第1531話 2017/11/02

古田先生との論争的対話「都城論」(1)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』を読んで、わたしのことに触れられた箇所がいくつかあるのですが、中でも次の部分は学問的にも貴重で懐かしく当時のことを思い出しました。古田先生の三回忌も過ぎましたので、ご紹介したいと思います。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。」(223頁)

 ここで書かれているように、古田先生とは様々なテーマで意見交換や学問的討議、ときに激しい「論争的」応答もしてきました。わたしも先生も負けず嫌いな性格でしたので、先生のご自宅や電話で長時間論争したこともありました。ただし、わたしは終始一貫して敬語で応答しました。それは「師弟」間の礼儀ですし、31歳のとき古田史学に入門以来、何よりもわたしは古田先生を尊敬してきたからです。その気持ちは今でもまったく変わりありません(師弟間〔坂本太郎さんと井上光貞さん〕の学問論争のあり方について、古田先生から興味深いお話と関係論文をいただいたことがあるのですが、そのことは別の機会にご紹介します)。
 その「論争的」対話の一つに九州王朝や大和朝廷の都城論がありました。中でも最も長期間の応答が続いたのが、前期難波宮九州王朝副都説についてでした。大阪市中央区法円坂で発見された7世紀中頃の巨大宮殿「前期難波宮」を通説通り近畿天皇家の孝徳の宮殿とすることに疑念を抱いたわたしは、それを九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)を古田先生に話したことがありました。論文発表よりもかなり前のことでした。
 もちろん、古田先生は賛成されませんでしたが、それ以後、古田先生の反対意見に答えるべく10年間にわたり論文を発表し続けました。古田先生以外から出された反対意見に対しても、これでもかこれでもかと執念の研究と発表を続けたのです。そして2014年の八王子セミナーの席上で、ついに古田先生から「検討しなければならない」の一言を得るに至ったのです。もちろん、古田先生がわたしの説に賛成されたわけではありませんが、それまでの「反対意見表明」ではなく、検討すべき仮説の一つとして認めていただいたもので、その日の夜、わたしはうれしくてなかなか眠れませんでした。(つづく)


第1530話 2017/11/01

10月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 10月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《10月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2017/10/04 『東京古田会ニュース』No.176のご紹介
2017/10/05 難波京の朱雀大路発見について
2017/10/15 古田学派三団体で懇親会開催
2017/10/25 桂米團治さんからのご厚情
2017/10/26 橘高修著『古代史エッセー』贈呈される
2017/10/28 資料提供のお礼
2017/10/31 岡田甫先生のご子息紹介


第1529話 2017/11/01

11月13日改訂しました。

『古田武彦の古代史百問百答』百考(6)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」において、古田先生は白村江戦の敗北後に唐軍の筑紫進駐により、九州王朝(倭国)は太宰府の「紫宸殿」を離れ、伊豫の「紫宸殿」に遷都したとする新説を提起されました。この新説と従来の古田説とは相容れない重要な問題があります。このことについて説明します。
 『日本書紀』天智紀によれば、白村江戦(663)の敗戦後、本格的な唐の筑紫進駐は天智八年是年条(669)に見え、約2000人の唐軍が派遣されたと記されています。天智10年11月条(671)にも2000人の派遣が記されています。これらも含めて天智紀には計5回の唐人「来日」が記されています。従って古田新説に依るならば、九州王朝の天子「斉明」の伊豫遷都は669年以前のこととなります。こうした理解に立つと、従来の古田説と徹底的に矛盾することがあります。それは「庚午年籍」はどこの誰により造籍が命じられたのかという問題です。この点について、従来の古田説が『古田武彦の古代史百問百答』「39 『近江遷都論』について」で次のように記されています。

 「すなわち、問題の『庚午年籍』が、大量に集中出土しているのは、『近江諸国』ではなく、筑紫諸国なのです。
 いわゆる『近江令』なるものに対して、
 (甲)近江令を中心とし、そこで発令されたもの--『通説』
 (乙)筑紫を中心とし、そこから発令されたもの。--これは九州王朝の史実からの『移用(盗用)』である。これがわたしの立場です。」(233頁)

