木簡一覧

第2407話 2021/03/12

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(6)

本シリーズの最後に、飛鳥「京」と出土木簡との最も大きな齟齬について考察します。

 〝服部理論〟によれば、飛鳥出土の王宮跡や官衙遺構などが、律令制による全国統治には不適切(不十分)な規模であることは自明です。しかし、評制下(七世紀後半)の出土木簡(九州諸国と陸奥国を除く全国各地から献上された「荷」札木簡、『日本書紀』に対応した「天皇」「皇子」「詔」木簡、「仕丁」木簡など)を見る限り、飛鳥に七世紀の第4四半期における列島内の最高権力者(実力者)がいたこともまた自明です。この服部さんの論証結果と出土木簡による実証結果の差異が〝最大の齟齬〟とわたしは考えています。

 おそらく通説(一元史観)ではこの〝最大の齟齬〟の合理的説明は不可能ではないでしょうか。従来から学界内で指摘されていた問題ですが、孝徳没後に近畿天皇家は飛鳥へ還都したと『日本書紀』にはありますが、それならばあの巨大な前期難波宮(京)にいた大勢の官僚たちは飛鳥のどこで勤務したのか、その家族はどこに住んでいたのか、という問いに答えられないのです。

また考古学的にも次のような指摘がなされており、『日本書紀』が記す難波や飛鳥の姿と、土器の出土事実が示す風景が全くことなっていることが判明しています。

「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」
「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」
「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」
「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」(注)

この佐藤さんの論文は、日本の考古学界に〝『日本書紀』の記事を絶対視しない〟と公言する考古学者が現れたという意味に於いても研究史に残る画期的なものです。

 他方、多元史観による古田学派の研究者からは、こうした王朝交替期の実相について諸仮説が提起されており、活発な学問論争が続いています。いずれ、研究が深化し、諸仮説が発展・淘汰され、〝最大の齟齬〟を合理的に説明でき、反対論者をも納得させうるような最有力説に収斂していくものと、わたしは期待しています。

(注)佐藤隆「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」『大阪歴博研究紀要』15号、2017年。「洛中洛外日記」1407話(2017/05/28)〝前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致〟、同1906話(2019/05/24)〝『日本書紀』への挑戦、大阪歴博(2) 七世紀後半の難波と飛鳥〟で紹介した。


第2401話 2021/03/06

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(4)

 飛鳥宮・藤原宮(京)からの出土木簡(同時代文字史料)に記された内容から、評制下の飛鳥宮地区には〝中央省庁〟の出先(下部)機関はあったが、〝中央省庁〟そのものはなかったのではないか、そして王朝交代後の藤原宮(京)に至って、近畿天皇家は〝中央省庁〟を置くことができたのではないかとする見解をわたしは持っています。しかし、これは史料事実に対する数ある解釈の一つに過ぎず、これ自体は論証でも論証結果としての仮説でもありません。せいぜい、九州王朝説に立つ、わたしの作業仮説(〝思いつき〟〝可能性の一つ〟)の域を出ません。なぜなら、通説側からの史料事実に基づく次のような強力な批判・反論が容易に想定できるからです。

(1)飛鳥宮地区から出土した各国の荷札木簡や「仕丁」木簡の存在により、七世紀後半天武期の頃に、この地に全国統治した権力者がいたことを疑えない。その時代の他地域からは、そのような内容の大量の木簡は出土していない。

(2)飛鳥宮に近畿天皇家の天皇がいたとする『日本書紀』(720年成立)の記述と出土木簡(七世紀後半の同時代文字史料)の内容が整合・対応しており、『日本書紀』に記されたこの時代の記事の信頼性が実証的に証明されている。

(3)飛鳥宮地区からは、当時としては大型の宮殿・官衙遺構(飛鳥京)と天皇や皇子がいたことを示す次の木簡が七世紀後半天武期の層位から出土しており(注①②)、最高権力者とその家族が居住していたことを疑えない。

○「天皇」 木簡番号244、遺構番号SD1130、飛鳥池遺跡北地区
○「舎人皇子」 木簡番号92、遺構番号SX1222粗炭層、飛鳥池遺跡南地区
○「大伯皇子」 木簡番号64、遺構番号SX1222粗炭層、飛鳥池遺跡南地区
○「大来」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-25、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「太来」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-26、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「大友□」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-17、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「□大津皇」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-18、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「□□□(大津皇カ)」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-19、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「大□□(津皇カ)」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-20、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「□□□(津皇子カ)」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-21、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「津皇」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-22、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「皇子□」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-23、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「□□(皇カ)」 『飛鳥宮跡出土木簡』104-24、土坑状遺構、飛鳥京跡
○「穂積□□(皇子カ)」 木簡番号65、遺構番号SX1222粗炭層、飛鳥池遺跡南地区

(4)上記木簡に記された名前は、『日本書紀』に見える天智や天武の子供たちと同名であり、これだけの一致は偶然とは考えられず、天武とその家族が〝飛鳥宮〟(注③)に住んでいたことは確実である。

(5)従って、七世紀後半に「天皇」「皇子」を名乗った最高権力者(近畿天皇家)が「飛鳥京」で全国を統治したとする通説は、出土木簡と『日本書紀』の記事により真実であると実証された不動の学説であり、そこに九州王朝説が成立する余地は無い。

