第1595話 2018/02/02

『論語』二倍年暦説の論理構造(2)

 わたしが二倍年暦の研究に本格的に取り組んだのは2000年頃からでした。そのきっかけは、仏典中の里単位の変遷の調査をしていたときに読んだ鳩摩羅什訳『妙法蓮華経』に、二倍年暦でなければあり得ないような記事(「信解品第四」の長者窮子の比喩)に気づいたことでした。更に原始仏教経典(『長阿含経』など)やパーリ語で伝わった仏典中に二倍年暦と考えざるを得ない長寿年齢(百歳、百二十歳など)や説話が少なからず存在していることも確認しました。
 また、仏陀の没年(実年代)について、北伝(インド・中国)仏教と南伝(セイロン)仏教では年代差があることから、この現象も一倍年暦で伝えられた北伝(前383年没)と二倍年暦を逆算してより古く伝えられた南伝仏教(前483年没)との差に基づくとすることで説明できることも判明しました。これらの発見を「仏陀の二倍年暦」(『古田史学会報』51号・52号、2002年8月・10月)で発表しました。
 学問の論証方法に関することですが、ある史料に長寿年齢、たとえば70歳とか80歳の記述があった場合、それを根拠に二倍年暦の証拠とするには論証上安定感に欠けます。というのも、古代においてもたまたま超長生きした人がいた可能性もある、という批判に応えにくいからです。これが100歳や120歳であれば、いくらなんでも古代でそれほど長生きできるはずがないという一般的常識論が有効となり、120歳とあるが半分の60歳とする方がよいという理解が有力となります。これは「仏陀の二倍年暦」で紹介したように、仏典に見える長寿記事を根拠としての実証が成立するからです。
 他方、仏陀没年において大きく異なる二説が発生した理由として、二倍年暦と一倍年暦のそれぞれの計算方法から発生したとする説明が、誤記誤伝とするよりも合理的であるという論理的証明(論証)も成立しました。こちらは論理性の問題ですから、「たまたま長生きの人がいた」という類の批判を排除できます。
 このように、わたしの古典における二倍年暦の当否の研究は、論証をより重視するという学問の方法を意識して行ったものです。論文発表後に、「古代でも長生きの人がいた可能性を否定できない」という批判が度々なされたのですが、それらはわたしが強烈に意識した学問の方法への無理解による批判と言わざるを得ませんでした。(つづく)


第1594話 2018/02/01

『論語』二倍年暦説の論理構造(1)

 『東京古田会ニュース』No.178に、古田史学の会・会員(福岡市)でもある中村通敏さんの論稿「『論語』は『二倍年暦』で書かれていない-『託孤寄命章』に見る『一倍年暦』」が掲載されており、『論語』は二倍年暦で書かれているとする拙論へのご批判が展開されていました。
 実は同様のご批判を『古田史学会報』92号(2009年6月)掲載「孔子の二倍年暦についての小異見」でもいただいていたのですが、諸般の事情もあって反論できないままとなっていました。今回の中村稿でもわたしからの応答を求められています。これ以上応答を遅らせるのは中村さんに対して失礼となりますので、反論というよりも、まず拙論の論理構造を説明することにします。なお、二倍年暦に関する拙論や中村稿(ペンネーム「棟上寅七」で掲載)は「古田史学の会」ホームページに収録されていますので、ご覧いただければ幸いです。(つづく)


第1593話 2018/02/01

豊崎神社付近の古代の地勢

 服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)より、『ヒストリア』264号(2017年10月)に掲載された趙哲済さんと中条武司さんの論文「大阪海岸低地における古地理の変遷 -『上町科研』以後の研究-」をいただきました。大阪湾岸の古代地形の復元研究に関する論文で、以前から読んでみたいと思っていた注目論文です。
 というのも、『日本書紀』孝徳紀に孝徳天皇の宮とされる「難波長柄豊碕宮」の所在について、通説では大阪市中央区法円坂の前期難波宮とされており、わたしは「長柄」「豊崎」地名が遺存している北区の豊崎神社付近ではないかと推定していたのですが、これに対して趙さんの研究を根拠に、7世紀における当地は川底か湿地帯であり、「難波長柄豊碕宮」の所在地ではないとする批判があったからです。そこで、昨年から趙さんとの接触を試みていたのですが、お会いできずにいました。そのようなときに服部さんから趙さんの論文をいただいたものです。
 「洛中洛外日記」561話(2013/05/25)「豊崎神社境内出土の土器」にも記したのですが、わたしは発掘調査結果から豊崎神社付近は古代から陸地化しており、湿地帯ではないと理解していました。同「洛中洛外日記」を転載します。