 このように庚午年籍は近江令により造籍されたのではなく、筑紫を中心としてそこから出された筑紫令により造籍されたことになると説明されています。このように従来の古田説では庚午年籍の造籍は九州王朝が筑紫で発令したとされていたのですが、古田新説では庚午年籍が造籍された庚午(670)の年は既に唐軍が筑紫進駐しています。そのとき九州王朝の天子「斉明」は伊豫の紫宸殿に逃げていたとされており、筑紫で造籍を発令することなどできないのです。
 古田先生が指摘されているように、実際は筑紫諸国の庚午年籍は造籍されており、そうすると古田新説によれば筑紫に進駐した唐軍の制圧下で筑紫諸国の庚午年籍が造籍されたという奇妙なことになってしまいます。それほど九州王朝の造籍に協力的で理解のある唐の進駐軍であれば、「斉明」は太宰府を捨てて伊豫に遷都する必要などないからです。
 なお、庚午年籍は全国的規模で造籍されたことが、後代史書の記述から明らかとなっています。造籍事業とは単に各国に造籍を命じるにとどまらず、完成した諸国の戸籍を中央官庁に集め管理保存する必要があります。従って、そうした官僚群を収容する官衙も必要で、「紫宸殿」だけあればよいというものでもありません。ちなみに、670年(庚午年)頃の造籍事業と全国戸籍の管理保存が可能と推定できる宮殿と官衙遺跡は、日本列島内では太宰府、前期難波宮、近江大津宮の存在が知られています。
 古田先生がこの新旧の自説が持つ「庚午年籍の矛盾」に気づかれていたか否かは、今となってはわかりませんが、少なくとも古田新説(白村江戦後の伊豫遷都説)にはこの矛盾の解決が求められるでしょう。
 なお、古田先生が主張された筑紫諸国の庚午年籍の大量「出土」という表記については、「洛中洛外日記」1377話『古田武彦の古代史百問百答』百考(2)で論及しましたので、ご参照ください。


第1528話 2017/10/31

『古田武彦の古代史百問百答』百考(5)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」での次の質問に対する古田先生の回答について今回は説明します。

 「質問 斉明天皇は九州王朝の天子だったといわれますが、『日本書紀』の編者はなぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」

 この質問は『日本書紀』に付記された漢風諡号への「誤解」に基づいているのですが、古田先生はこの「誤解」には触れられず次のように回答されています。

 「斉明は九州王朝の天子です。松山にはサイミョウという名前で地名が残っていると合田さんが言っておられますが、(中略)これをみても斉明は南朝と関係をもった九州王朝の天子だった証拠になります。
 もう一つ重要なことは、これも合田さんによって紹介されましたが、伊豫に紫宸殿という地名が、残っているということです。」
 「我々には紫宸殿は太宰府の場所にあったことは知られてます。しかし、あそこは唐の軍隊が入って来ました。入って来てなおかつ紫宸殿と呼ぶはずがない。白村江以後において太宰府の紫宸殿の地名は消滅したと見なければならない。」
 「飛躍して言うと白村江以前の紫宸殿が太宰府。白村江以後の紫宸殿が伊豫に移っている、ということになるのではないでしょうか。そういう意味でこれをはめ込まなければならなかったという理由があります。」

 この古田先生の回答は「なぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」という質問に直接答えたものではありません。なぜなら九州王朝の天子の紫宸殿の移動があったとしても、「斉明」という九州王朝の天子の名前を、淡海三船が漢風諡号として『日本書紀』斉明紀に付記しなければならない理由の説明にはなっていないからです。
 しかし、7世紀後半における九州王朝史研究の新たな仮説を提示されたもので、従来の古田説と異なっており、興味深いものです。このように従来の自説と異なる新仮説の発表こそ、古田先生らしい果敢に挑戦される学問的姿勢です。
 この古田新説は、白村江戦の敗北後に唐軍の筑紫進駐により、九州王朝(倭国)は太宰府の「紫宸殿」を捨てて伊豫の「紫宸殿」に遷都したとするもので、従来の九州王朝研究には無かった視点です。それではこの新説が従来の古田説とどのように相違し、どのような問題点が発生するのかについて見てみることにします。なお、伊予における字地名「さいみょう」についての考察を「洛中洛外日記」969話「みょう」地名の分布に記していますので、ご参照ください。(つづく)