 以上のように、通説が七世紀後半においては実証的で強力な史料根拠により成立しており、これを実証的に否定できるような木簡も史料もありません。ところが服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)から〝律令制下の官僚と都の規模〟という視点での優れた論証と研究が発表され、通説の「飛鳥京」に一撃を加えられました。(つづく)

(注)
①奈良文化財研究所木簡データベース「木簡庫」による。
②『飛鳥宮跡出土木簡』橿原考古学研究所編、令和元年(2019)、吉川弘文館。
③当地が「飛鳥」と呼ばれていたことを示す「飛鳥寺」木簡が飛鳥池遺跡北地区から出土していることや、法隆寺の金石文「観音像造像記銅板(甲午年、694年)」に「飛鳥寺」が見えることを「洛中洛外日記」1956話(2019/08/04)〝7世紀「天皇」号の新・旧古田説(6)〟で紹介した。


第2400話 2021/03/05

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(3)

石神遺跡の性格が王宮を構成する官衙の一部とされている根拠は出土した遺構の形式と出土木簡の内容に基づいており、市大樹さんは次のように説明されています。

「石神遺跡では飛鳥時代の遺構が何層にもわたってみつかっている。大きくA~Cの三時期に分けられ、さらにそれぞれが細分化されるという複雑なものである。(中略)
このB・C期の新たな建物群は藤原宮(六九四~七一〇)の官衙域の状況と似ており、饗宴施設から官衙へと性格を一変させたとみられる。そして、この見方を確固たるものとしたのが、石神遺跡北方域から出土した三〇〇〇点以上の木簡である。」(『飛鳥の木簡 ―古代史の新たな解明』)89~90頁。(注①)

同遺跡出土木簡に次の二つの「仕丁」木簡があり、注目されています。

○方原戸仕丁米一斗

○委之取五十戸仕丁俥物□□
二斗三中神井弥[  ]□(三カ)斗

「方原(かたのはら)」は後の三河国宝飫郡形原郷、「委之取五十戸(わしとりのさと)」は三河国碧海郡鷲取郷のことで、そこから出仕した二人の「仕丁」、「俥物□□」と「神井弥□□」に支給した食料が記された木簡です。仕丁とは律令に規定された役務者のことで、全国の各里(五十戸)から二名の出仕が定められています。これは、飛鳥に全国から仕丁が集められたことを意味します。すなわち、飛鳥に〝中央行政府〟があったことをも意味しています。

更に七世紀(評制下)の官職名が記された次の木簡・土器が飛鳥宮(石神遺跡)・藤原宮地区から出土しています。

◎「大学官」「勢岐官」「道官」 石神遺跡(天武期)
○「舎人官」「陶官」 藤原宮跡大極殿院北方(天武期)
○「宮守官」 藤原宮跡西南官衙地区(持統・文武期)
○「加之伎手官」(墨書土器) 藤原宮跡東方官衙北地区(持統・文武期)
○「薗職」 藤原宮北辺地区(持統・文武期)
○「蔵職」「文職」「膳職」 藤原宮跡東方官衙北地区(持統・文武期)
○「塞職」 藤原宮跡北面中門地区(持統・文武期)
○「外薬」 藤原宮跡西面南門地区(持統・文武期)
○「造木画処」 藤原宮跡東面北門地区(持統・文武期)

これらの官職名により、石神遺跡が七世紀における王宮を構成する官衙の一部と理解されたわけですが、わたしには違和感がありました。それは、木簡などの官職名に「二官八省」(神祇官・太政官・中務省・式部省・民部省・治部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省)のような〝中央省庁〟らしい名称が見えないことです(注②)。たまたま出土していないという可能性もあり、断定はできませんが違和感を禁じ得ません。

他方、大宝元年(701年)の王朝交代後の藤原宮(京)出土木簡には次の〝中央省庁〟名が見えます(注③)。

○「宮内省移 価糸四□」
「大宝二年八月五日少□□
中務省移[ ]□(勘カ)宣耳」
木簡番号1482 藤原京左京七条一坊西南坪

○「中務省□(移)カ」
木簡番号1747 藤原京左京七条一坊西南坪

○「中務省牒□(留カ)守省」
木簡番号0 藤原宮跡内裏東官衙地区

○「中務省移」
「□○  ○□□(和銅カ)」
木簡番号1093 藤原宮跡内裏北官衙地区

○「中務省使部」
木簡番号18 藤原宮跡北面中門地区

○「中務省 管内蔵三人」
木簡番号17 藤原宮跡北面中門地区

○「粟田申民部省…○寮二処衛士」
「検校定○十月廿九日」
木簡番号1079 藤原宮跡東方官衙北地区

上記の他にも、各省直属の官職名が記された木簡が藤原宮(京)跡から出土しています。このような七世紀(評制下)と八世紀(郡制下)における差異が王朝交替の影響によるものか、それとも偶然なのか、出土木簡の情報だけでは断定できません。

ここからはわたしの作業仮説(思いつき)ですが、評制下の飛鳥宮地区には〝中央省庁〟の出先(下部)機関はあったが、〝中央省庁〟そのものはなかったのではないか、そして王朝交代後の藤原宮(京)に至って、近畿天皇家は〝中央省庁〟を置くことができたのではないでしょうか。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。
②『大宝律令』に先立つ浄御原令制下の官庁名は「○○官」と称されており、大宝令の名称とは異なると考えられている。しかし、それにしても〝中央官庁〟に匹敵する官職名を記した評制下木簡は知られていないようである。
③奈良文化財研究所木簡データベース「木簡庫」による。


