第1535話 2017/11/05

古田先生との論争的対話「都城論」(5)

 「難波長柄豊碕宮」についての古田説を説明してきましたが、わたしの副都説の本質は前期難波宮を九州王朝説ではどのように理解し、位置づけるのかにあります。すなわち、7世紀中頃の宮殿としてはけた違いに大規模で(7世紀末に近畿天皇家の藤原宮が完成するまでは日本最大)、日本初の中国風の朝堂院様式の前期難波宮を倭国(九州王朝)の天子の宮殿とするのか、その配下の近畿天皇家(孝徳天皇)の宮殿とするのかという問題です。この問題を明確にするために次の四つの問いを示し、それを最もよく説明できる答えを反対される方々に求めてきました。

1.前期難波宮は誰の宮殿なのか。
2.前期難波宮は何のための宮殿なのか。
3.全国を評制支配するにふさわしい七世紀中頃の宮殿・官衙遺跡はどこか。
4.『日本書紀』に見える白雉改元の大規模な儀式が可能な七世紀中頃の宮殿はどこか。

 通説と古賀説の「解答例」を記し、難波朝廷博多湾岸説による「解答」も考察してみます。

〔解答例1・通説〕
1.孝徳天皇の難波長柄豊碕宮。
2,大和朝廷が全国を評制統治するための宮殿。
3,前期難波宮と周囲の官衙群、あるいは飛鳥宮。
4.諸説あるが未定。

〔解答例2・古賀説〕
1.九州王朝の天子の宮殿。
2.九州王朝が全国を評制統治するための宮殿(副都)。
3.前期難波宮と周囲の官衙群。前期難波宮焼失後は太宰府(首都)か。
4.前期難波宮。

 難波朝廷博多湾岸説の解答例は次のようになると考えられます。

〔解答例3・難波朝廷博多湾岸説〕
1.『日本書紀』に記されていない近畿天皇家の宮殿。
2.不明。
3.博多湾岸の愛宕神社にあった難波朝廷(別宮)で評制樹立。「奥宮」は太宰府。
4.不明。(古田先生から直接お聞きしたご意見は別に詳述します)

 このような「解答」が難波朝廷博多湾岸説では想定できます。わたしから見ると、それぞれの説に一長一短があり、通説では4が、難波朝廷博多湾岸説では2と4の答えが導き出せないように思われます。わたしの副都説にも説明しにくい弱点があります。その理由は各説の持つ論理構造にあります。(つづく)

 


第1534話 2017/11/04

古田先生との論争的対話「都城論」(4)

 『日本書紀』に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」を、古田先生は博多湾岸にある類似地名(名柄川、豊浜)の存在を根拠に、福岡市西区の愛宕神社にあったとする仮説を発表されたのですが、その仮説はそれだけにとどまることなく、その地が九州王朝の「難波朝廷」であり、評制を施行した宮殿とされました。2008年1月の大阪講演会では次のように述べられています。

 「その中(『皇太神宮儀式帳』『神宮雑例集』、古賀注)に『難波長柄豊碕宮』や『難波朝廷』が出てくる。(中略)これが実は博多の宮殿を指している。この『難波朝廷』は九州博多にある九州王朝の宮殿を指している。その時に『評』が造られた。このように考えます。」(『古代に真実を求めて』12集、2009年明石書店刊。50頁)

 『なかった』五号(ミネルヴァ書房、2008年6月)の古田武彦「大化改新批判」にも次のように記されています。

 「(補1)博多湾岸の『難波の長柄の豊碕』は、九州王朝の別宮であり、最高の軍事拠点である。ここにおいて『評制』も樹立された可能性がある。もちろん『九州王朝の評制』である。
 『近畿の(分王朝の)軍』を率いた近畿分王朝の面々(皇極天皇・中大兄皇子・中臣鎌足・蘇我入鹿等)は、この『九州王朝の別宮』に集結していた。その近傍において『入鹿刺殺』の惨劇が行われたこととなろう。」(33頁)

