第829話 2014/11/29

『太平記』の藤原千方伝説

 今日は午後からお天気になりましたので、近くの相国寺さんを散策しました。法堂の真っ白な漆喰と真っ赤に紅葉した木々がとてもきれいでした。

 「洛中洛外日記」793話の「佐藤優『いま生きる「資本論」』を読む」で、16世紀に日本に布教に来た宣教師たちがマカオで印刷された日本語版『太平記』を読んで日本語を勉強していたことを紹介し、わたしも『太平記』を読んでみたくなったと書きました。そうしたら水野代表 が『太平記』を関西例会に持参され、貸していただきました。大正六年発行のかなり年期の入った『太平記』(有朋堂書店)上下2冊本で、「有朋堂文庫(非売 品)」とあります。
 面白そうな所から拾い読みしていますが、巻第十六の「日本朝敵事」に不思議な記事がありました。天智天皇の時代に藤原千方(ふじわらのちかた)という者 が四鬼(金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼)を従えて伊賀と伊勢で反乱を起こしたという伝説です。朝廷から派遣された紀朝雄(きのともお)により鎮圧されますが、 天智の頃ですから九州王朝の時代です。『日本書紀』などには記されていませんので、史実かどうか判断できませんが、九州王朝説により解明できないものかと思案中です。なお、「天智天皇」を「桓武天皇」とする写本もあるようですが、実見していません。
 伊賀地方では今でも藤原千方に関する旧跡が残っているとのことで、当地では有名な伝説のようです。『太平記』にはこの他にも面白そうな記事があり、少しずつでも読み進めようと思います。以上、今回は軽い内容の「洛中洛外日記」でした。


第828話 2014/11/29

地名接尾語「さ」と「言素論」

 地名接尾語としての「ま」や「の」について論じてきましたが、まだよくわからない地名接尾語に「さ」があります。宇佐・土佐・稻佐・三笠・須佐・伊佐・石原(いさ)・麻・厚狭(あさ)・安佐・小佐(おさ)・岩佐・笠・加佐・笠佐・ 吉舎(きさ)・笹・奈佐・波佐・布佐・三佐・武佐・与謝・若狭など末尾に「さ」が付く地名は多数あります。従って、共通した何らかの意味を持つと考えられ ます。
 言葉の先頭に付く「さ」は、小百合や小夜曲のように「小さな」という意味の「さ」が知られていますが、地名接尾語の場合はそれとは違うようです。このように、「さ」の音に複数の異なる意味があることになるのですから、「言素論」で言葉を分析するさいに、どちらの意味を取るのかで恣意性が発生することもあ り、こうしたケースは学問的に不安定なことがご理解いただけると思います。
 「さ」の意味を探る上で注目されるのが京都府福知山市の石原(いさ)という地名です。「原」という字に「さ」という発音はなさそうですから、音ではなく訓(字の意味)の一致から「さ」の音に当てたのではなないでしょうか。そうであれば、「さ」は「原」(フィールド)の意味を持っていたことになります。そうしますと、「ま」(一定領域の意味)と似た意味となり、「○○さ」とは「○○」のフィールドということになります。まだアイデア段階ですが、地名接尾語 「さ」の意味をこれからも考えていきます。


