第1418話 2017/06/09

前期難波宮は「難波宮」と呼ばれていた

 「洛中洛外日記」163話(2008.02.24)「前期難波宮の名称」175話(2008.05.12)「再考、難波宮の名称」などで、わたしは前期難波宮(考古学的遺跡名称)が7世紀当時に「難波宮」と呼ばれていたのではないかと発表しました。他方、正木裕さんは前期難波宮の名称を「味経宮(あじふのみや)」とする説を発表され、この正木説も検討すべき有力説であるとわたしは「再考、難波宮の名称」で賛意を表しました。そして、今でも正木説は有力であるとの評価は変わりません。
 ところが、前期難波宮「味経宮」説をわたしの説であるかのごとく扱い、わたしを論難する方があります。学問は批判を歓迎するとわたしは考えていますが、同時にそれは真摯であるべきです。他者を批判する前に、その論文をよく読んで正しく理解してからにするべきと、わたしは古田先生から学びました。ですから、前期難波宮「味経宮」説は正木さんが発表されたものであり、そのプライオリティーを尊重して、「正木説」として批判されるべきです。
 わたしは前期難波宮の真上に造営された聖武天皇の後期難波宮が、『続日本紀』には一貫して「難波宮」と表記されていることを根拠に、同じ場所にあった前期難波宮も「難波宮」と呼ばれていたと理解しています。そしてこの度、札幌市の阿部周一さんから『令集解』所収「古記」に「造難波宮司」という表記があることを教えていただきましたが、701年成立の『大宝律令』の注釈書「古記」に「難波宮」とあるとすれば、7世紀の前期難波宮が「難波宮」と呼ばれていたと言えるでしょう。
 阿部さんからの情報に基づき、わたしも『令集解』の当該記事を確認するため、大阪梅田阪急の古書店で『令集解』(国史大系本)全4冊を購入しました。『令集解』引用の当該「古記」部分には次のように記されていました。

 「(前略)古記云、其外配者便送配所謂西方之民。便配造難波宮司也。以近及遠。謂先番役近國。次中國。次遠國也。依名分配。謂依名簿。木工者配木工寮。鍛師者配鍛冶司也。(後略)」『令集解』第二(国史大系本)「巻十四 賦役令」426頁

 難解な漢文ですが、『大宝律令』の注釈書と見られる「古記」からの引用文に「造難波宮司」や「番役」という表記があり、7世紀の前期難波宮に関する規定と理解されています。貴重な史料が残っていたものです。阿部さんの情報提供に感謝します。『古田史学会報』への投稿が待たれます。


第1417話 2017/06/08

『大宝律令』注釈書「古記」に

        「造難波宮司」「番役」

 先日、札幌市の阿部周一さん(古田史学の会・会員)からメールをいただき、『大宝律令』の注釈書である「古記」に「造難波宮司」「番役」の記述があることをお知らせいただきました。詳細は阿部さんの論文発表を待ちたいと思いますが、正木裕さんが発見された『伊予三島縁起』に記された常色年間の「番匠初」記事に対応するもので、このような記録が大和朝廷側の「公文書」に残されていたことに驚きました。
 阿部さんからのメールによれば、『大宝律令』(701年成立)の注釈書「古記」にあることなどから、この「造難波宮司」が造営した「難波宮」は8世紀(726年)に造営された聖武天皇の後期難波宮ではありえず、7世紀に存在した「難波宮」と考えざるを得ないとのこと。他方、この「古記」の記述からも、前期難波宮を大和朝廷が「難波宮」と呼んでいたことが、より一層明白となりました。
 阿部さんには『古田史学会報』への投稿をお勧めしました。とても楽しみにしています。


第1416話 2017/06/07

天草と草津(滋賀県)の地名由来新考

 昨晩は鹿児島市のホテルに宿泊し、今朝は鹿児島空港行きの高速バスの車中で執筆しています。今日のスケジュールは超ハードで、宮崎・熊本・鹿児島の三県を巡回し、夜は天草のホテルで宿泊です。