 このように、古田先生は博多湾岸の愛宕神社に「難波朝廷」があり、ここで九州王朝の評制を樹立したとする仮説を発表されたのです。この場合、九州王朝の「難波朝廷」がそこにあったとする史料根拠は『皇太神宮儀式帳』です。それ以外に「難波朝廷で天下立評した」と記した史料はありません。ちなみに『皇太神宮儀式帳』は『日本書紀』の影響を受けた後代史料だから歴史史料として使えないとする論者もあるようですが、史料批判の上で使用された古田先生の学問の方法と異なることは明らかです。わたしも古田先生と同意見で、史料批判により『皇太神宮儀式帳』は歴史史料として使用できると考えています。
 前期難波宮を孝徳の難波長柄豊碕宮とする一元史観の通説に対して、わたしは前期難波宮九州王朝副都説を発表していたのですが、新たに古田先生は「難波長柄豊碕宮=難波朝廷」博多湾岸説とそこでの評制樹立説を提起されたのです。こうして、三つの説が出そろって、わたしと古田先生の長期にわたる「論争」が本格的に始まったのでした。(つづく)


第1533話 2017/11/04

古田先生との論争的対話「都城論」(3)

 『日本書紀』孝徳紀に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」の場所を古田先生は博多湾岸の愛宕神社と講演で話されたのですが、この古田仮説にわたしは疑問をいだいていました。それは次のような理由からでした。

 ①「難波長柄豊碕宮」が造営された7世紀中頃は白村江戦(663)の直前であり、博多湾岸のような敵の侵入を受けやすい所に九州王朝が宮殿(太宰府の別宮)を造営するとは考えられない。
 ②7世紀中頃の宮殿遺構が当地からは発見されていない。
 ③近畿天皇家の孝徳が「遷都」したとする摂津難波の宮殿名を、『日本書紀』編者がわざわざ九州王朝の天子の宮殿名に変更して記さなければならない理由がない。本来の名前を記せばよいだけなのだから。

 このようにわたしは考えていました。特に①の理由については、これまで古田先生と散々論じてきたテーマであり、先生が言われてきたこととも矛盾していました。
 わたしと古田先生は、5世紀の「倭の五王」の宮殿がどこにあったのかで論争を続けていました。古田先生は太宰府都府楼跡(大宰府政庁Ⅰ期)とするご意見でしたが、わたしは大宰府政庁Ⅰ期出土の土器編年はとても5世紀までは遡らないし、堀立柱の小規模な遺構であり、倭王の宮殿とは考えられないと反論してきました。そして次のような対話が続きました。

古田「それならどこに王都はあったと考えるのか」
古賀「わかりません」
古田「水城の外か内か、どちらと思うか」
古賀「5世紀段階で九州王朝が水城の外側に王都を造るとは思えません」
古田「だいたいでもよいから、どこにあったと考えるか」
古賀「筑後地方ではないでしょうか」
古田「筑後に王宮の遺跡はあるのか」
古賀「出土していません」
古田「だったらその意見はだめじゃないですか」
古賀「だいたいでもいいから言えと先生がおっしゃったから言ったまでで、まだわかりません」

 およそこのような「論争的」会話が続いたのですが、合意には達しませんでした。しかし「水城の内側(南側)」という点では意見の一致を見ていました。
 こうした論議の経緯がありましたので、古田先生が「難波長柄豊碕宮」を「水城の外側」博多湾岸の愛宕神社とする仮説を出されたことを不思議に思ったものです。しかし、事態は更に「発展」しました。(つづく)


第1532話 2017/11/03

古田先生との論争的対話「都城論」(2)

 10年続いた古田先生との前期難波宮論争でしたが、実はいくつかの重要な合意形成もしてきました。その一つに『日本書紀』孝徳紀に孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」についての見解です。
 一元史観の通説では「難波長柄豊碕宮」を法円坂の巨大宮殿遺構前期難波宮としているのですが、古田先生もわたしも地名が異なっているので、そこではないと意見が一致していました。わたしは大阪市北区の長柄・豊崎が地名が一致しており、そこを有力候補とする試案を発表しました。古田先生は博多湾岸の愛宕神社近辺の類似地名「名柄川」「豊浜」などを根拠に当地にあったとする仮説を発表されました。それぞれに根拠(地名の一致、類似)があるため、7世紀中頃の宮殿遺構の有無が決め手になるとわたしは指摘してきました。
 なお、わたしの前期難波宮九州王朝副都説の本質は、あの国内最大規模の前期難波宮を九州王朝説の立場からどのように理解し位置づけるのかにありますから、孝徳の宮殿と記された「難波長柄豊碕宮」の場所の問題は直接には前期難波宮副都説とは関係ありません。この点を誤解された批判や論稿が散見されますので、指摘しておきたいと思います。
 この「難波長柄豊碕宮」について、古田先生は博多湾岸の愛宕神社とされたのですが、2008年1月の大阪市での講演会では次のように話されていました。

