第1354話 2017/03/16

敷粗朶の出土状況と水城造営年代

 『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ 平成13・14年』によると、敷粗朶が検出された水城遺構について次のような説明がなされています。
 敷粗朶は、地山の上に水城を築造するため、基底部強化を目的としての「敷粗朶工法」に使用されていたことが従来の発掘調査により知られていました(3層の敷粗朶を発見)。ところが平成13年の発掘調査では、発掘地の地表から2〜3.4m下位に厚さ約1.5mの積土中に11面の敷粗朶層が発見されました。それは敷粗朶と積土(10cm)を交互に敷き詰めたものです。また、以前に発見されていた敷粗朶は水城土塁と平行方向に敷かれていましたが、今回のものは直角方向に敷かれていました。その統一された工法(積土幅や敷粗朶の方向)による1.5mの敷粗朶層が、400年もかけて築造されたものとは思えない出土状況です。単純計算では約4mm/年の築造ペースとなりますが、これはありえないでしょう。
 敷粗朶層最上層からサンプリングされた粗朶の炭素同位体比年代測定の中央値660年を重視すると、敷粗朶層の上の積土層部分(1.4〜1.5m)の築造期間も含め、水城の造営年代(完成年)は7世紀後半頃となり、『日本書紀』に記された水城造営を天智3年(664)とする記事と矛盾しないことになります。このことは、水城を白村江戦以前のかなり早い時期から長期間を要して造営されたと考えてきた従来の九州王朝説からすると意外ですが、引き続き検討したいと思います。(つづく)


第1355話 2017/03/17

敷粗朶のサンプリング条件と信頼性

 水城造営年代の判断材料の一つとなる敷粗朶とその炭素同位体比年代測定値について、さらに深く検討してみましょう。『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』によると、地表から2m下位に敷粗朶最上層があり、以下、11層の敷粗朶が発見されました。その統一された工法や1.5mの厚さに11層あることなどから、恐らく短期間に造営されたと考えざるを得ない遺構状況を示していることは既に指摘した通りです。
 粗朶の測定サンプルは3点で、その内の1点は地表から発掘を続けて最初に発見された敷粗朶最上層からのサンプルで、「GL-2m」とネーミングされています。測定の中央値が660年とされたものです。最上層敷粗朶面の写真も開示されており、確実に最上層の粗朶と断定できるサンプリング条件であり、サンプルの信頼性も高いものです。
 その他の2点について、内倉稿では「中層430年±」と「最下層240年±」と表記されているのですが、調査報告書では「坪堀1中層第2層」「坪堀2第2層」とネーミングされており、「坪堀」という狭い範囲での発掘で、しかも位置が異なります。層位についてもどちらが深いのか具体的な説明もなく、相対的な深度もよくわかりませんでした。考古学の専門家であればわかるのかもしれませんので、この点、引き続き調査します。ただ、最上層の粗朶とは発掘方法(サンプリング方法)が異なることは間違いないようです。このことが、サンプルの信頼性に差をもたらしているかもしれません。
 いずれにしましても、短期間に築造された敷粗朶層からの3サンプルの測定がこれほど異なっているのですから、そのサンプルや測定結果の信頼性が疑われるのも当然です。特に敷粗朶最上層の「GL-2m」とは発掘方法が異なる「坪堀1中層第2層」「坪堀2第2層」のサンプルに問題があるのではないかとする判断は妥当なものです。従って、本来なら測定結果からサンプルに疑義が生じた時点で、他のサンプル(合計32サンプルが採取されています)の測定を実施すべきです。もし、わたしの勤務先の製品検定において、これほどの不自然な測定値が出たら、再測定やサンプル数を増やしての追加測定を行うよう指示したでしょう。ですから、調査報告書に「各1点の測定であるため、今後さらに各層の年代に関する資料を増やし、相互に比較を行うことで、各層の年代を検討したい。」(142頁)と記されていることはよく理解できます。当時は予算的な問題があったのかもしれませんが、九州歴史資料館が再度これらの粗朶サンプルの測定を実施されることを希望します。(つづく)


