第645話 2014/01/19

「市民の古代研究会」の失敗の教訓

 「古田史学の会」を「地域の会」等とのネットワーク型の組織と運営体制にしたのは、「市民の古代研究会」の失敗の教訓からでした。1980年代、古田先生と古田史学を支持支援する団体として、関東の「古田武彦と古代史を研究する会 (東京古田会)」があり、その後、関西に「市民の古代研究会」が発足し、両団体は活発に活動していました。
 1986年にわたしは古田先生の『「邪馬台国」はなかった』を読み、古田史学に感激して「市民の古代研究会」に入会しました。ちょうど古田先生が還暦を迎えられた年でもあり、茨木市で開催された講演会で初めて先生にお会いしました。わたしが31歳のときでした。懇親会では先生の還暦のお祝いがなされ、赤いちゃんちゃんこが先生にプレゼントされたことを、今でも昨日のことのようにはっきりと覚えています。
 わたしは古代史研究だけではなく「市民の古代研究会」の活動のお手伝い(遺跡巡りの担当)も積極的に行っていました。当時、わたしは勤務先の労組委員長 や上部団体の中央委員、そして会社の経営計画作成プロジェクトなどを手がけていたこともあって、その組織運営の経験を評価していただき、「市民の古代研究会」の理事(最年少)に選ばれました。その後、事務局長の藤田友治さんが会長に就任されることになり、藤田さんから請われて後任の事務局長をお引き受けしました。
 「市民の古代研究会」事務局長の活動に専念するため、わたしは十数年続けてきた全ての労組役職を退任し、労働運動の第一線から退くことにしました。当時就任していた化学関連労組上部団体の副執行委員長を退任するにあたり、同組織の執行委員長だった前川重信さん(現・日本新薬社長)に釈明とお詫びにうかがったのですが、わたしが古代史研究の世界に入ることを快くご承諾いただき、励ましていただきました。
 それからは文字通り寝食を忘れて、「市民の古代研究会」の組織拡大に取り組みました。会員数が増えれば影響力も増し、古田史学が世に受け入れられると考え、それまで200人ほどで推移していた会員数を数年で1000人に手が届くというところまできたのです。
 これは計画通りで、「市民の古代研究会」理事会を頂点として、関西・関東・九州・東海・仙台に会員組織が発足し、広島などその他の地域にも支部結成を目指していました。しかし、この組織の急拡大に大きな失敗の原因が潜んでいました。このことを後にわたしは思い知らされることになります。(つづく)


第644話 2014/01/14

「古田史学の会」と「地域の会」

 先日の賀詞交換会の午前中に、「古田史学の会」全国世話人会を開催しました。 通常、年に一度開催し、「古田史学の会」の事業や課題などについて論議や意見交換を行い、会の運営に反映させています。その全国世話人会で毎回のように出される意見に、「古田史学の会」と「地域の会」との関係のあり方ついてというテーマがあります。今回の全国世話人会でも出されました。「古田史学の会」内部の問題ですので、「洛中洛外日記」で触れることでもないのかもしれませんが、「古田史学の会」創立者の一人として、この問題についての考えを述べてみたいと思います。
 現在、「地域の会」として組織されているのは「北海道」「仙台」「東海」「関西」「四国」ですが、発足の経緯、活動内容や運営などは独立した組織として、それぞれ異なっています。基本的に「地域の会」は独立した組織であり、「古田史学の会」の地方支部ではありません。同時に「古田史学の会」が「地域の会」の本部でもありません。財政的にも人事でも独立した組織です。
 「古田史学の会」は全国組織であり、会費を支払っていただいた会員からなっています。会創立の経緯から関西に本部機能がありますが、「古田史学の会・関西」とは財政的に独立しています。「地域の会」は「古田史学の会」の会員が地域ごとに任意で集まって例会活動などを自主的に行っている組織であり、「古田史学の会」とは別組織ですが、その組織は「古田史学の会」会員が中心となって運営され、目的と志は「古田史学の会」と同じです。いわば「古田史学の会」と 「地域の会」は同志的紐帯で結ばれた関係なのです。従って、本部・支部の関係ではありませんし、上下関係もありません。
 現在は関西の会員が主となって「古田史学の会」の本部機能を受け持っていますが、将来、関東地区や東海地区の会員数が増え、本部機能を東京や名古屋に移動することもあり得ます。現に、発足当初は本部機能の一つである『古代に真実を求めて』の編集部は「古田史学の会・北海道」が受け持っていました。現在も 『古田史学会報』編集と会計は香川県高松市在住の西村秀己さんが担当しておられます。このように、「古田史学の会」は「地域の会」等とピラミット型ではな く、ネットワーク型の運営体制をとっているのです。
 このような組織や運営体制にしたのには理由がありました。それは「市民の古代研究会」の失敗の教訓があったからです。(つづく)


