが掲載されています。中でも、古賀市立歴史資料館で、「邪馬台国」の「台」の字が「壹」の字に貼り替えられた展示を「発見」されたことは感動的でした。同資料館の判断で、『三国志』原文を改訂した従来説(邪馬台国)を否定し、『三国志』原文の「邪馬壹国」が正しいとする古田説を採用した痕跡だからです。さすがは「九州王朝」のお膝元だけあって、古田史学・多元史観は公的な資料館でも着々と受け入れられていることが わかります。

 古田史学・多元史観の夜明けは、わたしたち古田学派が思っているよりも早いのかもしれません。全国の古田ファンのみなさん、「古田史学の会」会員のみなさん、古田学派研究者のみなさん、志と力をあわせて前進しましょう。わたしたち「古田史学の会」はその先頭に立つ決意です。


第692話 2014/04/11

近畿天皇家の律令

 第691話で、 藤原宮で700年以前の律令官制の官名と思われる木簡「舎人官」「陶官」が出土していることを紹介しましたが、実はこのことは重大な問題へと進展する可能性を示しています。すなわち、藤原宮の権力者は「律令」を有していたという問題です。一元史観の通説では、これを「飛鳥浄御原令」ではないかとするのですが、九州王朝説の立場からは「九州王朝律令」と考えざるを得ないのです。
 たとえば、威奈大村骨蔵器銘文には「以大宝元年、律令初定」とあり、近畿天皇家にとっての最初の律令は『大宝律令』と記されています。この金石文の記事を信用するならば、700年以前の藤原宮で採用された律令は近畿天皇家の律令ではなく、「九州王朝律令」となります。そうすると、当時の日本列島では最大規模の朝堂院様式の宮殿である藤原宮で「九州王朝」律令が採用され、全国統治する官僚組織(「舎人官」「陶官」など)が存在していたことになります。ということは、藤原宮は「九州王朝の宮殿」あるいは「九州王朝になり代わって全国統治する宮殿」ということになります。「藤原宮には九州王朝の天子がいた」と する西村秀己説の検討も必要となりそうです。
 九州王朝の実像を解明るためにも、藤原宮出土木簡の研究が重要です。わたしは「多元的木簡研究会」の創設を提起していますが、全国の古田学派研究者の参画をお待ちしています。


第684話 2014/03/28

条坊都市「難波京」の論理

 「洛中洛外日記」683話などで繰り返し述べてきたことですが、これだけ考古学的根拠が発見されると、「難波京」は条坊都市であったと考えてよいと思います。しかし、わたしは前期難波宮九州王朝副都説を提唱する前から、前期難波宮には条坊が伴っていたと考えていました。それは次のような論理性からでした。

1.7世紀初頭(九州年号の倭京元年、618年)には九州王朝の首都・太宰府(倭京)が条坊都市として存在し、「条坊制」という王都にふさわしい都市形態の存在が倭国(九州王朝)内では知られていたことを疑えない。各地の豪族が首都である条坊都市太宰府を知らなかったとは考えにくいし、少なくとも伝聞情報としては入手していたと思われる。
2.従って7世紀中頃、難波に前期難波宮を造営した権力者も当然のこととして、太宰府や条坊制のことは知っていた。
3.上町台地法円坂に列島内最大規模で初めての左右対称の見事な朝堂院様式(14朝堂)の前期難波宮を造営した権力者が、宮殿の外部の都市計画(道路の位置や方向など)に無関心であったとは考えられない。
4,以上の論理的帰結として、前期難波宮には太宰府と同様に条坊が存在したと考えるのが、もっとも穏当な理解である。

 以上の理解は、その後の前期難波宮九州王朝副都説の発見により、一層の論理的必然性をわたしの中で高めたのですが、その当時は難波に条坊があったとする確実な考古学的発見はなされていませんでした。ところが、近年、立て続けに条坊の痕跡が発見され、わたしの論理的帰結(論証)が考古学的事実(実証)に一致するという局面を迎えることができたのです。この経験からも、「学問は実証よりも論証を重んじる」という村岡典嗣先生の言葉を実感することができたのでした。


第677話 2014/03/13

『松前史談』第36号を読む

 『松前史談』第36号(平成26年3月)が合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人、松山市)から送られてきました。「松前」と書いて「まさき」と読みます。郷土史の研究会誌らしく、地元の義農・作兵衛など郷土の偉人をテーマとした論稿に混じって、合田さんの講演録「天武天皇の謎 『万世一系』系図作成の真相」が掲載されていました。
 その内容は、古田説に依拠して、天武天皇(大皇弟)は九州王朝の天子(斉明)の弟であるとする仮説で、近年、合田さんが取り組んでこられた研究テーマです。なお、松前史談会副会長の大政就平さんは「古田史学の会」会員で、先日のアクロス福岡での古田先生講演会のおり、九州国立博物館でもお会いしました。『古田史学会報』の内容が難しすぎるので、もっとわかりやすい論文や記事を掲載してほしいと、ご要望もいただきました。ありがとうございます。
 「古田史学の会」会員や古田学派の研究者が各地の郷土史会などで古田説の紹介や研究発表をされることは、古田史学を世に広める上でとても良いことです。わたしも、5月4日(日)に熊本県玉名郡和水町で講演することになりました。地元の菊水史談会の主催です。同地からは「納音(なっちん)付き九州年号」史料が最近発見されましたが、それら発見された古文書(石原家文書)調査も兼ねて同地を訪問します。詳細が決まりましたら改めて御報告いたします。