 「洛中洛外日記」425話(2012/06/12)で「天草」の語源について考察したことがあります(下記に転載)。それは「あまくさ」の意味を、海(あま)の日(くさ)とする新説です。今でも有効な仮説と考えています。同様に滋賀県の「草津」の地名も、日(くさ)の津(つ)、すなわち「太陽の港」「朝日で照り輝く港」を意味するのではないかという作業仮説(思いつき)に至りました。
 この場合、この地名は草津側で命名されたものではないと考えられます。なぜなら、草津の住民にとって太陽は更に東側の山々から昇るものであり、自らの居住地(草津)を「太陽の港」などとは受け止められないからです。従って、もしこの作業仮説(思いつき)が正しければ、「日津(くさつ)」と命名したのは琵琶湖の対岸(西岸)の人々ではないかと思われます。その地域の人々であれば、朝日が琵琶湖の対岸(東岸)の草津方面から昇ることになり、草津を日(くさ)に照り輝く津(つ)と表現したとしても一応の理屈が通るからです。
 しかし、地名というものは誰かがそう呼んだからそう決まるというものではなく、周囲の誰もが納得できる理由や動機が必要です。そこでわたしは草津の琵琶湖対岸に、「くさつ」と命名した権力者が居たのであれば、その地名を周囲や当地の住民も納得せざるを得ないのではないかと考えました。
 それでは草津の琵琶湖対岸には何があるでしょうか。そうです。錦織遺跡(近江大津宮)です。ここにいた天子あるいは天皇が、自らの宮殿から見て東対岸の港方向から昇る朝日にちなんで、その港(津)を日(くさ)津(つ)と命名したのではないかと考えました。
 この草津の地名由来を「日津(くさつ)」とする作業仮説(思いつき)を学問的仮説として成立させるためには、少なくとも次の手続きが必要です。それは近江大津宮から朝日を見たとき、草津方面が日(くさ)の津、すなわち朝日に照り輝く港と呼ぶにふさわしいかどうかを実地検証する必要があります。
 そのことが確認できれば仮説として成立するのではないでしょうか。もちろんその場合でも一つの「仮説」ですから、検証や論争を経て、他の仮説よりも有力と認証されれば「有力仮説」となり、その考えが多くの人々に支持されたときに「定説」の地位を得ます。さて、今回のわたしの作業仮説(思いつき)はどのような運命をたどるのでしょうか。皆さんのご批判を心待ちにしています。

【転載】洛中洛外日記
第425話 2012/06/12
「天草」の語源

 第422話で紹介しましたように、先週、出張で天草に行ったとき、ふと考えたのが「天草」の意味でした。もちろん漢字は当て字で、「天にはえている植物」の意味ではないと思います。
 この疑問はわりと簡単に「解決」しました。「天(あま)」は「海」のことで、「草(くさ)」は太陽のことです。すなわち「あまくさ」とは「海の太陽」のことではないでしょうか。天草島の地理関係から考えると、「海に沈む夕日」が適切かもしれません。
 ちなみに、現在では上天草島や下天草島など全体を「天草」と称していますが、もともとは下天草島の西海岸側の一部の地名だったようです。ですから、そこは海に沈む夕日がきれいな絶景の観光スポットだと思いますし、「あまくさ」=「海の太陽」(が美しく見える地)という地名にぴったりです。ホテルでもらった観光案内パンフレットにも天草の紹介文として「東シナ海に沈む夕日が日本一きれいなところ」とありました。偶然とは思えない表現の一致です。
 「あま」が「海」というのはよく知られていますし、今も「海」を「あま」と読む地名は少なくありません。しかし、「くさ」が何故「太陽」なのか疑問に思われる方もおられると思います。
 実は昔、古田先生から教えていただいたことなのですが、「日下」を「くさか」、「日下部」を「くさかべ」と訓むように、「日」のことを古代日本では「くさ」と訓んでいたのです。すなわち、太陽のことを「くさ」」と訓んだ時代や人々が日本列島にあったのです。
 「あまくさ」の語源に対応した正確な漢字を当てるとすれば、「海日」ではないでしょうか。「海に沈む夕日が美しい島」、天草は古代史研究(装飾壁画古墳)でも重要な島なのですが、そのことは別の機会にふれたいと思います。