第643話 2014/01/12

賀詞交換会の御報告

 昨日、I-siteなんばで「古田史学の会」賀詞交換会を開催し、古田先生に講演していただきました。講演要旨は『古田史学会報』に掲載しますが、項目と内容について一部御報告します。
 冒頭、「古田史学の会」水野代表よりあいさつがなされ、「古田史学の会・東海」の竹内会長、「古田史学の会・四国」の合田さんからもごあいさつをいただきました。わたしからは、今年の「古田史学の会」出版事業計画の報告をしました。
 古田先生の講演は次のような内容でした(文責・古賀達也)。

○靖国参拝問題について
 『祝詞』「六月の晦(つごもり)の大祓」に「安国」が見える。そこにある「天つ罪」「国つ罪」は具体的で、その「罪」を明確にしている。
 「戦争犯罪」を犯した人物も祀る靖国神社には、こうした「罪」の記述がない。「罪」を具体的に記した『祝詞』とは異なる。
 同時に、中国や朝鮮も日本人虐殺の歴史(元寇など)があるが、「記述」されていない。
 アメリカ軍も日本占領時に日本人婦女子を陵辱したが、このことも伏せられている。GHQが報道させなかった。古今未曾有の戦争犯罪は広島・長崎の原爆投下である。このような戦争犯罪は歴史上なかった。
 自国の悪いことも、相手国の悪いことも共に明らかにし、「罪」として述べることが大切である。これが『祝詞』の精神である。これが「安国」の本来の姿である。

○「言素論」について
 中国語の中にある「日本語」の研究は重要テーマである。たとえば、「崩」(ほう)の字は「葬(ほうむ)る」という日本語からきているのではないか。『礼 記』に見える「昧(まい)は東夷の楽なり」の「昧」は日本語の「舞(まい)」のことではないかとする結論に達していたが、最高人物に対する用語である 「崩」まで日本語であったとすれば、まだ断言はしないが、わたしとしては驚いている。

○『東日流外三郡誌』について
 日本国家が『東日流外三郡誌』記念館・秋田孝季記念館を作ることを提案する。「和田家文書」と言っているが、本来は「秋田家文書」であり、更に遡れば 「安倍家文書」である。この安倍家は安倍首相の先祖である。寛政原本だけでなく、安本美典氏らの偽作説の文献も全て記念館に保存し、将来の「証拠」として 残しておくべき。いずれ真実は明らかとなる。

○アメリカは何故東京に原爆を落とさなかったか
 アメリカ軍は皇居に爆弾を落とさなかった。うっかりミスではない。毎回の爆撃で一回も皇居を意図的には爆撃しなかった。勝った後に天皇家を利用するために、皇居を爆撃しなかった。だから原爆を東京に落とさなかった。
 アメリカ軍はあらかじめ広島の地形を航空写真で完全に調べてから、人体実験として広島に原爆を落としたのである。同様にアメリカは皇居の航空写真を撮っ ていたはずである。その写真に基づいて、爆撃から皇居を外したのである。アメリカにとって、「万世一系」の天皇家は戦後統治のために必要だったのである。 九州王朝はなかったとする大嘘に基づいて、現在も「万世一系」の歴史観が利用されているのである。
 権力を握ったら自分の歴史を飾り、嘘を本当の歴史であるかのように作り直している、と秋田孝季は言っている。秋田孝季の思想からみれば、人類の歴史の中 で国家は発生し、なくなっていくものである。宗教も同様で、宗教がある時代から無い時代へと変わっていく。歴史学とはいかなる権力・宗教にも迎合すること なく、真実を明らかにする学問である。

