第1516話 2017/10/13

九州年号「大化」の原型論(1)

 わたしは九州年号の「大化」が、古田先生のいうONライン(西暦七〇一年)をまたいで存在し、「大長」がそれに続いたとする説を発表してきました。「大化」年間を六九五〜七〇三年の九年間、「大長」年間を七〇四〜七一二年の九年間とする仮説です。更に「大長」年号を最後の九州年号とする論稿も発表してきました(注①)。それらに対して、谷本茂さんより「古田史学の会」関西例会(二〇一七年六月)や『古田史学会報』一四一号(二〇一七年八月)掲載の「倭国年号の史料批判・展開方法について」にて、「大化」「大長」の年次や期間について古賀説とは異なるものが諸史料中にあることから、古賀説の根拠に対して疑義が示されました。
 これは文献史学における史料批判と学問の方法に関わる重要なテーマを含んでいますので、谷本さんからの疑問に答えながら、改めて拙論を説明したいと思います。(つづく)

(注)
①古賀達也「最後の九州年号 『大長』年号の史料批判」『古田史学会報』七七号所収、二〇〇六年十二月(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房〔二〇一二年一月〕に収録)。
 古賀達也「続・最後の九州年号 消された隼人征討記事」『古田史学会報』七八号所収、二〇〇七年二月(『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房〔二〇一二年一月〕に収録)。
 古賀達也「九州年号『大長』の考察」『「九州年号」の研究』古田史学の会編、ミネルヴァ書房所収。


第1515話 2017/10/11

『古田史学会報』142号のご案内

『古田史学会報』142号が発行されましたので、ご紹介します。

 拙稿では本年六月に開催した井上信正さんの「古田史学の会」記念講演会での質疑応答について論じました。太宰府条坊都市の成立を大和朝廷の藤原京と同時期とする井上説は古代史学界に激震をもたらしました。更に研究が進めば、太宰府の方が藤原京よりも成立が早いことも判明すると思われます。そうなると、九州王朝説でなければ説明がつかないことになります。太宰府現地の考古学者の研究と勇気に期待したいと思います。

 別役(べっちゃく)さんと久冨(くどみ)さんは会報デビューです。お二人とも熱心な会員さんで、これからの活躍が期待されます。久冨さんには先日の福岡講演会のお手伝い(書籍販売)もしていただきました。あらためて御礼申し上げます。

 このところ優れた投稿原稿が多く、中には1年待ちのものもあります。採用稿は必ず掲載しますので、申し訳ありませんがお待ちください。今号に掲載された論稿は次の通りです。

『古田史学会報』142号の内容
○井上信正さんへの三つの質問 京都市 古賀達也
○「佐賀なる吉野」へ行幸した九州王朝の天子とは誰か(下) 川西市 正木裕
○古代官道 -南海道研究の最先端(土佐国の場合)- 高知市 別役政光
○気づきと疑問からの出発 相模原市 冨川ケイ子
○古田史学論集『古代に真実を求めて』第二十集
「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」について(2の上) 瀬戸市 林伸禧
○「壱」から始める古田史学(12)
古田説を踏まえた卑弥呼のエピソードの解釈① 古田史学の会・事務局長 正木裕
○大阪講演会の報告 京都市 久冨直子
○松本市講演会のお知らせ
○お知らせ「誰も知らなかった古代史」セッション
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会・関西例会のご案内
○『古田史学会報』原稿募集
○『古代に真実を求めて』21集 投稿募集
○編集後記 西村秀己