第827話 2014/11/23

「言素論」の可能性

 「言素論」は日本古代史研究に新たな可能性を秘めているのですが、古代中国の音韻研究にも寄与できる可能性もあります。たとえば音韻復元が未だ困難とされている『三国志』時代の音韻研究ですが、倭人伝の国名分析により解明できるケースがあります。たとえば、「奴国」などの「奴」の音韻が、通説の「な」や「ど」ではなく、「ぬ」あるいは「の」の可能性が最も高いということがわかっ てきました。
 『三国志』倭人伝に記された倭国内の国名に「奴」の字がよく使われています(奴国・彌奴国・姐国・蘇奴国・華奴蘇奴国・鬼奴国・烏奴国・狗奴国)。現在では「ぬ」「ど」とわたしたちは発音しますが、志賀島金印の「漢委奴国王」の場合は通説では「な」と訓まれています。倭人伝国名の末尾に「奴」が使用されていることが注目されますが、おそらく倭人の発音に基づき漢字を当てたものと思われますから、この「奴」が地名接尾語の可能性をまず考えるべきです。そうしますと、日本列島内の地名接尾語として多用されているのが、「ま」の他には「の」「さ」「な」などがあり、この中から「奴」の音の可能性があるのは 「の」と「な」です。しかし、地名としては「の」が圧倒的に多いことから、「の」の可能性が最も高いと思われます。
 たとえば思いつくだけでも、昨晩地震があった長野をはじめ、吉野・熊野・日野・信濃・星野・茅野・真野・高野・美濃・小野・遠野・角野・中野などいくらでもあります。したがって日本列島内に多数ある「○○の」という国名が倭人伝に無いと言うことは考えにくいので、「奴」を「の」と訓むのは合理的な選択肢となります。ただし、古代から現代までの音韻変化という問題がありますので、ここでは「の」あるいは「ぬ」に近い音という程度にとどめておくほうが学問的には安心です。中村通敏さん(古田史学の会・会員、福岡市)も著書『奴国がわかれば「邪馬台国」が見える』(海鳥社、2014年)で同様の考えを発表され ています。好著ですので、ご一読をお勧めします。
 「奴」の発音を「の」「ぬ」と考えた場合、次に問題となるのが、その意味です。地名接尾語として何らかの共通した意味があったはずですから、「言素論」 としてこの考察を避けて通れません。これまでは何となく「野原の野(の)」のことで、野原や広原の多い地名に接尾語の「の」が付けられたと考えていました。現に「○○野」という地名が数多くあります。もちろんこうした意味で「○○の」という地名が付けられたケースも少なくないと思われますが、倭人伝の 「奴国」や志賀島の金印の「委奴国」の場合、かなり大きな領域の国名と思われますから、古代においては「の」「ぬ」に単に「野原」ではなく何か特別な意味があったのではないかと考えています。残念ながら今のところ良いアイデアはありません。
 古田先生が提唱された「言素論」は発展途上の先駆的学問領域であるがゆえの限界や欠陥、想定できない問題の発生を避けられませんが、同時に大きな可能性も秘めています。古田学派内での活発な論議や仮説発表を通して発展させていきたいと思います。


第826話 2014/11/22

「言素論」の方法論

 「洛中洛外日記」824話などで、地名接尾語「ま」について紹介しましたが、 西村秀己さんから、「ま」が一定領域をあらわす言葉なら、なぜ「ま」が地名に付いたり付かなかったりするのか、地名そのものが一定領域を表しているのに、 なぜ更に一定領域を意味する「ま」が付く必要性があるのかという鋭いご質問をいただきました。そこで、今回はこの地名接尾語「ま」についてわたしの考えを説明し、「言素論」の方法論について触れることにします。
 まず、「ま」を地名接尾語とするための条件としては、末尾に「ま」を持つ多数の地名の存在が必要です。数が少なければ、偶然の一致かもしれないという批判をクリアできないからです。すでに何度も紹介しましたように、日本列島にはかなり多くの末尾に「ま」がつく地名があり、これを偶然とするよりも、何らかの必要性があり、地名の末尾に「ま」を付けた文明や集団が存在したと理解する方が合理的なのです。
 次に、「ま」が付いたり付かなかったりする理由ですが、幸いにも末尾に「ま」が付いたり付かなかったりする例が現在もあります。「床の間」「土間」「居間」「客間」「応接間」というように「ま」が付くケースと、「玄関」「便所」「台所」のように「ま」が付かない場所が家の中にあります。前者は「間」が付くことにより一定領域(空間)であることと、それがどのような目的の領域であるかがわかる仕組みになっています。後者は「間」の代わりに「所」という一定 領域(空間)であることを示す言葉が付加されています。あるいは漢語として目的と一定空間であることが明らかな「玄関」のような言葉には「ま」が不要であ り、付加されていません。
 おそらく、これと同様に末尾に「ま」を付加することにより、ある集団などの一定領域を意味するケースとしての地名接尾語「ま」が付けられたのではないで しょうか。すなわち古代日本列島において、特定集団の領域を表す言葉として「ま」があり、その集団名などの末尾に「ま」を付ける慣習があり、その結果、末尾に「ま」を持つ地名が多数成立したのではないでしょうか。
 実はこれと同様の地名領域表現として、中国風の「国(くに)」「県(あがた)」「里(さと)」名称などが導入され、後には「評」「郡」「郷」が国家権力の行政単位として採用されます。このように、より古い時代に一定領域をあらわす言葉として地名接尾語「ま」などが発生したと、わたしは考えています。
 以上、地名接尾語「ま」の成立を「言素論」の視点から考察したのですが、もちろん他に有力で合理的な説明や仮説があれば、比較検証し、どの仮説が最も妥当かを判断すればよいと思います。「言素論」を古代史研究に使用する場合は、少なくともこの程度の学問的手続きと用心深さは必要でしょう。(つづく)