第2399話 2021/03/04

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(2)

飛鳥宮の工房という性格を持つ飛鳥池遺跡に続き、今回は石神遺跡出土木簡を紹介します。先に紹介した評制下荷札木簡で年次(干支)記載のある石神遺跡出土木簡は次の通りです(注①)。

【石神遺跡出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡

次は石神遺跡と藤原宮(京)出土の献上国別荷札木簡数です(注①)。

【石神遺跡・藤原宮(京)出土の評制下荷札木簡】
国 名 石神遺跡 藤原宮(京)
山城国   1   1
大和国   0   1
河内国   0   4
摂津国   0   1
伊賀国   1   0
伊勢国   1   1
志摩国   0   1
尾張国   5   7
参河国   0   3
遠江国   0   2
駿河国   0   2
伊豆国   2   0
武蔵国   1   2
安房国   0   1
下総国   0   1
近江国   7   1
美濃国  13   4
信濃国   0   1
上野国   0   3
下野国   0   2
若狭国   0  18
越前国   1   0
越中国   0   0
丹波国   3   2
丹後国   0   8
但馬国   0   2
因幡国   1   0
伯耆国   0   1
出雲国   0   4
隠岐国   7  21
播磨国   6   6
備前国   0   2
備中国   2   6
備後国   2   0
周防国   0   2
紀伊国   0   0
阿波国   0   2
讃岐国   2   1
伊予国   1   2
土佐国   1   0
不 明  54   7
合 計 109 122

この出土状況から見えてくることは、石神遺跡からは美濃国や近江国から献上された荷札木簡が比較的多く、時期的には天武・持統期であり、694年の藤原京遷都よりも前であることです。このことは、各国から産物の献上を受けた飛鳥の権力者が藤原宮へ移動したとする『日本書紀』の記述(注②)と対応しており、このことは歴史事実と考えてよいと思います。こうした史料事実により、当時としては列島内最大規模の藤原宮・藤原京(新益京)で全国統治した大和朝廷は、『日本書紀』に記されているように、〝藤原遷都前は飛鳥宮で全国統治していた〟とする通説(近畿天皇家一元史観)が、出土木簡により実証的に証明されたと学界では考えられています。

この点について、九州王朝説を支持するわたしたち古田学派には、出土木簡(同時代文字史料)に基づく実証的な反論は困難です。なぜなら、太宰府など九州王朝系遺跡からの木簡出土は飛鳥・藤原と比較して圧倒的に少数で、その記載内容にも九州王朝が存在していたことを実証できるものはないからです。

それに比べて、石神遺跡は飛鳥寺の北西に位置し、〝日本最古の暦〟とされる具注暦木簡が出土したことでも有名です。同遺跡からは3421点の木簡が出土しており、ごく一部に七世紀中葉の木簡を含みますが、圧倒的大多数は天武・持統期のものとされています。そして、遺跡の性格は「王宮を構成する官衙の一部」と説明されています(注③)。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
②『日本書紀』持統八年(694年)十二月条に次の記事が見える。
「十二月の庚戌の朔乙卯(6日)に、藤原宮に遷り居(おは)します。」
③市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。


第2398話 2021/03/03

飛鳥「京」と出土木簡の齟齬(1)

 飛鳥宮と藤原宮(京)出土の評制下荷札木簡について、その献上国別と干支木簡の年次別データを「洛中洛外日記」で紹介しましたが、それら大量の木簡が同時代文字史料として戦後実証史学を支えています。すなわち、『日本書紀』の記述は少なくとも天武・持統紀からは信頼できるとする史料根拠として飛鳥・藤原出土木簡群があり、『日本書紀』の実証的な史料批判を可能にしました。
木簡は不要になった時点で土坑やゴミ捨て場に一括大量廃棄される例があり、干支などが記された紀年木簡(主に荷札木簡)と併出することにより、干支が記されていない他の木簡も一定の範囲内で年代が判断できるというメリットがあります。その結果、出土層位の年代判定においても、従来の土器編年とのクロスチェックが可能となり、より説得力のある絶対編年が可能となったため、木簡の記事と『日本書紀』の記事との比較による史料批判(『日本書紀』の記述がどの程度信頼できるかを判定する作業)が大きく進みました。

 具体例をあげれば、飛鳥宮の工房という性格を持つ飛鳥池遺跡からは、七世紀後半(主に670~680年代)の紀年木簡が出土しており、わずかではありますが八世紀初頭の「郡・里」(注①)木簡も出土しています。ところが一括大量出土しているおかげで、出土地点(土抗)毎の廃棄年代の編年が成立し、併出した木簡の年次幅が紀年木簡により判断可能となるケースが出てきました。

 たとえば奈良文化財研究所の木簡データベースによれば、飛鳥池遺跡北地区の遺跡番号SK1126と命名された土坑から、播磨国宍粟郡からの「郡・里」木簡6点(木簡番号1308 1309 1310 1311 1312 1313)が出土しています。同データベースにはSK1126出土の木簡123点が登録されていますが、その多くは削りくずで文字数が少ないものばかりで、年代の判断が可能なものは「郡・里」制木簡くらいでした。そのため、この土坑を含め飛鳥池遺跡北地区から一括出土した木簡群の年代について次の説明がなされています。