第1514話 2017/10/09

久留米市田主丸で「積石水門」発見

 昨日の『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』出版記念福岡講演会(共催:久留米大学比較文化研究会・九州古代史の会・古田史学の会)は最後まで活発な質疑応答が続くなど、学問的にも盛況でした。遠くは宮崎県・長崎県・熊本県から参加された方もおられ、九州での古田史学(九州王朝説)への関心の高さがうかがわれました。更に筑紫野市の前畑筑紫土塁保存運動の先頭に立たれている清原倫子先生(福岡女学院大学講師)も見えられ、ご挨拶していただきました。
 九州での講演会ではいつも期待以上の学問的成果に恵まれます。今回も吉田正一さん(菊池市、久米八幡神社宮司)から久留米市田主丸石垣で神籠石山城の水門に似た「石垣高尾遺跡」が発見されていたとの情報が伝えられ、講演会受付を協力していただいた犬塚幹夫さん(古田史学の会会員、久留米市)からは同遺跡の報告書コピーをいただきました。
 犬塚さんからいただいた『石垣高尾遺跡 田主丸町文化財調査報告書第22集』(2003年、田主丸町教育委員会)によると、平成13年に三日谷川砂防ダム工事に伴う調査で発見され、記録保存のための緊急発掘調査の後、取り壊されたとのこと。
 地理的には高良山神籠石と杷木神籠石の中間地点にあり、軍事的要衝の地ではないようです。標高は100mの位置で、その石積みによる谷の水門遺構は神籠石山城の水門によく似ています。花崗岩の長方形石で8段積み上げられており、長さ11.4m(推定20m)、残存高3.8m、提体下部に吐水口があります。他方、山を取り囲むような列石は発見されておらず、その性格は不明と言わざるを得ません。積石から出土した須恵器が8世紀のものと編年されており、造営時期が古代まで遡る可能性が高いと思われます。なお、石積み中央部の石材上面と前面に星形(五芒星)が刻まれており、このような古代の刻印石材の存在は初めて知りました。他に同様例があれば、ご教示ください。
 当地の字地名「石垣」は、この積石水門と関係がありそうな気もしますが、今のところこれ以上のことはわかりません。遺跡が取り壊されたことは残念ですが、同地域の踏査が期待されます。
 なお、犬塚さんからの情報では、同遺跡を『続日本紀』文武3年(699)12月条に見える「三野城」(みののき)ではないかとする見解が研究者から示されているようです。
 「大宰府をして三野、稲積の二城を修らしむ。」『続日本紀』
 水縄(耳納)連山の「みのう」を三野(みの)と考える説ですが、当水門が山城の一部であることの考古学的証明がまず必要です。


第1513話 2017/10/07

すみません。鷲尾愛宕神社の海抜26mを海抜68mに訂正

福岡市西区の愛宕神社初参拝

 明日の久留米大学福岡サテライト教室での講演会のために、今日から福岡入りしました。時間があったので、福岡市西区姪浜の鷲尾愛宕神社を初参拝しました。博多湾や福岡市街を一望できるスポットです。急峻な参道を登ると博多湾に浮かぶ能古島や志賀島が眼前に広がります。山頂に愛宕神社社殿があり、そこはそれほど広い場所ではなく、社殿と社務所と展望台という感じでした。
 古田先生によれば『日本書紀』孝徳紀に見える「難波長柄豊碕宮」はこの愛宕神社の地とされています。そこで、その愛宕神社を実見したいと願っていました。今日、当地を初めて訪れて、思っていたよりも標高(海抜68m)があり、急峻で、頂上の社殿スペースが狭いということがわかりました。従って、博多湾岸を見下ろす小規模な「砦」、あるいは「物見台」には適地ですが、7世紀中頃の九州王朝(倭国)の天子の宮殿にふさわしい所とはとても思えませんでした。何よりも九州王朝の天子の宮殿を建てられるようなスペースがなく、少なくとも数百人には及ぶであろう、天子家族と衛兵・従者・側用人らの生活に必要な水源もないようです。それとも、衛兵や従者らは水と食料を持参し、山中に野営でもしたとするのでしょうか。戦場であればともかく、『日本書紀』に記されるほどの天子の宮殿に対して、わたしにはそうした光景は想像不可能です。
 また、この海岸に接した位置に天子の宮殿を造営しなければならない理由も不明です。もし造るのなら、より安全な水城の内側ではないでしょうか。当地は白雉改元の儀式や全国を評制支配する政治拠点には不適で、『日本書紀』にわざわざ「難波長柄豊碕宮」と記されるような場所とは思われませんでした(この点については古田先生も気づいておられたようで、そのことについては別途紹介します)。更に7世紀中頃の有力者(九州王朝の天子)が居したとするような現地伝承も見あたりません。
 古田先生が自説の根拠とされた地名の「類似」(那の津、名柄川、豊浜)にしても、愛宕神社の北側の地名が「豊浜」ですから、神社がある愛宕山(旧名:鷲尾山)を「豊碕」と推定する根拠は穏当と思います。しかし「長柄(ながら)」の根拠とされた名柄川は約1.5kmほど西側ですし、「ながら野」は南西方向へ約2.5kmの所にあり、神社のある「愛宕」とは別の場所です。「難波」地名も同地域には見あたりません。ですから、地名の「類似」という根拠もあまり学問的説得力を感じられません。
 もっとも、現存地名やその位置・範囲が7世紀中頃と同じかどうか不明ですから、「類似」地名による論証成立の是非は判断し難いと言わざるを得ません。やはり「決め手」は7世紀中頃の宮殿遺構の出土、あるいはその考古学的痕跡の発見です。これが明確になれば「一発逆転」が可能かもしれません。
 以上が現地訪問の感想ですが、結論を急がず、引き続き調査検討を進めたいと思います。