○井上章一さんの『真実に悔いなし』書評紹介
 ロシアに「ヤナ川」がある。これは日本語であるとの指摘がロシア側の学者からも出されている。方向としてはロシアから日本へ伝播した可能性が高い。
 沿海州の「オロチ族」の「おろち」は「やまたのおろち」の「おろち」と同源である。

 ※「シベリア物語」の歌(古田先生が歌われる)
 「荒れ果てて けわしきところ イルトゥーイシの不毛の岸辺に エルマルクは座して 思いにふける」

 「イルトゥーイシ」は「イルトゥー」までがロシア語で、「イシ」は日本語ではないか。「イ」は神聖なという意味、「シ」は生き死にする場所の「シ」である。「君が代」にも「イシ」がある。「さざれいし」の「いし」とは、神聖な生き死にする場所という意味ではないか。
 日本の地名に「いし」がやたらとでてくるので、石の「いし」なのか、神聖な場所の「いし」なのかを調べてみればよい。自分で調べてから発表すればよいと 言われるかもしれないが、わたしは明日死ぬかもしれないので、今のうちに言っておきます。わたしは早晩死んでいきますが、皆さんにあとをついでほしい。

(古田先生の詩)
 偶詠(ぐうえい) 古田武彦 八十七歳
竹林の道 死の迫り来る音を聞く (12/24)
天 日本を滅ぼすべし 虚偽の歴史を公とし通すとき (12/23)


第642話 2014/01/05

戦国時代の「都督」

 江戸時代の筑前黒田藩の藩主が「都督」の称号を名乗っていたことをご紹介しましたが、戦国時代においても筑前の国主が「都督」を名乗っていたとする史料があります。
 『太宰管内誌』「豊後之五(海部郡)」の「壽林寺」の項に、戦国大名の大友宗麟のことを「九州都督源義鎮(大友氏)」と記しています。この文の出典を 『豊鐘善明録・四巻』(1742年成立)と『太宰管内誌』は記していますが、源義鎮とは戦国武将の大友宗麟(大友義鎮・おおともよししげ。 1530~1587年)のことです。大友宗麟は戦国時代の一時期(1559~1580年頃)に筑前をも支配領域にしたことがあり、その時に「九州都督」の 称号を名乗ったのではないでしょうか。
 この場合、大友氏が勝手に「都督」を名乗ったのか、あるいは当時の「上位者」からの承認を得たのでしょうか。戦国時代末期の頃ですから、朝廷や室町幕府にまだそのような権威があったのか、近世史の研究者ならご存じかもしれません。
 可能性の一つとしては、当時の勘合貿易の相手国である中国の明からの「承認」という点も考慮すべきかもしれません。わたしは未確認ですが、大友宗麟の実弟の大内義長のことを「山口都督源義長」とする記述が『明世宗実録』(嘉靖36年、1557年)にあるそうです。事実であれば「山口都督」という不思議な 称号についても研究が必要です。
 いずれにしても、太宰府を管轄する筑前の国主が「都督」を名乗ることは、江戸時代や戦国時代において、それほど不自然ではなかったように思われます。(つづく)


