第364話 2011/12/18

「論証」スタイル(2)

  今日は岐阜県各務原に来ています。当地には航空自衛隊の基地があり、ときおり戦闘機や輸送機の離着陸の轟音が響いてきます。この轟音は地元の方にはご迷惑なことと思いますが、同時に、災害派遣や国防の任にあたっておられる自衛官のご苦労も大変なことだと思いました。
 さて、361話に続いて、「論証」スタイルについて触れることにします。
  これはわたしの見方ですが、論証は「絶対論証」と「相対論証」というものに大別できるのではないでしょうか。「絶対論証」とは、「こういう史料根拠により、誰がどのように考えてもこうとしか言えない」というような決定的な証拠と論理性にもとづいた論証です。ここまで断定できる論証は、史料的に限定された 古代史研究においては珍しいことですが、安定的に成立した論証であり、この論証に基づいて、さらに仮説を展開することも可能です。
 対して、「相対論証」とは、史料根拠に基づいて、Aの可能性やBの可能性など複数の可能性が考えられるが、人間の平明な理性や経験に基づけば相対的にAの可能性が著しく、あるいは最も高い、という論証のケースです。「絶対論証」より論証力は劣るものの、他の仮説よりも有力な仮説を提起できます。
 従って、「相対論証」にとどまる場合は、なるべく多くの傍証を提示し、「相対論証」の説得力を増すよう努めなければなりません。こうした「相対論証」を得意とされるのが正木裕さん(「古田史学の会」会員)です。
  日本書紀の「34年遡り現象」というツール(九州王朝史復元手法)を駆使して、正木さんは日本書紀の中に盗用された九州王朝記事の選別と九州王朝の復元という学問的成果を次々とあげられているのですが、その論証スタイルこそ、大和朝廷一元史観に基づいた通説よりも、合理的に矛盾なく理解できる仮説を提起するという、「相対論証」なのです。
 すなわち、「絶対にそうか」といわれれば「絶対にそうだ」とは言えないまでも、「従来説よりもはるかに矛盾なく説明できる」とする、仮説の論証方法なのです。この方法は歴史研究において多用される方法なのですが、どうしてもその相対的評価時(他の仮説よりも有力と判断する時)において恣意性(自説が正しいと思いこむ)がつきまといますので、慎重に使用しなければなりません。


第362話 2011/12/16

映画「アレクサンドリア」の衝撃

この数年、多忙のため映画鑑賞の機会がめっきり減りましたが、最近ものすごい映画に遭遇しました。2009年、スペインで制作された「アレクサンドリア」という作品です。
原題はラゴラ(広場という意味)で、舞台は紀元四世紀の古代都市アレクサンドリア(エジプト)です。美貌の女性哲学者(数学者・天文学者)ヒュパティア の半生を描いたもので、ヨーロッパ映画史上最高額の制作費といわれる壮大なスケールにまず圧倒されるのですが、よくこんな映画がヨーロッパで作られたもの だと、本当に衝撃を受けました。しかも、主人公のヒュパティアが実在の人物ということに、さらに驚きました。
当時のローマ帝国皇帝がキリスト教徒になったこともあって、アレクサンドリアでもキリスト教徒が増大し、多神教の信者やユダヤ教徒への迫害(虐殺)が荒 れ狂う中、天動説を疑い地動説を研究するヒュパティアを魔女としてキリスト教徒が迫害するという、史実に基づいた映画でした。そして、「わたしが信じるも のは真理だけです」と言い放ち、キリスト教への改宗を拒否し、学問研究を続ける主人公の言動に深く感銘を受けました。
古代エジプトにおける宗教対立や奴隷制など、さまざまな問題を内包した作品ですが、わたしがもっとも驚いたのは、キリスト教徒による集団的残虐シーンが これでもかこれでもかと続くこの映画が、国民の75%がカトリック信者というスペインで作成されたという事実です。そして、この映画が興業的にも成功した という事実に、ヨーロッパでもついにこのような映画が製作され、受け入れられる時代になったということに、感銘したのです。
別の視点から見れば、この映画は古代を題材にしながらも、極めて現代的な問題を提起しているといえます。この映画の成功は思想史的にも貴重なものではな いでしょうか。学問と真実を愛する、古田学派の皆さんに是非見ていただきたい作品でしたので、紹介させていただきました。