第1512話 2017/10/05

今月の読書、榎村寛之著『斎宮』

 九月に発刊された榎村寛之著『斎宮 伊勢斎王たちの生きた古代史』(中公新書)を読み始めました。古代日本における「斎宮」「斎王」という制度には以前から関心を抱いていたのですが、本格的な勉強はしないままでした。天皇の娘を伊勢神宮の祭祀役(斎王)として派遣するという制度が大和朝廷で初めて行われたのか、前王朝である九州王朝(倭国)にその淵源があったのかについて研究してみたいと思っていました。その答えやヒントが同書から得られるのではないかという予感を抱いて「今月の読書」の一冊にしました。
 著者の榎村さんのお名前は知らなかったのですが、同書に記された「著者紹介」によれば、日本古代史を専攻され伊勢神宮や斎宮・斎王の研究者のようです。現在は三重県立斎宮歴史博物館学芸普及課長とのこと。もし、九州王朝の「伊勢神宮」「倭姫命」があれば、斎宮・斎王制度もあったかもしれません。どなたか多元史観・古田史学で「九州王朝の斎宮・斎王」を研究されませんか。


第1511話 2017/09/30

9月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 9月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。
 配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記」「同【号外】」のメール配信は「古田史学の会」会員限定サービスです。

《9月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル》
2017/09/06 『多元』141号のご紹介
2017/09/17 アウグスト・ベークに学ぶ
2017/09/18 優れた論証は学問を牽引する
2017/09/22 岩手大学の岡崎教授から来信


第1510話 2017/09/30

『戦後型皇国史観』に抗する学問

           をHPに転載

 「古田史学の会」ホームページ「新古代学の扉」を担当されている横田幸男さん(古田史学の会・全国世話人)からの要請により、拙稿「『戦後型皇国史観』に抗する学問」を転載することになりました。同論稿は『季報 唯物論研究』の編集部より依頼されて執筆したもので、「中間総括・市民の日本古代史研究」を特集した138号(2017年2月)に収録されました。
 同誌は「古田史学の会」を一緒に立ち上げた藤田友治さん(故人、元・市民の古代研究会々長)も関わっておられた、立命館大学関係者が中心となって発行されているマルクス主義系の雑誌のようです。そうしたこともあり、「古田史学の会」役員会でも執筆依頼を受けるかどうか意見が分かれました。最終的には、わたしの意見を受け入れていただき、執筆することになりました。同特集には執筆予定者リストに反「古田武彦」、反「古田史学の会」の人物の名前が数名見られ、わたしが執筆しなければ、誤った古田史学の解説や古田先生への罵詈雑言が書かれた論稿のみとなりかねないと危惧していましたので、そのことを役員会でも理解していただきました。ですから、執筆した原稿を役員の皆さんに校正・チェックしていただきました。
 そうして書き上げた「『戦後型皇国史観』に抗する学問」は古田史学と「古田史学の会」の歴史的位置づけや使命を改めて表明したもので、古田先生を追悼する記念碑的論稿となりました。ホームページに転載されることにより、多くの皆さんに読んでいただけることを願っています。