 「九州王朝論の独創と孤立について」(古田武彦講演会、主催「古田史学の会」、2008年1月19日)

 福岡市西区に「名柄(ながら)川」「名柄(ながら)浜」「名柄団地」があり、今は地図にないが「名柄(ながら)町」があった。それで「ナガラ」という地名はありうる。(中略)
 それで、わたしがここではないかと考えていたのが、そこの豊浜の「愛宕山」。愛宕神社がある。平地の中にしてはたいへん小高いので、今まで敬遠して上ったことはなかった。(中略)それで上に登ると絶景で、博多湾が目の下に見えている。そして岩で出来ていて、目の下が豊浜。(中略)
 九州王朝の歴史書で書かれていた「難波長柄豊碕宮」はここではないか。(中略)もちろんこの「難波長柄豊碕宮」は、太宰府の紫宸殿とは別のところにあります。別宮のような性質です。以上が「難波長柄豊碕宮」に対する現在のわたしの理解です。
(『古代に真実を求めて』第12集所収。古田史学の会編・明石書店、2009年)

 九州王朝の都城の所在地の変遷について、古田先生と論議を続けていましたので、この古田仮説にわたしは疑問をいだいていました。(つづく)


第1531話 2017/11/02

古田先生との論争的対話「都城論」(1)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』を読んで、わたしのことに触れられた箇所がいくつかあるのですが、中でも次の部分は学問的にも貴重で懐かしく当時のことを思い出しました。古田先生の三回忌も過ぎましたので、ご紹介したいと思います。

 「その間、藤原宮の大極殿問題を発端とする、古賀達也氏(古田史学の会)との(論争的)応答や西村秀己氏(同上)の(「七〇一」禅譲)説などが、大きな刺激となりました。」(223頁)

 ここで書かれているように、古田先生とは様々なテーマで意見交換や学問的討議、ときに激しい「論争的」応答もしてきました。わたしも先生も負けず嫌いな性格でしたので、先生のご自宅や電話で長時間論争したこともありました。ただし、わたしは終始一貫して敬語で応答しました。それは「師弟」間の礼儀ですし、31歳のとき古田史学に入門以来、何よりもわたしは古田先生を尊敬してきたからです。その気持ちは今でもまったく変わりありません(師弟間〔坂本太郎さんと井上光貞さん〕の学問論争のあり方について、古田先生から興味深いお話と関係論文をいただいたことがあるのですが、そのことは別の機会にご紹介します)。
 その「論争的」対話の一つに九州王朝や大和朝廷の都城論がありました。中でも最も長期間の応答が続いたのが、前期難波宮九州王朝副都説についてでした。大阪市中央区法円坂で発見された7世紀中頃の巨大宮殿「前期難波宮」を通説通り近畿天皇家の孝徳の宮殿とすることに疑念を抱いたわたしは、それを九州王朝の宮殿ではないかとする作業仮説(思いつき)を古田先生に話したことがありました。論文発表よりもかなり前のことでした。
 もちろん、古田先生は賛成されませんでしたが、それ以後、古田先生の反対意見に答えるべく10年間にわたり論文を発表し続けました。古田先生以外から出された反対意見に対しても、これでもかこれでもかと執念の研究と発表を続けたのです。そして2014年の八王子セミナーの席上で、ついに古田先生から「検討しなければならない」の一言を得るに至ったのです。もちろん、古田先生がわたしの説に賛成されたわけではありませんが、それまでの「反対意見表明」ではなく、検討すべき仮説の一つとして認めていただいたもので、その日の夜、わたしはうれしくてなかなか眠れませんでした。(つづく)


第1530話 2017/11/01

10月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 10月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《10月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2017/10/04 『東京古田会ニュース』No.176のご紹介
2017/10/05 難波京の朱雀大路発見について
2017/10/15 古田学派三団体で懇親会開催
2017/10/25 桂米團治さんからのご厚情
2017/10/26 橘高修著『古代史エッセー』贈呈される
2017/10/28 資料提供のお礼
2017/10/31 岡田甫先生のご子息紹介


