第1346話 2017/03/02

和歌山の神武(鎮西将軍)

 久しぶりの和歌山出張ということもあり、和歌山市の古代史で多元史観により考察すべきテーマがないか、ちょっとだけ調査してみました。すると、面白い伝承(史料)の存在に気づきましたのでご紹介します。
 『延喜式』神名帳にも記された当地の古い神社に「朝椋神社」(あさくらのじんじゃ)があるのですが、『紀州名勝志』所載の「朝椋神社伝」に次のような記事があるとのことです。

 「上古鎮西将軍〔不知何御宇何許人〕攻伐之砌、為最勲故二造建」(※〔 〕内は細注。)

 ちなみに、和歌山県立図書館所蔵『紀州名勝志』写本には「朝椋神社伝」は記載されていませんでした。どの写本にあるのか調査中です。
 いつの頃かどこの人かは知らないが、上古に「鎮西将軍」という人物が攻めてきて最も武勲があったので、この神社を建造したという不思議な記録です。何らかの当地の伝承が記されたものと思われますが、「鎮西将軍」とは「九州の軍団の長」を意味しますから、この地にそのような人物が戦功をあげたというのであれば、その第一候補はやはり神武ではないでしょうか。というよりも、それ以外の人物や伝承をわたしは知りません。
 記紀によれば神武兄弟は河内湾に突入するものの敗北し、兄の五瀬命は戦死します。神武は兄を和歌山の竃山に埋葬し、紀伊半島南端から上陸し、紀伊半島を山越えして奈良に侵入したと記載されていますから、和歌山市付近まで来たことになります。その後の神武の記事は天孫降臨時のニニギ等の伝承が盗用されているとわたしは考えていますから、神武がどのルートを通って大和に進入したのかは不明です。しかし、兄の亡骸を竃山に埋葬できたのですから、和歌山市近辺は制圧していた可能性が高いように思われます。敵地に兄を埋葬し、その地を離れたとは考えにくいからです。
 そうすると神武こそ当地で戦功をあげた「鎮西将軍」として伝承されるにふさわしい人物だと思われるのですが、いかがでしょうか。もしこの理解が正しければ、神武が大和に侵入するルートとして紀ノ川沿いを遡行したと考えてみたいところです。いずれにしましても、現段階では調査を始めたばかりですので、間違っているかもしれませんが、興味深い伝承ですので、ご紹介することにしました。

《補筆》本稿に先行する出色の論文があります。義本満さんの「紀ノ川の神武」(『『市民の古代』』第3集、1981年)です。神武は和歌山で戦い、紀ノ川を遡行して大和に突入したとする先行説です。「古田史学の会」HPに掲載されていますので、是非、ご一読下さい。


第1345話 2017/03/02

【巻頭言】

九州年号(倭国年号)から見える古代史

 今朝は久しぶりに仕事で和歌山市に向かっています。和歌山には化学工場が多く、化学メーカー同士で競合したり協力したりと、そのビジネス環境は複雑です。
 今月末頃に発行される『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(「古田史学の会」編、『古代に真実を求めて』20集)の宣伝も兼ねて、わたしが執筆担当した「巻頭言」を転載紹介します。なぜタイトルに従来の「九州年号」ではなく「倭国年号」を選んだのかの説明や本書の研究史的位置づけなどを記しています。

