第1382話 2017/05/04

「倭の五王」の都城はどこか(1)

 古田先生と論争的意見交換を続けたテーマの一つに、五世紀の「倭の五王」時代の都はどこかという問題がありました。二人の間でもっとも激しく論争したテーマの一つでしたので、当時のやりとりを今も鮮明に記憶しています。
 『宋書』倭国伝に記された「倭の五王」が中国南朝から都督を任じられていることから、その時代の九州王朝の都を「都府楼」(都督府の宮殿の意)の名称が現存する太宰府(大宰府政庁Ⅰ期)と、古田先生は当時考えておられました。
 それに対して、わたしは、大宰府政庁Ⅰ期の堀立柱遺構は規模が貧弱であり倭王の宮殿とみなすのは無理、かつ出土土器編年から見ても五世紀には遡らないと説明しました。それでも納得されない先生は「それでは倭の五王の都はどこだと考えているのか」と詰問され、「わかりません」と答えると、「だいたいでもよいからどこだと考えているのか」と質されるので、「筑後地方ではないかと思います」と返答しました。もちろんこの答えでも古田先生は納得されず、論争が続きました。結局、両者合意をみないままとなりましたが、『古田武彦の古代史百問百答』では「倭の五王」時代の都の所在地には触れられていませんから、晩年はどのような見解だったのかはわかりません。
 わたしが「倭の五王」時代の九州王朝の都を筑後と考えたのは、高良大社の御祭神「高良玉垂命」の名前が「倭の五王」にも襲名されたとする研究結果(「九州王朝の筑後遷宮」『新・古代学』第四集、新泉社。1999年)によるものでした。それと、古田先生が1989年に発表された「『筑後川の一線』を論ず」(『東アジアの古代文化』61号)でした。この論文は古田学派内でもあまり注目されてきませんでしたが、わたしは重要な論文と考えています。
 その主要論点は、弥生時代の九州王朝の中枢領域は考古学的出土物から見ても筑前だが、古墳時代になると様相が一変し、装飾古墳などが筑後地方に出現することから、筑後に変わっている。これは主敵が南の薩摩(隼人)などの勢力だった弥生時代から、北の朝鮮半島の国々に変化した古墳時代になると、九州王朝(倭の五王、多利思北孤)はより安全な筑後川(天然の大濠)の南に拠点を移動させたためだとされました。
 わたしはこの論文を支持しており、「倭の五王」や筑紫君磐井は筑後を都にしていたと考えています。そして多利思北孤の時代になって太宰府に遷都したと九州王朝史の大枠を理解しています。(つづく)


第1381話 2017/05/03

『伊豫史談』に合田洋一さんが寄稿

 「古田史学の会・四国」事務局長の合田洋一さん(古田史学の会・全国世話人)から伊予史談会の機関誌『伊豫史談』385号が送られてきました。同号には合田さんの論稿「越知氏の出自 -『オチ』元は『コチ』だった-」が掲載されています。
 四国の古代越知国(今治市など)の訓みは元々は「コチ」だったとする作業仮説です。当地の朝倉上には「コチ神社」(祭神はコチの命)があることなどを紹介されています。中でも驚いたのが、同地は出雲系の神社・祭神が多いのですが、「ありがとう」を意味する方言の「だんだん」が出雲地方と伊予地方で共通して存在するということです。NHKの連ドラにより出雲地方の方言「だんだん」は知っていましたが、四国の伊予地方にもあるとは知りませんでした。
 どのような経緯で「コチ」が「オチ」になったのかは、更なる調査検証が必要と思われましたが、今後の展開が楽しみな論稿でした。古田学派の論客が各地で活躍されており、頼もしい限りです。


第1380話 2017/05/01

4月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 4月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 4月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2017/04/01 『九州倭国通信』No.185のご紹介
2017/04/08 古田先生の土器編年の方法
2017/04/12 緊急配信!「関西例会」の会場について
2017/04/21 輸出繊維会館で講演しました
2017/04/30 年号表記された天皇「天長聖主」


第1379話 2017/04/29

『古田武彦の古代史百問百答』百考(3)