〝北地区の木簡の大半は、2条の溝と2基の土坑から各々一括して出土した。遺構ごとにその年代をみると、2条の溝から出土した木簡は、「庚午年(天智九年=660年)」「丙子年(天武五年=676年)」「丁丑年(天武六年=677年)」の干支木簡を含み、コホリとサトの表記が「評五十戸」に限られる。これは天武末年頃(680年代中頃)以前の表記法。これに対して、2基の土坑は、一つが「評里」という天武末年頃から大宝令施行(大宝元年=701年)以前の表記法で記された木簡を出土し、もう一つは「郡里」制段階(大宝令から霊亀3年以前)の木簡を含む。つまり、年代の違う三つの木簡群に分類できる。〟(注②)

 このように、大量に出土した木簡(同時代文字史料)と考古学者による精緻な編年により、それらの内容と時間帯が『日本書紀』の記述に整合しているとして、戦後実証史学では〝近畿天皇家一元史観が七世紀後半頃は実証できた〟と確信を抱いたものと思われます。しかし、出土木簡と『日本書紀』の記述を丁寧に比較すると、そこには大きな齟齬が横たわっています。(つづく)

(注)
①大宝令(701年)から霊亀三年(717年)以前に採用された「郡・里」制による行政区域表記。それ後、「郡・郷・里」制に改められた。
②花谷 浩「飛鳥池工房の発掘調査成果とその意義」『日本考古学』第8号、1999年。


第2395話 2021/02/28

飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年代

前話では、飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺跡・他)と藤原宮(京)地域から出土した350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡を国別に分けて、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を概観しました。今回はその中から年次(干支)が記された荷札木簡(49点)を抽出し、時間的な分布傾向を見てみます。
前回紹介した「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」350点のうち、数は少ないのですが産品を献上した年次(干支)が記された木簡があります。年次順に並べてみました。次の通りです。元史料は前回と同じ市大樹さんの『飛鳥藤原木簡の研究』(注)です。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の年次】
西暦 干支 天皇年 木簡の記事の冒頭 献上国 出土遺跡
665 乙丑 天智4 乙丑年十二月三野 美濃国 石神遺跡
676 丙子 天武5 丙子年六□□□□ 不明  苑池遺構
677 丁丑 天武6 丁丑年十□□□□ 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月次米 美濃国 飛鳥池遺跡
677 丁丑 天武6 丁丑年十二月三野 美濃国 飛鳥池遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年十二月尾張 尾張国 苑池遺構
678 戊寅 天武7 戊寅年四月廿六日 美濃国 石神遺跡
678 戊寅 天武7 戊寅年高井五□□ 不明  藤原宮跡
678 戊寅 天武7 戊寅□(年カ)八□  不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年十一月三野 美濃国 石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年八月十五日 不明  石神遺跡
679 己卯 天武8 己卯年      不明  石神遺跡
680 庚辰 天武9 □(庚カ)辰年三野  美濃国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年鴨評加毛五 伊豆国 石神遺跡
681 辛巳 天武10 辛巳年□(鰒カ)一連 不明  石神遺跡
682 壬午 天武11 壬午年十月□□□ 下野国 藤原宮跡
683 癸未 天武12 癸未年十一月三野 美濃国 藤原宮跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)三野  美濃国 石神遺跡
684 甲申 天武13 甲申□(年カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
685 乙酉 天武14 乙酉年九月三野国 美濃国 石神遺跡
686 丙戌 天武15 丙戌年□月十一日 参河国 石神遺跡
687 丁亥 持統1 丁亥年若佐国小丹 若狭国 飛鳥池遺跡
688 戊子 持統2 戊子年四月三野国 美濃国 苑池遺構
692 壬辰 持統6 壬辰年九月□□日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月廿四日 参河国 石神遺跡
692 壬辰 持統6 壬辰年九月七日三 参河国 石神遺跡
693 癸巳 持統7 癸巳年□     不明  飛鳥京跡
694 甲午 持統8 甲午年九月十二日 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年尾□□□□ 尾張国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年御調寸松  参河国 藤原宮跡
695 乙未 持統9 乙未年木□(津カ)里 若狭国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 丙申年九月廿五日 尾張国 藤原京跡
696 丙申 持統10 丙申□(年カ)□□ 下総国 藤原宮跡
696 丙申 持統10 □□□(丙申年カ)  美濃国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年□月□□□ 若狭国 藤原宮跡
697 丁酉 文武1 丁酉年若狭国小丹 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年三野国厚見 美濃国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年□□□□□ 若狭国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 戊戌年六月波伯吉 伯耆国 藤原宮跡
698 戊戌 文武2 □□(戊戌カ)□□  不明  飛鳥池遺跡
699 己亥 文武3 己亥年十月上捄国 安房国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年九月三野国 美濃国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□(月カ)  若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年□□□国小 若狭国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年十二月二方 但馬国 藤原宮跡
699 己亥 文武3 己亥年若佐国小丹 若狭国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年三月十五日 河内国 藤原宮跡
700 庚子 文武4 庚子年四月佐国小 若狭国 藤原宮跡

(注)市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。


第2394話 2021/02/27

飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡の国々

 飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑池遺跡・他)と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、それにより七世紀後半から八世紀初頭の古代史研究は飛躍的に進みました。そのなかには350点ほどの評制時代(七世紀後半)の荷札木簡があり、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。これら大量の木簡という同時代史料と『日本書紀』の記事とを比較検証することにより、戦後実証史学を支える史料批判が大きく進みました。もし、筑紫・太宰府からも大量の木簡が出土していたなら、九州王朝研究は格段に進歩していたことを疑えません。