第1415話 2017/06/06

原稿採否基準、新規性と進歩性

 福岡県での仕事を終え、鹿児島中央駅に向かう九州新幹線の車中で書いています。車窓からの景色はずいぶん薄暗くなりました。今日、九州南部が梅雨入りしたとのことです。

 先月の関西例会後の懇親会で、常連の会員さんから『古田史学会報』に掲載された某論文について、「古田史学の会」としてその論文の説に賛成しているのかという趣旨のご質問をいただきました。その質問をされた方は『古田史学会報』に採用されたということは編集部から承認されたのだから、その論文の説を編集部は賛成したものと理解されていたようです。こうした誤解は他の会員の皆様にもあるかもしれません。
 よい機会ですので、学術誌などの採用基準と学問研究のあり方について、わたしの考えを説明させていただきたいと思います。『古田史学会報』に採用する論稿の評価基準については、「洛中洛外日記」1327話(2017/01/23)「研究論文の進歩性と新規性」でも説明してきたところです。学術論文の基本的な条件としては、史料根拠が明確なこと、論証が成立していること、先行説をふまえていること、引用元の出典が明示されていることなどがありますが、もっと重要な視点は新規性と進歩性がその論文にあるのかということです。
 新規性とは今までにない新しい説であること、あるいは新しい視点が含まれていることなどです。これは簡単ですからご理解いただけるでしょう。次に進歩性の有無が問われます。その新説により学問研究が進展するのかという視点です。たとえば、その新説により従来説では説明できなかった問題や矛盾していた課題がうまく説明できる、あるいはそこで提起された仮説や方法論が他の問題解決に役立つ、または他の研究者に大きな刺激を与える可能性があるという視点です。
 こうした新規性と進歩性が優れている、画期的であると認められれば、仮に論証や史料根拠が不十分であっても採用されるケースがあります。結果的にその新説が間違いであったとしても、広く紹介した方が学問の発展に寄与すると考えるからです。
 『古田史学会報』ではそれほど厳しい査読はしませんが、『古代に真実を求めて』では採用のハードルが高く、編集部でも激論が交わされることがあります。しかし、その採否検討にあたり、わたしや編集委員の意見や説に対して反対か賛成、あるいは不利・有利といった判断で採否が決まることはありません。ですから、採用されたからといって、編集部や「古田史学の会」がその説を支持していることを意味しません。しかし、掲載に値する新規性や進歩性を有していると評価されていることは当然です。
 以上のように、わたしは考えていますが、抽象論でわかりにくい説明かもしれません。「洛中洛外日記」1327話ではもう少し具体的に解説していますので、その部分を転載します。ご参考まで。

【転載】
 (前略)「2016年の回顧『研究』編」で紹介した論文①の正木稿を例に、具体的に解説します。正木さんの「『近江朝年号』の実在について」は、それまでの九州年号研究において、後代における誤記誤伝として研究の対象とされることがほとんどなかった「中元」「果安」という年号を真正面から取り上げられ、「九州王朝系近江朝」という新概念を提起されたものでした。従って、「新規性」については問題ありません。
 また「近江朝」や「壬申の乱」、「不改の常典」など古代史研究に於いて多くの謎に包まれていたテーマについて、解決のための新たな視点を提起するという「進歩性」も有していました。史料根拠も明白ですし、論証過程に極端な恣意性や無理もなく、一応論証は成立しています。
 もちろん、わたしが発表していた「九州王朝の近江遷都」説とも異なっていたのですが、わたしの仮説よりも有力と思い、その理由を解説した拙稿「九州王朝を継承した近江朝廷 -正木新説の展開と考察-」を執筆したほどです。〔番外〕として拙稿を併記したのも、それほど正木稿のインパクトが強かったからに他なりません。
 正木説の当否はこれからの論争により検証されることと思いますが、7〜8世紀における九州王朝から大和朝廷への王朝交代時期の歴史の真相に迫る上で、この正木説の進歩性と新規性は2016年に発表された論文の中でも際だったものと、わたしは考えています。(後略)


第1414話 2017/06/06

「太宰府」と「大宰府」の書き分け

 今朝は博多に向かう新幹線の車中で書いています。今週は仕事で九州5県(福岡・熊本・鹿児島・宮崎・長崎)を廻ります。若い頃とは違って、ハードな出張へのモチベーションを上げるのに時間がかかるようになりました。五十代の頃は海外出張で中国大陸をクルマに乗って1日に10時間移動できる体力と精神力があったのですが。

 「洛中洛外日記」1413話で紹介した、「文書化」の7つの基本原則の“継続性の原則:同じ言葉を同じ意味で揺るがせずに使う”に関して、最近の失敗談をご紹介します。それは「太宰府」と「大宰府」の書き分けについての失敗です。
 友好団体「九州古代史の会」の機関紙『九州倭国通信』に投稿した論文中に、「太宰府」と「大宰府」の書き分けにミスがあり、編集担当の方から拙宅までお電話をいただきました。わたし自身、かなり厳密に意識的に書き分けていたのですが、うっかり一カ所だけ変換ミスをしていたところを編集担当の方から指摘され、どのように対応すべきか問い合わせをいただいたのです。通常であれば見過ごしてしまうような箇所だったのですが、その方は的確に発見され、ご丁寧にお問い合わせの電話までくださったのです。さすがは九州王朝地元の研究会だと恐れ入りました。
 ご参考までに、わたしの「太宰府」と「大宰府」の書き分けの基準について紹介します。もちろん、わたしの考えに基づくものですから、他の基準とは異なるケースもありますので、この点、ご了解ください。