第825話 2014/11/21

「言素論」の困難性

 今回は「言素論」の学問としての困難性について説明します。それは古代における発音・音韻が現在のわたしたちにはわからないことが多いことと、残されている史料の文字表記と古代の音韻とが正確に対応しているかどうか、これもわからないケースがあるという点です。
 このことを具体例(わたしの失敗)で説明しますと、たとえば「洛中洛外日記」820話で紹介した「○○じ(ぢ)」地名の音韻における、「じ」と「ぢ」の 違いです。姫路や淡路、庵治、但馬、味野は「ぢ」と思われますが、「吉備の児島」の場合は普通「こじま」であり、「じ」です。わたしはこの「児島」も「こじ(ぢ)+ま」とするアイデア(思いつき)として述べたのですが、この点、倉敷市の「味野」地名を教えていただいた安田さんからメールをいただき、「ぢ」 ではなく「じ」ではないかとのご指摘をいただきました。『古事記』の国生み神話に見える「吉備児嶋」は「嶋」ですから「こじま」と発音され、安田さんのご指摘はもっともなものでした。
 ただ、わたしには思い当たることがあり、あえて「吉備の児島」の「児島」を「こじ(ぢ)+ま」とするアイデアを述べました。それは『古事記』の国生み神 話の「大八島国」の次に登場する六つの「嶋」(吉備児嶋・小豆嶋・大嶋・女嶋・知訶嶋・両児嶋)のうち、「吉備児嶋」だけは「嶋」(アイランド)ではなく半島で、しかも「吉備」という地名表記つきで、他の五つの「嶋」とは表記方法が異なっています。そこで、この「児嶋」は「嶋」と表記されていますが、本来 は「こぢ+ま」という領域名であり、それを『古事記』編者は「こじま」として他の五つの「嶋」と同様に「児嶋」と表記したのではないかと考えたのです。
 しかし、わたしのこのアイデア(思いつき)に対して、西村秀己(古田史学の会・全国世話人、『古田史学会報』編集担当、会計。高松市)さんから「児島半島は昔は島で、戦国時代以降の干拓により半島になった」とのご指摘があり、わたしの思いつきは成立困難であることがわかりました。
 「じ」と「ぢ」に限らず、古代日本語の発音は現代の五十音よりも多く(たとえば万葉仮名の甲類・乙類など)、今のわたしたちの発音・音韻感覚によって十把一絡げに同音だから同じ意味とすることはかなり危険が伴うのです。ここに「言素論」を利用するさいの難しさの一つがあります。(つづく)


第824話 2014/11/20

「言素論」の応用例

 「言素論」の学問的性格や方法論について説明したいと思いますが、抽象論ではわかりにくいので、なるべく具体論をあげるようにします。今回は応用例として「松」地名分析での経験を紹介します。
 語尾に「松(まつ)」がつく地名は全国にたくさんあります。たとえば有名な都市では浜松(静岡県)・高松(香川県)・小松(石川県)などです。いずれも海岸付近にあることから、何となく海岸に松林が多い所なのだろうと思っていたのですが、古田先生の「言素論」を知ってからは、考えを改めました。「松(ま つ)」の「ま」は地名接尾語の「ま」、「つ」は港を意味する「津」のことと理解できたのです。従って、地名の語幹部分は「はま(浜)」「たか(高)」「こ (小)」となります。
 「ま」が末尾につく地名は、薩摩・播磨・須磨・有馬・球磨・三潴・朝妻・鞍馬・宇摩・但馬・生駒・門真・筑摩・詫間・群馬・多摩・浅間・中間・置賜・埼玉・大間など数多くあり、これらは偶然ではなく、地名の末尾に付くべき何らかの意味を持つ言葉であることは間違いないでしょう。現在でも、土間・床の間・ 応接間・居間・隙間などのように、一定の空間・領域を意味する言葉として「ま」が使用されています。従って地名接尾語の「ま」も同様に一定領域や空間を意味すると考えられます。さらに敷衍すれば、山(やま)・島(しま)・浜(はま)・沼(ぬま)などの基本的一般名詞末尾の「ま」も語原が共通している可能性 があります。
 「つ」は現在でも大津(滋賀県)のように、港を意味する言葉として使用されています。以上の理解から、地名の末尾につく「松(まつ)」は、「ある一定領域にある港」とする理解でその多くは説明可能です。その証拠に、浜松・高松・小松の他、末尾に「松」を持つ地名の多くは海岸・湖岸・川岸付近にあり、この理解が正当であることを裏付けています。
 以上のように、「松」地名を松林が多い所とする浅薄な理解から、「言素論」により本来の意味に肉薄する深い理解が可能となるのです。これは「言素論」の応用例でも比較的成功した事例です。(つづく)