 今回、『古田武彦の古代史百問百答』を熟読して、今まで気づかなかった古田先生の新仮説や新たな論理展開に遭遇し、はっとさせられることがいくつもあります。たとえば、『二中歴』「年代歴」にのみ見える最初の九州年号「継躰」(517〜521年)を当時の倭国の天子の名前とする次の見解などがそうです。

 「福井から二十年かけて大和に入った天皇は、その時はもちろん天皇ではなく、後に継躰天皇と謚(おくりな)されただけです。具体的には男大迹大王と言いましょうか。要するに近畿の首長です。この時点ではもちろん、九州に進出しておりません。
 これに対して、九州王朝では、前に言った丁酉の年(五一七)に継躰の年号を持った天子がいました。これについて『日本書紀』継躰紀二十四年の春二月の詔(『岩波日本書紀』下、四二ページ)では、継躰之君というのが出てきますが、これを通説では『ひつぎ』と普通名詞に取っていますが、普通名詞の人に『中興』の功を論じるのはこじつけで、はからずも九州王朝の天皇の名称を盗用したとした方が正しいのではないでしょうか。そのように解釈すると、近畿の男大迹とほぼ同じ頃に九州に継躰天皇がいたということになります。近畿王朝は、武烈を倒して、新王朝を樹立した男大迹を、ちょうど天子を名乗り始めた九州王朝の継躰にならい、『継躰』の名を謚したのです。そして九州の継躰を完全には消しえなかったのが、継躰二十四年の詔ということになります。」(110頁)

 この古田先生の見解を読んだとき、わたしは納得できませんでした。なぜなら、古代において天子の名前をそのまま年号に用いるなどという例を、中国や当の九州王朝でも知らなかったからです。逆に、天子の名前の字を避けるというのが古代中国における慣習でしたから、九州王朝の官僚たちが最初の年号を決めるにあたり、そのときの天子の名前「継躰」を採用したことになる古田説に、猛烈な違和感を覚えました。
 たとえば、今、知られている九州王朝の倭王や天子の名前に用いられた漢字(俾弥呼、壹與、讃、珍、済、興、武、旨、磐井、葛子、阿毎多利思北孤、利歌彌多弗利、薩夜麻、など)は九州年号に使用されていません。ましてや、その時代の天子の名前(今回のケースでは継躰)をそのまま年号に用いるなどとは考えられないのではないでしょうか。もし、九州王朝は天子の名前を年号に使用したとするのであれば、その根拠(たとえば中国での先例)を明示して論証が必要と思われるのです。
 他方、後世になって、「継躰」年号の時代の天子を「継躰之君」と呼んだり記したりすることはあるかもしれません。これは平安時代の例ですが、醍醐天皇(897〜930)のことを『大鏡』(平安後期の成立)では、その即位期間の代表的な年号「延喜」(901〜923)を用いて「延喜帝」と表記されています。『日本書紀』継躰紀二十四年の「継躰之君」がこれと同じケースであれば、この「継躰」は天子の名前ではなく九州年号ということになります。
 従って、「継躰之君」の「継躰」は、“ひつぎ”(通説)と“九州王朝の天子の名前”(古田説)と“後世における年号の転用”という三つの可能性がありますから、どの仮説が最も妥当かという論証が必要です。
 今年になって、『二中歴』に見える九州年号「継躰」は、「善記」を建元したときに、遡って「追号した年号」とする説が西村秀己さんから発表されています(「倭国〔九州〕年号建元を考える」、『古田史学会報』139号、2017年4月)。この西村説を援用するならば、天子の名前の「継躰」を年号として「追号」した可能性や、「年代歴」編纂時に、天子の名前「継躰」を年号と勘違いして「年代歴」に入れてしまったというケースも考えられるかもしれません。このことを西村さんに伝え、検討を要請しました。関西例会で検討結果が報告されることを期待しています。もし、古田先生がご健在であれば、どのように答えられるでしょうか。(つづく)


