第805話 2014/10/18

九州年号

「願轉」「光元」の意義

 本日の関西例会では9月に続いて服部さんから古代中国の二倍年暦について、論語は一倍年暦でも理解可能との批判がなされました。すなわち、わたしが「洛中洛外日記788話『論語』の二倍年暦」でも紹介した事例について、「この論語 解釈を二倍年暦の根拠とするには、仮説としては成立しても証明にはならない」と反論されました。この反論自体はもっともなものですので、今後も論争を続け ることになりました。四天王寺の移設(前期難波宮造営に伴い、玉造から荒墓への移設)についての作業仮説も興味深く、今後の研究の進展が期待されます。
 萩野さんからは出雲神話に関する現地の神社伝承などを丹念に集められ紹介されました。『出雲風土記』にスサノオのオロチ退治が記されていないことについて、大和朝廷にはばかって意図的に収録しなかったのではとされました。
 正木さんからは九州年号「願轉」「光元」などについての新説が発表されました。「願轉」は十七条憲法制定、「光元」は全身を金箔で覆った法隆寺の「夢殿救世観音建立」に関連した年号とされました。九州王朝の天子・多利思北孤の時代の九州年号「端政・告貴・願轉・光元」の研究(仮説提起)により、九州王朝 史研究が着実に進展しています。
 出野さんからは『説文解字』と白川漢字学についての解説がなされました。その中で紹介された『漢書藝文志』に見える「古(いにしえ)は八歳にして小学に 入る」に興味を持ちました。これが二倍年暦では論語の「十有五にして学を志す」に対応するのではないかと思いますが、いかがでしょうか。
 水野代表からは東海道新幹線開業50周年にあたり、開発時の思い出が語られました。開業二年前には試作車両(2両編成と4両編成)が完成し、それぞれ外観(六角形の窓など)が異なっていたとのことです。水野さんは営業初日に乗車され、そのときの切符は記念にもらえたので保存しているとのこと。
 このように関西例会はますます充実しています。会員の皆さんや一般の方のご参加をお待ちしています(参加費500円で、発表者の貴重な史料やレジュメがもらえ、それだけでもお得です)。10月例会の発表テーマは次の通りでした。

〔10月度関西例会の内容〕
1). 論語の中の二倍年暦(八尾市・服部静尚)
2). 統計的手法は歴史学になじまないか?(八尾市・服部静尚)
3). 四天王寺の移設問題(八尾市・服部静尚)
4). 日本書紀神代上・八岐大蛇におけるスサノオとその他(東大阪市・萩野秀公)
5). 多利思北孤の仏法流布と九州年号「願転」「光元」(川西市・正木裕)
6). 『説文解字叙』を読み解く(奈良市・出野正)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況(『古田武彦が語る多元史観』発刊、『百問百答+α』続刊予定、続著『真実の誕生 宗教と国家論』(仮題)、11/08八王子大学セミ ナー、松本深志校友会誌への投稿)・『古代に真実を求めて』18集特集の原稿執筆「聖徳太子架空説」の紹介・小河原誠『反証主義』、三野正洋『戦艦大和最 後の戦い』を読む・東海道新幹線50周年・その他


第804話 2014/10/17

「反知性主義」に抗して

        なにをなすべきか

 佐藤優さんの『「知」の読書術』に指摘されているように、「反知性主義者」(大和朝廷一元史観の日本古代史学界)は「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもない」のであれば、わたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。

 佐藤さんは同書の中で、レーニンの『なにをなすべきか』(わたしも青年時代に読んだことがありますが、恥ずかしながら深く理解できませんでした)をはじめ、さまざまな著作を紹介し、最終的に「中間団体を再建することが重要だ」と指摘され、その中間団体とは「宗教団体や労働組合、業界団体、地域の寄り合いやサークルなどのこと」とされています。そして次のように締めくくられました。

 「フランスの哲学者シャルル・ド・モンテスキュー(1689~1755)は、三権分立を提唱した人物として知られていますが、彼はまた中間団体の重要性を指摘しています。すなわち、国家の専制化を防ぐには、貴族や教会といった中間団体が存在することが重要だということを言っているのです。
中間団体が壊れた国では、新自由主義によってアトム化した個人が国家に包摂されてしまいます。そうなると、国家の暴走に対する歯止めを失ってしまう。その手前で個人を包摂し、国家の暴走のストッパーともなる中間団体を再建することこそ、現代の最も重要な課題なのです。」(99頁)