「太宰府」と表記するケース
○引用元の文章が「太宰府」となっている。
○地名の「太宰府市」や神社名「太宰府天満宮」の表記。
○九州王朝の官職名や役所名としての「太宰府」「太宰」。
○九州王朝説に基づく文脈での使用。

「大宰府」と表記するケース
○引用元の文章が「大宰府」となっている。
○考古学表記・用語として定着してる「大宰府政庁」など。
○一元史観の論稿や見解を要約するケース。

 他にもありますが、おおよそ上記の点に留意して書き分けています。中でも難しいのが「一元史観の論稿や見解を要約するケース」です。ここらへんになると、要約引用された側(人)への配慮と、九州王朝説を支持する読者への配慮とが矛盾することもあり、悩ましいところです。
 ちなみに、この「洛中洛外日記」の文章は複数の方のチェック(誤字・脱字・文章表現・論文慣習・事実関係・論理性等の当否)を受けた後にHPと「洛洛メール便」担当者に送るのですが、その際、「古田史学の会」役員へもccで送信しています。ですから、みなさんの目に留まる前に多数の関係者のチェックを受けているのですが、それでも文字や文章、論旨の誤りを完全には無くせません。中でも、今回の「太宰府」と「大宰府」の書き分けに至っては、チェック担当者から“当否を判断できない”と言われるほどの「難関」の一つなのです。「太」と「大」に、これだけこだわらなければならないのは、九州王朝説・古田学派の宿命ですね。
 なお付言しますと、「洛中洛外日記」の内容や仮説が学問的に誤りであったことが後に判明することがあります。その場合は、誤りであったことが判明した時点で、あるいは誤りとまでは言えないが他の有力説が登場したときに、あらためて「洛中洛外日記」で訂正記事を書いたり紹介することにしています。そうすることが学問的に真摯な対応であり、仮説の淘汰・発展を読者もリアルタイムで見ることができ、読んでいても面白いと思うからです。学問とはそうして発展するものだとわたしは考えています。


第1413話 2017/06/05

ノートの書き方と論文の書き方

 わたしが勤務先で使用しているパソコンには社内外からの様々な情報や連絡メールが届きます。多い日には数十件のメールが届くこともあり、そんな日は朝から緊急メールの返信作業だけで半日かかります。
 そのようなビジネスレターの中に、古代史論文執筆にも役立ちそうな解説がありましたので、転載し若干の説明をします。『古田史学会報』への投稿論文執筆のご参考にしていただければと思います。

《以下、転載》
(前略)つまり、ノートの書き方など、みんなバラバラなのだ。
 ただし、一言断っておくと、どんなノートを取っていようとも、最終的に外部に出す文書を作成する場合には、「人に理解される」内容に仕上げられる能力がある。「文書化」の基本を押さえているからだ。
 文書化の基本となるのは、以下の7つの基本原則である。

 チャンキングの原則:情報を小さなかたまり(チャンク)に分割する
 関連性確保の原則:1つのチャンクでは1つのテーマだけを扱う
 ラベル付けの原則:チャンクの内容の概略がすぐに分かるように見出しを付ける
 継続性の原則:同じ言葉を同じ意味で揺るがせずに使う
 グラフの統合化:グラフや図をその内容の側に添付する
 参照先の添付:興味を持った人がさらに調べることのできる先を記しておく

 これらの基本原則は、本来、学生時代の卒業論文などで担当教授から徹底的に指導されマスターしておくべきものである。その経験がなくとも社会人になったのちに、会社の基本となる文書フォーマットに、この基本原則が反映されていることから、自然とフォーマットなしでもきちんとした文書が作れるようになっていたわけだが、昨今はパワポ文書の氾濫により、原則が完全に崩れてしまっている。その結果、生産性が劇的に下がっていることは以前の記事でも述べた通りである。エグゼクティブたちは、このあたりの原則は、確実にマスターしている。(転載終わり)

