第1070話 2015/10/07

『泰澄和尚傳』の道照と宇治橋

  『泰澄和尚傳』(金沢文庫本)によれば、道照が北陸修行時の「持統天皇(朱鳥)七年壬辰(692年)」に11歳の泰澄と出会い、神童と評したとあります。道照は宇治橋を「創造」した高僧として、『続日本紀』文武4年三月条(700)にその「傳」が記されています。
 それによれば道照の生年は舒明元年(629年、九州年号の仁王7年)となり、没年は文武4年(700年、九州年号の大化6年)72歳とあり、北陸で泰澄少年に出会ったのは道照64歳のときとなります。当時の寿命としては高齢であり、はたしてこの年齢で北陸まで修行に行けたのだろうかという疑問もないわけではありませんが、古代も現代も健康年齢には個人差がありますから、学問的には当否を判断できません。
 『続日本紀』には道照が宇治橋を「創造」したと記されています。ところが有名な金石文「宇治橋断碑」や『扶桑略記』『帝王編年記』などには、「大化二年丙午(646)」に道登が造ったと記されており、かねてから議論の対象となってきました。とりわけ「宇治橋断碑」については古田学派内でも20年以上も前に中村幸雄さんや藤田友治さんら(共に故人)が諸説を発表されてきましたが、その後はあまり論議検討の対象にはなりませんでした。今回、「泰澄和尚傳」で道照の名前に再会し、当時の論争風景を懐かしく思い起こしました。
 そこで、その後進展した現在の古田史学・多元史観の学問水準からみて、この宇治橋創建年二説について少しばかり整理考察してみたくなりました。結論など全く出ていませんが、次のように論点整理を試み、皆さんのご批判ご検討の材料にしていただければと思います。

 1.「宇治橋断碑」などにある「大化二年丙午」は『日本書紀』の大化年号(645〜649年、元年干支は乙巳)によっており、それは九州年号の大化(695〜703年、元年干支は乙未)の盗用であり、従って「大化二年丙午(646)」という年号が記された「宇治橋断碑」などは『日本書紀』成立(720年)以後に造られたものである。
 2.『続日本紀』の記事は文武4年条(700年)だが、『続日本紀』の最終的成立は延暦16年(797年)なので、8世紀末頃の近畿天皇家の公式の見解では宇治橋を創建したのは道照であり、その時期は早くても遣唐使から帰国した「白雉4年」以後(斉明7年説が有力)とされる。
 3.また、「大化二年」では道照18歳のときであり、宇治橋「創造」のような大事業を行えるとは考えにくいとする意見も根強くある。
 4.「宇治橋断碑」などの「大化二年丙午(646年)」は九州年号の「大化二年丙申(696年)」とする本来の伝承を『日本書紀』の大化により干支を書き換えられたものとすれば、「大化二年丙申(696年)」は、道照の晩年(68歳)の事業となり、やや高齢に過ぎると思われるが、健康年齢の個人差を考慮すれば不可能とまでは言えない。もちろん道照自身が橋を建築するわけでもないので。
 5.他方、道登は『日本書紀』の大化元年・白雉元年条などに有力な僧侶として登場しており、その約50年後ではたとえ健在であったとしても道照以上に高齢となり、宇治橋「創造」事業の中心人物とはなりにくいように思われる。
 6.宇治橋そのものに焦点を当てると、『日本書紀』の天武元年条(672年)に「宇治橋」という記事が見え、その頃には宇治橋は存在していたこととなり、九州年号の大化2年(696年)「創造」説とは整合しない。

 以上のように今のところ考えているのですが、結論としては、まだよくわからないという状況です。勘違いや別の有力な視点もあると思いますので、引き続き検討したいと思います。


第1069話 2015/10/04

『泰澄和尚傳』に九州年号「朱鳥」の痕跡

 「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)が泰澄研究において最も良い史料であることを説明してきました。そこで、同書の年次表記について更に詳しく調べてみますと、九州年号は「白鳳・大化」だけではなく、「朱鳥」の痕跡をも見いだしました。
 「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)では泰澄について次の年次表記(略記しました)でその人生が綴られています。

