第1046話 2015/09/08

「武蔵国分寺跡」主要伽藍調査報告書の方位

 今朝は新幹線で東京へ「とんぼ返り」です。月曜日は勤務先の定例会議がありますので、どうしても京都に帰らなければなりません。また今日から金曜日までは関東・新潟出張が連泊で続きます。

 武蔵国分寺跡資料館などでいただいた資料を精査していますと、面白いことに気づきました。国分寺市教育委員会発行のパンフレット「武蔵国分寺跡調査のあゆみと成果 -僧寺金銅跡-」(平成26年3月)によりますと、表紙に描かれた「武蔵国分寺跡の主要遺構」では、金堂などの主要伽藍の南北軸は真北より7度西偏しているのですが、別のページに記載された明治36年の図面(『古蹟』武蔵国分寺礎石配列図)では金堂の礎石配列が南北方位印と平行しており、西偏していないのです。同様に掲載されている大正12年発行『東京府史蹟勝地調査報告書』第一冊収録の「金堂址礎石配置図」も南北方位印に平行しており、西偏していません(調査が実施されたのは大正11年)。更に昭和31年の発掘調査の図面も西偏していません。平成21〜24年の最新調査の説明文に付された金堂礎石配置図も西偏していません。
 この国分寺市教育委員会発行のパンフレットを精査して、わたしの頭か眼がおかしくなったのかと不安にかられてしまいました。そこで今度は恐らく最新版パンフレットと思われる平成27年3月に国分寺市教育委員会ふるさと文化財課発行の「武蔵国分寺跡の整備」を見ますと、最も精密な測量図が掲載されており、金堂・講堂・鐘楼・南門などすべてが7度西偏していました。これでようやく「武蔵国分寺」主要伽藍が「塔1」を除いて7度西偏していることが確認されました。もちろん、9月5日の現地調査でも西偏を確認しています(茂山憲史さんのご協力による)。
 それではなぜ明治や大正、昭和31年の測量図面では伽藍主軸方位が真北として作図されていたのでしょうか。これは推定ですが、恐らくそれらの測量図作成において「磁北」が「方位印」として採用されたのではないでしょうか。ということは、明治時代から現在までこの地域の磁北は真北から「7度西偏」していたことになり、そうであればこれらの測量図がうまく説明できます。「磁北」が時期や地域によりどのくらい振れるのかは知りませんが、この地域では明治から現在まで「7度西偏」としてよさそうです。たぶん、明治時代以後であれば「磁北」についての科学的測定データが残されているのではないでしょうか。
 それにしても、行政が発行しているパンフレットや昔の報告書も用心して取り扱わなければならないということを改めて実感しました。よい経験となりました。(つづく)


第1045話 2015/09/07

「武蔵国分寺」七重塔創建瓦の編年

 「洛中洛外日記」1044話の「武蔵国分寺」現地調査緊急報告で書きましたように、「塔1」(七重塔)の造営年代は8世紀中頃とされていますが、その根拠は『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立詔に基づくものであり、出土瓦などによる考古学的事実によるものではないことがわかりました。
 出土瓦だけからは編年が難しいのかもしれませんが、同遺跡の「塔1」創建瓦として展示されているものは「単弁八葉蓮華文」であり、7世紀後半によく見られる「複弁」ではありません。むしろ7世紀初頭や前半の瓦に似ているように思われ、どこかで見たような記憶がありましたので、持参していた『一瓦一説』(森郁夫著)に記載されている瓦と見比べたところ、7世紀前半頃とされる法輪寺(奈良県生駒郡斑鳩町)の軒丸瓦・軒平瓦の文様によく似ていました。もちろん、全く同じではありませんし、編年には地域性もありますから、断定するものではありません。
 また、武蔵国分寺跡資料館の発掘担当者の中道さんの説明によれば、『一瓦一説』に掲載されているような「(この地域では)きれいなものは見たことがない」とのことで、確かに展示されていた瓦は近畿の博物館などで見るような整った瓦はありませんでした。「複弁蓮華文」の軒丸瓦も、この地方ではほとんど出土していないと説明されていましたので、畿内の瓦の様式編年をそのまま適用するには用心が必要なようです。
 しかしながら、それでも「武蔵国分寺」の「塔1」の編年が、考古学的出土物よりも『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立命令の詔勅(天平13年、741年)を根拠に8世紀中頃以後とされているのは、大和朝廷一元史観の宿痾と言わざるを得ません。やはり多元史観による「九州王朝の国分寺建立」という視点で、各地の国分寺遺跡の編年見直しが必要と思われます。(つづく)