第823話 2014/11/19

「言素論」の基本前提

 古田先生が提唱され古代史研究において援用展開されている「言素論」について、古田学派内では様々な論議がなされています。特に「古田史学の会」関西例会では、その使用方法や理解をめぐって激しい論争が今も続けられています。わたし自身も「言素論」を利用して多くの仮説やアイデアを述べてきたこともあり、この「言素論」について整理する必要を感じています。そこでわたしの理解もまだ不十分ですが、「言素論」について見解をのべてみたいと思います。
 まず「言素論」成立のための基本的前提として、古代日本語の単語や文字表記において、一般的には「一字・一音節・一義」がより古い形態と考えることがあります。たとえば、「魚」という字で表記される意味はfishですが、音は「ぎょ」(音読み)と「な」「うお」「さかな」(訓読み)などがあります。この fishを意味する日本語のうち、「な」を最も古いとする、これが「言素論」の基本前提です。すなわち、「魚」という表記の訓みの「一字・一音節・一義」 が「な」なのです。
 この基本前提に基づき、「一音節」ごとに言葉を分解し、その言葉の本来の意味の構成を明らかにするのですが、同時に「どうとでも言える」という恣意性に対する批判を避けられないのです。その「どうとでも言える」という恣意性に基づいて立てられた「仮説」は危ういという批判が西村秀己さんらから出されており、それに対して「言素論」の持つ先駆性による限界をわきまえた上で、その学問的可能性を追求すべきという反論があり、わたしはこの立場に立っています。
 この対立は、賛成反対を問わず、「言素論」を古代史研究に利用しようとする論者にとって重要な問題なのですが、残念ながら十分な理解がなされないまま、 論文に「言素論」が使用されるケースが散見されます。こうした感想はわたしも西村さんも同様に抱いており、そこにおいてお互いの意見の違いはありません。 誤解を恐れず単純化すれば、「言素論」使用に対して厳格な条件を要求する西村さんと、とりあえず作業仮説(思いつき)として利用する分には、あまり厳しいことは言わないでもよいのでは、とするのがわたしです。
 もっとも西村さんが指摘されるように、「一音節」に複数の意味があるケースでは、どの意味とするのかは個人の勝手な判断となりかねず、論証抜きの恣意的な判断となる、という批判はわたしも認めるところです。たとえば「洛中洛外日記」820話で紹介しました瀬戸内海地方に散見される「○○じ(ぢ)」という 地名の「じ(ぢ)」には共通した意味があるのではないかとする、わたしのアイデア(思いつき)においても、「ぢ」を神の古名である「ち」が濁音化したものとする理解もあれば、「道」を意味する「ぢ」かもしれず、どちらが妥当かは論証の対象であり、個人の勝手な判断で論を進めるのはあまり学問的態度とは言え ません。(つづく)


第822話 2014/11/18

『古代に真実を求めて』18集の編集会議

 一昨日の日曜日に、i-siteナンバで『古代に真実を求めて』18集の編集会議を行いました。特集『盗まれた「聖徳太子」伝承』の原稿もほぼ出そろい、かなり面白い本になりそうです。表紙レイアウトも一新する計画で、原幸子さん (古田史学の会・会員、奈良市)による表紙デザイン画もできあがりました。特集以外の応募原稿などの選考も終わり、これから古田先生の講演録やインタビュー(家永三郎さんとの聖徳太子論争の回想)の準備にかかります。12月9日に古田先生のご自宅にうかがい、お話をうかがいます。
 明石書店への原稿提出締め切りもせまっており、最後の追い上げです。わたしも、今回は「巻頭言」執筆を水野代表から指示されており、すべての原稿に再度目を通して、執筆することになります。
 19集では「九州年号」を特集しますが、明石書店からの要請もあって、『古代に真実を求めて』別冊の企画も服部さんと相談中です。まだ正式にはなにも決まっていませんが、これまで発表された「邪馬台国」関連論文を中心にした企画などが試案としてあがっています。このところ「邪馬台国」関連本の出版が続いていますので、静かなブームなのかもしれません。古田学派らしい学問的なしっかりとした別冊にしたいと思います。
 なお、18集は来春発行予定で、2014年度賛助会員に進呈いたします。本屋さんからも購入可能です。ご期待ください。