第1375話 2017/04/23

7世紀後半の「都督府」

 「洛中洛外日記」1374話において、「都督」や「都督府」を多元的に考察する必要を指摘し、太宰府の都府楼跡を倭の五王時代(5世紀)の都督府とすることは考古学的に困難であることを説明しました。他方、7世紀後半に太宰府都府楼跡に「都督府」がおかれたとする説が発表されています。わたしの知るところでは次の二説が有力です。
 一つは古田先生による九州王朝下の「都督」「都督府」説です。『なかった 真実の歴史学』第六号(ミネルヴァ書房、2009年)に収録されている「金石文の九州王朝--歴史学の転換」によれば、7世紀後半の「評の時代」に九州から関東までに分布している「評」「評督」を統治するのが「都督」であり、太宰府にある「筑紫都督府」(太宰府都府楼跡、『日本書紀』天智紀)であるとされました。
 もう一つは、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)による、唐の冊封下の「筑紫都督府」とする理解です(「『近江朝年号』の研究」『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』所収)。白村江戦の敗戦で唐の捕虜となった筑紫君薩夜麻が唐軍と共に帰国したとき、唐から筑紫都督(倭王)に任命され、太宰府政庁(筑紫都督府)に入ったとする仮説です。
 両説とも根拠も論証も優れたものですが、同時に解決すべき課題も持っています。古田説の場合、7世紀中頃の評制施行の時期に太宰府都府楼跡の遺構である大宰府政庁Ⅱ期の朝堂院様式の宮殿はまだ造営されていません。同遺構の造営年代は観世音寺創建と同時期の670年頃(白鳳10年)と考えられますので、650年頃に評制を施行したのはこの宮殿ではありません。670年以降であれば筑紫都督府が太宰府政庁Ⅱ期の宮殿としても問題ありませんが、評制施行時期では年代的に一致しないという問題があるのです。
 この点、正木説は薩夜麻が帰国にあたり唐から都督に任命されたとするため、大宰府政庁Ⅱ期の遺構と時代的には矛盾はありません。しかし、古田説のように「評督」の上位職の「都督」との関係性については説明されていません。この点、古田説の方が有利と言えるでしょう。
 仮に両説を統合する形で新たな仮説が提示できるかもしれませんが、その場合でも「評制」を施行した「都督府」(都・王宮)はどこなのかという課題に答えなければなりません。「難波朝廷天下立評給時」(『皇太神宮儀式帳』延暦二三年・八〇四年成立)という記事を重視すれば、7世紀中頃に全国に「評制」を施行し、「評督」を統治した「都督府」は当時の難波朝廷(前期難波宮)という理解が可能ですが、用心深く検討や検証が必要です。


第1378話 2017/04/27

泰澄の「越前五山」(福井新聞)

 一昨日から長野県・富山県を廻り、昨晩から仕事で福井市に来ています。今日は午後から大阪に向かいます。ホテルで読んだ『福井新聞』一面に「泰澄の『越前五山』白山開山1300年空中ルポ」が写真付きで連載されていました。地方紙ならではの企画で、しかも一面掲載ですから力の入れようがわかります。
 泰澄と言えば7世紀末頃の高名な僧で、『続日本紀』にも名前が見えます。わたしも「洛中洛外日記」に『泰澄和尚傳』を九州年号史料として紹介したことがあります。下記の連載です。

第1067話 2015/10/02
『泰澄和尚傳』の九州年号「白鳳・大化」
第1068話 2015/10/03
『泰澄和尚傳』の「大化」と「大長」
第1069話 2015/10/04
『泰澄和尚傳』に九州年号「朱鳥」の痕跡
第1070話 2015/10/07
『泰澄和尚傳』の道照と宇治橋

 「越前五山」をこの新聞記事で知りました。次の山々で、いずれも泰澄と関係が深いとされています。白山だけは二千メートル級の高山で他の四山とは異質です。本当に泰澄が開山したのだろうかという疑問も浮かびます。