 ここで佐藤さんが展開されている現代政治や国家問題とは次元やスケールは異なりますが、わたしたち「古田史学の会」もこうした中間団体の一つのように思われます。そうであれば、「市民の古代研究会」の分裂により組織的に縮小再出発した「古田史学の会」を少なくとも当時の規模程度(会員数約1000名)にまで「再建」することも重要課題として浮上してきそうです。そのための新たな施策も検討していますが、これからも全国の会員や 古田ファンの皆さんのお力添えが必要です。「古田史学の会」役員会などで検討を重ね、実現させたいと願っています。

(只今、東北出張からの帰りの新幹線の車中ですが、冠雪した美しい富士山が見え、心が癒されます。)


第803話 2014/10/16

日本古代史学界の「反知性主義」

  佐藤優さんの『「知」の読書術』(集英社、2014年8月)を読みました。現代社会や世界で発生している諸問題を近代史の視点から読み解き、警鐘を打ち鳴らす好著でした。皆さんへもご一読をお勧めします。同書の第四章「『反知性主義』を超克せよ」の「反知性主義は『無知』 とは異なります。」とする次の指摘には深く考えさせられました。

 「誤解のないように言っておくと、反知性主義は「無知」とは異なります。たとえ高等教育を受けていても、自己の権力基盤を強化するために「恣意的な物語」を展開すれば反知性主義者となりうるのです。
反知性主義者に実証的批判を突きつけても、有効な批判にはなりません。なぜなら、彼らにはみずからにとって都合がよいことは大きく見え、都合の悪いことは視界から消えてしまうからです。だから反知性主義者は、実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くもありません。」(82頁)

 わたしたち古田学派にとって、彼ら(大和朝廷一元史観の古代史学界)が「実証性や客観性にもとづく反証をいくらされても、痛くも痒くも」ない「反知性主義者」であれば、古田先生やわたしたちが提示し続けてきた実証や論証は「都合の悪いこと」であり、「視界から消えてしまう」のです。このような佐藤さんの指摘には思い当たることが多々あります。

 たとえば、『二中歴』に記された九州年号と一致する「元壬子年」木簡(芦屋市出土。白雉元年壬子652年に一致。『日本書紀』の白雉元年は庚戌の年で650年。『日本書紀』よりも『二中歴』等の九州年号に干支が一致しています。)について何度も指摘してきましたが、一切無視されており、近年の木簡関連 の書籍・論文ではこの木簡の存在自体にも触れなくなったり、「元」の字を省いて「壬子年」木簡と恣意的な紹介に変質したりしています。

 あるいは『旧唐書』では、「倭国伝」(九州王朝)と「日本国伝」(大和朝廷)の書き分け(地勢や歴史、人名等あきらかな別国表記)がなされているという古田先生の指摘に対しても、真正面から反論せず、「古代中国人が間違った」などという恣意的な解釈(物語)で済ませています。

 『隋書』イ妥国伝(「イ妥」は「大委」の当て字か)の阿蘇山の噴火記事や、天子の名前が阿毎多利思北孤(男性)であり、大和の推古天皇(女性)とは全く異なり、両者は別の国であるという古田先生の指摘を40年以上も彼らは無視しています。

 考古学の立場から、太宰府の条坊造営が国内最古であることを精緻な調査から示唆された井上信正説が、九州王朝説(太宰府は九州王朝の首都)と整合するというわたしからの主張に対しても沈黙したままです。(注)

 こうした実証性や客観性に基づく反証が、「反知性主義者」には「無効」という佐藤さんの指摘に改めて衝撃を受けたのですが、それならばわたしたち古田学派はなにをなすべきでしょうか。そのヒントも佐藤さんの『「知」の読書術』にありました。(つづく)

(注記)わたしは列島内の条坊都市の歴史として、九州王朝の首都・太宰府条坊都市が7世紀初頭(九州年号の倭京元年・618 年)の造営、次いで九州王朝の副都・難波京(前期難波宮)条坊が7世紀中頃以降の造営、そして7世紀末に大和朝廷の「藤原京」条坊が造営されたと考えています。井上信正説では太宰府条坊と「藤原京」条坊が共に7世紀末頃の造営と理解されているようです。