第1527話 2017/10/30

『古田武彦の古代史百問百答』百考(4)

 半年ぶりに「『古田武彦の古代史百問百答』百考」シリーズを再開します。『古田武彦の古代史百問百答』はファンや読者などからの質問に答えるという形式でテーマ別に編集されており、その時々の古田先生の意見の変化や問題意識のあり方などにも触れることができる好著です。そのために従来の見解と新たな見解に矛盾や非対応も散見されるのですが、古田史学の発展段階を知ることができ、むしろ同書の特徴と言ってもよいかもしれません。同書編集を担当された東京古田会の優れた業績の一つでしょう。
 他方、「誤解」に基づいた質問とその「誤解」を前提とした回答も見られ、読者としてはちょっと用心してかからなければならないケースもあります。いわゆる学術論文ではなく、読者との質疑応答という読みやすさの追求と、そのときどきの認識に基いた古田先生の回答という同書の性格からすれば仕方がないのかもしれません。先生の三回忌が過ぎたこともあり、特に学問上重要な「誤解」について説明することにします。
 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」で次のような質問がなされています。

「質問 斉明天皇は九州王朝の天子だったといわれますが、『日本書紀』の編者はなぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」

 この質問の背景には、古田先生が晩年に主張された仮説で、『日本書紀』の皇極と斉明は別人であり、斉明天皇は九州王朝の天子「斉明」のこととされたことがあります。そこで、質問者は九州王朝の存在を隠している『日本書紀』に何故九州王朝の天子の名前で斉明紀が記されたのかという疑問をもたれたものと思われます。
 この質問の趣旨や動機はよく理解できるのですが、実は複雑で大きな「誤解」が入り交じっています。それは次のような点です。わかりやすくするために箇条書きにします。

 ①『日本書紀』の神武天皇以降の一般的に称されている「○○天皇」の「○○」という漢字二字の呼称は漢風諡号と呼ばれ、『日本書紀』成立(720)の数十年後に淡海三船(722~785)により付記されたものと考えられています。ですから「斉明」も『日本書紀』編者が命名した天皇名ではなく、編纂時の『日本書紀』に記されていたものでもありません。
 ②「皇極」も同様に淡海三船が命名した漢風諡号で、『日本書紀』の皇極紀と斉明紀に記された天皇の和風諡号は共に「天豊財重日足姫天皇(あまとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)」で、同一人物として記されています。
 ③従って、もし皇極紀と斉明紀に記された天豊財重日足姫天皇がそれぞれ別人であると認識して、漢風諡号を「皇極」と「斉明」とに書き分けたとするのであれば、それは『日本書紀』編者ではなく淡海三船が行ったということになります。
 ④諡号とは死後の謚(おくり名)ですから、同一人物に二つの諡号があるのは不自然です。ですから、『日本書紀』編者が皇極紀も斉明紀も同一の和風諡号「天豊財重日足姫天皇」を記しているのは当然です。
 ⑤他方、『日本書紀』には九州王朝の事績が転用(盗用)されていることを古田先生は指摘されていまから、斉明紀に九州王朝の記事がはめ込まれている可能性は大です。例えば「狂心の渠」説話など。
 ⑥従って質問の意図が、「斉明」という名称も九州王朝の天子の名前のはめ込みと理解しての質問なのか、斉明紀の記事に九州王朝の事績のみがはめ込まれているとしての質問なのかという問題があります。おそらくは前者の理解に立った質問と思われます。
 ⑦そうだとすれば、質問者は「斉明」という漢風諡号が『日本書紀』編者により編纂当初から記されたと「誤解」されていることになります。

 以上のように少々ややこしい背景と問題認識がうかがわれる質問なのです。(つづく)


第1526話 2017/10/29

白村江戦は662年か663年か(4)