○越知山(おちさん。613m)泰澄が若き日に修行し、老いては入滅した地とされています。
○文殊山(もんじゅさん。365m)泰澄生誕の地とされる麻生津(福井市三十八社町)にほど近い。養老元年(717)に泰澄により開山されたとの伝承を持つ。
○吉野ヶ岳(よしのがだけ、別名蔵王山。547m)泰澄により開山されたとの伝承を持つ。
○日野山(ひのさん。795m)養老2年(718)に泰澄により開山されたとの伝承を持つ。
○白山(はくさん。2702m)養老元年(717)に泰澄により開山されたとの伝承を持つ。


第1377話 2017/04/25

『古田武彦の古代史百問百答』百考(2)

 古田先生との応答で決着を見ないままとなった「論争」に「庚午年籍」問題がありました。『古田武彦の古代史百問百答』においてもこの問題が記されています。次の箇所です。

 「『続日本紀』の聖武天皇、神亀四年(七二七)に次の記事があります。
 『秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午年籍七百七十巻。以官印々之(官印を以て之に印す。)』
 これがいわゆる『保存』の記事です。しかし、問題は『保存の目的』です。」(217頁)
 「『日本書紀』でも、六四五〜七〇一年の間がすべて『郡』とされている。
 こういう状況で『評にあふれた庚午年籍』が『公示』『公開』されたら、すべて“ぶちこわし”です。
 すなわち『評の庚午年籍』を“集め”て“封印”させるのが、この、いわゆる『保存』、この『封印』の意味とみる他ありません。(中略)
 要するに、あやまった『保存』という言葉に人々は“だまされ”てきたのです。
 『岩波日本書紀』下の『補注』巻第二十七-一四『庚午年籍』の項も、
 『この「近江大津宮庚午年籍」だけは永久に保存されるべきものとされた。』(五八三ページ)
と結ばれています。ですから、一般の読者は、
 『本当に、保存したのだ。』
と錯覚させられる。そういう『形』を、学者たちはとってきたのです。」(218頁)

 このように、古田先生は『続日本紀』に見える、筑紫諸国の「庚午年籍」官印押印記事を「保存」記事とみなされ、その目的は評制文書である「庚午年籍」の「封印」であるとされました。そして「庚午年籍」が保存されたとするのは現代の学者の解釈に過ぎず、一般の人はそれにだまされていると主張されました。
 わたしは古代戸籍や「庚午年籍」の研究を永く続けてきましたので、古田先生のご自宅まで赴き、大和朝廷が後世にわたり「庚午年籍」の保存を命じていたことを史料根拠を示して説明しました。それは次のような史料です。

 「凡戸籍。恒留五比。其遠年者。依次除。〔近江大津宮庚午年籍。不除〕」(『養老律令』戸令 戸籍条)
【意訳】戸籍は、常に五回分(30年分)を保管すること。遠年のものは次のものを作成し次第、廃棄すること。〔近江大津宮の庚午年籍は廃棄してはならない〕。

 大和朝廷は自らの『養老律令』で戸籍の保管期間を定め、「庚午年籍」は保管期間が過ぎても廃棄してはならないと明確に定めています。この規定等を根拠に現代の学者は『この「近江大津宮庚午年籍」だけは永久に保存されるべきものとされた。』と『岩波日本書紀』に注記したのです。
 更に『続日本後紀』には9世紀段階でも諸国に「庚午年籍」の書写保管を命じ、中務省へ写本提出を命じたことなどが記されています。
 こうした史料の存在を紹介し、「庚午年籍」の研究状況について、ご自宅まで押し掛けて説明しました。今から10年ほど前のことだった記憶しています。
 なお、『古田武彦の古代史百問百答』において、古田先生は『続日本紀』の「秋七月丁酉。筑紫諸国、庚午年籍七百七十巻。以官印々之(官印を以て之に印す。)」の記事を、筑紫での「庚午年籍」の「出土」と表現されています。

 「この答えは、右の『庚午年籍七百七十巻』という、大量文書の出土が、『近江』でなく『筑紫諸国』であること、この一事からハッキリわかるのではないでしょうか。」(219頁)
 「すなわち、問題の『庚午年籍』が、大量に出土しているのは、『近江諸国』ではなく、筑紫諸国なのです。」(233頁)