 古代史論文に関わらず、“「人に理解される」内容に仕上げられる能力”が重要なことは言うまでもありません。自説を支持していない人が読んでも、その内容を理解してもらえるように書く文章力は実践の中で身につけるしかありません。
 また、あれもこれも論じるのではなく、なるべくテーマを絞り込み、何を論証するのか、どのように読者に読みとってもらいたいのかという「読者理解のシナリオ」も重要です。そして、そのシナリオにそった項目分けと項目を明確に表現する「小見出し」の選定は必須です。長い論稿ほど効果的な「小見出し」が読者の理解を促すだけでなく、自らの論証シナリオの再確認にも役立ちます。
 わたしもこうしたことを意識しながら執筆するのですが、残念ながら誤字・変換ミスは無くなりませんし、今でも失敗の繰り返しです。その点、比較するのもはばかられますが、古田先生の執筆力と校正力は素晴らしいものでした。古田先生からいただいた鉛筆書きの原稿にはいつも校正の跡でびっしりでした。先生がどのような点を意識しながら原稿校正されていたのかがよくわかり、わたし自身も論文執筆の勉強になったものです。そのため、文体が古田先生に似てしまい、先生との共著を出したとき、出版社から文体を変えてくれとクレームがついたこともありました。まだ三十代の頃のことで、懐かしい思い出です。(つづく)


第1412話 2017/06/11

観世音寺・川原寺・崇福寺出土の同笵瓦

 「洛中洛外日記」1399話(2017/05/17)「塔心柱による古代寺院編年方法」において、古代寺院遺跡における塔の心柱礎石の高さや形態が大まかな編年基準として利用できることを紹介しましたが、より具体的な年代は出土した瓦や土器などの相対編年に依らざるを得ません。他方、建立年次などが記された文字史料(縁起書や年代記)などは伝承史料として有力な根拠とされます。
 礎石や瓦などの考古学的史料による相対編年と文字史料による記録年代が一致した場合はかなり有力な説とされますが、これは古田先生が“シュリーマンの法則”と呼ばれたものです。たとえば太宰府の観世音寺の創建年は“シュリーマンの法則”が発揮できた事例です。
 観世音寺の創建は通説では8世紀初頭とされていますが、文字史料としては『続日本紀』には天智天皇の命により造営されたとあり、九州年号史料の『二中歴』には「白鳳」年間(661〜683)、『勝山記』『日本帝皇年代記』には「白鳳10年(670)」の創建と記されています。
 他方、考古学的には創建瓦の老司Ⅰ式が7世紀後半と編年されてきましたので、文字史料と考古学史料が見事に一致しています。瓦の他にも国宝の銅鐘も7世紀末頃、塔心柱の形態も7世紀後半として問題ありません。これこそ古田先生のいわれる“シュリーマンの法則”の好例であり、一元史観の通説よりも「白鳳10年創建」説が有力説ということができます。更に、これとは異なる文字史料の発見(実証)や考古学史料の出土(実証)もなく、年代判定可能な根拠を有する他の有力説がない点でも安定した仮説といえるでしょう。
 このように観世音寺の創建「白鳳10年」説は比較的安定して成立しているのですが、その創建に関わる歴史的事象については、九州王朝研究においても未解明なことが多くあります。「洛中洛外日記」751話(2014/07/24)「森郁夫著『一瓦一説』を読む」で紹介したように、観世音寺創建瓦から飛鳥の川原寺、近江の崇福寺との同笵軒丸瓦(複弁八葉蓮華文軒丸瓦)が出土しているのです。森郁夫著『一瓦一説』には次のように記されています。

 「川原寺の創建年代は、天智朝に入ってからということになる。建立の事情に関する直接の史料はないが、斉明天皇追善の意味があったものであろう。そして、天皇の六年(667)三月に近江大津に都を遷しているので、それまでの数年間ということになる。このように、瓦の年代を決めるのには手間がかかるのである。
 この軒丸瓦の同笵品が筑紫観世音寺(福岡県太宰府市観世音寺)と近江崇福寺(滋賀県大津市滋賀里町)から出土している。観世音寺は斉明天皇追善のために天智天皇によって発願されたものであり、造営工事のために朝廷から工人集団が派遣されたのであろう。」(93ページ)

 九州王朝の都の中心的寺院である観世音寺と近畿天皇家の中枢の飛鳥にある川原寺、そしてわたしが九州王朝が遷都したと考えている近江京の中心的寺院の崇福寺、それぞれの瓦に同笵品があるという考古学的出土事実を九州王朝説の立場から、どのように説明できるでしょうか。あるいは近年、正木裕さんから発表された「九州王朝系近江朝」説ではどのような説明が可能となるのでしょうか。
 これら三寺院の様式は「川原寺式」あるいは「観世音寺式」に分類され、東に塔、西に金堂が配置され、しかも金堂は東面するという共通した様式を持っています。この塔堂配置の一致と同笵軒丸瓦の出土は、偶然ではなく、三寺院が密接な関係を有していたと考えざるを得ません。
 それら寺院の建立年代は、川原寺(662〜667)、崇福寺(661〜667頃)、観世音寺(670、白鳳10年)と推定され、観世音寺がやや遅れるものの、ほぼ同時期とみてよいでしょう。この創建瓦同笵品問題は、7世紀後半における九州王朝と近畿天皇家の関係、正木説「九州王朝系近江朝」を考える上で重要な問題を提起しています。これからの研究課題です。