第802話 2014/10/15

「川原寺」銘土器

の思想史的考察

 明日香村の「飛鳥京」苑地遺構から出土した土器(坏・つき)に記された銘文が話題になっています。新聞記事などによると次のような文が記されています。

 「川原寺坏莫取若取事有者??相而和豆良皮牟毛乃叙(以下略)」

 和風漢文と万葉仮名を併用した文章で、インターネット掲載写真を見たところ、杯の外側にぐるりと廻るように彫られています。文意は「川原寺の杯を取るなかれ、もし取ることあれば、患(わずら)はんものぞ(和豆良皮牟毛乃叙)~」という趣旨で、墨書ではなく、土器が焼かれる前に彫り込まれたようですから、土器職人かその関係者により記されたものと思われます。ということは、当時(7世紀後半頃か)の土器職人は「漢文」と万葉仮名による読み書きができたわけですから、かなりの教養人であることがうかがわれます。
 川原寺の杯を盗るなという警告文ですから、当時も土器を盗む者がいたこと、そして盗む者も「漢文」と万葉仮名の警告文を理解できる程度の教養の持ち主であったことになります。
 恐らくこの「警告文」はこの土器1個だけのためではなく、川原寺に納品する多数の土器を代表して記されたのではないでしょうか。盗難抑止用に全ての土器にこうした不吉な「警告文」を記したら、それら全ての土器がお寺での実用に耐えられませんから、納品に当たり、一番見えやすい場所に梱包された「警告文付き土器」という性格のように思われます。従って、この1個はお寺での実用品とはならず、どういうわけか苑地で使用され、廃棄されたのではないかと推測しています。
 この土器の銘文は当時の土器職人や泥棒の識字力がうかがえるという意味において貴重ですが、わたしが最も注目したのが当時の飛鳥の人々の思想性についてでした。盗難抑止の「警告」として、飛鳥の権力者による「律令」などに基づく法的罰則ではなく、川原寺の宗教的権威や「わずらい」という精神的「脅迫」に頼っているという事実です。当時の飛鳥の人々にとっては「国家権力」よりも宗教的権威・畏れの方が影響力が強かったこと(効果的)を前提とする「警告文」ではないでしょうか。この点、日本思想史学の観点からも貴重な土器なのです。
 さて、そうなると「飛鳥京」苑地で川原寺から持ち出されたこの土器を使用した人は、川原寺の宗教的権威を畏れなかったのでしょうか。わたしの想像では、川原寺での使用をもともと前提としていない「警告」用のこの土器を川原寺からもらい受けたのではないでしょうか。そうでなければ、「警告文」付きの「わず らう」かもしれないこの土器を、他者の目をはばからずに使用することなどできなかったと思うのです。貴族の集う苑地に不吉な「警告文」付きの杯を使用するのですから、川原寺から盗んだのではなく、正式にもらい受けたと自他共に認められていたのではないかと思います。
 以上、「川原寺」銘土器について考察してきましたが、わたしはまだ実物を見ていませんから、この目で見たうえで改めて見解を述べたいと思います。現時点ではわたしの作業仮説(思いつき)にすぎないと、ご理解ください。実物を見ることができれば、更に多くの知見や理解が得られると思います。楽しみです。


第801話 2014/10/13

『古田武彦が語る

     多元史観』刊行

 ミネルヴァ書房から古田先生の講演録を編集した『古田武彦が語る多元史観 燎原の火が塗り替える日本史』が刊行されました。「古田史学の会」の友好団体「古田武彦と古代史を研究する会(東京古田会)・多元的古代研究会」編です。古田先生による「はしがき」には編集者平松健氏への謝辞があることから、平松さんが編集を担当されたようです。確かに見事な編集作業であることが、一読して 感じられました。本当に良い仕事をされたものです。わたしからも読者の一人として感謝させていただきたいと思います。
 本書は毎年東京八王子市の大学セミナーハウスで開催されてきた「古代史セミナー」での古田先生の講演と聴講者との質疑応答をテーマごとにまとめられたものです。その講演はコアな古田ファンを対象としたものですから、はっきりいってそう簡単には読めません。本文は500頁に及び、全12章からなる講演録は 古田史学の基礎的理解がなければ深く理解できませんし、最新のアイデア段階の発見から、論証しぬかれた研究まで論多岐にわたってます。しかし、近年の古田先生の思惟の成果が縦横無尽に展開されており、古田史学研究者にとってはアイデアの宝庫であり、未来への研究テーマも指し示されています。
 本年11月に恐らく最後となる「古代史セミナー」が大学セミナーハウスで開催されます。わたしも参加します。今までは仕事の関係で参加できなかったのですが、今回は土日の二日間ということもあって、参加できることになりました。今からゾクゾクするような期待感に包まれています。