第1353話 2017/03/15

敷粗朶による水城の造営年代

 水城造営年代の根拠となる炭素同位体比年代測定値には先に紹介した木樋以外に、基底部補強に使用された敷粗朶があり、九州歴史資料館が測定しています。
 内倉さんの『多元』掲載論稿にもその測定値が紹介されていますが、出典文献が明示されていませんので、わたしが調査したところ、『大宰府史跡発掘調査報告書Ⅱ』(九州歴史資料館、二〇〇三年)の「7 水城第三五次調査(東土塁基底面の調査)」と「9 水城第三五次調査(出土粗朶 年代測定)」にサンプリングの状況や方法とともに詳しく記されていました。
 内倉稿によると、水城から出土した敷粗朶の年代測定値として最上層出土を中央値660年、中層出土を中央値430年、最下層出土を中央値240年と紹介され、「太宰府都城は五世紀中ごろには完成」の根拠の一つとされているようです。しかし、内倉稿にはこれら敷粗朶の出土位相やサンプリング条件などが記されていませんし、どの調査報告書によるのか出典も不明でした。従って、内倉稿だけを読むと、水城築造に当たり使用された敷粗朶の年代測定値から、水城は3世紀頃から延々と築造され、400年程かけて7世紀中頃に完成したと思ってしまいそうです。当初、わたしも内倉稿により、そのように理解していました。(つづく)


第1352話 2017/03/12

炭素同位体比年代測定による水城の造営年代

 太宰府条坊の造営年代を判断する上で、同時期に築造されたと思われる水城について検討してみます。幸いに水城からは炭素同位体比年代測定データが存在します。一つは水城基底部の敷粗朶(三層)、もう一つは基底部に埋設された木樋です。
 構造物としての水城は、土塁、濠、導水管として埋設された木樋、東西に置かれた門やそこを通過する官道、中央を貫流する御笠川などで構成されます。土塁は上下に分かれ、上層は版築工法によるものです。下部の基底部の積土の単位は厚く、最下層付近には軟弱な地盤に対する積土の基礎強化を目的とした、枝葉を敷き詰めた敷粗朶工法がみられます。
 濠は、土塁の博多側の外濠、太宰府側の内濠とからなり、外濠は土塁に平行する形で幅約六〇m。内濠は土塁と平行する形で一部確認されていますが、全体の規模は不明です。
 この内濠から取水して外濠へ水を流し込むため、木樋が基底部に埋設されています。土塁幅と同じく約八〇mにわたる大規模なもので、複数発見されています。板材を繋ぎ合わせるための加工方法や、大型の鉄製カスガイを使用するなど高度な建築技術がみられます。
 水城の東西には門が置かれ、官道が敷設されていたことが分かっています。水城の中央を流れる御笠川については、貯水、あるいは交通機能を持っていたと考えられています。
 わたしが注目するのが基底部に埋設された木樋です。内倉武久さんの『太宰府は日本の首都だった』(ミネルヴァ書房、二〇〇〇年)によれば、観世音寺に保管されていた水城の木樋の炭素同位体比年代測定が九州大学の故坂田武彦氏によりなされており、西暦四三〇年±三〇年とのこと。この測定は一九七四年にまとめられたものなので、「最新データで測定値を補正してみると五四〇年ごろになりそうだ。」(一九三頁)と内倉さんは記されています。わたしも年輪年代値による補正表(注)で補正したところ、約五四五年頃となりましたので、内倉さんの補正とほぼ同じ年代を示しました。
 この補正により、木樋のサンプリングした部分の年輪の年代が五四〇年頃ということがわかります。水城の木樋はかなり大きなものですから、年輪のどの位置からのサンプリングなのか不明ですが、伐採年は五四〇年より数十年新しい可能性を有しています。少なく見積もってもこの木樋に使用した木材の伐採年は六世紀後半となるでしょう。そうすると六世紀後半の木材を使用した木樋を基底部に埋設し、その後に版築工法による土塁や門を築造するわけですから、水城の完成は六世紀後半から七世紀初頭以降となります。
 こうした木樋の炭素同位体比年代測定値から判断すると、水城は七世紀前半に造営された太宰府条坊都市防衛のため同時期に築造されたと考えて問題ありません。この場合、太宰府条坊都市造営を七世紀前半とするわたしの理解と整合します。(つづく)