第1411話 2017/06/03

世界最古の会社「金剛組」の始祖

 「洛中洛外日記」1410話「九州王朝系の老舗」で、現存する世界最古の会社が四天王寺を建立した株式会社金剛組であることに触れましたが、その出自を知りたくてネット検索したところ、微妙に異なる諸説がありましたが、次のような説明が今のところ最も有力なようです。

「朝日新聞デジタル」
ニュース>トピックス>四天王寺に関するトピックス

金剛組(2014年03月29日 夕刊)
 西暦578年の創業と伝わり、帝国データバンクは「把握する限り日本最古の企業」と説明している。日本書紀に「百済に行った使者が僧や造寺工を連れ帰り、難波(大阪)に住まわせた」という趣旨の記述があり、金剛組の系図は「用明天皇の皇太子(聖徳太子)が金剛、早水、永路の3人の大工を召して四天王寺を建立した。この金剛重光が当家の始祖である」と伝える。

 この朝日新聞デジタルの「金剛家系図」に基づく解説によれば、金剛組の始祖は百済から来た「大工」とのことです。そうしますと、当時の倭国(九州王朝)と百済の友好関係から考えると、百済から金剛重光を招来したのはやはり九州王朝と考えてもよいようです。金剛家系図を是非拝見させていただきたいものですが、金剛組か金剛家とお知り合いの方がおられれば、ご紹介いただけないでしょうか。


第1410話 2017/06/01

九州王朝系の老舗

 山形新幹線で東京に向かっています。今回の出張では群馬県の代理店Y社の方とお会いしました。聞けばY社は創業300年の老舗とのこと。江戸時代中頃の享保2年(1717)の創業で、宗家は近江国蒲生郡日野のご出身とのことです。日野には鬼室集斯神社があり、九州年号「朱鳥三年戊子」(688年)銘の墓碑があることでも有名です。
 Y社の方との雑談で、現存する世界最古の会社は、聖徳太子の時代に四天王寺などを建立した株式会社金剛組であることを紹介しました。聖徳太子の時代ですから創業1400年以上になります。金剛組は四天王寺以外にも大和の寺社の建立や修築に関わってきた伝統がありますから、わたしは大和朝廷お抱えの近畿出身の宮大工集団と思ってきたのですが、『二中歴』の九州年号「倭京」の細注に見える「二年 難波天王寺聖徳造」が九州王朝系記事の可能性が高いことから、この難波天王寺を金剛組が建立したのであれば、九州王朝の天子・多利思北孤か太子の利歌彌多弗利が連れてきた筑紫の宮大工だったのかもしれません。「聖徳太子」関連史料をそういう視点で精査すれば、何かわかるかもしれません。
 他方、昭和35年頃まで続いた九州王朝系の企業がありました。太宰府の瓦製造メーカー「平井瓦屋」です。大宰府政庁から出土した瓦に「平井」「平井瓦」という銘文を持つものがあり、平井瓦屋が古代九州王朝の時代まで遡る可能性があるのです。このことを「洛中洛外日記」35話(2005.10.12)「太宰府の平井瓦屋」で紹介したことがあります。古代の太宰府に九州王朝の宮殿の瓦を製造した「平井」という名前の方がおられたということでしょうね。今でも太宰府市あたりにご子孫の平井さんが住んでおられるのではないでしょうか。


第1409話 2017/06/01

5月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 5月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 5月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2017/05/02 『多元』139号のご紹介
2017/05/05 泥憲和さん(元「古田史学の会」会員)のご冥福をお祈りします
2017/05/13 「論証」と「実証」に関する大芝稿
2017/05/18 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念講演会の案内チラシ
2017/05/22 「古田史学の会」会計監査、無事終了


第1408話 2017/05/30

佐藤論文に見える飛鳥編年の脆弱性

 土器の相対編年(様式変遷)などにより10年単位で暦年(絶対編年)が可能とする飛鳥編年(白石説)が、その根拠とした基礎データや『日本書紀』の暦年記事の信頼性が学問的に脆弱であることを、これまでも繰り返し指摘してきました。たとえば「洛中洛外日記」1387話「服部論文(飛鳥編年批判)への賛否を」においても、次の服部さんのメッセージを転載しました。