【巻頭言】
九州年号(倭国年号)から見える古代史
         古田史学の会・代表 古賀達也

 古代の中国史書に記された日本列島の代表国家「倭国」がいわゆる大和朝廷ではなく、北部九州に都を置いた九州王朝であることを古田武彦氏(平成二七年〔二〇一五〕没、享年八九歳)は名著『失われた九州王朝』(昭和四八年〔一九七三〕、朝日新聞社刊。ミネルヴァ書房より復刻)で明らかにされた。
 六世紀初頭、九州王朝は中国の王朝に倣い、自らの年号を制定した。その年号を古田武彦氏は「九州年号」という学術用語で論述されたのであるが、その命名の典拠は鶴峰戊申著『襲国偽僭考』に記された「古写本九州年号」という表記に基づく。九州年号を制定した倭国が自らの年号を当時なんと呼んだのかは史料上明らかではないが、恐らくは単に「年号」と呼んだのではあるまいか。あるいは隣国の中国や朝鮮半島の国々の年号と区別する際は「わが国(本朝)の年号」「倭国年号」等の表現が用いられたのかもしれない。もちろん、倭国が自国のことを「九州王朝」と呼んだりするはずもないであろうし、自らの年号を「九州年号」と称したということも考えにくい。
 今回、本書のタイトルを「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」と決めるにあたり、従来使用されてきた学術用語「九州年号」ではなく、あえて「倭国年号」の表現を選んだのは、「倭国(九州王朝)が制定した年号」という歴史事実を明確に表現し、「九州地方で使用された年号」という狭小な理解(誤解)を避けるためでもあった。古田武彦氏も自著で「倭国年号」とする表記も妥当であることを述べられてきたところでもある。もちろん学術用語としての「九州年号」という表記に何ら問題があるわけではない。収録された論文にはそれぞれの執筆者が選んだ表記を採用しており、あえて統一しなかったのもこうした理由からである。
 さらに、《大和朝廷以前》の一句をタイトルに付したのも、「倭国年号」の「倭国」は通説でいう大和朝廷には非ずという一点を、読者に明確にするためであった。本書の「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」というタイトル選定にあたり、編集部は多大な時間と知恵を割いたことをここに報告しておきたい。
 倭国(九州王朝)が制定した倭国年号(九州年号)は継躰元年(五一七)に始まり、大長九年(七一二)まで続いたと考えられている。他方、倭国(九州王朝)から王朝交代し、列島の代表者となった近畿天皇家(日本国)は初めての年号「大宝」(七〇一)を「建元」したことが『続日本紀』に見える。この時期に倭国から日本国へと、列島の中心権力が交代したことが、これら両国の年号からもうかがえ、その時代の日本列島のことを記した中国の史書『旧唐書』に「倭国伝」「日本国伝」が別国表記(日本国は倭国の別種)されていることとも見事に対応しているのである。さらには考古学的出土事実(木簡等)においても、倭国内の行政単位「評」が七〇一年から全国一斉に「郡」に代わったことも、この九州王朝から大和朝廷への王朝交代を反映していると考えざるを得ないのである。
 古田学派における倭国年号(九州年号)研究は、古田武彦氏の九州王朝説の提唱以来、全国各地の研究者により活発に進められてきた。その第一段階は諸史料に残された九州年号の調査探索であり、その集大成として『市民の古代』第十一集(市民の古代研究会編、新泉社。一九八九年)が「特集『九州年号』とは何か」として発刊された。次いで第二段階では九州年号の「年号立て(各年号の正しい順番と文字。暦年との対応など)」、すなわち原型論についての研究がなされた。その結論として、九州年号群史料としては現存最古の『二中歴』「年代歴」に見える九州年号が最も原型に近いとする説が最有力となり、さらに『二中歴』から漏れた「大長」年号が七〇一年以後に実在したことも明らかとなった。そして第三段階では、九州年号と九州年号史料に基づく九州王朝史研究へと発展した。その成果がミネルヴァ書房から刊行された『「九州年号」の研究 ー近畿天皇家以前の古代史ー』(古田史学の会編、二〇一二年)として結実したのであるが、本書はその続編あるいは姉妹編に相当する。
 本書は近年の九州年号研究の最先端論文を収録するにとどまらず、コラムとして各地の研究者による様々な九州年号関連記事も掲載した。この狙いは読んで面白いというだけではなく、読者にも九州年号研究の一翼に加われるという思いを共有していただける様々な切り口紹介という側面も有している。
 本書中、出色の研究成果は正木裕氏(古田史学の会・事務局長)による「九州王朝系近江朝」「近江年号」という新たな概念である。江戸期成立の諸史料に、天智天皇の時代の年号として「中元(六六八〜六七一年)」「果安(六七二年)」が散見されるのだが、従来は九州年号と見なされることはなく、言わば誤伝あるいは後世の創作の類ではないかとされ、九州年号研究者から取り上げられることもほとんどなかった。わたしの知るところでは、二〇一一年五月の「古田史学の会・関西例会」で竹村順弘氏(古田史学の会・事務局次長)が「天智の年号ではないか」と指摘されたくらいであった。
 その詳細は当該論文を読んでいただくこととして、この新概念は九州年号研究の延長線上で生まれたものであり、六〜七世紀の日本列島の古代の真実を探る上で有力な視点となる可能性を秘めている。中でも九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への中心権力の移行(王朝交代)の実体を研究するうえで、貴重な仮説と言わざるを得ない。まだ検証過程の「未証仮説」でもあり、読者からのご批判を待ちたい。
 以上のように、本書は倭国年号(九州年号)研究を新次元に引き上げるべく、野心的な論稿を収録した。「古田史学の会」が全ての日本古代史研究者や歴史ファンに是非を問う一冊なのである