第1509話 2017/09/28

王朝交代―倭国から日本国へ

松本市講演会

期日 2017年11月14日(火)
13時50分~17時
場所

於:長野県松本市中央図書館第一視聴覚室

(松本市蟻ケ崎二丁目4-40、JR松本駅から約1.5㎞、北松本駅から1㎞)

連絡先:鈴岡潤一さん ℡026-332-7402

講演

13時50分~14時 
開会あいさつ 邪馬壹国研究会・松本 
代表 鈴岡潤一

14時~14時50分 
古賀達也「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」

15時~16時30分
正木 裕「王朝交代-倭国から日本国へ」

以後質疑応答 17時終了

「邪馬壹国研究会・松本」
「古田史学の会」      共催

参加費

資料代1000円

10月、11月のイベントご案内

○誰も知らなかった古代史(21回)
日時:10月27日(金)18時30分〜20時
テーマ:「難波宮の官衙に官僚約8千人」
【カタリスト】服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集長)

○誰も知らなかった古代史(22回)
日時:11月24日(金)18時30分〜20時
テーマ:「大宰府に来ていたペルシャの姫」
【カタリスト】正木裕さん(古田史学の会・事務局長)

場所:まちライブラリー@森ノ宮キューズモール。
   〒540-0003 大阪府大阪市中央区森ノ宮中央2丁目1-70
・地下鉄中央線/長堀鶴見緑地線森ノ宮駅より徒歩約1分
・JR環状線 森ノ宮駅より徒歩約3分
 http://machi-library.org/where/detail/563/

定員30名(参加費ドリンク代500円)。

※「誰も知らなかった古代史」の申し込みは「森ノ宮まちライブラリー」まで
  TEL06-6949-9222 定休日=火曜日 受付=11:00〜19:00

○松本市講演会
 長野県松本市で「王朝交代―倭国から日本国へ」と題し、「邪馬壹国研究会・松本」と「古田史学の会」の共催で古代史講演会を開催します。ふるってご参加ください。

日時:11月14日(火)14時開会
14時〜14時50分 古賀達也「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」
15時〜16時30分 正木 裕「王朝交代-倭国から日本国へ」
以後質疑応答 17時終了

会場:松本市中央図書館第一視聴覚室(松本市蟻ケ崎二丁目4-40、JR松本駅から約1.5㎞、北松本駅から1㎞)

参加費:1000円

連絡先:鈴岡潤一さん ℡026-332-7402


第1508話 2017/09/25

九州王朝の天子「筑紫君」の御子孫

 九州王朝史研究の一テーマとして、九州王朝の天子「筑紫君」の御子孫の調査があり、その研究成果については何度か説明してきました。「倭の五王」から筑紫君磐井たちは筑後地方に盤踞してきたと考えており、阿毎多利思北孤の時代、7世紀初頭になって筑前太宰府に遷宮します(倭京元年〔618年〕が有力候補)。そのとき、筑後に残った一族は稲員家(高良大社大祝の家系)を中心として現代まで御子孫が筑後地方や熊本におられます。ところが、太宰府に遷宮した多利思北孤の御子孫の行方がよくわからないままでした。
 かすかにその痕跡と思われる、戦国武将の筑紫広門を筑紫君の末裔とする史料が散見されるのですが、筑後の稲員家とは異なり、その系図などで確認することができていません。そこで今後の研究者のために筑紫広門を古代の筑紫君の子孫とする史料をご紹介することにします。
 その一つは、安政6年(1859)に対馬の中川延良により記された『楽郊紀聞』(らくこうきぶん)です。平凡社東洋文庫版によれば次のような記事が見えます。

 「筑紫上野介の家は、往古筑紫ノ君の末と聞えたり。豊臣太閤薩摩征伐の比は、広門の妻、子供をつれて黒田長政殿にも嫁し由にて、右征伐の時には、其子は黒田家に幼少にて居られ、後は筑前様に二百石ばかりにて御家中になられし由。外にも其兄弟の人歟、御旗本に召出されて、只今二軒ある由也。同上。」平凡社東洋文庫『楽郊紀聞2』229頁