第361話 2011/12/13

「論証」スタイル(1)

 今日は名古屋に来ています。これから星ヶ丘にある椙山女学園大学に向かいます。同大学のJ教授とお会いし、学生の卒論研究テーマの打ち合わせを行うことになっています。大学に行くと、研究や学問に打ち込む若い学生さんがたくさんおられ、いい刺激を受けます。
 さて、「会報投稿のコツ」で「論証」に触れましたが、その具体例についてもご紹介したいと思います。最初は、西村秀己さん(「古田史学の会」全国世話人、会報編集担当、会計)です。
 西村さんの口癖は「それはおかしいやろう」ですが、研究発表への厳しい指摘や批判が、この言葉とともに続きます。ですから、わたしは研究成果を論文にする前に、できる限り関西例会で発表し、西村さんの顔色を確かめてから執筆にかかるようにしています。「それはおかしいやろう」が出たら、その部分を訂正したり、再反論を考えてから論文化するのです。これにより、わたしの勘違いや論証の弱点に気づくことができるので、西村さんの「それはおかしいやろう」を大変重宝しています。
 その西村さんの「論証」スタイルは、一言で言えば「骨太な論断」です。大局的に見てこう考えざるを得ない、という「論証」スタイルです。たとえば、七世紀末の列島最大規模の宮殿・都市は藤原宮(京)だから、701年以前には九州王朝の天子が藤原宮にいたと考えるべき、といった一刀両断の「論証」スタイル です。
 わたしは、その論理性に一定の妥当性を認めながらも、王朝交代時期の七世紀末について、それほど単純に割り切るのはいかがなものか、少なくともわたしは そこまで大胆にはなれないと、いつも「反論」しています。もっとも、西村さんはその後も傍証を固められ、自説強化に努められています。
 こうした大胆な論証を好まれる西村さんですが、わたしが舌を巻いた緻密な論証もあります。「マリアの史料批判」です。
 ある日、西村さんが「新約聖書に記されたイエスの周囲にいる女性の名前にマリアが多すぎる。これはおかしいやろう。」と言われたので、当時はマリアとい う名前はありふれたもので、たまたまではないかと生返事をしたところ、西村さんはとんでもないことをされたのです。
 その後しばらくして西村さんは書きあげたばかりの一編の論文をわたされました。そこには何と、旧約聖書に登場する全女性の名前を調べあげ、「マリア」と いう名前の女性は1名しか登場しないことを指摘し、当時、「マリア」という名前はありふれた名前ではないということを証明されたのです。
 わたしはグウの音も出ず、ただ「おそれいりました」と頭を下げました。その時の西村さんの「どや顔」を今でもよく覚えています。これは見事な論証と言うしかありません。その論文が「マリアの史料批判」だったのですが、わたしはキリスト教研究史に残る名論文だと思います。西村さんに英訳を勧めているのですが、英語に堪能などなたかご協力いただけないでしょうか。
 新約聖書に記されたマリアが、ありふれた名前かどうかを新約聖書以前の史料である旧約聖書で全数調査するという学問の方法こそ、古田学派らしい論証方法ではないでしょうか。古田先生が「邪馬壹国は邪馬臺国の誤り」としていた通説を検証するために、三国志の中の「壹」と「臺」の字の全数調査をされ、両者が間違って使われている例が無いことを証明されましたが、その方法を西村さんは踏襲されたのです。
 本ホームページにも「マリアの史料批判」が掲載されていますので、是非ご一読下さい。切れ味鋭い「論証」スタイルの一端に触れることができます。(つづく)

第360話 2011/12/11

会報投稿のコツ(4)