【以下転載】
「洛中洛外日記」561話 2013/05/25
豊崎神社境内出土の土器

 『日本書紀』孝徳紀に見える孝徳天皇の宮殿、難波長柄豊碕宮の位置について、わたしは大阪市北区豊崎にある豊崎神社近辺ではないかと推測しているのですが、前期難波宮(九州王朝副都)とは異なり、七世紀中頃の宮殿遺跡の出土がありません。地名だけからの推測ではアイデア(思いつき)にとどまり学問的仮説にはなりませんから、考古学的調査結果を探していたのですが、大阪市文化財協会が発行している『葦火』(あしび)26号(1990年6月)に「豊崎神社境内出土の土器」(伊藤純)という報告が掲載されていました。
 それによると、1983年5月、豊崎神社で境内に旗竿を立てるために穴を掘ったら土器が出土したとの連絡が宮司さんよりあり、発掘調査を行ったところ、地表(標高2.5m前後)から1mぐらいの地層から土器が出土したそうです。土器は古墳時代前期頃の特徴を示しており、中には船のようなものが描かれているものもあります。
 大阪市内のほぼ南北を貫く上町台地の西側にそって北へ延びる標高2〜4mの長柄砂州の上に豊崎神社は位置していますが、こうした土器の出土から遅くとも古墳時代には当地は低湿地ではなく、人々が生活していたことがわかります。報告によれば、この砂州に立地する遺跡は、南方約3kmに中央区平野町3丁目地点、北方約2kmに崇禅寺遺跡があるとのことで、豊崎神社周辺にもこの時期の遺構があることが推定されています。
 今後の調査により、七世紀の宮殿跡が見つかることを期待したいと思います。
【転載おわり】

 上記の『葦火』の記事から、わたしは北区の「長柄」「豊崎」付近は遅くとも古墳時代には陸化しており、7世紀段階であればまず問題ないと判断していました。その理解が妥当であったことが、今回の趙さんらの論文でも確認できました。当地の地勢推移について次のように記されています。

 「豊崎遺跡の中心地とされる豊崎神社の西にあるTS88-2と神社の北のTS06-1は直線距離で約七〇mの距離である。上述のように、前者には弥生時代の古土壌が分布し、後者には同時期の遺物を含む河川成砂層が分布する。このことから、両地域の間に川岸があったと考えられ、川沿いに広がる弥生集落の存在がイメージできる。(中略)これが豊崎遺跡の北側を流れた中津川の痕跡と考えられる。出土遺物から古代の中津川流路と推定した。」(10頁)

 この記述から、豊崎神社がある豊崎遺跡付近は弥生時代から集落が存在しており、古代の中津川流路からも外れており、当地が川底でも湿地帯でもないことがわかります。もちろん、7世紀の宮殿遺構は出土していませんから、この地に「難波長柄豊碕宮」があったと断定はできません。現時点では、地名との一致を根拠とした作業仮説のレベルにとどまっています。
 なお付言しますと、豊崎神社には当地が孝徳天皇の「難波長柄豊碕宮」だったとする古伝承が存在します。これも「洛中洛外日記」268話(2010/06/19)「難波宮と難波長柄豊碕宮」で紹介していますので、以下に転載します。ご参考まで。