 白村江戦年次に関する論争の経緯と古田先生の見解の推移についてご紹介してきましたが、最後に現在の研究状況とわたしの見解について説明することにします。
 白村江戦年次に関わる研究や論争が「古田史学の会」関西例会でも行われてきたのですが、それらを踏まえた上で、わたしは『日本書紀』にある通り、663年(天智二年・龍朔三年)でよいと考えています。それは次のような理由からです。

1.白村江戦を記録した現存最古の史料は『日本書紀』(720年成立)であり、この件については最も史料の信頼性が高い。その理由は次の通り。

 ①白村江戦を戦った当事者(九州王朝・倭国)の配下の勢力だった近畿天皇家により編纂されており、白村江戦の記憶も記録も存在していたと考えられる。
 ②もし白村江戦が662年であったとしたら、その記事を663年にずらさなければならない理由が近畿天皇家にはない。
 ③『日本書紀』の一連の記事において白村江戦の年次に不審とすべき点は見あたらない。
 ④白村江戦等で捕虜となった人物(大伴部博麻ら)が、敗戦の30〜40年後に帰国した記事が『日本書紀』や『続日本紀』に見え、その後に『日本書紀』は成立していることから、こうした帰国者からの情報も近畿天皇家は入手可能である。

2.以上のように、『日本書紀』の白村江戦年次に関する記事を疑わなければならない理由はなく、信頼して良い。比べて海外史書も次のように白村江戦を龍朔三年(663)としている。あるいは年次を特定していない。

 ①『旧唐書』「劉仁軌列伝」(945年成立)には、顯慶五年に始まる、高宗征遼時の仁軌の一連の事績が顯慶五年(660)以下に記され、「仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷」とあるが年月は未記載。その次は麟徳二年(665)の封禅の儀における事績を記す。従って、白村江の年次は660〜664年の間であることはわかるが、その間のいずれであるかは特定できない。
 ②『旧唐書』「東夷・百済条」には龍朔二年(662)七月から唐への帰還までの記事中に「仁軌遇扶余豐之衆于白江之口,四戰皆捷」とあり、その次の記事は麟徳二年八月。従って白村江戦の年次は特定できない。
 ③『新唐書』(1060年成立)本紀には龍朔三年(663)に「九月戊午,孫仁師及百濟戰于白江,敗之。」とあり、白村江戦を龍朔三年(663)とする。
 ④『三国史記』「新羅本紀」(1145年成立)には「至龍朔三年 總管孫仁師 領兵來救府城 新羅兵馬 亦發同征 行至周留城下 此時 倭國船兵 來助百濟 倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船」とあり、白村江戦は龍朔三年(663)と理解できる。
⑤『三国史記』「百済本紀」には龍朔二年(662)七月以降の記事に「遇倭人白江口 四戰皆克」とある。次の記事は麟徳二年(665)なので、白村江戦の年次を特定できない。

 以上のように、『日本書紀』も海外史料も白村江戦は663年であることを示しており、積極的に662年を指示する、あるいは確定できる史料はありません。ですから、古田先生が662年説から663年説を受容する見解に変わられたこともよく理解できるのです。


第1525話 2017/10/29

白村江戦は662年か663年か(3)

 ある頃から古田先生は白村江戦の年次を663年と言われるようになったのですが、そうした先生の認識の「揺らぎ」が『古田武彦の古代史百問百答』にも現れています。

 「九州年号の『白鳳』は白村江戦の前年(六六一)に発布されたものですが、その敗戦という一大変事を“通して”存続しています。しかも、二十三年間。敗戦(六六二もしくは六六三)からも、約二十年間の存続です。」(ミネルヴァ書房版〔2015年〕170頁、東京古田会版〔2006年〕76頁)

 このように、白村江戦を六六二年あるいは六六三年と両論の可能性を示唆する表現がなされています。更に遡った2000年1月22日の大阪市での講演会では次のように発言されています。