 続けてきました「会報投稿のコツ」も今回が最後となります。テーマは「論証」です。
 わたしが古田先生の著作に感銘を受けて、「市民の古代研究会」に入会したのが、今から25年前でした。その後、わたしも研究論文を書きたくなり、へたくそながら「市民の古代ニュース」などに投稿を始めたのですが、最初にぶつかった壁が「論証」でした。古田先生からは「論証は学問の命」と教えられました。 ですから、論証が成立していなければ学術論文として失格です。ところが論証とは何か、どうすれば論証したことになるのかという、基本的なことがなかなか理解できませんでした。
 その時、一つのヒントになったのが中小路俊逸先生(故人・追手門学院大学教授)の「ああも言えれば、こうも言えるというのは論証ではない」という言葉でした。言い換えれば、「誰が考えても、どのように考えても、このようにしか言えない」と説明することが論証するということなのです。しかし、わたしが真にこのことを理解できたのは、さらにその数年後でした。
 和田家文書偽作キャンペーンの勃発により「市民の古代研究会」は分裂し、少数派に陥ったわたしは水野さんらとともに「古田史学の会」を立ち上げたのですが、マスコミも巻き込んで執拗に続けられる偽作キャンペーンと古田バッシングに対して、わたしたちは学術論文で対抗しました。
 その時は「やるか、やられるか」という真剣勝負でした。しかも、その勝敗・優劣を決めるのは多くの読者、あるいは裁判所の裁判官でした(裁判所への陳述書も書きました)。わたしがどう思うかではなく、第三者が偽作論者の主張とわたしたちの主張とのどちらが正しいと考えるかが勝敗を分けるのです。そこにおいて、第三者を納得させることができるのは、証拠(史料根拠)の提示と「論証」だけでした。
 このときの胃の痛くなるような経験が、わたしにとって学問における「論証」の何たるかを、より深く理解できる機会となったのです。その意味では、わたしは偽作キャンペーンに「感謝」しています。あのときのあの経験がなければ、今でも「論証」の意味を深く理解できていなかったかもしれないからです。
 会報に投稿される古田学派の研究者の皆さん。どうか、学問の命である論証を何よりも大切にした論文を送ってください。たとえその結論に反対であっても、わたしや西村さんが掲載せざるを得ないようなするどい原稿を心からお待ちしています。


第359話 2011/12/09

会報投稿のコツ(3)

 今日は大阪にいます。わたしが仕事の関係で理事をさせていただいている「繊維応用技術研究会」の講演会が大阪のホテルで開催されており、その休憩時間に書いています。それでは「会報投稿のコツ」の続きです。

 会報の花形はやはり一面トップ論文です。基本的に投稿原稿の中から最も優れたタイムリーな原稿が一面に掲載されます。読者もそういう目で読まれますか ら、一面にどの原稿を採用するかは、編集部の見識や力量も問われ、西村さんが毎号悩まれることになります。一面にふさわしい投稿が無いときは、それこそ大 変で、常連投稿者に頼み込んで急遽書いてもらうということもありました。
 採用される研究論文の評価ポイントがありますが、特に留意していただきたいことは次の諸点です。

1.最初に何を論証したのかという結論を明記してください。最後まで読まないと何が言いたいのかわからない原稿では困ります。研究論文は推理小説とは違うと言うことをご理解ください。

2.論証の根拠とした史料や文献は必ず出典を明記してください。必要があれば関係部分を引用してください。そうしないと読者がその新説の当否を検証できませんから。史料根拠が示されていない論文は学術論文の体をなしていません。

3.先行説と自説をはっきりと分けて記述し、先行説の出典も明記してください。学問は学説の積み重ね、あるいは淘汰しながら発展しますから、賛成にせよ反対にせよ先行説にふれない論文もまた学術論文として不十分です。もちろん、先行説が存在しないほどの先駆的研究であれば別ですが。あるいは、説明や紹介の 必要性がないほど周知の通説は、省略してもかまわない場合があります。

4.論証と断定を意識的に区別してください。「没」になる理由の大半がこれらが区別されず、自らの断定を論証と勘違いされているケースなのです。「まわり が何と言おうがわたしはこう思う」は断定であり、「誰が考えても、どのように考えてもこうならざるを得ない」という説明が論証です。