第821話 2014/11/15

服部さんの多元的「関」「畿内」研究

 本日の関西例会では服部静尚さん(古田史学の会・『古代に真実を求めて』編集責任者)から九州王朝による「関」と「畿内」の設立についての新説が発表されました。いずれも画期的な仮説で、このところ服部さんは絶好調です。
 『日本書紀』天武8年(679)条に見える竜田山と大坂山の関が飛鳥ではなく難波京を防衛する位置(大和からの侵入を防ぐ位置)にあり、難波京を九州王朝副都とする説に対応しているとのこと。
 更に、『日本書紀』大化2年(646)正月条の改新詔に見える畿内の四至(東西南北の先端地)の中心は藤原宮ではなく難波宮であることから、前期難波宮は九州王朝の第2都であり、そこを中心に畿内の範囲が、九州王朝の天子(利歌彌多弗利)により646年(命長7年)に提示された詔勅とする説を発表されま した。もし696年の詔勅であれば、近江京が畿外になってしまうが、この詔勅が近江大津宮造営前の646年に出されたのであれば、この問題がクリアできるとされました。
 大化2年の改新詔は九州年号の大化2年(696)に藤原宮で出された「建郡の詔勅」とするわたしの説を否定する説ですが、有力な仮説と思われました。この服部説に対して賛否両論が出されましたが、時間切れとなり、これからも論争が続くと思います。
 正木さん(古田史学の会・全国世話人)は6世紀を対象として『日本書紀』を精査され、欽明23年(562)に新羅から滅ぼされた任那が、推古8年(600)に新羅と交戦する記事があることなどに着目されました。その結果、干支が一巡する60年前の記事が推古紀に挿入されているとされました。同時に、こうした朝鮮半島での倭国の交戦記事などは九州王朝の事績を『日本書紀』編者が盗用したとする仮説を発表されました。なかなか説得力のある仮説でし た。
 11月例会の発表は次の通りでした。遠くは関東のさいたま市から参加された方もあり、有り難くもあり、そうした熱心な参加者に満足していただけるような例会であらねばならないと、決意を新たにしました。東京でも例会を開催してほしいというご意見も多数いただいており、使命の重さを受け止めています。

〔11月度関西例会の内容〕
1). 関から見た九州王朝(八尾市・服部静尚)
2). 畿内を定めたのは九州王朝か — すべてが繋がった(八尾市・服部静尚)
3). 「青竜三年」鏡(京都市・岡下英男)
4). ニギハヤヒを追う(東大阪市・萩野秀公)
5). 盗用された任那救援の戦い — 敏達・崇峻・推古紀の真実(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(『百問百答+α』校正中、続著『真実の誕生 宗教と国家論』(仮題)、11/08八王子大学セミナーの報告、松本深志校友会誌への投稿書き上げ、『古代に真実を求めて』18集用「家永氏との聖徳太子論争をふりかえる」古田先生インタビュー12.09、新年賀詞交換会 2015.1.10、ギリシア旅行 2015.4.1~4.8)・『古代に真実を求めて』18集特集の原稿執筆「聖徳太子架空説の系譜」執筆・古田先生依頼図書(『隋書』『時と永遠』)購入・京都市船岡山の建勲神社訪問・ニッペOB会・その他


第820話 2014/11/13

瀬戸内海地域の

「じ(ぢ)」地名の考察

 「洛中洛外日記」817話「姫路・淡路・庵治の作業仮説(思いつき)」で紹介しました瀬戸内海地域の「じ(ぢ)」地名のアイデア(思いつき)ですが、それを読まれた神戸市にお住まいの安田さんという方から、倉敷市に味野(あじの) という地名があることを教えていただきました。安田さんのご意見では「あじ」が語幹で、高松市の庵治(あじ)と同じではないかとのこと。わたしもそう思います。こうした、情報を読者からお知らせいただくことが多く、ありがたいことです。
 安田さんの味野のご指摘により、「○○じ(ぢ)+地名接尾語」という地名がありうることに気づきました。その視点から、改めて「じ(ぢ)」地名を探索し てみますと、たとえば但馬や田島は「たじ(ぢ)+ま」ということになり、地名接尾語の「ま」が付いた形ではないかと思われます。薩摩・須磨・播磨などの地名接尾語の「ま」です。
 この考え方が正しければ、もしかすると味野と同じ倉敷市にある児島も、「こ+島(アイランド)」ではなく、「こじ(ぢ)+ま」ではないかというアイデア (思いつき)も浮かんできました。まだ、無責任な思いつきのレベルですが、これからよく考えてみたいと思います。
 更に敷衍すれば、『日本書紀』(孝徳紀)に見える難波の「味経の宮」の「あじふ」も、「あじ+ふ」かもしれません。ただしこの場合、「ふ」の意味がまだわかりません。
 以上、「じ(ぢ)」地名の思いつきでしたが、いかがでしょうか。

〔追記〕今朝は仕事で名古屋市に来ていますが、地下鉄の路線図を見ていますと、名鉄小牧線の駅名に、味鋺(あじま)・味美(あじよし)・味岡(あじおか)と、三つも「あじ」がつく駅名がありました。この地域も「じ(ぢ)」地名が多いのでしょうか。
 大分県豊後高田市にも香々地(かかぢ)という地名があります。いかにも古く謂われがありそうな地名です。