西暦 年齢 干支 年次表記         記事概要
682   1 壬午 天武天皇白鳳廿二年壬午歳 越前国麻生津で三神安角の次男として生誕
692   11 壬辰 持統天皇七年壬辰歳    北陸訪問中の道照と出会い、神童と評される
695   14 乙未 持統天皇大化元年乙未歳  出家し越知峯で修行
702  21 壬寅 文武天皇大寶二年壬寅歳  鎮護国家大師の綸言降りる
712  31 壬子 元明天皇和銅五年壬子歳  米と共に鉢が越知峯に飛来
715   34 丙辰 霊亀二年         夢に天衣で着飾った貴女を見る
717   36 丁巳 元正天皇養老元年丁巳歳  白山開山
720   39 庚申 同四年以降        白山に行人が数多く登山
722   41 壬戌 養老六年壬戌歳      天皇の病気平癒祈祷の功により神融禅師号を賜る
725   44 乙丑 聖武天皇神亀二年乙丑歳  白山を参詣した行基と出会う
736   55 丙子 聖武天皇天平八年丙子歳    玄舫を訪ね、唐より将来した経典を授かる
737   56 丁丑 同九年丁丑歳       この年に流行した疱瘡を収束させる。その功により泰澄を号す
758   77 戊戌 孝謙天皇天平寶字二年戊戌歳 越知峯に蟄居
767  86 丁未 称徳天皇神護慶雲元年丁未歳 3月18日に遷化

 おおよそ以上のような年次表記で泰澄の人生が記されているのですが、まさに九州王朝から大和朝廷への王朝交代の時代を生きたこととなります、従って、年次表記には「天皇名」「年号」「年次」「干支」が用いられていることが多く、そのため700年以前の九州王朝の時代には九州年号が使用されているのです。その上で注目すべきは、北陸を訪れていた道照との出会いを記した692年の表記は「持統天皇七年壬辰歳」とあり、九州年号が記されていないことです。
 『日本書紀』では持統天皇六年が「壬辰」であり、翌七年の干支は「癸巳」です。たとえば金沢文庫本の校訂に用いられた福井県勝山市平泉寺白山神社蔵本では「持統天皇六年壬辰歳」とあり、こちらの表記が『日本書紀』と一致しているのです。しかしこの「持統天皇七年壬辰歳」には肝心の年号が抜けています。もしこの壬辰の年を九州年号で表記すれば、「持統天皇朱鳥七年壬辰歳」となり、金沢文庫本の「七年」でよいのです。すなわち、金沢文庫本のこの部分の年次表記には九州年号の「朱鳥」が抜け落ちているのです。「白鳳」「大化」と同様に700年以前は九州年号を使用せざるを得ませんから、「泰澄和尚傳」の書写の段階で「朱鳥」が抜け落ちた写本が、金沢文庫本だったのではないでしょうか。
 九州王朝説に立った史料批判の結果として、「泰澄和尚傳」は九州年号が使用された原史料に基づいて泰澄の事績を記したか、平安時代10世紀(天徳元年、957年)の成立時に、『二中歴』「年代歴」などの九州年号史料を利用して、大和朝廷に年号が無かった700年以前の記事の年次を表記したものと思われます。いずれにしても「泰澄和尚傳」は平安時代10世紀に成立した九州年号史料であり、九州年号偽作説のように「鎌倉時代以後に次々と偽作された」とすることへの反証にもなる貴重な史料ということができるのです。(つづく)