【以下転載】
「洛中洛外日記」268話 2010/06/19
難波宮と難波長柄豊碕宮

 第163話「前期難波宮の名称」で言及しましたように、『日本書紀』に記された孝徳天皇の難波長柄豊碕宮は前期難波宮ではなく、前期難波宮は九州王朝の副都とする私の仮説から見ると、それでは孝徳天皇の難波長柄豊碕宮はどこにあったのかという問題が残っていました。ところが、この問題を解明できそうな現地伝承を最近見いだしました。
 それは前期難波宮(大阪市中央区)の北方の淀川沿いにある豊崎神社(大阪市北区豊崎)の創建伝承です。『稿本長柄郷土誌』(戸田繁次著、1994)によれば、この豊崎神社は孝徳天皇を祭神として、正暦年間(990-994)に難波長柄豊碕宮旧跡地が湮滅してしまうことを恐れた藤原重治という人物が同地に小祠を建立したことが始まりと伝えています。
 正暦年間といえば聖武天皇が造営した後期難波宮が廃止された延暦12年(793年、『類従三代格』3月9日官符)から二百年しか経っていませんから、当時既に聖武天皇の難波宮跡地(後期難波宮・上町台地)が忘れ去られていたとは考えにくく、むしろ孝徳天皇の難波長柄豊碕宮と聖武天皇の難波宮は別と考えられていたのではないでしょうか。その上で、北区の豊崎が難波長柄豊碕宮旧跡地と認識されていたからこそ、その地に豊崎神社を建立し、孝徳天皇を主祭神として祀ったものと考えざるを得ないのです。
 その証拠に、『続日本紀』では「難波宮」と一貫して表記されており、難波長柄豊碕宮とはされていません。すなわち、孝徳天皇の難波長柄豊碕宮の跡地に聖武天皇は難波宮を作ったとは述べていないのです。前期難波宮の跡に後期難波宮が造営されていたという考古学の発掘調査結果を知っている現在のわたしたちは、『続日本紀』の表記事実のもつ意味に気づかずにきたようです。
 その点、10世紀末の難波の人々の方が、難波長柄豊碕宮は長柄の豊崎にあったという事実を地名との一致からも素直に信じていたのです。ちなみに、豊崎神社のある「豊崎」の東側に「長柄」地名が現存していますから、この付近に孝徳天皇の難波長柄豊碕宮があったと、とりあえず推定しておいても良いのではないでしょうか。今後の考古学的調査が待たれます。また、九州王朝の副都前期難波宮が上町台地北端の高台に位置し、近畿天皇家の孝徳の宮殿が淀川沿いの低湿地にあったとすれば、両者の政治的立場を良く表していることにもなり、この点も興味深く感じられます。


第1592話 2018/01/31

1月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 1月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《1月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2018/01/02 『古代に真実を求めて』21集のタイトル案
2018/01/14 『九州倭国通信』No.189のご紹介
2018/01/17 壱岐のカラカミ遺跡から「周」刻銘土器出土
2018/01/21 新春古代史講演会でご挨拶
2018/01/25 ユーチューバー募集
2018/01/28 『古代に真実を求めて』21集のタイトル決定


第1591話 2018/01/29

『古代に真実を求めて』21集の目次

 『古代に真実を求めて』21集のタイトルを「発見された倭京 太宰府都城と官道」とすることに決定しました。現在、校正と編集作業が進められています。順調にいけば三月末頃には発刊できる見通しです。「古田史学の会」2017年度賛助会員には1冊進呈いたします。大手書店やアマゾンでも購入できます。
 目次は下記の通りで、優れた論文や興味深いコラムなどが収録されています。多元的太宰府研究と九州王朝官道研究の最新論文集です。お楽しみに。

古代に真実を求めて第二十一集

発見された倭京

発見された倭京
–太宰府都城と官道

『発見された倭京 太宰府都城と官道』

巻頭言 「真実は頑固である」  古賀達也
 
Ⅰ「九州王朝説による太宰府都城の研究」

太宰府都城と羅城        古賀達也
倭国の城塞首都「大宰府」    正木 裕
都督府の多元的考察       古賀達也
大宰府の政治思想        大墨伸明
太宰府条坊と水城の造営時期   古賀達也
太宰府都城の年代観(近年の研究成果と九州王朝説) 古賀達也
太宰府大野城の瓦        服部静尚
条坊都市の多元史観―太宰府と藤原宮の創建年― 古賀達也
観世音寺の「碾磑」について   正木 裕
よみがえる「倭京」大宰府―南方諸島の朝貢記録の証言― 正木 裕

【コラム】「竈門山旧記」の太宰府
 【コラム】三山鎮護の都、太宰府
 【コラム】『養老律令』の中の九州王朝
 【コラム】太宰府条坊の設計「尺」の考察
 【コラム】牛頸窯跡出土土器と太宰府条坊都市
 【コラム】太宰府政庁遺構の字地名「大裏」

Ⅱ「九州王朝の古代官道」

五畿七道の謎          西村秀己
「東山道十五国」の比定     山田春廣
南海道の付け替え        西村秀己
風早に南海道の発見と伊予の「前・中・後」 合田洋一
古代官道―南海道研究の最先端(土佐国の場合)― 別役政光
  古代官道は軍事ハイウェイ  肥沼孝治

