第1322話 2017/01/14

新春講演会(1/22)で「酸素同位体比測定」解説

 来週1月22日に開催する「古田史学の会」新春講演会では講師のお一人として中塚武さん(総合地球環境学研究所)をお招きして、木材の最先端年代測定法である「酸素同位体比測定」の解説をしていただきます。木材年輪セルロース中の酸素同位体比を年代測定に利用するというアイデアが素晴らしく、樹種を選ばす、精度も高いということにとても驚きました。
 「洛中洛外日記」667話で紹介しましたように、西井健一郎さん(古田史学の会・全国世話人)から送っていただいた「読売新聞」(2014.02.25)の記事『難波宮跡の柱「7世紀前半」…新手法で年代特定』により「年輪セルロース酸素同位体比法」という、樹木の年代を測定する新技術を知りました。インターネットでは次のように解説されています。

 「酸素原子には重量の異なる3種類の『安定同位体』がある。木材のセルロース(繊維)中の酸素同位体の比率は樹木が育った時期の気候が好天だと重い原子、雨が多いと軽い原子の比率が高まる。酸素同位体比は樹木の枯死後も変わらず、年輪ごとの比率を調べれば過去の気候変動パターンが分かる。これを、あらかじめ年代が判明している気温の変動パターンと照合し、伐採年代を1年単位で確定できる。」

 新聞報道によれば、難波宮から出土した柱を酸素同位体比法で測定したところ、7世紀前半のものとわかったとのこと。この柱材は2004年の調査で出土したもので、1点はコウヤマキ製で、もう1点は樹種不明。最も外側の年輪はそれぞれ612年、583年と判明しました。伐採年を示す樹皮は残っていませんが、部材の加工状況から、いずれも600年代前半に伐採され、前期難波宮北限の塀に使用されたとみられるとのことです。
 新春講演会でこの技術と測定結果が詳しく解説していただけます。これからの古代史研究にとっても基本技術となることでしょう。とても楽しみです。


第1321話 2017/01/11

五畿七道に「北海道」がない理由

 年始挨拶廻りで四国に来ています。昨晩は高松市に泊まり、当地の会員の西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人、会計担当)都築さんと夕食をご一緒しました。もちろん話題は古代史ですが、西村さんから興味深い仮説をお聞きしました。
 それは五畿七道に「北海道」がなぜないのかというテーマです。西海道・東海道・南海道があるのに北海道が無く北陸道となっているのが疑問と言われるのです。当初、わたしは西村さんの疑問の意味が理解できなかったのですが、西村さんの説明では、九州王朝の「北海道」が既に存在していたため、大和朝廷は「北陸道」とせざるを得なかったというものです。
 九州王朝にとっての「北海道」とは壱岐・対馬・朝鮮半島へ向かうルート(海北道中)であり、現「山陰道」が「北陸道」であり、山陽道は「東海道」だったはずとのこと。従って、大和朝廷は九州王朝の「北陸道」(山陰道)の延長線に相当するルートを「北海道」ではなく九州王朝に倣って北陸道と命名したのではないかという仮説です。
 この西村説によれば五畿七道に「北海道」がない理由を一応説明できますし、九州王朝の官道名称の復元にとっても有効な仮説と言えそうです。付け加えれば、九州王朝にとって「西海道」は長崎から五島列島へ向かうルート、「南海道」は南へ肥後・薩摩から沖縄に向かうルートということになりそうです。九州王朝の古代官道研究にとって貴重な西村仮説と言えます。


第1320話 2017/01/10

中国北朝(北魏)の大義名分

 中国南朝に臣従してきた九州王朝(倭国)でしたが、梁の時代に入ると九州年号「継躰」を建元し、冊封から外れ天子を自称するに至ります。同時に北朝(北魏)との交流が始まった痕跡もあります。
 たとえば北部九州を代表する山でもある英彦山は北魏僧善正が九州年号の教到元年(531)に開基したとされていますし、雷山千如寺の国宝千手観音像の体内仏はその様式が北魏時代の仏像によく似ています。更に『隋書』には九州王朝の天子、多利思北孤と隋との交流が記録されています。このように、九州王朝は南朝梁の冊封から抜けてからは、むしろ北朝との関係を図っているように見えるのです。
 その北朝(北魏)が南朝をどのように認識(表現)していたのかが『北魏書』に記されています。