 東洋文庫編集者による次の解説が付されています。
 「筑紫広門。惟門の子。同家は肥前・筑前・筑後で九郡を領したが、天正十五年秀吉の九州征伐のとき降伏、筑後上妻郡一万八千石を与えられ、山下城に居た。再度の朝鮮役に出陣。関ヶ原役には西軍に属したため失領、剃髪して加藤清正に身を寄せ、元和九年没、六十八。その女は黒田長政の室。長徳院という。筑紫君の名は『釈日本紀』に見える。筑紫氏はその末裔と伝えるが、また足利直冬の後裔ともいう。中世、少弐氏の一門となり武藤氏を称した。徳川幕府の旗本には一家あり、茂門の時から三千石を領した。」

 ところが『太宰管内志』の「筑前国御笠郡筑紫神社」の項には次のように記されています。

 「さて此社の神官は筑紫氏にして初は社邊に居りたりしを後に兵革を業として天正ノ比武威を振ひし筑紫上野介廣門は此神官の後裔なり、(中略)又〔筑後志四巻〕に筑紫上野介藤原廣門入道宗薫は大職冠鎌足公の後胤にして藤太秀郷の末裔なり下野守尚門は少弐ノ一族にして筑前國御笠郡筑紫村を領じ筑紫を家ノ號とす其子秀門・其子正門・其子惟門・其子廣門なり天正年中惟門肥前國二上山の城より筑後國鷹取の城にうつれり」『太宰管内志』(上)668頁

 『太宰管内志』引用の「筑後國志」によれば、廣門の先祖は少弐氏で筑紫村を領地にしてから筑紫氏を名乗ったとあります。この記事が正しければ、筑紫廣門は古代の筑紫君の子孫ではないかもしれません。少弐氏の出自が不明ですので、今のところこれ以上のことはわかりません。
 筑紫氏といえばニュースキャスターの筑紫哲也さんが有名です。筑紫さんは大分県日田市のご出身とのこと。日田市に筑紫氏がいたことは不思議ですが、日田市出土の金銀象嵌鉄鏡と筑紫さんのご先祖と何か関係があるのでしょうか。ちなみに筑紫哲也さんは古田先生の九州王朝説をご存じで、生前、わたしもお葉書をいただきました。おそらく、自らの出自を九州王朝の筑紫君だったと思っておられたのではないでしょうか。


第1507話 2017/09/24

倭人伝の「奴」国名と現代日本の「野」地名

 「洛中洛外日記」1505話「日本列島出土の鍍金鏡」で紹介した、岐阜県揖斐郡大野町の城塚古墳は野古墳群に属しています。わたしはこの「野古墳群」という名称に興味を持ち、地図などで調べたところ当地の字地名が「野(の)」でした。最初は「大野古墳群」の間違いではないかと思ったのですが、「野古墳群」でよかったのです。
 小領域の字地名とはいえ、「野」のような一字地名は珍しく、古代日本語の原初的な意味を持つ地名と思われ、古田先生が提唱された「言素論」の貴重なサンプルではないでしょうか。「野」の他には三重県津市の「津」も同様です。その字義は港でほぼ間違いなく、「野」は一定の面積を有す「平地」のことでしょうか。あるいは、そのことを淵源とした地名接尾語かもしれません。
 『三国志』倭人伝の国名に「奴」の字が使用されるケースが少なくないのですが、「奴国」などはその代表例です。この「奴」こそ、現代日本の地名にも多用される「野」に対応していると考えられます。従来の倭人伝研究では「奴」を「do」「na」と読んだり、中には「to」と読む論者もありました。残念ながら『三国志』時代の中国語音韻の復元はまだなされておらず、「奴」の音はいわゆる中古音に近い「no」か「nu」とする説が比較的有力と見られています。
 他方、日本列島内の地名と倭人伝国名との一致などから、現代日本語地名の読みが『三国志』時代の音韻復元に利用できそうであることを古田先生は指摘されていました。そうした中で、「洛中洛外日記」827話「『言素論』の可能性」でもご紹介した中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)の好著『奴国がわかれば「邪馬台国」がわかる』(海鳥社、2014年)が出版され、倭人伝の「奴」は日本の地名に多用される「野(no)」に相当することを論証されました。古代中国語音韻研究の最新成果とも整合しており、この中村説は有力と思います。
 こうした古田学派内の研究成果にわたしは触れていましたので、岐阜県揖斐郡大野町の字地名「野」の存在を知ったとき、これこそ弥生時代まで遡る可能性が高い地名であり、「倭人伝」の「奴国」の「奴」と同義ではないかと思いました。その「野」と呼ばれた地域に「野古墳群」が存在することも、深い歴史的背景を有していたためであり、偶然ではないと思います。ちなみに、当地には「美濃」「大野」など「野(no)」地名が散見され、古代の「奴国」の一つではなかったでしょうか。倭人伝にも複数の「奴国」がありますが、弥生時代も現代も「の」あるいは「○○の」は一般地名化するほど普通に使用されたと思われます。(つづく)