第819話 2014/11/09

八王子セミナーの余韻・余話

 今朝の八王子は曇り空(小雨)です。わたしの部屋はベッドが四つもありますが一人で使っています。ちなみにテレビはありません。目覚めてから朝食の時間までには余裕がありましたので、前日の「洛中洛外日記」の校正を行いました。
 八王子は初めて訪れましたが、わたしが好きなグループ、ファンモン(ファンキー・モンキー・ベイビーズ)の出身地なので、なんとなく愛着が感じられま す。昨日、JR八王子駅の改札を抜けるとき、思わずファンモンの「ヒーロー」を口ずさんでしまいました(最寄り駅の改札抜けると、いつもよりちょと勇敢な お父さん、Daddy! その背中に愛する人のぉ~声がするぅ~)。
 東京古田会の藤沢会長と朝食をご一緒し、多くの方と歓談したり記念写真を撮ったりと忙しくしていますと、古田先生が登壇され短い講話をされました。
 内容は画家セザンヌの遠近法の話からから切り出され、『隋書』「イ妥国伝」の「無故火起」について昨日に続いて説明されました。その要旨は、自然現象の 場合の表記は「火」ではなく、「災」であるとするもので、従来、阿蘇山の噴火の「火」と理解していたのは誤りであると繰り返し説明されました。そして、漢代の成語としての「無故○○」という禁止事項を示すものと同様に「無故火起」を理解すべきであり、人による「火」の使用を禁止したものとされました。この説に対して反対意見があることから、先生も丁寧に繰り返し説明されているようでした。
 そして、荻上さんの閉会の挨拶で、セミナーは終了しました。最後に古田先生を囲み、全員で記念写真を撮りました。
 帰る方向が同じということもあり、多元的古代研究会の安藤会長・和田事務局長・宮崎宇史さん・西坂久和さん、そして関西から来た横田幸男さん(古田史学の会・インターネット担当)・服部静尚さん(古田史学の会・『古代に真実を求めて』編集責任者)・中本賢治さん(古田史学の会・会員)、林信禧さん(古田史学の会・東海、全国世話人)とJR八王子駅でコーヒーを飲み、昼食をとりました。
 その席上で、これからも全国の古田ファンや研究者が一堂に会する機会が持てないものかということになり、たとえば年に一度、研究発表会を各地の団体が持ち回りで主催するというアイデアをわたしから提案しました。実現できればよいと思います。
 こうして、怒濤の二日間が幕を閉じ、今は新幹線で京都に向かっています。とてもよい思い出となりました。荻上さんはじめ主催者のみなさん、古田先生、そして参加された全国の皆さんにお礼を申し上げます。


第818話 2014/11/08

初参加、八王子セミナー(実況同時記録)

 今日は八王子大学セミナーハウスでの「第11回古代史セミナー・古田武彦先生 を囲んで」に初参加しました。久しぶりにお会いする懐かしい方々と旧交を暖めることができました。古田先生のご子息の古田光河さん(ふるたこうが)や主催されている荻上紘一さん(大妻女子大学・学長)ともご挨拶することができました。ちなみに、光河さんは一目見て、先生のご子息とわかりました。参加者も 100名を超え、盛況です。
 古田先生の講演は「日本古代史新考自由自在・その七」と銘打たれ、資料に記された講演テーマは次の通りです。

(一)松本深志講演(十月四日)の展開
  「深志から始まった九州王朝」
(二)日本考古学界の「通説」について
  福永伸哉講演(2014.4.12)
  『三角縁神獣鏡の研究』大阪大学出版会刊(2005.8.10)(大冊)
(三)トマス・ペインの『コモンセンス』(1776)と“A serious thought ”(1775)辛辣な思想
(四)秋田孝季の思想(寛政原本の「発見」と「未発見」)
(五)宗教と国家の死滅 — 表裏一体の「天国と地獄」「神と悪魔」論
(六)真実と人間の誕生