 『続日本紀』の当該記事からは、筑紫諸国の「庚午年籍」七百七十巻に(大和朝廷側の)官印を押した、ということがわかるだけで、“出土した”“発見された”というような情報は含まれていません。古田先生がどのような意図や根拠により、「出土」という表現を用いられたのかについて関心があったのですが、ついにお聞きすることができないままとなりました。先生がお元気なうちにお聞きしておけばよかったと悔やみました。(つづく)


第1376話 2017/04/24

『古田武彦の古代史百問百答』百考(1)

 古田武彦先生が亡くなられて一年半が過ぎました。わたし自身の気持ちの整理も少しずつついてきましたので、古田先生の学問学説やその基底をなしたフィロロギーなど学問の方法について振り返る時間が増えてきた昨今です。
 中でも晩年の古田先生の学説や学問的関心事などを要領よくまとめられた『古田武彦の古代史百問百答』(東京古田会編、ミネルヴァ書房刊。2015年4月)を集中して読み直しています。今回、あらためて気づいたことや懐かしく蘇った記憶についてご紹介していきたいと思います。

 同書223頁に次のような記述があります。わたしはここを読んで、当時の情景をはっきりと思い出しました。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。改めて、詳述の機を得たいと思います。」(223頁)

 古田先生のいう(論争的)応答とは、藤原宮の中心部を神社(鴨公神社が鎮座)と見るのか、王宮(701年以後は大極殿)と見るのかという数回にわたる応答でした。双方相譲らず、という結果だったと記憶しています。古田先生が亡くなられる10年ほど前から、わたしは様々なテーマで先生と意見交換を行いました。ときに激しい論争となったことも何回かありました。もちろん、先生に対して礼儀正しく応答したつもりですが、うるさがられたことでしょう。今となっては懐かしい思い出であり、得難い経験でした。
 古田先生は藤原宮の考古学的復元図に対して、大極殿は現代の学者による作図であり、現地にあるのは鴨公神社だと考えておられました。そのことが314頁に次のように記されています。

 「藤原京、難波京、近江京には大極殿はありません。藤原京、難波京共にあるべきであろうと思われる位置に、学者が作図して公にされています。藤原京はその位置には鴨公神社があります。大極殿の記録伝承はありません。近江京も当然無いと考えています。」(314頁)

 これに対して、藤原宮は発掘調査が行われており、その出土事実に基づいて復元図が作成されているとわたしは反論し、中公新書『藤原京』(木下正史著、2003年)を紹介しました。その後、古田先生との応答で、701年以降であれば文武天皇等が藤原宮の宮殿を「大極殿」と呼んだ可能性もあるということで、両者納得するに至りました。
 こうした古田先生との(論争的)応答の詳細については、わたしは今まで文章にすることはほとんどありませんでした。もし公にしたら、「古田と古賀が対立している」などとネットなどで反古田派による古田バッシングの材料に悪用されるのは目に見えていたからです。また、古田先生と異なる意見をわたしが発表すると、本来であれば純粋な学問論争ですので何の問題もないはずなのですが、非難される懸念もありましたので、こうしたテーマは慎重に取り扱ってきました。
 『古田武彦の古代史百問百答』でも次のように古田先生は記されています。

 「なかでも、印象に残ったのは、村岡さんの敬愛した本居宣長について、
 『本居さんは言っています。「師の説に、な、なづみそ。」と。自分の先生の説に“こだわる”な、と言うのです。それが学問なんですね。』
という言葉は、くりかえし聞きました。
 これが、わたしの村岡さんから学んだ『学問の精神』です。昨年(二〇〇五年)『新・古代学』(新泉社)の第八集(最終号)に載せた『村岡学批判』は、その表現です。
 もっとも、『師の意見』(A)と『師に反した自分の意見』(B)と、いずれが是か。それは後代の研究史が明らかにすることでしょう。
 慎重に、心をこめて、これをなすべきこと、それは当然のことです。」(344〜345頁)

 『古田武彦の古代史百問百答』百考をこれから連載するにあたり、慎重に、心をこめて、これをなしたいと思います。(つづく)


