第3370話 2024/10/16

『古田史学会報』184号の紹介

 先日、発行された『古田史学会報』184号を紹介します。同号には拙稿〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言〟と〝《新年の読書》清水俊史『ブッダという男』〟を掲載して頂きました。

 〝飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言〟では、エビデンスベースというのであれば、まずエビデンスについて勉強しなければならないと思い、七世紀の同時代史料である木簡の調査を行い、天武らが飛鳥の王宮で天皇・皇子を名乗り、詔も発していたことを紹介し、七世紀の「天皇」を九州王朝の「天子の別称」とする古田新説の成立は困難としました。

 〝《新年の読書》清水俊史『ブッダという男』〟は、古代インドに生きた仏陀の思想を現代人の人権感覚(男女平等論者)で捉えることの誤りを解いた清水俊史氏の著書を紹介したものです(注①)。

 一面に掲載された都司喜宣(つじよしのぶ)さんの〝7世紀末の王朝交代説を災害記録から検証する〟は自然科学者の都司さんならではの好論です。701年を境に、記録された列島の災害地域が大きく変わることが、九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への王朝交代の痕跡であることを明らかにされたものです。都司さんは高名な地震学者(元東京大学地震研究所)で、地震の歴史を調査研究するという、歴史地震学という分野でも活躍されています(注②)。

 『古田史学会報』に投稿される方は字数制限(400字詰め原稿用紙15枚)に配慮され、テーマを絞り込み、簡潔でわかりやすい原稿にしてください。地域の情報紹介や面白い話題提供などは大歓迎です。わかりやすく、読んで面白い紙面作りにご協力下さい。

 184号に掲載された論稿は次の通りです。

【『古田史学会報』184号の内容】
○7世紀末の王朝交代説を災害記録から検証する 龍ケ崎市 都司喜宣
○飛鳥の「天皇」「皇子」木簡の証言 京都市 古賀達也
○持統が定策禁中を行って九州王朝を滅ぼした 京都市 岡下英男
○谷本氏論への疑問 宝塚市 小島芳夫
○唐書類の読み方―谷本茂氏の幾つかの問題提起について―谷本氏との対話のために 東京都世田谷区 國枝 浩
○《新年の読書》清水俊史『ブッダという男』 京都市 古賀達也
○古田史学の会・関西例会のご案内
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○「会員募集」ご協力のお願い
○編集後記 西村秀己

(注)
①古賀達也「洛中洛外日記」3209~3213話(2024/01/27~31)〝「新年の読書」二冊目、清水俊史『ブッダという男』(1)~(4)〟
②古賀達也「洛中洛外日記」407話(2012/04/22)〝鹿島神は地震の神様〟


第3369話 2024/10/15

水野孝夫さんの古代史研究年譜

 本日、水野孝夫さん(本会顧問・前代表)のご葬儀に参列しました。「古田史学の会」からは正木事務局長、横田幸男さん(インターネット事務局)、上田武さん(事務局員)、そして日本ペイントで水野さんの部下だった木村賢司さん(元会員)も参列されました。

 一昨晩、急いで作成した「水野孝夫氏 古代史研究年譜」をご遺族に謹呈申し上げ、棺にも献納させていただきました。同研究年譜をここに紹介します。40年以上に及ぶ、氏の研究活動やテーマに改めて触れ、懐かしく思いました。

 なお、論文以外の例会報告・巻頭言・年頭挨拶・物故された会員の方々への弔文などは件数が多いので今回は掲載しませんでした。わたしが知らない論文や見落としがあるかもしれませんので、お気づきの方はご教示下さい。

【水野孝夫氏 古代史研究年譜】
古田史学の会 古賀達也
《著書》
○編著『市民の古代研究 合本 第一巻』新泉社、1992年。
○共著『「九州年号」の研究 ―近畿天皇家以前の古代史―』ミネルヴァ書房、2012年。

《論文『市民の古代』新泉社・他》
「古田説とのかかわり」第2集、1980年。
「鉛丹と鏡」第4集、1982年。

《論文『古代に真実を求めて』明石書店》
記事は会報からの転送で下にあります。
「佐賀県に「吉野」を探る」第6集、2003年。
○「古田史学「いろは歌留多」紹介」第7集、2004年。
○「万葉集二十二番歌」第11集、2008年。
○「禅譲・放伐論争シンポジウム」第14集、2011年。
「長屋王のタタリ」第15集、2012年。
○「百済人祢軍墓誌についての解説ないし体験」第16集、2013年。
「聖徳太子架空説の系譜」『盗まれた「聖徳太子」伝承』第18集、2015年。
○「追悼メッセージ 古田史学とわたし」『古田武彦は死なず』第19集、2016年。