 「それで顕慶五年(六六〇年)を持統八年に当てはめて、九年・一〇年・十一年と年を追って持統天皇吉野宮行幸の記事を当てはめていきますと、最後の吉野宮行幸が持統十一年四月十四日になっていました。それが龍朔三年(六六三年)四月に当たるわけです。つまり「丁亥」を顕慶五年(六六〇年)という定点にしますと、後同じバランスで見ていきますと、最後の持統十一年四月十四日は、実際は龍朔三年四月十四日ということになるわけです。ところがその年の八月か九月のところで、白村江の戦いが行われる。逆に言うと白村江の戦いが行われたその年の三・四カ月前までは、吉野へ行っている。ところが白村江の戦い以後は行っていない。そういう形になる。」(古田武彦講演会「壬申の乱の大道」、古田史学の会HPに掲載)

 1990年代中頃から、『旧唐書』百済伝の記事からは白村江戦の年次を特定できないとする丸山さんの主張を支持する意見が古田学派内でも発表されるようになり、古田先生の見解にも変化が現れてきたように思います。(つづく)


第1524話 2017/10/28

白村江戦は662年か663年か(2)

 従来、一元史観の通説でも白村江戦は『日本書紀』の記事などを根拠に天智二年(663)のこととされてきました。ところが古田先生が『旧唐書』百済伝を根拠に662年(龍朔二年)とする説を発表されました。『旧唐書』には白村江戦の記事は本紀には見えず、百済伝に記されているのですが、その倭国・百済と唐・新羅の戦いを記した一連の記事の冒頭に「(龍朔)二年」(662)とあり、その記事の後半部分に白村江戦が記されています。このことから、古田先生は白村江戦の年次を662年とされたのです。
 それに対して丸山晋司さんは、同記事は「(龍朔)二年」から始まってはいるが、その次の記事は麟徳二年(665)であり、龍朔二年に始まる記事全てが龍朔二年内とはできないとされ、『旧唐書』の他の列伝記事(黒歯常之伝など)の記述を根拠に、白村江戦は『日本書紀』と同年の663年であると、古田説を批判されました。以後、古田先生と丸山さんは激しく論争されました。
 両者の見解は対立したままでしたが、古田学派内では古田説を「是」とする意見が多数を占めたように思われ、その傾向が長く続きました。ところが、あるとき古田先生も『旧唐書』百済伝の「(龍朔)二年」に始まる記事が全て同年内とは断定できないが、「龍朔二年」の出来事と見えるように記されているという見解を表明されました。これは事実上、丸山さんの指摘を受け入れたことになるのですが、年次としては662年説を主張されました。
 ところが、その論争から10年近くたった頃と思いますが、突然古田先生は白村江戦の年次を663年と言われるようになりました。驚いたわたしは先生に問い質したところ、『日本書紀』を対象としたテーマでは『日本書紀』の記述通り白村江戦は663年でよいと返答されました。当時、わたしは今一つ先生の言われることを理解できませんでしたが、言われるとおりに『日本書紀』を対象とした論稿では663年とすることにしました。(つづく)


第1523話 2017/10/27

白村江戦は662年か663年か(1)

 10月15日に東京家政学院大学で開催した講演会で、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)が唐と倭国が戦った白村江戦の年次を663年とされたことについて、参加者から問い合わせのメールをいただきました。「古田史学の会は白村江戦を663年と認めているのか」という趣旨のご質問でした。
 正木さんからは研究団体である「古田史学の会」が特定の説を「公認」するということはありえず、仮説はそれぞれの研究者が自らの見解として発表するものであると返答をされ、正木さんとしては663年説とのことでした。
 このご質問の背景には、古田先生が『旧唐書』百済伝を根拠に白村江戦を662年とされたことがあり、古田学派としてはその662年説を「是」としてきたとの認識によられたものと思います。このテーマは約30年ほど前から始まった論争ですが、当時やその後の経緯をご存じない方が多数となったようで、改めて月日の流れを感じました。
 わたしは同論争を間近で見てきており、当事者からも直接ご意見を聞いてきました。記憶が不鮮明にならないうちに、この問題の経緯と現在の研究状況についてご説明したいと思います。まず、白村江戦年次についての古田先生の理解や経緯について、わたしは次のように記憶しています。