(注)『鞠智城 第13次発掘調査報告』(平成4年3月、熊本県教育委員会)所収「二一表」


第1351話 2017/03/11

太宰府都城の造営年代

 太宰府都城の年代を論じる場合、現在の研究水準からすれば、条坊都市、その北部の政庁や観世音寺、水城、大野城、基肄城などを個別に年代を判断しなければなりません。「都城」というからには、それら全てを含みますから、学術論文であれば丁寧に分けて論じる必要があることは言うまでもないでしょう。
 わたしは太宰府条坊都市部分の成立を七世紀前半(倭京元年〔六一八〕が有力候補)、北部エリアの大宰府政庁Ⅱ期や観世音寺などを七世紀後半(白鳳十年〔六七〇〕頃)の成立と考えていますが、残念ながらそれらの遺構から出土した木材等の炭素同位体年代比測定のデータの存在を知りません。まだ測定されていないのかもしれません。
 大野城については出土した柱の炭素同位体比年代測定がなされており、650年頃とする測定値が発表されています(西日本新聞 2012年11月 23日)。このことから、大野城は大宰府政庁Ⅱ期と同時期に造営されたと考えることができそうです。その規模と城内に点在する倉庫遺構の存在から、大野城は太宰府政庁の北の守りと条坊都市住民の為の逃げ城の性格を有しているようです。
 他方、博多湾方面からの敵の侵入から太宰府を防衛する為の水城は条坊都市とほぼ同時期の造営と考えていますので、水城の造営年代を炭素同位体比年代測定値を参考に検討してみることにします。(つづく)


第1350話 2017/03/10

炭素同位体比年代測定値の性格

 友好団体「多元的古代研究会」の機関紙『多元』No.138に掲載された内倉武久さんの「太宰府都城は五世紀中ころには完成していた」を興味深く拝見しました。内倉さんが太宰府都城の成立を五世紀中頃とされた根拠は炭素同位体比年代測定(14C)データという「実証」でした。よい機会ですので、古代史研究に使用する際の炭素同位体比年代測定値の性格について整理しておきたいと思います。
 古代遺跡や遺物の年代判定において、従来の土器や瓦の相対編年に対して、理化学的年代測定が科学技術の進歩とともにますます重視されるようになりました。炭素同位体比年代測定もその一つですが、絶対年代の判断材料になるという長所と同時に留意すべき弱点も持っています。従ってこの弱点や限界を正確に理解しておかないと、誤判断が避けられません。
 わたしの本業は化学ですが、勤務先の品質保証部で製品検定などにも携わってきた経験もあります。そのとき、機器分析や化学分析において様々な弱点や欠点に配慮しながら品質評価をしてきました。中でも、必要とされる評価基準に機器の精度や管理は適切なのか、測定するサンプルは製品全体を正しく代表しているのか、母集団に対してサンプル数は妥当なのか、分析担当者の技能は十分なのか、その技能水準の判定は確かかなど、実に多くの項目や課題をクリアしなければなりませんでした。その上で出された分析値を信用してよいのかどうかを勘と経験を交えて判断するのですから、理化学的分析能力と職人芸の両方が必要でした。理科学的分析と「勘と経験」では矛盾するようですが、機械による測定値を無条件に信用してはならないということは、同じような仕事の経験をお持ちの方であればご理解いただけるのではないでしょうか。
 理化学的年代測定全般を含め、特に炭素同位体比年代測定も同様で、それで出された年代をそのままサンプルやサンプル採取した遺物・遺跡の年代と判断することは危険です。ちょっと考えただけでも次のような問題をはらんでいるからです。