第1374話 2017/04/22

多元的「都督」認識のすすめ

 『宋書』倭国伝などに見える「都督」記事から、九州王朝の倭王は中国南朝冊封体制下の「都督」を称していたことが知られています。従って倭王(都督)がいた所は「都督府」と呼ばれていた可能性が高いと思われることから、太宰府市の都府楼跡が倭の五王時代の都督府とする論者がおられます。当初、わたしもそのように理解していましたが、大宰府政庁遺跡の編年研究により、大宰府政庁のⅠ期やⅡ期の遺構を倭の五王時代の「都督府」とすることは無理ということに気づき、後に倭の五王時代の王宮は筑後地方にあったのではないかとする考えに変わりました。
 特に井上信正説の登場により、大宰府政庁Ⅰ期の堀立柱遺構は太宰府条坊都市と同時期であることが明確となり、わたしの理解では、多利思北孤による太宰府条坊都市の造営や太宰府遷都は7世紀初頭(倭京元年・618年頃か)ですから、到底、太宰府市の「都府楼」は倭の五王時代(5世紀)にまで遡りません。この問題、すなわち倭の五王時代の九州王朝の都をどことするのかについては、古田先生のご自宅で何回も論議してきた懐かしいテーマです。
 今まで何度も指摘したことがあるのですが、「都督」という役職名は九州王朝だけでなく、おそらくその伝統を引き継いで、大和朝廷も自らの「都督」を任命しており、その人物名も『二中歴』「都督歴」に多数列挙されているところです。この伝統は近世まで続いたようで、筑前黒田藩主も「都督」を自称していたことが史料に残っています。ですから、現存遺跡名や地名に「都府楼」があることを以て、それを九州王朝の倭の五王時代の都督の痕跡とすることは学問的に危険です。すなわち「都督」も多元的に認識すべきで、九州王朝と大和朝廷の「都督」が歴史的に存在していたことを前提に、現存地名がどちらの「都督」なのかを考える必要があるのです。
 多元的「都督」に関しては次の「洛中洛外日記」をご参照ください。

 「洛中洛外日記」
641話 2014/01/02 黒田官兵衛と「都督」
642話 2014/01/05 戦国時代の「都督」
655話 2014/02/02 『二中歴』の「都督」
777話 2014/08/31 大宰帥蘇我臣日向


第1373話 2017/04/22

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』読後感

 今春3月に発行した『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十集』を何度も読み返しています。収録した論稿は選び抜かれたものですから、いずれも読み応えがありますが、下記の目次を見ていただければ気づかれると思いますが、これら論稿の掲載順序や配置・分類に工夫がなされ、読み進めることにより九州年号や九州王朝の理解が進むように編集されています。また専門的な論文の間には、読みやすく面白いコラム記事が適宜挿入されています。服部静尚編集長の編集力が光っています。
 今後の改良点として、もう少し写真や図表を増やすことや、巻末に収録した資料写真を巻頭か関連論文の近くに掲載すれば良かったかなと思いました。次号に反映させたいと思います。
 本書の発刊記念講演会を東京・大阪・福岡で開催予定ですので、別途、ご案内します。

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』
          古田史学の会編
 A5判 192頁 定価2200円+税
 明石書店から3月刊行

 『日本書紀』『続日本紀』等に登場しない年号――それは大和朝廷(日本国)以前に存在した九州中心の王朝(倭国)が制定した独自の年号であり、王権交代期の古代史の謎を解く鍵である。九州王朝を継承した近江朝年号など倭国年号の最新の研究成果を集める。

〔巻頭言〕九州年号(倭国年号)から見える古代史 古賀達也

【特集】失われた倭国年号《大和朝廷以前》

Ⅰ 倭国(九州)年号とは
初めて「倭国年号」に触れられる皆様へ 西村秀己
「九州年号(倭国年号)」が語る「大和朝廷以前の王朝」 正木 裕
九州年号(倭国年号)偽作説の誤謬―所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判―    古賀達也
九州年号の史料批判―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―    古賀達也
『二中歴』細注が明らかにする九州王朝(倭国)の歴史    正木 裕
訓んでみた「九州年号」    平野雅曠
『書紀』三年号の盗用理由について 正木 裕