《論文・他》市民の古代研究会
○「囲碁の歴史を調べています」『市民の古代ニュース』№32、1983年12月。
○「浦島太郎の話」『市民の古代研究』第3号、1984年3月。
○「古代ギリシア祭文の謎」1991年9月。『市民の古代ニュース』№97、1991年9月。
○「我々の古代年表をつくろう」『市民の古代ニュース』№103、1992年3月。
○「扶桑・日本・倭国等を併記した金石文」『市民の古代研究』第54号、1992年12月。
○「大宝年号を考える 正朔を改めた? ミョウバンの用途」『続日本紀を読む会・論集』1993年。
○「会の運営について」『市民の古代ニュース』№125、1994年1月。
○「わたしの論文は無断掲載された」『市民の古代ニュース』№130、1994年5月。

《論文・他》古田史学の会
「わたしはウソつきか 論文無断掲載事件と野村証言に関して」『古田史学会報』2号、1994年8月。
「『三国志』の文字数」『古田史学会報』5号、1995年2月。
○「聖徳太子は十七条憲法を作らなかった」『古田史学会報』10号、1995年10月。
「弥勒の出世は陰暦での計算だった?」『古田史学会報』15号、1996年8月。
「黒塚古墳見学記」『古田史学会報』24号、1998年2月。
「黒塚古墳出土三角縁神獣鏡 「父母鏡」の発見」『古田史学会報』25号、1998年4月。
「『奥の細道』中尾本異聞」『古田史学会報』28号、1998年10月。
「「富本銭」の公開展示見学」『古田史学会報』31号、1999年4月。
「武雄温泉の御船山」『古田史学会報』36号、2000年2月。
「隋詩「白馬篇」中の島夷・卉服」『古田史学会報』39号、2000年8月。
「佐賀県に「吉野」を探る」『古田史学会報』42号、2001年2月。
「千里眼随想」『古田史学会報』47号、2001年12月。
「山柿(さんし)の門」『古田史学会報』53号、2002年12月。
「菩提僊那僧正像」『古田史学会報』54号、2003年2月。
「古田史学「いろは歌留多」選考会」『古田史学会報』57号、2003年8月。
「大前神社碑文検討応援記」『古田史学会報』59号、2003年12月。
「別府・鶴見岳を天ノ香具山とする文献」『古田史学会報』62号、2004年6月。
「鶴見岳は天ノ香具山(続)」『古田史学会報』63号、2004年8月。
「「本」という字」『古田史学会報』66号、2005年2月。
「阿漕的仮説 さまよえる倭姫」『古田史学会報』69号、2005年8月。
「泰澄と法連」『古田史学会報』75号、2006年8月。
「阿胡根の浦」『古田史学会報』76号、2006年10月。
○「「オオスミ」の国」『古田史学会報』82号、2007年10月。
「私の古代史仮説」『古田史学会報』86号、2008年6月。
「禅譲・放伐論争シンポジウム要旨 日本国は倭国(九州王朝)の横すべりである」『古田史学会報』100号、2010年10月。
「斎藤里喜代さんへの反論」『古田史学会報』105号、2011年8月。


第3368話 2024/10/14

訃報 水野孝夫さん(本会顧問・前代表)

         ご逝去の報告

 水野孝夫さん(本会顧問・前代表)がご逝去されました(八九歳。十月十一日午後十時二十六分)。謹んで皆様にご報告申し上げ、心よりご冥福をお祈り申し上げます。

 ご葬儀は明日(十五日)、富雄会館(奈良市富雄)で執り行われます。わたしも古田史学の会を代表し、参列いたします。昨晩、急ぎ作成した「水野孝夫氏 古代史研究年譜」をご遺族に謹呈申し上げ、棺にも献納させていただきたいと思います。

 水野さんは市民の古代研究会時代からの友人で、古田史学の会草創の同志でした。1994年、本会創立に当たり、代表に就任していただきました。そして、二十年にわたり、険しく困難な道程(みちのり)の先頭に立たれました。わたしが一番苦しかった時代を共に歩んでいただいた大恩人です。2015年、代表退任後は顧問として、後任のわたしを支えていただきました。