5.自説に不利な史料や先行説を無視軽視せず紹介した上で、どういう理由や根拠で自説の方が有力・合理的であるかを、読者が理解できる平明な言葉と論理性で説明してください。

 おおよそ以上の点が審査項目ですが、現実にはかなり甘く判定しています。常連投稿者になると、厳しく審査しますが、初投稿者の場合は、エールを送る意味から甘くしています。
 それから、あれもこれも論証しようとして「大論文」にしてしまう方も見られますが、会報はスペース上の制限がありますので、なるべく1テーマに的を絞ったシャープな切れ味の論文が望まれます。どうしても「大論文」にされたい場合は、「古田史学会報」ではなく会誌「古代に真実を求めて」に投稿をお願いしま す(投稿先:水野孝夫)。(つづく)


第358話 2011/12/07

会報投稿のコツ(2)

 今日は愛知県一宮市に来ています。この町には真澄田神社というお社があり、尾張一宮の社格を持っています。尾張の一宮が熱田神宮ではなくて、なぜ真澄田神社なのかという面白いテーマがあり、以前から気になっている神社です。
 話題を戻します。「古田史学会報」の投稿原稿は研究論文が中心ですが、その他に書評や地方新聞などに掲載されたローカルでユニークな新情報の紹介なども対象となります。あるいは遺跡巡りや博物館見学の報告などもOKです。
 研究はちょっと苦手という会員の方はこうした投稿に挑戦されてはいかがでしょうか。会報の内容が研究論文中心ですから、意外と掲載されます。ただし、この場合でも字数に留意してください。会報2ページ程度を目安にされると、採用の確率がアップします。
 特に古田先生の新刊書評はかなりの確率で採用されますので、是非ご投稿ください。ただ、書評の場合は会報1ページ以内でお願いします。新刊書評は、内容にあまり差がなければ、早い者勝ちです。
 古田先生の講演録(概略や感想文でも可)に至っては、お願いしてでも掲載したい原稿ですから、大歓迎です。
 これから注目されそうなのがインターネットによる検索情報やデータの紹介です。関西例会で竹村順弘さんが得意とされている「ワザ」で、これなどもテーマ選定やデータ解析の切り口次第では結構面白い記事となります。皆さんの創意工夫をこらした投稿をお待ちしています。(つづく)


第357話 2011/12/06

会報投稿のコツ(1)

 最近、ありがたいことに「古田史学会報」への投稿が増えています。ところが、大変申し訳ないのですが、不採用になる原稿も少なからずあります。せっかく会員の方が苦労して書かれた原稿を没にするのは心苦しいのですが、会報を楽しみにされている会員読者のことを考え ると、その期待に応えられる原稿を掲載することが編集部の責任ですし、スペース上の制約もあります。
 そこで、せっかく書かれた原稿がより採用されるよう、論文執筆のコツや、原稿採否基準などについて、少し説明したいと思います。
 まず、会報採否の流れについて、ご説明します。わたしに送られてきた原稿は、最初にわたしが次の四分類にわけます。

A採用 優れた論文で、次号に掲載すべき。
B採用 採用合格だが、次号でなくてもよい。
C採用 必ずしも採用基準に達してはいないが、会報スペースが空いていれば掲載可。
D不採用 採用すべきでない。

 このように分類した原稿を、編集担当の西村さんに転送し、わたしの判断が適切かチェックしてもらい、両者合意の上で最終決定します。もし、両者の見解がどうしても不一致の場合は、水野代表に判断を求めることになりますが、今まで一度もそのようなことはありませんでした。
 また、投稿原稿とは別に、編集部からの依頼原稿や転載依頼原稿もありますが、こちらは原則としてよほどのことが無い限り掲載します。そうしないと失礼ですから。
 こうした分類により、会報には常に優れた原稿が優先的に掲載されるようにし、読者に読みごたえのある会報を提供できるよう努めています。従って、投稿時期や採用時期の順に掲載されるわけでは必ずしもありません。
 なお、投稿の際にCDやフロッピーのみ送られてくる方もごくまれにありますが、必ず印刷したものも送ってください。
 上記のように、まずABCD分類しますから、自信のある方はABを狙っていただくとして、初心者の方はC採用を狙うことをおすすめします。Cだと後回しにされて、なかなか掲載されないのですが、実は次の点がクリアされていれば掲載される可能性がCでもぐっと上がります。