コラム① 九州王朝の建元は「継体」か「善記」か 古賀達也
コラム② 『二中歴』九州年号細注の史料批判    古賀達也
コラム③ 「白鳳壬申」骨蔵器の証言 古賀達也
コラム④ 同時代「九州年号」史料の行方 古賀達也
コラム⑤ 九州年号「光元」改元の理由 古賀達也
コラム⑥ 「告期の儀」と九州年号「告貴」 古賀達也
コラム⑦ 「元号の日」とは 合田洋一

Ⅱ 次々と発見される「倭国年号」史料とその研究    
九州年号「大長」の考察    古賀達也
「近江朝年号」の研究 正木 裕
九州王朝を継承した近江朝廷―正木新説の展開と考察―    古賀達也
越智国・宇摩国に遺る「九州年号」 合田洋一
「九州年号」を記す一覧表を発見―和水町前原の石原家文書― 前垣芳郎
納音付き九州年号史料の出現―熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介―    古賀達也
納音付き九州年号史料『王代記』    古賀達也
兄弟統治と九州年号「兄弟」    古賀達也
天皇家系図の中の倭国(九州)年号 服部静尚
『日本帝皇年代記』の九州年号(倭国年号) 古賀達也
安土桃山時代のポルトガル宣教師が記録した倭国年号 服部静尚

コラム⑧ 北と南の九州年号(倭国年号) 古賀達也
コラム⑨『肥後国誌』の寺社創建伝承    古賀達也
コラム⑩ 「宇佐八幡文書」の九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑪ 和歌木簡と九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑫ 日本刀と九州年号 古賀達也
コラム⑬ 神奈川県にあった「貴楽」年号 冨川ケイ子
コラム⑭ こんなところに九州年号! 萩野秀公
コラム⑮ 東北地方の九州年号(倭国年号)    古賀達也

○資料『二中歴』『海東諸国紀』『続日本紀』
○「古田史学の会」会則、全国世話人名簿、「地域の会」名簿、友好団体名簿。
○編集後記


第1372話 2017/04/19

肥後と薩摩の共通地名

 久富直子さん(古田史学の会・会員、京都市)から『徹底追及! 大宰府と古代山城の誕生 -発表資料集-』を更に一月延長してお借りし、読みふけっています。考古学の専門家を対象読者としているだけに難しい内容なのですが、現場の考古学者により書かれた最先端研究の論文集ですので、九州王朝説から見ても貴重な情報が満載という感じです。
 今回、注目した論稿は松崎大嗣さん(指宿市教育委員会社会教育課)の「西海道南部の土器生産」です。わたしは南九州の土器について全く知りませんので同論稿を興味深く読みました。そこに注目すべき記述がありました。それは土器ではなく地名についてです。
 『続日本紀』和銅6年(713)三月条に豊前国から二百戸が隼人の領域(薩摩・大隅)に移民させられた記事があり、その痕跡として豊前・豊後の地名が大隅国桑原郡にあることが紹介されています。更に肥後の地名も薩摩にあることから、大和朝廷の政策として肥後からも薩摩に移民させられたとする説を紹介されています。その共通地名とは、薩摩国高城郡の6郷の内、合志・飽田・宇土・託万の4郷で、これらが肥後国の郷名と一致しているとのことなのです。
 松崎さんはこの郷名の一致を大和朝廷による律令体制の強化策と見られているようですが、わたしは九州王朝時代に肥後から薩摩への郷名移動(命名)がなされた可能性も考えたほうがよいと思いました。もちろん両方の可能性があるので、断定はできませんが、肥後と薩摩については『続日本紀』に有名な記事があり、両地域の関係が九州王朝の時代から深かったと考えられます。それは次の記事です。

 「薩末比売・久売・波豆、衣評督衣君県、助督弖自美、また、肝衝難波、肥人等に従いて、兵を持ちて覓国使刑部真木を剽劫(おびやか)す。是に竺志惣領に勅して、犯に准(なず)らへて決罰せしめたまう。」『続日本紀』文武4年(700)6月条