第1344話 2017/03/01

2月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 2月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 2月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2017/02/01 『東京古田会ニュース』No.172が届く
2017/02/08 『季刊唯物論研究』の校正と英文タイトル
2017/02/18 愛知県一宮市の「賀」地名
2017/02/24 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』最終校正


第1343話 2017/02/28

続・「倭京」の多元的考察

 「洛中洛外日記」1283話で「倭京」の多元的考察について論じました。『日本書紀』の「倭京」が孝徳紀・天智紀・天武紀上の六五三〜六七二年の間(前期難波宮存続期間)にのみ現れるという不思議な分布状況を示していることから、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当)のアイデア、すなわち「壬申の乱に見える倭京は前期難波宮・難波京のことではないか」は作業仮説として成立していると考えました。
 ちなみに『日本書紀』に見える「倭京」記事は次の通りです。

①六五三年  (白雉四年是歳条) 太子、奏請して曰さく、「ねがわくは倭京に遷らむ」ともうす。天皇許したまわず。(後略)
②六六七年八月(天智六年八月条) 皇太子、倭京に幸す。
③六七二年五月(天武元年五月条) (前略)或いは人有りて奏して曰さく、「近江京より、倭京に至るまでに、処々に候を置けり(後略)」。
④六七二年六月(天武元年六月条) (前略)穂積臣百足・弟五百枝・物部首日向を以て、倭京へ遣す。(後略)
⑤六七二年七月(天武元年七月条) (前略)是の日に、東道将軍紀臣阿閉麻呂等、倭京将軍大伴連吹負近江の為に敗られしことを聞きて、軍を分りて、置始連菟を遣して、千余騎を率いて、急に倭京に馳せしむ。
⑥六七二年九月(天武元年九月条) 倭京に詣りて、島宮に御す。

 『日本書紀』には基本的に「倭」は奈良県の「やまと」として使用されているので、「倭京」とは明日香にあった近畿天皇家の宮の意味とされてきました。他方、「壬申の乱」に見える「倭京」は九州王朝「倭国」の「京(みやこ)」であった前期難波宮とするのが西村仮説なのですが、『日本書紀』の「倭京」記事が前期難波宮の存続期間(652〜686)にのみ見えることから、わたしは西村説が作業仮説として成立していると考えたわけです。
 とはいうものの、わたしはこの西村仮説が本当に成立するのか、『日本書紀』天武紀を精読する必要を感じていました。ようやく今週の日曜日に時間がとれましたので、天武紀を精読しました。西村仮説以外でも『日本書紀』の「倭京」出現期間を説明できる他の仮説がないか、西村仮説の論理展開上に不備がないのかをじっくりと考えてみました。その結果、前期難波宮存続期間と「倭京」記事の出現時期の一致について、西村仮説以外によっても説明可能であることに気づきました。それは次のようなケースです。

1.『日本書紀』編者は近畿天皇家の宮を規模や実体にかかわらず「京」と表現している。
2.近畿天皇家の宮殿が一カ所であれば、「京」や「都」「朝庭」と記せば、編年体史書なのでその時代の「天皇」がいた宮があった場所であることを特定できる。
3.ところがその時代に複数の「京」が併存していた場合、どちらなのかを具体的に区別して記す必要がある。
4.したがって、「倭(ヤマトの明日香)」以外に「京」が存在しており、『日本書紀』に両方の「京」を記述しなければならない場合、それらを区別するためにヤマトの「京」を「倭京」と表記するケースが発生する。
5.『日本書紀』で同時期に複数の「京」が存在したとされるのは、「難波朝庭」と「近江朝庭」の存在を記述した期間であり、それは前期難波宮造営の「孝徳紀白雉三年(652)」から、天智による近江遷都の期間(668〜672)を含み、前期難波宮が消失した「天武紀朱鳥元年(686)」までである。
6.この期間であれば『日本書紀』編者は、複数の「京」を区別するため、ヤマトの明日香の「京」を「倭京」と表記することが考えられる。
7.この理解に立てば、『日本書紀』の「倭京」出現期間が前期難波宮や近江朝庭存続期間と重なることを合理的に説明できる。