 水野さんは京都大学で化学を専攻され、日本ペイントでは研究開発部門の責任者としてご活躍されました。初代新幹線ひかり号の青い塗料なども氏が開発されたもので、初めてのテスト走行に乗車され、塗装が時速200kmの過酷な環境に堪えうるのかを調査されたとうかがっています。わたしも現役時代は、化学色材の開発に関わっていましたので、ご自宅まで行って、教えを請うたこともありました。

 公私ともに大恩ある水野さんが亡くなられ、心が痛みます。あなたの志を引き継ぎ、古田史学の継承と発展のため、古田史学の会の代表として前進してまいります。長い間、本当にありがとうございました。


第3367話 2024/10/12

アニメ『チ。-地球の運動について-』(4)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 アニメ「チ。―地球の運動について―」のキャッチコピー「命を捨てても曲げられない信念があるか? 世界を敵に回しても貫きたい美学はあるか?」を象徴するようなシーンが昨日の放送(第三話)ではありました。

 地動説研究が発覚し、教会の異端審問でファウル少年は「宣言します。僕は地動説を信じてます」と述べ、刑が確定します。そして、ファウルを捉えた元傭兵の異端審問官ノヴァクとの間で、ファウルは終始穏やかですが、鬼気迫る内容の対話がなされます。

ファウル「敵は手強いですよ。あなた方が相手にしているのは僕じゃない。異端者でもない。ある種の想像力であり、好奇心であり、畢竟、それは知性だ。」
ノヴァク「知性?」
ファウル「それは流行病(はやりやまい)のように増殖する。宿主さえ、制御不能だ。一組織が手なずけられるような可愛げのあるものではない。」
ノヴァク「では、勝つのは君か? あの選択は君の未来にとって正解だと思うのか?」
ファウル「そりゃあ不正解でしょ。でも不正解は無意味を意味しません。」
(中略)
ファウル「フベルトさんは(火あぶりの刑で)死んで消えた。でもあの人がくれた感動は今も消えない。たぶん、感動は寿命の長さより大切なものだと思う。だからこの場は、僕の命に代えてもこの感動を生き残させる。」
ノヴァク「正気じゃない。わけの分からんものに感動して、命さえなげうつ。そんな状態を狂気だとは思わないのか。」
ファウル「確かに。でもそんなのは愛とも言えそうです。」 ※ここでの「愛」とは、キリスト教の教えでいうところの「愛」か。そうであれば、この言葉は皮肉かもしれません。

 こう語ると、ファウルは地動説研究資料の隠し場所を拷問で自白しないよう、服毒により自死し、ドラマの舞台は十年後に飛びます。

 このファウル少年の言葉は、わたしたち古田学派の研究者には次のようにも聞こえるはずです。

 「あなた方(一元史観の学界)が相手にしているのは僕じゃない。古田武彦でもない。ある種の想像力であり、好奇心であり、畢竟、それは知性だ。それは流行病(はやりやまい)のように増殖する。宿主さえ、制御不能だ。一組織が手なずけられるような可愛げのあるものではない。」(つづく)


第3366話 2024/10/10

関川さんから

  『葛城の考古学』をいただく

 過日、奈良市で関川尚功(せきがわ ひさよし)先生と10/27東京講演会の最終打ち合わせを行った際、著書『葛城の考古学』(注)をいただきました。同書は、一般の古代史ファンや考古学ファン向けというよりも、研究者向けの専門書です。奈良盆地の南西部にあたる葛城の地から出土した遺構・遺物を紹介したもので、時代的には旧石器から律令国家までを網羅したもの。関川先生はその中の下記の項目を執筆されています。

 第2章 初期農耕文化の展開と地域統合
第3節 ムラからクニへ
1 集落の動向
2 高地性集落の出現

 第3章 葛城氏の勃興と古墳文化
第1節 台頭した地域の首長層
1 葛城北部における首長墓の出現と系譜
2 葛城南部における首長墓とその特色
第2節 馬見古墳群と葛城の天皇陵
1 馬見古墳群
2 王墓と石棺
3 埴輪や木製品にみる古墳の葬祭

 次にお会いする10月27日の東京講演会までには読んでおかなければならないと思い、『古代に真実を求めて』投稿論文の査読の合間に読んでいますが、奈良県の古墳時代の基礎知識や葛城地方の土地勘がないこともあって、難渋しています。