【服部さんのメッセージの転載】
飛鳥編年でもって七世紀中頃(孝徳期)造営説を否定した白石太一郎氏の論考「前期難波宮整地層の土器の暦年代をめぐって」があります。私はこの白石氏の論考批判を、「古代に真実を求めて第十七集」に掲載してもらったのですが、この内容についてはどなたからも反応がありません。こき下ろしてもらっても結構ですので批判願いたいものです。

 白石氏の論考では、①山田池下層および整地層出土土器を上宮聖徳法王帝説の記事より641年とし、②甘樫丘東麓焼土層出土土器を乙巳の変より645年とし、③飛鳥池緑粘砂層出土土器を655年前後とし、④坂田寺池出土土器を660年代初めとし、⑤水落貼石遺構出土土器を漏刻記事より660年代中から後半と推定して、前期難波宮の整地層と水利施設出土の土器は④段階のものだ(つまり660年代の初め)と結論付けたものです。
氏は①〜⑤の坏H・坏G土器が、時代を経るに従って小径になっていく、坏Gの比率が増えていくなどの差があり、これによって10年単位での区別が可能であるとしています。

 私の論考を読んでいただければ判ってもらえますが、小径化の傾向・坏HおよびGの比率とも、確認すると①〜⑤の順にはなっていないのです。例えば①→②では逆に0.7mm大きくなっていますし、②→③では坏Hの比率がこれも逆に大きくなっています。白石氏のいうような10年単位での区別はできないのです。だから同じ上記の飛鳥編年を用いても、大阪文化財協会の佐藤氏は②の時期とされています。(以下略)

 ※服部静尚「須恵器編年と前期難波宮 -白石太一郎氏の提起を考える-」(『古代に真実を求めて』17集。古田史学の会編、明石書店。2014年)

 前期難波宮孝徳期造営説に対して飛鳥編年を根拠に批判される論者からは、残念ながらまだ服部説への応答がないようです。学問は批判を歓迎し、真摯な論争は研究を深化させるとわたしは考えていますので、服部説への真摯なご批判を期待しています。

 前期難波宮造営時期について、飛鳥編年と難波編年の対立が考古学者間でも続いてきましたが、現在ではほとんどの考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持するに至っていると聞いています。もちろん、学問は「多数決」ではありませんから、その当否・優劣は論証そのものにより決まります。
わたしの前期難波宮九州王朝副都説への批判においても、飛鳥編年を根拠に否定するという論者が見られますが、どちらの編年がより正しいのかが考古学的に論争されてきたのであり、“飛鳥編年によれば難波編年が間違っている”“飛鳥編年によれば660年代となる土器が前期難波宮整地層から出土している”というレベルの批判(循環論法)では、およそ学問論争の体をなしません。
その点、難波編年の妥当性を証明するために、出土「戊申年」木簡(648年)や出土木材の年輪年代測定値(634年)、出土木柱の年輪セルロース酸素同位体比年代測定値(583年、612年)を根拠(実証)に、孝徳期造営説が妥当としてきた大阪歴博や大阪府埋蔵文化財センターの考古学者の説明(論証)の方が合理的で説得力があります。他方、孝徳期造営説を批判する側からは、自説の根拠となる前期難波宮出土物の理化学的年代測定値の提示(実証)は全くありません。こうした両者の提示した実証や論証を冷静に比較したとき、そこには質・量ともに明確な差があり、従って大多数の考古学者が前期難波宮孝徳期造営説を支持していることも当然であり、既に「勝負はついている」と、わたしには思われるのです。
今回、読んだ大阪歴博『研究紀要』15号の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」でも、直接的な表現ではありませんが、随所に飛鳥編年の問題点が指摘されています。たとえば、土器の「法量変化」に関する指摘です。土器の径が時代とともに小さくなることを前提に成立していた飛鳥編年(白石説)に対しては、先に紹介したように服部さんも批判されていますが、佐藤論文にも同様の指摘がなされています。

 「筆者は飛鳥Ⅲを細分する必要性は感じていないが、たしかに飛鳥Ⅱの資料や飛鳥Ⅳの代表例である雷丘東方遺跡SD110などの資料と比べると、後者との様相差がより小さく見える(図4)。その内容としては、飛鳥Ⅲ・Ⅳでは土師器・須恵器ともに坏A・Bが定型化すること、土師器坏Cの器高がこの間に低下していくこと、いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなることなどである。」(8頁)