 報告は、肥さんの夢ブログ(中社)内の

古田史学に再掲載。


第1044話 2015/09/05

「武蔵国分寺」現地調査緊急報告

 肥沼孝治さん(古田史学の会・会員)のご案内で、「東山道武蔵路」「武蔵国分寺」「武蔵国分尼寺」などの現地地調査を行いました。総勢8名で3時間ほどかけて、しっかりと見学できました。そして、予想を上回る成果をあげることができました。考察はこれからですが、取り急ぎ事実関係を中心に緊急報告を行います。
 武蔵国分寺跡資料館などで次の知見、説明を得ました。これらの持つ意味については、順次「洛中洛外日記」で考察します。

1.七重塔の造営年代は8世紀中頃とされていますが、その根拠は『続日本紀』の聖武天皇の国分寺建立詔に基づくものであり、出土瓦などによる考古学的事実によるものではない。瓦からは編年が難しいとされているようでした。
2.真北に主軸を持つと思っていた「塔2」の発掘図面を精査すると、東に約5度ほど振れており(茂山憲史さんの指摘・測定による)、真北に主軸を持つ「塔1」(七重塔)とは造営年代や造営主体が異なると思われる。
3.「武蔵国分尼寺」の主軸も、内部の伽藍により異なっていた。尼坊とその他の伽藍(金銅・講堂など)の主軸にはずれがありました。
4.同地域には7世紀の遺跡がないとされており、従って「塔1」の編年も8世紀中頃とする根拠の一つにされていた。

 他にも現地でなければわからない知見が次から次へと得られました。「歴史は脚にて知るべきものなり(秋田孝季)」という言葉を実感しました。懇切丁寧に説明していただいた武蔵国分寺跡資料館の中道さん石井さん、そして下見やご案内をしていただいた肥沼さんに感謝いたします。(つづく)

多元的「武蔵国分寺」現地調査

 報告は、肥さんの夢ブログ(中社)とリンクしています。


第1043話 2015/09/05

「九州顔」の女性たち

 今朝は東京に向かう新幹線の車中で綴っています。午後からは国分寺市で「武蔵国分寺」の現地調査を行います。今回の「洛中洛外日記」は、あまり学問的ではないが、経験的に間違いないという話題です。
 九州出身(福岡県久留米市)のわたしは、二十歳のとき就職で京都に来ました。その後、帰省の度に九州には典型的な女性の顔があることに気づきました。九州にいるときは当たり前すぎて、しかも九州以外の人と比較するという機会もなかったので気づかなかったのですが、九州人の典型的な顔があるのです。特に女性はその特徴から、見た瞬間に「九州顔」ではと思い、ご当人やそのご両親の出身地を調べるとかなりの確率で九州出身であることが多いのです。最近はお化粧の技術もアップしましたので、わかりにくくはなりましたが、やはり特徴的な「九州顔」の人はわかります。
 皆さんもよくご存じの芸能人でいえば、田中麗奈さん(久留米市出身)、家入レオさん(久留米市出身)、黒木瞳さん(八女郡出身)、吉田羊さん(久留米市出身)などはその代表的な女性で、いずれも眼に特徴が現れています。わたしの母親はそれほどでもありませんが、祖母や叔母さんたちの何人かは「九州顔」でした。
 この「九州顔」の特徴は南に行くほど顕著ですから、元々は南九州人の特徴だったのかもしれません。おそらく、邪馬壹国の卑弥呼や壹与も「九州顔」だったのではと、かなりの確信を持っているのですが、いかがでしょうか。