 薩摩の比売を中心に九州王朝の地方官職名「都督・助督」を持つ衣評(鹿児島県頴娃郡)の長官と副官らが「肥人等」に従って、大和朝廷の使者を脅かしたという記事です。この九州王朝最末期の記事から、肥後と薩摩の結びつきは明らかです。しかも「肥人等」に従ったとありますから、上位者は薩摩比売ではなく「肥人」ということを示しています。ですから地名の「移動」も肥後から薩摩へと考えてよいかと思います。
 この地名「移動」が九州王朝の時代(700年以前)なのか、それよりも後の大和朝廷の時代なのか、にわかには結論は出せませんが、松崎さんの論稿により、こうした肥後と薩摩の共通地名の存在を知ることができました。
 「乞食と地名(研究)は三日やったら、やめられない」という言葉があることを古田先生からお聞きしたことがあります。それほどに地名研究は面白いものです。ただし、「歴史学としての地名研究」には資料や論証により地名成立の時間軸という視点をどのように明確にするのかという困難で重要な課題があります。こうした学問的手続きを欠いた「地名研究」は古田史学とは異質です。もちろん異質だからダメということではありません。


第1371話 2017/04/16

『海東諸国紀』の「任」の字義

 「洛中洛外日記」1367話で紹介した『海東諸国紀』の次の記事を紹介し、「天智天皇の記事に『初めて太宰帥に任じた』とあるのですが、文脈からは天智天皇が七年(668)にはじめて太宰帥に任じたと読めます。」と説明しました。

 「天智天皇(中略)元年壬戌〔用白鳳〕七年戊辰始任太宰帥(後略)」

 この説明に対して、昨日の「古田史学の会」関西例会で水野孝夫さん(古田史学の会・顧問)から、この説明では天智が誰かを太宰帥に任命したと読めるとのご指摘をいただきました。「任じる」という動詞は現代日本語では自動詞と他動詞の用例があるので、確かに説明が不親切だったと反省しています。
 もちろん『海東諸国紀』の「任」を現代日本語の解釈で理解するのは学問の方法として不適切ですので、わたしは『海東諸国紀』の他の「任」の用例を調べ、この記事の意味を天智が太宰帥になったと理解しました。この天智天皇の記事の末尾に次の記事があります。

 「以大友皇子〔天智子〕為大政大臣皇子任大政大臣始」※〔〕内は細字。

 岩波文庫の『海東諸国紀』では「大友皇子を以て大政大臣と為す。皇子の大政大臣を任ずるは此より始まる。」と訳されています。わたしはこの用例に従って、「任太宰帥」を天智が太宰帥になったという意味に理解したのです。
 水野さんの指摘を受けて、今日、『海東諸国紀』全文を読み直して、「任」の全用例調査を行いました。意外に「任」の使用例が少なく、次の一例を見つけることができました。

 「履中天皇仁徳太子元年庚子始置大臣四人任国事」

 岩波文庫の訳では「履中天皇。仁徳の太子なり。元年庚子、始めて大臣四人を置き国事に任ぜしむ。」とあります。しかし、「国事」は「太宰帥」や「大政大臣」のような職位ではありませんから、「任」の訓みとしては「あたる」「つく」が適切のように思われます。すなわち、天智天皇がはじめて太宰帥の職にあたる、大友皇子が大政大臣の職に就く、大臣四人が国事にあたると訓んだほうがよいと思います。
 手元にある『新漢和辞典(改訂版)』(大修館書店)には、「任」の字義として「あたる」が冒頭にあることからも、「任」の字をある役職に「就く」、ある任務に「あたる」という意味で『海東諸国紀』には使用されていると思われます。
 そうすると、次に問題となるのが天智が就いたとされる「太宰帥」という役職はどのようなものでしょうか。太宰府の高位の官職と解さざるを得ませんが、当時の「太宰府」とは九州王朝下の官僚組織であり、その「太宰府」の「帥」ですから、最高権力者としての倭国の天子ではありません。
 『海東諸国紀』の当該記事がどの程度信頼できるのかも含めて引き続き論議検討が必要です。