 わたしは「いったん極限まで縮小した須恵器坏Gの法量が再び大きくなる」という部分を読み、図4を確認したところ、佐藤さんの指摘通り、より新しく編年されている飛鳥Ⅲ・Ⅳの須恵器の方が飛鳥Ⅱよりもかなり大きいのです。わたしも、土器(主に須恵器)の径は時代が下がるとともに小型化するという飛鳥編年の基本テーゼは信用していましたので、佐藤論文の指摘にとても驚きました。考古学の土器編年を、もっと勉強しなければならないと深く反省しました。


第1407話 2017/05/28

前期難波宮の考古学と『日本書紀』の不一致

 大阪歴博『研究紀要』15号の佐藤隆さんの論文「難波と飛鳥、ふたつの都は土器からどう見えるか」を何度も読み返しています。興味深い出土事実や『日本書紀』の記事との関係についての指摘が記されているのですが、次の点は特に重要と思われました。

 「考古資料が語る事実は必ずしも『日本書紀』の物語世界とは一致しないこともある。たとえば、白雉4年(653)には中大兄皇子が飛鳥へ“還都”して、翌白雉5年(654)に孝徳天皇が失意のなかで亡くなった後、難波宮は歴史の表舞台からはほとんど消えたようになるが、実際は宮殿造営期以後の土器もかなり出土していて、整地によって開発される範囲も広がっている。それに対して飛鳥はどうなのか?」(1〜2頁)
 「難波Ⅲ中段階は、先述のように前期難波宮が造営された時期の土器である。続く新段階も資料は増えてきており、整地の範囲も広がっていることなどから宮殿は機能していたと考えられる。」(6頁)
 「孝徳天皇の時代からその没後しばらくの間(おそらくは白村江の戦いまでくらいか)は人々の活動が飛鳥地域よりも難波地域のほうが盛んであったことは土器資料からは見えても、『日本書紀』からは読みとれない。筆者が『難波長柄豊碕宮』という名称や、白雉3年(652)の完成記事に拘らないのはこのことによる。それは前期難波宮孝徳朝説の否定ではない。
 しかし、こうした難波地域と飛鳥地域との関係が、土器の比較検討以外ではなぜこれまで明瞭に見えてこなかったかという疑問についても触れておく必要があろう。その最大の原因は、もちろん『日本書紀』に見られる飛鳥地域中心の記述である。」(12頁)

 この佐藤さんの指摘は革新的です。孝徳天皇が没した後も『日本書紀』の飛鳥中心の記述とは異なり、考古学的(出土土器)には難波地域の活動は活発であり、難波宮や難波京は整地拡大されているというのです。
 この現象は『日本書紀』が記す飛鳥地域中心の歴史像とは異なり、一元史観では説明困難です。孝徳天皇が没した後も、次の斉明天皇の宮殿があった飛鳥地域よりも「天皇」不在の難波地域の方が発展し続けており、その傾向は「おそらくは白村江の戦いまでくらい」続いたとされているのです。この考古学的事実こそ、前期難波宮九州王朝副都説に見事に対応しているのではないでしょうか。孝徳の宮殿は前期難波宮ではなく、恐らく北区長柄豊崎にあった「長柄豊碕宮」であり、その没後も九州王朝の天子(正木裕説では伊勢王「常色の君」)が居していた前期難波宮と難波京は発展し続けたと考えられるからです。そしてその発展は、佐藤さんによれば「白村江戦(663年)」のころまで続いたとのことですから、九州王朝の白村江戦での敗北により難波副都は停滞を始めたと思われます。
 わたしはこれまで難波編年の勉強において、土器様式の変遷に注目してきたのですが、佐藤さんは土器の出土量の比較変遷にも着目され、その事実が『日本書紀』の飛鳥地域中心の記述と「不一致」であることを指摘されました。難波を自ら発掘されている考古学者ならではの慧眼と思います。そして佐藤さんが指摘された考古学的出土事実こそ、わたしの前期難波宮九州王朝副都説と最もよく対応しているのではないでしょうか。
 佐藤さんは論文のまとめとして次のように記されています。

 「本論で述べてきた内容は、『日本書紀』の記事を絶対視していては発想されないことを多く含んでいる。筆者は土器というリアリティのある考古資料を題材にして、その質・量の比較をとおして難波地域・飛鳥地域というふたつの都の変遷について考えてみた。」(14頁)

 考古学者ならではの鋭い指摘と言わざるをえません。土器による相対編年以外にも、出土干支木簡や出土木材の年輪年代測定、出土木柱の理化学的年代測定という絶対編年の参考となる「実証」に基づいて難波編年を作り上げてきた大阪の考古学者たちに対して、『日本書紀』孝徳紀の記事を盲信したものと非難する論者もありますが、その非難が失当であることは、この佐藤論文からも明らかと言えるでしょう。