1.25〜30年ほど以前に、『旧唐書』百済伝を根拠に古田先生は白村江戦を662年(龍朔2年)とされた。
2.丸山晋司さんが、『旧唐書』各伝の史料分析の結果から、古田先生の読解は誤っており、白村江戦を『日本書紀』の記述通り663年(天智2年、唐の龍朔3年)とされ、古田先生との間で論争が発生した。
3.その過程で、丸山さんの主張の一部を事実上認める発言を古田先生がされた。
4.その後、古田先生から『日本書紀』を対象としたテーマでは白村江戦を663年でよいとする発言があった。

 上記の正確な時期については、残された資料を調べてみないと確定できませんが、こうした経緯をわたしは当事者の古田先生や丸山さんから直接聞いてきました。(つづく)


第1522話 2017/10/26

富山県に多い「野」さん

 「洛中洛外日記」1507話で現代日本の「野」地名として岐阜県揖斐郡大野町の字地名「野(の)」を紹介しました。それを「洛洛メール便」で読まれた御婦人(古田史学の会・会員)が、10月15日に東京家政学院大学で開催した講演会に見えられ、講演後に次のようなことを教えていただきました。
 その御婦人の友人に「野(の)」さんがおられ、北海道在住の方だがご先祖は富山県の出身とのこと。確かに北陸地方には珍しい姓の方がおられることは知っていましたが、「野」一字の姓があることは知りませんでした。ネットで調べると確かに「野」さんは富山県が最多のようでした。なぜ「野」さんが富山県に多いのかなど興味は尽きませんが、わたしの「洛中洛外日記」が多くの方にご注目いただき、こうした新情報が寄せられることに感謝しています。


第1521話 2017/10/22

「桐原氏念書」の疑念

 昨日、「古田史学の会」関西例会がドーンセンターで開催されました。11月・12月もドーンセンターです。今日は台風が近づく中での衆院選投票日です。
 例会では、水野顧問から安本美典著『邪馬台国全面戦争 捏造の「畿内説」を撃つ』が紹介されました。同書では、古田先生が和田家文書偽作に荷担(古文書捏造)したとする事実無根の中傷がなされており、その「証拠」として「桐原氏念書」なるものなどが掲載されていました。以前にも同じものが『季刊邪馬台国』誌に掲載されたことがありますが、古田先生が亡くなられたこのタイミングで再掲載されたものと思われます。
 わたしは古田先生とともに桐原氏とは二度京都でお会いしたことがあります。一度目は京都タワーホテルの会議室を借りて、ビデオ録画機材などを持ち込んで長時間にわたり面談しました。水野顧問(当時、古田史学の会・代表)も同席されました。二度目は京都駅前の阪急ホテルのレストランで、桐原氏の娘さんも同席されました。これらの経緯については別途詳述したいと思いますが、今回の和田家文書偽作依頼の証拠とされた「桐原氏念書」なるものも奇妙な内容で、そこには「レプリカ作成」を依頼されたと記されており、「偽作依頼」や「古文書捏造」などとはされていません。このワープロ書きされた「念書」の「自筆署名」部分を桐原氏は自分が書いたものではないと面談では主張されていました。いずれにしても「レプリカ作成依頼」が安本氏の著書では「古文書捏造」へと変質しており、かなり悪質な情報操作と言わざるを得ません。「古田史学の会」としてどのように対応するのか、無視するのかも含めて検討が必要かもしれません。
 この他にも多彩な研究報告が続きましたが、中でも原幸子さんの住吉大社(住吉神)に関する多方面からの調査研究は、九州王朝(倭国)の近畿への進出過程を復元する上で重要な切り口となるかもしれません。これまでの研究成果を整理して、『古田史学会報』への投稿を要請しました。
 大原さんは例会初発表でした。木佐敬久氏の著書の紹介でしたが、わたしは同書を書店で立ち読みしただけでしたので、その内容をより詳しく知ることができました。藤田さんは野田利郎さん(古田史学の会・会員、姫路市)の著書への批判を試みられました。堪能な中国語を交えての発表には驚きました。
 10月例会の発表は次の通りでした。このところ参加者が増加していますので、発表者はレジュメを40部作成してくださるようお願いいたします。また、発表希望者も増えていますので、早めに西村秀己さんにメール(携帯電話アドレスへ)か電話で発表申請を行ってください。