 しかし、読んでいて気づいたのですが、九州や他の地方の古墳とは異なり、『日本書紀』や延喜式などを根拠に、被葬者を推定しながら仮説や論が展開されており、今まで読んだ弥生や古墳時代の考古学専門書とは雰囲気が異なるのです。この点は、文献史学を研究しているわたしにも、興味深く拝読できました。

 相変わらず超多忙な日々が続いていますが、頑張って読破します。なお、東京講演会のリハーサルで説明を受けた古墳や遺物、銅鏡などが同書に紹介されており、この点は理解が進みました。

(注)松田真一編『葛城の考古学 ―先史・古代研究の最前線―』八木書房、2022年。


第3365話 2024/10/09

アニメ『チ。-地球の運動について-』(3)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 アニメ「チ。―地球の運動について―」には、次のキャッチコピーがあります。

 「命を捨てても曲げられない信念があるか? 世界を敵に回しても貫きたい美学はあるか?」

 この言葉には、古田先生の生き様と通じるものを感じます。今から三十数年前のこと。青森で東奥日報の斉藤光政記者の取材を先生は受けました。和田家文書偽作キャンペーンを続ける同記者に対して、先生は次の言葉を発しました。

 「和田家文書は偽書ではない。わたしは嘘をついていない。学問と真実を曲げるくらいなら、千回殺された方がましです。」

 このとき、わたしは同席していましたので、先生のこの言葉を今でもよく覚えています。
他方、「美学」という言葉は、わたしは古田先生から直接お聞きした記憶はないのですが、水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から次のようなことを教えていただきました。

 久留米大学の公開講座に古田先生が毎年のように招かれ、講演されていたのですが、あるときから先生に代わって私が招かれるようになり、今日に至っています。その事情をわたしは知らなかったのですが、水野さんが古田先生にたずねたところ、先生が後任に古賀を推薦したとのことでした。そのことを古賀に伝えてはどうかと水野さんは言われたそうですが、古田先生の返答は、「わたしの美学に反する」というものだったそうです。先生の高潔なご人格にはいつも驚かされていたのですが、このときもそうでした。ですから、わたしは久留米大学から招かれるたびに、先生の「美学」に応えなければならないと、緊張して講演しています。(つづく)


第3364話 2024/10/08

アニメ『チ。-地球の運動について-』(2)

 ―真理(多元史観)は美しい―

アニメ「チ。―地球の運動について―」は、15世紀のヨーロッパにおいて、教会から禁圧された地動説を命がけで研究する人々を描いた作品です。その中で、地動説を支持する異端の天文学者フベルトと、一人で天体観測を続けていたラファウ少年との間で、次のような会話が交わされます。それは、不規則な惑星軌道を天動説で説明しようとするラファウと、それを詰問するフベルトとの対話です。

フベルト「この真理(天動説)は美しいか。君は美しいと思ったか。」
ラファウ「(天動説の複雑な理屈は)あまり美しくない。」
フベルト「太陽が昇るのではなく、われわれが下るのだ。地球は2種類の運動(自転と公転)をしている。太陽は動かない。これを教会公認の天動説に対して地動説とでも呼ぼうか。」

この対話を聞いて、古田先生の九州王朝説・多元史観と学界の大和朝廷一元史観との関係を思い起こしました。両者について、わたしは次のように指摘したことがあったので、フベルトの言葉が重く響いたのです。

〝学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。〟(注)

「チ。―地球の運動について―」では、ラファウ少年が地動説研究を行っていたことが教会に発覚しそうになったとき、フベルトは自らが身代わりとなって〝罪〟をかぶり、火あぶりの刑になりました。残されたラファウ少年は、「今から地球を動かす」と、地動説研究を引き継ぎます。(つづく)

(注)古賀達也「『戦後型皇国史観』に抗する学問 ―古田学派の運命と使命―」『季報 唯物論研究』138号、2017年。


第3363話 2024/10/06

アニメ『チ。-地球の運動について-』(1)

 ―真理(多元史観)は美しい―

 なかなかご理解いただけないかもしれませんが、いわゆる理系の中には、「美しい」という表現を好んで使う人がいます。「美しい」という概念は個人の主観的価値観に基づくものですから、客観性を重視し、自然法則を研究する科学の世界では、違和感がある言葉かもしれません。