 以上の論理展開(論証)と西村仮説を支持する論理展開(論証)のいずれが妥当か、説得力があるのか、安定して成立している先行説との整合性があるのはどちらなのか、という検討が必要となりますので、引き続き深く考えていきます。
 なお付言しますと、研究者の中には自らの思いつきにとらわれ過ぎて、自説以外の「他説」の存在の有無の検討を怠ったり、自説に不利な史料事実や可能性を軽視・無視する論者が少なくありません(多元史観や古田説に対する一元史観の学界の対応はその典型です)。そうした態度は真理を見誤り学問的に危険です。もちろん「他説」や自説に不利な史料事実の存在に気づかないケースも残念ながらあります。ですから学問研究には批判や論争が必要です(「古田史学の会」関西例会はその役割の一端を担っています)。自説の発表は自由に行いたいが、自説への自由な批判は歓迎しないというのも学問的態度ではありません。このことを自戒を込めて記しておきます。


第1342話 2017/02/27

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』の目次

 今春発行予定の『古代に真実を求めて 古田史学論集第二十集』の目次が服部静尚さんから送られてきましたので、ご紹介します。「古田史学の会」2016年度賛助会員には1冊進呈します。お楽しみに。

『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』
          古田史学の会編
 A5判 192頁 定価2200円+税
 明石書店から3月中旬刊行
 ISBN978-4-7503-4492-8 C0321-E

 『日本書紀』『続日本紀』等に登場しない年号――それは大和朝廷(日本国)以前に存在した九州中心の王朝(倭国)が制定した独自の年号であり、王権交代期の古代史の謎を解く鍵である。九州王朝を継承した近江朝年号など倭国年号の最新の研究成果を集める。

〔巻頭言〕九州年号(倭国年号)から見える古代史 古賀達也

【特集】失われた倭国年号《大和朝廷以前》

Ⅰ 倭国(九州)年号とは

初めて「倭国年号」に触れられる皆様へ    西村秀己
「九州年号(倭国年号)」が語る「大和朝廷以前の王朝」    正木 裕
九州年号(倭国年号)偽作説の誤謬―所功『日本年号史大事典』『年号の歴史』批判―    古賀達也
九州年号の史料批判―『二中歴』九州年号原型論と学問の方法―    古賀達也
『二中歴』細注が明らかにする九州王朝(倭国)の歴史    正木 裕

失われた倭国年号

失われた倭国年号
《大和朝廷以前》

訓んでみた「九州年号」    平野雅曠
『書紀』三年号の盗用理由について    正木 裕

コラム① 九州王朝の建元は「継体」か「善記」か    古賀達也
コラム② 『二中歴』九州年号細注の史料批判    古賀達也
コラム③ 「白鳳壬申」骨蔵器の証言    古賀達也
コラム④ 同時代「九州年号」史料の行方    古賀達也
コラム⑤ 九州年号「光元」改元の理由    古賀達也
コラム⑥ 「告期の儀」と九州年号「告貴」    古賀達也
コラム⑦ 「元号の日」とは    合田洋一

Ⅱ 次々と発見される「倭国年号」史料とその研究
    
九州年号「大長」の考察    古賀達也
「近江朝年号」の研究    正木 裕
九州王朝を継承した近江朝廷―正木新説の展開と考察―    古賀達也
越智国・宇摩国に遺る「九州年号」    合田洋一
「九州年号」を記す一覧表を発見―和水町前原の石原家文書―    前垣芳郎
納音付き九州年号史料の出現―熊本県玉名郡和水町「石原家文書」の紹介―        古賀達也
納音付き九州年号史料『王代記』    古賀達也
兄弟統治と九州年号「兄弟」    古賀達也
天皇家系図の中の倭国(九州)年号    服部静尚
『日本帝皇年代記』の九州年号(倭国年号)    古賀達也
安土桃山時代のポルトガル宣教師が記録した倭国年号    服部静尚

コラム⑧ 北と南の九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑨『肥後国誌』の寺社創建伝承    古賀達也
コラム⑩ 「宇佐八幡文書」の九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑪ 和歌木簡と九州年号(倭国年号)    古賀達也
コラム⑫ 日本刀と九州年号    古賀達也
コラム⑬ 神奈川県にあった「貴楽」年号    冨川ケイ子
コラム⑭ こんなところに九州年号!    萩野秀公
コラム⑮ 東北地方の九州年号(倭国年号)    古賀達也