「(太和三年、479年)是年、島夷粛道成、其の主の劉準を廃し、僭わって自ら立ち、号して斉と曰う。」(『魏書 七上』高祖紀第七上)

 このように南朝斉の天子を「島夷」という蔑称で表記しているのです。この後も南朝の天子は「島夷」と表記されているのですが、南朝は「大陸国家」であり、「島夷」という表現はいくら蔑称とはいえ、地勢的に妥当ではありません。むしろ倭国(九州王朝)こそ「島夷」という表現が妥当でしょう。ちなみに、高句麗などについては「東夷」という伝統的な表記を用いています。

「(太延二年、436)高麗東夷諸国」(『魏書 四上』世祖紀第四上)

 この他にも『魏書』(『北魏書』)には「雑夷」「海夷」という表記も見え、北朝にとっての大義名分による蔑称が散見されるのです。
 なお、南朝に対してなぜ「島夷」という蔑称が用いられのかという面白い問題もあるのですが、古田先生との検討会では、文字通りの「島夷」である倭国と同列視して蔑んだのではないかとする見解(アイデア)で一致しました。もちろん、論証は今後の課題です。


第1319話 2017/01/08

中国南朝と倭国の関係

 わたしのfacebookの読者の方から、中国南朝を継承している九州王朝が天子を称することについて疑問がよせられました。南朝が東夷の国に対してそのようなことを認めないのではないかとするご質問でした。とても鋭い質問なので、この問題についてわたしの考えを説明したいと思います。
 このテーマについては古田先生とも検討を進めたことがあり、懐かしいテーマでした。今から10年ほど昔のことですが、たしか京都大学で開催された日本思想史学会でわたしが九州年号について発表したとき、なぜ九州王朝は年号を制定したのかという質問が会場からなされました。そのとき出席されていた古田先生からも南朝との関係を指摘する意見が出されました。時間不足でそのときは詳しい説明はできなかったのですが、要約すると次のように捉えています。

1.『宋書』倭国伝などから、倭国(九州王朝)が中国南朝の冊封体制に入っていたことは明らか。
2.『宋書』によれば、倭王武は「安東大将軍倭王」の称号を認められていた。
3.『南斉書』でも「鎮東大将軍」を認められている。
4.ところが『梁書』では百済と同格の「鎮東大将軍」「征東大将軍」とされているが(武帝即位の天監元年・502年)、百済はその後「寧東大将軍」に昇格している。
5,他方、九州年号は517年に「継躰」建元しており、この年は梁の武帝の天監16年に相当する。
6.年号を制定するということは、南朝(梁)の冊封を外れるという九州王朝の決意の現れと見なさざるを得ない。
7.『梁書』によれば梁と倭国との国交記事は少なく、恐らく梁と九州王朝(倭国)との間で何らかの関係を悪化させる事情があったのではないか。

 以上のような理解をしています。もちろん状況証拠による仮説ですが、南朝「梁」が健在にもかかわらず、九州王朝が建元しているという事実を説明できる一つの有力な仮説ではないでしょうか。
 それと同時に、この頃既に中国では北朝が並立しており、北方の「夷蛮」が天子を名乗り、年号を制定していることは九州王朝も知っていますから、南朝に対して臣従するメリットが無くなれば、九州王朝も中国北朝と同様に天子を名乗り、建元するという選択肢は当然あったものと思われます。


第1318話 2017/01/07

年頭雑感、続「酉年」考

 7世紀中頃から鳥名の年号を続けた九州王朝ですが、次のように「白」の字と「朱」の字を何故か二回ずつ用いています。

 白雉(652〜660年)
 白鳳(661〜683年)
 朱雀(684〜685年)
 朱鳥(686〜694年)

 この後、「大」の字を用いた年号が二回続き、九州年号と九州王朝は終焉を迎えます。

 大化(695〜703年)
 大長(704〜712年)

 この「大化」という年号は重要な意味を持っていたはずで、九州王朝にとって大きな変化があったことをうかがえます。大化元年(695)は近畿天皇家にとっても重要な時期です。その前年の12月に持統天皇が藤原宮に「遷宮」したことが、『日本書紀』に次のように記されています。