 しかし、わたしが専攻した化学(有機合成化学)でも、次のような逸話があります。元勤務先の後輩、小川さんから聞いた話です。名古屋大学院でノーベル賞学者の野依先生のお弟子さんだった小川さんが、ある化学物質の分子構造式を描いたところ、野依先生から「美しくない」と、書き直しを命じられたというのです。複雑な分子構造式を分かりやすく描くのは結構難しいのですが、更にそれを美しく描かなければならないと学生に指導する野依先生のような人物だからこそ、ノーベル化学賞を受賞できたのかもしれません。

 野依先生とは次元もレベルも異なりますが、わたしも美しい分子構造をもつ化学物質の分子構造式を見ると、うっとりとします。なかでも現役時代に取り扱った物質で、構造式の上下左右が対称であり、その中心に金属原子を持つフタロシアニンやテトラアザポリフィリンなどは特に美しく感じたものです。これは、ケミストにとって、ある種の職業病かもしれません。

 物理学の分野でも、アインシュタインが発見した質量とエネルギーの等価性を示す関係式 E=mc2 は、ここまでシンプルで美しい計算式で、物質の基本原理を表せるものなのかと、感動した記憶があります。

 なぜ、「美しい」などという言葉を突然話題にしたのかというと、古田史学リモート勉強会に参加されている宮崎宇史さんから、地動説のために生涯を捧げた人々を主人公とするアニメ「チ。-地球の運動について-」(注)がNHKで放送されるので、是非、見るようにとのメールが届いたのです。宮崎さんからのお薦めであれば、これは見なければならないと思い、昨晩11:45から始まる同番組を見ました。聞けば、アニメ「チ。-地球の運動について-」は、今年、日本科学史学会特別賞を受賞したとのこと。

 そして、その番組の中で、地動説を支持する異端の天文学者フベルトが少年ファゥルに発した言葉が、「この真理(天動説)は美しいか。君は美しいと思ったか。」だったのです。この言葉がわたしの胸に突き刺さりました。(つづく)

(注)『ウィキペディア』に次の説明がある。
『チ。-地球の運動について-』は、魚豊による日本の青年漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて、2020年42・43合併号から2022年20号まで連載された。15世紀のヨーロッパを舞台に、禁じられた地動説を命がけで研究する人間たちの生き様と信念を描いたフィクション作品。2022年6月時点で、単行本の累計発行部数は250万部を突破。2022年6月にマッドハウス制作によるアニメ化が発表された。2024年5月、第18回日本科学史学会特別賞を受賞。


第3362話 2024/10/05

『続日本紀』道君首名卒伝の

        「和銅末」の考察 (7)

藤原魚名薨伝「天平末」と淡海三船卒伝「宝亀末」

 『続日本紀』藤原朝臣真楯薨伝に続いて、延暦二年(783)七月条の藤原朝臣魚名薨伝に見える「天平末」、延暦四年(785)七月条の淡海眞人三船卒伝の「宝亀末」の「末」について検討します。