第641話 2014/01/02

黒田官兵衛と「都督」

 今年のNHK大河ドラマは黒田官兵衛を主人公とする「軍師官兵衛」です。官兵 衛役は人気グループV6の岡田准一さん。黒田官兵衛(如水)は筑前黒田家の祖(初代藩主は息子の長政)で、ドラマの後半では九州が舞台になるとのことで、 今からとても楽しみにしています(官兵衛は晩年、太宰府天満宮に隠居したとのこと)。
 ところで筑前黒田藩と九州王朝に不思議な「縁」があることをご存じでしょうか。それは「都督」という称号です。20年以上も前のことですが、『糸島郡 誌』(大正15年の序文あり、昭和47年発行)を調べていたときのことです。雷山にある層々岐神社の項(711頁)に、「石の寶殿」と呼ばれている上宮の 祠に銘文があり、そこにこの祠を寄進した人物名を「本邦都督四位少将継高公」と記されているのです。「本邦」とは筑前国のことで、「継高公」とは、筑前黒 田藩六代目藩主の黒田継高(治世1719~1769年)のことです。すなわち、江戸時代(同銘文には「寶暦三癸酉年三月吉日」〔1753年〕とあります) においても、筑前の国主を「都督」と称しているのです。
 ご存じのように『宋書』倭国伝には、倭(九州王朝)の五王(讃・珍・済・興・武)が「都督」を自称したり、任じられた記事が見えますが、この場合の「都 督」は中国(宋)の天子の下の「都督」です。『日本書紀』天智紀にも「筑紫都督府」が記されていることから、九州王朝には「都督」がいたことがわかりま す。
 この「都督」を歴史的淵源として、筑前黒田藩の藩主も「都督」と称してきたと思われます。黒田藩主の「都督」の称号は、恐らくは京都の天皇家か徳川幕府 を「主」とする、配下としての「都督」という位置づけになるものと思われますが、「都督」問題は古田史学において重要なテーマです。その「位置づけ」も時 代によって変化しており、古田学派内でも九州王朝史研究において様々な仮説が提起されています。(つづく )


第640話 2014/01/01

古田先生を迎えて新年賀詞交換会のご案内済み

 新年あけましておめでとうございます。
 わたしは久留米の実家で新年を迎えています。「古田史学の会」では今年も様々な事業を計画しています。新年最初の行事として、1月11日(土)には恒例の新年賀詞交換会を大阪市のI-siteなんば(大阪府立大学なんばキャンパス)にて、古田先生をお迎えして開催します。皆様のご参加をお待ちしています。

第643話 2014/01/12 賀詞交換会の御報告

 当日の午前中には「古田史学の会」全国世話人会を開催します。1月18日(土)には新年最初の関西例会を開催します。今年も素晴らしい研究発表が続出することと思います。
 『古代に真実を求めて』17集の編集会議も開催しますが、17集からは大幅なリニューアルを検討しています。そして米寿を迎えられた古田先生のお祝いの特集も予定しています。
 『古代に真実を求めて』とは別に「古田史学の会」で編集を進めていた、古田史学による遺跡ガイド(九州編)も年内にもミネルヴァ書房より発行されるはこびです。
 3月には筑紫舞の宮地嶽神社奉納30周年を記念して、福岡市で古田先生の講演会が開催されるとのこと。詳細が決定されましたら、ご案内します。
 「洛中洛外日記」も皆様の期待に応えられるよう、内容を広く深く充実させたいと願っています。本年も皆様のアクセスとご教導のほど、よろしくお願い申しあげます。


第639話 2013/12/29

「学問は実証よりも論証を重んじる」(9)

 年の瀬を迎え、京都も本格的な冬となりました。今年最後の「洛中洛外日記」となりますが、村岡先生の言葉「学問は実証よりも論証を重んじる」について最後にまとめてみたいと思います。
 わたしの九州年号研究の体験などを紹介しながら、学問における「実証」と「論証」の関係性について縷々説明してきましたが、うまく説明できているのだろうか、正確に伝わっているのだろうかと不安も感じています。古田史学やフィロロギーの本質に関わる大切なテーマだけに心配しています。何よりも、わたし自 身の理解がまだまだ浅いのではないかという不安もあり、西村秀己さん(古田史学の会・全国世話人)や不二井伸平さん(古田史学の会・総務)にも相談してきたところです。
 繰り返しになりますが、「論証」を重んじるということは、決して「実証」を軽視してもよいという意味ではありません。歴史学ですから史料根拠の提示は不 可欠ですし、より確かな「実証」提示のために「史料批判」が重要となります。また、「論証」するということは、好き勝手な思いつきや解釈を「仮説」として提示することとも違います。新たな思いつきを「仮説」として提示するための学問的手続きとして、安定して成立している「先行説」や、考古学などの関連諸学 の「成果」との整合性を検証しなければなりません。結論が合理的で論理的でなければなりません。学問は「理屈」が通っていなければなりません。もちろん、 先行説や関連諸学の成果をも否定し、それらを乗り越えるような画期的な仮説もあり得ますが、その場合は、そのことを他者を納得させるような必要にして十分な説明や証明が要求されます。
 おそらく、「学問は実証よりも論証を重んじる」という言葉の意味をより深く理解するために、これからも研究を続け、研鑽を深め続ける人生だと思います。多くの皆さんと一緒にそうした研究生活を続けられれば幸いです。それでは皆さん、よいお年をお迎えください。新年が古田史学や「古田史学の会」、そして真 実を愛する皆さんにとって良き一年でありますように。