資料『二中歴』『海東諸国紀』『続日本紀』


第1341話 2017/02/23

続・太宰府編年への田村圓澄さんの慧眼

 従来の「実証」に基づいて成立した飛鳥編年により太宰府の土器や遺構(政庁・条坊など)は編年されていました。例えば政庁Ⅱ期や条坊都市は8世紀初頭以降の造営とされてきました。大和朝廷の大宝律令下の地方組織「大宰府」に相当するとされてきたわけです。
 そられ旧「実証」に代えて、更に精密な調査に基づく新「実証」により太宰府編年の修正をもたらした画期的な研究が井上信正さん(太宰府市教育委員会)によりなされたことは、これまで繰り返し説明してきたところです。井上さんが発見された新「実証」とは、太宰府条坊都市の北側にある大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺と南側に広がる条坊とは異なる尺単位で設計されており、政庁や観世音寺よりも条坊都市の成立の方が早いということを考古学的調査により明らかにされたことです。素晴らしい発見と言わざるを得ません。
 この発見により、井上さんは大宰府政庁Ⅱ期・観世音寺の成立を従来通り8世紀初頭、条坊都市は藤原京と同時期がやや早い7世紀末頃とされました。その結果、太宰府は大和朝廷の都である藤原京と同時期に造営された日本最古の条坊都市となったのです。その後、前期難波宮の時代に条坊都市難波京造営の可能性が高まってきており、正確には太宰府は国内二番目の条坊都市となりますが、この点については別途詳述します。
 しかし、この井上さんによる新「実証」とそれに基づく修正太宰府編年も、実は田村さんの次の疑問に対して答えることができません。

 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁Ⅰ期の天智期:古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」(田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和62年刊。)

 井上さんの新「実証」による修正太宰府編年によっても、太宰府条坊都市の成立が8世紀初頭から7世紀末頃になっただけであり、田村さんが疑問とされたように、やはり天智期(660〜670年頃)に水城や大野城で護るにふさわしい宮殿や都市は太宰府には存在しないことになるのです。しかも、昨年には筑紫野市から羅城跡と思われる大規模土塁が発見されたことにより、太宰府条坊都市の成立に対して、現地の考古学者は飛鳥編年による従来説ではますます説明困難となっているのです。
 やはり九州王朝説に基づく「論証」を優先させ、これまでの「実証」やそれに基づく太宰府編年を根底から見直す必要があるのです。まさに「論証」の出番です。これこそ「学問は実証よりも論証を重んじる」ということに他なりません。


第1340話 2017/02/22

太宰府編年への田村圓澄さんの慧眼

 村岡典嗣先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」の具体例として、太宰府編年における実証と論証というテーマで説明したいと思います。
 従来、大宰府政庁の編年はⅠ期の堀立柱の小規模建物が天智期、Ⅱ期の朝堂院様式の礎石造りの政庁と条坊都市が8世紀初頭の大宝律令下の「大宰府」とされてきました。その根拠は出土土器等の飛鳥編年に基づいたものです。飛鳥編年とは畿内の出土土器や遺構(考古学的出土事実:実証)を『日本書紀』の記事(史料根拠:実証)の暦年にリンクさせて成立した土器編年です。これは現代の考古学編年における「不動の通念」とされているものです。この「実証」に基づいた飛鳥編年に準拠して、太宰府出土土器等(考古学的事実:実証)が編年され、先の大宰府政庁編年が成立しているのです。これらの「実証」からは「太宰府は九州王朝の都」という古田説が成立不可能であることをご理解いただけるでしょう。
 このような「実証主義」に基づいた太宰府編年に根源的な疑問を呈した碩学がおられました。九州歴史学の重鎮、田村圓澄さん(1917-2013)です。田村さんは太宰府編年に対して率直に次のような根源的疑問を呈されていました。

 「仮定であるが、大宝令の施行にあわせ、現在地に初めて大宰府を建造したとするならば、このとき(大宰府政庁Ⅰ期の天智期:古賀注)水城や大野城などの軍事施設を、今みるような規模で建造する必要があったか否かについては、疑問とすべきであろう。」(田村圓澄「東アジア世界との接点─筑紫」、『古代を考える大宰府』所収。吉川弘文館、昭和62年刊。)

 大宰府政庁Ⅰ期の小規模な堀立柱建物を防衛するために大規模な防衛施設である水城や大野城(『日本書紀』によれば天智期の造営:実証)が必要であったとは思えないという、きわめて理性的な疑問を呈されたのです。歴史学者の慧眼というべきでしょう。しかし、田村さんはこの疑問を解明すべく、新たな論証へは進まれなかったようです。大和朝廷一元史観の限界を田村さんでも越えられなかったのです。
 この疑問に対して、九州王朝説に立てば次のような論理展開が可能となります。