 この九州王朝時代の七世紀後半、大和の〝近畿天皇家の宮殿〟に産物を献上した諸国・諸評がわかるという荷札木簡群の存在は、わたしたち古田学派にとってもありがたいことです。そこで、市大樹さんの名著『飛鳥藤原木簡の研究』(注)に収録されている「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」にある国別の木簡データを飛鳥宮地域と藤原宮(京)地域とに分けて点数を紹介します。皆さんの研究に役立てていただければ幸いです。

 わたしの恣意的な判断を一切入れず、市さんの分類をそのまま採用しました。なお、飛鳥宮地域とは飛鳥池遺跡・飛鳥京遺跡・石神遺跡・苑地遺構・他のことで、藤原宮(京)地域とは藤原宮跡と藤原京跡の遺跡のことです。その詳細は市さんの本をご参照下さい。

【飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡】
国 名 飛鳥宮 藤原宮(京) 小計
山城国   1   1   2
大和国   0   1   1
河内国   0   4   4
摂津国   0   1   1
伊賀国   1   0   1
伊勢国   7   1   8
志摩国   1   1   2
尾張国   9   7  17
参河国  20   3  23
遠江国   1   2   3
駿河国   1   2   3
伊豆国   2   0   2
武蔵国   3   2   5
安房国   0   1   1
下総国   0   1   1
近江国   8   1   9
美濃国  18   4  22
信濃国   0   1   1
上野国   2   3   5
下野国   1   2   3
若狭国   5  18  23
越前国   2   0   2
越中国   2   0   2
丹波国   5   2   7
丹後国   3   8  11
但馬国   0   2   2
因幡国   1   0   1
伯耆国   0   1   1
出雲国   0   4   4
隠岐国  11  21  32
播磨国   6   6  12
備前国   0   2   2
備中国   7   6  13
備後国   2   0   2
周防国   0   2   2
紀伊国   1   0   1
阿波国   1   2   3
讃岐国   2   1   3
伊予国   6   2   8
土佐国   1   0   1
不 明  98   7 105
合 計 224 126 350

(注)市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。


第2392話 2021/02/26

「蝦夷国」を考究する(9)

 ―「評制」時代の蝦夷国―

 蝦夷国と倭国(九州王朝)の関係は時代と共に変化していることを『日本書紀』等を史料根拠に説明し、多利思北孤の時代を含む六世紀後半から七世紀前半頃の両国は比較的安定した関係にあったとしました。今回は「評制」の時代、七世紀後半の両国関係について検討します。

 七世紀後半には木簡の出土量が飛躍的に増えますから、『日本書紀』だけではなく、木簡を主要史料として蝦夷国研究をすることが可能となります。幸いにも飛鳥地域(飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑地遺跡・他)と藤原宮(京)地域からは約45,000点の木簡が出土しており、そのなかには350点ほどの評制時代の荷札木簡(注①)がありますので、飛鳥宮時代(天智・天武・持統)と藤原宮時代(持統・文武)の近畿天皇家の影響力が及んだ範囲(献上する諸国)を確認することができます。すなわち、九州王朝時代の七世紀後半、〝近畿天皇家の宮殿〟(注②)に産物を献上した諸国・諸評がわかるという、同時代史料群が当地にはあるのです。これを九州王朝や蝦夷国の研究に使用しない手はありません。
この全数調査結果は別途「洛中洛外日記」にて、主観を交えない客観的データベースとして報告し、読者の皆さんが研究に利用できるようにしたいと考えています。

 今回の蝦夷国研究に関わる所見として、飛鳥宮地域や藤原宮(京)へ諸国から持ち込まれた評制下木簡の二つの事実に注目しています。一つは以前にも指摘しましたが(注③)、九州(西海道)諸国からの荷札木簡が出土していない。二つは陸奥国・越後国からの荷札木簡も出土していないということです(注④)。すなわち、七世紀後半という時間帯において、倭国(九州王朝)の直轄領域である九州島と蝦夷国の領域と思われる陸奥国・越後国からは飛鳥宮や藤原宮へ産物が献上された痕跡がないのです。このことが何を意味しているのか、検討が必要ですが、王朝交代直前の大和の勢力と蝦夷国が〝疎遠〟だったのかもしれません。

 なお、九州島と蝦夷国とでは基本的な事情が異なると思われます。すなわち、太宰府からは九州内の「評」木簡(注⑤)が出土しており、九州で評制が施行されていたことが確実ですが、蝦夷国(陸奥国)内では評制が採用されていたのかどうか、出土木簡からは判断できません。倭国(九州王朝)と蝦夷国は別国ですから、蝦夷国が倭国の評制を採用していたとは考えにくいように思います。(つづく)

(注)
①市 大樹『飛鳥藤原木簡の研究』(塙書房、2010年)所収「飛鳥藤原出土の評制下荷札木簡」による。
②王朝交代に至る一時期、藤原宮や飛鳥宮に九州王朝の天子がいたとする作業仮説が西村秀己氏等から出されていることもあり、本稿では「〝近畿天皇家の宮殿〟」という〝〟付き表記を使用した。
③古賀達也「洛中洛外日記」123話〝藤原宮の「評」木簡〟(2007/02/25)
古賀達也「藤原宮出土木簡の考察」(『古田史学会報』80号、2007年6月)
④上記①によれば、越前国・越中国からの荷札木簡は飛鳥池遺跡・石神遺跡・苑地遺構から出土している。
⑤「久須評大伴マ」木簡が大宰府跡から出土している。