第1042話 2015/09/03

JR武生駅の「花筐(はながたみ)」像

 今日は仕事で福井県越前市に来ています。JR武生駅で降りたのですが、構内に「花筐(はながたみ)」像があることに気づきました。説明によると「継躰大王」と后が主人公の謡曲「花筐(はながたみ)」の像とのことで、「継躰大王」と后の「照日の前(てるひのまえ)」の小さなブロンズ像です。この地域には「継躰大王」伝承が多数残っているとも記されていました。当地の「味真野(あじまの)」が継躰天皇の出身地とされているようです。
 「花筐」という謡曲があることは知っていましたが、この字が「はながたみ」と訓むことや、継躰天皇と后が主人公ということは、恥ずかしながら今日初めて知りました。この謡曲「花筐」は世阿弥の作とされていますが、大和に上った継躰天皇を「照日の前」が凶女となって追うというあらすじです。この「照日の前」は后となったということですから、後の安閑天皇を産んだことになります。
 この物語が世阿弥による全くの創作なのか、継躰天皇に関する史実の反映なのか、それとも越前にいた別の権力者の伝承を世阿弥が転用したのか、気になるところです。幸い、「古田史学の会」には謡曲にめっぽう詳しい正木裕さん(古田史学の会・事務局長)がおられますので、お会いしたら教えていただこうと思います。
 なお、越前市は武生市などが合併により誕生した行政区ですが、JR武生駅付近の地名が「府中」「国府」ですから、越前国府があった場所です。ちなみに近くに国分寺もありました。現存寺院の方位は真北よりやや西偏しているようでした。


第1041話 2015/09/02

東京オリンピック・エンブレム騒動に思う

 佐野研二さんの東京オリンピック・エンブレムが取り下げられましたが、今回のテレビニュースや新聞などの報道姿勢を見ていますと、ちょっと本質から離れた「芸能ニュース」のような違和感を感じています。わたしは芸術家ではありませんので、難しいテーマですが、仕事で開発や特許出願などに関わっていますので、そこでの常識やルールとは異なっているように感じています。
 エンブレムのデザインが模倣(パクリ)かどうかに焦点を当てた報道に終始している観がありますが、創造や発明で問題とすべき本質は「新規性(独創性)」の有無にあります。というのも世界中で行われている開発や創造作業と偶然に一致する、あるいは似てしまうことは起こり得ることですから、模倣の意志の有無とは無関係に、「新規性」がなければ(先行技術・発明が既にあった場合)、取り下げるか断念するしかありません。特許庁も「新規性」の有無を中心に審査します。ですから企業の研究開発においては先行技術・公知・特許などの有無を徹底的に調べますし、特許侵害に相当するか否か微妙な問題がある場合は特許事務所の弁護士や専門家の判断を仰ぎます。それだけ周到に事前調査をしていても、特許が拒絶査定されたり特許侵害で訴えられる可能性があり、その場合は裁判で争うか、話し合いで解決するか、特許出願を取り下げるなどの対応をとることになります。
 今回のエンブレム問題もマスコミはもっと芸術作品としての「新規性」の有無について解説して欲しかったと思います。もちろんそうした視点での専門家のコメントも見られましたが、圧倒的に興味本位の一般大衆受けする「模倣(パクリ)」騒動へとマスコミ報道はなされました。その方が視聴率や雑誌の売り上げが増える(お金になる)からでしょう。
 「古田史学の会」でも『古田史学会報』や『古代に真実を求めて』での採用審査において、先行研究の有無も重要な判断基準になります。古田学派による研究も30年以上の歴史があり、その間に発表された研究もかなりの数にのぼります。ですから、それらを知らずに、あるいは忘れてしまって同じような投稿論文を掲載する恐れがあり、わたしもこの点について自信が持てないときは「古田史学の会」のホームページの検索機能を使って調べたり、他の研究者の意見を求めたりします。似たような結論や論理展開の論文はときおり見かけますが、その場合はその論文に「新規性」や「独創性」があれば、なるべく採用するか、先行説に触れるよう原稿の修正を執筆者に求めることもあります。
 8月の関西例会でも東大阪市の萩野秀公さん(古田史学の会・会員)より、先行説の存在を知らないで発表するリスクを心配する意見が出されました。わたしは、そうしたリスクは常にありますが、それでも例会等で発表することが学問研究にとっては大切であり、もし先行説があれば指摘してもらえるので、例会での発表を「自主規制」する必要はないと返答しました。また、論文として会報などに発表する場合は、その責任は採否を決める側にあるので、あまり心配しないで投稿することをお勧めしました。
 以上、今回のエンブレム騒動を機会に、学問研究のプライオリティーと投稿原稿採否の難しさについて再考してみました。この件、重要ですので、これからもよく考えてみることにします。


第1040話 2015/08/31

古田先生出演「本日、米團治日和」

 のオンエア日程

 先週、収録されたKBS京都放送の古田先生が出演される「本日、米團治日和」のオンエア日程ですが、いただいた企画表によれば、9月の9日、16日、23日の17:30〜18:00とありましたのでお知らせします。特段の事情がなければこれらの水曜日に放送されます。関西の皆さん、ぜひ聴いてください。なお、Radiko.jpプレミアムに登録すればパソコンやスマホで全国どこでも聴けるそうです(有料、要契約)。