1.測定年代値は幅を持っており、たとえば西暦500年±50年のような表記がなされます。従って、年輪年代測定や年輪セルロース酸素同位体比測定のようにピンポイントで暦年を特定できません。
2.酸素同位体比については新たな補正値が報告されており、その補正が適切になされているか確認しなければなりません。
3.サンプルが木材の場合、年輪の最内層と最外層では年輪の数だけ年代幅があります。従って、木材のどの部分からサンプリングしたのかが明示されていない測定データは要注意です。木材が大きければそれだけサンプリング箇所の年代と伐採年との年代差発生の原因となります。
4.その点、米(炭化米)のような一年草は年代幅がなく、比較的年代判定に有利です。水城築造に使用された敷粗朶のような小枝の場合も年輪の数が少ないので、これも比較的年代判定に有利です。
5.炭化木材のように年輪の外側から焼失した炭からのサンプリングの場合、当然のこととして伐採年よりも焼けた年輪の数だけ古く測定値が出ます。したがって、炭による測定値はそのまま遺物・遺跡の年代とするのは危険です。
6.古代においては木材の再利用や、廃材の再利用は一般的に行われます。従って、測定値が伐採年か再利用時なのかの判断が必要です。その判断ができない場合は遺跡の年代判定に炭素同位体比年代測定値を採用してはいけません。
7.以上の問題点をクリアできても、その測定値から論理的に言えることは、そのサンプルの遺物・遺跡は測定値よりも「古くならない」ということであり、測定値の年代は参考値にとどまるという論理的性格を有しています。
8.従って、炭素同位体比年代測定は遺物・遺跡の年代判定の参考にはできるが、その他の年代判断方法(年輪年代や土器編年など)による総合的判断を加え、より適切な年代判定を行う必要があります。

 以上のことは極めて単純で常識的なことですから、理系の人間でなくてもご理解いただけるものと思います。
 また、最先端の理化学的分析結果であれば信頼できるとされた時代もありましたが、足利事件のように当時としては最先端のDNA鑑定結果(実証)を採用した判決によって悲劇的な冤罪事件が発生した経験もあり、現在では最先端技術はそれだけ未完成部分が多い不安定な技術と理解されるようになりました。他方、「和歌山毒物カレー事件」では最先端科学装置スプリング8による砒素の分析結果を根拠に有罪判決が出されましたが、その分析値に対する判断が誤っているとする京都大学の学者による指摘もなされるようになりました。(つづく)


第1349話 2017/03/08

井氷鹿の井戸は久留米市久保遺跡

 3月4日、久留米市で奈良大学生の日野さん、犬塚幹夫さん(古田史学の会・会員、久留米市)と夕食をご一緒しました。犬塚さんからは多くのことを教えていただいているのですが、今回も神武東征説話に関する貴重な情報を教えていただきました。
 「洛中洛外日記」1117話の「吉野河尻の井戸と威光理神(井氷鹿)」で紹介しましたが、『古事記』神武記に見える吉野の河尻で井戸から井氷鹿が出現するのですが、川が近くにあれば井戸など不要なはずなのです。ところが犬塚さんのお話では、佐賀や筑後の有明海付近の弥生時代の遺跡からは井戸が数多く見つかっているとのことで、その理由は、干満の差が大きい有明海付近では塩水が逆流することから、川からは安定して真水を得られないため、近くに川があるにもかかわらず真水を得るために井戸が掘られているとのことでした。
 このことは、『古事記』に見える「吉野の河尻」とは奈良県吉野川の上流付近(「河尻」ではない)ではなく、吉野ヶ里付近から有明海に流れ込んだ嘉瀬川下流域(河尻)付近の伝承とするわたしの説(神武東遷記事中の「天神御子」説話は天孫降臨説話「肥前侵略譚」からの転用)を支持するものでした。
 その後も犬塚さんは久留米市の遺跡調査を続けられ、久留米市三瀦に隣接する城島の久保遺跡(筑後川左岸)が弥生時代の遺跡としては最も井戸が多い遺跡であることをつきとめられました。神武東征説話に転用された井氷鹿説話の舞台の有力候補として久保遺跡をあげられたのです。
 さらに犬塚さんは神武記では井氷鹿が井戸から現れることに注目され、狭い井戸からどうやって這い上がってきたのだろうかと考えられました。ところが久保遺跡の井戸遺構からは井戸の方への階段状の通路が発見されており、その階段からであれば神武記の記述のように、井戸から井氷鹿が現れることが可能とのことなのです。とても面白い着眼点ではないでしょうか。また、井氷鹿には尻尾があると記されていますから、これが何を意味しているのかも解明できるかもしれません。
 こうして犬塚さんとの宴(地酒を飲みながら古代史談義)は夜遅くまで続きました。