第1529話 2017/11/01

11月13日改訂しました。

『古田武彦の古代史百問百答』百考(6)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」において、古田先生は白村江戦の敗北後に唐軍の筑紫進駐により、九州王朝(倭国)は太宰府の「紫宸殿」を離れ、伊豫の「紫宸殿」に遷都したとする新説を提起されました。この新説と従来の古田説とは相容れない重要な問題があります。このことについて説明します。
 『日本書紀』天智紀によれば、白村江戦(663)の敗戦後、本格的な唐の筑紫進駐は天智八年是年条(669)に見え、約2000人の唐軍が派遣されたと記されています。天智10年11月条(671)にも2000人の派遣が記されています。これらも含めて天智紀には計5回の唐人「来日」が記されています。従って古田新説に依るならば、九州王朝の天子「斉明」の伊豫遷都は669年以前のこととなります。こうした理解に立つと、従来の古田説と徹底的に矛盾することがあります。それは「庚午年籍」はどこの誰により造籍が命じられたのかという問題です。この点について、従来の古田説が『古田武彦の古代史百問百答』「39 『近江遷都論』について」で次のように記されています。

 「すなわち、問題の『庚午年籍』が、大量に集中出土しているのは、『近江諸国』ではなく、筑紫諸国なのです。
 いわゆる『近江令』なるものに対して、
 (甲)近江令を中心とし、そこで発令されたもの--『通説』
 (乙)筑紫を中心とし、そこから発令されたもの。--これは九州王朝の史実からの『移用(盗用)』である。これがわたしの立場です。」(233頁)

 このように庚午年籍は近江令により造籍されたのではなく、筑紫を中心としてそこから出された筑紫令により造籍されたことになると説明されています。このように従来の古田説では庚午年籍の造籍は九州王朝が筑紫で発令したとされていたのですが、古田新説では庚午年籍が造籍された庚午(670)の年は既に唐軍が筑紫進駐しています。そのとき九州王朝の天子「斉明」は伊豫の紫宸殿に逃げていたとされており、筑紫で造籍を発令することなどできないのです。
 古田先生が指摘されているように、実際は筑紫諸国の庚午年籍は造籍されており、そうすると古田新説によれば筑紫に進駐した唐軍の制圧下で筑紫諸国の庚午年籍が造籍されたという奇妙なことになってしまいます。それほど九州王朝の造籍に協力的で理解のある唐の進駐軍であれば、「斉明」は太宰府を捨てて伊豫に遷都する必要などないからです。
 なお、庚午年籍は全国的規模で造籍されたことが、後代史書の記述から明らかとなっています。造籍事業とは単に各国に造籍を命じるにとどまらず、完成した諸国の戸籍を中央官庁に集め管理保存する必要があります。従って、そうした官僚群を収容する官衙も必要で、「紫宸殿」だけあればよいというものでもありません。ちなみに、670年(庚午年)頃の造籍事業と全国戸籍の管理保存が可能と推定できる宮殿と官衙遺跡は、日本列島内では太宰府、前期難波宮、近江大津宮の存在が知られています。
 古田先生がこの新旧の自説が持つ「庚午年籍の矛盾」に気づかれていたか否かは、今となってはわかりませんが、少なくとも古田新説(白村江戦後の伊豫遷都説)にはこの矛盾の解決が求められるでしょう。
 なお、古田先生が主張された筑紫諸国の庚午年籍の大量「出土」という表記については、「洛中洛外日記」1377話『古田武彦の古代史百問百答』百考(2)で論及しましたので、ご参照ください。


第1528話 2017/10/31

『古田武彦の古代史百問百答』百考(5)

 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」での次の質問に対する古田先生の回答について今回は説明します。

 「質問 斉明天皇は九州王朝の天子だったといわれますが、『日本書紀』の編者はなぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」