 「藤原の宮に遷り居(おわ)します。」『日本書紀』持統8年(694)12月条

 藤原宮は近畿天皇家にとって恐らく初めての大規模で朝堂院様式を持つ宮殿であり、しかも当時としては国内最大規模の条坊都市(新益京)を伴っています。そこへの「遷宮」の翌年に九州年号が「大化」に改元されていることは偶然ではないように思います。なお、この藤原宮(大宮土壇)は前期難波宮のような北闕様式ではなく、王宮が条坊都市の中心に位置する周礼様式と呼ばれるタイプです。このことから九州王朝と近畿天皇家は王都宮殿様式に関する政治思想が異なっていたようです。その後、近畿天皇家は710年に遷都した平城京は北闕様式を採用し、それは平安京にも引き継がれています。
 九州王朝は「大化」と改元し、その9年後の704年には最後の九州年号「大長」と改元し、大長9年を最後に九州年号は消えます。「大長」と改元したのは没落した九州王朝の最後の天子の「大いに長く続くように」という願いが込められていたのかもしれません。


第1317話 2017/01/03

年頭雑感、「酉年」考

 今年の干支「酉(とり)」にちなんで、鳥の名前を用いた九州年号(倭国年号)について考えてみました。九州年号(倭国年号)は九州王朝(倭国)の歴史を研究するうえで貴重なヒントを与えてくれます。九州年号には中国の王朝や大和朝廷の年号とは異なり、仏教に関するものが散見されます。僧聴・僧要・法清などです。九州王朝が仏教を深く崇敬していたことは『隋書』イ妥国伝にも見えるとおりです。

 「敬佛法、於百濟求得佛經、始有文字。」
 (仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて得、初めて文字を有した。)『隋書』イ妥国伝

 ところが前期難波宮が完成した652年からそれまでとはがらっと変わって、鳥の名前が年号に用いられ始めます。次の通りです。

 白雉(652〜660年)
 白鳳(661〜683年)
 朱雀(684〜685年)
 朱鳥(686〜694年)

 最初の鳥名年号「白雉」改元の年に、日本列島最初の朝堂院を備える北闕様式(北に宮殿を置く都城)の前期難波宮が完成しています。わたしは前期難波宮を九州王朝の副都と考えていますから、この頃に九州王朝の政治思想が変化し、初めての北闕様式の王都・王宮を造営し、九州年号もそれまでの仏教色を有するものなどから鳥名年号に変えています。とりわけ、「白鳳」や「朱雀」は天子にふさわしい鳥名の年号です。この時期、九州王朝に何が起きたのでしょうか。
 なお、今年は九州年号「継体」(元年、517年丁酉)が建元されて1500年になります。今春、『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』を発刊しますが、偶然とはいえ幸先の良い一年になりそうです。(つづく)


第1316話 2017/01/01

謹賀新年
12月に配信した「洛中洛外日記【号外】

 新年のお慶びを申し上げます。
 旧年中は「古田史学の会」のホームページ「新・古代学の扉」をご覧いただき、ありがとうございます。今年も「洛中洛外日記」をお届けいたしますので、よろしくお願い申しあげます。新春講演会(1月22日、i-siteなんば)にて皆様とお会いできることを楽しみにしております。

 12月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 12月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2016/12/07 化学と古代史のプレゼン
2016/12/18 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』初校
2016/12/19 真田丸の赤を天然色素で再現
2016/12/24 贈呈本二冊
2016/12/31 『多元』137号のご紹介


第1315話 2016/12/31

2016年の回顧「研究」編

 2016年最後の今日、この一年間の『古田史学会報』に発表された研究の回顧にあたり、特に印象に残った優れた論文をピックアップしてみました。下記の通りです。
 いずれも多元史観・古田史学にふさわしいものです。中でも正木さんの九州王朝系「近江王朝」という新概念は、7世紀末における九州王朝から大和朝廷への王朝交代の実像を考えるうえで重要な仮説となる可能性があります。その可能性について論究したものが「番外編」に取り上げた拙稿「九州王朝を継承した近江朝廷」ですが、両論稿をあわせて読んでいただければ正木説が秘めている王朝交代に迫る諸問題と「解」が浮かび上がることと思います。
 服部さんの二つの論稿は、律令官制に必要な都や官衙の規模を具体的に示されたものと、河内の巨大前方後円墳が近畿天皇家のものではない可能性を示唆されたもので、いずれも考古学への多元史観適用の試みです。今後の発展が期待されるテーマです。
 西村さんの論稿は、古代官道(南海道)の不自然な変遷が、九州王朝から大和朝廷へのONライン(701年)で発生した権力所在地の変更によるものであることを明らかにされたものです。この視点は他の官道の研究でも有効と思われます。
谷本さんの『隋書』などの中国史書に基づく官職名についての研究は、従来の古田説の部分修正をも迫るものです。
 2017年も古田史学・多元史観を発展させる研究発表と会報への投稿をお待ちしています。それでは皆様、良いお年をお迎えください。