 講演に先立ち、荻上さんのご挨拶があり、当セミナーが11回を迎えられたことは歴史的なことであり、最近、古田先生の学問が受け入れられつつあり、先生には少しでも長くご研究を続けてほしいと述べられました。司会進行も荻上さんが担当です。
 講演は朝日新聞社OBの茂山さんからのお手紙を古田先生が紹介され、戦後まもなく親鸞研究に入った理由「自分が生きていくうえで、いかに生きるべきか」の説明から始められました。
 次いで、古代史研究(『三国志』倭人伝)に入るきっかけとなった松本清張さんの『陸行水行』や『中央公論』連載の「古代史疑」との出会いを紹介されました。
 次に、大阪大学の福永伸哉さんの「三角縁神獣鏡」魏鏡説(倭国向け特鋳説。だから中国から出土しなくてもよい、とする珍説。これだとA国から出土しなくても何でもA国製とできる「万能の論理」。もちろん学問の「禁じ手」です。古田学派の皆さんは真似しないようにしてください。:古賀注)を紹介され、学問として成り立たないことを批判されました。三角縁神獣鏡は日本製であり、3世紀の日本列島を知る上で貴重な鏡てあるとされました。
 次に、『コモンセンス』の「厳粛な思い」に記された英国による残虐な植民地支配(東インド)を批判した部分を示され、トマス・ペインの思想性を評価されました。更に勝者(連合軍)が敗者(日本)を有罪にした「東京裁判」や靖国神社問題にも触れられました。あわせて、秋田孝季の素晴らしい思想性を評価さ れ、和田家文書が真作であることを強調されました。また、和田家文書の秋田孝季による天地創造についての文とその思想について紹介されました。
 最後に、京都府向日市寺戸の五塚原古墳(全長約90m、前方後円墳)の第5次発掘調査現地説明会資料を示し、古墳の下に弥生時代の何かがあり、それを壊してこの古墳が造られているとのことでした。おそらく、弥生時代の銅鐸による祭祀跡があったのではないかとされました。

 ここで先生がお疲れとのことで、一旦、休憩となりましたので、その間に懐かしい方々にご挨拶まわりしました(まるで古田学派の同窓会のようでした)。

 再開後、最初のテーマは考古学的事実(ピラミッド建設・壊された銅鐸など)の「解釈」(学問の方法)についてでした。天皇陵古墳などの下に何があったか。そこには銅鐸文化の祭祀跡・遺跡があるのではないかと、天皇陵古墳をその下まで発掘する必要性をうったえられました。そ の際、周濠の水も入れ替えて魚が住めるようにきれいにすべきとも述べられました。
 次いで、テーマは神籠石山城へと移り、神籠石山城に囲まれた地こそ、都にふさわしい場所であり、この神籠石山城の分布は九州王朝説でなければ説明できないと指摘されました。
 更にテーマはギリシア神話に及び、太陽神アポロはアテネから北西のオリンポス山に行ったのではなく、オリンポス山の真東に位置するトロイから出発したのではないかとされ、その「トロイ神話」をアテネが取り込み、ギリシア神話として書き換えたのではないかとする仮説を発表されました。これは九州王朝神話を 『日本書紀』が盗用したことと同じ現象です。なお、来年4月にはギリシア旅行が企画されており、古田先生も参加されます(別途紹介予定。平成27年4月1 日~8日、旅行費用約33万円)。
 博多と信州の地を結んでいる歌として、『古今和歌集』巻十七の次の歌を紹介されました。

 「をそくいづる 月にもある哉 あしひきの山のあなたも 惜しむべら也」(877)筑紫太宰府の歌
 「わが心なぐさめかねつ さらしなや をばすて山に てる月を見て」(878)信州の歌

 『隋書』「イ妥国伝」の「有阿蘇山其石無故火起接天」の「火」は阿蘇山による自然の火ではなく(天然の火は「災」と表記 される)、人間が起こす「火」であり、神籠石での祭祀の場の火ではないかとされました。従って、「日出ずる処の天子」とは阿蘇山下の天子、九州王朝の天子 であると主張されました。
 「宗教と国家の死滅」のテーマでは、「天国と地獄」「神と悪魔」は相対概念であるとされ、宗教と国家には誕生と終わりがあるとする秋田孝季の思想を紹介されました。

 ここで質疑応答となり、先の『隋書』の文の後段に、その火を「俗以為異」(俗、もって異となす)と表現されているので、 人間による火ではなく、噴火の火ではないかとする質問が出されました。古田先生は噴火の火ではないと返答されました。この時点で、かなりお疲れのご様子で、心配です。
 邪馬壹国の邪馬はいわゆる「山」のことではなく、「国名」ではないかとの質問に対して、博多湾から筑後にいたる領域名と返答されました(このことは『「邪馬台国」はなかった』で、卑弥呼の居た中心領域の国名は「邪馬」国と既に説明されています:古賀注)