第1068話 2015/10/03

『泰澄和尚傳』の「大化」と「大長」

 『福井県史 資料編1 古代』(昭和62年刊)にに収録された「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)と「泰澄大師伝記」(越知神社所蔵)、「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)の九州年号を比較すると、「泰澄和尚傳」を「泰澄和尚に関し最も整った伝記である。」とされた解説が納得できます。今回はそのことについて説明します。
 泰澄の生年を「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)では『二中歴』と同じ九州年号の「白鳳廿二年壬午」(元年は661年辛酉)とされていますが、校訂に使用された他の写本(福井県勝山市平泉寺白山神社蔵本、石川県石川郡白山比売神社蔵本)には「白鳳十一年」とあります。もちろん金沢文庫本が正しく、両校訂本は天武即位年(673年癸酉)を白鳳元年とする、九州年号を近畿天皇家の天武天皇の即位年に対応させた後代改変型です。従って、金沢文庫本が九州年号の原型をより保った善本であることがわかります。
 「泰澄和尚傳」の比較史料としての「泰澄大師伝記」(越知神社所蔵)と「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)は更に後代改変の手が加わっています。たとえば「泰澄大師伝記」(元和五年・1619年書写)では、泰澄の生年が「白鳳十一年壬午」とあり、泰澄11歳の年を持統天皇御宇大長元年壬辰」としており、「大化元年乙未(695年)」が「大長元年壬辰(692年)」と改変されています。さらにこの改変に泰澄の年齢を整合させるために、同一記事(出家修行)の年齢を14歳から11歳へと改変しているのです。
 「白鳳十一年壬午」は「泰澄和尚傳」の校訂本と同様の理由での後代改定ですが、「大長元年壬辰(692年)」への改変は、おそらく『日本書紀』の大化年間(645〜649年)と時代が異なるため、持統天皇の頃の九州年号とされていた「大長元年」に改変されたものと思われます。ただし、この「大長元年壬辰」も実は後代改変された九州年号で、本来の九州年号「大長」は元年が704年甲辰であり、9年間続いています。この「大長」の後代改変については拙論「最後の九州年号」(『「九州年号」の研究』所収、ミネルヴァ書房)をご参照ください。
 「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)では生年を「白鳳十一年」としており、干支の「壬午」は記されていません。泰澄11歳の年次も「持統六年(692年)」とあるだけで、九州年号も干支も略されています。ですから、「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)がもっとも後代改変を受けていることがわかります。
 以上の考察から、泰澄研究においては「泰澄和尚傳」(金沢文庫本)を用いることが、現状では最も適切と思われるのです。(つづく)


第1067話 2015/10/02

『泰澄和尚傳』の九州年号「白鳳・大化」

 今日は仕事で越前市(旧・武生市)に行ってきました。予定よりも仕事が早く終わったので、当地の企業や地場産業の調査のため、越前市中央図書館に寄りました。そこでの閲覧調査を終えたので、近くにあった『福井県史』を見ていたら、白山を開山したとされる「泰澄和尚傳」が目に留まりました。そこに九州年号「白鳳・大化」がありましたので、よく読んでみると、史料批判上とても面白い、かつ、貴重な史料であることがわかりましたので、ご紹介します。
 『福井県史 資料編1 古代』(昭和62年刊)には、「泰澄和尚傳」を筆頭に、比較参考史料として「泰澄大師伝記」(越知神社所蔵)、「越知山泰澄」(『元亨釈書』所収)などが収録されています。解説(324頁)によれば、「泰澄和尚傳」(底本:金沢文庫本)を「泰澄和尚に関し最も整った伝記である。」とされています。その「泰澄和尚傳」によれば、泰澄の生年は天武天皇の御宇「白鳳廿二年壬午六月十一日」とあり、『二中歴』「年代歴」の「白鳳22年(682)壬午」と干支が一致しています。また、「和尚生年十四」の年を「持統天皇御宇大化元年乙未歳」と記し、これも『二中歴』の九州年号「大化元年乙未(695)」と正しく一致しています。
 この金沢文庫本「泰澄和尚傳」の書写年代は「正中二年(1325)」と奥書にあり、現存最古の写本です。成立は「今、天徳元年丁巳三月廿四日」(957年)と文中にあることから、平安時代の10世紀です。従って、九州年号史料としてはかなり古いものです。『日本書紀』成立後の史料であるにもかかわらず、『日本書紀』の「大化元年乙巳(645)」とは異なる持統天皇時代の九州年号「大化元年乙未(695)」を採用していることが注目されます。すなわち、10世紀当時に九州年号を用いて記録された泰澄関連史料が存在していた可能性をうかがわせるのです。
 以上のように、金沢文庫本「泰澄和尚傳」は成立が平安時代に遡る貴重な九州年号史料だったのです。(つづく)