1.千字以内の短文。
2.新情報が含まれており、読者の興味を引ける。

 編集作業をしていて、少し空きスペースが発生する場合があります。そこにちょうど埋まる短文原稿があれば、C原稿でも掲載されるチャンスが生まれるのです。もちろんAB採用で短い論文であれば、更に優先的に掲載されます。(つづく)


第356話 2011/12/03

南郷村神門神社の綾布墨書

 百済人祢軍墓誌の「僭帝」が誰なのかという考察を続けていますが、倭王筑紫君薩野馬とする見解に魅力を感じながらも断定できない理由があります。それは、百済王も年号を持ち、「帝」を自称していた痕跡があるからです。 百済王漂着伝承を持つ宮崎県南郷村の神門(みかど)神社に伝わる綾布墨書に「帝皇」という表記があり、これが7世紀末の百済王のことらしいのです。「明雲 廿六年」「白雲元年」という年号表記もあり、百済王が「帝皇」を名乗り、年号を持っていた痕跡を示しています(『古田史学会報』20号「百済年号の発見」 で紹介しました)。

 また、金石文でも「建興五年歳在丙辰」(536年あるいは569年とされる)の銘を持つ金銅釈迦如来像光背銘が知られており、百済年号が実在したことを疑えません。こうした実例もあり、百済王が「帝」を自称した可能性も高く、百済人祢軍墓誌の「僭帝」が百済王とする可能性を完全に排除できないのです。

 学問の方法として、自説に不利な史料やデータを最も重視しなければならないという原則があります。従って、百済人祢軍墓誌の「僭帝」を百済王とする可能性が有る限り、どんなに魅力的であっても「僭帝」を倭王とする仮説を、現時点では「断定」してはならないと思っています。

百済禰軍墓誌


第355話 2011/12/01

百済人祢軍墓誌の「僭帝」

 この2週間ほど、毎日のように百済人祢軍墓誌のことを考えています。幸い同墓誌の拓本コピーを水野さんから送ってい ただき(古田先生から入手されたもの)、その難解な漢文と悪戦苦闘しているのですが、中でもそこに記された「僭帝」とは百済王のことなのか倭王のことなの かが、今一番の検討課題となっています。
 この「僭帝」という言葉は墓誌の中程(全31行中の14行目)に「僭帝一旦称臣」という記事で一回だけ出現します。その6行前には「顕慶五年(660) 官軍平本藩」と官軍(唐)が本藩(百済)を征服した記事があり、同じく4行前には「「日本余(口へんに焦)、據扶桑以逋誅」という記事があります。そして 「萬騎亘野」「千艘横波」という陸戦や海戦を思わせる記事(白村江戦か)があり、「僭帝一旦称臣」に続いています。次に年次表記が現れるのは「咸亨三年 (672)」の授位記事(17行目)ですから、「僭帝一旦称臣」はその間の出来事となります。更にいえば白村江戦(663)以後でしょう。
 従って、660年に捕虜となった百済王ではないようです。しかも「日本」記事の後ですから、やはり倭王と考えるのがもっとも無理のない解釈と思われま す。そうすると、大和朝廷は天智の時代ですが、『日本書紀』には天智が唐の天子に対して臣を称したなどという記事はありませんから、この「僭帝」は大和朝 廷の天皇ではなく、九州王朝の天子、おそらく薩野馬である可能性が大きいのではないでしょうか。
 しかも『隋書』によれば、九州王朝の多利思北弧は天子を自称していますから、唐の大義名分から見て倭王は「僭帝」、すなわち「身分を越えて自称した帝」 という表現もぴったりです。また、墓誌には何の説明もなく「僭帝」という表記をしていることから、七世紀末の唐の人々にとっても、「僭帝」というだけで誰のことかわかる有名な人物と理解されます。すなわち、『隋書』に特筆大書された「日出ずる処の天子」を自称した倭王以外に、それらしい人物は東アジアには いないのです。
 以上のような理由から、墓誌の「僭帝」は九州王朝の天子、おそらく薩野馬のことと推定していますが、まだ断定は避けながら、墓誌の検討を続行中です。