1.『日本書紀』の記述を「是」とすれば、天智期に水城や大野城など国内最大規模の防衛施設が造営されたこととなり、それにふさわしい防衛すべき宮殿や重要施設が既に当地にあったと考えざるを得ない。
2.それほどの宮殿には当地を代表する権力者がいたと考えざるを得ない。
3.『日本書紀』にはそうした筑紫の権力者の存在が記されていない。従って、大和朝廷側の権力者ではない。
4.そうした筑紫の権力者の存在は、古田武彦氏が提唱した九州王朝しかない。
5.従って、太宰府には日本列島最大規模の巨大防衛施設で守るべき九州王朝の王都があったこととなる。
6.その時期(7世紀後半頃)の宮殿遺構は通説の大宰府政庁編年では存在しない。
7.従って、通説の太宰府編年は間違っている可能性が高い。

 このように論理展開でき、この「論証」は従来の「実証」と対立するのですが、「学問は実証よりも論証を重んじる」という立場に立てば、この論証結果に従わざるを得ません。「論理の導くところへ行こう。たとえそれがいずこに至ろうとも。」です。こうして「太宰府は九州王朝の都」という仮説へと論証は進むのですが、もちろん「太宰府は九州王朝の都」などと記した「実証」などありません。わたしが古代史研究を進める上で、この論証と実証の関係性こそ古田史学を正しく理解し継承するためにどうしても避けて通れない課題でした。
 ちなみに、この太宰府九州王朝王都説の論証を試みたのが拙稿「よみがえる倭京(太宰府) -観世音寺と水城の証言-」です。「古田史学の会」HPに収録されていますのでご覧下さい。ただ、この論稿は2002年に発表したもので、現在の研究水準から見ると不十分かつ不正確です。しかし、初歩的ではありますが大宰府編年に対する疑問に真正面から挑戦したものであり、研究史的意義はあると思っています。
 なお付言しますと、わたしの前期難波宮九州王朝副都説も基本的に同様の論理構造と学問の方法からなっています。この点については別の機会に改めて詳述します。(つづく)


第1338話 2017/02/19

住吉神は「筑紫の神」「軍神」

 昨日の「古田史学の会」関西例会では新視点からの研究報告が続き、触発されました。
 服部さんの報告では、倭国(九州王朝)が中国南朝(梁)の冊封体制から離脱するときの国際情勢(百済や北魏との関係)などについて論議が深まりました。
 岡下さんからは、「多利思北孤」は自署名ではなく隋側が選んだ文字ではないかとされました。その理由として、「北孤」の字義が天子にふさわしいものではないとされ、論争が巻き起こりました。
 原さんからは、住吉大社の祭神は「筑紫の神」「軍神」とされていることから、九州王朝による「常備軍」としての性格を持った神社だったのではないかとする意表を突く仮説が報告されました。また、住吉神社の祭神を祖と伝える氏族がないという調査結果なども示され、とても興味深いものでした。
 正木さんからは天孫降臨説話において「空白」となっている筑前や肥前、糸島、唐津の説話が神武記紀に盗用されているとして、その詳細を展開されました。
 発表者へは『古田史学会報』への投稿を要請しました。
 2月例会の発表は次の通りでした。

〔2月度関西例会の内容〕
①『別府の風土と人の歩み』紹介(奈良市・水野孝夫)
②倭国が冊封から離脱した理由(八尾市・服部静尚)
③魏志倭人伝の中の30カ国の考察(茨木市・満田正賢)
④原伝承上の、崇神帝・初国知らす(大阪市・西井健一郎)
⑤「金印」と志賀海神社の占い(京都市・古賀達也)
⑥「多利思北孤」について(京都市・岡下英男)
⑦住吉神社は常備軍で神領は駐屯地(2)・住吉大社での埴使の神事(2)(奈良市・原幸子)
⑧九州王朝の九州平定 筑紫糸島・肥前平定(川西市・正木裕)