第1348話 2017/03/07

石の宝殿(生石神社)の九州年号「白雉五年」

 今日は仕事で兵庫県加古川市に行ってきました。お昼休みに時間が空きましたので、出張先近くにある石の宝殿で有名な生石神社(おうしこじんじゃ)を訪問しました。どうしても行っておきたい所でしたので、短時間でしたが石の宝殿を見学しました。
 有名な史跡ですので説明の必要もないかと思いますが、同神社の案内板に書かれた御由緒によれば、御祭神は大穴牟遅と少毘古那の二神で、創建は崇神天皇の御代(97年)とのことです。
 特に興味を引かれたのが、孝徳天皇より白雉五年に社領地千石が与えられたという伝承です。この白雉五年が九州年号による伝承であれば656年のこととなります。この「白雉五年」伝承を記した出典があるはずですので、これから調査することにします。


第1347話 2017/03/04

続・和歌山の神武(鎮西将軍)

 昨日から奈良大学生の日野さん(古田史学の会・会員)と筑前・筑後の史跡調査旅行を続けています。昨日は水城・大宰府政庁跡・観世音寺・大野城山城を見学しました。今日は高良大社・高良山神籠石・大善寺玉垂宮・岩戸山古墳・瀬高のこうやの宮を見学しました。
 わたしが運転するクルマでの会話で、「洛中洛外日記」で紹介した「和歌山の神武(鎮西将軍)」について日野さんから次のような疑問が出されました。鎮西将軍とは神武のことではなく、数次にわたる九州王朝からの東征軍の将軍の一人ではないかという疑問です。『紀州名勝志』所載の「朝椋神社伝」の次の記事が神武とほ別の東征軍の将軍ではないかと指摘されたのです。

 「上古鎮西将軍〔不知何御宇何許人〕攻伐之砌、為最勲故二造建」(※〔 〕内は細注。)

 実はわたしも気になっている部分でした。『日本書紀』成立以後であれば「鎮西将軍」などという名前ではなく神武の伝承としてそのまま伝えればよいのに、何故「鎮西将軍」などという表記で伝承したのかが不明でした。通常、古代の伝承は権威付けのため大和の天皇と結びつけて修飾・改変されることが多いのですが、この和歌山での伝承は敢えて神武と結びつけることなく「鎮西将軍」という表現で伝承されており、そうした理由があるはずです。そのような問題意識を持っていたので、日野さんのご指摘にはうなづけるものがありました。
 この和歌山の「鎮西将軍」伝承については、日野さんのご意見も考慮して引き続き検討したいと思います。


第1346話 2017/03/02

和歌山の神武(鎮西将軍)

 久しぶりの和歌山出張ということもあり、和歌山市の古代史で多元史観により考察すべきテーマがないか、ちょっとだけ調査してみました。すると、面白い伝承(史料)の存在に気づきましたのでご紹介します。
 『延喜式』神名帳にも記された当地の古い神社に「朝椋神社」(あさくらのじんじゃ)があるのですが、『紀州名勝志』所載の「朝椋神社伝」に次のような記事があるとのことです。

 「上古鎮西将軍〔不知何御宇何許人〕攻伐之砌、為最勲故二造建」(※〔 〕内は細注。)

 ちなみに、和歌山県立図書館所蔵『紀州名勝志』写本には「朝椋神社伝」は記載されていませんでした。どの写本にあるのか調査中です。
 いつの頃かどこの人かは知らないが、上古に「鎮西将軍」という人物が攻めてきて最も武勲があったので、この神社を建造したという不思議な記録です。何らかの当地の伝承が記されたものと思われますが、「鎮西将軍」とは「九州の軍団の長」を意味しますから、この地にそのような人物が戦功をあげたというのであれば、その第一候補はやはり神武ではないでしょうか。というよりも、それ以外の人物や伝承をわたしは知りません。
 記紀によれば神武兄弟は河内湾に突入するものの敗北し、兄の五瀬命は戦死します。神武は兄を和歌山の竃山に埋葬し、紀伊半島南端から上陸し、紀伊半島を山越えして奈良に侵入したと記載されていますから、和歌山市付近まで来たことになります。その後の神武の記事は天孫降臨時のニニギ等の伝承が盗用されているとわたしは考えていますから、神武がどのルートを通って大和に進入したのかは不明です。しかし、兄の亡骸を竃山に埋葬できたのですから、和歌山市近辺は制圧していた可能性が高いように思われます。敵地に兄を埋葬し、その地を離れたとは考えにくいからです。
 そうすると神武こそ当地で戦功をあげた「鎮西将軍」として伝承されるにふさわしい人物だと思われるのですが、いかがでしょうか。もしこの理解が正しければ、神武が大和に侵入するルートとして紀ノ川沿いを遡行したと考えてみたいところです。いずれにしましても、現段階では調査を始めたばかりですので、間違っているかもしれませんが、興味深い伝承ですので、ご紹介することにしました。