○「近江朝年号」の実在について 川西市 正木裕(133号)
○古代の都城 -宮域に官僚約八千人- 八尾市 服部静尚
○盗まれた天皇陵 八尾市 服部静尚 (137号)
○南海道の付け替え 高松市 西村秀己(136号)
○隋・煬帝のときに鴻臚寺掌客は無かった! 神戸市・谷本 茂(134号)

〔番外〕
○九州王朝を継承した近江朝廷
-正木新説の展開と考察- 京都市 古賀達也(134号)


第1314話 2016/12/30

「戦後型皇国史観」に抗する学問

 藤田友治さん(故人、旧・市民の古代研究会々長)が参加されていた『唯物論研究』編集部からの依頼原稿をこの年末に集中して書き上げました。市民の日本古代史研究の「中間総括」を特集したいとのことで、「古田史学の会」代表のわたしにも執筆を依頼されたようです。
 今日が原稿の締切日で、最後のチェックを行っています。論文の項目と最終章「古田学派の運命と使命」の一部を転載しました。ご参考まで。

「戦後型皇国史観」に抗する学問
-古田学派の運命と使命-
一.日本古代史学の宿痾
二.「邪馬台国」ブームの興隆と悲劇
三.邪馬壹国説の登場
四.九州王朝説の登場
五.市民運動と古田史学
六,学界からの無視と「古田外し」
七.「古田史学の会」の創立と発展
八.古田学派の運命と使命
(前略)
 「古田史学の会」は困難で複雑な運命と使命を帯びている。その複雑な運命とは、日本古代の真実を究明するという学術研究団体でありながら、同時に古田史学・多元史観を世に広めていくという社会運動団体という本質的には相容れない両面を持っていることによる。もし日本古代史学界が古田氏や古田説を排斥せず、正当な学問論争の対象としたのであれば、「古田史学の会」は古代史学界の中で純粋に学術研究団体としてのみ活動すればよい。しかし、時代はそれを許してはくれなかった。(中略)
 次いで、学問体系として古田史学をとらえたとき、その運命は過酷である。古田氏が提唱された九州王朝説を初めとする多元史観は旧来の一元史観とは全く相容れない概念だからだ。いわば地動説と天動説の関係であり、ともに天を戴くことができないのだ。従って古田史学は一元史観を是とする古代史学界から異説としてさえも受け入れられることは恐らくあり得ないであろう。双方共に妥協できない学問体系に基づいている以上、一元史観は多元史観を受け入れることはできないし、通説という「既得権」を手放すことも期待できない。わたしたち古田学派は日本古代史学界の中に居場所など、闘わずして得られないのである。
古田氏が邪馬壹国説や九州王朝説を提唱して四十年以上の歳月が流れたが、古代史学者で一人として多元史観に立つものは現れていない。古田氏と同じ運命に耐えられる古代史学者は残念ながら現代日本にはいないようだ。近畿天皇家一元史観という「戦後型皇国史観」に抗する学問、多元史観を支持する古田学派はこの運命を受け入れなければならない。
 しかしわたしは古田史学が将来この国で受け入れられることを一瞬たりとも疑ったことはない。楽観している。わたしたち古田学派は学界に無視されても、中傷され迫害されても、対立する一元史観を批判検証すべき一つの仮説として受け入れるであろう。学問は批判を歓迎するとわたしは考えている。だから一元史観をも歓迎する。法然や親鸞ら専修念仏集団が国家権力からの弾圧(住蓮・安楽は死罪、法然・親鸞は流罪)にあっても、その弾圧した権力者のために念仏したように。それは古田学派に許された名誉ある歴史的使命なのであるから。
本稿を古田武彦先生の御霊に捧げる。
(二〇一六年十二月三十日記)