「本日、米團治日和」での紹介です。
2015.09.09 《古田武彦さん登場 @ KBS京都ラジオ》

 希望される会員に「洛洛メール便」で配信しています「洛中洛外日記【号外】」の8月のタイトルをご紹介します。まだ発信申し込みをされていない会員の方は、ぜひお申し込みください。

「洛中洛外日記【号外】」8月配信のタイトル
日付    タイトル
2015/08/01 9月6日、東京講演会の打ち合わせ
2015/08/04 KBS京都ラジオ収録の打ち合わせ
2015/08/05 「インターネット例会」構想
2015/08/08 「国分寺」問題の服部さんとのメール
2015/08/10 古田先生から原稿いただく
2015/08/12 KBS京都放送で米團治さんと打ち合わせ
2015/08/17 古田ファン発見!「居島一平さん」
2015/08/18 東大で古代関東の研究例会開催
2015/08/20 『海路』12号「九州の古代官道」を読む
2015/08/21  9/06 東京講演のパワーポイント完成
2015/08/23  9月5日の「武蔵国分寺」現地調査プラン
2015/08/26 『月刊 加工技術』連載コラム「海の正倉院」沖ノ島の金銅製龍頭
2015/08/29  米團治さんからの問い


第1039話 2015/08/30

世界遺産候補「沖ノ島」出土土器は九州製

 「洛中洛外日記」1009話(2015/07/28)で九州王朝の聖地「沖ノ島」が世界遺産候補となったことに触れました。「洛中洛外日記【号外】」(2015/08/26)でも沖ノ島の国宝、金銅製龍頭(こんどうせいりゅうず)について紹介しました。
 沖ノ島の祭祀遺跡からは4〜9世紀にかけての奉納品が発見されていますが、それらは大和朝廷が奉納したものと解されてきました。しかし、沖ノ島から出土した土器のほとんどが北部九州製で、一部が山口県の土器であることが明らかになっています。したがって、沖ノ島は大和朝廷の祭祀遺跡ではなく、太宰府を首都とした九州王朝(倭国)の祭祀遺跡と考えざるを得ないのです。詳細は古田先生の『ここに古代王朝ありき 邪馬一国の考古学』をご参照ください。
 沖ノ島が九州王朝の聖地であることを、世界遺産候補となったこの機会に、古田史学・九州王朝説を広く社会に紹介していきたいと思います。

第四部 失われた考古学 第二章 隠された島 古田武彦 沖の島の探究


第1038話 2015/08/29

平野雅曠さんの先行説(2)

「鞠智城は九州王朝造営」

 平野雅曠さんは「市民の古代研究会」時代からの古田説支持者で、中でも九州年号研究において優れた業績を上げられた熊本市在住の研究者でした。明治44年のお生まれで、地元の九州年号史料の調査発掘などを手がけられ、好著を何冊も出されています。
 「市民の古代研究会」分裂後に、わたしが「古田史学の会」を立ち上げたときも、呼びかけに応じ入会され、自主的にカンパも寄せていただきました。わたしも九州年号研究をテーマとしていたこともあり、論争もしましたし、とても思い出深い恩人です。
 その平野さんの著書『倭国王のふるさと火ノ国山門』(平成8年、熊本日日新聞情報文化センター)を読み返したところ、既に鞠智城を九州王朝の都城とする説を発表されていたことに気づきました。「国の王城か、『鞠智城』」という論文です。わたしよりも20年も早く同仮説に至られていたのです。改めて古田学派「鎮西の巨頭」の慧眼に感服しました。「今頃、気づいたか」と天国から温厚な笑顔と眼差しで後進を見ておられることでしょう。同書からはこれからも多くの学問的示唆を得られそうです。