《補筆》本稿に先行する出色の論文があります。義本満さんの「紀ノ川の神武」(『『市民の古代』』第3集、1981年)です。神武は和歌山で戦い、紀ノ川を遡行して大和に突入したとする先行説です。「古田史学の会」HPに掲載されていますので、是非、ご一読下さい。


第1345話 2017/03/02

【巻頭言】

九州年号(倭国年号)から見える古代史

 今朝は久しぶりに仕事で和歌山市に向かっています。和歌山には化学工場が多く、化学メーカー同士で競合したり協力したりと、そのビジネス環境は複雑です。
 今月末頃に発行される『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』(「古田史学の会」編、『古代に真実を求めて』20集)の宣伝も兼ねて、わたしが執筆担当した「巻頭言」を転載紹介します。なぜタイトルに従来の「九州年号」ではなく「倭国年号」を選んだのかの説明や本書の研究史的位置づけなどを記しています。

【巻頭言】
九州年号(倭国年号)から見える古代史
         古田史学の会・代表 古賀達也

 古代の中国史書に記された日本列島の代表国家「倭国」がいわゆる大和朝廷ではなく、北部九州に都を置いた九州王朝であることを古田武彦氏(平成二七年〔二〇一五〕没、享年八九歳)は名著『失われた九州王朝』(昭和四八年〔一九七三〕、朝日新聞社刊。ミネルヴァ書房より復刻)で明らかにされた。
 六世紀初頭、九州王朝は中国の王朝に倣い、自らの年号を制定した。その年号を古田武彦氏は「九州年号」という学術用語で論述されたのであるが、その命名の典拠は鶴峰戊申著『襲国偽僭考』に記された「古写本九州年号」という表記に基づく。九州年号を制定した倭国が自らの年号を当時なんと呼んだのかは史料上明らかではないが、恐らくは単に「年号」と呼んだのではあるまいか。あるいは隣国の中国や朝鮮半島の国々の年号と区別する際は「わが国(本朝)の年号」「倭国年号」等の表現が用いられたのかもしれない。もちろん、倭国が自国のことを「九州王朝」と呼んだりするはずもないであろうし、自らの年号を「九州年号」と称したということも考えにくい。
 今回、本書のタイトルを「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」と決めるにあたり、従来使用されてきた学術用語「九州年号」ではなく、あえて「倭国年号」の表現を選んだのは、「倭国(九州王朝)が制定した年号」という歴史事実を明確に表現し、「九州地方で使用された年号」という狭小な理解(誤解)を避けるためでもあった。古田武彦氏も自著で「倭国年号」とする表記も妥当であることを述べられてきたところでもある。もちろん学術用語としての「九州年号」という表記に何ら問題があるわけではない。収録された論文にはそれぞれの執筆者が選んだ表記を採用しており、あえて統一しなかったのもこうした理由からである。
 さらに、《大和朝廷以前》の一句をタイトルに付したのも、「倭国年号」の「倭国」は通説でいう大和朝廷には非ずという一点を、読者に明確にするためであった。本書の「失われた倭国年号《大和朝廷以前》」というタイトル選定にあたり、編集部は多大な時間と知恵を割いたことをここに報告しておきたい。
 倭国(九州王朝)が制定した倭国年号(九州年号)は継躰元年(五一七)に始まり、大長九年(七一二)まで続いたと考えられている。他方、倭国(九州王朝)から王朝交代し、列島の代表者となった近畿天皇家(日本国)は初めての年号「大宝」(七〇一)を「建元」したことが『続日本紀』に見える。この時期に倭国から日本国へと、列島の中心権力が交代したことが、これら両国の年号からもうかがえ、その時代の日本列島のことを記した中国の史書『旧唐書』に「倭国伝」「日本国伝」が別国表記(日本国は倭国の別種)されていることとも見事に対応しているのである。さらには考古学的出土事実(木簡等)においても、倭国内の行政単位「評」が七〇一年から全国一斉に「郡」に代わったことも、この九州王朝から大和朝廷への王朝交代を反映していると考えざるを得ないのである。