 【コラム】東山道都督は軍事機関
 【コラム】長宗我部地検帳に見る「大道」
 【コラム】九州王朝は駅鈴も作ったか

一般論文

倭国(九州)年号建元を考える  西村秀己
前期難波宮の築造準備について  正木 裕
古代の都城―宮域に官僚約八千人― 服部静尚
太宰府「戸籍」木簡の考察 付・飛鳥出土木簡の考察 古賀達也

【フォーラム】
九州王朝の勢力範囲       服部静尚

古田史学の会・会則
全国世話人・地域の会名簿
編集後記 


第1590話 2018/01/28

高天原(アマ国)の領域

 松中祐二さんの論文「安本美典『古代天皇在位十年説』を批判する 卑弥呼=天照大神説の検証」によれば、天照大神が居た高天原(アマ国)は朝鮮半島南部洛東江流域の伽耶地方が有力とされました。そこは倭人伝に見える狗邪韓国や後に任那国(倭地)が置かれた地域と重なるようです。
 古田説では、高天原と称された天国(アマ国)の所在地を壱岐・対馬などの海上領域とされました。その根拠は、筑紫や新羅などへ高天原から天下る際に中継地なしに直接に行っていることから、それが可能な領域として、壱岐・対馬などを高天原(アマ国)とされました。この点では松中さんも同様に伽耶地方であれば途中経過地なしで筑紫や新羅などに天下り可能とされています。
 もし松中説が正しければ高天原(アマ国)の中心は伽耶地方となり、壱岐・対馬とされた古田説と異なるのですが、両説を比較検討すると松中説の方が良いように思われます。というのも、古田説では平野部が少ない対馬は祭司の場で、軍事拠点は壱岐と見なされてきたのですが、それにしても筑紫や出雲と比べれば狭く、そのような狭小地域の人口・生産力・軍事力により、筑紫や出雲を制圧(天孫降臨・国譲り)できたことに若干疑問があったからです。もちろん、朝鮮半島から伝わった鉄器で武装した集団としてアマ国を捉えていましたので、その鉄器を背景にして戦争に勝ったと一応は理解してきました。
 ところが、松中説では朝鮮半島南部の伽耶地方を、岩戸開き神話の舞台であり天照大神らが君臨した拠点とするのですから、筑紫や出雲と対等に渡り合える国土面積や農業生産力があったと考えられます。まして、鉄器使用が日本列島に先駆けて始まっていたことでしょうから、農業生産力も戦闘力も青銅器の比ではありません。
 このように、従来の古田説よりも松中説の方が天孫降臨を可能とした国力バランスをうまく説明できるのです。そうなると、九州王朝の淵源は朝鮮半島南部にあったということにもなり、当地の考古学的痕跡の調査や、記紀のアマ国神話の再検証が必要となりそうです。これらの裏付けがあれば、松中説は九州王朝史研究にとって画期的な新説となる可能性を秘めています。


第1589話 2018/01/27

天照大神と天孫降臨の実年代

 松中祐二さんの論文「安本美典『古代天皇在位十年説』を批判する 卑弥呼=天照大神説の検証」を読みました。「九州古代史の会」の新年会で松中さんらと博多界隈で夜遅くまで飲んだのですが、そのおりに倭人の二倍年暦や天照大神の岩戸開き神話が皆既日食に基づくとした場合の実年代についての研究を聞かせていただきました。その後、冒頭の論文を送っていただいたのですが、ようやく読むことができました。
 一読して、その論究の緻密さに驚きました。さすがは理系(医師)の研究者らしく、難解な計算式を駆使し、しかも論理構成の鋭さは見事でした。その主テーマは安本美典氏の「古代天皇在位十年説」への批判ですが、古代人の寿命の短さは在位年数が短くなることを意味しないとする指摘には意表を突かれました。また、縄文人や弥生人の平均寿命や15歳での平均余命の研究を紹介され、古田先生の二倍年暦説は妥当であることを、弥生人の100歳の生存確率計算により明らかにされています。
 論文中、わたしが最も関心を抱いたのが、天照大神の実年代を平均在位数計算から求めた数値と、岩戸開き神話の背景が皆既日食であったとした場合、共に紀元前200年頃で一致するとされた論証でした。ちなみに、安本氏は天照大神を卑弥呼とする自説の根拠の一つに、3世紀に起こったとされる皆既日食をあげられているのですが、これも松中氏の研究によれば、北部九州においては安本氏が指摘した日食は日の出前に始まり、地平線に太陽が出る頃には食分は小さく、神話のような現象は発生しないと批判されています。そして、三世紀以前に発生した皆既日食としては紀元前206年に朝鮮半島南部で発生したものしか候補がなく、結論として天照大神の実年代を紀元前200年頃、場所は朝鮮半島南部洛東江流域の伽耶地方が有力とされました。
 この松中説が正しければ、天照大神や天孫降臨の実年代が紀元前200年頃となり、九州王朝の淵源を探る上でも貴重な視点となることでしょう。まさに目の覚めるような秀逸の論文でした。