 まず、藤原魚名薨伝の当該記事と訓読文は次の通りです(注)。

 「天平末、授從五位下補侍從。」 天平の末(すえ)に、從五位下を授(さず)けられ、侍從に補(ふ)せられる。

 天平は二十年まで続き、末年は天平二十年(748)ですので、『続日本紀』の同年条を見ると、二月条に次の記事がありました。

 「正六位上百済王元忠・藤原朝臣魚名(中略)並従五位下。」 正六位上百済王元忠・藤原朝臣魚名(中略)に並(ならび)に従五位下。

 この天平二十年の藤原朝臣魚名昇進記事により、薨伝の「天平末」とは字義通り、天平年間(729~748年)の末年である天平二十年(748)を意味する事がわかります。

 次に、延暦四年(785)七月条の淡海三船卒伝の当該記事は下記の通りです。ちなみに、淡海三船は『日本書紀』の漢風諡号を作成した人物として著名です。

 「宝亀末、授從四位下、拜刑部卿兼因幡守。」 宝亀の末、從四位下を授けけられ、刑部卿兼因幡守を拜す。

 宝亀は十一年まで続き、末年は宝亀十一年(780)です。『続日本紀』の同年条を見ると、二月条に次の記事がありました。

 「授正五位上淡海眞人三船従四位下」 正五位上淡海眞人三船に従四位下を授く。

 ここでも「宝亀末」を字義通りの宝亀年間(770~780年)の末年、宝亀十一年(780年)の意味で使用されている事がわかります。

 しかしながら、その後に続く刑部卿への任官記事は延暦三年(784年)四月条に見え、因幡守を兼任したのは延暦元年(782年)八月条にありますので、「宝亀末」は従四位下にのみ対応しており、「刑部卿兼因幡守」拝命記事にはかかっていないことになります。あるいは、「刑部卿兼因幡守」の任官を宝亀十一年とする別資料があり、薨伝はそちらを採用したという可能性もあるかもしれません。または、従四位下の時代に任官した役職を「授從四位下」に続けて記したのでしょうか。こうした表記例もありますので、『続日本紀』の卒伝や薨伝の構文理解には注意が必要です。(つづく)

(注)原文と訳文は新日本古典文学大系『続日本紀』(岩波書店)による。


第3361話 2024/10/04

関川先生の講演資料(32シート)完成

 昨日の午後7時から7時間ほどかけて、10/27創立30周年記念東京講演会での関川先生の発表資料を作成しました(全32シート)。おかげで寝不足です。

 当初、ワードで作成を試みていましたが、写真の配置設定が困難なので、正木裕さん(当日の講師)のアドバイスにより、パワポで作成したらスムーズに進みました。弥生時代から古墳時代前期の銅鏡についての資料が多く、今まで以上に面白い講演になると思います。

 関東地区の会員の皆さん、古代史ファン、「邪馬台国」ファンの皆様に喜んでいただけるはずです。引きつづき、チェックを行い、印刷にまわします(多元的古代研究会に印刷をお願いしています)。

 「ヤマトを発掘して40年 考古学者が語る衝撃の真実 畿内に邪馬台国はなかった」をメインテーマにして、橿原考古学研究所で40年間ヤマトを発掘調査した関川尚功先生と正木裕さん(古田史学の会・事務局長、元・大阪府立大学理事・講師)による講演会です。お知り合いの古代史ファンの方にご紹介いただければ幸いです。

〔演題・講師〕
○畿内ではありえぬ「邪馬台国」 ―考古学から見た邪馬台国大和説―
関川尚功 氏(元・橿原考古学研究所々員)

○本当の「倭の5王」 ―不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル―
正木 裕 氏(古田史学の会・事務局長、元・大阪府立大学理事・講師)

〔日時〕2024年10月27日(日) 午後1時30分~4時30分
〔会場〕文京区民センター 2A会議室 (東京都文京区本郷4丁目)
〔参加費(資料代)〕1000円
〔お問い合わせ先〕046ー275ー1497(和田)

         075-251-1571(古賀)
〔主催〕古田史学の会 多元的古代研究会
〔協力〕古田武彦と古代史を研究する会


第3359話 2024/10/02

『東京古田会ニュース』218号の紹介

 『東京古田会ニュース』218号が届きました。拙稿「和田家文書「金光上人史料」の真実」を掲載していただきました。同稿では、和田家文書のなかでも金光上人史料は、『東日流外三郡誌』よりも早く、昭和24年頃には外部に提出され、書籍としても発刊された貴重な史料群であることを説明しました。

 同号には國枝浩さんの「唐書類の読み方 古田武彦氏の『九州王朝の歴史学』〈新唐書日本国伝の資料批判〉について」、橘高修さん(同会副会長)の「古代史エッセー81 倭国と日本国の関係」が掲載され、日本列島内の王朝交代についての中国側の認識について論じられました。なかでも橘高稿では、『旧唐書』『新唐書』の倭国伝と日本国伝の丁寧な説明がなされており、良い勉強の機会となりました。

 安彦克己さん(同会々長)の「和田家文書備忘録8 金寶壽鍛造の刀」は、和田家文書に記された刀について紹介されたもので、懐かしく思いました。というのも、和田家文書(『北鑑』39巻)に記された名刀「天国(あまくに)」「天坐(あまくら)」なるものを藤本光幸邸で実見し、和田喜八郎氏の依頼で調査したことがあったからです。このときの調査については『古田史学会報』(注)で報告しましたが、全貌については未発表です。機会があれば、わたしの記憶が確かな内に発表できればと思います。

(注)古賀達也「天国在銘刀と和田末吉」『古田史学会報』18号、1997年。
https://furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou/koga18.html