 古田学派における倭国年号(九州年号)研究は、古田武彦氏の九州王朝説の提唱以来、全国各地の研究者により活発に進められてきた。その第一段階は諸史料に残された九州年号の調査探索であり、その集大成として『市民の古代』第十一集(市民の古代研究会編、新泉社。一九八九年)が「特集『九州年号』とは何か」として発刊された。次いで第二段階では九州年号の「年号立て(各年号の正しい順番と文字。暦年との対応など)」、すなわち原型論についての研究がなされた。その結論として、九州年号群史料としては現存最古の『二中歴』「年代歴」に見える九州年号が最も原型に近いとする説が最有力となり、さらに『二中歴』から漏れた「大長」年号が七〇一年以後に実在したことも明らかとなった。そして第三段階では、九州年号と九州年号史料に基づく九州王朝史研究へと発展した。その成果がミネルヴァ書房から刊行された『「九州年号」の研究 ー近畿天皇家以前の古代史ー』(古田史学の会編、二〇一二年)として結実したのであるが、本書はその続編あるいは姉妹編に相当する。
 本書は近年の九州年号研究の最先端論文を収録するにとどまらず、コラムとして各地の研究者による様々な九州年号関連記事も掲載した。この狙いは読んで面白いというだけではなく、読者にも九州年号研究の一翼に加われるという思いを共有していただける様々な切り口紹介という側面も有している。
 本書中、出色の研究成果は正木裕氏(古田史学の会・事務局長)による「九州王朝系近江朝」「近江年号」という新たな概念である。江戸期成立の諸史料に、天智天皇の時代の年号として「中元(六六八〜六七一年)」「果安(六七二年)」が散見されるのだが、従来は九州年号と見なされることはなく、言わば誤伝あるいは後世の創作の類ではないかとされ、九州年号研究者から取り上げられることもほとんどなかった。わたしの知るところでは、二〇一一年五月の「古田史学の会・関西例会」で竹村順弘氏(古田史学の会・事務局次長)が「天智の年号ではないか」と指摘されたくらいであった。
 その詳細は当該論文を読んでいただくこととして、この新概念は九州年号研究の延長線上で生まれたものであり、六〜七世紀の日本列島の古代の真実を探る上で有力な視点となる可能性を秘めている。中でも九州王朝(倭国)から大和朝廷(日本国)への中心権力の移行(王朝交代)の実体を研究するうえで、貴重な仮説と言わざるを得ない。まだ検証過程の「未証仮説」でもあり、読者からのご批判を待ちたい。
 以上のように、本書は倭国年号(九州年号)研究を新次元に引き上げるべく、野心的な論稿を収録した。「古田史学の会」が全ての日本古代史研究者や歴史ファンに是非を問う一冊なのである


第1344話 2017/03/01

2月に配信した「洛中洛外日記【号外】」

 2月に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信をご希望される「古田史学の会」会員は担当(竹村順弘事務局次長 yorihiro.takemura@gmail.com)まで、会員番号を添えてメールでお申し込みください。
 ※「洛中洛外日記【号外】」は「古田史学の会」会員限定サービスです。

 2月「洛中洛外日記【号外】」配信タイトル
2017/02/01 『東京古田会ニュース』No.172が届く
2017/02/08 『季刊唯物論研究』の校正と英文タイトル
2017/02/18 愛知県一宮市の「賀」地名
2017/02/24 『失われた倭国年号《大和朝廷以前》』最終校正