第638話 2013/12/25

齊藤政利さんからのクリスマスプレゼント

 以前、内閣文庫本『伊予三島縁起』の写真を送っていただいた齊藤政利さん (「古田史学の会」会員、多摩市)から素敵なクリスマスプレゼントが届きました。『通典』と「賀正礼」研究論文のコピーです。しかも、「洛中洛外日記」第 631話で「閲覧したい」と記していた宮内庁書陵部本『通典』の影印本(古典研究会編)のコピーでした。本当にありがとうございます。
 同『通典』コピーは「賀正礼」(「元正冬至受朝賀」巻七十礼三十)を含む部分で、漢・後漢・魏・晋・東晋・宋・斉・梁・陳・北斉・隋・大唐の各王朝の 「元正冬至受朝賀」の様子が記されています。これら「賀正礼」記事が歴史事実をどの程度反映しているかのはわかりませんが、少なくとも『通典』成立時 (801年)の唐の知識人や官僚たちが、「賀正礼」は漢王朝に始まって、歴代の多くの王朝が行ってきたという認識を持っていたことは疑えません。正史の 『旧唐書』成立が945年ですので、『旧唐書』も『通典』の影響を受けていると考えられます。
 これからの課題として、『通典』に記されたどの王朝の「賀正礼」が倭国の「賀正礼」に影響を与えたのかを研究したいと思いますが、まずは齊藤さんからいただいたコピーをしっかりと読んでいきます。


第637話 2013/12/22

平成25年の回顧

 平成25年ももうすぐ終わります。この一年間、古田史学や「古田史学の会」では様々な出来事がありました。個人的な感想となりますが、特に印象深かったことを並べてみます。

1.古田先生の研究自伝『真実に悔いなし』発刊
 ミネルヴァ書房より発刊された同書は古田先生自らにより研究活動やその生い立ちが記されたもので、先生や先生の学問を学ぶ上で、わたしたち古田学派の学徒にとって宝物ともいえる貴重な一冊です。

2.「I-siteなんば」に古田武彦コーナー開設
 大阪府立大学のご協力と正木裕さんのご尽力により、大阪府立大学なんばキャンパス「I-siteなんば」に古田武彦コーナーが開設されました。古田先生や会員のご協力により、古田先生の著作や古代史関連の貴重な書籍を「I-siteなんば」図書館に寄贈しました。「古田史学会報」や『古代に真実を求めて』も全冊並んでおり、古代史や古田史学を学ぶ人々にとって貴重な研究拠点となりました。また、併設された研究ルームや会場を「古田史学の会」としても利用させていただくことにしました。これにより関西例会などの会場確保も便利になりました。近くに飲食街もできましたので、関西例会後の懇親会も便利になり ました。

3.正木裕さんの研究「倭人伝官職名と青銅器」
 本年も会員による優れた研究が数多く発表されましたが、中でも衝撃的だったのが正木裕さんが発表された、倭人伝の官職名と青銅器の関連についての研究でした。倭人伝研究における新たな分野を切り開いた研究として、大変優れていました。

4.「赤渕神社縁起」の九州年号
 森茂夫さん(「古田史学の会」会員、京丹後市在住)から、『赤渕神社縁起』をはじめとする「赤渕神社文書」の釈文(当地の研究者により活字化されたも の)の写真ファイルが送られてきました。それには九州年号の「常色」「朱雀」などが見え、しかも天長五年(828)の成立という平安時代にまで遡る九州年号史料でした。今後これら赤渕神社史料(兵庫県朝来市)により九州年号・九州王朝の研究が加速されることでしょう。本当に素晴らしい史料が残っていたもの です。