第800話 2014/10/11

『古田史学会報』

  124号の紹介

 今日は某テレビ局特別番組制作スタッフの方から取材を受けました。わたしの「聖徳太子」に関する論文に興味を持たれ、来年放映予定の特別番組に取り入れたいとのこと。わたしの「出演」も要請され、協力を約束しました。
 古田史学や九州王朝説などの説明、『旧唐書』や『隋書』の倭国伝、『二中歴』の九州年号を紹介したところ、すぐにご理解いただき、「これほど明確な証拠があるのになぜ歴史学者は九州王朝を認めないのですか」と質問されました。わたしは各地で講演するたびに同様の質問を受けるのですが、「歴史の真実よりも、保身や出世、お金のほうが大切な学者が多いのです。そういう学者をわたしは御用学者とよんでいます」と返答しました。
 さらに、これまでも報道予定だった古田先生への取材・収録が番組編集段階で圧力がかかり、カットされたり、極端に短縮されたりしてきたことを伝えたのですが、その方は「わたしは真実を大切にしたい」と言われたので、今回の件がどのような結果になっても、これをご縁に今後もおつき合いしてほしいと述べ、快諾していただきました。とても有意義で楽しい取材体験となりました。

 『古田史学会報』124号が発行されましたので、ご紹介します。好論が集まり面白いものとなりました。正木さん岡下さんら常連組に服部さんが加わり、研究者層の厚みも増してきました。萩野さんの旅行記も楽しい内容です。服部稿は弥生時代の鉄器出土分布から「邪馬台国」畿内説が全く成立しないことがよくわかるデータも示されていおり、勉強になります。
 掲載テーマは次の通りです。会員の皆さんの投稿をお待ちしています。ページ数や編集の都合から、短い原稿の方が採用の可能性は高くなりますので、ご留意ください。

〔『古田史学会報』124号の内容〕
○前期難波宮の築造準備について  川西市 正木裕
○「邪馬台国」畿内説は学説に非ず  京都市 古賀達也
○「魏年号銘」鏡はいつ、何のために作られたか
   — 薮田嘉一郎氏の考えに従う解釈 京都市 岡下英男
○トラベルレポート出雲への史跡チョイ巡り行
 2014年5月31日~6月2日  東大阪市 萩野秀公
○鉄の歴史と九州王朝  八尾市 服部静尚
○好著二冊  川西市 正木 裕
○古田先生の奥様(冷*子様)の訃報 代表 水野孝夫
     冷*は三水編に令。ユニコード6CE0
     残念ですがインターネットでは表示できません。
○『古田史学会報』原稿募集
○史跡めぐりハイキング 古田史学の会・関西
○古田史学の会 関西例会のご案内
○編集後記  西村秀己


第799話 2014/10/05

『孔子家語』の一倍年暦

 古代中国における二倍年暦について、主に周代の史料に基づいて論証してきましたが、それは「解釈」の問題であり、一倍年暦による「解釈」でも理解可能とのご批判が服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)から寄せられ、関西例会でも論争を続けています。
 そこで、反対論者をも納得させうる論証方法や史料がないものかと考えてきたのですが、今回注目したのは孔子の生きた年代と孔子の子孫の「系譜」の整合性でした。孔子の12世の子孫(11世説もある)である孔安国による『孔子家語』(現行本は魏の王粛の注本によるとされています)末尾には孔子の子孫の没年齢について次のように記されています。

 「孔安国、字は子国、孔子十二世の孫なり。孔子は伯魚を生む。魚は、子思を生む。(略)年六十二にして卒す。子思は子上を生む。名は白。年四十七にして卒す。(略)子上は子家を生む。名は倣。後の名は永。年四十五にして卒す。子家は子直を生む。(略)年四十六にして卒す。子直は子高を生む。(略)年五十七にして卒す。
 子高は武を生む。字は子順。(略)年五十七にして卒す。(略)
 子産、年五十三にして卒す。(略)子襄(略)年五十七にして卒す。季中を生む。名は員。年五十七にして卒す。武及び子国(孔安国)を生む。」(明治書院。新釈漢文大系『孔子家語』612~614頁)