○正木事務局長報告(川西市・正木裕)
 1/22新春講演会の報告・『古田史学会報』投稿要請・下山昌孝氏(多元的古代研究会・元副会長)、荒金卓也氏(九州古代史の会・元代表)の訃報・文芸誌『飛行船』の大北恭宏氏「大知識人・坂口安吾」紹介・2/16 「大阪さくら会」の服部氏講演報告・2/25 久留米大学で正木氏、服部氏が講演・2/22NHKカルチャーセンターで谷本氏が講義・2/23「古代史セッション」(森ノ宮)の案内(大阪夏の陣はなぜおこったか、笠谷和比古氏)・6/18「古田史学の会」会員総会と講演会(エルおおさか)・「古田史学の会」関西例会会場確保の件・久留米市で「連玉(れんだま)」(弥生時代後期)が出土(犬塚幹夫氏からの情報)・その他


第1339話 2017/02/20

住吉大社「九州王朝常備軍」説と学問研究

 2月の「古田史学の会」関西例会において、原幸子さんから住吉大社は九州王朝の「常備軍」とする仮説が発表されました。わたしも意表を突かれた思いでお聞きしましたが、正確に言うならばまだ作業仮説(思いつき)の段階に留まっている研究です。しかし、わたしは学問研究において、こうしたアイデアや作業仮説が自由に発表され、また自由に論争できる環境こそ「古田史学の会」らしい真の学問研究の場だと確信しています。
 こうした作業仮説の発表に対して、「実証されていない」とか、「古田説と異なる」という「批判」が出されるかもしれませんが、それは学問的態度ではありません。古田先生ご自身も古墳に埋納された多量の武器や甲冑に対して、これを埋納ではなく、古墳を武器庫(軍事施設)としていたのではないかとする作業仮説を発表されたことがありました。この仮説について、わたしは賛成できませんでしたが(地下の石室中では腐食や腐敗が避けられないため)、学問研究ではこうした意見を自由に発表しあえることが重要であり、仮に間違っていたとしても、学問研究の進展に役立つことができることを古田先生から学びました。
 今回の原さんの仮説は『住吉大社神代記』などを根拠にされたもので、「住吉大社は軍事施設」だったと直接記された史料(実証)があるわけではありません。これは「太宰府は九州王朝の都」だと直接記された史料(実証)がないのと同様です。
 しかし、難波に古くから九州王朝の軍事組織があったとするアイデアは九州王朝説の立場からすれば必ずしも不当な考えではありません。また「難波吉士」という不思議な「職名」が古代史料に散見することも、原さんの仮説により説明しやすくなりそうです。この仮説の当否は今後の検討・論争に委ねなければなりませんが、学問研究にとって有益な新視点をもたらす仮説だとわたしは評価します。


第1337話 2017/02/14

金印と志賀海神社の占い

 志賀島の金印「漢委奴国王」が本来は糸島の細石神社にあったものだったとする伝承の存在を古田先生が紹介されています。そのこととは直接関係はありませんが、志賀島の志賀海神社が金印を神寳にしようとしていたという記録の存在を知りました。
 本年1月、「九州古代史の会」主催の井上信正さんの講演を聴きに福岡市に行ったとき、早く会場についたので会場近くの図書館で時間待ちをしました。そのおり、福岡地方史研究会の『会報』第24号(昭和60年4月)に掲載されていた塩屋勝利さんの「『漢委奴国王』金印をめぐる諸問題(上)」が眼に留まりました。天明4年(1784)2月に志賀島村叶の崎から発見された金印の発見当時の史料紹介と考察ですが、今まで知らなかったことが記されており、興味深く拝読しました。
 中でも、志賀島の志賀海神社が、発見された金印を同社の神寳にしようと占ったが、良い結果が出なかったので断念し、黒田藩に提出したことが記されていました。志賀海神社宮司阿曇家本『筑前国続風土記附録』にみえる次の記事です。