5.『伊予三島縁起』の九州年号「大長」
 齊藤政利さん(「古田史学の会」会員、多摩市)が内閣文庫に赴き写真撮影していただいた『伊予三島縁起』(番号 和34769)に「大長九年壬子」とあ り、従来は「天長」と記されていた『伊予三島縁起』とは異なり、より原型を留めていることがわかりました。最後の九州年号「大長」の確かな史料根拠が発見されたことにより、滅亡期の九州王朝研究が進むことが期待されます。

6.会員・知人の訃報
 大変悲しいことに、本年は数十年来の古田説支持者だった難波収さん(オランダ・ユトレヒト市、天文学者)、鶴丈治さん(「古田史学の会・北海道」前会長)が亡くなられました。また、古田先生の松本深志高校時代の教え子だった中嶋嶺雄さん(国際教養大学学長)も亡くなられました。中嶋さんにはわたしの二倍年暦の研究論文の英訳にお力添えいただきました。心よりご冥福をお祈りいたします。

 以上、思いつくままに記しました。この他にも福岡県古賀市出土馬具など考古学的発見も印象的なニュースでした。古田史学・九州王朝説の正しさが事実でもって明らかになりつつありますが、この国の学界やマスコミは果たしていつまで「無視」が続けられるでしょうか。わたしたち古田学派の一層の努力と研究があらたな古代史の新時代を切り開くことでしょう。新年が素晴らしい一年であることを願っています。


第636話 2013/12/21

1ドルの『邪馬壱国の証明』の邂逅

 本日の関西例会にはスイス在住会員のリムさんが参加されました。リムさんはスイスでクラシックギターを教えておられるとのこと。例会後の懇親会でリムさんに古田史学との出会いをお聞きしましたら、10年ほど昔にニューヨークの古書店で古田先生の『邪馬壱国の証明』に出会ったことがきっかけとのことでした。ちなみに、そのときの『邪馬壱国の証明』の価格は1ドルとのことでした。その1ドルの『邪馬壱国の証明』が、時間と国境を越えて関西例会での邂逅となったのです。このようなお話しをお聞きする度に、「古田史学の会」を作って本当に良かったと思います。有り難いことです。
 本日の関西例会も多彩な報告がなされ、刺激的な一日となりました。発表テーマは次の通りでした。

〔12月度関西例会の内容〕
1). 独楽の記紀 — 「記紀とは何か」(大阪市・西井健一郎)
2). 北魏と倭の繋がり(木津川市・竹村順弘)
3). もう一つの天孫降臨 — 天火明命(天香山命)は東海に来ていた(東大阪市・横田幸男)
4). 「赤淵神社縁起」の解説(京都市・古賀達也)
5). 歴史概念としての「東夷」について(奈良市・出野正、張莉)
6). 池田仁三郎著「古墳墓碑」を批判する(八尾市・服部静尚)
7). 日本書紀の中国および朝鮮記事のずれについての考察(八尾市・服部静尚)
8). 何故末廬国の長官・副長官名がないのか(川西市・正木裕)

○水野代表報告(奈良市・水野孝夫)
 古田先生近況・会務報告・『古代に真実を求めて』16集発刊・中臣鎌足と阿武山古墳シンポジウム・新池ハニワ工場公園(太田茶臼山古墳および今城塚古墳 のハニワ工場)・講演会参加「江戸時代における東大寺大仏殿再興物語」平岡昇修氏・飛鳥の五角池の曲線の島は日本列島か・その他