第1313話 2016/12/24

「学問は実証よりも論証を重んじる」の出典

 古田先生が亡くなられて1年を過ぎました。亡師孤独の道をわたしたち古田学派は必死になって歩んだ一年だったように思います。これからも様々な迫害や困難が待ち受けていると思いますが、臆することなく前進する覚悟です。
 わたしが古田先生の門を叩いてから30年の月日が流れました。その間、先生から多くのことを学びましたが、今でも印象深く覚えている言葉の一つに「学問は実証よりも論証を重んじる」があります。古田史学や学問にとって神髄ともいえる言葉で、古田先生から何度も聞いたものです。この言葉の持つ意味については、『古田武彦は死なず』(『古代に真実を求めて』19集、明石書店)に「学問は実証よりも論証を重んじる」という拙稿を掲載しましたので、ぜひご覧ください。
 この言葉は古田先生の恩師村岡典嗣先生の言葉とうかがっています。そのことにふれた古田先生自らの文章が『よみがえる九州王朝』(ミネルヴァ書房)に収録された「日本の生きた歴史(十八)」に次のようにありますのでご紹介します。

「第一 『論証と実証』論

 わたしの恩師、村岡典嗣先生の言葉があります。
  『実証より論証の方が重要です。』
と。けれども、わたし自身は先生から直接お聞きしたことはありません。昭和二十年(一九四五)の四月下旬から六月上旬に至る、実質一カ月半の短期間だったからです。
 『広島滞在』の期間のあと、翌年四月から東北大学日本思想史科を卒業するまで『亡師孤独』の学生生活となりました。その間に、先輩の原田隆吉さんから何回もお聞きしたのが、右の言葉でした。
助手の梅沢伊勢三さんも、『そう言っておられましたよ』と“裏付け”られたのですが、お二方とも、その『真意』については、『判りません』とのこと。“突っこんで”確かめるチャンスがなかったようです。

 今のわたしから見ると、これは『大切な言葉』です。ここで先生が『実証』と呼んでおられたのは『これこれの文献に、こう書いてあるから』という形の“直接引用”の証拠のことです。
 これに対して『論証』の方は、人間の理性、そして論理によって導かれるべき“必然の帰結”です。
(中略)
 やはり、村岡先生の言われたように、学問にとって重要なのは『論証』、この二文字だったようです。」

 このように古田先生は、わたしが何度もお聞きした「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉についてはっきりと自著にも残されています。もしこの言葉が古田先生の著書には書かれていないという方がおられれば、それは事実とは異なります。


第1312話 2016/12/22

上賀茂神社の「白馬節会」

 今朝、京都駅に向かう京都市バスの中で、京都市交通局が発行しているリーフレット「おふたいむ」を読みました。2017年新年号で表紙には上賀茂神社の社殿風景が掲載され、同神社の新年の神事「白馬節会」の紹介記事がありました。そこには次のように記されていました。

 「1月中は多彩な行事が予定されており、元日から5日までの天候のよい日には、10時から15時頃まで神馬「神山号」が登場。7日の10時からは白馬奏覧神事(はくばそうらんしんじ)が行なわれる。これは年始に白馬を見ると一年の邪気が祓われるという宮中行事『白馬節会(あおうまのせちえ)』にちなんだものだ。」

 「白馬節会」と書いて「あおうまのせちえ」と訓むのですが、これは古代から行われている伝統行事です。「白馬節会」という言葉は古代史研究においてときおり古典で目にしており、「白馬」と書いて「あおうま」と訓むことに興味をひかれていました。その理由には諸説あるようで、わたしにも当否はわかりませんが、わたしの専門分野である染料化学や染色化学では、偶然のことかもしれませんが思い当たる節があります。
 テキスタイル業界では白い衣服をより白く見せる技術として蛍光増白剤を用いたり、黄ばみをごまかすために反対色の青色染料で薄く染色するという裏技があります。人間の目では黄色よりも青色の方が白っぽく感じるという性質を利用したものです。そこで古代でも濃度によっては「青」を「白」と感じていたのかもしれず、そのため「白馬」を「あおうま」と呼んだのではないかと考えています。もちろん史料根拠を見つけたわけではありませんので、今のところ思いつき(作業仮説)に過ぎません。
 色彩に関する日本語には不思議な表現が少なくありません。たとえば「緑の黒髪」という表現。これでは髪の色が「緑」なのか「黒」なのかはっきりしない表現です。「青息吐息」もそうです。青い色した「息」など見たことがありません。寒い日に吐く息は「白」だと思うのですが、先の「白馬節会」と同様に「白」を「あお」とする表現です。日本語は不思議ですね。