第1066話 2015/10/01

古田史学の会 facebook」のご紹介

 武蔵国分寺調査でお世話になった肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)のブログ「肥さんの夢ブログ」に、「上野(こうづけ)三碑」(山上碑・多胡碑・金井沢碑)が世界文化遺産候補になったことが紹介されていました。関東にはなぜか古代石碑が他地域よりも残っており、「上野三碑」はその代表的なものです。関東に多く残っていることは、九州王朝との関連がありそうですが、この問題は別の機会に考察したいと思います。
 世界文化遺産候補として「上野三碑」と共に「命のビザ」で有名な杉原千畝(すぎはら・ちうね)さんの遺品も候補になったとのことですが、第二次世界大戦中に外交官としてナチスドイツの迫害から大勢のユダヤ人を救った杉原さんの業績が注目されることは日本人としても誇らしいことです。
 20年ほど昔のことですが、わたしは杉原千畝さんの奥様の幸子さんの講演を聞いたことがあります。戦火の中、逃げまわっていたとき、ロシア軍の機銃掃射を受けたそうで、そのときドイツ軍青年将校が身を挺して守ってくれた思い出を語られていました。青年将校は奥様の上に覆いかぶさり、被弾して亡くなられたとのこと。とても紳士的な青年将校だったそうです。
 さて、「古田史学の会」ではfacebookを設置しました。竹村順弘さん(古田史学の会・事務局次長)が作られたものですが、関西例会や遺跡巡りハイキングの写真などが満載で、とても良い内容になっています。「古田史学の会 facebook」で検索してください。「いいね」やコメントも是非お願いします。
 9月に希望会員に配信した「洛中洛外日記【号外】」のタイトルをご紹介します。配信希望される会員はこの機会に申し込んでください。

「洛中洛外日記【号外】」9月配信のタイトル
日付    タイトル
2015/09/01 百田尚樹『大放言』を読む
2015/09/07 「東京古田会」「多元の会」の皆さんと懇親会
2015/09/10 KBS京都放送「本日、米團治日和」オンエア!
2015/09/12 発刊記念東京講演会の反省会
2015/09/15 「古田史学の会 facebook」準備中
2015/09/20 青年時代の古田先生の憲法観
2015/09/23 『月刊 加工技術』連載コラム 日本列島発のコーティング技術「漆」
2015/09/26 「古田史学の会 youtuve」企画中
2015/09/27 facebookに悪戦苦闘中


第1065話 2015/09/30

長野県内の「高良社」の考察

 昨晩の村田正幸さんとの話題は長野県内に分布する「高良社」についてでした。村田さんの調査によれば、石碑を含めて県内に12の「高良社」を確認したとのこと。次の通りです。

長野県内の高良社等の調査一覧(村田正幸さん調査)
No. 場所        銘文等    建立年等
1 千曲市武水別社   高良社   室町後期か?長野県宝
2 佐久市浅科八幡神社 高良社   八幡社の旧本殿
3 松本市入山辺大和合神社 高良大神1 不明
4 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 不明
5 松本市入山辺大和合神社 高良大神2 明治23年2月吉日
6 松本市島内一里塚  高良幅玉垂の水 明治8年再建
7 松本市岡田町山中  高麗玉垂神社 不明
8 安曇野市明科山中  高良大神   不明
9 池田町宇佐八幡   高良神社   不明
10 白馬村1      高良大明神  不明
11 白馬村2      高良大明神  不明
12 白馬村3      高良大明神  不明

 まだ調査途中とのことですが、分布状況の傾向としては県の中・北部、特に松本市と白馬村の分布数が注目されます。「高良」信仰がどの方角から長野県に入ってきたのかを示唆する分布状況かもしれませんが、断定するためには隣接県の「高良」信仰の分布調査が必要です。
 この「高良」信仰は九州でも筑後地方に濃密分布しており、隣の筑前や肥後では激減しますから、極めて在地性の強い神様です。わたしの研究では「倭の五王」時代から6世紀末頃までの九州王朝の都は筑後(久留米市)にあり、その間の代々の倭王は「玉垂命」を襲名していたと思われます(拙論「九州王朝の筑後遷宮 -高良玉垂命考-」を御参照ください)。従って、その「高良玉垂命」の信仰が信州(長野県)に伝播した時代は、古代であればその頃が有力ではないかと考えています。もちろん、中近世において「高良神」信仰を持った有力者が信州に移動した、あるいは勧請したというケースも考えられますが、それであれば中近世史料にその痕跡が残っていてほしいところです。
 以上のように信州の「高良神」について考察を進めていますが、まだまだ結論を出すには至っていません。当地の伝承や史料の調査検討が必要です。他方、筑後地方に「高良玉垂命」が信州に行ったとするような伝承・史料の存在は知られていません。
 また、九州王朝と信州との関係をうかがわせるものには、『善光寺縁起』などに見られる九州年号の存在、天草に濃密分布する「十五所神社」が岡谷市にも多数見られるということがあり、信州の古代史を九州王朝説・多元史観で研究する必要があります。村田さんのご研究に期待したいと思います。