第1588話 2018/01/26

倭姫王の出自

 過日の「古田史学の会」新春古代史講演会で正木裕さんが発表された新説「九州王朝の近江朝」において、天智が近江朝で九州王朝の権威を継承するかたちで天皇に即位できた条件として次の点を上げられました。

①倭王として対唐戦争を主導した筑紫君薩夜麻が敗戦後に唐の配下の筑紫都督として帰国し、九州王朝の臣下たちの支持を失ったこと。
②近江朝で留守を預かっていた天智を九州王朝の臣下たちが天皇として擁立したこと。
③九州王朝の皇女と思われる倭姫王を天智は皇后に迎えたこと。

 いずれも説得力のある見解と思われました。天智の皇后となった倭姫王を九州王朝の皇女とする仮説は、古田学派内では古くから出されてはいましたが、その根拠は、名前の「倭姫」を「倭国(九州王朝)の姫」と理解できるという程度のものでした。
 実は二十年ほど前のことだったと記憶していますが、倭姫王やその父親の古人大兄について九州王朝の王族ではないかと、古田先生と検討したことがありました。そのきっかけは、わたしから次のような作業仮説(思いつき)を古田先生に述べたところ、「論証が成立するかもしれませんよ」と先生から評価していただいたことでした。そのときは古田先生との検証作業がそれ以上進展しなかったので、そのままとなってしまいました。わたしの思いつきとは次のようなことでした。

①孝徳紀大化元年九月条の古人皇子の謀叛記事で、共謀者に朴市秦造田久津の名前が見える。田久津は朝鮮半島での対唐・新羅戦に参加し、壮絶な戦死を遂げており、九州王朝系の有力武将である。従って、ここの古人皇子は九州王朝内での謀叛記事からの転用ではないか。とすれば、古市皇子は九州王朝内の皇子と見なしうる。
②同記事には「或本に云はく、古市太子といふ。」と細注が付されており、この「太子」という表現は九州王朝の太子の可能性をうかがわせる。この時代、近畿天皇家が「太子」という用語を使用していたとは考えにくい。この点、九州王朝では『隋書』国伝に見えるように、「利歌彌多弗利」という「太子」が存在しており、「古市太子」という表記は九州王朝の太子にこそふさわしい。
③更に「吉野太子とい云ふ」ともあり、この吉野は佐賀県吉野の可能性がある。

 以上のような説明を古田先生にしたのですが、他の可能性を排除できるほどの論証力には欠けるため、「ああも言えれば、こうも言える」程度の作業仮説(思いつき)レベルを超えることができませんでした。
 ちなみに、「ああも言えれば、こうも言える。というのは論証ではない」とは、中小路駿逸先生(故人。元追手門学院大学教授)から教えていただいたものです。わたしが古代史研究に入ったばかりの頃、「論証する」とはどういうことかわからず、教えを乞うたとき、これが中小路先生からのお答えでした。


第1587話 2018/01/25

『続日本紀』にあった「大長」

 久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)からお借りしている『律令時代と豊前国』(苅田町教育委員会文化係、2010年)を読んでいますが、そこに「大長」という表記があり、驚きました。

 「大長」は最後の九州年号(倭国年号。704〜712年)ですが、愛媛県松山市出土の木簡に「大長」という文字が見えることを以前に紹介したことがあります。それは「洛中洛外日記」490話(2012/11/07)「『大長』木簡を実見」の次の記事です。