 ここに記された没年齢は古代人としてリーズナブルなものですから、一倍年暦によることがわかります。この部分は孔安国による「後序」となっている のですが、王粛(195~256)によると考えられています。そうであれば一倍年暦の時代ですから、その認識により没年齢が記されているはずです。これら 没年齢から判断しても、孔子の子孫の一世代は20年程度(20歳の時に次代が誕生する)と思われますから、孔安国の年代から約240年前(20年×12 代)が孔子の誕生年に相当することになるはずです。
 孔安国は漢の武帝の「元封(紀元前110~105年)の時、吾、京師に仕ふ。」(611頁)とありますから、先の240年を引くと紀元前350年頃に孔子が誕生した計算となります。しかし、通説では孔子の生没年は紀元前552年~479年とされており(生年を前551年とする説もあります)、大きく食い 違います。もし通説通り552年の生まれであれば、孔安国の世代までの一世代平均は約37年となり、これは寿命が延び晩婚化が進んだ現代でも、12代の平 均値とするには考えにくい年齢です。
 逆に孔子の生没年が二倍年暦で計算(逆算)されていた場合、より古く編年されることになりますから、先の240年を2倍の480年とすれば、孔子の生年は紀元前590年頃となり、通説の紀元前552年に近くなります。このことから、通説による孔子の生没年は二倍年暦で編年(逆算)された結果である可能性が高く、言い換えれば孔子の時代、少なくとも周代は二倍年暦が使用(編年)されていたとする私の仮説と整合するのです。
 通説ではこの系譜と年代の齟齬をどのように理解しているのか、これから調べたいと思います。


第798話 2014/10/04

火山列島の歴史と悲劇

 御嶽山噴火により大勢の犠牲者が出ました。心よりご冥福をお祈りします。火山列島に住むわたしたち日本人の悲劇と言わざるを得ませんが、噴火予知連絡会々長の東大教授のテレビでの発言と態度には驚きを通り越し、怒りさえ覚えました。
 マスコミは噴火を「予知できない」ということを問題にしているようですが、それはおかしいと思います。今回の悲劇は「予知できない」ことが問題ではなく、「予知した」ことが問題の本質です。当時、御嶽山は「レベル1」(安全に登山できる)と「予知」されていたのです。しかし、事実は連絡会々長の東大教授がテレビで開き直っていたように、御嶽山の噴火は「予知できない」ということだったのですから、予知できないのにレベル1と「予知した」ことが問題の本質なのです。レベル1という「予知」を信じて登山した多くの方々が犠牲となれらたのですから。(日本の火山で比較的「予知できる」のは北海道の有珠山など わずかのようです)
 学者はできないことをできると言ってはなりません。わからないことをわかると言ってはなりません。安全ではないものを安全と言って福島原発は爆発したのですから、御用学者がどれほど社会に悲劇をもたらすのかを日本人は知ったはずです。噴火を予知できないのなら、「レベル1」などと言ってはならず、「レベ ル」付けすることをも、真の学者なら「予知できないのだから、してはならない」と言うべきなのです。
 その東大教授が国からどのくらい「お金」をもらっているのかは知りませんが、あまりにも不誠実です。学者としての倫理観を疑わざるを得ません。少なくともわたしが見たテレビ放映では一言も謝罪していませんでした。「予知できないのだから登山した者の自己責任」と言わんばかりの口調でした。
 さらに不可解なのがマスコミの姿勢です。何の犯罪も犯しておらず、誰一人として被害にあっていないにもかかわらず、小保方さんや笹井さんに対しては叩きに叩き、小保方さんを女子トイレまで追いかけ回し全治二週間の怪我を負わせ、笹井さんを自殺に追い込みました。NHKや関西民放、毎日新聞を筆頭とするそのマスコミは、御嶽山噴火で大勢の犠牲者を出したのに相手が東大教授だと、見て見ぬふりです。「理研を解体しろ」と言ったのなら「予知連絡会を解体しろ」と言うべきです。NHK・マスコミの見識を疑います。
 日本列島の歴史が火山噴火と深くかかわってきたことを古田先生はたびたび指摘されてきました。たとえば、世界最古の土器「縄文式土器」が日本列島で誕生したことは偶然ではなく、火山の影響によるとの論理的仮説を発表されました。すなわち、火山の熱が土を堅くするという「天然の窯」の現象を見る機会があった日本列島の人々だからこそ、火山をお手本にして他の地域に先駆けて土器を造ることができたのではないかと古田先生は考えられたのです。
 そしてその縄文式土器が中南米(ペルー・エクアドル・他から出土しています)まで伝播したのも、火山噴火により日本列島から船で中南米まで脱出した縄文人がいたことが発端になったのではないかと考えられました。
 また、古代文明が筑紫や出雲で花開いた理由の一つが、南九州での火山噴火により西日本の広い地域に火山灰(アカホヤなど)が降り注いだことではないかとされました。その火山灰の被害をまぬがれたのが西日本では北部九州(筑紫)と出雲地方だったからです。
 古代史で火山といえば『隋書』イ妥国伝の「阿蘇山あり。その石、故なくして火起こり天に接す」の一文が有名でしょう。火山噴火の様子がリアルに表現されています。このように九州王朝は火山と「共存」してきたのです。歴史学でも火山学でも、真実を語る真の研究者・学者が御用学者に取って代わり、日本の学問 の主流となる日を目指して、わたしたち古田学派は歩んでいきたいと思います。