第1064話 2015/09/29

「古田史学の会・まつもと」の皆さんと懇談

 今日から北陸・信州・名古屋と出張です。富山からは北陸新幹線で長野に入り、仕事と行程の都合から松本市で宿泊です。ちょうどよい機会ですので、「古田史学の会・まつもと」の北村明也さん、鈴岡潤一さん(松本深志高校教諭)と夕食をご一緒し、その後、村田正幸さんと歓談しました。北村さんは松本深志高校での古田先生の教え子さんで、村田さんは「古田史学の会」全国世話人を引き受けていただいています。北村さん・鈴岡さんとは「古田史学の会」の展望について意見交換し、村田さんからは長野県に分布する「高良社」「高良明神」などの調査結果の説明があり、なぜ筑後地方神とされる「高良神」が信州に数多く祀られるのかについて論議しました。いずれも楽しく有意義な一夕となりました。
 お会いする約束をいただくため、事前に北村さんにお電話したのですが、突然のわたしからの電話に、「古田先生に何かあったのですか」と驚かれていました。ちょっと申しわけない気持ちと、古田先生を気遣い慕う教え子さんたちの思いが、60年以上たった今日でも続いていることに感動を覚えました。
 今日、初めて北陸新幹線に乗りましたが、内装もきれいですし、シートに着いている枕は上下に移動するという優れものでした。金沢駅から富山駅まで乗り、その後、黒部宇奈月温泉駅から長野駅まで利用しましたが、いずれの駅も積雪に耐えられるように、ホームの屋根を支える鉄骨は京都駅などには見られないような頑丈な作りでした。さすがは雪国の新幹線仕様です。聞けば、様々な降雪対策が施されているとのことですので、岐阜・米原間の降雪でよく止まる東海道新幹線も見習ってほしいものです。なお、「黒部宇奈月温泉駅」は新幹線の駅名としては最も長い名前とのことでした。
 松本には仕事ではなく、次回はプライベートな旅行で訪れたいと思いました。


第1063話 2015/09/26

「鬼前太后」「干食王后」の出典

 「古田史学の会」9月の関西例会では、正木裕さん(古田史学の会・事務局長)からも貴重な報告がありました。法隆寺釈迦三尊像光背銘に記された上宮法皇(阿毎多利思北孤)の母親と奥さんの名称「鬼前太后」と「干食王后」の出典は仏典であったとする仮説です。
 正木さんの調査によると、「小地獄(無限地獄)」に落ちて受ける罰の一つに「鉄、野干、食処(てつやかんじきしょ)」というものがあり、これは仏像・僧侶などを焼いたり毀損した罪で、「身体から火が吹き出し、鉄の瓦が降り罪人を打ち、炎の牙の野干(ジャッカルとも。日本では狐に似た動物とされる)に食われる」という地獄。つまり「干食」は仏教上ではこうした罪を受ける意味を持っているとのこと。
 「鬼前」は前世で仏教を信じず侮った罪とされ、北魏の延興2年(472)に訳された『付法蔵因縁伝』に見える「斯鬼前世一是吾息一是兄婦(以下略)」を出典とされました。その意味は「鬼の前世は息子夫婦で、仏教を侮った罪で鬼に生まれ罪の報いを受けた」とのことで、ここに「鬼前」が見えます。
 結局、これらの語はいずれも仏教に背き罪を受け、無限地獄に落ち苦しむ様を示しています。多利思北孤の母、妻は、地獄の苦しみか(天然痘による病没か)らの釈迦の救済を求め、そこからの救済を行うために、「戒名」として授けられたと正木さんは考えられました。
 例会参加者からはそのような悪い戒名を天子の母や妻に付けるものだろうかという疑問も出されましたが、従来典拠不明とされていた「鬼前」「干食」の語を仏典から見いだされたことから、一つの仮説として研究に値するものと思います。「法興」「聖徳」に続いて「鬼前」「干食」も仏教に関わる語とされる正木さんの一連の研究は、九州王朝仏教史研究において貴重な成果ではないでしょうか。
 なお、この正木さんの研究は『古田史学会報』130号に掲載予定です。