 この質問は『日本書紀』に付記された漢風諡号への「誤解」に基づいているのですが、古田先生はこの「誤解」には触れられず次のように回答されています。

 「斉明は九州王朝の天子です。松山にはサイミョウという名前で地名が残っていると合田さんが言っておられますが、(中略)これをみても斉明は南朝と関係をもった九州王朝の天子だった証拠になります。
 もう一つ重要なことは、これも合田さんによって紹介されましたが、伊豫に紫宸殿という地名が、残っているということです。」
 「我々には紫宸殿は太宰府の場所にあったことは知られてます。しかし、あそこは唐の軍隊が入って来ました。入って来てなおかつ紫宸殿と呼ぶはずがない。白村江以後において太宰府の紫宸殿の地名は消滅したと見なければならない。」
 「飛躍して言うと白村江以前の紫宸殿が太宰府。白村江以後の紫宸殿が伊豫に移っている、ということになるのではないでしょうか。そういう意味でこれをはめ込まなければならなかったという理由があります。」

 この古田先生の回答は「なぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」という質問に直接答えたものではありません。なぜなら九州王朝の天子の紫宸殿の移動があったとしても、「斉明」という九州王朝の天子の名前を、淡海三船が漢風諡号として『日本書紀』斉明紀に付記しなければならない理由の説明にはなっていないからです。
 しかし、7世紀後半における九州王朝史研究の新たな仮説を提示されたもので、従来の古田説と異なっており、興味深いものです。このように従来の自説と異なる新仮説の発表こそ、古田先生らしい果敢に挑戦される学問的姿勢です。
 この古田新説は、白村江戦の敗北後に唐軍の筑紫進駐により、九州王朝(倭国)は太宰府の「紫宸殿」を捨てて伊豫の「紫宸殿」に遷都したとするもので、従来の九州王朝研究には無かった視点です。それではこの新説が従来の古田説とどのように相違し、どのような問題点が発生するのかについて見てみることにします。なお、伊予における字地名「さいみょう」についての考察を「洛中洛外日記」969話「みょう」地名の分布に記していますので、ご参照ください。(つづく)


第1527話 2017/10/30

『古田武彦の古代史百問百答』百考(4)

 半年ぶりに「『古田武彦の古代史百問百答』百考」シリーズを再開します。『古田武彦の古代史百問百答』はファンや読者などからの質問に答えるという形式でテーマ別に編集されており、その時々の古田先生の意見の変化や問題意識のあり方などにも触れることができる好著です。そのために従来の見解と新たな見解に矛盾や非対応も散見されるのですが、古田史学の発展段階を知ることができ、むしろ同書の特徴と言ってもよいかもしれません。同書編集を担当された東京古田会の優れた業績の一つでしょう。
 他方、「誤解」に基づいた質問とその「誤解」を前提とした回答も見られ、読者としてはちょっと用心してかからなければならないケースもあります。いわゆる学術論文ではなく、読者との質疑応答という読みやすさの追求と、そのときどきの認識に基いた古田先生の回答という同書の性格からすれば仕方がないのかもしれません。先生の三回忌が過ぎたこともあり、特に学問上重要な「誤解」について説明することにします。
 ミネルヴァ書房版『古田武彦の古代史百問百答』189頁の「18 九州王朝の天子を『日本書紀』に入れた理由について」で次のような質問がなされています。

「質問 斉明天皇は九州王朝の天子だったといわれますが、『日本書紀』の編者はなぜ、別王朝の天子をはめこまなければならなかったのですか。」

 この質問の背景には、古田先生が晩年に主張された仮説で、『日本書紀』の皇極と斉明は別人であり、斉明天皇は九州王朝の天子「斉明」のこととされたことがあります。そこで、質問者は九州王朝の存在を隠している『日本書紀』に何故九州王朝の天子の名前で斉明紀が記されたのかという疑問をもたれたものと思われます。
 この質問の趣旨や動機はよく理解できるのですが、実は複雑で大きな「誤解」が入り交じっています。それは次のような点です。わかりやすくするために箇条書きにします。