第635話 2013/12/18

「系図」の史料批判の難しさ

 先日、久しぶりに岡崎の平安神宮そばにある京都府立図書館に行ってきました。そして『古代に真実を求めて』16集を寄贈しました。寒い日でしたが、岡崎公園は観光客や各種イベント参加者で溢れていました。
 今回、図書館に行った目的は、『兵庫県史』に掲載されている「粟鹿大神元記」と『田中卓著作集』に掲載されている評制に関する論文のコピーでした。
 今月、発行された『古田史学会報』119号に拙稿「文字史料による「評」論 — 「評制」の施行時期について」が掲載されましたが、その要旨は評制開始は7世紀中頃とするものでした。ところが、その結論に対して何人かの読者の方から、7世紀中頃よりも早い時代の「評」が記された「系図」があり、評制施行を7世紀中頃とするのは問題ではないかとするご意見が寄せられました。そのために関連論文のコピーをしに図書館に行ったのでした。拙論へのご批判や問題点の指摘はありがたいことで、学問の進歩をもたらします。
 わたしは7世紀中頃より以前の「評」が記された「系図」の存在は知っていたのですが、とても「評制」開始の時期を特定できるような史料とは考えにくく、 少なくともそれら「系図」を史料根拠に評制の時期を論じるのは学問的に危険と判断していました。「系図」はその史料性格から、後世にわたり代々書き継がれ、書写されますので、誤写・誤伝以外にも、書き継ぎにあたり、その時点の認識で書き改めたり、書き加えたりされる可能性を多分に含んでいます。そのため、「系図」を史料根拠に使う際の史料批判がとても難しいのです。各「系図」の史料批判や問題点については別途説明したいと思いますが、わかりやすい例で説明するならば、次のようにとらえていただければよいかと思います。
 『日本書紀』には700年以前から「郡」表記がありますが、それを根拠に「郡制」が7世紀以前から施行されていたという論者は現在ではいません。また、 初代の神武天皇からずっと「天皇」と表記されているからという理由で、「天皇」号は弥生時代から近畿天皇家で使用されていたという論者もまたいません。 『日本書紀』を根拠にそうした断定ができないことはご理解いただけることと思います。
 これと同様に、ある「系図」の7世紀中頃より以前の人物に「○○評督」や「××評」という注記があるという理由だけで、その時代から「評督」や行政単位 の「評」が実在したとするのは、あまりに危険なのです。少なくとも、それら「系図」のどの部分がどの程度歴史の真実を反映しているかを確認する「史料批判」が不可欠です。「史料批判」をしなかったり、不確実であれば、文献史学という学問にとってそれは致命的ともいえる「方法」と言わざるを得ません。もち ろんこれは一般的な学問の方法に関することであり、各「系図」が史料批判に耐え得るような史料であるかどうかは、個別に検証しなければなりません。それら の「系図」を史料根拠として、「評制」施行時期について新たな仮説を提起したり、論じるのは自由ですが、その場合は誰もが納得できるような「史料批判」が必要なのです。機会があれば、「系図」の史料批判の方法について述べてみたいと思います。


第634話 2013/12/15

九州王朝の「賀正礼」

 九州王朝・倭国の「賀正礼(元日朝賀儀)」について、それがどのようなものだったのかを考えています。中国の「賀正礼」を導入・模倣した可能性が高いように思いますが、おそらくは古くから続いてきた倭国の風習も踏襲したことも充分考えられます。そこで、わたしが注目したのが『隋書』「イ妥国伝」です(『隋書』では九州王朝・倭国を「イ妥*国」と表記)。
 『隋書』には九州王朝・倭国の儀礼や風俗について、次のように記しています。

 「その王、朝会には必ず儀仗を陳設し、その国の楽を奏す。」
 「楽に五弦の琴・笛あり。」
 「正月一日に至るごとに、必ず射戲・飲酒す。その余の節はほぼ華と同じ。」

 これらの記事から、倭国では正月一日に射戲・飲酒する風習があったことがわかります。現在でも古い神社では弓矢の神事やお酒でもてなす風習が残っ ているところがありますので、こうした風習は王朝内部でも行われていたのではないでしょうか。「朝会には必ず儀仗を陳設」とありますから、元日の朝賀でも 「儀仗を陳設」し、五弦の琴や笛で演奏が行われたと思われます。
 以上のように、『隋書』によって九州王朝の「賀正礼」の内容が少し見えてきました。おそらく、前期難波宮のような巨大な朝堂院で「賀正礼」を行われるようになってからは、本場の中国の儀礼が本格的に取り入れられるようになったのではないかと推測しています。引き続き、研究を続けます。

イ妥* (タイ) 国のイ妥*は、人編に妥。ユニコード番号4FCO