第1062話 2015/09/25

加賀の「天皇」と「臣」

 「古田史学の会」9月の関西例会では重要なテーマの研究発表がいくつもありましたが、中でも今後の展開が期待される研究が冨川ケイ子さん(会員、相模原市)から報告されました(加賀と肥後の道君 越前の「天皇」と対高句麗外交)。それは6世紀(欽明期)の加賀に「天皇」と「臣」を称した有力者がいたというものです。
 『日本書紀』欽明31年(570年、九州年号の金光元年)3〜5月条に見える、高麗の使者が加賀に漂流し、当地の豪族である道君を天皇と思い、貢ぎ物を献上したという記事です。そのことをこれも当地の豪族の江淳臣裙代が京に行って訴え、其の結果、道君が天皇ではないことを高麗の使者は知り、貢ぎ物は取り返されたと記されています。
 冨川さんは、道君は高麗の使者が天皇と間違えるほどの有力者であることに着目され、当時の加賀(越の国)では道君が「天皇」を自称したのではないかとされました。また8世紀初頭において、道君首名(みちのきみ・おびとな)が筑後と肥後の国司を兼任していることから、筑紫舞の翁(三人立)の登場人物が都の翁と肥後の翁、加賀の翁であることと、何らかの関係があるのではないかとされました。
 肥後が鉄の産地で、加賀がグリーンタフ(緑色凝灰岩)の産地であることから、九州王朝の天子を中心としながらも、加賀にナンバーツーの「天皇」を名乗れるほどの有力者がいたかもしれないという仮説は大変興味深いものです。
 高麗(高句麗)の使者が倭国(九州王朝)の代表者が九州にいたのか、加賀にいたのかを知らなかったとは考えられません。もしかすると、九州ではなく最初から加賀の「天皇」に会うために高麗の使者は加賀に向かったのかもしれません。まだ当否の判断はできない新仮説ですが、これからどのような展開を見せるのかが楽しみな研究発表でした。


第1061話 2015/09/24

九州発か「○○丸」名字(3)

 「○○丸」名字の考察と調査を進めてきましたが、その中心地(淵源)が福岡県を筆頭とする九州地方であることは、まず間違いなさそうです。そうなると、やはり古代九州王朝との関係が気になるところです。そもそも「丸(まる)」とは何を意味するのでしょうか。古田先生が提唱された元素論でもちょっと説明できません。「ま」や「る」の元素論的定義(意味)から解明できればよいのですが、今のところよくわかりません。
 しかし、まったくヒントがないかと言えば、そうでもありません。たとえばお城の「本丸」や「二の丸」の「丸」や、日本の船の名前に多用される「丸」などと関係があるのではないかと睨んでいます。古代伝承でも朝倉の「木(こ)の丸殿」に天智天皇がいたとするものがあり、「天皇」の宮殿名にも「丸」が採用されていた痕跡かもしれません。
 こうしたことから推察すると、「丸」とは周囲とは隔絶された重要(神聖)な空間・領域を意味する用語と考えてもよいのではないでしょうか。そうすると「丸」の「ま」は地名接尾語の「ま」(一定領域)と同源のように思われます。
 ラグビーの五郎丸選手のおかげで、ここまで考察を進めることができましたが、まだ作業仮説(思いつき)の域を出ていませんので、これからも勉強したいと思います。


第1060話 2015/09/23

九州発か「○○丸」名字(2)

 名字や地名の由来をネット検索で調べてみますと、「○○丸」地名の説明として、「丸」とは新たな開墾地のことで、例えば田中さんが開墾すれば「田中丸」という地名が付けられ、その地に住んでいた人が「田中丸」を名字にしたとするものがありました。しかし、これはおかしな説明で、それでは新たな開墾地は九州や広島県に多く、その他の地方では開拓しなかったのかという疑問をうまく説明できません。さらに「五郎丸」の場合は「五郎」さんが開墾したことになり、これではどこ家の五郎さんかわかりません。やはり、この解説ではこれらの批判に耐えられず、学問的な仮説とは言い難いようです。ネットの匿名でのもっともらしい説明はあまり真に受けない方がよいと思います。
 それでは「五郎丸」の「五郎」は人名に基づいたものでしょうか。わたしはこのことにも疑問をいだいています。たとえば、わたしの名字の「古賀」は福岡県に圧倒的に濃密分布しているのですが、「名字由来net」で検索したところ「古賀丸」という名字は1件もヒットしないのです。「古賀」さんたちは新たに開墾しなかったのでしょうか。自らの名字に「丸」を付けるのがいやだったのでしょうか。ちなみに、「古賀」「○○古賀」という地名は福岡県内にけっこう存在します。
 このような疑問の連鎖が続くこともあり、「五郎丸」名字と関連した「○郎丸」名字を「名字由来net」で調べてみました。次の通りです。数値は概数のようですので、「傾向」としてご理解ください。