百済禰軍墓誌


第354話 2011/11/30

副題「近畿天皇家以前の古代史」

 東京に向かう新幹線のぞみの車中で書いています。あいにくの曇り空で富士山が見えなくて残念です。
 『「九州年号」の研究』第3校の校正もようやく終わり、現在は表紙レイアウトや帯の内容作成に入っています。順調に行けば年内発刊となりますが、全国の書店に並ぶのは年明けになるかもしれません。編集や刊行に向けてずっと支えていただいたミネルヴァ書房の田引さんに感謝しています。
 表紙のレイアウトも送られてきましたが、わたしは大変気に入っています。「元壬子年」木簡や『二中歴』などがデザインとして用いられており、本の内容ともうまくマッチしています。皆さんにもきっと気に入っていただけるのではないでしょうか。
 また、本の題名だけでは九州王朝や九州年号をまだご存じない人にはわかりにくいのではないかと考え、「近畿天皇家以前の古代史」という副題をつけました。古田先生の『失われた九州王朝』の副題「天皇家以前の古代史」を参考にしたものです。
 『「九州年号」の研究』の校正を終えて、最初に思ったことは、10年後には続編を必ず出そうということでした。同書編集中にも優れた論考が発表されたことや、水野さんの指摘にあった「なぜ『二中歴』が九州年号史料として優れているのか」という説明などが未収録となったからです。
 具体的には、正木さんの「法興」「聖徳」「始哭」に関する考察、「洛中洛外日記」に連載した「九州年号の史料批判」などを続編に掲載したいと思っています。発行前に気の早いことではありますが、これからの10年間、さらに九州年号研究を進めたいと決意も新たにしています。そして、この本の読者から九州年号研究者が誕生することを期待しています。
 なお、ミネルヴァ書房からは「二倍年歴の研究」の上梓もお勧めいただいており、こちらも少しずつでも取り組み始めなければと、自分に言い聞かせているところです。

第353話 2011/11/22

百済人祢軍墓誌の「日本」

 11月の関西例会で水野さんから紹介された「百済人祢軍墓誌」ですが、どうやらこの墓誌は九州王朝説に大変有利な内容を含んでいるようです。現在、墓誌拓本のコピー入手を試みていますが、新聞発表などでわかる範囲で、見解を述べてみたいと思います。

 この墓誌は百済人の祢軍(でいぐん・ねいぐん)という人物の墓誌で、678年二月に長安で没して同年十に埋葬されたと記されています。残念ながら墓誌そのものは行方不明ですが、その拓本が中国の学者から紹介されました。王連竜さん(吉林大学古籍研究所副教授)が「社会科学戦線」7月号で発表された「百済人祢軍墓誌論考」という論文です。中国在住の青木さん(「古田史学の会」会員)のご協力により、同論文を読むことができました。この場をお借りして御礼申し上げます。

 墓誌の中に「日本」という表記があり、これは現存最古の「日本」ということで、マスコミは取り上げています。これはこれですばらしい史料なのですが、実はそれ以外に大変興味深い記事が記されています。

 たとえば「僭帝一旦称臣」という記事です。くわしい解説は拓本コピーで確認した後にしたいと思いますが、この「僭帝」とは誰なのか、百済王なのか、倭王なのかというテーマです。関西例会後の懇親会でも喧々囂々の論争を行いました。墓誌の文脈から判断しなければなりませんが、倭王の可能性も高く、もしそうであれば九州王朝の天子、薩野馬のことではないでしょうか。白村江戦で敗北し、捕らわれの身となった薩野馬であれば、「僭帝一旦称臣」という表現がぴったりです。少なくとも大和朝廷にはこのような天皇がいた記録はありません。