第797話 2014/10/04

明石書店の森さん、来阪

 本日、古田史学の会・会誌『古代に真実を求めて』の編集を担当されている明石書店の森さんが来阪されましたので、服部静尚さん(『古代に真実を求めて』編集責任者)と三人でi-siteナンバで編集の打ち合わせを行いました。
 『古代に真実を求めて』は次号の18集より大幅にリニューアルします。特集として「盗まれた『聖徳太子』伝承」を企画しており、装丁も大胆に変化させる予定です。特集では、従来は大和朝廷の「聖徳太子」のこととされてきた様々な事績が、九州王朝の天子・多利思北孤や太子の利歌彌多弗利のものであったことを明らかにします。
 さらに、古田先生と家永三郎さんとで行われた「聖徳太子論争」「法隆寺論争」の思い出についての古田先生へのインタビュー記事や松本深志高校での古田講演録(本年10月)なども掲載します。
 発行は来春を予定しています。古田史学の会・賛助会員(年会費5000円)への2014年度特典としてご提供いたします。書店でもご購入できます。かなり面白い本になりそうなので、お楽しみに。


第796話 2014/10/01

白村江戦の合同慰霊祭

 今朝は仕事で新大阪駅に行ったのですが、新幹線用みどりの窓口に長蛇の列ができていましたので、駅員さんに何事かとたずねたところ、東海道新幹線 開業50周年記念入場券購入のために並ばれているとのこと。新幹線改札口では駅員が無料で0系からN700A系までの歴代新幹線車両が描かれたクリアシー トを乗降客に配られていました。水野代表にも差し上げようと思い、わたしは催促して2枚いただきました。民営化してJRのサービスは本当に良くなりました。
 懐かしい初代0系はノーズが丸く、500系はコンコルドのように尖っています。これはトンネル突入時のドーンという衝撃音(業界用語で「トンネル・ド ン」と言う)を緩和するためのデザインですが、その結果、先頭車両の客席数が減り、営業的にはマイナスとなったそうです。その後も改良が続けられ、客席数を減らさずにトンネル・ドンも緩和するデザインとして現在の700系が採用されました。このように新幹線も進化しています。山が多い島国ならではの進化ですね。
 新大阪駅から東京行きのぞみ16号に乗ったのですが、新大阪駅で降りた人が新聞をシートに残されていたので見てみますと、私の故郷の地方紙「西日本新 聞」でした。懐かしい新聞でしたので目を通したところ、22面(ふくおか都市圏)に「白村江の戦い『1350年前のえにし』交流に」「慰霊祭 太宰府から 参加」という見出しがありました。同記事によれば、10月4日に韓国扶余郡で第60回「百済文化祭」が催され、白村江戦で亡くなった人々(唐・新羅・百済・倭)の合同慰霊祭が行われるとのこと。扶余と姉妹都市の太宰府市に招待があり、市長らが参加されます。
 同記事には「この敗戦(白村江戦)を機に、博多湾奥に水城や大野城が築かれた。」とあり、残念ながら西日本新聞の記者(南里義則さん)は古田説・九州王朝説をご存じないようです。しかしながら旧百済の地である扶余での慰霊祭に招待されたのが「大和朝廷」の奈良市長ではなく、九州王朝の旧都・太宰府市の市長であることは、招待する側の「歴史認識」がうかがわれます。冷え込んでいる日韓両国の友好親善のためにも、こうした取り組みは意義があることと思いま す。慰霊祭の成功を期待します。