【以下引用】
坂出市の香川県埋蔵文化財センターで開催されている「続・発掘へんろ -四国の古代-」展を見てきました。目的は第448話で紹介した「大長」木簡(愛媛県松山市久米窪田Ⅱ遺跡出土)の実見です。(中略)

 さて問題の「大長」木簡ですが、わたしが見たところ、長さ約25cm、幅2cmほどで、全体的に黒っぽく、その上半分に墨跡が認められました。下半分は肉眼では墨跡を確認できませんでした。文字と思われる墨跡は5文字分ほどであり、上から二文字目が「大」と見える他、他の文字は何という字か判断がつきません。同センターの学芸員の方も同見解でした。
あえて試案として述べるなら次のような文字に似ていました。字体はとても上手とは言えないものでした。
「丙大??※」?=不明 ※=口の中にヽ
これはあくまでも肉眼で見える墨跡からの一試案ですから、だいたいこんな「字形」という程度の参考意見に過ぎません。(後略)
【引用終わり】

 このとき見た「大長」木簡は年号としては不自然な表記で、何を意味するのか全くわかりませんでした。仮に「大長」という文字があったとしても、それだけでは「大長者」のような熟語の一部分の可能性もあるからです。

 ところが『律令時代と豊前国』には役職名らしき「大長」「小長」という表記が紹介されており、出典は『続日本紀』とのこと。そこで『続日本紀』天平12年9月条を見ると、豊前国企救郡の板櫃鎮(北九州市小倉北区。軍事基地か)の軍人と思われる人物について次のように記されていました。有名な「藤原広嗣の乱」の記事です。

「戊申(24日)、大将軍東人ら言(もう)さく『逆徒なる豊前国京都郡鎮長大宰史生従八位上小長谷常人と企救郡板櫃鎮小長凡河内田道とを殺獲す。但し、大長三田塩籠は、箭二隻を着けて野の裏に逃れ竄(かく)る。(後略)」

 このように板櫃鎮の「小長」凡河内田道と「大長」三田塩籠が広嗣側についた軍人として記されています。おそらく大長が「鎮」の長官で小長が副官といったところでしょう。なお、「京都郡鎮長」との表記も見えますが、おそらくは京都郡に複数ある「鎮」全てを統括する役職名ではないでしょうか。『続日本紀』のこの記事によれば、大宰府側の軍事基地として「鎮」があり、その役職として「大長」「小長」があったことがわかります。この役職名が他の史料にもあるのかこれから調査したいと思いますが、松山市出土「大長」木簡の「大長」もこうした役職名の可能性があるのかもしれません。


第1586話 2018/01/23

筑前と豊前の古代寺院造営編年

 このところ、久冨直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から、各地の資料館図録をお借りすることが多くなりました。先日の「古田史学の会・関西例会」でも多数の図録を持参され、参加者に回覧されたのですが、中でも福岡県の苅田町歴史資料館が発行した『律令時代と豊前国』(苅田町教育委員会文化係、2010年)に貴重な情報が掲載されていましたので、お借りしました。
 最初に注目したのが、筑前と豊前の古代寺院のリストでした。それぞれ11の寺院が記載されており、その造営年が筑前よりも豊前のほうが古い寺院が多いのです。次の通りです。

《筑前国》
遺跡名  ・出土瓦の特徴・時期
大分廃寺 ・新羅系   ・七世紀後
観世音寺 ・老司式   ・八世紀前
般若寺  ・老司式   ・八世紀前
杉原廃寺跡・百済系   ・七世紀末
塔の原廃寺・山田寺式  ・七世紀後
三宅廃寺跡・老司式   ・八世紀前
城の原廃寺・不明    ・八世紀前
長者原廃寺・不明    ・八世紀前
御輿廃寺跡・不明    ・八世紀前
浜口廃寺跡・鴻臚館式  ・八世紀前
長安寺跡 ・鴻臚館式  ・八世紀前

《豊前国》
遺跡名  ・出土瓦の特徴 ・時期
天台寺跡 ・新羅百済高句麗・七世紀後
椿市廃寺 ・新羅百済高句麗・七世紀後
上坂廃寺 ・百済     ・七世紀後
木山廃寺 ・百済     ・七世紀後
垂水廃寺 ・新羅百済   ・七世紀後
相原廃寺 ・百済     ・七世紀後
塔の熊廃寺・新羅     ・八世紀前
小倉池廃寺・不明     ・七世紀後
法鏡寺跡 ・法隆寺式百済 ・七世紀後
虚空蔵寺跡・川原寺式法隆寺式・七世紀後
弥勒寺跡 ・鴻臚館式   ・八世紀前