 この他にも、「日本余(口へんに焦)、据扶桑以逋誅」という記事がありますが、朝日新聞(2011/10/23)によれば、白村江戦で敗れた「生き残っ た日本は、扶桑(日本の別称)に閉じこもり、罰を逃れている」と解説されています。

 唐代において扶桑は東方にある国と認識されており、「日本の別称」という説明は必ずしも正確ではありません。従って、ここは日本の残存勢力が日本(倭国)の更に東に籠もって抵抗を続けていると解すべきではないでしょうか。そすると、扶桑とされた地域は近畿、あるいは東海か関東のいずれかと思われます。

 九州王朝説の立場から見れば、倭国・九州王朝の中枢領域である九州の更に東ということになりそうです。以前、わたしは「九州王朝の近江遷都」という論文で、白鳳元年(661)に九州王朝は近江遷都したのではないかという説を発表しました。すなわち、白村江戦の直前に九州王朝は近江に遷都したと理解したの です。こうした視点からすると、日本残存勢力が籠もったとする扶桑とは、近江宮か前期難波宮ということになります。

 墓誌拓本そのものを見ていませんので、まだアイデア(思いつき)の段階ですが、この墓誌の内容のすごさが予感されるのです。今後、拓本精査の上、詳論したいと考えています。

百済禰軍墓誌


第352話 2011/11/20

和歌木簡と九州年号

 昨日の関西例会で、わたしは「和歌木簡と九州年号」という研究発表を行いました。難波京整地層から出土した「春草」木簡と呼ばれるもで、650年頃のものとされています。「はるくさのはじめのとし」と読める万葉仮名が記されており、和歌木簡と見られています。
 「春草の」という言葉は万葉集でも「枕詞」の類として柿本人麿の歌にも見られますが、わたしはこの木簡の後半部分「はじめのとし」という表現に注目しま した。お正月を示す「年の始め」という表現はよく見られますが、「はじめの年」という表記を和歌で見た記憶がなかったからです。
そこでわたしは、この「はじめのとし」を「元(はじめ)の年」と理解し、ある九州年号の元年を意味するものとする説を発表しました。具体的にはその出土 地層の年代から、九州年号の常色元年(647)に読まれた歌ではないかと推測しました。「春草の」という「枕詞」も柿本人麿の歌では「大宮処」「わが大王」といったものに関わって使用されていることから、この和歌木簡の「はるくさの」も、 春草が勢いよく成長するように九州王朝の天子の権勢を形容したものであり、その天子の常色元年を言祝(ことほ)いだ歌ではなかったでしょうか。
 ちなみに九州年号の常色年間は評制が全国に施行され、我が国初で最大規模の朝堂院様式の宮殿である前期難波宮の建設も始まっており、九州王朝史において 特筆される時期だったのです。そのことを言祝いだ和歌木簡が難波京整地層から出土したことも偶然とは思われません。
 このわたしの新説はいかがでしょうか。なお、11月例会の発表は次の通りでした。中でも、水野さんが紹介された「百済人祢軍墓誌」は7世紀後半の重要な内容が記されており、画期的な発見です。この点、今後報告したいと思います。〔11月度関西例会〕
1). ヘブライ語のミリアム(向日市・西村秀己)
2). 鬼前太后・干食王后・法興元で頓挫(豊中市・木村賢司)
3). 「伊都国」の論理 ーー邪馬一国、首都の変遷(姫路市・野田利郎)
4). 第八回古代史セミナー(八王子)主な項目(豊中市・大下隆司)
5). (彦島の)伊勢の地を探す(大阪市・西井健一郎)
6). 和歌木簡と九州年号(京都市・古賀達也)
7). 磐井討伐の詔の正体(川西市・正木裕)
8). 卑弥呼の名字(木津川市・竹村順弘)
9). 広開土王碑17年条と山海経記事(木津川市・竹村順弘)
10).南斉書の百済王名(木津川市・竹村順弘)○代表報告(奈良市・水野孝夫)
古田先生近況・会務報告・百済人祢軍墓誌の追跡・他。