 ①『日本書紀』の神武天皇以降の一般的に称されている「○○天皇」の「○○」という漢字二字の呼称は漢風諡号と呼ばれ、『日本書紀』成立(720)の数十年後に淡海三船(722~785)により付記されたものと考えられています。ですから「斉明」も『日本書紀』編者が命名した天皇名ではなく、編纂時の『日本書紀』に記されていたものでもありません。
 ②「皇極」も同様に淡海三船が命名した漢風諡号で、『日本書紀』の皇極紀と斉明紀に記された天皇の和風諡号は共に「天豊財重日足姫天皇(あまとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと)」で、同一人物として記されています。
 ③従って、もし皇極紀と斉明紀に記された天豊財重日足姫天皇がそれぞれ別人であると認識して、漢風諡号を「皇極」と「斉明」とに書き分けたとするのであれば、それは『日本書紀』編者ではなく淡海三船が行ったということになります。
 ④諡号とは死後の謚(おくり名)ですから、同一人物に二つの諡号があるのは不自然です。ですから、『日本書紀』編者が皇極紀も斉明紀も同一の和風諡号「天豊財重日足姫天皇」を記しているのは当然です。
 ⑤他方、『日本書紀』には九州王朝の事績が転用(盗用)されていることを古田先生は指摘されていまから、斉明紀に九州王朝の記事がはめ込まれている可能性は大です。例えば「狂心の渠」説話など。
 ⑥従って質問の意図が、「斉明」という名称も九州王朝の天子の名前のはめ込みと理解しての質問なのか、斉明紀の記事に九州王朝の事績のみがはめ込まれているとしての質問なのかという問題があります。おそらくは前者の理解に立った質問と思われます。
 ⑦そうだとすれば、質問者は「斉明」という漢風諡号が『日本書紀』編者により編纂当初から記されたと「誤解」されていることになります。

 以上のように少々ややこしい背景と問題認識がうかがわれる質問なのです。(つづく)


第1526話 2017/10/29

白村江戦は662年か663年か(4)

 白村江戦年次に関する論争の経緯と古田先生の見解の推移についてご紹介してきましたが、最後に現在の研究状況とわたしの見解について説明することにします。
 白村江戦年次に関わる研究や論争が「古田史学の会」関西例会でも行われてきたのですが、それらを踏まえた上で、わたしは『日本書紀』にある通り、663年(天智二年・龍朔三年)でよいと考えています。それは次のような理由からです。

1.白村江戦を記録した現存最古の史料は『日本書紀』(720年成立)であり、この件については最も史料の信頼性が高い。その理由は次の通り。

 ①白村江戦を戦った当事者(九州王朝・倭国)の配下の勢力だった近畿天皇家により編纂されており、白村江戦の記憶も記録も存在していたと考えられる。
 ②もし白村江戦が662年であったとしたら、その記事を663年にずらさなければならない理由が近畿天皇家にはない。
 ③『日本書紀』の一連の記事において白村江戦の年次に不審とすべき点は見あたらない。
 ④白村江戦等で捕虜となった人物(大伴部博麻ら)が、敗戦の30〜40年後に帰国した記事が『日本書紀』や『続日本紀』に見え、その後に『日本書紀』は成立していることから、こうした帰国者からの情報も近畿天皇家は入手可能である。

2.以上のように、『日本書紀』の白村江戦年次に関する記事を疑わなければならない理由はなく、信頼して良い。比べて海外史書も次のように白村江戦を龍朔三年(663)としている。あるいは年次を特定していない。

 ①『旧唐書』「劉仁軌列伝」(945年成立)には、顯慶五年に始まる、高宗征遼時の仁軌の一連の事績が顯慶五年(660)以下に記され、「仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷」とあるが年月は未記載。その次は麟徳二年(665)の封禅の儀における事績を記す。従って、白村江の年次は660〜664年の間であることはわかるが、その間のいずれであるかは特定できない。
 ②『旧唐書』「東夷・百済条」には龍朔二年(662)七月から唐への帰還までの記事中に「仁軌遇扶余豐之衆于白江之口,四戰皆捷」とあり、その次の記事は麟徳二年八月。従って白村江戦の年次は特定できない。
 ③『新唐書』(1060年成立)本紀には龍朔三年(663)に「九月戊午,孫仁師及百濟戰于白江,敗之。」とあり、白村江戦を龍朔三年(663)とする。
 ④『三国史記』「新羅本紀」(1145年成立)には「至龍朔三年 總管孫仁師 領兵來救府城 新羅兵馬 亦發同征 行至周留城下 此時 倭國船兵 來助百濟 倭船千艘 停在白江 百濟精騎 岸上守船」とあり、白村江戦は龍朔三年(663)と理解できる。
⑤『三国史記』「百済本紀」には龍朔二年(662)七月以降の記事に「遇倭人白江口 四戰皆克」とある。次の記事は麟徳二年(665)なので、白村江戦の年次を特定できない。