 このリストでは、「7世紀後」とすべき「老司式」を「八世紀前」と編年されており、問題もありますが、筑前よりも豊前の寺院の方が全体として古い造営年代となっています。九州王朝説から考えると、首都(太宰府)がおかれた筑前に、古い寺院が多くあってほしいところです。このリストの当否の確認も含めて、九州王朝における豊前の位置づけを検討する必要を感じさせるものでした。


第1585話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(4)

 二つ目の史料痕跡は「大宝二年籍」です。大和朝廷は大宝2年(702)に全国的な造籍を実施しています。当時、行政上の必要から定期的に造籍が行われていたと考えられ、それは6年毎という説が有力です。
 現存する古代戸籍では「大宝二年籍」が最も古く、その様式(書式・用語)の比較研究により、西海道(九州)戸籍が最も統一され整っていることがわかっています。通説では、大宰府により九州各国の戸籍が統一されたと理解されているようですが、九州王朝説にたてば、その様式の高度な統一性は九州王朝の直轄支配領域が九州島であったためと考えられます。従って、その様式の統一性は「大宝二年籍」で初めて現れたものではなく、九州王朝の時代に淵源があり、庚午年籍でも同様の統一性が九州島内諸国では見られたはずです。他方、九州以外では様式が統一されていなかったため、その影響が「大宝二年籍」にも現れたと考えざるを得ません。
 この戸籍様式の九州島内の「統一」と九州以外の「不統一」という史料事実こそ、庚午年籍が筑紫都督府と近江朝とで別々に造籍された痕跡と思われるのです。
 以上、紹介した二つの史料痕跡から、庚午年籍造籍主体に関しても、筑紫都督府と近江朝の二重権力状態を仮定すれば、正木説は更に有力説になるのではないでしょうか。(了)


第1584話 2018/01/23

庚午年籍は筑紫都督府か近江朝か(3)

 筑紫都督府(唐軍の支援を受けた薩夜麻)と近江朝(九州王朝家臣に擁立された天智)という二重権力状態での全国的な庚午年籍造籍(670年)が、筑紫都督府による九州地方と、近江朝による九州以外の地域で行われたとする作業仮説を支持する二つの史料的痕跡について紹介します。
 一つは「洛中洛外日記」1167話「唐軍筑紫進駐と庚午年籍」でも紹介した『続日本紀』に見える次の記事です。

 「筑紫諸国の庚午年籍七百七十巻、官印を以てこれに印す。」『続日本紀』神亀四年七月条(727)

 この記事によれば、神亀4年(727)まで、筑紫諸国の「庚午年籍」七百七十巻には大和朝廷の官印が押されていなかったことがわかります。それ以外の諸国の「庚午年籍」への官印押印についての記事は見えませんから、筑紫諸国(九州)とその他の諸国の「庚午年籍」の管理に何らかの差があったと考えられます。この管理の差が、筑紫都督府と近江朝の二重権力構造によりもたらされたと考えることができます。
 更に深く考えると、筑紫都督府には九州王朝(倭国)の「官印」が無かったということも言えるかもしれません。白村江戦をひかえて九州王朝官僚群が近江朝に「遷都」していたとすれば、「官印」も近江朝が所持していたことになるからです。もちろん、太宰府(筑紫都督府)に戻った薩夜麻が新たに「官印」を作製したことも考えられますが、その場合の印文は「倭国王之御璽」、あるいは「筑紫都督倭王之印」のような内容ではないでしょうか。そうすると、既に「日本国」に国号を変更していた大和朝廷の立場からは、それらを「官印」とは認められなかったものと推察します。
 この点、近江朝は670年に国号を「日本国」に変更していたとする史料(『三国史記』新羅本記)があり、そうであれば近江朝の官印は「日本国天皇之印」のような印文と考えられますから、神亀四年(727)の日本国の時代においては、そのままで問題なく、新たに「官印を以てこれに印す」必要はありません。
 このように『続日本紀』のこの記事は、庚午年籍が筑紫都督府(九州地方)と近江朝(九州以外)で別々に造籍されたとする作業仮説を支持するものと理解できるのです。(つづく)