第2357話 2021/01/24

市大樹著『飛鳥の木簡』

  の「天皇」「皇子」写真

 前話の〝『飛鳥宮跡出土木簡』で「皇子」検証〟で、〝同木簡を実見された市大樹さんら研究者の書籍や論文を根拠に、近畿天皇家の「皇子」木簡出土は疑えない〟と述べましたが、そのことについて詳しく説明します。

 市大樹(いち ひろき)さん(大阪大学教授)の名著『飛鳥の木簡』(注①)には巻頭のカラー写真に「天皇」「皇子」木簡が掲載されています。わたしはその写真などを見て、飛鳥遺跡(七世紀後半)からは「天皇」「皇子」木簡が出土しており、当時の近畿天皇家(天武・持統)が「天皇」を称していたと考えざるを得ず、その位置づけは九州王朝の天子の配下としての〝ナンバー2〟天皇であるとしました。これは古田旧説であり、先生が晩年に唱えられた〝近畿天皇家は八世紀の文武から天皇を称した。七世紀の木簡や金石文に見える「天皇」は全て九州王朝の天子の別称〟とする古田新説は成立困難としました(注②)。
『飛鳥の木簡』に掲載された写真の「天皇」「皇子」木簡(飛鳥池遺跡出土)釈文などが次のように紹介されています。

○「大伯皇子宮物 大伴□・・・□品併五十□」
〝冒頭の「大伯皇子(おおくのみこ)は、天武天皇と大田皇女との間に生まれた「大伯皇女」である。皇女だが「皇子」と記すのは、当時、天皇の子女は男女を問わず「ミコ」と呼ばれたことによる。(中略)
天武天皇の皇子の名前が書かれた木簡は、さらに二点ある。一点目は笠のある釘形の木製品で、軸部に「舎人皇子□」、その反対面に「百七十」とある。【口絵7】。(中略)もう一点が、両面に「穂積皇子(ほづみのみこ)」と記された木簡である。〟同書、121~122頁。

○「天皇聚□弘寅□」
〝(飛鳥池遺跡)北地区からは「天皇聚□弘寅□」と書かれた木簡も出土している。【口絵5】。現在、「天皇」と書かれた日本最古の木簡である。この「天皇」が君主号のそれなのか、道教的な文言にすぎないのか、何とも判断がつかない。もし君主号であれば、木簡の年代からみて、天武天皇を指す可能性が高い〟同書、146頁。

 『飛鳥の木簡』巻頭の口絵(カラー写真)を見ますと、「天皇」木簡は明晰に文字が見え、釈文の通りです。「大伯皇子」木簡は「大伯」の部分が不鮮明ですがなんとか読めます。恐らく赤外線写真ではもっとはっきりと読めるはずです。「舎人皇子」木簡は写真の文字が小さくて「舎人皇子□」は判断が困難です。その反対面の「百七十」はなんとか確認できます。

 そこで、奈良文化財研究所の木簡データベース掲載の「舎人皇子」木簡写真を拡大して見ると、「舎」「皇」は確認できました。反対面の「百七十」は明晰です。「穂積皇子」は「穂積」は確認できますが、「皇子」はそう言われればそう読めるというレベルでした。しかし、木簡調査の専門家が実物を見て、「穂積皇子」と判断していますから、赤外線写真などでも確認の上でのことと思われ、その判断を否定できる根拠(別の文字であるという痕跡)は見いだせません。

 以上のように、奈良文化財研究所や市さんによる飛鳥池出土の「天皇」「皇子」木簡の釈文は妥当なものと解さざるを得ません。九州王朝説への有利不利とは関係なく、飛鳥出土木簡は古田学派の研究者にとっても正面から取り組むべき対象です。古田史学・多元史観が正しければ、そこから新たな展開が見えてくるはずですから。

(注)
①市 大樹『飛鳥の木簡 ー古代史の新たな解明』中公新書 2012年。
②古賀達也「七世紀の『天皇』号 ―新・旧古田説の比較検証―」、『多元』155号、2020年1月。この拙稿で、古田旧説を支持する七世紀以前の次の史料に見える「天皇」を紹介した。その後、服部静尚氏より「法隆寺薬師仏光背銘」は後代追刻の疑いがあり、七世紀前半の銘文とはできないとする批判をいただいた。この点、留意したい。
○五九六年 元興寺塔露盤銘「天皇」(奈良市、『元興寺縁起』所載。今なし)
○六〇七年 法隆寺薬師仏光背銘「天皇」「大王天皇」(奈良県斑鳩町)
○六六六年 野中寺弥勒菩薩像台座銘「中宮天皇」(大阪府羽曳野市)
○六六八年 船王後墓誌「天皇」(大阪府柏原市出土)
○六七七年 小野毛人墓誌「天皇」(京都市出土)
○六八〇年 薬師寺東塔檫銘「天皇」(奈良市薬師寺)
○天武期 木簡「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」「大津皇」(奈良県明日香村飛鳥遺跡出土)
○六八六・六九八年 長谷寺千仏多宝塔銅板「天皇」(奈良県桜井市長谷寺)


第2356話 2021/01/23

『飛鳥宮跡出土木簡』で「皇子」検証

 今朝は雨のなか、岡崎公園内の京都府立図書館まで妻と二人で歩いていきました。『嘉穂郡誌』(注①)を借りるためです。同館蔵書にはなかったので兵庫県立図書館から取り寄せていただきました。「天智天皇」の家臣、千手氏調査のため嘉穂郡千手村の歴史や伝承を調べるのが目的です。この調査結果については、後日報告します。