〔10月度関西例会の内容〕
①三国志は何故「倭人」なのか(高松市・西村秀己)
②『魏志』倭人伝 行程についての再考察(奈良市・出野正)
③木佐敬久氏の「かくも明快な魏志倭人伝」を読んでの感想、紹介(大山崎町・大原重雄)
④なかったとされた「住吉神領」(奈良市・原幸子)
⑤安本美典氏『邪馬台国全面戦争 捏造の「畿内説」を撃つ』掲載「桐原氏念書」について(奈良市・水野孝夫)
⑥仏教と神道の棲み分けと十七条憲法(八尾市・服部静尚)
⑦「台湾史料」探索・後日談(神戸市・谷本茂)
⑧県(縣)と評と郡の関係をめぐって(神戸市・谷本茂)
⑨「南與倭接」を考える -野田説批判-(宝塚市・藤田敦)
⑩近畿王朝内における歴史の改ざん(茨木市・満田正賢)
⑪九州王朝(倭国)の四世紀〜五世紀にかけての半島進出(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 筑紫土塁主要部の取り壊し決定・『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念福岡(10/08)、東京(10/15)の報告。続いて松本市(11/14)で開催(邪馬壹国研究会・松本と共催)・新入会員情報・「誰も知らなかった古代史」(森ノ宮)の報告と案内(10/27「難波宮の官衙に官僚約八千人」服部静尚さん)・会費納入状況・「古田史学の会」関西例会の会場、11月・12月(ドーンセンター)の連絡・1月「古田史学の会」新春講演会(i-siteなんば)・会員の活動状況報告・市大樹さんの講演会聴講報告・その他


第1520話 2017/10/22

秩父神社棟札の九州年号「明要」

 先の東京講演会の前日、東京古田会の勉強会に参加させていただきました。テーマは記紀歌謡と和田家文書研究で、「古田史学の会」関西例会ではほとんど扱われないジャンルでもあり、よい勉強になりました。中でも安彦克己さん(港区)による和田家文書の記載内容を現地調査で確認するという研究報告はとても素晴らしいものでした。いつか、和田家文書をテーマとした書籍を安彦さんと共同で発行したいと強く思いました。
 その安彦さんから回覧された史料に『新編武蔵風土記稿』の「秩父神社」の棟札が記された部分があり、興味深く拝見しました。同史料に九州年号「明要」が見えることは知っていましたが、見るのは初めてでした。棟札の九州年号部分は次のような内容です。

(表)合奉造武州秩父郡武光名大宮妙見大菩薩御社檀一宇檜皮葺成就畢[中略]

(裏)右当社開基者仁王三十代 欽明天皇御宇、明要六年丙寅奉祝、 以而来至今天正廿年壬辰一千四十六年也[中略]當初明要六年開基以来天正弐拾年壬辰迄一千四十六年也[後略]

 この棟札は天正二十年(一五九二)に社殿を造立したときに作成されたもので、同社開基を明要六年(五四六)と記した貴重な史料です。秩父神社の創建年代については諸説ありますが、九州年号「明要」による記録は貴重です(「天武天皇白鳳四年の鎮座」とする記事も見えます)。秩父神社についての研究も機会があれば挑戦したいものです。