第795話 2014/09/29

沖ノ島の三角縁魚文帯神獣鏡

 内閣文庫本『伊予三島縁起』の写真や『通典』のコピーを送っていただいた齊藤政利さん(古田史学の会・会員、多摩市)から、今年8月に東京の出光美術館で開催された「宗像大社国宝展」の展示品図録が送られてきました。9月の関西例会後の懇親会で同展示会についてお聞きしていましたが、その図録を早速送っていただきました。有り難いことです。
 「海の正倉院」と呼ばれる沖ノ島ですが、古田先生も早くから注目され、『ここに古代王朝ありき — 邪馬一国の考古学』(朝日新聞社・1979年)の「第四部第二章 隠された島」で取り上げられています。
 同図録で注目したのが沖ノ島出土と旧個人蔵(伝沖ノ島出土)の2面の三角縁魚文帯神獣鏡でした。解説では古墳時代(四世紀)の国産鏡とされています。 「魚文帯」という鏡をわたしは初めて知ったのですが、今まで見た記憶がありませんから、珍しい文様ではないでしようか。インターネットで検索したところ、 佐賀県伊万里市の杢路寺(むくろじ)古墳から出土した三角縁神獣鏡の外帯に「双魚」と「走獣」が配置されており、これも三角縁魚文帯神獣鏡の一種といえるのかもしれません。杢路寺古墳は4世紀末頃の前方後円墳とされていますから、沖ノ島の三角縁魚文帯神獣鏡とほぼ同時代のようです。
 魚の文様がある三角縁神獣鏡は、古田先生が『ここに古代王朝ありき』で取り上げられた「海東鏡」があります(大阪府柏原市・国分神社蔵)。しかし、魚は一匹だけでその位置も外帯ではありませんから三角縁魚文帯神獣鏡とはいえません。
 もしこの珍しい三角縁魚文帯神獣鏡が沖ノ島や伊万里市など北部九州に特有のものであれば、それは九州王朝との関係を考えなければなりません。魚の銀象嵌で有名な江田船山古墳の鉄刀も、共通の意匠としてとらえることが可能かもしれません。おそらく海洋や漁労に関わる王者のために作られた鏡ではないでしょう か。三角縁魚文帯神獣鏡については引き続き調査したいと思います。


第794話 2014/09/28

東海道新幹線開業50周年雑感

 今年の10月で東海道新幹線は開業50周年を迎えます。わたしが小学生のときの開業で「夢の超特急ひかり号」のテレビ映像は今でもよく覚えています。今は出張で年間100回以上は新幹線を利用していますが、早いし安全で快適ですから、新幹線はとても重宝しています。
 お聞きしたところでは、古田史学の会の水野代表は現役時代(日本ペイント)に新幹線の塗料の開発に関わられ、試作車両の塗装に立ち合い、開業初日に乗車されたとのこと。時速200kmで走る車体の塗装ですから、衝撃に耐える厚みや、日光(紫外線)に耐える耐光堅牢度、そして風雨にさらされても錆びない、 汚れにくい、洗浄で汚れが落ちやすいなどという、かなり困難な諸条件をクリアさせなければなりませんから、とても困難な塗料開発と塗装技術開発だったことがうかがわれます。わたしも仕事で染料や機能性色素開発に関わっていますから、50年前の化学技術水準を考えると、そのご苦労が忍ばれます。
 東海道新幹線の「東海道」という名称は古代の官道に由来しているのですが、その出発点が近畿ですので、九州王朝滅亡後に近畿天皇家による命名と考え来ました。しかし、前期難波宮九州王朝副都説により、7世紀中頃(評制施行時期)であれば九州王朝による命名とできるかもしれません。肥沼孝治さん(古田史学 の会・会員、所沢市)が九州王朝による古代官道造営説を研究されています。この命名主体について、古田学派内での研究の進展が期待されます。