第1037話 2015/08/28

平野雅曠さんの先行説(1)「九州年号の訓み」

 来春発行予定の『古代に真実を求めて』19集は「九州年号」を特集しますが、特集原稿の選考や執筆依頼の検討を編集部では進めています。正木事務局長からの提案で、九州年号の訓みについての論文掲載を検討していますが、先行研究を平野雅曠さん(故人)が発表されていた記憶がありましたので、調べてみました。
 平野さんの著書『倭国史談』(2000年、熊本日日新聞情報文化センター制作)に「訓んでみた『九州年号』」が収録されていましたが、初出は『古田史学会報』22号でした。
 平野さんによれば九州年号は呉音で訓まれていたとされ、その呉音での九州年号訓み一覧を示されています。たとえば「常色」は「じょうしき」と訓まれています。わたしは九州年号研究において、その訓みについてはあまり気にせずにいたこともあり、たとえば「常色」は「じょうしょく」と訓んできました。そのため、九州年号は呉音で訓むべきとのご指摘を会員からいただいたこともあります。
 九州年号研究の精度を更に高めるため、正木さんから九州年号特集論文にこのテーマを入れるべきとの意見が出されたのも時宜を得たものです。そこで、『古代に真実を求めて』編集責任者の服部静尚さんからの要請で、平野さんの先行研究を踏まえて正木さんに新たに執筆していただく方向で検討されています。
 古田学派の研究も30年以上にわたり、多くの研究が発表されていますから、『古代に真実を求めて』の企画編集にあたっても注意が必要です。(つづく)


第1036話 2015/08/27

KBS京都放送でラジオ番組収録

 本日、KBS京都放送のラジオ番組「本日、米團治日和。」(毎週水曜日17:30オンエア)の収録を古田先生、桂米團治さんと行いました。京都御所の西側にあるKBS京都放送局で午後3時から約3時間ほどの収録でしたが、3回に分けてオンエアされるとのことです。
 最初は3人の対談を収録し、その後、不足分や修正部分を米團治さんとわたしの二人で追加収録しました。古田先生は2時間ほど対談され、話題は古田先生の奥様と米朝さんがともに姫路のご出身であったことなどからスタートし、古田先生の初期三部作(『「邪馬台国」はなかった』『失われた九州王朝』『盗まれた神話』)を紹介し、それぞれのテーマに分けて収録されました。オンエアも本ごとの内容に分けて3週にわたるとのことでした。
 米團治さんは古田説を大変よくご存じで、的確な質問を続けられ、古田説のエッセンスを抽出する収録となりました。古田先生もお疲れの様子も見せず、終始なごやかな雰囲気で収録は終了しました。オンエアがとても楽しみです。放送日程が決まりましたら、「洛中洛外日記」でご紹介しますが、残念ながらローカル局ですので、関西地方しか聞けないと思います。

「本日、米團治日和」での紹介です。
2015.09.09 《古田武彦さん登場 @ KBS京都ラジオ》

 「古田史学の会」からは服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)と会員の茂山憲史さんが写真撮影担当として同行していただきました。その服部さんから、次のメールが届きましたので、ご紹介します。収録スタジオの隣の編集室で見学されていたのですが、収録の雰囲気がよくわかると思います。

桂米團治師匠と記念撮影

左から桂米團治師匠、古田武彦先生、古賀達也、古田光河氏

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

【服部さんから「古田史学の会」役員へのメール】

本日の収録には驚きました。

1、米團治さんが、古田史学を完璧に理解されている。その上での、問いかけだから的をいている。
2、古田先生が、2時間、休み無しで熱く語られた。酸素吸入無しに。
3、スタジオ、収録室が全て古田ファンであった。


第1035話 2015/08/23

「難波宮」万葉歌の史料批判

 本日の夜、「古田史学の会」役員間でメールの応答があり、「難波宮」万葉歌の史料批判とでも言うべき、とても面白い問題へと発展してきましたので、転載し、ご紹介します。
 まず、水野顧問からの問いかけ(起承転結の起)に始まり、それに対する古賀の返答(承)、そして正木事務局長からのするどい仮説の提起(転)という内容です。こうした学問的応答が瞬時に交信されるのも「古田史学の会」ならではの特色です。今後、どのように展開(結)するのか、興味津々です。

(1)水野さんから古賀や役員への質問メール
 万葉集 03/0312 「昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり」作者:藤原宇合
 この作者は、聖武天皇期に、造(後期)難波宮長官になった。前期難波宮は副都で豪華な都会だったら、「昔は田舎と言われたが」なんて歌を詠むのかナ