 以上のように、『日本書紀』も海外史料も白村江戦は663年であることを示しており、積極的に662年を指示する、あるいは確定できる史料はありません。ですから、古田先生が662年説から663年説を受容する見解に変わられたこともよく理解できるのです。


第1525話 2017/10/29

白村江戦は662年か663年か(3)

 ある頃から古田先生は白村江戦の年次を663年と言われるようになったのですが、そうした先生の認識の「揺らぎ」が『古田武彦の古代史百問百答』にも現れています。

 「九州年号の『白鳳』は白村江戦の前年(六六一)に発布されたものですが、その敗戦という一大変事を“通して”存続しています。しかも、二十三年間。敗戦(六六二もしくは六六三)からも、約二十年間の存続です。」(ミネルヴァ書房版〔2015年〕170頁、東京古田会版〔2006年〕76頁)

 このように、白村江戦を六六二年あるいは六六三年と両論の可能性を示唆する表現がなされています。更に遡った2000年1月22日の大阪市での講演会では次のように発言されています。

 「それで顕慶五年(六六〇年)を持統八年に当てはめて、九年・一〇年・十一年と年を追って持統天皇吉野宮行幸の記事を当てはめていきますと、最後の吉野宮行幸が持統十一年四月十四日になっていました。それが龍朔三年(六六三年)四月に当たるわけです。つまり「丁亥」を顕慶五年(六六〇年)という定点にしますと、後同じバランスで見ていきますと、最後の持統十一年四月十四日は、実際は龍朔三年四月十四日ということになるわけです。ところがその年の八月か九月のところで、白村江の戦いが行われる。逆に言うと白村江の戦いが行われたその年の三・四カ月前までは、吉野へ行っている。ところが白村江の戦い以後は行っていない。そういう形になる。」(古田武彦講演会「壬申の乱の大道」、古田史学の会HPに掲載)

 1990年代中頃から、『旧唐書』百済伝の記事からは白村江戦の年次を特定できないとする丸山さんの主張を支持する意見が古田学派内でも発表されるようになり、古田先生の見解にも変化が現れてきたように思います。(つづく)


第1524話 2017/10/28

白村江戦は662年か663年か(2)

 従来、一元史観の通説でも白村江戦は『日本書紀』の記事などを根拠に天智二年(663)のこととされてきました。ところが古田先生が『旧唐書』百済伝を根拠に662年(龍朔二年)とする説を発表されました。『旧唐書』には白村江戦の記事は本紀には見えず、百済伝に記されているのですが、その倭国・百済と唐・新羅の戦いを記した一連の記事の冒頭に「(龍朔)二年」(662)とあり、その記事の後半部分に白村江戦が記されています。このことから、古田先生は白村江戦の年次を662年とされたのです。
 それに対して丸山晋司さんは、同記事は「(龍朔)二年」から始まってはいるが、その次の記事は麟徳二年(665)であり、龍朔二年に始まる記事全てが龍朔二年内とはできないとされ、『旧唐書』の他の列伝記事(黒歯常之伝など)の記述を根拠に、白村江戦は『日本書紀』と同年の663年であると、古田説を批判されました。以後、古田先生と丸山さんは激しく論争されました。
 両者の見解は対立したままでしたが、古田学派内では古田説を「是」とする意見が多数を占めたように思われ、その傾向が長く続きました。ところが、あるとき古田先生も『旧唐書』百済伝の「(龍朔)二年」に始まる記事が全て同年内とは断定できないが、「龍朔二年」の出来事と見えるように記されているという見解を表明されました。これは事実上、丸山さんの指摘を受け入れたことになるのですが、年次としては662年説を主張されました。
 ところが、その論争から10年近くたった頃と思いますが、突然古田先生は白村江戦の年次を663年と言われるようになりました。驚いたわたしは先生に問い質したところ、『日本書紀』を対象としたテーマでは『日本書紀』の記述通り白村江戦は663年でよいと返答されました。当時、わたしは今一つ先生の言われることを理解できませんでしたが、言われるとおりに『日本書紀』を対象とした論稿では663年とすることにしました。(つづく)