 それともう一冊、橿原考古学研究所が発行した『飛鳥宮跡出土木簡』(注②)を探しました。幸い、こちらは同館にありましたので、お借りすることができました。同書には飛鳥宮跡から出土した未発表を含む三百点近くの木簡の釈文・写真(モノクロと赤外線写真)が掲載されており、とても史料価値が高い一冊です。飛鳥宮跡木簡は出土量が多い上に編年や出土層位がかなり明確であり、七世紀後半の近畿天皇家中枢の実態を示す第一級史料であり、古田学派研究者の皆さんには是非読んでいただきたい報告書です。

 今回、わたしは同書に掲載された「皇子」木簡を精査しました。というのも、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、高松市)から、飛鳥出土の皇子木簡は文字が不鮮明で断片的であり、それらを根拠に近畿天皇家が七世紀後半に「天皇」「皇子」を称していたとするのは疑問であるとの指摘を受けていたからです。わたしも奈良文化財研究所の木簡データベースをWEB上で見て、画像が不鮮明で小さかったりする写真もあり、西村さんの懸念はもっともなものとは思いますが、同木簡を実見された市大樹さんら研究者の書籍(注③)や論文を根拠に、近畿天皇家の「皇子」木簡出土は疑えないと考えていました。しかし、西村さんの指摘に応えるために同書を見ることにしたわけです。

 わたしはこれまでも「洛中洛外日記」などで、飛鳥出土の次の天皇・皇子木簡を根拠に、近畿天皇家が七世紀において「天皇」号を称していたと主張してきました。

○「天皇」「舎人皇子」「穂積皇子」「大伯皇子」(大伯皇女のこと)「大津皇」「大友」

 木簡に記された皇子の名前が、『日本書紀』に見える天武天皇の子供の名前とほぼ一致しますから、同時代木簡として動かしがたい史料根拠と考えてきました。

 今回、確認したのは飛鳥宮跡出土の木簡で、次の「皇子」木簡の写真が掲載されています。

○104-18 □大津皇
○104-19 □□□〔大津皇〕か
○104-20 大□□〔津皇〕か
○104-21 □□□〔津皇子〕か
○104-22 津皇
○104-23 皇子□
○104-24 □□〔皇〕か

 この他に、「皇子」の文字は見えませんが次の名前が見えます。

○104-17 大友 ※大友皇子
○104-25 大来 ※大来皇女
○104-26 太来 ※大来皇女

 この104という番号は「飛鳥京跡第一〇四次調査」のことで、1985年の発掘調査です。出土層位は飛鳥宮跡第Ⅲ期(斉明・天武・持統)にともなうものであることはまちがいないとされています。更に、104-6・104-7「辛巳年」(天武十年、681年)木簡も出土しており、天武期とみて全く問題ありません。この他に、『日本書紀』の記述と対応する七世紀後半の冠位が記された次の木簡も出土しており、非常に安定して編年が成立しています。

○104-40 大乙下□ ※「大乙下」は大化五年(645)二月から天武十四年(685)正月まで施行された冠位(『日本書紀』)。
○104-41 □小乙下 ※「小乙下」も同上。

 今回、わたしが特に着目したのが〝大津皇子〟木簡群です。この4文字が全てそろったものは出土していませんが、総合すれば〝大津皇子〟であると判断できる内容でした。遺っている字形や字数に差はありますが、概ね釈文の通りで問題ないと判断できました。

 以上のように木簡に記された天武の子供の名前〝大津皇子〟や冠位(大乙下、小乙下)が『日本書紀』と一致しており、これらの史料価値や実証力は大きいと言わざるを得ません。引き続き、「天皇」「皇子」木簡が出土している飛鳥池遺跡の調査報告書も精査します。

(注)
①『嘉穂郡誌』嘉穂郡役所編纂、大正十三年(1924)。昭和六十一年(1986)復刻版、臨川書店。
②『飛鳥宮跡出土木簡』橿原考古学研究所編、令和元年(2019)。吉川弘文館。
③市大樹『飛鳥の木簡』中公新書、2012年。


第2277話 2020/10/29

辺境防備兵「戌人」木簡の紹介

 『古田史学会報』160号に掲載された山田春廣さんの論稿〝「防」無き所に「防人」無し〟によれば、「防人」は九州王朝(倭国)の畿内防衛施設「防」に配された守備兵とされ、他方、辺境防備の兵(さきもり)は「辺戌」と呼ぶのが適切とされました。そこで思い出したのですが、以前に読んだ木簡学会編『木簡から古代が見える』(岩波新書、2010年)に〝防人木簡〟の出土が次のように紹介されていました。

〝これまで防人に関する資料は、これらの「万葉集」の防人歌をはじめ、『続日本紀』や法令などに限られ、列島各地の発掘調査においても、なぜか防人に関する資料は全く発見されず、ほとんどその実態はわかっていなかった。
ところが、二〇〇四(平成一六)年、佐賀県の唐津湾に面した名勝「虹の松原」の背後の中原(なかばる)遺跡から“防人”木簡が全国ではじめて発見された。〟『木簡から古代が見える』88頁