《参考資料》
 新編武蔵風土記稿 巻之二百五十五 秩父郡之十
大宮郷
妙見社
下町続にあり、 当社は【延喜式】神名帳に載たる、本郡二座の一秩父神社なり、 人皇四十代天武天皇白鳳四年の鎮座にして、 祭神は当国国造の祖知々夫彦命とも、大己貴尊とも云、 又当社天正二十年の棟札の裏書に、欽明天皇御宇、明要六年丙寅鎮座とあり、明要は逸号なれば、丙寅は即位より七年に当れり、 当今の縁起には、大和国三輪大明神を写など記して、其説定かならず、按に【国造本紀】瑞籬朝御世八意思兼命十世孫知々夫彦命、定賜国造拝詞大神と據れば、崇神の朝国造を置玉ひし時より、国神の祀らしめられしなれば、祭神大己貴命なること疑ひなかるべし、 然に後年知々夫彦命の霊をも配せ祀りしかば、両説となりしにあらずや、 三輪を写せしと云は、いかなる據にや詳ならず、又当今妙見社と号するものは、後年社内に北辰妙見社を勧請して、霊験著しかりければ、終に妙見の名盛に行はれて、本社の旧号は失ひしなるべし、
[中略]
神体白幣を置、社伝云、中古までは末社も七十五宇建てたりしに、兵乱の為に焼亡せられ、神田も掠め奪はれ、神殿瑞籬のみ纔に存せしを、五十七石の神領を御寄附ありしより、神事祭礼旧に復すと云、毎年二月三日祈年の祀り、八月二十三日年穀の祭、十一月三日麦穀の祀りにて、近郷つどひてことに賑はへり、
按に当所へ妙見を勧請せしことは、千葉系譜に據に、天慶年中平高望の五男、村岡五郎良文常陸の国香、下野国染谷川の辺にて、平将門と合戦の時、国香が加勢としてはせ向ひ、難なく将門を追退けし頃奇瑞有し故、良文里老を招て此辺に霊験の神社ありやと問ひければ、里老答て上野国群馬郡花園村に、妙見菩薩の霊場ありと云、夫より良文同国緑野郡平井へ赴き、秩父へ居を移しせし時、彼花園の妙見を当地へ勧請し、其後又良文下総国千葉へ転ぜし時、当所の妙見を彼国へ勧請すといへり、
[中略]
本社 南向一丈七尺余に一丈九尺余、高二丈七尺八寸、前に幣殿り、一丈二尺に一丈八尺、高一丈八尺五寸、拝殿三丈六尺に一丈八尺余、高二丈三尺余唐破風作なり、
鳥居 木にて造る、南向柱間二丈、拝殿距ること四十三間程、此間切石を敷けり、社地には檜・杉生茂り、又大樫など若干株あり、此鳥居内にある末社下に記す、当社棟札左の如し、

合奉造武州秩父郡武光名大宮妙見大菩薩御社檀一宇檜皮葺成就畢
[中略]
右当社開基者仁王三十代 欽明天皇御宇、明要六年丙寅奉祝、 以而来至今天正廿年壬辰一千四十六年也
[中略]
御本事 薬師如来 脇持多門天座像一尊者、甚秘故不顕之、

東照宮御社 本社東南隅にあり
知々夫彦社 天照太神社 日御崎社 豊受太神社
七十五末社 本社の後ろより、少し左右へ折廻し、一棟にて七十五座区別す、片倉明神社 由留伎明神社 伊雑波明神社 羽野明神社 阿野権現社 多戸明神社 中原明神社 多賀明神社 枚岡明神社 大鳥明神社 住吉明神社 敢国明神社 都波岐明神社 伊射波明神社 熱田明神社 事麻知明神社 浅間明神社 三島明神社 寒川明神社 洲崎明神社 玉前明神社 香取大神宮 鹿島大神宮 南宮明神社 水無明神社 諏訪明神社 抜鉾明神社 二荒山明神社 都々古和気明神社 大物忌明神社 遠敷明神社 気比明神社 白山明神社 気多明神社 伊夜彦明神社 渡津明神社 天神地祇社 出雲明神社 籠守明神社 宇倍明神社 倭文明神社 物部明神社 由良姫明神社 仲山明神社 吉備明神社 厳島明神社 玉裡明神社 日前明神社 大麻彦明神社 田村明神社  都佐明神社 筥崎明神社 高良玉垂明神社 西寒田明神社 淀姫明神社  阿蘇明神社 和多積明神社 松尾明神社 吉田明神社 戸隠明神社 丹生明神社 貴布禰明神社 広瀬明神社 龍田明神社 正八幡宮  粟島明神社 恩智明神社 斯香明神社 熊野権現社 水尾明神社 白鬚明神社 御崎明神社 石出明神社 賀茂明神社 許波明神社