「明神の境地より得たる故、神寳とせん事を占ひしに神鬮下らざる事再三也といふ。故に府呈に呈けしとなり」 *古賀注 「府呈」の「呈」は衍字か。

 わたしの持っている『筑前国続風土記附録』活字本にはこの記事が見つかりませんので、志賀海神社宮司阿曇家本にのみ付記された記事で、志賀海神社内の記録に基づいているのかもしれません。いずれにしても志賀海神社は金印が志賀島から出土したと認識していることがわかります。
 金印を発見したとされる志賀島村の百姓甚兵衛については記録がなく不審とされてきましたが、寛政二年(1790)の『那珂郡志賀嶋村田畠名寄帳』中冊に同名の「甚兵衛」が見えるとのこと。さらに『粕屋郡志』(粕屋郡役所編、1923年刊)には、「村の農坂本甚兵衛」と姓名が記されていることが紹介されています。
 そして、甚兵衛のその後の消息が不明になった理由として、地元の「甚兵衛火事」伝承と関係があるのではないかとされています。伝承では「甚兵衛火事」は1811年(文化8年)とされているが、藩の記録では見あたらず、1809年(文化6)の火災のことで、甚兵衛は火元の責任を取って志賀島を去ったと思われるとされています。少なくとも地元に「甚兵衛」と呼ばれる人物がいた証拠にはなりそうで、興味深い伝承です。
 金印は志賀島で発見されたのではないとする意見の根拠の一つとして、志賀島村叶の崎付近には弥生時代の遺跡が見つからないということが指摘されています。しかし、金印が弥生時代に埋納されたという根拠もなく、歴代の倭王に相続された可能性も考えられ、そうであれば弥生時代の遺跡の存在の有無は関係ありません。中国からもらった金印が倭王一代のみで埋納されるとするのも、やや違和感があります。金印について、引き続き調査検討したいと思います。

(追記)本稿執筆の夜、古田先生に本稿の内容を報告する夢を見ました。先生がうれしそうにメモを取られているところで眼が覚めました。


第1336話 2017/02/13

FaceBookで同時代九州年号史料を紹介

 竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)のお勧めで始めたFaceBookですが、とても重宝しています。特に写真を掲載できるというメリットは絶大です。「洛中洛外日記」のように文字情報だけで説明するのに比べて、FaceBookは写真や図でも説明できるので、その圧倒的な情報量により説得力が増し、効果的です。
 そうしたFaceBookの情報発信力や表現力を利用して、このところ同時代九州年号史料の解説を写真付きで連載しています。今まで、芦屋市から出土した「元壬子年」木簡、茨城県岩井市出土の「大化五子年」土器、福岡市から出土し行方不明になっている「白鳳壬申」骨蔵器などの紹介をしてきたところです。
 FaceBookの機能として、コメント欄に質問や意見、写真なども貼り付けられ、多くの読者が見ている中で双方向のやりとりができます。「洛中洛外日記」読者の皆さんもFaceBookに登録され、「友達承認」してバーチャルな古代史例会に参加されませんか。
 「古田史学の会」のFaceBookもあり、ホームページ「新古代学の扉」から閲覧が可能です。是非、ご覧ください。


第1335話 2017/02/13

『古田史学会報』138号のご案内

本年最初の『古田史学会報』138号が発行されましたので、ご紹介します。

一面には、古田先生から教えていただいた言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」を次世代に伝えていきたいとする、わたしからの新年のご挨拶が掲載されました。二面では正木裕さんから、昨年発見された筑紫野市の巨大土塁の解説と「田身嶺・多武嶺」=大野城説の関連性について論じられました。
服部静尚さんからは九州王朝の諱(いみな)・字(あざな)という、今までにないテーマに挑戦された論稿が発表されました。新しい研究分野ですのでこれからの論争が期待されます。

わたしからは、九州王朝の「家紋」が「十三弁紋」とする説(口碑伝承)の紹介と、『日本書紀』に見える「倭京」の出現が前期難波宮存続期間に限られることから、その「倭京」記事には前期難波宮を「倭京」とするものがあるのではないかとする西村秀己さんのアイデアが作業仮説として成立する可能性について論じました。

このところ常連組の論稿が目立っています。他の研究者や新人の投稿をお待ちしています。なお、長文の原稿を送られる方もありますが、極端な字数オーバーは物理的に掲載不能で、採用対象から除外されます。長文の原稿は『古代に真実を求めて』に投稿してください。内容次第ですが、短い原稿ほど採用の可能性は高くなります。

138号に掲載された論稿・記事は次の通りです。
『古田史学会報』138号の内容
○2017年 新年のご挨拶
次世代に伝えたい古田先生の言葉 古田史学の会・代表 古賀達也
○太宰府を囲む「巨大土塁」と『書紀』の「田身嶺・多武嶺」・大野城 川西市 正木 裕
○九州王朝の家紋(十三弁紋)の調査  京都市 古賀達也
○諱と字と九州王朝 八尾市 服部静尚
○「倭京」の多元的考察 京都市 古賀達也
○「壹」から始める古田史学Ⅸ 倭国通史私案④
九州王朝の九州平定-怡土平野から周芳の沙麼へ
古田史学の会・事務局長 正木裕
○久留米大学公開講座(正木氏・服部氏)のお知らせ
○NHKカルチャー神戸教室(谷本茂氏)
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○2016年度会費納入のお願い
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○編集後記 西村秀己