第1506話 2017/09/24

大阪歴博で市大樹さんの講演を聴講

 昨日は大阪歴博で開催された「大坂の歴史を掘る2017」の市大樹さん(大阪大学・準教授)の講演を聴講しました。「古田史学の会」からは小林嘉朗副代表、正木裕事務局長、服部静尚編集長、久冨直子さんも参加されました。
 市さんの講演主旨は、前期難波宮の造営を従来説より早く開始されたとされ、白雉改元儀式も完成の二年前の650年に前期難波宮で開催されたとする新説です。「洛中洛外日記」1470話「白雉改元『難波長柄豊碕宮』説」に市さんの当該論文「難波長柄豊碕宮の造営過程」を紹介していますので、ご参照ください。
 率直な感想としては、『日本書紀』孝徳紀の記事を無批判に「是」として、それを前提に各記事を解釈するという、言わば仮説に仮説を積み重ねるというかなり無茶な方法論が採用されており、古田史学の学問の方法とは異なると感じました。ただ、従来説の弱点であった、白雉改元の儀式を行った宮殿が上町台地のどこであったのか不明という難題に対して、果敢に一元史観の立場から挑戦された姿勢は、同じ研究者として共感できました。
 講演終了後に市さんに御挨拶し、「古田史学の会・代表」の名刺を差し上げました。司会を歴博の考古学者、李陽浩さんがされておられましたので、李さんにも御挨拶しました。李さんは古代建築研究の第一人者で、優れた論文を数多く発表されています。わたしも前期難波宮のことについて多くのことを教えていただいています。いつか「古田史学の会」で講演していただければと考えています。


第1505話 2017/09/21

日本列島出土の鍍金鏡

 熊本県球磨郡あさぎり町の才園(さいぞん)古墳出土の鍍金鏡(直径14.65cm)を含め、日本列島からは3面の鍍金鏡の出土が知られています。
 1面は九州王朝の中枢領域である糸島市の一貴山銚子塚古墳(4世紀後半、墳丘長103m)から出土した方格規矩四神鏡(直径21.2cm)です。同古墳は糸島地方最大の前方後円墳ですから、九州王朝の有力者の古墳と見てもよいと思います。もしかすると4世紀後半頃の「倭王」かもしれません。5世紀の「倭の五王」の時代になりますと、倭国(九州王朝)は筑後地方に遷都(遷宮)したと、わたしは考えていますから、被葬者はその直前の倭王の可能性が高いように思います。
 もう1面は何故か九州から遠く離れた岐阜県揖斐郡大野町の城塚古墳(5世紀中頃〜6世紀初頭、主軸全長75m)から鍍金獣帯鏡(直径20.3cm)が出土しています。九州王朝説の立場からすると九州内からの鍍金鏡出土は当然とも言えるのですが、岐阜県大野町の城塚古墳からの出土は多元的古代の観点から、この濃尾平野に鍍金鏡を埋納されるにふさわしい「天子」級の権力者が居たことを想像させます。
 もちろん出土した数の数倍の鍍金鏡が古代において存在していたと考えるべきですが、九州地方から2面、東海地方から1面という鍍金鏡出土分布は何を意味するのか、古田学派ならではの研究テーマです。(つづく)