第1311話 2016/12/17

東大入試問題「古代」編に解答例

 「洛中洛外日記」1307話「東大入試問題『古代』編に注目」で紹介した次の問題に対する同書の解答例を転載します。

【問題】
 次の文章を読み、左記の設問に答えよ。

 西暦六六〇年百済が唐・新羅の連合軍の侵攻によって滅亡したとき、百済の将鬼室福信は日本の朝廷に援軍を求め、あわせて、日本に送られて来ていた王子余豊璋を国王に迎えて国を再興したい、と要請した。日本の朝廷はこれに積極的に応え、翌年豊璋に兵士を従わせて帰国させ、王位を継がせた。次いで翌六六二年には、百済軍に物資を送るとともに、みずからも戦いの準備をととのえた。六六三年朝廷はついに大軍を朝鮮半島に送り込み、百済と連携して唐・新羅連合軍に立ち向かい、白村江の決戦で大敗するまで、軍事支援をやめなかった。

 設問
 このとき日本の朝廷は、なぜこれほど積極的に百済を支援したのか。次の年表を参考にしながら、国際的環境と国内的事情に留意して5行(一五〇字)以内で説明せよ。

六一二 隋、高句麗に出兵する(→六一四)。
六一八 隋滅び、唐起こる。
六二四 唐、武徳律令を公布する。高句麗・新羅・百済の王、唐から爵号を受ける。
六三七 唐、貞観律令を公布する。
六四〇 唐、西域の高昌国を滅ぼす。
六四五 唐・新羅の軍、高句麗に出兵する。以後断続的に出兵を繰り返す。
六四八 唐と新羅の軍事同盟成立する。
六六〇 唐・新羅の連合軍、百済を滅ぼす。
六六三 白村江の戦い。
六六八 唐・新羅の連合軍、高句麗を滅ぼす。
(1992年度の東大入試に出題)

 【解答例】
 7世紀には隋・唐が中国を統一し、律令を完成させて国域の拡大を進めた。こうして国際的緊張が高まると、朝庭は百済の復興を支援して朝鮮半島での拠点の確保に努めた。また、国内でも改新の詔で掲げた目標が豪族の反発で進まない状況に、中央集権国家の建設を進めたい朝庭は、軍事動員により権力の集中を図ろうとした。

 著者によるこの解答例や同書解説を読むと、東大がこのレベルの解答を150字以内で過不足なく書ける学生を求めていることがわかります。恥ずかしながら、わたしが受験生の年齢の時、到底このような解答は書けなかったでしょう。なお解答例に見られるよう、古代も現代も国家が軍事動員(戦争)を行う理由が、国際環境と国内事情の双方にあることがわかります。
解答例の「朝庭」を「九州王朝」とすれば、それなりに優れた解答と思われますが、「大化改新詔」を『日本書紀』の記述通り7世紀中頃と理解していることは、古代史学界の大勢の見解(通説)を反映したものと思われます。しかし現在の古田学派の研究状況からすると、『日本書紀』孝徳紀に記された「改新詔」は九州年号の大化期(695〜703年)に公布されたものと九州年号「常色」の改新詔が混在しているとする正木裕説が有力ですから、この点は解答例の認識とは異なります。
 最後に同書の解答例を援用しながら九州王朝説による解答例をわたしなりに考えてみました。次の通りですが、もっと優れた解答例があると思いますので、皆さんも考えてみられてはいかがでしょうか。

【九州王朝説による解答例】
 7世紀には隋・唐が中国を統一し、国域の拡大(侵略)を進めた。こうして国際的緊張が高まると、倭国(九州王朝)は自国防衛と同盟国百済復興のため朝鮮半島に大軍を派兵した。国内では評制など中央集権国家の建設を進め、首都太宰府の防備を固め副都難波京を造営し、唐や新羅からの侵略に備えた。