第3358話 2024/10/01

『続日本紀』道君首名卒伝の

      「和銅末」の考察 (6)

藤原朝臣真楯卒薨伝の「天平末」「出爲」

 『続日本紀』天平神護二年(768)三月条には、「天平末」という表記を持つ藤原朝臣真楯卒薨伝(注)が記されています。当該部分は次の通りです。

 「天平末、出為大和守。」

 天平は二十年まで続き、末年は天平二十年(748)です。ここでも道君首名卒伝と同様に「○○末、出爲○○守」の構文が使用されており、首名卒伝と同様の読み方であれば、「天平年間(729~748年)の末年(天平20年)に、大和国守に赴任した」という意味になります。もっとも、首名とは大きく異なり、赴任先は平城京がある大和国ですから、恵まれた任官と言えそうです。ところが、当薨伝以外に藤原真楯の大和守任官・赴任記事は見えませんから、「天平末」の「末」の意味をこの記事からは直接的に導き出すことができません。

 そこで、よい機会ですので、今回は「天平末」に続く「出爲」について説明します。まず、道君首名の筑後守任官と卒伝の赴任記事の原文と訳文は次の通りです。

(a) 和銅六年(713年)八月条 筑後守任官記事
「従五位下、道君首名爲筑後守。」
従五位下、道君首名を筑後守とす。

(b) 養老二年(718)四月条 道君首名卒伝
「和銅末、出爲筑後守、兼治肥後國。」
和銅の末に出(い)でて筑後守となり、肥後國を兼ねて治めき。

 このように、(a)では動詞は「爲」だけですから、「○○になす」「○○とする」の意味で使用されています。他方、(b)では動詞が「出」「爲」と二つ続けてありますから、「出でて○○となる」という構文になっており、単に都で任命されたということではなく、「都から出て、○○になる」という意味であり、卒伝の「出爲」は赴任記事と理解するほかありません。そして、「筑後守」「肥後国」と続きますから、筑後・肥後に赴任したと読者は読むことになります。その直後に、任地での活躍記事が続きますから、文章の流れとしても自然です。

 この「出爲」の構文は『続日本紀』には少なく、道君首名卒伝・藤原朝臣真楯卒薨伝に続いて、ようやく次の用例を見つけました。天平宝字四年(760年)九月条の、新羅国からの遣使、金貞巻の言葉に見えます。

 「貞卷曰。田守來日、貞卷出爲外官。亦復賎人不知細旨。」
貞卷曰はく、「田守來れる日、貞卷出(い)でて外官と爲(あ)り。亦復(また)賎(いや)しき人にして細旨を知らず。」といふ。

 新日本古典文学大系本(岩波書店)の脚注には、この記事を次のように説明しています。

 「田守が新羅に来た時に、貞巻は地方官として都にはおらず、また身分が低いので、細かな事情は存じません、の意。」

 このように「出爲」という用語・構文は〝ある所へ出て、○○になる〟という意味で使用されていることがわかります。従って、道君首名卒伝の「和銅末」「出爲」を、和銅八年(715年)の筑後・肥後赴任の年とするわたしの理解は正しかったようです。(つづく)

(注)藤原朝臣真楯薨伝の原文は次の通り。【】は古賀が付した。
《天平神護二年(768)三月 藤原朝臣真楯薨伝》
丁卯。大納言正三位藤原朝臣真楯薨。平城朝贈正一位太政大臣房前之第三子也。真楯、度量弘深。有公輔之才。起家春宮大進。稍遷至正五位上式部大輔兼左衛士督。在官公廉。慮不及私。感神聖武皇帝、寵遇特渥。詔、特令参奏宣吐納。明敏有誉於時。従兄仲満、心害其能。真楯知之。称病家居。頗翫書籍。【天平末、出為大和守。】勝宝初、授従四位上。拝参議。累遷信部卿兼大宰帥。于時。渤海使楊承慶、朝礼云畢。欲帰本蕃。真楯設宴餞焉。承慶甚称歎之。宝字四年授従三位。更賜名真楯。本名八束。八年、至正三位勲二等兼授刀大将。神護二年、拝大納言兼式部卿。薨時、年五十二。賜以大臣之葬。使民部卿正四位下兼勅旨大輔侍従勲三等藤原朝臣縄麻呂。右少弁従五位上大伴宿禰伯麻呂弔之。