(2)古賀から水野さんへの返信メール
水野様
 ご指摘の歌はわたしも注目してきたものです。
 考古学的事実としては前期難波宮の上にほぼ同規模の宮殿として後期難波宮があります。官衙群は前期が圧倒的に多く出土しています。ですから、この歌にあるように聖武天皇の後期難波宮が「今は都引き都びにけり」であれば、前期難波宮も同様かそれ以上に素晴らしい都・宮殿とみなすのが、考古学的出土事実に対する正当な理解です。
 他方「昔」は「田舎」としているのですから、その「昔」が何年前のことかという問題が生じます。前期難波宮は朱鳥元年(686)に焼失していますから、それ以後のことをさして「昔」としているのであれば、焼け野原ですから「田舎」という表現も妥当でしょう。あるいは前期難波宮造営の白雉元年(652)より以前であれば都ではないのですから、「田舎」という表現も妥当かもしれません。したがってこの歌の「昔」をいつ頃とするのかの検討が必要です。
 今のところ、それを特定する学問の方法がわかりませんので、わたしは判断を保留しています。藤原宇合や同時代の歌人たちが使用している「昔」の用例を全て抜き出して、具体的にその定義を明らかにできれば特定できるかもしれませんが。
 古賀達也

(3)正木さんから水野さんへのメール
水野様、
 これに類する歌が他にもあります。
 928番歌:冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村作歌一首[并短歌]
 おしてる 難波の国は 葦垣の 古りにし里と 人皆の 思ひやすみて つれもなく ありし間に 続麻なす 長柄の宮に 真木柱 太高敷きて 食す国を 治めたまへば 沖つ鳥 味経の原に もののふの 八十伴の男は 廬りして 都成したり 旅にはあれども
 929番[并短歌]:荒野らに里はあれども大君の敷きます時は都となりぬ 

 これらは神亀2年(725)10月の笠朝臣金村の歌とありますが、「題詞を信じるなら」686年の前期難波宮焼失から40年後ですから、九州王朝滅亡とともに”遺棄”されていたととれます。
 ただ、題詞と内容が矛盾するときは内容を優先するというのが古田先生の考えですから、前期難波宮時の歌を作者と時期を変えて万葉に搭載している可能性も十分あります。
 そういう目で見ると、笠朝臣金村の歌は300番台、500番台、900番台、1400・1500番台に分かれ、そのうちの900番台「だけ」は柿本人麻呂の「吉野宮・滝・三船山」など九州吉野に関する歌と極めて類似するものや航海の歌ばかりです。
 また、九州から難波へと異なり、奈良から難波には「航海」不要ですし、歌調も金村とは異なっているように思えます。従って前期難波宮造営時の歌からの盗用の可能性が高いと思います。人麻呂の歌同様、本来九州や前期難波宮に関するものを、近畿天皇家の歌とするため後期難波宮に「仮託」して九州王朝を隠したのではないでしょうか。

(笠朝臣金村の900番台の歌すべて)
【吉野に関する歌】
 06/0907   瀧の上の 三船の山に 瑞枝さし 繁に生ひたる 栂の木の いや継ぎ継ぎに 万代に かくし知らさむ み吉野の 秋津の宮は 神からか 貴くあるらむ 国からか 見が欲しからむ 山川を 清みさやけみ うべし神代ゆ 定めけらしも
 06/0908   年のはにかくも見てしかみ吉野の清き河内のたぎつ白波
 06/0909   山高み白木綿花におちたぎつ瀧の河内は見れど飽かぬかも
 06/0910   神からか見が欲しからむみ吉野の滝の河内は見れど飽かぬかも
 06/0911   み吉野の秋津の川の万代に絶ゆることなくまたかへり見む
 06/0912   泊瀬女の造る木綿花み吉野の滝の水沫に咲きにけらずや
 06/0920   あしひきの み山もさやに 落ちたぎつ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺には 千鳥しば鳴く 下辺には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人も をちこちに 繁にしあれば 見るごとに あやに乏しみ 玉葛 絶ゆることなく 万代に かくしもがもと 天地の 神をぞ祈る 畏くあれども
 06/0921  万代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮所
 06/0922   皆人の命も我れもみ吉野の滝の常磐の常ならぬかも

【航海に関する歌】
 06/0930   海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ
 06/0935   名寸隅の 舟瀬ゆ見ゆる 淡路島 松帆の浦に 朝なぎに 玉藻刈りつつ 夕なぎに 藻塩焼きつつ 海人娘女 ありとは聞けど 見に行かむ よしのなければ ますらをの 心はなしに 手弱女の 思ひたわみて たもとほり 我れはぞ恋ふる 舟楫をなみ
 06/0936   玉藻刈る海人娘子ども見に行かむ舟楫もがも波高くとも
 06/0937   行き廻り見とも飽かめや名寸隅の舟瀬の浜にしきる白波

 どうでしょうか。
  正木拝