〔「○郎丸」名字 県別ランク人数〕(人)
名字  1位   2位   3位       全国計
太郎丸 福岡80    佐賀10  長崎10          130
次郎丸 福岡230  大分50  神奈川,東京30   440
一郎丸 福岡50                              50
二郎丸 福岡60   東京10                    70
三郎丸 広島50   福岡40  大分・長崎20    150
四郎丸 福岡70   広島50  東京30          180
五郎丸 福岡500  山口120  広島60         990
六郎丸 大分・広島10                        10
七郎丸 大分・福井10                        20
八郎丸 無し                                 0
九郎丸 熊本50   福岡30  埼玉・兵庫10     90
十郎丸 無し                                 0

 以上の結果から、やはり「○郎丸」名字は福岡県に多いことがわかり、中でも「五郎丸」さんが他と比べて断トツで多いことが注目されます。人名がその名字の由来であれば、長男や次男の「太郎丸」「次郎丸」の方が多いのが普通と思うのですが、五男の「五郎丸」が多いのでは辻褄があいません。やはり、これらの名字は単純な人名由来ではないと考えたほうがよいように思われますが、いかがでしょうか。
 余談ですが、「○郎丸」名字検索で、超有名な「○郎」さんとして、「金太郎丸」「桃太郎丸」を調べたところ0件でした。そんな名字の人がおられたら、テレビなどで取り上げられるはずですから、やはりおられないのでしょう。(つづく)


第1059話 2015/09/22

九州発か「○○丸」名字(1)

 ラグビーワールドカップでの南アフリカ戦での劇的な逆転勝利で一躍有名になった五郎丸選手ですが、キックの時の印象的なルーチンと呼ばれる動作とともに、その珍しいお名前に、わたしの好奇心がフツフツと沸いてきました。というのも、「五郎丸」のように名字が「○○丸」という人が何故か九州に多いと感じていたので、もしやと思い、五郎丸さんのご出身地を調べてみると、やはり福岡市ということでした。わたしの母校(久留米高専)の後輩にも小金丸さんがいましたし、知人には田中丸さん市丸さんもおり、いずれも福岡県や佐賀県の出身です。また、筑後地方には田主丸という地名もあり、この「丸」地名や「丸」名字は古代九州王朝に淵源するのではないかと考えていたのです。
 そこで、インターネットの「名字由来net」というサイトを利用して、「丸」名字の分布を調べてみました。五郎丸さんをはじめ、著名人や知人の「丸」名字の県別分布ランキングは次のようでした。数字は概数であることから、あくまでも大まかな傾向と理解した方がよさそうですが、やはり推定通りの結果となりました。次の通りです。なお、これは漢字表記の分類で、複数の訓みがある場合はその合計です。

〔著名人・知人の県別「丸」名字人数〕(人)
名字  1位   2位  3位    全国計
五郎丸 福岡500  山口120 広島60     990
小金丸 福岡1400 長崎170 東京130   2200
薬師丸 福岡10  神奈川10        20
田中丸 佐賀130  福岡90   神奈川30   380
薬丸  福岡190  鹿児島120 宮崎70    740
金丸  宮崎5200 東京2400 福岡2300 25600
市丸  佐賀1200 福岡820  東京290   3800
力丸  福岡1200 福島550  神奈川190 2800
井丸  広島50   福岡40   大阪30     240
田丸  千葉1700 神奈川1400 広島1400 11700

 以上のように、田丸さんを除けばほぼ九州、特に福岡県に「丸」名字が集中していることがわかります。九州以外では何故か広島にも多く、これが何を意味するのか興味深いところです。田丸さんだけは傾向が異なり、関東に多く分布していますが、ここでも2位に広島県が食い込んでいることが注目されます。なお、「丸」一字の名字もあり、1位が千葉2400、2位東京830、3位神奈川470で、全国合計5300でした。千葉県に「丸」さん「田丸」さんが多いことが注目されます(千葉県南房総市に「丸」という地名もあるようです)。(つづく)