 ここで再度休憩となり、参加者が宿泊施設に入りました。わたしは荷物も少ないので、そのまま会場に残り、この執筆中の「洛中洛外日記」のチェック・校正を行いました。

 質疑応答が再開され、信州の八面大王の安曇野の住みかの名称が「神籠石の岩屋」とされていますが、九州と関係するのかという質問が出されました。古田先生は、九州と長野県に関連する名称と思われると返答。
 この後、以前に出されていた質問(複数)に対して回答されましたが、その中で『隋書』「イ妥国伝」に見える「秦王国」について、信濃のことではないかとする新たなアイデアを紹介されました。『日本書紀』天武紀にある「信濃遷都計画」記事について、九州王朝によるものではないかとされ、「秦王」も「シナノ」の音に近いことなどから、「秦王国」を信濃とする視点を得られたとのことでした。
 前期難波宮九州王朝副都説の是非についての質問に対し、今後検討しなければならない問題と回答されていたのが印象的でした。
 神籠石山城がいつ頃から建設が始まったのかという質問には、倭の五王の時代や多利思北孤の時代には有明海側からの防衛も必要になったと説明されました。
 平将門が神のお告げにより「新王」と称したとされていますが、これも九州王朝に淵源・関係するのではないかという質問に対し、面白いご意見なので深めてほしいと返答されました。
 その後は質問よりも「決意表明」や「意見発表」が続き、いろいろと考えさせられました。というところで、夕食の時間になりました。
 食後に古田先生の控え室にうかがい、『古代に真実を求めて』18集掲載用の古田先生へのインタビュー(古田・家永論争の思い出)の打ち合わせを行いました。光河さんや『古代に真実を求めて』編集責任者の服部静尚さんも同席されました。

 午後7時からは「夜の部」の始まりです。入り口で缶酎ハイが参加者に配られ、いよいよセミナーも佳境に入るのかと思い、 気を引き締めました。各人のデスクの上にはお菓子も用意されており、初参加のわたしには驚くことばかりです。さすがに先生のお話をお酒を飲みながら聞くのは、わたしにはできませんでしたので、缶酎ハイはそのまま持ち帰ることにしました。

 「夜の部」では、倭人伝や親鸞研究についての最新情報の紹介から始められました。そして、秋田孝季の思想(寛政原本の「発見」と「未発見」)をテーマに講演され、和田家文書の寛政原本の調査発見について、現在は絶好のチャンスであると話されました。和田喜八郎さんの祖 父・長作さんが隠した寛政原本がどこかにあるはずで、それら寛政原本の本来の持ち主は総理大臣の安倍さんであると言えないこともないと指摘されました。和田家文書は秋田孝季が書いた「安倍文書」というべきものというのが、その理由です。つまり、三春藩の秋田家(安倍・安藤一族の子孫)が孝季に命じて安倍・ 安藤の歴史を綴らせた文書が「和田家文書」として現在まで伝わっているわけです。
 次のテーマは「紫宸殿」地名。「紫宸殿」「大極殿」などという地名は誰かが勝手につけられるものではないとされ、太宰府や愛媛県にある「紫宸殿」地名も歴史事実(九州王朝の実在)の痕跡とされました。
 「宗教と国家の死滅」をテーマとして、宗教にも国家にも始まりがあり、終わりがあるというのが秋田孝季の思想であり、これは正しいと思うと述べられまし た。そして、原水爆は人間が作ったものであり、国家がこれを使用できると考えられているが、これは間違っていると指摘されました。人間が作った宗教や国家に、原水爆や原発で人間を殺す権限が与えられているとは思えないとされました。もはや人類は戦争をできる時代ではないと主張され、宗教や国家が原水爆や原 発を自由に作ってもよいという思想はもはや時代遅れと述べられました。
 更に先生の思考は深く深く進まれ、地獄に落ちる方法を考えているうちに、天国と地獄、神と悪魔とかの概念は本来同じもの、表裏一体ではないかと考えるようになったとのこと。

 以上で先生の講義は終わり、質疑応答が再開されました。安藤昌益と和田家文書の思想は共通しているように思うが関係はないのかという質問が出され、両者が知り合いであったという直接的な証拠は見ていないが、関係はあると考えられると返答されました。
 炭素同位体年代測定に関する新知見はないかという質問には、稲作の年代測定で博多湾岸や松浦半島が古く、次いで高知県足摺近辺が古く、その後に大和が古いとなっていることが紹介されました。なぜ足摺近辺が古いのか不明とされているが、古田説では足摺が倭人伝に見える侏儒国とされ、このことと無関係ではないと説明されました。

 午後8時30分になり、ようやくセミナーは終了となりました。古田先生がお疲れになられたのではと心配しましたが、無事お開きです。連日の出張で、わたしも疲れましたが、ご高齢の古田先生のお姿には改めて深く感銘しました。
 その後、門限の10時までラウンジで多元的古代研究会の皆さん、古田史学の会・四国や関西の皆さんと古代史論議を続け、とても楽しく貴重な時間を過ごすことができました。文字通り「古代史自由自在」の一日でした。これから、お風呂に入り就寝します。