 同書によれば、中原遺跡は肥前国松浦郡内にあり、魏志倭人伝にみえる末盧国の故地にあたります。古代から朝鮮半島に渡るための重要拠点とされています。出土した木簡は防人に関する名簿とのことですが、「防人」ではなく「戌人(じゅじん)」と書かれています。「延暦八年」(789年)とあることから8世紀末頃のものとされ、甲斐国から派遣された「東国防人」のことが記された名簿と見られています。

 この「戌人」木簡は、先の山田さんの考察が妥当であることを示しているようです。参考までに奈良文化財研究所「木簡データベース」から同木簡のデータを転載します。

【本文】・小長□部□□〔束ヵ〕○/〈〉□□∥○甲斐国□〔津ヵ〕戌□〔人ヵ〕○/不知状之∥\○□□家□□〔注ヵ〕○【「首小黒七把」】・○□□〈〉桑□〔永ヵ〕\【「□〔延ヵ〕暦八年○§物部諸万七把○§日下部公小□〔浄ヵ〕〈〉\○§□田龍□□〔麻呂ヵ〕七把§□部大前」】
【寸法(mm)】縦(269)・横(32)・厚さ4
【型式番号】081
【出典】木研28-212頁-(2)(木研24-153頁-(7))
【文字説明】裏面「首小黒七把」は表面の人名と同時に記されたかは不詳。
【形状】二度の使用痕残す。上端二次利用後さらに削って整形。左右二次利用後の削りヵ。
【遺跡名】中原遺跡
【所在地】佐賀県唐津市原字西丸田
【調査主体】佐賀県教育委員会・唐津市教育委員会
【遺構番号】SD502
【内容分類】文書
【国郡郷里】甲斐国
【人名】物部諸万・日下部公小(浄)・□田龍(麻呂)・(雀)部大前・首小黒・□□家□(注)・小長□部


第2208話 2020/08/20

野洲市出土「壬寅年」(702年)木簡の謎

 「洛中洛外日記」で連載した〝滋賀県湖東の「聖徳太子」伝承〟において、近江が九州王朝と関係が深そうであることを述べてきました。今回は追記として、滋賀県野洲市西河原宮ノ内遺跡から出土したちょっと珍しい干支木簡を紹介し、それについて感想を述べたいと思います。

 近江国野洲郡の役所と推定されている西河原宮ノ内遺跡から倉庫跡が出土しています。その倉庫を解体した際の柱の抜き取り穴に廃棄された木簡六点が見つかり、その内の三点には干支が記されていました。奈良文化財研究所の木簡データベースによれば、その干支木簡から次の文字が読み取られています。

【奈良文化財研究所木簡データベース】抜粋
①辛卯年十二月一日記宜都宜椋人□稲千三百五十三半記◇
(辛卯年)持統5年12月1日(691年)
②・庚子年十二□〔月ヵ〕□〈〉□〔記ヵ〕□千五〈〉◇・〈〉◇
(庚子年)文武4年12月(700年)
③・壬寅年正月廿五日/三寸造廣山○「三□」/勝鹿首大国○「□□〔八十ヵ〕」∥○◇・〈〉\○□田二百斤○□□○◇\〈〉
(壬寅年)大宝2年1月25日(702年)

 この中でわたしが注目したのが③「壬寅年」木簡です。紀年が記された荷札木簡の書式は、700年以前の九州王朝時代と、701年以後の大和朝廷時代とでは異なっています。前者の場合は、冒頭に干支と月日が記されていますが、後者は文章末に年号と月日が記されるのが通例です。その点、①「辛卯年」(691年)木簡と②「壬寅年」(700年)木簡はその通例に従った書式ですが、③「壬寅年」(702年)木簡は大和朝廷時代の木簡ですから、「壬寅年」ではなく、「大宝二年」となければなりません。しかも、文章冒頭部分に「壬寅年」とあり、この書式は九州王朝時代のままです。既に王朝交替がなされ、大宝年号が建元されて約一年が経過していますから、そのことを郡の役人が知らないはずがありません。
たとえば、藤原宮跡から出土した遠方の九州や関東からの荷札木簡でも「大宝元年」と書かれています。藤原京から比較的近い近江国野洲郡の役所であれば、当然大宝年号の存在や『大宝律令』による年号使用規定は知っていたはずです。王朝交替して一年近く経過しているにもかかわらず、九州王朝時代の書式で木簡に紀年を記載した理由は何でしょうか。

 ここからはわたしの想像です。七世紀の干支木簡の出土事実から、九州王朝は神聖な年号(九州年号)を使い捨ての木簡などに記すことを禁じていたのではないかとする仮説をわたしは発表しています。その仮説に基づけば、九州王朝と関係が深かった近江国では、王朝交替後も大和朝廷の年号を使用することをよしとせず、九州王朝時代の木簡書式を採用する人々がいたのではないでしょうか。そして、そのことが大和朝廷側に発覚したため、西河原宮ノ内遺跡の倉庫群は破壊され、「九州王朝書式木簡」はたたき割られて柱の抜き取り穴に廃棄されたのではないでしょうか。

 「壬寅年」(大宝二年)の三十年前(672年)に勃発した「壬申の大乱」により、近江国は主戦場となりました。そのとき多くの九州王朝系近江朝(正木裕説)の役人や兵士が戦没したり負傷したことと思います。そしてその子供たちの中には、野洲郡の役人になった者もいたことでしょう。恐らく、そうした人々が書いた干支木簡が「九州王朝書式木簡」だったのではないかとわたしは想像しています。